仏教とは何か

2010年01月18日 13:40 せっちゃん



大上段に振りかぶって仏教とは何か



・仏はほどけ、知らぬまに自分で自分をがんじがらめにしている、その縄をほどけば仏。自縄自縛の縄はたいていつながっているから一本切ればはらりとほどける、もとほどけ、なんにもないのが仏、なんにもないと云っているその自分ですったらさあっはっは。

・仏足石歌、575777という万葉集にあるその歌ではなくって、仏足石です、ギリシャ人が来て仏像を造る前はこれこっきりが仏でした、完全無欠の仏像です。平らな石の上に一足分の足型を刻む。その上にお釈迦さまが立っておられる、なんだってなんにもないじゃないか、雲があり鳥が鳴き山川あって人の行き来するただもうそれっこっきり、はーいそれが如来です、あなたもその足型の上に立ってごらんなさい、お釈迦さまそのものです、人も草木もものみなも生まれ本来如来です、悟るとは200%これを知る、身心脱落空の空なるかな、そうです一切の手続き不要、ただこれ仏足石の上です、仏教という他にはないんですよ。

・曹洞宗、せっかく道元禅師が法を受け継いで、この国にお釈迦さまが現前したというのに、今はもうまったくの台無しですか、達磨さんに毒を盛り、道元禅師に後ろ足で泥をかける、葬式稼業お寺さまの姿、なんともこりゃどうにもならんです、とっくに滅び去っています。よってたくって集団自閉症ですか、本山に仏なく、わけのわからん説教なと、箸にも棒にもかからんもの、俗人のほうがよっぽどましです。坊主だって、あっはっはそりゃだめだという、何十年来わしらの常識です、坊主と先生にゃろくなものはいない、ではなんで坊主になったといって、とにかくこういう格好したほうが人が寄るです、先人辛苦の跡を曲りなりにも受け継ぐ。

・臨済宗、曲がりなりにも法をもって立つ姿があります、曹洞坊主など歯牙にもかけぬ風です。それはとにかく是、飯山の正受庵とふ花をねんじ白隠さんにはなぜ伝はらず。至道無難禅師正受老人とたしかに伝わってきたものが、ふっつり途切れています。白隠さんというお祭り騒ぎの好きな江戸時代的技芸の人ですか。由来ぶんなぐり叩き込んで、きちがいめいてどうしようもない人間を作る。なにが救いようがないって、臨済宗の息のかかったのは、なんせいなんにもならんです。自分が自分を練り形作ってなんになるんですか、根本に立ち返って下さい、でなきゃそりゃなんにもならんです。

・坐禅の方法、ただもう坐る、いいだろうが悪いだろうがめちゃくちゃだろうがどうもならんだろうがただ坐る、手付かずです、自分というもと手つかずです、手を付けたって付けなくたってこれ、ノウハウあるうちは坐禅にならんです、始めも終わりもないもとまっただ中です、こんなにたやすいことはないです、安楽の法門、菩提を窮尽するの修証です。



2010年01月18日 20:02 せっちゃん ・印可、お釈迦さまが花を取って示すと、会下の大衆何千右往左往する中に、迦葉尊者お一人破顔微笑した、これを見てお釈迦さまは、我れに正法眼蔵涅槃妙心の術あり、挙げて迦葉に附嘱すと云われて、法が伝わった。これを印可とする、印可とは仏仏に単伝する。わしは老師の印可を断った、老師は大雲祖岳老師の印可状を見せてくれた、初見でもって授かったという。大雲祖岳なんてなんだ仏教のぶの字もない、どういうこったといって、老師も飯田とう(木に党)陰老師も、店を開くには印可状が必要だった。飯田老師は諸方捜して、らしい人を発見して継いだ、老師は高名であった祖岳老師の印可を手に入れた。つまらんものはいらんといって、わしはしばらく困った、印可状なしでは人が信じない。だがそのうちそんなものは無用になった、本当に得ていれば人が信じようが信じまいが関係ないんです。存分に使いえて妙です、毎日坐って美しいたとえようもない生涯全宇宙です、日々新たにです。振り返って見ると一人の本物もいないです、印可を受けた印可底という偽物です、だったらなんで印可か、てめえひけらかし商売のためにだけです、思い込みですか、無内容です。印可底の人というだけでペテンです。印可がないではないかという、はいよだったらわしを印可しろと、どうぞ印可して下さい。



