文芸について一覧

文芸について 1



  アイスキュロス・オレステイア 


 ギリシャ悲劇アイスキュロスの三部作オイデイ-プス,アガメムノ-ン、オレステイア劇は一度読んでみるといいです。ギリシャ神話はどうもあんまり荒唐無稽のように見えて、実に人間性というものを、人間の観念生活ですか、如実にすることは現代心理学、哲学文学など足もとにも及ばない、なにしろぐさっと来ると根こそぎ持って行かれるんです。これ別にギリシャ人の独創じゃないといわれる、何千年にわたっての人類総決算、人間このとらわれの歴史、みたいとこあります。因みにギリシャ人どもはオリンポスの十二神を信じきっていたそうです。アイスキュロスはご存じトロイア戦争の横恋慕よこしま張本人。オイディ-プスはその祖先筋にあたり、スフィンクスの謎を解いて母子相姦という。オレステイアは戦争の間浮気していて、夫アガメムノ-ンを殺した母親クリュタイムネ-ストラ-を殺す、これがおまえの吸いついた乳房だといって示す母を刺し殺し、復讐の女神エリ-ニュ-スに追われる。醜悪のエリ-ニュ-スに食い殺されたら、なんにもないものになって荒野をさまよう他なく。都市神アテ-ナイによって裁判が開かれ、陪審員の評決は五分と五分であった、アテ-ナイの一票によってついに無罪となる。

 仏教方面禅坊主には関係のないといえば、ほんとうにアンチ禅坊主-東洋そのものなんです、方面をいわぬのが仏教です、ことに今ヨ-ロッパ・アングロアメリカに直面し、日本人の心が根底からおかしくなっている、明治以来先人の苦労も水の泡です、瑣末事はいらんです、根本からってことかと思います。

 ゼウス支配という、平たくいえば法と秩序のポリス社会です。そのまえはどうだったかというと巨人族の支配だった。でたらめもいいも悪いも野放図にってわけで、収拾がつかない。そういうゼウスも巨人クロノスの子です。父を殺し巨人族を平らげて、オリンポス政権の確立です、人間に火を与えたプロメ-トイスはひどい罰を受ける、彼は巨人族の生き残りです、法と秩序より哀れみのほうが優先しちゃうんです。それじゃ納りきらんとゼウスはいう。
 オイディ-プスはその巨人族の血を引いていた。父親殺し母子相姦の予言に、生まれてまもなく荒野に捨てられる、あるいはくるぶしを針で刺して歩けなくする、オイディ-プスとはその意という。荒野で羊飼いに育てられて、結局は予言通りになる、父親である王を知らずに殺し、折しもポリス城壁にスフィンクスが出て謎をかけた。解けないとぱくっと食われてしまう。王妃はもしスフィンクスの謎を解いた者を王にすると宣言した。謎とは、
「朝四本足、
 昼日本足、
 夕三本足な-んだ。」
というんです、オイディ-プスは解いた。
「それは人間だ。」
スフィンクスは消え、彼は王となってその母親と結婚する。ことの真相がわかり、母妃は身を投げて死に、オイデ-プスは目を突き刺して荒野にさまよう。

 謎の内容なんかいいんです、
「それは人間だ。」
という、解いてはならぬ答えなんです、親殺し母子相姦という、平らったくいえば秩序の破壊者、真実いえば心のよって立つところがいかれちまう。ここのところが東洋人にはわからない。「それは人間だ」ということによって成立している、西欧契約社会なんです、心のありようの根本がこれです。いわばほんとうはいわぬという、暗黙の倫理なんです。
 でもオイディ-プスは次から次へとやって来る、そりゃどうしようもないです、人間いくら縛ったってどっか必ずプロメ-トイスなんです。「それは人間だ」の枠を超える、これを悲劇というんです。
 リヤ王もハムレットもそりゃそういうこってす、ドストエ-フスキ-の罪と罰もそうです。ゲ-テもモ-ツアルトもよくよく知っている、モ-ツアルトをほんとうに好きになってごらんなさい、人畜無害じゃないです、とんでもない目に会います。
(スフィンクスの謎を解くオイディ-プス)
というのがちゃ-んとポケットに入ってるんです。
 だからに日本人がモ-ツアルト演奏しても、ちっともよくない、さすがに小沢はこれを知ってモ-ツアルトをやらんです。
 どういうことだろうか。

 お釈迦さんは求道の旅にへんだん右肩して荒野というか、普くいたるところなんです。森の中に坐って、あるいは大河の辺に坐って、我と有情と悉皆成仏、大自然と一如なることをもって真相です。もとこれ以外にはありえぬことを自知するんです。他のものを仮らんのです、如来もとあるがまんまです、でなきゃわれらの存在の意味がない。
 ですが出家してポリスの城壁を出るとどうなりますか、ギリシャ起源じゃないのは、城壁の向こうははてしのない砂漠です。砂漠に坐ったってひっからびて死ぬばかり。砂漠というのは信じられぬほどに美しいそうです。古来修行者は砂漠に出てぎりぎりのところを生き延びて帰って来る。そうです帰ってこなきゃ死んじまう。
 信じられぬ美しさ、奇跡神のみいつという、自分を明け渡すことは根本的にできない、明け渡したらとたんにミイラ、我とは別に見るものです。

 そうなんです、そういうものをお土産に持ち帰って一神教です、でも以前はもっとおおらかだった。ゼウス社会です。
「あっちがわは生きられない、こっちがわの人間だけ」人間社会-壁-自然
の構図ができて、自然は制服して行くもの、人間はポリス世界の民主主義です、神々の示す人間という観念思想です、華やかなオリンピックの勝者、そうして作りものは絶え間もなしに移り変わる、進歩発展といって落ち着くところを知らんのです。
 裁判とは陪審員制度なんです、ほんとうじゃない、それは人間だの多数決。
 それは人間だという、その人間をほんとうに救いうる手段を欠く。
 一神教も「それは人間だ」というのですよ。

 日本が陪審員制度を導入するという、笑っちまうけど、ゼニもうけ弁護士や、マスコミ一辺倒になった裁判官みてると、笑ってばっかりいられない。
 東洋にも法と秩序ポリス社会ってのそりゃある、でも法律ってそれ心じゃないです。アルファベットは螺旋一つ日本語は二重螺旋、そんな俗っぽい語で一応けりにするか。





  雪舟  -雪舟展の因みに-


 雪舟等楊1420備中赤浜に生まれ、10代宝福寺の小僧に上がる、京都五山第二位相国寺に禅僧となり絵の修行をする。30代京都を離れ山口の大名大内氏の庇護を受ける、拙宗と名告る。40代より雪舟。遣明使に随行して中国に渡る。天童山より「四明天童第一座」の称号を受ける。50代より活躍し1506年80余歳没。

雪舟は身心ともに無しの現風景をまさにそのまんまに描く、どうぞ逐一に見て下さい。

1慧可断臂図=奇岩怪石という雪舟には特に曲がりくねって現実には到底ありえないような岩や樹木が描かれている、だがこれ雪舟の個性とか強烈とかを遙に越えている、今この面壁九年の洞窟も、たとい強烈とんでもないふうの造形も、まるっきりなんにもない、無というんでしょう、空というそれっきりになってしまう。
 よく見て下さい、奥行きがあるようでない、まったいらのよううで底なしどん底です。
 そりゃ遠近法などいう一神教の計算ずくじゃないです、遠近法という観察=疑いじゃないんです。
 そのものそっくりです。
 身心ともにない風景。
 どうですか、達磨さんをよく見て下さい、取り付く島もないんでしょう、このとおり現実感生生しいばかりの達磨さん、とくにその顔と来たらそこらのおっさんと間違えるくらいです、しかも空です、このような目このような顔して座ってごらんなさい、すると自分という存在の失せるのを知る、消えてなくなっているんです。外から見るとは絵描きの仕事、見事に空じきるんです。座って知る感覚は呼吸とともに兀地にさえらるという、衣と体の触れあいのようなものなんです、あるっちゃあるそれが筆太の輪郭線です、で、自分というものそれっきりです。内と外から描くってもと内外なし。真髄じゃない皮袋っていうがごとくです。そうしてオーラのようにそのまわり墨のぼかし、うまく座ったやつを相見すると、どうっと吹き寄せる風があったりする、画面緊張の付録ですか、この絵と来たらたといお釈迦さんも道元禅師も手が付けられんです。
 後学諸参の人よく見て下さい、これが仏教という仏という心の姿です。
 思い込みの入る余地がまったくないんです、他の同類作品は情実です、こうあるべきとか理想とかです。
これは現実です。慧可大師血のにじむ腕をさしだし痛みを超えて問いかけるんです。これに対しただもう取り付く島もない空があります。これが本来です。
 伝説なんぞない。
 卑近をいえば大死一番慧可大師、大活現成達磨大師もって仏教辺終わるんです。

2天の橋立て図=(一カ所にとどまって描いたのではなく、名所での写生を頭の中で合成したらしい、実際にこのような風景を見ようとすれば、1000m近い上空から眺めるしかない。)という、そりゃそのとおりなんですが、身心ともにない風景まさにこのように見える、ちらっとも破家散宅してごらんなさい、清々ともなんともふわあっと広がるふうに、ものみなこうあるんです、そりゃ画家として天橋立は名所旧跡ことにも神社仏閣の聖地として、全体を網羅するんですが、心の風景一切に全体を網羅するんです。いっぺんにうなずけるからおもしろい。山も谷も個々別々というんですか、ほらこっちがわに仏足石があって、その上に如来が立つ、雪舟が絵筆をとる、虚空がです、そうですあなたです。こうやって風景おらあがんです。

