宝鏡三昧
第三十八祖洞山悟本大師宝鏡三昧、洞山悟本大師は我が曹洞宗の祖です。雲巌に参じて、問ふて云く、無情の説法什麼人か聞くことを得ん。巌云く、無情の説法無情聞くことを得ん。師云く、和尚聞くや否や。巌云く、我れ若し聞くことを得ば、汝即ち吾が説法を聞くことを得ず。師云く、若し恁麼ならば即ち良价和尚の説法を聞かず。巌云く、我が説法汝なほ聞かず、何況んや無情の説法をや。師ここに於て大悟す。乃ち偈を述べて雲巌に呈して曰く、也大奇、也大奇。無情の説法不思議。若し耳をもって聴かば終に得難し。眼処に声を聞きて方に知ることを得ん。巌許可す。とあります。無情の説法は慧忠国師より発す、無情の説法ってなんですか、情あれば聞くことかなわじ、情とは聞くという意識ですか、聞いているというとき、不思議すなわち思議に関わらずですか。ある人雨滴声に参ず、雨の音を聞いているうちに聞こえなくなったといって、師家のもとへすっ飛んで行く、大見性だと云われ、兄弟子に挙すと、あなたはそういうことを云っているから駄目なんですよと云う、いったい見性とはなんだ、ようもわからんと首をひねる。これを持って獲得物質とする、情のもっともたるところですか、無理からぬという、たとい情ももと大海のうち、大海大海を意識せず。我が釈迦無尼仏の声と姿と、渓声山色他にはあらず、無情の説法無情聞くことを得んとは、さあどういうことですか、あっちの岸へ行っちまうんですか、あっはっはどんな考えも直感もまったく無縁です。わしの説法も聞けんでもって無情の説法が聞けるわけはないと云われて、大悟する。也大奇ご苦労さんというより、たいしたもんだそうかというんですか。説法をするに無眼耳鼻舌身意です、声は声のみに自分というものまったく入らない、そりゃもうわずかに予想も無理です、わっはっはおもしろいんです、摩訶不思議。耳をもって聴けばついに得ず、眼処に声を聞くに、かつかつ知ることを得んと、でもこれまだお釣りが残ったんです、しばらく悶々たるものがあった、ある人地獄を問う、これがありようを知ってなをいたらずは地獄のもっともたるものと。舟に乗って水上を行く、自分の影を見てぴったりと行くんです、影形あい見るが如く、影が自分でこっちを見ているふうな不思議な。これが本来のものを以て、宝鏡三昧を見て下さい。
如是の法、仏祖密に付す。汝今これを得たり、宜しく能く保護すべし。
老師が修行中に、まさにこの二句のように悟り切った様子で宝鏡三昧を誦す小僧がいたと云った、聞いてどういうことかと想像するのに、たいてい首を傾げるばかり。さあどう思いますか、世の中自由自在悟り切ったようにお経を読む、乃至はものみな神通力みたいな人いますか。あっはっはそりゃいるんですけど、いかにも悟り切った、あるいは他の想像可能のものなら、どこかで不都合です。悟るとは本来人に立ち返ってあるんです、虚空そのものです。悟り終わって悟りなし、なんの跡形もないんです。すると初心まったくこれ、小僧だろうが凡くらだろうが、如是の法なんです、仏の大海どっぷり漬けというより、もとよりこれを免れる、食み出すこと不可能です。だったら汝今これを得たり、よろしくよく保護すべし、はいといってそれっきりです。修行も永年に渉る苦労も無用の長物、まるっきり無意味です。実はそのとおりなんです、これをほんとうに知って下さい、みなさん無駄っことに四苦八苦する、身をやつすんです。洞山大師は、その母たった一人の子を捜して、ついに捜し当てて洞山に行き、会おうとするに会わず、母恨みて死すと。洞山母の乞食して持てる米三合あり、それを取って常住の粥に和して、一衆に供養して、以て雲程を弔うとあります。雲程とはあの世の旅というがほど、その母洞山の夢に現れて、汝志を守ること堅くして、我を見ざるにより、愛執の妄情たちどころに消え、彼の善根力によりて、我れとう利天に生じたりと云う。とうはりっしんべんに刀、天国や極楽を抜きんでて生ずるんです。もと虚空初心大海のまっただなか、ですが洞山大師、他のだらしなし一般じゃないんです、ただじゃあただは得られんです、よろしくよくこれを見、かれを見て保護して下さい、学者坊主どもの悟りとは無縁です。
銀碗に雪を盛り、名月に鷺を蔵す。類して斉しからず、混ずる則んば処を知る。
これが仏教です、他の宗教、思想その他必ず異を表し、貴品を云い優劣です、銀碗に雪を盛る、ものみなのうち取捨選択なし、一微塵も余計なし、これを指し示す、名月に鷺を蔵すほどに、錯をもって錯に就くですか、仏教として論破し、たれかれの是非を云うということはないんです。なぜかって、強いていえば、良寛さんのだれのものだろうがおらあがんです、なにかことあればすべてはおのれが辺に帰る、どうにもこうにもならんです、悲しいんですか、淋しいんですか。無心また傷つかずないものは金剛不壊です。南面して北斗を見る、たとい千手観音これ、類して等しからずです。まったく同じほどの人がいない、することなすこと変わらず、会話も同じようでいて、有心と無心の違いですか、天地懸絶ですか、いいやまっただ中にあるんです。良寛さんという人は変わりもので、なんともたとえようもなしというのは、そのすること言動が比較を絶したんじゃないんです、別様など何一つしてないです、にもかかわらずまったく違う。はい良寛さんがただの人です、他の人特別なんです、子供をのみに対大古法、すなわち僧堂仲間です、一人きり欲しいままなんてこと仏教にはありえんです。平和を云々するんではない、和とは何か。
意言に在らざれば、来機亦赴く。
心意識という意という自ずからです、心としても見えないんです、だのに心があるという、きれいな心汚い心という、どうもなんかおかしいです。意を用いることは、まったく後先なしです、省みる不可能、言葉という手段を借りるんですが、だから間違っている、だから正しいという、いえそんなこっちゃないんです、この項の云わんとするところは、たとい法を説く、正師の説法だろうが、届かない時は届かないんです。如何なるか是仏と問うて、たんびに押し出され、三度びに及んで、門に足を挟まれて、骨折して気がつく、こりゃ痛いことは痛い、強烈なんですが、どこが痛いかわからない。身心失せてな-んにもない、来機また赴くとはこれです。たとい仏法を聞いてやる気を起こすというのも、そりゃまあ来機なんですが、たとえば眼蔵家で知られた、岸沢惟安などいう人は、説法も仏祖師方の事跡のまっただ中にいて、ついに法を求めず、点と線の繋ぎ合わせですか、皮袋に終始する、先入主から一歩も出ない、来機さっぱり赴かず。いったいなんでこうなるんだっていうことは、常味はされるんです、聞法しながらそっぽを向いている、これだと云えばあれになる、これっきりと云えば、またおっぱじまる、どうしようもないです。簡単だと云えば難しくする、ないと云えばあると思う、これ要するにただの人になる、あっはっは蛮勇がないんですか、なにかしらなきゃどうしても生きていられんという思い込み、おかしな話です。くたびれます、もと来機なんです、言葉不要、そんなの当たり前です。自分用なしものみな、手続きのこっちゃないんです。弟子に、これがこの通りだからこの通り坐れと云われて、その通り坐ってじきに内外なくなったのがいた、あれは不思議な男だと老師が云った、不思議なのに思議をさしはさむ、よってもって来機赴かない、七転八倒する、そりゃまったく無駄にはならんですが、二度とやらんというんで役に立つんです。