2010年01月19日 09:57 せっちゃん ・捨身施虎、お釈迦さまが前世において修行中に飢えた虎が現れた、身を投げ与えて虎を救ったという。その因縁で弥勒仏より先に衆生済度に当たると、シルクロードを伝わって日本まで来て、玉虫の厨子の絵柄になる。けだし仏教そのものです。参禅するのに手前どうだいいのわるいのないんです、飢えた虎はなんだって食う、なりふりかまわず身を投げ与え、これ仏です、仏の教えです。食われ終わって説教ですか、ばかな、説教なんてものもとっからないんです。

・坊主はお寺に生まれたから説教で、お布施で食えるから偉いんであって、金襴のお袈裟つけて猿芝居、だみ声あげてお経を読んでっていったいこれなんだ、けったくそわるいつまんで捨てろ、ほんに胸糞悪い人格破損みたいな連中ばかり、こういうのと付き合ったらだめです。





2010年01月19日 11:22 せっちゃん ・出家しない坊主、そりゃナンセンスですかいっそ哀れです、坐禅しない禅宗という、こりゃもうどうにもならん、出家するも所なし、坐るに導師なし、しかし真実は仏にしかない、道を明きらめるとは唯一人生です、なんとかして継いで行くよりないです。

・無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法の実際を見る、そんなにむずかしいこっちゃないです、目は目を知らず、見ているほうと見られるほうの区別もない、見ているというさえ知らず、どだいそういう感覚器官がないんです。にもかかわらず目で見る耳で聞くという、あとからの観念知識です。いったんそれを免れて本来人になる、玉露宙に浮かぶ、破家散宅は我れと有情と同時成道、天地宇宙と一体化するんです。いいですか心は心を知らず、無心すなわち心がないんです。



2010年01月20日 09:47 せっちゃん ・正師にも惑わされ邪師にも惑わされ、仏教があり悟りのある間はどうしたってそうなります、いつまでたっても見習い士官じゃミサイルも撃てないですか。だれが何云おうと一目瞭然事、自分と大法との二人連れ。それじゃあんまりどうも面白くないです。もとはじめっから仏の大海です、どうしようもこうしようもそのまんま。

・正師は奪い取る、邪師は付け足す、正師はなんにもないからです、ちらともあれば見える、自然に奪い取るんです。邪師は仏教あり悟りありの俗人です、付け加えて物語りするんです、さんざんな目に会います。仏仏を知る、正師はこれと示し、邪師はあれと云うんですか。



2010年01月21日 06:16 せっちゃん ・なんにも云うことがない、質問あれば答える、仏教という強いて云うなら始めて仏教が成立する、不立文字直指人身見性成仏という、ねらってる間はそれがあるんです、至り得帰り来たって別事なしというとき、まったく消えうせるんです、強いて云えば柳は緑花は紅なんですか、元の木阿弥これなんぞ。



2010年01月21日 17:19 せっちゃん ・我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん(目に真)ち(痴の知を疑に)、従身口意之所生、一切我今懺悔という、坐禅はまずまっさきにこれです。臨済の在家の弟子でいた大姉があって、なかなか俳句を作り云うことは云うようだし、二三年参じてある日とつぜんわしの手を握って、なんていうわたしは思い上がっていた、人には迷惑のかけっぱなしでと泣く、ちらとも悟ったんです、どうしたらいいのかという、わしみてえな極道者でも生きているんだといって、ようやく坐禅が坐禅になるというのに、体をこわしてそれっきりになった、残念です。若い元気なうちにどうかやって下さい。取り付く島もない手付かずの坐禅です、ただもう坐って下さい。