3山水長巻他=人間は行くんじゃなくって帰って来るんですか、そうして山水長巻がはじまる、完成した技法を捨てる、身に付いてしかも囚われない、自由になるんです、するとほんとうにただの現実です、いいですかこのように見えこのようにあるっきりです、奇岩怪石も車軸松もうろこのような木の葉っぱも、なにどうってこたないです、これねえ空に対するに空にぼやけじゃなんにもならないってことですよ、ものみなアンチテーゼとして絵筆に乗ったぐらいに考えりゃいいです、それにしても80余歳没年までかくのごとくとは恐れ入る、なあなあとか情実の入る余地のない、自己を顧みるなし行け行けばっかり、絵描きの道具立て自家薬籠中のものが、てんでんに取り付く島もないんだから、こりゃなんともいってみようがないです。けだし正解です、雪舟に比べればレンブラントもセザンヌも形無しです。
 ただこうあるっきり、この絵に他の意味はないんです、如来来たる如しというがほどに。
 蛇足にいえばいわゆる雪舟節というのは、個々別々廓然無聖としてこうある、心のすがた一切に全体でしょう、それを横につなげようってときに必然に起こるんです、他の画伯の絵の構図おもんばかりを拒絶するんです。
 管々しいほどに木や草や鳥や花を重ね会わせるように見えるそれも、まきだっぽうどうならべたら景色になるといわんかな、平面にものみなを写すのに憂き身をやつす絵描き風情じゃ届かんです。
 それにしても群を抜いた技法です、涙ネズミの伝説もうなずけるわけです。
 肖像画を見ると優しいんです、そうかあってね、末世のわしも安堵するってとこですか。

あっちこっち解説と思ったんですが面倒になってやめた、16日はどうぞよろしく、雨になるとかいってます。





  日本語


 山本健吉の芭蕉という本が出て、くりかえしくりかえし読みました。すると日本語の伝統というのが、実にたいへんな代物で、もうとにかく俳句を作ろうと思って四苦八苦したですが、どうにもこうにもならなかった。
 一つには言葉そのものの問題なんです。花といえば、花にまつわる感情というんですか、自然の感情、生活体験と、10~20ほどの古歌をもってこれを代表するなにがしかなんです。もっとも花の場合は、さくらさくらの歌だって十分なとこあります。虫といえばこう、草といえばかくかく、雪月花みな一定のものがあって、西欧文学的思想一神教的伝統とは一線を画するというより、個人の自由な感情からすべてを網羅して、雪月花なんです。他にないんです。これ川端康成がノ-ベル受賞講演に引き合いに出した、
-春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける-
という道元禅師の御歌、日本人の心という一端です。他の一端は道元禅師そのものだったです。
 つまり日本の言葉を用いようとしたら、どうでもこれを覚えねばならんです、記憶と分析じゃだめなんです、生活感情と必然的に起こる批評眼です。

-憂き我を淋しがらせよ閑古鳥-
 たとい芭蕉の句ですが、憂さとはどういうことか、浮き世憂き世という、人間一生の、南閻浮台といわれるこの世の無惨さ辛さ、救いようのなさの実感です。それ故に仏を求め極楽浄土を願う一連です。芭蕉はというと禅風なんです。まずこうあって、次に憂さというと、肉欲色欲我妄によって起こる鬱陶しさ、心の重さといったらいいんですか、若者の今昔変わらぬ憂さといってもいい。憂さ-鬱陶しい自分を淋しがらせてくれというんです。迷っている自我に埋没するふう、オナニ-でもやりそうなってとこあります。淋しいとはこれを去るんです。浮き世のしがらみから自由になる、淋しいといって、しなくれるんじゃない、より力強くがっしりと、これを閑寂の閑といったんです。道元禅師を代表とする日本の心といってもいい、ここにおいて人がつながる、暗黙の-自明の理のコンセンサスがあったんです。閑古鳥とは鳴き声から来ています、かっこうのことです。時鳥系の鳥に、古来日本人は数種類の感情を代表させて来ました。これはその一つの使い方です。

-うきわれをさびしがらせよかんこどり-
 圧倒的な力強さは、そのリズム感、また言葉のめいっぱいの幅にあります。そうして芭蕉が脇見運転ではない、まっしんに坐っている、人生=世間=流転三界そのものという真情にあります。
 たった575が詩として世界に冠たる所以です。
 でもね、その発声するところ、訴えるところのものは、モ-ツアルトもシェ-クスピアも、いいやねこしゃくしだれであったって、洋の東西を問わず同じなんです。スタイルの違い、そのまあよって来るところの多少の別はあっても、かっこうはかっこうと鳴き、卯の花は卯の花とて咲き誇るんです。
 でもこれの共通語を理解しないと、歌一首作れないってことがあって、芭蕉でさえこれを用いるようになるまで十何年もかかっています。
 いいわるいをいったって、これどうしようもないんですよ。

 じゃそんなもの捨てちゃえといって、明治以来自然描写といってやって来て、結果現在の閉塞社会です、伝統とはそういうものなんです、崩れたら一民族滅ぶんです、だめになったら新しいものを生み出す以外にない、あるいは旧に復帰するか、これ大変な作業なんです。
 言葉とは基本技です、使えるか使えないかとは、なにをいっても自分こっきりになるか、外へ出るかの問題があります。でたらめな言葉がでたらめなり生きている、美辞麗句が死体だったり、四苦八苦するさまがたとえようなく美しかったり、平穏無事が悪意そのものだったり、たといなにいっても一目瞭然てことあって、知らぬは我が身ばかりなりってね、思い切って何か一つってことからだと思います。
 黒沢明は映画人の中でたった一人映画を代用品だと知っていた人だとわたしは思います。映画の本来性というものが、ついに未発見に終わるといったらまた、おおかたの顰蹙を買うんですが、映画より絵のほうがよく、それより実際のほうがよくと、平たくいえばそんなことですか。
 黒沢明の作品を辿ると、彼自身=彼の世間の変遷というものがよく見えて面白いです。どですかでん以来、世の中心理学の対象物、つまりはどっち向いても気違いばっかり。
 気違いにならん、ほんらいただの人間になっておくれ、目下それだけだって大事業ですよ。





  万葉


-はねかずら今する妹がうら若み笑みみ怒りみつけし紐解く-
-はねかずら今する妹がうら若みいざいざ川の音の清やけさ-
 二十歳のころ覚えてうら若みだけ欠如していた、うら若みがそぐわない-忘れ-と思ったのは、はねかずらの意味を取り違えていたから、みどりの黒髪のつまり髪型かと思っていた。そうではなく、はねかずら=花かずら、花を紐に通してかんざしにする、だからはねかずら今じゃなくって、花かずら今する妹がうら若みとかかって来る。でも二十歳もののおったつ時分は、はねかずらピ-ンと来るってとこあったわけ。
 この歌万葉のア-ルヌ-ボ-な、つまりちっと三文安、まあ面白いから、いざいざ川の音の清やけさと二連して愛されたってとこあった。
ア-ルヌ-ボ-の陶磁器なんぞ日本では二束三文だった、ゲテものの域を出ぬとされ、今時流行ることなけりゃそれっきりの、明治の陶芸家でア-ルヌ-ボ-取り入れて、気品といい様式といい最高級の品作ったのいたな。それでもア-ルヌ-ボ-の分だけ届かぬって気がする。
 失敗した様式美とでもいやいいのか。色の分余計っていやいいのか-ひとりよがりな。

-敷妙の袖返し君玉垂れの落ち野過ぎ行くまたも会はめやも-
 ご存知人麻呂のえ-と万葉の巻一だっけ、ちゃ-んといきさつ出てるよ、そ-ゆ-の何遍読んでも覚えぬからかってに興味あったら見ておくれ。
 これは公式行事なんだ。宮廷歌人は葬式とかもがりの歌多いよ。貴人が死んだ、そのかあちゃんに成り代わって、たまおくりの歌。しきたえ、やがて12ひとえにもなるその着物、袖にかかる。袖返し君とは抱き合ったってこと、夫背の君。玉垂れとは玉を抜いて紐を通した首飾り。背の君のプレゼントか、そ-じゃなくって呪いの意味あってなくなった人にかけられているのか。玉=たましい、その糸が切れて落ちる、しきたえから落ち野へつなぐ、落ち野は地名、すでにやまとを過ぎてもはや帰ってこない。人間の国と魂の国のさかい、垣根の柿の木が植わってたんだってさ、その柿の木の下の人麻呂は、
-笹の葉はみやまもさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば-
というように、この世とあの世の中継地点。
さや、さやぐ-あやしい響きがあって、さやとさやいで生き霊を引っこ抜いて持って行ってしまう、必死になってそれをつなぎ止める、エジプト人の砂漠の護符のように、女のかあちゃんのあれが強力を持って、現実に引き戻す。
-玉衣のさひさひ鎮み家の妹に物云はず来にて思ひかてつも-
 でがけにかあちゃんに声もかけず来て、今の人だって同じ感情を持つ-人麻呂歌集。

 ど-ですか、単語の羅列、つなぎとめる糊もむろん単語自身も、おそらく1万年~1千年かけて、スタイルという、様式美という共有財産として、完成し花開く。
 詩歌とはこうしたものだった。
 とにかく-その美しさを寸分も味わって下さい。
 なぜにア-ルヌ-ボ-を日本人が歯牙にもかけぬ-肌触りとしてさえ受け付けなかったか。
そうです、そいつをもういっぺん、気持ちだけでも復活と思うのは、ピピちゃん現象の現在、まさに必要事。自我の延長だけじゃな-んもならんことを知る、自然が美しいたって詩歌にならんことを知る、これ人間さまのいろはのいってね。
 ど-じゃい、そっぽ向いたかって-一言多いんだよなアッハッハ。

 よ-し多いついでに、kwanさん以外だ-れもそっぽ向くわしのケッ作。
 これわしが万葉についての論文なんだけどな-ものを論ずるってのはそっくり真似るしかないよ、そ-してたっ た今の役に立つか-そりゃわからん。
-三界の花のあしたをいやひこのおのれ神さひ雨もよひする-
 本歌は、
-いやひこのおのれ神さひ白雲の棚引く日すら小雨そほ降る-
を用いた花の写生の歌です、三界といってはじめて圧倒的なその花に花。
-四方より花吹き入れて信濃河寄せあふ波の行方知らずも-
寄せあうなみの-は常套句です、大河津分水は耐用年数が過ぎて今改修工事をしている、大竹貫一が私費をなげうって築いた放水路、両岸にいったい何千本になるか桜が植わっている。
-いにしへは飯を盛るとふ朴柏おほにし咲けば人恋しかも-
 むかしぶりを一人っきりでやっていて、せっかく花開いた、こうして人にも見せばやって意あり、山門修行の意ありです。
-笹川の流れに浮かぶほんだはらかよりかくより年はふりにき-





