法要・回向

法要


法要とは法の要です、大法そのものとは仏丸出しです、田んぼの蛙より悪いと道元禅師の云われた坊主お経のだみ声じゃないです。蛙の鳴くように鳴いてみろ、うぐいすのほうほけきょと云ってみろというのが、因みにわしらの弟子に与える課題です、趙州無字の公案ですか。威儀即仏法という、らしくの物真似じゃない、無理やりしんこ細工の猿芝居じゃないんです、本山修行が人格破壊の半端物しか生まないのはまったく情けないことです、仏教のブの字もない空威張りはったりのいじめ僧道ですか、つまらんことです。役者にゃまねのできないことがたった一つあります、自分を省みないんです、省みる自分がない、無心です。箇の無縫塔という、法要とはこれをもってする、端に為にするんです、究極のセレモニーという葬儀屋は有心です、死んだ人間に届くわけはない、すなわち嘘です。バッハもモーツアルトも嘘ですと云い切れる法要です、仏法僧の僧にしかできないことです。


普回向


願はくはこの功徳を以って普く一切に及ぼし我らと衆生と皆ともに成仏せんことを

お経を読む功徳はたとい何をしようと同じです、ほーほけきょと鳴くうぐいすはたとい子孫繁栄のためにするといったってほーほけきょです、端に為にするんです、なにより証拠にほーほけきょと聞く我れらが喜ぶ、なんで喜ぶか、天地雲水に聞いてごらんなさい、ただこれ是というんです。ものみなあまねく一切に及ぶんです、これを知る、願はくはなんです、願いとは結果を知らないんです、たといお経も行きて帰らぬ無心です、功徳を礼拝敬忝すべしという、省みる穢れを知らないんです、すなわち人みなものみなの目的は成仏です、妄想めっちゃくちゃもたぬきもみみずも即今成仏です、たった一人成仏すれば世界宇宙成仏です、これを知るが普回向です、回向とは人みな回向です、妄想世迷いごとあるなしにかかわらず、植えた虎に身を投げ出すいわれ。


本尊上供


上来摩訶般若波羅蜜多心経を諷じゅ(踊の足を言)する功徳は、大恩教主本師釈迦牟尼仏、高祖承陽大師、太祖常済大師に供養し奉り、無上仏果菩提を荘厳す。伏して願くは四恩総て報じ、三有斉しく資け法界の有情と同じく種智を円にせんことを。

本尊さまに供える、お粥にお茶に密湯をですか、いいえあなたそのものを供えるんです、飢えた虎ですよとって食われてしまって下さい、仏道をならうというは、自己を習うなり、自己を習うというは、自己を忘れるなり、もともと自分というものには用無しです、自分という架空をもてあそんでも、もてあそぶという余計ものがあるだけなんです、いいことしい哲学宗教あるいは道徳の類ではないんです、そういうものにたずさわるのを恥と知る心が必要です、なんでおれは六道輪廻を免れえないんだという痛恨の反省です、これなくば仏教とは云えんです、悟ったの大法を得たのいうよこしまものとは違うんです、即今お釈迦さまです、謂ゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり釈迦無尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏共に仏と成る時は必ず釈迦尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏といふは、誰といふぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。すなわちこれ本尊上供です、無上仏果菩提を荘厳する以外にまったくなんにもないことを知る、仏弟子えす、邪道外道その他大勢じゃないんです。四恩とは父母国王衆生三宝の恩ですとさ、すべての恩個々別々の恩より深くも浅くもなく報ずるには二ールバーナです、彼岸に渉る道摩訶般若波羅蜜多ぱーらみーたーしかないんです。三有という、欲有色有無色有ですとさ、あらゆる一切をもって四智円明の月冴ゆる、無覚の覚です、日々是好日です、七転八倒です、生活とは仏そのものなんです。


正忌回向


浄極まり光通達し、寂照にして虚空を含む。却来して世間を観ずれば、猶ほ夢中の事の如し。仰ぎ翼くは三宝、俯して照鑑を垂れたまえ、家門今月今日伏して~の辰に値ふ、虔んで香華灯燭を備へ、経呪を諷じゅ(踊の言べん)す、集むる所の功徳は、覚霊を資助し、封地を荘厳す。伏して願くは、生死の流れに処して、り(馬に麗)樹独り滄海に耀き、涅槃の岸に跪して、桂綸孤り碧天に朗らかに、普ねく世間を導いて、同じく覚路に登らんことを。

一周忌三回忌という年忌の回向です、世間因縁のためのお参りですか、それとも心の届く手向けですか、生き残ったものはこれしか出来ないという祈りですか、なくなった人に出会うのですか、虚空そのものですか、虚空とは何か。浄極まり光通達すると、有心から無心に変わるんです、坐っても坐っても手放すことができない、よくなった悪くなった悟ったどうだと云って、見る自分と見られる自分の二分裂ですか、単純を示す禅にならない、積み木崩しの賽の河原をやっているんです。浄極まりという絶対です、自分を見ないんです、するとなーんにもない、光通達するという、心が無いんです。これを死ぬるとまったく同じですか、生きながら死ぬるんです。仏道です。死んで死んで死にきって思いのままにする業ぞよき、死んだものは生き返らないんですよ、到りえ帰り来たってとふんぞり返らない、でなくば思いのままにはならないんです。却来して世間を観ずれば、猶ほ夢中の事の如しの実感です、難波のことは夢のまた夢、ぱーらみーたー彼岸に渡り切るんです、これなくば仏教とは云えず、法事も葬式もあるはずがないことを知って下さい。年忌の本人とまったく同じです、するとお経がお経になります、葬儀屋のいう究極のセレモニーなどいう嘘とゼニカネの穢れじゃないんです。伏して願うんです、生死の流れに処して、馬麗樹独り滄海に輝きと、生死海中の一宝樹として我を観ずるんです、六道輪廻を免れ出る願いそのものです、桂綸ひとり碧天に朗らかにと、若しいまだしならばかつてこんなに悲しいことはないんです、悲しみ極まれば朗らかにです、すると今生契はずんば次の世必ずということがある、年忌回向とはまさに普ねく世間を導き導かれて、同じく覚路に登らんことをと以て示すんです


総回向


菩薩清涼の月は、畢竟空に遊ぶ、衆生心水浄ければ、菩提の影中に現ず。~翼(こいねが)ふ所は、こう(口広)劫の無明は、当下に消滅し、真空の妙智、即ち現前することを得、頓に無生を了じて、速かに仏果を証せんことを。

自分という架空のものを眺め暮らす坐禅を止めるんです、真空の妙智とは絵に描いた餅じゃないんです、なんにもなくなったなんぼでも坐れるという、そういう安楽椅子じゃない、担いで帰れといわれる所以です、それをもって悟った人にゃわからんだろうがおれはという、醜悪です、それがわからんという大恥さらしです。世の中すさんで信心失せる、仏教もお寺もないがしろににされる云々は、そう云っている坊主が仏教のぶも知らんからです、畢竟空に遊ぶをもって、衆生の心水を呼ぶんです、空に遊ぶとは遊んでいる覚えがないんです、自覚がないことをもって正等覚です、それゆえに自信もなく思い上がる寸分もあれば崩壊です、行けば行くほどに取りえなし、どうしようもこうしようもないその日暮らしですか、明日食うものもないんですか、みっともなくだらしなし。こう劫の無明が当に消滅することを知らんのです、無明妄想めったやたらの中にあって自覚症状がないんです。頓に無生を了じてより久しくして、妄を除かず真を求めず、絶学無為の閑道人ですか、能無し用なしもって取り付く島もなし。