2010年01月22日 09:38 せっちゃん ・あるときの接心に妄想煩瑣、どうにかしてこれを退治してくれようと、やればやるほどにひどく、真っ黒けになって死に物狂いでやった、四日めかもう体力の限界、お手上げだどうにでもなれと云ったとたん、ぱーっとなくなる、まsるっきりなんにもない、脳死かと思ったらそうじゃない、ぽっと浮かびぽっと消える念想観をそのまんまにした、観察しないんです、するとなんにもないんです。わかりますかこれ、心はたった一つです、一つが一つを顧みることはできない、にもかかわらずおれはどうだ、だからいけないよしあしやっているんです、』不可能をなんとかしようとする、そりゃ妄想に疲れしてやられるだけです。仏教という人の救いの根本はここにあります。無心とは心が無いんです、たった一つ出物腫れ物ところきらわずですか、でっぱなしという見ることができない、すなわちゼロです、なーんにもないんです。



2010年01月23日 08:43 せっちゃん ・自ら運んで万法を証するを迷いといい、万法すすみて我れを証するを悟りというと、このこと初心の人心すべきです、仏はこうあるべき、悟りはこうなけりゃならんと、坐るに従い物差しをあてがい施設する、結果らしいようになったといっては振り回す、たといどんなに近似値だろうがまるっきり別です、ついにはなんにもならずに終わる。邪魔です。ある人百姓の出で目に一丁字もなく、お釈迦さまのようになりたいただそれだけをもって中国にわたる、師を見出して就く、師はその掌をとって丁と記す。ついに四年をもって丁になりきって印可を受けて帰る、仙台にある大寺を継いだという実話です。この人もっとも親切、さまざまに施設し知識を増やしたとて、何にもならぬことを知ってまっしぐら、坐だけが教えてくれます、余はただの邪魔です。



2010年01月24日 09:04 せっちゃん ・観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五うん(くさかんむりに糸日皿)皆空、度一切苦厄、お経というならまったくこれで足りますか、はんにゃはらみった、ぱーらみーたー彼岸にわたるということです、三蔵法師がそのまんま漢字をあてた。此岸こっちの岸は架空の我をもってする、根無し草の喧々諤々です、彼岸生まれる以前の天上天下唯我独尊です、あっちの岸にわたり終わればこっちの岸です。仏教とはたったこれだけのものです、般若の智慧というしょりゃ五うん皆空なんにもないんです、一を聞いて十を知るよりはもと真っ只中、目から鼻へ抜けるより目鼻なしです。仏教学者という仏教に反するもの、坊主というお経を読んでどこへでもつらを出す、まったくそりゃ関係ないです



2010年01月24日 15:06 せっちゃん ・仏祖の往昔は我らなり、我らが当来は仏祖ならん、これゆえに始めから自分用なしの坐禅です、自分を見る観察するすべてうそです、嘘を取り扱う自分が要らないんです、ただの工夫これ、具合がいいうまくいったの底を抜く、うまくいかない苦しいの底をぶち抜く、ものは始めからすっからかんです、虚空が虚空する、坐禅が坐禅するんです、初心すなわち仏教入門以前と、大悟徹底したのちと同じです、これゆえに用なし、死んだのまったく変わらぬ世間と思えばいいです。わずかに楽しみがある、全宇宙の主人公です。