  西行 


 実際に西行に出会ってごらん、つれづれ草にあるように、なまじっかの人間はぶんなぐられる。わたしの云うにはたとい道元禅師もどうかという、一休も西行にはかなわんと云ったほどに。
 その歌の壮大は後の世の人及ぶべくもなく、実朝芭蕉に至ってわずかに匹敵するんです。

 心なき身にも哀れは知られけれ鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 風景がどうしようもなくその目を押さえるという、絵描きについてはそのようなことがある。これを表現せずにはいられぬ。楽しいとかそんなもんじゃない、恐ろしいことだ。芸術も詩歌もない今様人間には無関係かも知らん。売らんかな銭になりゃいい。ところがかつては真人間がいたんだ。
 風が吹きゃうそぶき歩かずにはいられん人、どうしようもないのさ、自然というまったく自分という、不可分のこいつがどうにも収まり切らん。わかっちゃいる、わかっちゃいるけど妻子仕事ほったらかし、うそぶき歩く他ない。
 あたかもそりゃ歌という言語を仮りて、自然がうそぶく、声を発するに似る。
 たとい西行なんていい面の皮だ。
 どうしようもないその我を西行は許さない、仏の道からも世間道徳からも不是、じゃどうすりゃいい、そうさ感動も哀れも不可だ、てめえ非道の者ものを感ずる能わず、心なき身とはこれがこと。
 しかもどうふんじばったって、石っころになれったって、悲しい哀れの風景一木一草のまっただなか。
 その葛藤の中のこれ。
 西行に比べりゃ今様俳句だのなんだの、およそ言葉にもなんにもなってない、ただのかす、ごみっさら。
 これを知るもの一人半分出て欲しい。
 世の中万ずの荒廃これに帰す。

 ここもまた我住み憂くてお去りなば小松は一人にならんとすらむ

 どうしても一所不定住、住めば住み汚す、たといどこをうそぶき歩こうとも、まるっきりまっぱだかの西行法師が、赤ん坊のように泣き笑いする、どうにもならない、世のつながりとは、二三すれば自ら追い出され。
 たいてい人みなこうであったって、西行みたい一生やってるやつはいない。
 とてつもない巨人だ。
 二十歳のころ西行と云ったら、額に汗して働かないで、うそぶき歩く国賊だ、人間のくずだとだれか云った。良寛についても同じ返事だった。
 共産主義という、常に答えのあるあんちょこ思想、思想となどほとんど云えぬ、今にその末裔わんさかで、歌はいいからいいんだ、音楽だコンサ-トなどやっている。なぜ歌がいいんだという、至極当然の考えに至らぬ。
 思考ストップというより、ただの石っころだ。
 てめえ石っころと決めつける西行、石っころにもなれず。
 常に答えなし、わからない、答え=自分であったという答えをさへ出さない。
 これどういうことかわかりますか。
 もしわかったら、たいていまあてめえ目下の生活の無意味に、首括って憤死ってとこ。
 日本伝統詩歌がなぜに旅にあるのか、
「まさに答えのないこの答え」
にあります。
 現代俳句と芭蕉を比べると、一目瞭然はここにある、膨大な俳句歳時記の中にふっとささやき声が聞こえる、

 よく見れば薺花咲く垣根かな

 芭蕉は垣根の内に住んで江戸のヒエラルヒ-やってないんです、無一物のふりしてうそぶき歩いて、ふっとなずなです。
 これを西行の風と云う、ふんわたしが名付けたんだ。
 風が吹かない詩歌なんてアホくさ。
 ただのがらくた、夢の島の悪臭公害。
 でもさ、もし万が一にもこれに気がつく人がいて、西行の風を身につけようとする、とんでもない苦労の末になげうつ。
「こりゃどうにもだめだ。」
という、自分は虫けら、西行のわらじの紐にもとっつけぬ。
   さらに心の幼びて魂切れらるる恋もするかも
 よく耳を澄ませて聞くんです、あなたの手にあるのはビニ-ルのなまくら刀、西行の手にあるは精妙吸毛剣。

 誤った宗教ほど恐ろしいものはないんです、人間独特の凶悪犯罪、たとい魔女裁判もやられたほうはたまったもんじゃない、たわごと云ってるんじゃないです。





  目利き 


 いや音楽好きなんだけど、世の中CDになってから、BSとかテレビで見るっきりになっちゃった。するとせっかく音楽もむさい髭面とか腰ひん曲がったのとか-失礼、明月や座に美しき顔もなし
 というのが、一芸に秀でた人間の世界な。いやもうベ-ト-ベンに淫した女ソロとか、せっかくバッハ睨めすえるよ-な女男とか、うわ-止めてくれ言い出す。音楽なんだから風景いらんつったって、たしかにあれ生演奏ってまるっきり違うとこある。お仕着せ拍手とか、もう体力の限界これ以上一音もダメってとこでアンコ-ルとかさ、不都合のことあるけど。わしら土田舎最前列座って目三角にしたら、なんか申し訳ないってチェロ弾きそっぽ向いたりとか。ライブそりゃぜ-んぜん違うわな。
 純粋な音楽ってのはLP華やかなりしころの幻想って、芋ねえ-ちゃんみたいのバイオリン弾いていた。えって云ってみる、音楽という何かを掘り起こす-即物ってからしいとこないその顔つきに魅せられた。客が来てテレビ消してそれっきり、現代音楽であったがねえちゃんの名もわからず仕舞い。
 純粋音楽人間にとっちゃ、作曲家第一で演奏家どこがいったい芸術家だとか、奇跡のような名演奏って、生涯に三つほどしか聞けんとか、その他だれがど-だの、音楽になってないだの、勝手放題のへ理屈並べる。
 でもわたしは音楽のおの字も知らない。歌えば音痴だし、音楽の目利きも批評もない。あるのはよかった、半分はいい、聞かないほうよかったとかそれっきり。でも一音鳴ると涙あふれとか、もうどうしようもなく-三つのがきになってわあきゃあっていうやつ。
 音楽なければ雪降ったり花咲くとか、毎日の景色でやっている。

 日本最大の目利きは本阿弥光悦だという、二十歳のころ俵屋宗達の絵を、風神雷神他ブリジストン美術館であったか本もの見て、
「こいつが日本最大の絵描き」
と決め込んで、なんだこの光悦というのは、つまらん字書いて宗達の回りうろちょろと思っていた、てめえは何様のつもりなんだって。
 本阿弥家は代々刀剣の鑑定をして、明治に至るまで唯一-つまり折り紙付ってのが本阿弥家の鑑定書であったわけだ。
 刀を鑑定する、そりゃさまざまノウハウ作法あったろうが、そうさなあ云って見れば、
「涙の雫のように刀を見る」
ということ、乱暴な云い方すりゃ刀って鉄器文明の=人間の心そのもの。
 本阿弥家の中にあって、おそらく光悦だけがこれが出来た、だからあらゆる方面において目利きだった、でなきゃ刀剣だけの鑑定家。作法にのっとってこれが粟田口だから粟田口ってやつ。そうではない、どんな刀をぬうっと差し出されても、いいわるいっていう-こりゃ素人の目だ。宗達を育て歌を描き、さまざま意匠を凝らす、大ど素人の目。こんなやつはどこにもいない。

 一休さんな、徒然草の作家、次には芭蕉かな。あれはど素人の俳句って云ったらまた怒られるけどさ、ど素人いいわるいの感性しかない。手だれになりゃなるほどに、ど素人な、西行しかり、どうあっても慣れつかぬ自分。近年では小林秀雄が目利きだった。どうしようもなく技術を洗練させるんだけど、一休さんも人ひっかけるには他の追随を許さなかった、でも本来まるっ裸。
涙の雫のような一個人。
 涙の雫っていうと、我田引水わたしの見た涙の雫は、そりゃもう日々是好日だけど、エジプトのレリ-フとか縄文の女のデフォルメとかかつてエスキモ-の木彫とか、芸術だのな-んも云わん職人とも云わん人らの作物な、ほろっと涙の、作物もこっちもなんです。
 古代のものはたいていそんなふう、ア-ケイックスマイルとニ-ルバ-ナと、そうさなあ人間はもうそれで止めときゃよかった、な-んちゃってさ。
 アルタミラ洞窟壁画の野牛の絵はありゃど迫力。

 禅僧がOを描く、今様禅僧もよく描く、どいつも物まね豚っての一目瞭然、ところが盤桂禅師のOは、ぐるっと筆回すの面倒って左右から引いて、そいつが涙の雫。
 盤桂さんは、人に悟を問われて、なんていう無惨なことを云う、一木一草どこに悟る悟らんてことがあるんですと云った。
 わたしはこういう人がなつかしいんです。
必然的に目利きなんです-たいへんなことじゃなくって、赤ん坊のようにたいへんですか、人のいじきたなさ無惨やるせなさ丸見えで、しかもまるっきりたった一人生きて行かにゃならん、だってもただの人元っここうあるだけなのに。
 もうずっと前になるけど、ブラジルのど田舎取材やってて、歌手になりたいっていう少女のへたっくそな歌聞いた、とつぜん涙が溢れてこっ恥ずかしいトイレに立った。今様音楽家音楽マシ-ンてとこある、どだいモ-ツアルトもワ-グナ-もいっしょに弾くってのが、未だによくわからない。ジュリエッタ・シュミオナ-トのケルビ-ノうわっ人間の声ってな。ジョン・サザ-ランドの埴生の宿ラストロ-ズオブサマ-絶品な。パパゲ-ノはエ-リッヒ・クンツ。ブタペストのハイドンセットや大昔ウイ-ンコンツェルトハウスの20~23はどこ行っちまったのかな、二度と聞けない。わたしの大事の刀は錆ついて地下にありって、そりゃ人間とその作物だけさ。いくら公害たって自然はいっぱい。ダムぶっこわして川蘇らせよう、ライトアップなんて無様のこと-あれが美しいなんて信じられんだぜえ-せんたっていい。ど田舎の夜真っ暗けがいいようって、ナイタ-施設蛾がかわいそうだようって、おっとそ-ゆ-こと云うと死刑んなるぞ。