動ずればか(うかんむりに巣)臼を成し、差へば顧佇に落つ。背触倶に非なり、大火聚の如し。
これは坐禅のノウハウです、坐らない人にはまさにこう行なわれているのに見えない、坐って始めて問題になる、だから学者の説は滑稽なほど間違っています、なんのために法を説いているのか、仏を示して邪を以てする、他にひけらかしふんぞり返る、飯の種と名を売る為ですか、つまらん屑です、坐る人まずもってそんな屑かすがとっついていないか、顧みてください、純粋に法を参究し、仏を求めるとき、じきにかくの如くが見えます。動ずればか臼をなしとは、どうしたらいいこうしたらいいするんです、どっちへ向かって鉄砲を撃ったらいいか、仏果を狙う猟師ですか、右往左往して定まらぬそれ自身がか臼なんです、穴蔵を掘り臼のようにはまり込むんですか、だれしもやる、そりゃ洞山大師もか臼に填ってもってこう云ってるんです。猟師自身に問題があるのに、狙う獲物が問題だと思う、いくたびやって役立たずを知るんですか。まずはこれが獲物と狙い定めて、うまく行くようなうまく行かぬようなを行き来する、すると差えば顧佇に落ちて、これは違うだからとやる、はいやっているその余計ものの故に、うまく行かぬのです、すべてはたった今の自分がやっている、やらなければ元の木阿弥です、すなわちなんの問題もない。問題もないからいいはずなのに、ちっともよくない、でもってまた動ずればとやりだし、差えばと繰り返す。もと心の問題です、心はたった一つです、たった一つの心がその心を取り扱うことの不可能、なぜか人間はこの無理無体を繰り返す、大火聚の如しです。心に手を触れると火傷します、絶え間なし火傷してあっちっちいとか云いながら、だからこうしちゃだめとか反省会の糠に釘やってます、これをもって生活というんですか。学校教育や刑務所の間違い無惨、不良はずるさとすてばちを身につけ、獄卒は刑務所人間という出たり入ったりしか作らない、それは心のありようを知らないからです。いたずらに自他を苦しめることを即今止めて下さい、でないと中国共産党みたいに、嘘と拷問で塗り固めた生涯です、しかもおのれはいいことしいの正義という。あっはっは仏教学者もまたよう似ています、阿呆な話が傍迷惑。背触ともに非なりと、背触前にくぐまり後へにそばだつこと勿れという、それは標準が他にあるからです、自分というもとないものを認めて、それゆえに苦しみ、なんとかしようとして、姿勢はまっすぐ、心はもとこうあるべくと、仏という物差しをもって自分にあてがうんです、そうしなけりゃならんような気がしている。思い切ってそれを手放して下さい、大火聚の故に役立っているこれに触れぬ、あっはっは火を消すことばっかりしている、消えたらきちがい、消えっこない、もと標準は自分なんです。右へ行こうが左へ行こうが、もとぜんたい、そのものこっきりから外れようたって外れようがないんです、無上安楽大安心の証拠を味わって下さい、絵に描いた餅の部分はなくなる、坐になるんですよ、無自覚の覚、すなわち箇の無体験ですか。
但だ文彩に形はせば、染汚に属す。夜半正明、天暁不露。
仏教という体系とか、科学的正確とか、仏教学者の取り扱うべき、あるいは道徳家の見習うべき便宜、うしろだてなんぞないんです、仏について示す、ほんとうであれまちがいであれ染汚に属するんです、これをほんとうに知るのが仏の道ですか、不思善不思悪正与麼の時明上座の真面目と問われて、大悟する、悟る以外にこれに応える方法はないんです、近似値の却ってとんでもない間違いを知るんです。筆舌に尽くし難いという、ものみなすべて箸にも棒にもかからんでしょう、花といい月といい、花と云えば月と云えばただ損なうんです。あなたという自身さへそうです、知らぬもっとも親切、達磨の不識という、真実まさにこれ、帝契わず、人みな契はずは、思い上がりよこしまの故になんです、自分をまた他を、なにものかとせねば生きて行かれんような気がしている、仏仏を云えば殺しかねまじき猛烈です、思いもよらぬものこれ。思いの他の事実です、たとい殺されたとて、ばんたび毒を盛られたとて、示すにはもってす。夜半正明です、真っ暗闇にたった一つの光明なんです、仏以外に光明はないんです、あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜半明けにけるかも
御開山禅師のお歌にあるように、必ず夜明けは来ます。けれども不露、未だあらわれずは仏法がたった一つの頼りです。修行の一箇に於ても、世界全体に於てもそりゃまったく同じことです。四の五の云ってないでなにしろ得て下さい。
物の為に即と為る、用ひて諸苦を抜く。
たとえば四苦八苦という、生老病死苦に、怨憎会苦、求不会苦、愛別離苦、五蘊盛苦とあわせて八苦ですとさ、学者説教坊主の道具立て、だからどうだといって、これでもってお茶を濁して、だれも救おうとしない、それはおのれが救われてないからなんです。仏教悟り以下百万だらも自救不了、ではいったいなにをやっていたんだ、てめえの私服を肥やす他になんにもしなかった、仏を求めて貧乏官吏みたいなことをしないんです、彼岸にわたって下さい。ダライラマに出会った人が、話はわかりやすいんですが、それ以上にだれかれみんな自分に向けて話すように聞こえたという、そうして幸せになる、人みなにハッピ-を贈るという、これわしは出会ったことないから知らんけれども、悟るとはこういうことです、仏は無我です、自分なければ挙げて他の為にするんです、汝かれこれにあらずです、相手になってしまう、物の為に則となるとはこれです。こうすべきああすべき、だからどうのがない、じゃなんの役に立つかというと、人のありようこれと、通身もて示すんです、通身細には無間に入り、大には方処を絶するんです。お祈りミサじゃない実際です、ペテンでも詐欺でもない真実、人みな真実ものみな実際です。四苦八苦はおのれからする、がんじがらめの余計ことです、自縄自縛の縄を解く、ほどけば仏です、まずもって仏教を捨て、正義を捨て、あっはっは中国やアメリカをやめるんです、触れればほどける仏になって下さい、せっかく仏が他を縛っていたら、こりゃもうまったくさまにならんです。