2010年01月25日 09:33 せっちゃん ・淨心一現するとき、自他同じく転ぜらるるなり。お釈迦さまの我と有情と同時成道です、我ら人みなまったく同じく悉皆成仏です。信ずるとは100%です、キリストを信じたの共産党は正しいなどいうのは、お釣りが出て大騒ぎです、はた迷惑かぎりなし、あるいは自分という余り者です。信ずるは不信のはじめなり、ヒットラーになるしかない方途ではいかんです、若しや顧みておのれ如何、いいわるい信ずるゆえに正しいの百人百様、これすなわち世の中です、一歩免れ出て下さい。みんな仲良く平和にのご都合ではなく、一箇光明なれば四方を照らす、一番馬鹿でめちゃくちゃでまるでなっていないんでいいです、これ以外になんの方法もないことを知って下さい。



2010年01月28日 10:44 せっちゃん ・君見ずや絶学無為の閑道人、真を求めず妄を除かず、これの出来た人を仏という、仏祖というんですが、世の中から完全にはみ出してしまっているふうです、人間の社会を抜け出すそりゃほんとうに幸せ楽天と思いませんか、あっはっは食う寝るだけというほどに、飲んで歌って鼓腹撃壌ですか、花のように200%けれんみもなくぽっかり咲く。いいですか宗教や共産主義によっておさらばするんじゃないんです、自分たちだけの理想社会というはた迷惑じゃないです。鯨取らないだからいいってんじゃない、牛豚物扱いの牧歌的じゃないです。妄想百曼陀羅のまんまにかすっともかすらない、妄想とは個人の独創などないです、妄想=世の中です。わずかに自分失せる、無為の閑道人です。死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。ゆいけんけんじゃくただ憎愛無ければ洞然として明白なり、内も外もなく坐って下さい、観察する自分なくされる自分なく。



2010年01月29日 10:54 せっちゃん ・達磨廓然、廓然無聖不識というこれをほんとうに知って下さい、悟ったさん困ったさんが天花乱墜して地黄金に変ずると、いかにもきらきらしい光景を云うには、わずかにインスピレーション天才風の、情感頭の中身だけの問題なんですか、これは通身消えうせて、聖人だのどうのこうのいう人間がいないんです、ものみな洞念として明白、個々別々が聖人だの神さまの契約だのいうのをまったく超える、塵芥なしの筆舌に尽くしがたし、詩人天才だろうが一指せぬ世界ですか、人ものみなのもとっからの姿です、知らぬもっとも親切、知っている分がみな嘘です、歴史宗教道徳思想哲学というまるっきりの中途半端、一枚皮を脱いできれいさっぱり宇宙風呂ですか、なんにもないとはなんにもないものがない、一人ではなかなかということがあります、なにものか持っていてとらわれていて、正師について絶対の信頼をおく、思いももうけぬ後生大事を捨てるこれ、なんにもないといっている、見ているほうの自分です、絵に描いた餅じゃないんです、坐っても坐ってもらちあかん、自分があるからです、急にいんもの事をせよと、手間隙かかるのは捨てたくないというただこの一点。



2010年01月30日 09:25 せっちゃん ・趙州投子に問ふ、大死底の人活する時如何。投子云く、夜行を許さず、明に投じて須らく到るべし。趙州和尚も六祖投子と受け継いだ法を問うんです。大死一番大活現成、てめん中へ首突っ込んでいいのわるいの云っていたのが尽きる、はじめて宇宙ものみな一切のお仲間入りです、大死底の人と自負するあれば敗壊、仏教という物差しあれば仏ではないんです。ちらともあれば自閉症、おれはと知らぬまにやっているんです。投子趙州に対してまことに時機を得ています。黄檗の一掌より効いた、ついにすっからかんになったら修行です、大修行底の人如何、なんだとううっは虎の尾を踏んだ、知らないんですよまるっきり、大趙州きっての達者となった、六十歳再行脚、三つの赤ん坊だろうが我より勝れるものはこれに師事し、百歳の老翁なりとも我より劣れるものはこれを導くといって旅立つ。