  モ-ツアルトk465 


 弦楽四重奏曲ハイドンに捧げるとなっているので、ハイドンセットと呼ばれるうちの最終曲、不協和音とあだなが付いている。恐怖の不協和音、あまりに優しく美しい、人を破壊するほどの豊穣!極めて完成度が高く、ハイドンセットの他の曲が、今はそう満足の行く演奏は聞かれぬのに、k465とk614弦楽五重奏曲だけは、たといだれが-どこが演奏してもそうは違わぬ。人類の所有する最高峰の芸術作品のまた筆頭に挙げられる。
 わたしには痛烈な思い入れがある。

 ハイドンセットはモ-ツアルトの天才少年から一個の大人に生まれ変わる、産みの苦しみそのものというには、のびやかに一回的に見える。だが生涯を通じてのびやかに-まったく他の作家の追随を許さぬ、たとい人間という野のけもののように一回的といえる。
 SQ14~19の一連、始めて自分の足で大地を踏み締める喜びに似て、音楽という=人生という大森林、その優しい原野を心行く歩んで行って止む、行ったら必ず帰って来る、
「そうさこれが僕だ」
という、たった今発見する、そうして後をすべて、歩いて行ったところに我あり、とはまたなんという幸せ、なんという不幸、人間から余計な皮っつらすべて取り去って、肉は悲しという、喜怒哀楽思想困惑という、分厚く奥深いその肉そのもの、まさにその標準がk456であった。

 どういうことかというに、古代ギリシャ(オリンピック優勝の)月桂冠をかぶる青年のように、全幅の信頼をその所属する世の中に置く。
 すなわちモ-ツアルトのこれは成人式であった。
 その正反対というべきものが、現代日本の学級破壊的成人式に違いない、貧相身勝手不形容しがたい支離滅裂、およそなんにも生み出さぬ。
 自然のにおいがない、ではすでにして幸不幸のハンチュウになく。

 no19に至る、モ-ツアルトは実に入念に(我について、人生社会また異性について神について-)という必至の命題をくりかえしはしない、まさに直面する、面と向き合えばそれは答えであった。
 ハイドンセットを聞いてみるといいです、こんな特殊な音楽はないです。
 こんな魅力的なものもないです。

 日本人は四季の風景と置き換えりゃいいです、青春が満面に蘇る、とつぜん一木一草が意味を持つんです、そうして自分という存在がある、これは現代人にとって、とてつもない体験になる、かつては自分という存在、他には考えられなかったはずなのに、我思う故に我ありのダンデイズムより先にです、そりゃ当然のこと。

 倫理とは何かと問う人がいます、道徳とは何かという、禅門の答えは=心です。他にないんです。どういうことかというと、心に二心あり、従前の心と本来心と、といいます。今答える心は本来心のほうです。
 本来心とは我のうして手に入るものです、忘我といういったん失せきって、我と環境の同一化-我と有情と成仏です。
 つまり心=木の葉でも大空でも手に持った茶碗でもです、というと知らぬ人は殺伐の思いをする、そうではないんです、たといモ-ツアルトがどんなに精妙を尽くしても及ばぬ如来の風景-もとあるがまんまです。
 今これを思いついでモ-ツアルトの成人式です、我と我が身をどうすべきか、これの答えが成人式です。
倫理的にいえばどうなるか、道徳を完全に守ることが最良か、いいや道徳なんて杓子定規はいやだ、それよりもっと直かにということがある、神を信じ神を信ずる人を信じ、真善美をもって通身あげて帰属社会に奉仕すること。今の人こんなこというとせせら笑うしかない、けれどもせせら笑いも結局出自はここだ。  

 全幅の信を置きたい-どうしてもそれができない。
 ただこのシ-ソ-ゲ-ムがあるきりです。だって人間は人の間なんです。100%人間でありたい-でもそうは行かない、のシ-ソ-ゲ-ムです。
 人間また宇宙そのものという悟のないかぎり。
 モ-ツアルトは倫理も道徳も神でさえ透過した。音楽がその習熟がそうさせた。
 個人と全体の同一、いきなりここへ持って行ってk456。
 真善美という、西欧精神の理想をたるものを、鉄砲でぶち抜くように実体化する、どうしようもこうしようもない、
(美というものの正体)
k465を聞いた人が手にするものこれ。
(それは人間だ)
なほかつスフィンクスの答え。

 わたしの成人式はモ-ツアルトのハイドンセットをたどる、k465を聞いてちょうど目の前にあった菊の花が、一人の人間になって-限りなく美しい、立ち現れた、ふっと微笑んでとつぜんあたりがかすむ、かすみではなく、部屋も机も壁も-砂になって崩れ去る、絶叫してつったちつくす、三日三晩一睡もしなかった、ちらとも微睡めばフィンクスにぱくっとやられる、恐ろしいそやつと取り引きした、なにをどう取り引きしたのか覚えていない、かろうじて生き残った、白髪と耳鳴り。

 モ-ツアルトにはたとい信を置くべき社会と、就中習熟した音楽があった。わたしにはなかった、ただそれだけのことだ。でも一生を棒に振った。
これを修復するのは容易ではなかった。
「朝四本昼二本夕三本な-んだ、それは人間だというのです。」
師に挙すと、
「それはなんの謎も解いたことにもならない。」
まだ残っているといった、
「そうか。」
とわたしは思った。

2019年06月22日

文芸について 2



  縄文の火炎式土器 


 アルタミラ-ラスコ-洞窟画にはまるで水墨画や南画顔負けみたいの、写実抽象ピカソまがいのまで、それこそなんでもあるそうです、呪術師というか専門家がこれに当たり、練習もし学校まであった、一万年は続いたのか何千年か、そのあとのわたしら20世紀に至る絵画史と比べてなんら遜色はない、むしろそのダイナミズム、洗練さの上で向こうに軍配と、わたしは思ったりする。

 なぜにそれが滅びたか、逞しくも優しい平和愛好人に変わって、喧嘩好き発明好き、休むまもない現代人がとって変わったなど、いや悪貨は良貨を駆逐する、まさに現代日本なぞいい例だという、アッハッハどっかのトピみたいだったり。でも物事というのは進化論じゃないです、絶対優位のアノマロカリスが滅んだのは、存分生きたからだ、もういいおしまいだといって去って行ったという見方はどうしてできないんだろうか。洞窟壁画人たちも、われわれから見たらまことに幸福な、ア-ケイックスマイルのアポルロ-ンの三倍も満ち足りた笑いして、青春を一生を何千年を過ごしたんではなかろうか、そりゃ例外はあるし、自然の厳しさ容易ならざる生活というものがある、でも彼らは後世の悲惨、無用の長物の宗教、無惨でバカらしい戦争などとは無縁に見える。
 もうこれにて終わりという、気候の変化とかがそっと後押しする。
 あるいは戦争好きがとって変わったかも知れない。

 縄文土器をこさえた人は、縄をなって転がしてやると、いろんな模様が、それこそ好きなようにできあがるのを知った、でも好きなように自由にと、現代作家が考えるようには決してしなかった、直線一本に150年というような造り方をする。
 一つ集団に一本線、分家したら二本という? いやただ直線=器だったのか、アッハッハわたしのような門外にはわからない。でもゆゆしい意味があった、個人の好き勝手、インツ-イッションだのの問題ではさらさらなかった。
 その心意気を知ろうとして、はてなあと首を傾げる。

 よしの葉っぱ一枚にも神がやどる、神という以前の健やかさ、たずさわるものみなが、自分たちと同等か、もしくはそれ以上のものという、縄文の華やかなりし時代はきっとそうであった、史家が名付けるだからどうだの、いくつ名称もまさに没交渉、
「土器はどうやって作る」と聞けば、
「土器ってなんだ。」
「あ、これか、こうやってさあ、こさえるんじゃなしに、ちゃ-んとあってさ、手がこう動いて、わたしらの前に現わしてくれる、そうしてさ、火がしばらくの時を与えてくれる、この世っておまえさんちがいうなら、この世にさ、わっはっは。」
いうといえばこんなふうにいうかも知らん。

 でもそれが火炎式土器になる、信じられないことだ、今の造形だ美術だのいうなら、ことは簡単だ、でもれはこさえる個人すべてに違っていながら、様式美といいうるものだ。世界中にこんな事件はなかった。水の湧き出すシンボライズといい、無限の渦巻きという、ものが腐らないように、水というわけのわからんものに、神という永遠の命を与えたのか、わけのわからんものに、ちょっと目鼻を付して、目鼻の分が対話であり、そうして個人が生まれる-万葉につながる個人、といったらいいのか、火炎式土器の役目は終わる。
 歴史の瞬間だ、こんな強烈超過激なことなかったんだけどな。





  中米ニグロイド大首 


 BC一万年~五万年ほどなんだろうか、大森林にネグロイドの大首が坐っている、そうかと思うと力士像といわれる、筋肉隆々たる、頭長頭に工夫してる他は、後世の形式主義というか-シンボライズからまったく自由な風である。どうもよくわかってないらしい。でもあんまりわかる必要もないのかも知れぬ。この連中は大自然の中に、極めて生き生きと暮らしていた。狩猟の名人ジャガ-を神に奉っていたにしろ、その神さまより、どでっかい人頭を村の入り口にでんと据える。よくできの、恐れ入るってかいいようのない、すんばらしい面構え。
 四つの太陽=生け贄文明といったいどこでつながるのかって、昨日と今日つながらなくったって一向に差し支えない。
 古来詩人哲人というものは、古代を理想社会に崇め奉る、人間むかしはよかったの右代表、でも中米には恐竜と相撲を取っているテラコッタまで出る、いずれどっか突拍子もないユ-モアがあって、わたしら現代人が住み着くには、なんてったって迫力筋力不足だ。
飲んで食って生きて歌って、多少の集会あり神あり、悲しいことは号泣、死ぬには叫び、次の瞬間大笑い、怒り山を抜きという、まさに筋肉のうなりが聞こえて来そうな。
 家父長制度も村落国家も神さまもいけにえも未だまだっていう、いらんものはいらんていう、これを神代の時代と呼んだかも知れぬ。