有為に非ずと雖ども、是れ語無きに非ず。
一切有為の法は、夢幻泡影の如しという、有為の法とは、もと無為なんです、それを我執の故におのれのものとする。一時所有したいんでしょう、すると執着するはしから夢幻泡影なんです。でもこれ有という我執を知るのは、これをまったく離れて始めて知るんです、無眼耳舌身意を知る、おのずから執着汚臭泥んこまみれが離れる、ものみな済々として比類なき。わしはあるとき老師に、このごろはものみな清々としてなんともたとえようもなくと、云いも終わらぬうちに、それはまだ清らかにみようという心が残っていると云われた。ようやく気がついた、我未だ出家せずと。彼岸に渡るべき行を、結果浮き世のものとする、此岸に勘定するんです、学者坊主どもみなこの類です、それではほんとうの無心にならない、有為の法です、するとげっつばたあっちこっちです。わしはこりゃいかんと思って、臘八に最後通牒で臨んだ、ぶち抜いた、あたかも降りつもった雪が暖気に溶けて大屋根を流れ落ちる、ぐわ-てなもんです、清々ともなんともたとえようもなし。云うことは同じ月とすっぽんどころではない、清々だの仏教こうあるべきなというの、かすになってけし飛ぶんです。夢幻泡影まったく失せて現実です、真実というすなわちこれを知るもののいない真実です。たしかに語無きにあらずが、舌頭たたわわとして定まらず。聾唖の者が痛痒を訴えるごとく、はい今もまったくそうです。何をどう云ったからって、さっぱりまあうまく行かんですか、一年三百六十五日夢、現実であればあるほどに夢なんです、お釣りが残らないんです。わかりますかこれ、無情の説法我れ聞かばすなわち汝に説く能わず、いえもしこれを知る、一目瞭然事です。
宝鏡に臨んで、形影相覩るが如し。
そうして接心の経行に、これは歩く坐禅ですが、向かい会う相手が自分になってこう見ている体験をする、なるほど形影あい見る如くと、洞山大師水上行の真意を知ったです、影が自分になってこっちを見ている、無眼耳鼻舌身意の姿が手に入る、応無所住而生其心ですか。風動くか幔動くかといって二僧あい争う、風動かず幔も動かず汝が心動くなりといって、これにけりを付ける。木の葉が風に揺れる、木の葉動かずこっちがこう揺れ動くんです、身心脱落の実際が宝鏡三昧です。これを転識得智などいって、やれ大円鏡智だ妙観察智だのいう、遠くに見ているんです、自分お留守にして知識を振り回しても、ただもう煩瑣です、百害あって一利なし。どうしてそういうことをするかというと、有心なんです、明け渡すべきをしがみつく。正師はこれと示し、邪師はあれと示す、正師は奪い取る、邪師は付け足すんです、おまえもおれさまのようになれというんですか、一器の水が一滴余さず一器に移るという、まったくの面倒ごとです。拈華微笑、なんてつまらんことをとふっと笑うんでしょう、これを見て我に正法眼蔵涅般妙心の術あり、挙げて迦葉に付嘱すといって大法が伝わったんです。もと学ぶべきことの一つもなし、これを知る、強いていえばただ彼岸に渡っているだけなんです、パ-ラミ-タ-彼岸に渡る=智慧なんです、般若の智慧元の木阿弥、知識から智慧だなんて余計なことはせんです。
汝是れ渠に非ず、渠正に是れ汝。世の嬰児の五相完具するが如し。
自他の区別がないというと妄想の内容じゃないんです、こけちゃんがわしの写真を撮る、するとこけちゃんそっくりになって笑っていたりする、意識を通さないんです、もと嬰児赤ん坊がそうなんです。赤ん坊を抱き上げるお母さんという図がある、どっちが保護者かというと、赤ん坊のほうがそっくり受容する、お母さんという切ない不満足の、やるせなさを王様のように押し包む。自他の区別がないとは、ものみなそっくりおのれがものなんです、如来来たる如しです、未分化といううが実はそうではない、これが本当なんです。仏という地球宇宙から、あるいはそれ以前から与えられた命です、本地風光という約束されたものです。物心付くに従いろくでもないものになる、観念生活ですか、無眼耳鼻舌身意が有眼耳鼻舌身意に取って代る、便利には違いないが、大切なものを失う。失楽園ですか、知恵の木の実を食べるんですか、そうしてもって一生を通じてもとに戻りたいと思う、あるものはヒットラ-になり、あるものは大金持ちになり大権威になり殺人者になり発狂する、たといどうあったってなをかつ不満足です。未分化というんではない、どっちみちどうなろうが元の木阿弥なんです、それが証拠にはいい大人がいつだって赤ん坊を露呈する、まあまあなあなあといって酒を飲むんですか、どこかで紛らわせないと尻を割らない。芸術詩歌思想宗教という、つまりはいびつ半端です。仏教学者の近似値はわかってもいないのにふんぞりかえる、すなわちどうにもならんです。どうしたらいいか、これを悟って下さい、自分という観念生活を解脱するんです、自縄自縛の縄を解く、ほどけば仏です、仏に帰ると落着するんです、元の木阿弥しか落着しないです。世の嬰児の五相完具を、心行く知って下さい、舌頭たたわわとして定まらず、すなわちオ-ルマイティです、なんでかわかりますか。
不去不来、不起不住、婆婆和和、有句無句、終ひに物を得ず。