2010年01月31日 14:20 せっちゃん ・趙州因みに僧問ふ、如何なるか是れ仏法の真髄、趙州答えて、真髄じゃなく皮袋だろうと云うんです、人間を一筆書きにして回転すると皮袋ができます、どうですか皮袋だけが喜怒哀楽をもっておれだかれだやるんでしょう、どこにも真髄なんてないんです、皮袋一枚剥げばなんにもないんです、これ仏。坐禅とはこれです、自分をすったもんだじゃない、すったもんだする自分が不要なんです。



2010年02月01日 09:34 せっちゃん ・痴人に夢を説くなかれ、情識の人に仏を説くとどえらいめにあったりする、これはもう避けるに如くはなく、うちではそんな大それたことをやっておらんので、どっかよそへ行ってくれという、坊主は酒飲んじゃだめだと怒られたり、mixiは友誼の場なのになんてことをってんで謝れなと。わからず屋はどうもならんですが、みんな仲良く平和にの校長先生や、仏教学者やお布施坊主もまあさ、触らぬ神に祟りなし。理科頭も相当にきつい、自分を観察することから一歩も出ない、主義主張の人、道徳家思想哲学これ痴人代表ですか、異説を唱える人最悪ですか、座禅する人も始末におえない痴人であったりする。どうですか真面目しんめんぼくとは何。思いも及ばぬことです。



2010年02月02日 09:33 せっちゃん ・他はなんにも知らんです、これっこっきりと云う82になる現役の鮨職人がいた、ほんとうに最高の鮨を握るそうで、十数人の若い弟子どもが真底従いつく様子。言葉でどうしろああしろと云うのは下の下で、学校の先生じゃろくなもんは育たないですか。老師がテレビに出たことがあって、駒沢大学の教授のきらきらしい悟りとかいうのにうんざりってわけでもないが、わしは他になんにも知らんですと云った。すっきりする。でもこれっこっきりという、これがないんです。仏教というものがないんです。仏は仏を知らず。



2010年02月03日 10:04 せっちゃん ・趙州因みに僧問ふ、如何なるか是れ道。州云く、道はまがき(竹かんむりに離)の外にあり。垣根の外にあるよと云うんです、自分という囲いを取ったら道です。なんだあただのアスファルトの路面じゃないか。僧云く、我が問ふは大道なり。州云く、大道長安に通ず。すべての道は長安に通じていたんです、てめえ周知の台詞で彼の頭ぶんなぐったんです。ほこりまるけのアスファルトの道、そーかと気がつけばよし、仏とはこれもとっこなーんにもなしの大道長安です。もとまっただ中、自分という甘え根性を捨て去る、取りえのなさに徹底して下さい、かすっともかすらなくなってもなを捨てる、坐るたんびに捨てるんです、大道長安のなんたるかが手に入る、いいえ嘘じゃないんです。



2010年02月04日 10:37 せっちゃん ・無心とは心が無いんです、ないものは痛まない傷つかない金剛不壊というよりもっとまっさらなんです。心は一つ一つが一つを顧みること不可能、心が一つになるとは見えないゼロです、ゼロというものがあるんじゃないんです。これを是非得て下さい、救いとはこれです。過去に悪業を重ねてめったやたらのどうしようもない、女を孕ませて堕胎させた、占い師によると無間地獄に落ちるという、では無間地獄に落ちて下さい、見ればなーんにもない、生まれたて生まれる以前の自分があるっきりです。心を持ってこい救ってやろうという、心を捜しまわったけれどついになかった、我汝を救いえたりとは、達磨と慧可大師の会話です、四の五の云っているひまに真正面して下さい。



