とんとむかし17

ウイチーオロ

とんとむかしがあったとさ。
むかし、トミオの村に美代という女の子がいた。
美代は歌が上手だった。
もっとうまくなって、トミオの村からハラノバル一になって、そうしてウイチーの宮に、あけぼのの旗をかかげたかった。
美代の名は、国中に知れ渡って、たのもしいとのごに見染められて、北のゆきえのように、おおどの奥方にもなれる。
美代が清うげに歌うと、男たちは、
「わしのためだけに歌ってくれ。」
といって、アイラの花を手折り、冷たい瓜を二人で食べて、
(この種が生いついたら、)
きっといっしょになろうと云った。
だが美代はウイチーの神に誓った。
(わたしが一番になったら、)
貧しい美代にはなんにもなかった。男たちは耳がかわいいと云った。
「この耳を捧げます。」
そうして美代は歌った。うったえあしという、風に鳴りわたる、オイ沼の芦に向かって歌った。
歌はとよみわたって、声が聞こえた。
「耳をくれるというはまことか。」
「一番になったら。」
美代は云った。
「引き受けよう。」
うったえあしは云った。
美代は歌った。トミオの村からハラノバル一になり、ユウバルを勝ち抜いて、ウイチーの宮に行けば、イクリ村のあよがきわだっていた。
名誉のあけぼのはだれ。
「空のように哀しい美代。」
「花のように切ないあよ。」
人気は真っ二つ。
ウイチーの宮に二人は歌いあった。
「しのびねを、
うったへあしの、
一夜草、
月のしずくに、
みをつくし。」
美代は歌った。
「何を夢見る、
憂いかげ。」
「棹さして、
流れただよう、
浮き寝には、
なほも残んの、
あやにしき。」
あよは歌った。
「運命を知るか、
星のかげ。」
「ぴいと尻尾をさを鹿の。」
「ほろと鳴くのはなんの鳥。」
「うわさも聞こゆ、」
「秋の風。」
「つゆの命に明け行けば。」
「人目も草も枯れはてて。」
「なにが降るとて。」
「なにが降るとて。」
「年をふるとや、」
「さむさ雨。」
甲乙はつけがたかった。ウイチーの神官が大空へ弓を射る、右へ行けば美代、左へ行けばあよ、
「ウイチーオロの御心である。」
白羽の矢は空中に弧を描いて、美代の耳をつん裂く。
みどり色をした、おどろしいものを射貫く。
「耳をうばうものは神ではない。」
そう聞こえて、おどろしいものは失せた。
美代はおばあさんになり、赤ん坊になり、一番になって、一生を独り身に、歌い過ごした。