 これ理想社会なら後世はつけたし、たとい文化文明の発展も彼らが幸福には遠く及ばない、ないに越したことはない、汚れきっている-汚れるばかりと、地球になりかわっていいたくなる。
 猿から人間になって一番困った問題は自由ということだった、けものにはない個人です、ひまといってもいい、道具を使うといってもいい、直立して広がった視野といってもいい、でも大ボス小ボスのお猿社会とは別種の何か、ふと気がつくと、毛繕いとかき-っと牙剥き出すとか、ハンコ捺す行動の他に、なにをしてもいい時間。
 自分に任された時間-どうしたらいいかです。
 そりゃいろんなことやったんだろうな、食う寝る取り合い喧嘩の他にです。でもそれうまくいったっていかなくたって、今度は次の困った問題です、群れとしてぴったり行ってたのが、どっかそぐわない、てんでんばらばらになる。

 再度ふっと気がつくと、人間一人じゃなんにもできないってこってす。
 へんな話だ、せっかく自由を獲得したのに、その自由がかえって縛る、不自由の元凶となる。
 こりゃいったいどういうことだ。
 この問題今に至るまでずうっと続いてます、たとえば厳密定型の芭蕉がいちばんの自由人であった、説明文学なんでもありありの現代人が不自由極りない、自分の意見さへ持てないとかです。
 さあなんとかせにゃならんです。

 ト-テミズムの工夫があります、われらはジャガ-の生まれ変わりだ、みんなでそう思ったとたん、一つにまとまるんです。われらが神ジャガ-にかけて、といって行ない言語する、自由というものを再認識する、あるいは享楽することはじめです。
 でもこれ取れ立ての生首のようにぴくぴくしてるほどが花です。固定観念カリカチュア-化したらおしまい、滑稽で残酷なことです。あっはっは目下の永平寺修行なんてのも、何いったらいいって気になっちまう。これも古来繰り返しのワンパタ-ンです。
 なにしろこっちが生きてりゃ神さまだって生きている、たいへんだ。

 クロマニオン人は歴史上稀に見る、この問題の-優秀なる解決者だった。
 自由であって一番先困るのは狩猟だったんでしょう、マンモスでも野牛でも一人じゃ狩れない、一糸乱れぬ集団行動です。言葉以前のものがどうしても必要だ、きっとアルタミラ-ラスコ-洞窟の祭りは、はじめは狩猟からだった。そうしてそれが、本来祭りとして脈脈生き続けたに違いない。
 描かれた野牛の、水のように優美なダイナミズム、生死を境に対いあう強烈な臨場感、敵味方の垣根が失せて、いっさいの動きが停止したような、たとえ涙の一滴のような瞬間-全世界です。
 そうです、忘我です、我のうして描くんです、トランス状態なぞ文明史家はいうけれど、そりゃ側っから見た言い種です、我をのうして-全体なんです。
 彼らはこのメカニックだけで個人-全体-全宇宙の問題を解決したんです。解決すなわち実際です。けだし賢明でした。それを尾ひれをつけて殷の神さま-饕餮みたいになったら、こりゃもうどうしようもないです。





  アステカ雨の神 


 美術史家ハ-バ-ト・リ-ドが世界最高峰の完璧作品として、ランパン氏蔵青年騎馬像-ギリシャ彫刻、他二三とともに挙げていた。どだいそんな用い方をするのがおかしいのだが、だってすばらしいもの-不朽の名作はいたるところに存在する、あるときこうありあるときこうある、かつてエスキモ-の彫刻作品のように、第二の自然として、おそらくは人為を越えて現前する。博物館に陳列すべきものではない。美術鑑賞というろくでもない趣味の為でなく、捧げるもの、祈るもの、本来あるがような存在主張といったらいいか-
 就中雨の神は、いけにえの心臓を受け取る器神と同じく、いわば一民族の総力、全世界の唯一関心事というがほどに、巨大なマッスと量感-重さ-といったらいいのか、そうして能うかぎり繊細であり、不思議であり、自然そのものであり、万人の全神経を意志を集中する。
 見事に結実する、神が応ずるべく立ち上がる。
 芸術とはいっそこれ以外にありえない、芸術家という神官が全世界を代表して、我が心臓をえぐり出して受け皿に乗せる。
 ようやく神が応ずる、応じないかも知れない。
 言葉という自体がその当落線上にしかない。
 現在の芸術家と称するものがなにものも生まないのは、まさにこの根幹を失うからだ。あいまいな顔をして、げいじゅつか風をし、口を開けばぎょうぜつであり、その作品は目なし口なし、そっぽを向いたっきりの、脇見運転というより、作品のない空間のほうがよっぽどましだ。ポウル・クレエが好きだという人に、彼の作品に付す、
「天使よ、まだ女性的な。」
という語について聞いた。答えはなかった。





  ラスコールニコフ論理 1 


 ドストエ-フスキ-の登場人物これ一神教、キリスト教のまさにまさに、神さまと差し違える強烈キモ-イ物語です。わたし福音書読まなかったけど、あれどっか教会行ってパンかじってワイン飲んで、ふう読んだっけか、道っぱたでクエ-カ-に取っ捕まって、木賃アパ-ト連れて行かれたっけか、じゃなくってドストエ-フスキ-うひぜ-んぶですぞ、七回読んだです。それから狂っちまってついこないだ精神病院-檻ん中から出て来たとこです。明日んなったら包丁持ってバスジャックってにはちいっとひねくれ、かあちゃんと回転鮨でも食い行こう。

 その原点はギリシャ悲劇のオレステイアだと思ってます。これは構成もしっかりしていて、いえアイスキロスです、亀が落っこちて来て死んじまったっていう、オイディ-プス、アガメムノ-ン、オレステイアの三部作です。マンガ読むより面白いからお薦めって思うんだけどな。

 オイディ-プスは「父を殺しその母を犯す」という予言を受けて山に捨てられる。羊飼いに育てられ、そうしてついには予言通りに運ぶ。父王とは知らずに戦ってこれを殺す。スフィンクスが現れて謎をかけた。解けなかったらぺろうり食っちまう。王后が「謎を解いたらわたしと王冠を授けよう。」という、オイディ-プスが謎を解く。
「朝四本、昼二本、夕三本な-んだ。」
「そいつは人間だ。」
というんです。オイディ-プスは母と結婚し王位を継ぐ。疫病が蔓延しもとを糾すと、親殺し近親相姦というそれ、オイディ-プスは目をくり抜き、母后は身を投げて死ぬ。

 どうですこれ、聞いたふうな話って、そりゃ知らないってほうキモイんだけど、日本人てキマイラもざいくで、あ-そ-か知識でみんなすませっちまう。
「そいつは人間だ。」
という謎を解いたら不可ってこと知らない。
 オイディ-プスという、くるぶしに針を突き刺して、歩けないという名、これたしかそうだと思ったけど、謎を解く人は、そういう食み出し者。
 ギリシャ悲劇は巨人族からゼウス体制へという、この三部作はその食み出し一家を扱う。
 ゼウス神制ってのポリス体制といっていい。

 城壁があるんです。その外っかわは砂漠、内っかわが人間-市民の住むところです。そこでは真理より契約が優先される、真実はこうだが、
「人として内っかわに暮らすには」
というんです。
 人の子伝説のこれが始まりです。
 なにもギリシャ世界の発明じゃない、メソポタミアのものでも古代エジプトのものでもないけど、壁の外は砂漠っていうの、これ恐ろしいこってす。
 陪審員制度です、真相究明じゃない。
 その神の命ずるところ、律法の示すところによっての合議制です。もしそこへ、つまり城壁の外っかわにスフィンクスが出て、
「そいつは人間だ。」
といったらどうします。
「いいからほっといてくれ。」
というしかない。たまたまほっとけぬやつがいる、謎を解いたらめっちゃくちゃ、死ぬより悪いという-親殺し近親相姦。

 市民社会はこうあるべき、人倫の道です、必要不可欠です-契約ですか、これを破ったものに救いはない、目をくり貫いたら生き残れるか、否砂漠へ捨てるよりない。
「砂漠へ捨てられて、生き抜いて帰って来られるか。」キリスト時代のこれが予言者の修行であった。まったくに不毛の砂漠の想像を絶した美しさ、人間という美しいもの、オリンピア-ドの月桂冠を戴いた若者の、ヒュ-マニズム、ポリスのイデアそれだけでは、どうしたって収まりがつかないんです。

 自然と一体化したい、なぜって人間も自然の一環です。
 たとい神が作ったとて、神が作ったという人間の手に触れる不可、神というときすでに一体化なし、そりゃ当たり前、砂漠ではなかったら、大森林であったら、神と呼び人間と呼ぶ、もとこうあるものをもういっぺんなぞることを止めれば、もと一体化。
 砂漠では不可能事、奇跡を見幻想を見るんです。
 それを抱えてというより、おぞけをふるって人間、市民社会という仲間うちに戻るんです、ついには律法であり、愛です、なれあいではないという苦心惨憺です、人間よりも人間らしくっていうんです。
 奇跡不要の筈なのに、なぜ。
 奇跡とは何、擬似一体化。
 大統一理論を狙う科学と同じに、自然を記述支配しようとする。科学も進化論も一神教の申し子。そうですよ、結果は不毛の砂漠を見るよりないんです。
「そいつは人間だ。」
一神教がどうやってスフィンクスをなだめたか、絶えざる征服と異端審問。
 城壁を広げるよりなかった=追い立てられるしかなかった。安住の地がないんです。これオウムと同じ、別ものポアするしか道はない。なぜって独り善がりだからです。事の真相にそっぽを向きっぱなし。

 オレステ-スは父王アガメムノ-ンを殺した姦通母クリュタイムネ-ストラ-を殺す、これがおまえを育てた乳房だといって示す、その胸を刺し貫いた、そうしてポリス社会を追われる、復讐の女神おぞましいエリ-ニュ-スに追われ。
 とっつかまったら、空ろになってあてもなく。これ実に2000年の時をへてラスコ-ルニコフ。
そうです、その発生と崩壊と同一人物。