2010年02月05日 10:03 せっちゃん ・お釈迦さまはお生まれになったとき、七歩歩んで上下四ゆい指差して、天井天下唯我独尊と云われた、そりゃ超能力だ生まれたてが七歩歩んだというんではなしに、地獄餓鬼修羅畜生人間天上の六道輪廻を一歩抜け出でて天上天下唯我独尊です。すべての赤ん坊がこう生まれついています。人の苦しみはただこれ六道輪廻盥回しです、どうかして免れたいと思うのになんとしても出来ない、不可能事と思い込むんです、天上天下唯我独尊なんてヒットラーではないかと。いったん人の世を離れて下さい、もとまったくの天上天下唯我独尊です、しかも自分も人も傷つけんのです、ノウハウというんでしょう、ただもう脇目も振らず坐って下さい、直きに見性成仏はもって生まれたものがまるっきり損なわれずあるからです、ほんとうです、証拠して下さい



2010年02月06日 10:13 せっちゃん ・応無所住、而生其心というを聞いて正に実にこの通り行われていることを知る、六祖禅師は五百生の大善知識と、五百生生まれ変わり死に変わりして修行の末と。身心ともになし、心も体も自分の所有ではないんです、以無所得故、菩提薩た(土に垂)ボウディサットバ修菩薩行です、まるっきりただの人とはもとまるっきりないんです、ものみなのまっただなかです。わかっちゃいたってなかなかこうはならないんです、無眼耳鼻舌意、無色声香味触法と理屈は間違いないったって、なかんずく光前絶後の事、玉露宙に浮かぶとはいかない。修行というたとい極寒も安楽の法門です、まったくの無目的を楽しむ。ちらともあったら自ずからに失い去るんです。六祖禅師二僧風幡を争うのに、風も動かず幡も動かず汝が心動くなりといってけりをつけた。風に揺れる木の葉、木の葉揺れずこっちがこう揺れ動くんです。



2010年02月07日 15:57 せっちゃん ・生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、はい始めから終わりまでこれです、生死の中に仏あれば生死なし、ほとけこれ仏、ほどけば仏です、もとこれが大海の真っ只中は、とやこう選択の余地はないんです、ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、いいですか悟りというのはこれなんです、きらきらしい特別とか安楽椅子なんかないです、強いて云えば仏門を叩く以前のおのれですか、宝物もごみあくたもないんです、ものみなよしとするお為ごかしじゃないです、ニヒルの三百代言

じゃないです、ただこれ二百パーセント、よこしまにはしないんです、このとき初めて生死を離れる分ありと知って、無心です、まるっきりなんにもないんです、ただ一大事因縁と究尽すべしと、これっきりになるとき直きに得られます、片手間に仏教をしようとか、おれも悟った人と同じだからというよこしま横滑りは不可です、そんなことしたってうるさったいだけです。近似値ほど遠いんですか、自分をたぶらかして何になります。



2010年02月08日 10:32 せっちゃん ・語に響きあり、どこから来た、川をわたってきました、どこで修行した、湖南の報慈、一句云うてみろ、なんとかかんとか、師云く、汝に三十棒を許すと。情識の夢をもって云うも云わずもそりゃまったく届かないです。彼岸にわたってみて初めて仏です、語に響きありとは自分というものがまったくないんです、小鳥の声を真似てごらんなさい、ぴいといかんです、妄想うやむやです、それじゃ地球人宇宙人じゃないです、ただの巣篭り自閉症ですか、どんなにうまく言い繕ろおうとも一目瞭然はこれです。仏になったかならぬか、いまだしならば三十棒です、よろしくよく開示して下さい、座禅修行は言い草を習うためにじゃないんです、痛感してはじめて入り口ですか、無門入るも入らぬもないことを知るには、あっはっは三四十年かかるってことですか、お仲間うちの談合なぞどこにもないんです