しんらの芦舟

とんとむかしがあったとさ。
しんら国の前の王、ゆのおおとのがなくなった。
あし舟に柩をのせて、ゆうわの河に下ろす。
ゆうわの河を流れ下って行って、おおとののみたまは、さんかじに帰り、そうしてまたこの世によみがえるという。
ゆのおおとのは早くから、弟のしゆに国を譲って国はよく栄えた。
しゆのとのには三人のひめがあった。
末のひめミユメは狂って、花の雨を降らせ、地は黄金にくらめいて実りもなく。上のひめアユメは三人のむこを取り替えてのち、神殿の大門にたてこもった。
松明を点し、百人の乙女が告げを待つ。
「滅びの雲がある、みそぎせよ。」
乙女らはみそぎし、それを見たものは目を抉られた。
「ミウメを捕らえて岩につなげ。」
ミウメは逃れ、身代りがセトの大岩につながれた。
中のひめヒユメはもっとも期待されたが、だいえのわかとのに見染められて、隣国へ行ってしまった。
しゆのとのは、大門を開けるように云ったが、神殿の長イヤツクニヒは、折れ曲がったかぎを示し、
「かくはひめのお力によって。」
と云って倒れ込んだ。
国はようやく乱れ、外にはうかがい見る動きがあった。しゆのとのはきさいヒルアーガとともに、宮のなんぐうに籠もって、現れなかった。
アユメの乙女たちは、眉を青く塗って、信者を従えて歩き、人は戸を閉ざしておそれわなないた。
ゆのおおとのは、シイヤの森に狩りをして、世になんの関心もないかに見える。
十六の年には、すでにてきの大軍を破り、内外を掌握して、智恵天空の如く、弓は岩をも貫くと云われ、だが従者は一人去り二人去りして、ついにはいなくなった。
宮のなんぐうに立ち寄って、ミウメが狂って花の雨を降らせる時に当る、ゆのおおとのは剣を抜いて、
「ひめたちをこれへ。」
と云った。ヒウメさへ切り捨てるかも知れなかった。しゆのとのはおおとのを宥め、三人のひめはその礼をとってひざまずき、明日にはおおとのの姿はなかった。
十数年がたった。
ゆのおおとののみまかることは、弟子であるハルノという者が知らせて来た。
弟子たちにみとられて、雷雲山をのぞむ洞穴にみまかるという。
あし舟に乗せてゆうわの河に下ろす、しんらの王族の古式は絶えて久しく、六十年前に身代わりをもって、なすという、
「おおとのは、とのの身代わりと申されました。」
弟子が云った。
「どういうことじゃ。」
「わかりません。」
しゆのとのは、すでに心痛の長きにわたって、ものを捉えることが難しかった。
あし舟が浮かぶ。
かつてもがりに従う者は千人を超え、そうしてだれも帰っては来なかった。
おおとのに従うは四人であった。
身の回りの世話をした、ユイという女であり、黒衣に身をおし包んで、なを美しく、ハルノという弟子の一人であり、大戦士イゴールという、国の内外に無双の豪傑として知られた男であった。
「わしがかってにこれに誓ったのだ。」
戦士イゴールは剣を叩いて云った。
「しまいまでつき従うとな。」
もう一人は仮面を被った男であった。
舟は出て行った。
霧が晴れて真っ青な大空、河面はくらめいて島影が現れる。
「お弟子さんは幾人おられる。」
戦士イゴールが聞いた。
「さて何人になりますか、行ったり来たりの四五十人には、ー 」
「はておまえはハルノではないが。」
「ハルノはうっかり忘れて他所事を引き受けてしまったんです、わたしはキーオと申します。」
弟子は云った。
「おまえらの師弟というのはさっぱりわからんな、おおとのと鬼ごっこしてみたり、笛を吹いたり、おかしな太鼓を叩いたり、ええ、生きて帰って来た者はないんだぞ。」
「大戦士、イエ・イワ・イゴールどのもそれは同じです。」
「なにわしは生きて帰って来るさ。」
イゴールは云った。
「この世に不思議なものなどない。」
「すべてが不思議です。」
「あっはっは、わしは弟子ではないが、おおとのを師と仰ぐはやぶさかでない。」
あし舟は流れに乗って、いくつ島影を廻って行く。
ゆうわの河に二日が過ぎた。
急流になった。
断崖がせまり河は泡立つ。黒衣の女は懸命におおとのの柩を覆い、仮面はへさきに立ち、キーワとイゴールは必死にかいをあやつった。
流れは納まった。猿の吠えわたる岸。
「しんらの国のはてじゃ。」
戦士イゴールのひげが濃かった。また島影がせまる。
「すでに千里を来た、おおとりの島が見えるはずだ。」
仮面の男が云った。
「ゆうわの河に、三つの卵を抱くおおとりの。」
「時は空ろ木の羽根をやすらう。」
戦士イゴールが云った。島と云えば無数の、河は流れて網の目のように。
「流れのままに行けばよい。」
「さようまた一つになる。」
イゴールは赤い布をとりだして、手にした槍にかかげた。
「なんのしるしです。」
キーワが聞いた。
「このあたりには、流れ者やら無法者が巣食っている、押し渡るのさ。」
「もがり舟のしるし。」
「そう云えばかえってよったかる、こいつはわしの挑戦状よ。」
イゴールは云った。
「さすが大戦士。」
「このあたりへも来たことがおありか。」
仮面の男が聞いた。
「わしはどこへでも行った、ゆのおおとのの心の辺際までは届かぬがな。」
島影に一そうの舟が現れた。速舟であった、矢のように近づく。
赤い布は動かず。
美しい乙女と七人の兵であった。
「ゆのおおとののもがり舟か。」
乙女が云った。
「礼を尽くそうぞ。」
空手に花を注ぎ、七人の兵は槍をかかげ、音楽が流れ。
「末のひめミウメじゃ、世のはての族を兵にする、大戦士イゴールは我らにつどへ。」