  ラスコールニコフ論理 2 


 オレステ-スはアテネ市の評決に、主神アテ-ナイの一票によって、有罪無罪同数になった。無罪放免。
 人は生きているかぎり、こういうことか、自分流といっている、いいかげん現代人には無縁のことか、陪審員という市民権の問題か、アテ-ナイの気まま勝手に委ねるギリシャ人の知恵か、ともあれこれは法律、権利義務の問題を超えて、実にポリス市民=人の子人間としての、心そのものの問題であった、不可となればおぞましいエリ-ニュ-スに食い殺されて、もぬけのから。 

 ラスコ-ルニコフは有罪になって、シベリア送りになる、優秀な探偵という読者サ-ビス、そうではない、陪審員のだれ一人信用できぬ、評決なんかどっちだっていい、気の狂う母親をそのまんま、大地に接吻する犯罪人、彼はなんの罪を犯したか、無垢のマリアを殺したからか、その償いという、なにそんなことはない、彼には最後っまで彼の理由しかない。

 ロシアの大地だと、そうさしまいその幻想にすがりつく、そうしてシベリアから帰って来た、レフ・ムイシュキンとして、そうして破滅。
 信ずべき市民もなく、おのれを委ねるべきアテ-ナイもなく。
 なぜだ。
「神は死んだ。」
陳腐になったその言葉をそっくり。

 マリアが手を会わせの神さまが-ない、じゃ、責任の取りようも、喜怒哀楽も卒業論文も、いや一句半句なし、わあとわめくこともできない、地下室のラスコ-ルニコフのこれが真相であった、孤独とはどういうことか、神あっての孤独、両親の帰りを待つ子どもの孤独、心というなにごとかコンセンサスがあって、始めて孤独という空間、でなかったら張り裂けてしまう、物理的にインプル-ジョン、もしくは発狂するよりない、あいまいキマイラの日本人には不可解といって、無気味に符号する未成年の突発事件がある。
 100年前のラスコ-ルニコフと同じ、真空の地下室を脱するために、自分というものを、自分という市民権を、「金貸しばばあを殺す。」
 何事か引き起こす以外になく、その道行きの理論金縛り状態をドストエ-フスキ-は克明に描き出す。
 犯罪とは何か、欲望のかけらもなくってそんなものが成立するか。
 自分の存律を賭けるという思い込み。はたしてそうか。「外へ出なければならぬ。」
 卵の殻を割って外へ、ピカソの青の時代がヴィジュアルに示す。やせて優しいアルルカンがいったい何を見、何を演じようとも、愛も喜怒哀楽もおのれ発したものはなんにも帰って来ない、青いつるっとした壁があるっきり、ついにはおのれそのものが失せる。
 青い壁、卵の殻を割る、死に物狂いのそいつ、外へ出たら空気がない、一瞬も生きていけない、どうすりゃいいって、手足もって描く以外になく、人は実存主義なぞ無責任な名を付けようが、生涯ほっと息づくひまがあったかという。
 
 ばばあをばっさりやって、ついでに善良のマリアを殺害。生きる行為が世間いうところの世の中と信仰を抹殺する。そりゃはじめっからわかっていた。世間へ出る=死ぬしかない。これは仏説ではない、比喩でもない、
「だれでもいい殺したかった。」
というガキンチョの心理学以外の理由だ。もっともまあ二番煎じ三番煎じは心理学の対象にしかならぬ。

 信仰とはどういうことか、マリアが手を合わせる、信じている、いつの時代にもあった、理屈抜きの見てござるの神さま仏さま、善男善女という、今そういう一般人というのが存在するか。
 存在しないとはいわぬ。
 カルトや新興宗教がある。
 マスコミの神さま、ふれあいの神さま、戦争は悪いの神さま、なんの神さま、信仰より始末に悪い雑念。
「庶民には神さまが必要だ。」
ということがわかったと、今更ながらのようにゲ-テがいった。じゃゲ-テには神さま不要だったかというと、ゲ-テスアオゲンというゼウスの目、もっと光をという、あの目を維持するには、相応のぜにかねも必要だったし、操欝病じみた大騒ぎも必要だった。

 良寛とゲ-テが似ているという、たしかに古典性という、自然詩人という、似ていることも似ている、だが良寛は無一文のなりふりかまわず、ゲ-テはそうは行かない、一定の条件が整わないと、嶺々に憩いありというわけには行かない、なぜか行かない。

 無心と有心の違い。
 無心とは赤ん坊の目だ、目のない人自分のない人の目だ、ただだ、すべてがすべてとしてうつる。
 有心は大人の支配者の目だ、ことだまという自然さえ思い通りにしようという、聞き手が欲しいうるさい、どうしてもただにはならない。すべてはわがもの。
「大衆にはノウかイエスだ、その中間はありえぬ。」
といったヒットラ-とオウムの違いはというと、ノウハウあるいはト-ンの違いの他なく、ゲ-テとヒットラ-の違いも本質的に同じという他なく。
 ラスコ-ルニコフの欲しいものはなんだった、ヒットラ-になりたいかゲ-テになりたいか、違うただの人になりたい、人の子になりたかった。
 有心の子。
 ただじゃなかった。有料だった、地下室の一人っきりじゃどうにもならない。

 だんだん面倒臭くなっちゃった、そうだった、一神教のワンタッチ体験、さらっとやろうと思ったのに、どうもいかんなあ、でもこれ実に深刻だったんだ、だ-れにもいえぬトラウマ、洋の東西を結ぶ蝶番ってやつでさ、青春は美はし、どえれえまあ七転八倒であってさ、差し違え人生ってのかな、は-て結局な-んもならなかった、禅宗無門関と来たら、そんなものにゃな-んも関係なく、バカかってぐらい、まそれじゃなくっちゃしょうがないけどさ。
 もし一神教ヨ-ロッパで悩んでる人あったら、悪態なんかついてないで真っ正直聞いておくれ、悪いようにはしないよ、答え出すだけの苦労はしたつもりだってね。

2019年06月22日

文芸について 3



  文芸復興 


 まず自分という架空を、うそっことを免れること、色即是空とは、色眼鏡を外して見る、空即是色とは、知らずのうちに囲いをしている自分という、それから一歩踏み出すんです、広大無辺です、まずこれを心行く味わうんです、もう死んでもいいっていう位、すると世界歴史人類宗教とか、ぜ-んぶひっくるめて、オレの方がいいやっていうんですよ、実はだれだって、オレのほう大事なのに、はっきりオレだっていえないでいる、文芸復興とはまさに、ほんのちょっとしたそれなんです。
 心強い味方を待ってますよ。

 以下は二三のノウハウです、たとえば絵を描く人には、線を引いてみたらどうですってね、写真や引っ掻き傷や定規の線ではなし、一本の線、昔の画工のやったやつですよ、写し絵ではないポテッチェリの線、アルタミラ洞窟壁画の線、できないんですよ、これが、なぜかなあってね。
 それから、古池や蛙飛び込む水の音ってね、我国詩歌の伝統の池に、桃青芭蕉は十年二十年四苦八苦の末やっと飛び込むんです、俳句という、歌を正当とすれば、みにくい蛙ってね、でもって音が聞こえるんですよ。俳句歳時記ってあるでしょう、膨大な江戸時代~現代にいたるまでの五七五です、頁を繰って行くとふっとささやく声が聞こえるんです、

 よく見れば薺花咲く垣根かな
 決まって芭蕉なんです、たいてい他の一切が無音です、へんです、言葉の機能をはたしていないんです、差別用語でいえば、おっちでつんぼなんです。
 どうしてかなっていうんです、続いて飛び込む蛙なし、五七五のその構造が違うんです、どうです、一つ作ってみませんか、声の聞こえる詩歌です、まっすぐです、わたしがあって、相手がある構造です。わたしを無にすると、できたりするんです。

 文芸復興ってね、まず古典をおさらい=真似ることから始まるんです、できそうでなかなかできない。
 古人の杉のさ庭ゆしくしくの雪霧らひつつ春は立ちこも
 あけぼのの春は立つらく大面村田ごとの松を見らくしよしも (いちめんの雪なんですよ)
 わたしは能無しで以上の歌を作るのに、十何年かかって、でもってはて文芸復興って粋がっているのは、自分だけだったりして、-





  西欧の花 


 盲説法-わたしの四十年前のドストエ-フスキ-を施設します、もしお役に立ったらどうぞご利用下さい。   

 偶然受験戦争に勝ち抜いて、授業にも行かず、六人部屋の寮のベットで寝ていたら、先人の忘れていった本がある、岩波文庫の戦前版、上質紙のずっしりとした重み、なつかしい思いがして、手に取ったら、悪質のインキであっちこっち書き込み、地下室の手記とある、「なんだこりゃあ。」読んでみたら、思い切って変な小説だ、こんなもん俺にも書けらあとか、気がついたら、一八O度転換-今まで後ろめたい、他にひた隠しして来た、うさんくさい自分が前面に出る。(二二んが四と割り切れない)自分です。意味なんかどうでもよかった、その奇妙な-ラスコ-ルニックな口調です。
 彼はだらしなく、けもののような目をもって歯止めが利かない、社会=人間のどんな嘘だって通用しない、必然的に疎外者、地下室の生活者、生活といえるものかどうか、なにものも成立たない、蹂躙されるその靴底を舐めるだけ。だれにそっくりか、モ-ツアルトにそっくりだとわたしは思った。人はみな美しい浄土に生まれる、to the happy fewというそれ。
 
 ドストエ-フスキ-はこれを人格化-社会小説に仕立て上げた、罪と罰に至るまでいったいどれほどの-めくるめくような思い。ラスコ-ルニコフは地下室に逼息して、ついに息付く空間がない、ビジュアルにはピカソの青の時代がいい、何をやっても力なく(愛といい平和といいto the happy few という)すべすべした卵の中、こいつをぶち破る、-デッサンだけのような、描きっぱなしの絵がある、生死を賭けた凶暴さ、殻を割ったって空気はない、手足だけでという、いわば裏返しの暮らし。そうしてとにかく絵をもって、ピカソは大成功する、基本わざは人間喜劇に違いない、筆の洗練と、一切を見据える正確無比な表現力。一切を見据える目と、なんの手段も持たないラスコ-ルニコフは、どうしたらいい。心の問題だけの-どうあっても解決せねばならぬ。それはラスコ-ルニコフの成人式だ。
 個と全体の問題、西欧精神の最重要テ-マとして、オイディ-プス、アガメムノ-ン、オレステイアの三部作から、シエ-クスピアのハムレット、そうしてこのドストエ-フスキ-、心という契約上の問題といったらいいのか、東洋人には理解しがたい、「それは人間だ。」という怪物に仕立て上げた、スフィンクスの-謎を解いてはいけない、あるいは砂漠から生還した一神教、奇蹟を起こすという、人間らしいという、結局は作りものはこわれもの。