世の嬰児の五相完具するが如くとはこれです、赤ん坊と成人は違うというが、医学上も心意識の上も、別に差異あったっていいんです、そういうこっちゃない、ものみなこうあるのに、これを観察しないんです。省みないというより、省みるに無いんです。観念生活囘互と不囘互とあいわたりですか、それの煩瑣にどっぷりつけの故に見えない。煩瑣というのは囘互を思い不囘互を思うからです、思うときすでになく見ようたって見えない、見るものそれ自身なのに、なぜか見えなぜか思うんです、ゆえに疲れる。ノイロ-ゼ心身症は、ないものにしてやられる、幽霊に祟られるんです、実際は困惑も悩みもない、ただの現実=無なんです。赤ん坊は実にこれをそのまんま、ぱちっと指を鳴らすと全身びくっとふるえ、手を左右すると体ごと動く。不去不来、不起不住、なんにもないものの起居振る舞い、出処進退ですよ、おれがどうしてだからということがない。悟ってごらんなさい、ある年臘八に成ずるになんなんとする十名を選び、目の前に穴を掘って、もし成ぜずんば生きていたって仕方ない、穴埋めにすると云った、十人のうち九人までは行った、あとの一人がどうにも行かぬ、生き埋めにされちゃ大変だといって、逃げ出した、途中石につまずいて生爪を剥がす、忍痛の声を上げる、いっつうと叫ぶんです、痛いことは痛い、だがどこが痛いんだかわからないんです。身心消え失せて宇宙ぜんたいです、宇宙という別ものがあるんじゃない、ものみなこうある、不去不来不起不住です、何を云ったってまるっきり根拠がない、ばばわわするんです、有句無句ついに物を得ずです。ぜんたいほんもの、真実どっぷり浸けに、取捨選択の余地はないんです。常にこれ時処位です、これを知りこれを用いる、大悟徹底する以外にないです、学者知識じゃ近遠にあらず、山河の箇を隔つだけです、でたらめをいってお茶を濁す、なんのために。薄汚い話です、赤ん坊に帰るのに仏法も大権威もないです、ダライラマこれ本物なら、赤ん坊が世界、あるいは共産中国を相手にしているんです、見ても聞いてもいられん、戦うという思想もなければなんの手段もないです。
重離六交、偏正囘互、畳んで三と成り、変じ尽きて五と為る。
易です、八卦を置くという、陰陽を元として陰を点点陽を棒で表わし、この組み合わせを卦と云い、卦が八つあるから八卦、これがまた八つに変化する、八八六十四通りの場合の数があるわけです、人ものみなの活動変化を六十四通りに表わす、あっはっはどう転んだってせいぜいが六十四通りというんです。離は陽陰陽、二つ重ねて重離、この陰陽札を算木といってその一本を交という、重離は六本を使って表わすから六交、この上を畳むと悦の卦下を畳むと巽の卦とか、まあ知りたい人は易学を学んで下さい、わしはさっぱり関心がないです。でもこれ六十四通りは、ものみなのありよう、せいぜい区別すりゃこうなるっていうんです、逐一にどうのこうのいうそりゃ面倒です。易学者も一般人も面倒ごとに忙殺される、偏はかたよる、正は正面とさ、それがあいまってという、なにはなにしてどうとやら、だからというんです。でも赤ん坊はそれをいっぺんに見る、知識認識体系を通さずです、すると隙なく間断なくぴったり当る、外れっこないんです。もとこのとおり、頭脳明晰などいういらんことをせん、ものみなあるがよう。始めあり発展あり、結果ありもまた一からですか、無始無終ですよ、手に取るようにこうあるっきり、あっはっはまったくないんですか、虚の人ちらともあればかれこれを写す、間違いようがないんです。
至(くさかんむりがつく)草の味わいの如く、金剛の杵の如し。
ちそうという草は、甘い辛い酸っぱい苦い渋いという基本の五つの味を備えているという、つまり心虚の人、悟り終わった人です、つまり赤ん坊は六十四通り、いっぺんに味わい分けるというんです、なんの手続きもいらぬ、漢来たれば漢現じ、胡来たれば胡現ずという、宝鏡三味です。ただあるものを写す、ないものは写らない、あるもの不都合、あるによって自由が利かない、水は方円の器に合すという、氷はぎくしゃく、迷いあり悟りありによって、自我のフィルタ
-によってしか物を見ない、学問体系というどこまで行っても納得の行かないものに振り回される、だからどうの点と線で相手をやっつけ溜飲を下げるしかない、なんというみっともなさ、不躾です、そこを赤ん坊はオ-ルマイティです、金剛の杵とは独鈷などいう形に仏が手にするんですが、つまり最終兵器です、すなわち赤ん坊の笑いですか、今ダライラマはこれをもって、一神教なれのはて、いいことしい正義の幼稚園中国共産党のよこしまに相対しています、は-いオ-
ルマイティには違いないんですが。
正中妙挟、敲唱双び挙ぐ、宗に通じ途に通ず、挟帯挟路、錯然なる時んば吉なり。
正中妙挟は別に四智円明の仏教を用いることはない、ものみな正あり中あり妙あり挟ありなんでしょう、この四種によって、たとい八卦の目も言い当てるぐらいのこっていいです。敲は叩く唱は歌う、これを二つ加えて、人間の為すこと生活息付き全般です、太鼓を打って拍子を取るのと歌うのと同時なんです、医薬分業以前の病を癒す方法ですか、いえだれかれこうしている、こうするほかに絶妙はなく、ほんらいの効果なしです、世の嬰児の五相完具するオ-ルマイティ、ものみなをもってものみなに中るんです、常にそうしている、そうする他にない、われらがありようです。故に宗教という別誂えはないんです、銭儲けの手段もなく、詐欺や言い訳もなくこっちの神さまがいい、だから共産主義というも、てんでおかしなこってす、そんなことをしてなにかいいことがあるか、一つよければ他悪いんです。もとわれらそのもの、あなたという身心が宗教なんです、でなきゃそれは嘘です、百害あって一利なしを知って下さい、人々みなおのれについてのエッキスパ-トです、だれにひけも取らんです、しかも平和という作為なしにまったくの和合尊です、これを知るとやこうのことはないんです。挟帯挟路いろんなことがあり時に複雑怪奇に見える、おのおのの立場等ですか、たとい複雑怪奇も立場の別も、犯忤しないんです、いいわるいしない、それそのものです。分析してだからどうのという、科学の標準など第三者の観察を用いないんです、ちらとも世間一般のそれあれば、ついにめちゃくちゃです。よくよく見て取って下さい、錯然なる時んば吉なりと、ですからこれが正解しないんです、錯まちをもってあやまちに就くと云います、これを知るたとい仏教の極意ですか。時と処による、マルバツ式正解の答案なんかないんです。仏を説くに当たっておのれ仏である以外になく、説く相手も仏なんです、点と線の針金で縛り上げる、多宗教えせ仏教学者のでたらめをしないんですよ。
犯忤すべからず、天真にして妙なり、迷悟に属せず。