「なにゆえに。」
「上のひめアユメは愚行によって国を滅ぼす、あとを狙うは隣国のヒウメじゃ。」
美しい乙女は云った。
「ゆうわの河を下って、もし生きて帰って来たら考えよう。」
大戦士イゴールは云った。
「よろしい、安全は保障しようぞ。」
ミウメは笑った。
速舟はすでに十町を行く。
「あのようなお方は大好きです。」
キーオが云った。
「ミウメの兵になるか。」
「いえ戦のようなおろかごとはしません。」
無数の島に、網の目の閉じるところ、河は急に流れる。
「行って帰らぬゆうわの河の。」
「この世のはてには滝があり、たましいの忘れ郷がある。」
島があった。
おおとりの翼をやすらう空木の島、三つの卵を抱くように見える、卵とは激流の渦。

「あのくちばしに舟をつける。」
仮面の男が云った。
「でなくば我らも死人の仲間。」
あし舟は狂ったように突っ走る、大戦士イゴールがかじを取った。
「なに死ぬか生きるかよ。」
舟はなめらかに寄る。三たび死の淵にゆらいでぴったり付ける。
四人は丘へ上がった。
すでに夕闇がせまる、柩を下ろし、空ろになったあし舟を燃やして、最後の食事をとる。
柩を開けると、ゆのおおとのは眠るが如くにあった。
「イツカシ、死者の魂を口うつしするもの。」
戦士イゴールが云った。
仮面の下には端正な顔があった。
「わしが最後のイツカシであろう、よもやこの術が役に立とうとは思わなんだ。」
という。
キーワはイツカシの手助けをし、黒衣の美しいしゆが柩によりそい、戦士イゴールは微動だもせずに見守った。
イツカシはむくろに息を吹き込み、吸い込む。不思議なことが起こった。
むくろはイツカシであり、起き上がってもの云うは、ゆのおおとのであった。
「しんらの王たる我がゆの一族は、天を動かし、星の廻りをかえたという、先人オイライの血を受け継ぐ。その力故に滅び、あるいはこの世を去った、かの恐ろしきものが末裔ぞ、母ネムイムーナはかつてその力を具有す。」
声は空ろに闇に響く。
「雷雲山に龍を招き、王宮にはとつぜん蓮すの池と水を現わす、龍をともない花に遊ぶ、我が幼い日ではあった。」
「母は云った、おまえにはオイライはない、王たるもの他力は不要じゃ、したが一指を授けよう、人の心を見通せる力。」
「我はわずか一千の兵を率いて、敵の三万の軍勢を破る、十六の年であった、即ちこれが一指頭のゆえに。」
しかりおおとのはしんらの危難を救い、しゆのとのにゆずって後も、その人ありと云われて、国は安泰であった。
「我は美しいサイヤひめを愛し、ひめも応ずるを知る。」
「だが我が一指頭はさかしまに行く。」
「ひめは枯れ死ぬ。」
雷雲に天駈ける龍、天宮の柱をうち、須弥山に虹をかけ、世の輪廻をくつがえす。
敵というは幻であったか、皮を削げばくされはらわた、骨を断てば空虚、大地は揺らぎ民心は荒れ、あるいは青春という、
「敗北は春の雨であり、凱旋は北風の。」