2010年02月09日 10:08 せっちゃん ・あれは不思議な男だ、これがこのまんまだからと云ったらこのまんま坐ると老師が云った、これがこのまんま、もとこのまんまといくら云っても自分で趣向する、いじくりまわす、自ら進んで万法を証しようとするのを止めない。不思議な男は思議にあずからず、思いのほかの事実を直きに手に入れる、雪下ろしに屋根に上ったと思ったらもう下りてきて、へんだようと云うおれが雪なんだか雪がおれなんだかわからねえと、自分という垣根が外れたんです、持病があって気にしていたのを問ふと、いやありゃ付録だかんなあという、がらり変わる。こんなのもいた、野球をやっているとバットを持ってぐるぐる廻る、おれがいないおれはどこへ行ったという、ほおっと終わる姿。仏の云うことはほんとうだったといってためつすがめつするのもいる、言い草やだからどうのじゃ至らぬ世界です、これがこのとうりこのまんま、自分の入る余地なんかまったくないんです。



2010年02月10日 20:12 せっちゃん ・如是の法仏祖密に付す、汝今これを得たり、宜しく良く保護すべし、大法を得た人に伝える法宝三昧ですか、もとこのとおりある大法の真っ只中にいるのに、どういうわけかそれに気がつかない、なんとしても気がつかせてやりたい、師家も学人も四苦八苦するんです、洞山悟本大師は曹洞宗の開祖ですが、大法のありようをこうと知ってからほんとうに得るまでしばらくあった、ある人地獄を問うのに答えて、ほんとうはこうだと知ってなをかつ得られぬほどの地獄はないと云った、あるとき水上に映った影を見て悟る、影が自分になってこっちを見ているふう、形影あひ見るが如しという、自分まったく失せる、ものみなの鏡ですか、大法とはこれ法宝三昧です、舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相完具するが如しと。



2010年02月11日 21:18 せっちゃん ・心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をしてしょう(金に肖)いん(一タに員)すべし、ほどけば仏というほどけない、自縄自縛の縄をぶった切ることができない、坐れば坐るほどがんじがらめにする、臨済宗の悟りの如きもしくはそんなふうです。そうではないなにしたってろくでもないんです、さっぱり届かないんです、もうどうしようもない、お釈迦さま助けて下さいと必死に願うほどにようやく坐になるほどです、どうしようもなかった、来し方すべて身も心もお話にならぬ、申し訳ないっていうんです、まっさらになるんです、まっさらを見ているんではないんです、強いていえば首くくる縄もなし年の暮れ、坐りゃ坐るほどにてめえしょうがねえなあっていう。はい近いですよ。



2010年02月12日 17:38 せっちゃん ・諸仏の常に此中に住持たる、各々の方面に知覚を遺さず、群生の長えに此中に使用する、各々の知覚に方面露はれず、是時十方法界の土地草木しょう(状の犬のかわりに薔のくさかんむりなし)壁瓦礫皆仏事を作すを以て、其起こす所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟を顕はす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。よくよく味わって下さい、まことにこれこの通りなんです。



2010年02月13日 15:48 せっちゃん ・早く自未得度先度他の心を起こすべし、自分未だ得ずとも人を先にという、これ坊主がろくすっぽ仏教もなしに、人に習わせ説教するいい加減じゃないんです、ぎりぎりのところに人を先にという、なまなかできるこっちゃないんですが、これなくば悟れぬというんです。悟だのなんだのいう師家禅師どもの我利我利亡者です、修行者という自分さえよければ他は野となれ山となれ、こんなんじゃ人間失格です、仏飯を喫しながらもってのほかの罪悪、死んで死んで死に切ってあるいは許されるとしたって、為人のところ、まずもって自分を開示するんです、真っ先に明け渡すんです、どこか勘違いしてはいないですか。



2010年02月17日 09:01 せっちゃん ・淨法界の身元出没無し、大悲の願力古来を示現す。印可してほうっと半分肩の荷が下りる、一にようやくわしを印可してくれたからであり、一にあるいはもう一箇半分印可すれば浮世の命が終わるからです、そうしたら月山湯殿山の雪消え春はすばらしい、ミイラになってと思うけれども、今の世可能なのか。