君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずと証道歌にあります、仏教はこのまんまでいい、ではなんにもしなくてもいいという人、真を求めず妄を除かずということが出来ますかと聞くと、まずは正直にできないと答えます。これできなければ仏にあらず、絶えずくよくよと真を求め、妄想にひっかき回されて、上を見ればきりもなし、下を見ればきりもなしまあこの辺でといって、一朝事あれば支離滅裂です。それは悟った、仏教はよくわかっているという人も、あるいはまったく同じふうです。たよりにすべき何かがある、転ばぬ先の杖に頼る、こうあるべきだからというには、ただの俗悪ですか。清濁併せ飲むだとか、凡聖同じとかいって、安楽椅子に座っているお宅も、まったくなんにもならんのです。よくよく省みて下さい、首くくる縄もなし年の暮れですか、本来ほんとうとは、得るもの持ち物なんにもないんです、ないからものみな出入り自由、なんで魚食うと云われて一休さん、わが腹東海道だ、さむらいも通れば魚屋も通るといった、吉なりです、自分というフィルタ-がないんです。天真にして妙なり、あらゆるものがあらゆるふうにあるそのまんま、神さま仏さまの足枷がない、無信仰雑念のがんじがらめがないんです。信は不信の始めなりという、無心はこれたとい信不信を容れる器です、返り点を打つと心が無いんです、さあどうあってもこれです、他なにあったって犯忤します、鋒鉾をもって破り傷つけするんです。議論し相手をやっつけするのは、虎の威を仮る狐です、ほんとうにがない、他の標準を借りて、だからどうなのいう半信半疑なんです。ぶしつけでたらめですか、それさえに気がつかないんですか、おのれに返って下さい、正解他にはなし、正解正解を知る。なにかを知っているという不正解、やくざものを返上して下さい。
因縁時節、寂然として昭著す。
時節因縁という、世間娑婆の因果必然とはそりゃちがうってことないんですが、仏教学者の俗説とはまったく関係がないんです。これ坐って坐って坐り抜いてのちにこういうことが起こる。坐禅は温室というか人生の縮図ですか、捨身施虎が同じに起こって、大死一番して生きているわけですか。因縁時節これあるを知って七転八倒するんでしょう、うまく行くはずがそうは問屋が下ろさない、狙うなったって狙わずんば得られず、どうしようこうしようというそれが邪魔して得られず、たしかにおのれは身心不満足、往来煩瑣にっちもさっちも行かず。洞山大師人に地獄を問われて、仏のありようを知りながら、これに契わぬを地獄のもっともなるものとすと答えています、まさにこれです。これが因縁時節寂然として昭著するんです、やらんばなんにもならんです、やってみて始めてです、やることなすことの尽きる時です、対峙を双眠すと心銘にあります。お釈迦さまもまったく同じでした、あらゆることを尽くす、ついに手も足も出ないんでしょう、刀折れ箭尽きて菩提樹下に坐す、取り付く島もない自分にようやく気がつくんですか、大火聚に手を付けないんです、心意識が止む、忘我です、そうして我れと有情と同時成道が起こるんです。ほかの方法も、如何なる信心神さまも無理です、ただこの寂然昭著を待つばかりです、よろしくよく見て取って下さい。因縁時節とは死ぬことです、自分という仮処分ですかよこしまの履物を脱ぐんです、自分から脱ごうとすりゃ脱げない履物、脱ごうとするそれが履物だからです。
細には無間に入り、大には方所を絶す。毫忽の差ひ律呂に応ぜず。
接心飯台に手に持ったお椀の中にころっと入っている、番たびそりゃ入っているんだけど、初体験には悟ったという感慨です、宇宙ぜんたいという驚きがあります。細には無間に入り、大には方所を絶すと、これは身心ともにない事実です、箇の無体験です。これを龍樹は仏性は大に非ず広に非ず狭に非ずと云うておる、だから仏性は大小を離れておるなど三百代言は、学者坊主どもどうにも始末がおえんです。仏は他人任せのだからどうのじゃないんです、魚屋は魚食って見てから魚を売る、坊主は死んでみてから葬式出せと、どっか坊主の寄ったくりに演説したら、ものすごい目で睨まれた。師家禅師仏を知って仏を説く、すこぶるつきの当然がさっぱりです、でたらめお布施稼業は、オウムと変わらない、創加学界の盗人まがいと同じです、恥ずかしいかぎりです、到底毫忽のたがいなんてどころじゃないです、山河の箇を隔つ。一盲群盲を率くってのは差別用語ですか、やたら世の中どうしようもないのは、仏がしっかりしないからです、心がまるっきりだめなんです、違順わずかに起これば紛然として心を失すという、ほんらいのありようをおろそかにするからです、四の五の云ったってしょうがない、手に取った茶碗の中にころっと入ってごらんなさい、ちらとも鑑みるあれば、それが邪魔して入れないです、手つかず取りつく島もなしをもって、わずかに一箇、正に律呂に応ずるんです。
今頓漸有り、宗趣を立するに縁って、宗趣分る、即ち是れ規矩なり。
頓漸ありというのは、六祖の頓と神秀の漸とあるというのは間違いです、学者ども人の尻馬に乗ってでたらめですか、なんの苦労もせず辞儀の解釈は、そういってりゃ安心立命というたわけた話です。もと頓に無生を知る、頓智というはこれたった一つ、気がつくとは神経シナップスの一脈ですか、だんだんに悟るなんてことはないんです。神秀上座が立派に修行してそのうちに開示するというのは、そりゃ仏教じゃないです、どこまで行こうが是非善悪です、そういう行ない清ますおのれを眺め暮らすんです。醜悪です、インドの聖者みたいに、標準を別に拵えて物まねのオペラ歌手です、ひいては真理を標榜するオウムです、まずもってこれの恥さらしを知る、人間以外にそんなジョ-クおままごとをするやつはいないと知って、ほんとうに省みるんです。我昔所造諸悪業、皆由無始貪嗔痴、従身口意所生、一切我今皆懺悔、自分を何物かと見做すうちは坐禅にならんのです、それはただのお行儀見習いです、よくよく承知して下さい。すると頓漸有りとはどういうことか、頓に無生を知る、大死一番することあって、それっきりの大活現成ですか、至りえ帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅と、これを知るいったん忘我です。羅漢果といって羅漢さんになる。羅漢寺というのがあってだれかれ像を刻んで納めると、寺に安置してくれるという、嘘っ八です、普通の人どう刻んだろうが妄想さんにしかならない、忘我とはいったん自我を切る、そうしてもって初めて修菩薩行です、観音さま如来に至る道です。これ正直云ってまさに漸です、悟入し悟出し、朝打三千暮打八百と、もっぱら坐るんです、そのほかにあるいはなんの道もありません、仏向上事これ。仏向上事すなわち人間の生活それ自体です、悟ったという絵に描いた餅を額に貼り付けて、だからおれはという不都合、成長点の止まった葦です。先生という知識の切り売りをする、鼻持ちならぬのは、思考停止を知恵と思い違えるからです、どうしようもこうしようもないです。日々に新たに、今日の自分はまったく昨日の自分ではない、すなわちこれ漸です。趙州六十歳再行脚、我より勝れる者は三歳の幼児といえども、これに師事し、我より劣れる者は百歳の老翁といえども、これを導きという、すなわち仏向上事、死ぬまでもなんです、これ生活。頓漸とは一箇の辺のことです。宗趣とは、宗教もとたった一つです、二つあっちゃ修行もへったくれもないです、にもかかわらず徳山の棒あり、臨済の喝あり、雲門の関あり、大趙州の説得あり、有無ありするのは、いずれこれをまったくに用いるんです。次に伝え残す方法です、命ぎりぎりですか、舟から突き落として、どうだわかったかという、わかったとやつが出たら、おのれ水に落ちて溺れ死んだという、あとつぎが出来たんです。宗趣という思想やなんぞの別じゃないです、仏教各派いう支離滅裂じゃないんです。身心の痛みを感じない学者坊主のたわごと、いいですかだから規矩といった。因みに老師会下の僧堂は、規矩なしをもって唯一の規矩とするというのだった、老師の遷化してのちも、今に至るまで「和は花よりも美し。」と続いています。