おおとのの声が聞こえ、まぼろしは失せ、
「ついに我は得た、太古心を。」
ねむいむーなは去る。
河音をのみに、四人は眠った、夜の明けはなつまでを。
おおとりのつばさは茂み覆うサルマージュであった、サルマージュの空ろ木は巨大なさやを付けた。イゴールとキーワとさやを取って中身をくりぬいた。
「世のはての滝を下るにはこれしかない。」
おおとののむくろは腐れ、流され、イツカシは沈黙する。
「このお方はおおとのに変化したのです、わたしにはそれがわかります。」
美しい黒衣のしゆが云った。四人はサルマージュのさやに乗った。さやを閉ざして世のはての滝を墜落する。
四つのさやは漂いついた。
それは忘却の入り江であった。
四人は魚釣り暮らす。
イゴールの槍が突き立たつ、小鳥がその上に止まってさえずった。キーワが二人になった、四人になり五人になり、ハルノもいれば兄弟子たちも、
「魚釣り暮らしてもいいが。」「おおとのはなにをしようとしていたんだ。」「ようもわからんが。」「遂行しようか。」「ではみなに告げよう。」「追憶を。」
一人になってキーワは目覚め、みなをゆり覚ます。
四つのさやをつなぎ会わせ、かいをこさえて乗り込んだ。
三たびゆうわの河を下る。
ゆるやかにあるいは早く、光満ちて時は停止する。
「声が聞こえる。」
にわかに黒衣のしゆが云った。
四人は微かに聞いた、たった一つの弦の音を。
「告げの館がある。」
数多の声をもってキーワが云った。
たゆたう水が盛り上がるように、巨大な塚があった。
「こやつは蟻塚ではないか。」
大戦士イゴールがいった。
「なんで河の真ん中に。」
さやのいかだは吸い込まれ。
投げ出されて四人は乾いた地を歩く。迷路であった。羽音がざわめく、何億という羽根蟻だった。
「わしらはもう何日も飯を食っておらん。」
イゴールはつかみ取って食った。そいつはまずかった。
食い足りて迷路を抜け出ると、大ホールであった。
イツカシと黒衣のしゆが舞いを舞う。
二人舞い踊って、羽化寸前の巨大なさなぎになった。
彩りが透けて見える。
美しい、
「そうであったか、おまえはサイアひめ。」
「はじめてお声をいただきました。」
「世の中も少しはましになったか、相変わらずの阿呆どもよ。」
「すべては過ぎ去って、わたしのおおとの。」
たとえようもない羽化であった。
荘厳の楽の音に、大ホールの天井が開いて、真っ青な大空が覗く。
「ねむいむーなだ。」
大戦士イゴールはたしかになにかを見た。
何億という羽根蟻が襲いかかる。
払いなぎ倒し槍をふるう、キーオに羽根が生えている、
「そうかこやつらは死者のたましい。」
二羽の、舞い上がる蝶。
イゴールは脱出した。
さやの舟に乗る。
「わしは生まれ変わったと伝えてくれ。」
おおとのの声が聞こえた。
「今の世に戻るつもりもないがな。」
大戦士イゴールは、十年の旅ののちに故郷へ帰る。
その物語はまた別の折りに。