 わたしは以上のことしかいえぬ、モ-ツアルトに神はないなら、その精神の一番の成功例。彼の成人式は不協和音とあだなのある、ハイドンセットのNo19、人とこの世の中に全幅の信頼を置く、恐ろしいほどの美しさ、美とは何か、個が全体に失われるありさま-。理想というより人間の本来は、古代オリンピックの優勝者、月桂冠を戴く若者の姿など。
 わたしの成人式もNo19、気がつくと机も花も、ものみな砂になって崩壊する、三日三晩立ちつくして、どうやら発狂を免れた、この世は砂漠-なぜ。

 ラスコ-ルニコフは金貸し婆さんを殺して、社会と繋がろうとする、お受験殺人のような、今様事件と無気味に類似する、いつか自分の出口がない、殺人だけが唯一突破口、殺人を犯したとたん、行処のないことに気がつく。マリヤを殺したことは、単にキリスト教のおつき合いに過ぎぬ、だがマリヤを起点にして、神を失った=自分のもって行処のない、さまざまの人間-妄想が面の皮かむっている、生きながら亡者の行列、ドストエフスキ-の面目躍如というわけだ、でもって問題は一つも解決しない、読者はな-るほどと納得する-嘘だ、彼はシベリヤへ行って帰って来るだけだ、もしや作者と同じように。
  白痴のムイシュキンと名ばかり変えて帰って来る、そうしてあらゆるものをぶち壊す。善という、これほど悪はないといっているような、作りものの成れの果てだ、人間=心は意識の上のものではないと、自然が示す、意識の上とは全体のコンセンサス-みんなで渡れば恐くないだ。
 ニコライ・スタブロ-ギンというやつがいた、ゲ-テにそっくりだ、ゼウスの目という、(仏心から見ると)どうも大騒ぎ、ヒットラ-と本質変わらない、意識上の個人=心は、ついに全体を支配する、個々別々で全体ということが分からない、一個自足するために、全体という架空テ-マがどうしても必要だ。
 スタブロ-ギンをその恋人がなじる、そんなけちなあなたは要らないという、彼は必死になって、本来心ともいうべき、ヒットラ-を守ろうとする、だがそれを支えるのは、もはやがらくたばかり。

 ユ-モアといいフモ-ルという、その真諦(ともいうべき)をヘルマン・ヘッセはついに守り切れなかった。
 でもたしかにそれはあった、(その光弱い)西欧の野に咲く花とだれかいった。
 未成年の父は、野に咲くその花の、最後の残照、愛という、西欧一神教の永遠のテ-マが、滑稽味を帯びてここに滅びる。女の美しさを、文芸作品では、シエ-クスピアに次いで、ドストエ-フスキ-だとわたしは思う、ほんとうに美しい。
 スビドロガイロフという、現代人が登場する、理想とはなんだ、蜘蛛の巣が張った風呂桶という、彼と現代人の違いは、言葉を正確に使えた(物が見えた)ということ、今の人せっかくその風呂桶を、理想と思い込み。
 スメルジャ-シチャヤという猛烈思想-思想が皮を被るとはドストエ-フスキ-の人間、いや現代人はその末裔の支離滅裂とか-に対比してアリョ-シャ単純思想、明るい未来に向けてのメッセ-ジは、完全に失敗する、なぜか、理由は単純だ、意識の上の改革はありえないということ、よりよい別思想などいうものはない、実に彼の嫌った共産主義思想が答えを出す。
 作り物はこわれ物。
 哀しいかなドストエ-フスキ-は知っていた、アリョ-シャはそこらに転がってる今様人間にしかなれない、長すぎるこの小説はシベリヤ行きのワンパタ-ンに終わる。

 そうではない、意識思想によらぬと知る、心という露の玉-たといなにあっても傷つくものではない、スメルジャ-シチャヤを親に持ってアリョ-シャという天性はいらない、だれでも接しえて妙ということがある、古来まったく変わらぬ方法、たとい人類が滅び去っても健在です、これ坊主のお奨め商品。





  手で引く線 


 小林秀雄が裸の大将山下清の絵を見て、清君には倫理観が欠けている、カメラ眼のように空ろに見る-芸術とはいえぬ、というようなことをいった。もう四十年も前のことだ。小林秀雄がなくなったら、文芸評論も批評の目もこの世から消えちまったから、何年前もくそもない。批評の目が消えた、なんでもありありの、よくいえば長島世代のみんな仲良くにこにこ、でもって卑怯未練凶悪少年犯罪など、人の心に歯止めが利かないというより、心そのものが蕩けほうける、どうもこうもないってこった。

 清君に倫理観が欠けていたかどうか、たしかにピカソやゴッホやシャガ-ルや、小林秀雄の命がけで対決した連中は、絵描きという以前に人生いかに生くべきか、というより自分そのものの存在を賭けた壮絶な戦い、連中の絵の魅力はそれだ、ゴッホ百億円それを真似た幸福な日本画伯一千万円というのは、そりゃ当然てことある。でも清君の絵に魅力はないか、美しいとはいえぬか。あるいはこれは小林秀雄が、わたしらに突きつけた命題だった。

 十九歳少年のリンチ殺人を今テレビでやっている。見ても聞いてもいられんような。おまけに警察はそっぽ向きっぱなし、一般もさっさと忘れてとか。

 倫理観とは何か、人の痛みを我が痛みとする、それが欠如したらどうなる、赤軍派のように内ゲバやるっきりない。
 空気のように必要不可欠のもの、人間という存在そのもの、個と全体をつなぐ掛け橋、そうさ、それが失せりゃ内ゲバ暴力、めったら傷つけて何物かを得ようという。
 ナチスだって倫理観だ、原爆投下も右に同じ。
 リンチ殺人もスト-カ-も金巻き上げるのも倫理観か。
 少年法で保護されて親の砂糖浸けみたい衣かぶって、やりたい放題、あんなもなぶっ殺すよりない、倫理観といえば、そいつの欠如だ、欠陥車廃棄処分以外なく。

 いやそういうのもいるが、自分を何者かにという欲求を-けんけんがくがくに、裸の大将の絵を差し出す。
 空ろなその目を向けてどうだと聞く。答えが出るか。
 答えが出ない、自分の身は自分で守るっきゃないぜといい聞かせて、それでおしまい。
 個と全体をつなぐ、雨後の筍のような新興宗教-間違ったものはしょうがない、弊害ばっかりの世の中。

 柳生武芸帳の五味康介は、マンガの清水昆と、小林秀雄の口に上った最後の作家だが、音楽好きでいろんな逸話があったが、魔笛はカラヤンが抜群にいいといった。あのころベ-ムやトスカニ-ニや錚々たる連中が魔笛の指揮をとった。たいてい道徳的倫理的な解釈を下す、その分面白くない、カラヤンの半分は聞けるなんてもんじゃなかったが、エ-リッヒ・クンツのパパゲ-ノや三人女の合唱やらさながら天国にいるようだった、その台本の荒唐無稽なんぞどうでもいい、飲めや歌えやでいい、大空の雲のように有頂天、草木鳥獣のように自由自在、なんしろこいつはお祭りだってやつ。

 永遠のお祭りやってたら干上がる。干上がる心配のないのはモ-ツアルトだけ。
 干上がりながら二十歳のわたしは五味康介のとんでも助平小説読んで、カラヤン魔笛説のさすがはと感心した。二十年後魔笛が聞きたくなって、なんとかショップ行ってカラヤンはと聞いたら、あるという、へ-え大昔音楽あるのかって、そいつ聞いたら似ても似つかぬ、カラヤン再度の魔笛という、
「なにこれ、みんな生き埋めになって腐って蛆虫。」
いいや、公害金っけていうのか、もうお呼びじゃない。そか、初演のカラヤン人類断末魔の音楽っていうやつ。
 死ぬ一瞬前の突沸。
 どうしてそうなるかって、はっきりいってわからない。

 ジュリエッタ・シュミオナ-トの声を聞けば昔は人のありとぞ思ほゆ

 NHKでむかし音楽やっていた、J・シュミオナ-トのケルビ-ノあのはすっぱなやつが、時を超えてわたしを押し包む。
 あったかい血の通う人間、いやそういう空間。
 なんといったらいい、1970年代以降、歌手というより歌うマシ-ンになって正確で美しいといって、板っぺらのようになんというかあの世行き。

 小林秀雄もその評論にある近代絵画も断末魔の一瞬。
 行きばっかりの帰りなし袋小路。
 絵といえばタレントのものした絵。

 フィレンツェの手料理となん君もしやポテッツェルリの春の如くに

 ふたたび蘇るにはまっ先に倫理観。
(西欧人は罪の意識、日本人なら恥を知る)そういったってお題目にしかならないか。個と全体の掛け橋、人の痛み、地球の痛みを我が痛みと知るこれ第一歩、そんなの麻痺しちまうってね、麻痺しない方法ならわたしが示すことができます。いつでもたった今生まれたように、アフロ-ジテの処女の泉よりたしかって、わっはっはそういうやつ。これ如来というんです、如来来たる如し、 観音さまともいいます、地球宇宙のはてに一音、なむかんぜおんぼさつってね。
 もっとも西欧デカタンスは日本には関係がない。

 リズムの言葉ってかアルファベットじゃない、漢詩が時代に左右されないように、日本の詩歌もどうあろうがその本来性を所有するんです。
 自分の感情発意の赴くところじゃなく、詩歌言葉の与えるところへという、一八O度の方向転換が必要です。
 そこからしか始まらない。
 絵画なら一本の線を引けるかということです。
 器械ではなく人間の手でです。
 あっはっは、コンピュウタ-時代に逆行、だってもさ人間の楽しみって強烈一つっこと。