宗通じ趣極るも、真常流注、外寂に内動くは、繋げる駒、伏せる鼠。
これのありようを知って、師の指竿針槌、払拳棒喝をもってほしいままにする、ついには押しても引いてもなんにも出なくなる、かすっともかすらなくなる、しかもなおかつ自由の分がないんです。真常流注ですか、真を云うからに完全しない、どっかに漏れ出るんですか、悟りを知り、仏のありようを知る、ついにこれに拘泥するんです、悟っても悟っても皮一枚残っているような気がする、外寂に内動くんです。外界宇宙まったく納まっている、そりゃ始めっから納まっている、ものみな悟り切っている、仏を知り悟入し悟出するにしたがい、よくよく見てとれても、どこかに自分というなにかしらです。ちらともあれば内動くんです、なんでというからに更に動く、繋げる駒伏せる鼠です、どうしてか、さあよくよく省みて下さい。仏の太い綱に引っ張られないと、てめえかってじゃどうにもならん、雪担さん信じなさい仏さまをと、さんざくた云われてどうにもこうにもだった。お釈迦さまを信ずる、信不信の埒外に信ずるんです、いえこれなくばなんにもならん、至心帰依です。仏の教えです、坐禅見性じゃないんです、どうですかこれ、なんのための坐禅なんのための見性、本末転倒事していませんか。
先聖之を悲しんで、法の檀度となる。
もと仏の大海の中にありながらこれを知らず、あるいはこれを知り、求め求めつくして繋駒伏鼠する、これを悲しみ哀れんで、先聖仏祖諸仏諸菩薩ありといえどもみなまた同じです、手をさしのべるというのです。如来というビッグバンの三つぐらいポケットに入っているんですか、如来見えず隠れてあるときは、これを渇仰し咸皆懐恋慕する。衆生既に信伏し質直にして意柔軟に、一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまざれば、時に我れ及び衆僧霊鷲山を出ずと、如来寿量品偈にある如くは、人類すべてにこうあり、一箇の辺にまさにこうあるんです。この世は如来現ずるか否かということです、自分の一生とは何か、如来を見ずに七転八倒する何十年、まちがいだらけの親不孝はた迷惑ですか、ものみなないがしろにして省みず、ついに支離滅裂ですか。一箇まさにこれに気がついた時に、速やかに世法すなわち自分です、架空の思い上がりですか、よこしまを去って仏法に帰依する。帰依とはもとあるがように返るんです、帰家穏座するんです。人間の如来は人間に同ずるが如し、諸仏の常にこの中に住持たる、各々の方面に知覚を遺さず、群生のとこしなへにこの中に使用する、各々の知覚に方面露はれず、このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事をなすをもって、その起こすところの風水の利益にあずかる輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかき悟りを顕はす、是れを無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、これ発菩提心なりと。信不信の埒外に信ずるとはこういうことです。始めて真人間になります。
其の顛倒に随って、緇を以って素と為す、顛倒想滅すれば、肯心自ら許す。
顛倒夢想という、かつてはまさにこれと指示したものが、今のわしには顛倒なるものがわからない、なぜだろうかといってそれもわからない、妄想も顛倒もそういう影らいなきにしもあらず、はてなっていう感じの、あっはっはこれじゃ提唱にならん、なんとか振り返り見るによし。顛倒夢想の故に、仏を求むるのに遠くて遠いんですか。主客転倒という、妄想思想はいわば客です、主は自分であるのに軒を貸して母家を取られ、思想分別が主となって、それにひっかきまわされてさんざんな目に会う。声色の奴卑と馳走すという、やれ共産主義だ、オウムの真理だ、イエスさまだ、だからといって奔走するんですか、せいぜいが妄想思想の種類別け、こっちの神さまのほうが信じやすい、担ぎやすい時流に合っている、あるいは歴史が古いなど、人間は何かに囚われるを以て人間となすんですか。殷の神さま饕餮もインカ帝国の心臓を食う神様も、人間が生み出したものだ、エジプト四千年の宗教も今になってまったくわけもわからん、キリスト教二千年もこりゃいったいなんだといいたくなる。本末転倒事、共産党の如く、未だもって見るに耐えない現実がある。人のふりみて我が振り直せ、顛倒夢想元凶です、緇という黒い布をもって白布となす、どうですか毎日日にちそんなことの繰り返しやっていませんか。もっともこりゃ参禅のノウハウです。禅という単純元の木阿弥に参じて始めて知る。自分というこのものをなんとかしようというのでしょう、それを自分がこっちにいながら、自分というまた対象を眺め暮らしている。妄想煩瑣だよくないという、妄想煩瑣が見えっこない、妄想している自分を自分が眺める、おかしな話です。やれ静かになったうんまい具合だという、そりゃ同じこってす、一つしかない自分=心の二分裂ですか、囘互と不囘互と囘してさらにあい渡るという、なんぼあいわたったところでなんにもなし、見えないのが本当です、さあどうですか、参禅のノウハウこれですよ。いえ心の救い、人間の救いはたったのここにあるんです、仏の手を差し伸べるまさにこれ。仏はどうしたらいい、あなたはどうしたらいいんです、差し伸べる手を引っ込めりゃいいんです、元も子もないんですよ。もとあるはずのないことをやっている、だから悩み苦しむんです、顛倒妄想です。
古轍に合はんと要せば、請ふ前古を観ぜよ