犬神の子

とんとむかしがあったとさ。
むかし、ひえたろ村に三郎という子があった。がみんこといっていじめられた。
がみんこ犬神の子という、犬神さまのほこらで泣いていたのを、じんべえさまが拾って育てた。
じんべえさまの孫は二人いて、たいてい同じ年ごろの女の子で、とんでもなく意地悪で、つねったり耳をひっぱったり、うそついたり飯に砂入れたり、したいほうだいが、犬ん子といって扱き使った。
奥さまがいくら子供だって、男女は近づけんでくれといって遠ざけたが、二人のいじわるはとどまらず。
かっぱぶちに水の引いたとき、女の子たちは棒を投げて、
「犬ん子とっといで。」
といった。
「でないと手提げよごしたって云いつける。」
二人は手習いの道具を、犬ん子に持たせた。棒を取って来るとまた投げる、もう一度さあもう一度といって、犬ん子は深みにはまって見えなくなった。
それっきり出て来ない。二人はこわくなって、家へ帰って来て口を閉ざしていた。
「三郎はどうした。」
と聞かれて首をふる、とっぷり暮れて二人かわやへ行くと、犬ん子がそこにゆうれいのようにつったつ。
きゃあといって目を回した。
「そうさ、犬神さまが助けてくれた。」
三郎は云ったが、ふちを泳いで、あしの茂みにひそんでいた、とって行けばまた投げる。
七つになった。
がみんこも清介という、喧嘩仲間ができた。 清介は遊んでいたが、三郎はじんべえさまのお使いや、風呂の水組みや、女の子たちの送り迎えして、それから遊ぶ。
清介の本家は、松のお庭に牡丹が咲いて、そこにまんねんたけというきのこが生えた。たいそう高価な薬という、二人はひっこぬいて、
「じんべえさまも欲しがっていた、売れる。」
といったが、そうもいかずそれっきり忘れていた。
二人は柿や瓜を盗み、怒ると息のつまる、多助のじいさまをからかったり、いったい悪さはなんでもした。
けんかもしたが、清介は男気があって、がみんこを逃がして、自分がとっつかまったりした。
二人だけの穴があって、むしろしいて盗んだものなど貯め込んだ。
女の行き倒れがあった。街道筋で行き倒れはときどきあった。
「助けてやろう。」
清介がいった。
「うん助けてやろう。」
どうにか助けおこして、穴ぐらに担ぎ込んだ。汚い年寄りかと思ったら、まだ若いようであった。
二人は米をかっぱらって、かゆを炊いて食わせ、それからまんねんたけを思い出した。

「すごい薬だっていうぞ。」
かびの生えたのを探し出して、煎じて飲ませた。
女は半日いびきかいて寝ていたが、起き上がるとすっかり元気になって、帰って行った。
それがなにかわけありの、大店の娘であったそうで、村人には目を回すようなお礼が来た。
「こういう子どもの。」
と、使いがいった。
三郎は、清介が本家のまんねんたけをとって、塀の外に生えたもので、かゆも食べさせてと、じんべえさまに申し上げた。
それが通った。
清介はいい着物買ってもらって、歩いていた。
ふんとそっぽを向く。
「もう嫌いだ。」
犬神ん子が神通力でもって、行き倒れを治したんだといったが、親も本家も取り上げなかった。
「絶交だ。」
といった。
「うん絶交だ。」
絶交して三日めにばったり出会った。三郎は二人の女の子の、お花と手習いの道具を持って、あとついて歩いていた。
「こらおまえら、帰りにしのっぱらへ来い、がみんことな。」
女の子たちに清介は云った。
「はい。」
「あの。」
村の有名人の云うことだ、二人はその帰り、犬ん子つれてしのっぱらへ行った、村外れの草っぱら、清介がいた。
「向こうをむいて、こうやってな。」
おしりをまくれと清介はいった。
二人は否応もなく。
「犬神ん子になでてもらうと、後生安楽。」
それと云われて、三郎は二人のまだ幼いお尻にふれる。
「わっはっは。」
清介は笑って、行ってしまった。
それあってから、女の子たちの見る目が変わって、同じ荷物持ちにしたって、つれだって歩いたり、おいしいものをとっておいてくれたりした。
姉が来いというと、妹がおいでという。
「ごしょうあんらく。」
とおしりすりつけて来る、別段のことはなかった。
清介はその年のうちに、見込まれて大店の養子になって行った。
がみんこの三郎は、とつぜん遠くの村に追いやられた。
漁師の村であった。
漁師の仕事のきついことは、ひえたろ村の比ではなかった。
なぐられぼったくられ、食うものだけはあった、がっつり食らい眠りほうけ、海へ落ちて死にかけたことも、一度や二度ではなかった。
三郎はくじけなかった、くじけるひまもなかった。父母も思わず、みるみるたくましくなって、思いの他に手足が動く。
十七になった。
いわしを取り過ぎた舟が、突風にあおられてあっけなく沈んだ。乗っていた十二、三人一人も助からなかった。
三郎は清介の声を聞いた、清介ではなく犬神だといった。
「おまえには余命がある、ここでは死なぬ。」 するとよみがえって、波間を漂った。