2010年02月18日 10:44 せっちゃん ・門より入る物はこれ家珍にあらずと、臨済宗やなんか知らんけど人間禅なといううて、人をさんざんにいじくりまわす、どうにもこうにもこれ手の施しようがないです、以無所得故菩提薩た(土に垂)の根本がわからない、云えば云うほどに公案です、そうではないもとこの通りと。自分用なしです、自分以外のすべて死んだのちの世界です、公案じゃない自分死んだら後の世別段まったく変わらないそれです。公案も坐禅も悟りもないんです、ないという公案じゃないんです、ただもうたった今。



2010年02月19日 09:44 せっちゃん ・仏道を成ずるになんなんとして十劫樹を観ず、虎の欠けたるが如く、馬の夜目の如し。たしかにこれ他にはないと知りながらどうしても行ったり来たりです、百回二百回の接心にも大安心しない、なぜか。虎は人を食うと耳が欠けるという、大死一番大活現成とたんびに後遺症が残るんですか、死にきらないなにかしら、馬の夜目の如くと、次はこうなるだからそうなると余計ごとを見る。どうしたらいい、尽くしゃいいです、ついにはそうやっている自分を捨てる、仏もなく仏教もなく自分という空っけつもなく、不満も不信も糠に釘なんですか、ただもうもとっここれ、生まれ本来ただの人を知る、はい今日はこれ明日はこれです。



2010年02月20日 15:43 せっちゃん ・下劣あるをもって宝几珍御、驚異あるをもって狸奴白狐、どんなふうにな牢と現実なんです、うまく坐れようがめちゃくちゃだろうがどうもならんだろうがそれっこっきり、見なければない、自分を眺める自分がもとないんです、きらきらしい悟りとか悟境という嘘です、だれが物差しをあてがうんですか、物差しは自分そのものです、だったら円了なんです。本末転倒を止す、真正面なーんにもなし。こんな単純明瞭ないというのに、知れる人きわめて稀です、何故か。



2010年02月21日 15:59 せっちゃん ・細には無間に入り、大には方所を絶す、喫粥喫茶のおりに気が付くと手に持った茶碗の中にころっと入っている、はあっと悟る人がいます、悟ったからと開き直って却って邪魔になったり、無間に入り方所を絶すは身心なしです、坐っていて心身なしは忘我です、忘我の周辺に悟入し悟出する、よくよく看て取って下さい、何を看て取るのか、問いであり答えである毎日です、いったいおのれとは何か、問いがあるんですか、答えがあるんですか、はあてさてうっふっふ。



2010年02月22日 07:12 せっちゃん ・蚊子鉄牛を咬む、仏に出会うことなければたといどう足掻いたって一歩も行かんです。仏に出会いながら仏を見ず、蚊子鉄牛を咬むのたとえです。勝手に解釈して文芸評論ですか、フェユトン時代300年とヘルマンヘッセが云った、本来事とらしいあげつらうことの区別が付かなくなっている、常識から一歩も出ないでとやこうは、自分を改変すること不可能、仏道とは縁がないです、達磨はどうの盤桂がどうのといってお茶を濁す。一滴の血も流れぬ、仏は真っ赤な血です、生きるとは命がけです、壁立万尋です。わしが不是と云ったら不是、しょうもないのは要らんです。



2010年02月23日 09:06 せっちゃん ・愚の如く魯の如く、ただよく相続するを主中の主と名ずく、仏はいつの世でも孤立無援ですか、せっかく説いても人は聞かず、親切がかえって仇になる、常識の埒外です、思い込みの延長上ににはないです、達磨遂に江を渡り少林に到って面壁九年、慧可大師の腕を切って差し出すまで待たねばならんですか。宗門には目がなく、御開山禅師に後足で泥をかけるどうしようもなさ。忍俊という一人きりです、一人きりで存分に行けます、一箇半箇につないで下さい。滅んだら真っ暗闇です。