どうしてもむかしのありようを見ることから始める、実際はそんな必要はないんですが、すると手前勝手よこしまです、悟ったといい野狐禅ですか、あるいは思想趣向の問題我田引水です。仏教の他にはそれでも通用するというより、なにかしらになって是非を管するんですが、なんにもない教え、なんにもないをも知らぬ教えはどうでもこうは行かんです、古轍を抜きん出て来ないとそりゃ問題にならんです、この故に本来人です。まことにもって本来人の希少なんともどうも言い様にないほどです、一人二人今の世いるかいないか、百年二百年にわたって、一人二人いたかいないかってとこですか。正師にも惑わされ邪師にも惑わされと云ったのは飯田とう(木へんに党)陰老師ですが、飯田老師のまた鑑みるには、何人もいないという感慨です。嘘とはったりでたらめばかりの世の中ですが、ましてや仏の世界はお笑い草です。白隠禅師というからにどうも江戸時代的というんですか、鍛え抜いた手だれのような、だいぶおかしいんです。今一休さんの書のレプリカを床の間に掛けています、「薫風自南来」です。そのまあ筆法もないのが、辺りを席巻する、ふわ-すげ-なあといって見る、まるでまあ黄檗のように大唐国に師家なしと云って風です、悟故十方空です。これ対になっていて、「殿閣生微涼」と続く、一休命がけでやってます、一休頓智という謎かけ問答じゃない、本来人の抜き身です、首根っこに突きつける、ようまあ生きていたもんだ、そんなにしてやっとこさ、殿閣、世間ごったくさにわずかな涼風が起こる。一休の真似して寺を追ん出され、良寛さんもまったく負けてはおらんです、一人遊びぞ我れは勝れると、独立独歩一歩も引かぬ。遠来の客をもてなすのに月を仰いで忘我、良寛さんあと云われて道ばたにぶっ倒れたり、いやはやなんともこれ。どうですか真似してみますか、古轍真似事じゃかすっともかすらんです、いえかき汚すだけです。一宗を樹立するという真人間これ、さあやってごらんなさい。
仏道を成ずるになんなんとして、十劫樹を観ず、虎の缺けたるが如く、馬の夜目の如し。
成ずるになんなんとして、どうにも行ったり来たりなんです、だれしもこれを思うんです、お釈迦さまには仏道はなかったです、すると成ずるになんなんとして、一回的すんなり行くんです。だれしもそりゃ一回的なんですが、こうすりゃこうなるノウハウですか、たれそれはこうやっただからとか、当然にのしを付けるんでか、虎は人を食い殺すと耳が缺かけるという、一人殺せば一つ裂けは、猫又大明神にお参りする猫とこれも民間伝承ですが、大死一番するたんびに、虎の缺けたる如く、すんなり終わればいいものを、また鑑がみるんです、悟っても悟ってもお釣りが来てしまう。馬の夜目は馬の足には夜目というものが付いていて、それで平らかに歩くという、暗夜に枕頭を探るが如くすれば行くものを、常注釈付きですか、ひっかっかりとっかかり終になんにもならず。これ参禅の人たいていこんなんです。苦労し過ぎるんですか、あるいは現実を肯えぬなにかしらあるんですか、そりゃ今の世そうだからって、今の世卒業すりゃいいんです。忘我しながらなおさら忘我を求める、忘我は求める限り来ない、眠ろうとすると眠れない理屈です。なんでもありのめちゃくちゃかえって親しく、標準失せればもとこれ、触れようが触れず、大火聚また空の空なるかなです、どこへ行こうがそのもの即今。大通智勝仏十劫坐道場と、便利都合のがいて、ではわしも仕方がないとやる、じゃ仕方がないでいいのか、よくないから十劫坐道場です、別段のことはない、大海中の大海なんです、鑑みることそれ自体、なんの障りもないことを知る、いえたいして手間暇かからんです、いつのまにか過ぎる、記憶にないんですよ。
下劣有るを以て、宝几珍御。驚異有るを以て、狸奴白狐。
下劣があれば宝几珍御がある、珍品宝物のことです、坐っていてもそりゃ普段常識に於てもです。坐禅は温室と云われる、坐っていて起こったことあるいは省みること、処置したことが次には実際に、現実に花開くんです、人間の真剣そのものです、逐一にゆるがせにしないんです。下らない、劣等に思えば、宝物珍品あり、驚異に思うことあれば、犬猫のようなろくでもないことがある。実はものみなに価値の優劣なんかないです、ダイアモンドは千万円するにしても、土くれは作物を育てるなど、ものみな時所位です、時に当たって人の選択に拠るということだけです。それを坐っていても、こうあればいいこれは悪いやるんでしょう、妄想煩瑣は悪い、清々すぱっとしていりゃいいとか、あるいは悟った、とんでもない境地、天才などめじゃない絶対だなど、すると平凡だつまらないという種々です。たいていだれしもそんなふうなんですが、仏道垂成十劫樹の原因はこれなんです、下劣以下あるをもって必ずどうにかしよう、でなけりゃ納まらんがあるんです。どこにどんなふうにどうあろうと是非善悪なし、そのもの即今です。これを知るみな消えるんです、下劣も驚異も、宝几珍御も狸奴白虎もなんにもなくなるんです、目を向けるともうないがこれです、真正面向く=無です。どうかここまでやって来て下さい、仏教を知る、ただこれ因果必然を知るというだけになる、ものみなのありようがまったく手に入ります、達磨の不識知らんわいです、廓然無聖です、どんなに画期的比類ないことか、人類の智慧すべてを卒業したと云い得るものなんです、仏教とはなにか、元の木阿弥です、人本来、疵なしの玉。ものみなに掌指すんです、どうかこれを得てください、始めて一箇役に立つんです。
げい(羽に升のノなし)は巧力を以て、射て百歩に中つ、箭鋒相値ふ、巧力何ぞ預らん。
げいは弓の名人で、その師匠と百歩離れて射会ったところ、ことごとくの箭が鋒とやじりが当たって落ちたという、そりゃもう信じられぬほどの巧力、手練の技ですか、ところがこの事はいつだって箭鋒あい会うんです。ただやりゃぴったり、やらいでもぴったり、そりゃものみな法の大海、仏の一挙手一投足です、当たらぬはずはないんですが、だからといって修行もなく修行を卒業するもなく、無手勝流ほれこのとおりなど云ったってなんにもならんです。なんにもならんとはそりゃ面白くもなんともないんでしょう、シャバの苦労さんざくたをもって解決といったって、幼い我がままのまんまひねくれて、知らぬはてめえばかりなりです。そうではないんです、終に尽くすところを尽くしてもって、そやつの底が抜けるんです、シャバ人の百人分ほど卒業しますか、もってなんだおれはとあるいは云うんです、虎を描いて猫にもならず、もとの鼻たれ栄造生、でもさそういう良寛さんを如何ともし難し。現代などかすみたいなもんですか、月を仰いで忘我、生きたとはこれ未来永劫です、若しや再び生まれ変わっては来ないんです。如来という雪月花、いえ人間の如来は人間に同ぜるが如し、雲行いて雲の如く空を底無し。木人方に歌い、石女起って舞う、これ人類の至宝、一兆円をもっても購い難し。いいえ嘘は云はんです、四の五の云っている浮き世の他にいつだってこういう真相が開けているんです、いったんシャバ世界を脱してみて下さい、仏の救いです、それ不可能ならそりゃこの世の意味がないんです。