一昼夜して見上げると、山のような舟があった。
「人だ。」
「まだ生きているぞ。」
声があって、三郎は助け上げられた。
手も足もふやけて切って、気がついたら絹の蒲団に寝かされていた。
「おまえは、三つのときに行方知れずになった七之介、夢にお告げがあって、舟の行く手にさまよっておると。」
涙のしずく。
それは江戸の大店の主という。
江戸へは舟は三日でついて、住まいはお庭があって立派なお屋敷の、
「七之介にまちがいはない、ようも帰っておいでた。」
母なる人も涙を流す。
人さらいにつれて行かれて、大声で泣いてきっともてあまして、犬神さまのお社へという、それ以外わからなかった。
生き馬の目を抜くという、花のお江戸であった、繁盛を目の当たりして、たとい何あろうと三郎は驚かなかった、あるがまんま受け入れる、そうとしかない暮らしであった。
七之介とてぞろっぺい着て、だが生まれてはじめて筆をとる、よみかきそろばんと云われて弱った。たいてい、苦労のしがいもなかった。
なんにも覚えぬといっていい。
「わしはひひのしけさまではなひようてす。」
やっと書けた字で記して、三郎はお店を抜け出した。
置かれた所を抜け出すのは、はじめてだった。
あてもなく歩いて行く。
荷を山のように積んだ車が、みぞへはまる。四苦八苦するのを三郎は、苦もなく抜き上げた。
「これはどこその旦那で。」
着ているものを見て、車夫が云った。
「送ってやろう。」
またぬかるみへはまったらとて、押して行く。
人や荷を運ぶ車屋だった。
三郎はそこへ居座った。
「ありゃきっとどこそのこれで。」
今に大金が入るとて、飯を食わせていたが、そのこれが人の十倍もかせぐ。
云ったり思ったりのまに、三人前は終わっている。
「ゼニいらねえってとこみると、やっぱりこれか。」
荒っぽいところで、よく喧嘩があった。
さむらいくずれなと、だんびら振り回すやつを、これの若旦那が出て、あっさり片づけた。どう動いたか、知ろうともせぬのは海の仕事であった。
「ひえ。」
あざやかというか、とたんに名が上がった。
「おまえさまなんて呼びゃいい。」
「犬神の三郎。」
名告ってみたら、今度はそいつを担ぐのが現れた。
軒を借りて、赤い鳥居を建てる。
犬神一家といって、いつのまにか十二、三人たむろする。けんかの仲裁と看板を上げるところだったが、いったい主の三郎がなんでもして働く。
「重宝屋三郎」
の看板になった。
これが流行った。
「人の役に立つには、よみかきそろばんなんてもないらねえんだ。」
一の子分と称するのが云った。
「思ったりしたりはできねえんだ。」
無敵だぜという。
「おしりにさわってもらうと後生安楽。」
きれいなおねえさん方が云った。
「なんていうんだろ、あの人きいっと海みたい。」
ある日、柳生のおさむらいというのが、三郎の前に立った。
ふっと目を細める。
「なにか御用で。」
「すきがないな。」
おさむらいは云った。
「いえ斬りゃあっさり斬れます。」
切りつけて寸留めする、
「すばらしい。」
「どうにもできなかったからで。」
面倒なことをと云いたかった。
それあってか大いに名を売って、総勢百人から出入りした。犬神三郎にも女房ができて、欲のないかみさんで、
「おまんまさへ食えてりゃいいの。」
といって、何人たむろしようが食えていたから、不思議だった。
犬神の赤い鳥居に捨子があった。
捨ててから拾って育てると、きっといい子に育つというのだ。
中に拾って行かない、ほんとうの捨子があった。着物やお金が入っていて、めんめんと書きつらねてある。
三郎もかみさんも字が読めぬ。
二人で育てた。
いい子に育った。
そうさなあ、清介にもう一度会いたいと思うことがあった。

2019年05月30日