  ゴッホ自画像 


 耳を切ったあとの自画像。耳を切った、さぞや痛かったろうがと思うと、痛いのは自画像を描いている今だ、巨大な拳で殴られ、ひしゃげたようなその顔に痛みが見える。
 見たくない絵だった、ましてや部屋に飾っておくなどもっての他。
 見たくないったって、向こうが見つめるのだ、こ-っと青い、光の目ん玉になってらんらんと見つめる、こっちは金縛りになって動けない、汗をだらだらつっ立ちつくす。
 そうしてつまらないことをぼやく、なんでこんなに荒っぽい線なんだ、へたくそな絵描きだ、絵描きの安穏落ちついた生活っての知らないからだ、そりゃへたくそで一枚も売れないからだ、弟の生活まで台なしにしおって、気違いめえが、そうだ気違いだ、発狂して気がついたら喉を腫らして寝ている、耳切ったんだって覚えていない-
 ぼやいていないとこっちが発狂。

 ゴッホは巧みに絵を描いた、つい最近発見されたデッサンなぞ、他の優秀な画学生と比べてぜんぜん引けを取らない、だのに-
 日本の絵にいかれちまったからか、そりゃ一神教ヨ-ロッパ人には、広重は描けない、北斎だっててんで無理だ、せいぜいがア-ルヌ-ボ-のへんな花の絵の花瓶ぐらい。自然と人間のあいだにアイとかヘイワとかカミサマとかないと、ぶるぶるふるえちゃって早漏しちまう-しちまうと思い込んでいるから。
 ゴッホが日本振りして失うものはあっても得るものなかった。
 しかしうすうすなにかしらあったのか、答えは発狂?

 いいや不可能事ということ。
 当然だ、神さまを捨てることなんぞ思いも及ばぬ、根っからの牧師さま。
 ゴッホは人を救おうと思って絵を描いた。

 近代絵画の巨匠どもは、いったいなんのかんのいったって、絵というキャンバスの中に逃げ込んで、ほんとうのただの人ではなく、デカタンスをいいながらまさにデカタンスの十字架を背負ったとはいい難く。
 ゴッホ一人馬鹿正直、ゴッホ一人絵描きであってしかも一流の文章家であった、自分というものをまるっきり隠すことなく、ごまかすことを知らぬ、偽りを知らぬ、これはたいへんあことだ、一時いっしょに暮らしたゴ-ギャンの舌足らずと好対照。
 ゴ-ギャンの実存は絵によって支えられる。

 ゴッホの実存なんてない、人はパンのみに生くるにあらずという一項があるっきり、古典的人間といえば彼ほどまっ丁人はない、世のため人のためのほか一個の存在理由はない、個とぜんたいのかけはし、人間に課せられた永遠の命題、原始人だ乱暴なやつだ、これをそっくり絵にぶち込んだ。
 そんなことができるかって、黒という陰影というだれしも当然の権利を-あいまい住居ってやつだ、そいつを放棄する、あるのは行為という善意という色の階調と光、たといアルルの光さんらんだって一人っきり楽しむという、そんな空間は彼にはない、あまりに明るすぎる、光が強烈。
 そうさ、ピラミッドを作るんだ、愛と平和のピラミッド、たとい昨日買った安物娼婦だって、どんな不幸な人間だってここに救われる、すべてを許す、優しさ=人間さ、そうさ神さまはそっぽなんか向いてないんだ、そっぽなんか-

 神さまはなぜか知らないが、そっぽ向きっきり、ゴッホのピラミッドはサハラ砂漠のまっただ中。
 水がない。
 水をしぼり出すのさ、その絵筆に。
 そりゃそうさ人間水の申し子、水という宇宙起原のまったくの不可知論、そうさだからこそ無限にあるんだ、わしのタッチを見ろ、実に合理的だろ、永遠に水を搾り出す装置さ。
 実はそいつが原子力で作動してたって気がついた時は、暴発-原子崩壊。
 色彩が砂粒の分子になって、そいつがぶっこわれて原子粒になって-そりゃ発狂するしかないさ、人間がいったいどこに住めるというんだ。

 病者の光学のニイチェも発狂したって、そりゃそうだ病者の光学の故にな-今じゃだ-れもそのメカニックがわからない。
 骨折れ損のくたびれもうけってやつな。
 ニイチェは最大の常識家であった、たといそういう称号を贈ろう。
 常識家の最大日本人は、小林秀雄であった、豪胆最後のさむらいのこの男をぶちのめしたのはゴッホであった。もし心の問題なら、有心の問題なら、そりゃゴッホにかなうやつはいない。
 どうしようもないのだ、脱帽かそっぽ向くか。
 そっぽ向けないやつが、何人かいたのだ。
 ゴッホがその心にそっぽ向けなかったように。
 そうさ、ここにも歴史が一つ。

 信長がどうでナポレオンなんてどっか異星の歴史、そうさそんなもんな-んの関係もないよ、歴史家なんていうの人間の屑さ、もっとも歴史を知らんでもってのうのう。歴史の一頁、ゴッホの耳を切った自画像。
ゴッホを救いうる方法があるか、
「ある。」
これがわたしの出した答えだった。





  ピカソ  


 ピカソのゲルニカはあれ下書きが画集になって出ていて、それ見たことがあります。すると日本画伯のような下書きじゃない、だんだん集積してついに完成じゃない、ただもうどんどん描き変えるんです、一枚めも二枚めも乃至は完成間近の絵もまるっきり違う、各独立しているような感じを受ける。それでいて同じ人間のやってることだから、首尾一貫してるといえばいえるんです。でもなにかしら奇妙なことがある。ピカソ天才の秘密という映画があって、どんどん描くはしから撮影して行く、さすがはピカソと思ったんですが、中に20時間もぶっとうしに描き直すのがある、これ最初のより最後のほうがいいとは決して云えないんです。どうかというと、決着しない落着しない、なんとか答えの出るまで-じゃ答えってなんだ、ピカソの古典性か、人間喜劇の集大成のどっかパズルの一環か、いやパズルから一歩食み出すべく、付け加える一頁-じゃ結局他の画伯と同じじゃないか、いや違う、わたしは自問自答したです。これはどっかおかしいのだ。

 イメ-ジが先にあるんじゃない、絵筆が描いているうちにイメ-ジがそこにあった、じゃ筆を置こうというんです。
 後にみなこの手法を真似て、しばらく絵描きの常識となったんですが、ピカソがこうしなんです、それまでどんな絵描きもしなかったです、とんでもない手法なんです。「すべてはすでに用意されている。」ピカソはいうんです、「手足だ、手足を鍛えろ。」と。でもここには一定の危惧がある、一定の危惧なんてものじゃない、そらおそろしい何か。

 青の時代なんです、すべすべした青の壁面、卵の殻の内側です、青年ピカソとその愛人がかつかつ暮らせる空間です、よ-ろっぱルネッサンスの成れの果てといったらいいか、モ-ツアルトの成れの果てといったらいいか、真善美愛と平和です、でもせっかくto the happy fewのfewなる相手もいない、未来も次の世もないんです、なんの手も絆もなく、痩せ細って優美な微笑みをたたえて二人よりそうんです。
 それは罪と罰のラスコ-ルニコフに似ている、西欧のかつての青年の心情を-存在そのをといいたいほどの、雄弁に物語る。

 だがどうしたってそこから出なけりゃならん、空気がなくなる、卵の殻を割るんです、勇気がいる、蛮勇をふるって殻を破る、破ってみたらそこにも空気がない、現代砂漠のまっただ中といったらいいか、生きて行くものは絵筆だけというには、どうにもこうにみひっからびている、実存主義です、いやサンボリズムとかカフカとかいろんな工夫があったです。ピカソはピカソの実存だった。すざまじい絵が残ってます、半分余白を残したアルルカン、筆舌の及ぶところじゃないです、歴史ってこういうものいうんだとしかいいようがない。

 でもって、ゲルニカに戻ると、あの人はじめ部屋ん中の横たわった裸の女描いてたんです。なぜってピカソには戦争も平和もありゃしない。せっかく死に物狂いの成人式やったっていうのに、絵筆をとることと男女の愛欲の他なんにも残らなかったといっていい。それからすべてをふえんするんです、芸術家としてはそれでいいっちゃいいんですが。ピカソのいろんな絵がある、デフォルメしたのやアフリカの手法やら、そりゃ知識観念好きにゃさまざまあるんだけど、ただ見りゃいいです、標準としてはデッサン集「人間喜劇」がいい、結局ギリシャ以来のヨ-ロッパ古典なんです。アフリカなんかどうでもいい、共産主義くそくらえです。デフォルメした女の顔は古典の鏡を通すとこうなるっていうんです、それが実に達者なものだ。

 どっかテレビで子どもの作品とピカソと比べていたけど、噴飯ものです、子どもらしいとこなんかな-んもないです、一個の洗練そのものです。
 だがあれが絵といえるか、いえる、だがわたしは熊谷守一のほうが好きだ、俵屋宗達のほうが何千倍もいい-実際はそんなことないったって、そう思う何故か。
 ほんとうの独創があったのか、すでにすべてが用意されているという、ではそこに押し込めになったっきり、進歩発展がない、もしやそうではないのか。
 掘り起こすその手法は、たいていの人なら発狂を免れないであろう。

 それにしてもです。下書きから下書きへ、断崖絶壁のようなギャップです、では画面の線と空間も、色と表情もそりゃ世間風景じゃない、いわば青の卵から出てまた入っちまった頭蓋の中、ピカソ空間じゃないのか。
 すんでにわたしはそう思ったです。
 でも美しい、美しいものは自閉症じゃない、自己満足じゃないです。

 彼の唯一開かれているもの、男と女の世界、それを絵筆に用いること、そうです、ゲルニカは別れて気違い病院に入った妻への、マインカンプフ、どうもそうであるらしい、それがあるとき戦争と平和というイ-ジとしてそこにあったんです。もとから準備されていたといっちゃあ、強烈戦争場面描いて、
「ゲルニカ」
といって展示した。ことの真相はこうだと思います。
わたしがピカソと決別するきっかけになった絵です。

2019年06月22日