木人方に歌い、石女起って舞う、情識の至るに非ず、寧ろ思慮を容れんや。
仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなりとあります、理屈ははっきりしています、仏道といって別段あるものじゃないです、人とものみなと、我れと彼と各々あるっきりです、ではおのれというこれを明きらめる、万事解決済みです。自己を習う、自分を知るとは自分を忘れることだ。なぜなら自分を知るもの自分だからです、知っている間は嘘です、自分という二分裂ですか、忘れる以外に本当を知るすべはない。お釈迦さま菩提樹下に於て明星一見の事ですか、我と有情と同時成仏。まったくの忘我であればもとより知らぬ、一念起こって知る、我というものまったくなしにものみななんです、これが仏教のすべてです。もっとも長長出させるんです。学者坊主どものはるかに知る能はず、説教だのおためごかし偉そうだののない、ただのこれ真相です。真相の中のあるいは七転八倒です。森羅万象鳥もけものももとあるようにある、人間だけがなにがどうのとやこうと、てめえに首突っ込んで歩く、異様な風体です。これを元の木阿弥に戻す、一切事に於て省みずです、省みるべき自分がないんです、木人まさに歌い石女たって舞う、始めて地球のお仲間入りです。むしろ思慮を容れんや、情識の至るにあらず、歌うとき全世界歌うんです、無音、手の舞い足の踏む所を知らず、絶学無為の閑道人ですか、妄を除かず真を求めず。これまったくただの人、なんになりたいといって、そりゃただの人になりたいんです、我と有情と手を取り合って行く、そうです、極楽浄土なんてややこしいものない、空の雲さへはるかに人為を絶するんです、なんにもいらんのです、歴史宇宙もみなこのわが一箇と等価ですか、いや必要とあれば取り替える。
臣は君に奉し、子は父に順ず、順ぜざれば孝に非ず、奉せざれば輔に非ず。
世の有り様はこれに従うがよくということです、戦争の時は戦争平和の時は平和というと、今の世猛反対を食うんですが、一億玉砕鬼畜米英なんて時もあった。長いものには巻かれろ、付和雷同舟に竿差す如くですか、そうではないんです、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、混ずる時んば所を知ると、オウム真理教は真である、わけのわからんものはポアしろやらないんです。キリスト教のいう世間事は世間に任せというのもまた違います、神の子としてこうあるべきだからというんじゃないんです、十字街頭はまるっきり無防備のすっぱだかです。信心あるいは信不信の拠所がないんです、だからこうだおまえは悪い善いという代わりに因果歴然です、取り付く島もなしなんです。これをよく見て下さい、仏教学者説教坊主のいう、仏教は臣は君に奉し、子は父に順ずをもって根幹とする、これこそ真なりなんてたわけたことは云ってないんです、そりゃ有心です、必ずどっかでポアします。順ぜざれば孝に非ず、奉せざれば輔に非ずと、当然の帰結ですか、これあればかれありと云っただけです。もっとも出入り自由です、あるとき是と云いあるとき不是といい、無心にしてまったく疵つかず。仏本来のありよう、たとい四十六枚の歯のうちの舌のようですか、時に舌を噛んでぎいっということあったって、世間哲学歴史などいう、または詩歌芸術という人類財産、あるいは人類そのものと、てんから捉われのない付き合いです、命さえも時によりなげうつんです、そうしてもって未来永劫仏だけがあります。水に映る影の如くですか、いいえ実際如実なんです、宝鏡三枚これ、現実であればあるほどに、一年三百六十五日夢です。
潜行密用は、愚の如く魯の如し、只能く相続するを、主中の主と名ずく。
今の宗門は御開山禅師に後足で泥を掛けるが如く、達磨さんに毒を盛る如く、いやただもう仏教のぶの字もなく、お寺に生まれたから説教で、紙ぺら一枚をもって滴滴相続底の血脈とし、知ったか振りの仏説をただもう自堕落のおのれを弁護に用い、葬式稼業銭金だけの、いいかげん病理学上の対象になるような、坊主百万だらごんずい固まりです。こりゃもうどうしようもない、求道心のない坊主なぞまったくのナンセンスです。この中にあって出家修行はそりゃもうなんたって潜行密用です、悪罵の毒を歓喜しとあるように、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶをもっぱらにす。では娑婆世界に大法をもってと、娑婆世間坊主よりも仏に疎く、四面楚歌ですか。愚の如く魯の如くする以外そりゃまったく方法がないです。臨済宗に法を得て、悟ったの免許皆伝などいう、僧籍も在家の幾人も、どうもこれ本当、本来人とは程遠いものがあります。却って仏の邪魔なること、なまなかではないです。悟りという公案という、転ばぬ先の杖ですか、仏教何段というがごとく、おのれ安楽椅子に坐って、他にひけらかす以外になんにもない、こんなものども初心よりよっぽど遠いです。曹洞宗は威儀即仏法などいって、無心にはあらず、おのれ何物かと見做すに於ては、きんぴか衣装を来た猿芝居です、人間のくずだ。そうかと思えば、ヤフ-だの2チャンネルだのいう、若い連中は仏教と白昼夢をごっちゃにする、思想にもならぬ思想をふりまわし、おむつを替えて貰いながら文句百万だらの、いつまでたっても新成人ですか、ふわ
-あもう止めた、こりゃ切りもない話。相撲と同じように日本人は滅んだんですか、昭和天皇に殉死すりゃよかったと、つくずく思う昨今、あっはっはさあどうすりゃいいかといって、そんな連中のことはどうでもいいです。ただよく相続するを主中の主と名ずくとは、もっともこれおのれ知るんです、端に為にす、たとい地球滅んだとて、他に為すことはないです。たった一人だろうが、自然とはこれお釈迦さまです、道元禅師がついています、なんにも淋しい辛いことないです。笑いあり歓喜ありは仏の喜怒哀楽です、うっふっふ全世界宇宙のっとって下さい、さあさ無常楽を知る一人二人。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。