修証義

修証義


これは道元禅師正法眼蔵の抜粋です

生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但だ生死即ち涅槃と心得て、生死としていとふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。

これ参禅のすべてです、臨済宗印可底であり仕上がったという人、かえって生死をあきらめず、俗物と同じ右往左往は実にみっともないです。大死一番大活現成は絵に描いた餅じゃないです。公案を解こうが無字や隻手妙音もいっそなんにも役に立たない。すべからく初心に帰ってもういっぺんおのれはいかにということです。生死はものみなすべて生死です、もてあそばれていないんです、生死の波間に生死となって揺られもまれする、かえってこれ生死を知らず、無計画であり理由因縁を見ず、まるっきりその日暮らしですか、舌頭たたわわとして定まらず、ついにものを得ず。よく物真似を脱して下さい。生死の中に涅槃あればといって、静かな平穏無事を習うもってのほかの罰当たりです、まずもってそういう自分を失い去る、破家散宅からです。生死としていとうべきもなくとは、虚空という飢えた虎に身心を投げ与えるほかにはなく、通身激痛も七転八倒も其の中に身をさらして下さい。自分なければ痛くも痒くもなんにもないとはこれが激痛苦難が指標であり標準です。てめえを糊塗してらしくの猿芝居は、葬式坊主の唾棄すべきおよそ人間の格好をしないものを作る、先生という嘘八百の思考停止じゃないんです、ただ一大事因縁とたとい棺桶に入るまでも究尽して下さい。動静の坐禅という、ただもう坐るしかないんです、常住坐臥という、自分のなりふりを観察しないんです、来し方行く末もないです、ただもう真正面まっしぐら、てめえの頭なでなで○をつけるなど、赤ん坊はしないんです、大人という破れ腐れ衣脱ぎ捨てて下さいはい皮衣一枚剥げばなーんにもなし、かつがつあーんにもなしが存在理由です、夢にだも見ぬものです。

人身得ること難し、仏法値ふこと希れなり、今我等宿善の助くるに依りてすでに受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇ひ難き仏法に値ひ奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし。

人間に生まれることをさして有難いとも思わず、かえって厭うほどの世間ですか、でも人間に生まれることこの上もない幸せです、生まれ変わり死に変わりしてまた人間の生を受けるか、はなはだ覚束ないです。仏法に出会うことはその上の難事です、人間に生まれた目的は仏になることです、そのほかにはない、仏になって全世界を救うんです、一箇仏になれば一箇全世界、地球宇宙が掌する、はいまったく蘇るんです、大死一番大活現成これ、成仏これ、無数の人間の中のたった一人という、いえ一人また二人成仏する以外に全世界を救う方法はないんです。世界平和を叫んだってかえって戦争の種です、歴史が証明するところです。虚しく騒がしいだけです、はいあなた仏になって下さい。地球宇宙が迎え入れてくれます、ようやく人生であることを知る。あいがたき仏法、浜砂の一握の中の一粒にも及かぬこと、全世界見回したって仏教を云い仏を云うお騒がせ困ったさんだけです、仏は皆無です。まさに仏にあう我らを願うべし、まっしぐらに精進して下さい、必ず得て下さいそのほかになんにもないんです、まっぱじめっからこれ。

最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私に非ず、命は光陰に移されて暫らくも停め難し。

せっかく身心を得るとはたったおのれ一箇です、観念に踊らされ世界平和の宗教のやれなんとやらの、頭の中身ばっかりの右往左往は、みっともないというより百害あって一利なしです。うぐいすのようにホーホケキョと鳴いてごらんなさい、烏のかあでもいいです、我を忘れてまるっきり省みるなしの時、世界平和のなんたるかが始めて手に入ります。自分を救い人を救いうるとは何か、そうか人類以外のすべてが救うも救われるもなく生きていたんだなと気がつく。わずかに自分が成仏すればすべてが仏なんです。ただこれ実地を踏むこと。仏足石の上に立って如来であることを真実にして下さい。無常の風に任せるには身すでに私にあらず、命は光陰です、光陰は光陰を味わうことなし、瑠璃の辺に玉を転がす如くですか、悟ったといって一瞬停まればすでに逆らう、光陰虚しく過ごすこと勿れです。ましてやてめえ思い込みの醜悪をもって他をあげつらうこと下の下です。仮想敵国じゃない、仏の王国です、北朝鮮になるんじゃないです、自分は北朝鮮じゃないと云い切れる人、はたして一人二人いるか。

紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするにしょう(足に従)跡なし、熟つら観ずる所に往事の再び逢ふべからざる多し。無常忽ち到るときは国王大臣親じつ(目に巨のコを若)従僕妻子珍宝たすくるなし、唯一人黄泉に赴くのみなり、己れに随ひ行くは只是れ善悪業等のみなり。

過ぎ去ったことはもはやまったくない、これを知るは本来救いです、過去を引きずり自分という性格習癖、よっておこるさまざまこんぐらかりコングロマリットをもって我とする、夢のまた夢です、なんにもないんです。強いて云えばおのれ如来の生まれ変わりです、如来来たる如し、母親の胎内から出て浮世この世のお仕着せを着る、十年何十年腐れおんぼろけ悪臭紛々ですか、ではそのお仕着せ皮袋を脱ぎ捨てりゃいいです、身心虚空そのものになり切って、破家散宅破れほうけの自由自在です、手の舞い足の踏む所を知らず、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありです。国王大臣親じつ従僕妻子珍宝架空のものです、難波のことは夢のまた夢、善悪業等という縄にも縛られない真実底です、不思善不思悪正よものとき、なこかこれ明上座が真底、はい命がけに参じて下さい、直きに得たり茹で蟹の七足八足するが如くと、我という思い込みがんじがらめが去るんです、変だなあってんでどうもこうもならんぐらいに。

今の世に因果を知らず業報を明きらめず、三世を知らず、善悪を弁まへざる邪見の党侶には群すべからず、大凡因果の道理歴然として私なし。

仏教を知るとは因果を知るということです、そのほかにまったくなし、仏教らしいことなに一つないんです、ここをたいていの人釈然としないんです、必ず何かあるという、あるらしいことを云って、云く無でさえ有にこじつける、これは本当を知らないから予想して慮る、つまり自分が有心なんです、まるっきり思いも及ばないんです、ではまるっきり思いも及ばないものこれ。自分とは何か、取り付く島もなし。たとい因果必然だけがあるんです、因果応報を推量するんじゃない、そのまっただなかにあるんです、あるいは業火の燃えるが如くです。これを免れようとて、宗教だの神さまだの、あっはっは仏さまだのする、かえって間違う傷を深くするだけです、エスさまに頼っていりゃあとて虎の威を仮る狐ですか、なんにもないところ、因果必然に不惜身命ということを知らない、卑怯です。ましてや共産主義だの哲学思想だのいう、現実にそっぽを向いていいことのあろうはずがないんです、世界平和のために、自殺者や悩んでいる人に助けをという、お題目を唱えりゃ救えるんですか、実際にできることをする、空理空論ではない、ではちらとも証拠して下さい、自分に何ができるか、できるかぎりを尽くして、自分自身の生死を問え、とうてい許されぬ、断じて不可というなら、生きながら死ぬ方法がかつかつ残されています、ある人地獄を問う、予答えて云く、身に咎あるを地獄という。ある人極楽を問う、予答えて云く、身に咎なきを極楽という。あるひと仏を問う、予答えて云く、身心なきを仏という、身心なければ死人と同じではないかと云われて、しかり死人と同じ、これわが宗旨なりと。

造悪の者は堕ち、修善の者はのぼる、毫りもたがはざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。

因果必然によって生きる、そりゃ当然のことです、これあればかれありという、因果をひもとくんではなしに、当然の結果です、これを無視したらめちゃくちゃです、今の世大小となくめちゃくちゃですか、我田引水てまえかっての、赤信号みんなで渡れば怖くないふうの、根腐れ病が嵩じて、たいていこりゃ坊主がまっさきですか、ごんずいかたまりに固まって、お釈迦さまも道元禅師もないです、ついには滅びるよりない。造悪の者とは閉ざされた系です、ひとりよがりせんずりまんずりに世界ですか、修善とは、おのれをさしおいても他が為にという心です。人間の命は地球よりも重いと云い出してから世の中悪たればっかり、命を鴻毛の軽きに置けと云ったむかしは、なつかしく純正な人々が多かった。因果忘じて虚しからんが如きはと、おむつを取り替えて貰いながら文句百万だらの新成人ですか、いえ大人から老人までおおよそそんなふうです。国が滅んだらどんなに惨めか、少なくとも国を守るためには多少の犠牲を払う心がけです。はい仏道とは仏教とはそういう人が習うんです、民主主義履き違え、自分という曖昧どうしようもならんのは、そりゃなにやらしてもどうしようもならんです。マスコミもあるいは現代の旗手という連中も、ただもう醜悪みっともないかぎりですか、戦争に負けて100年、すでに折り返し点を過ぎています。

善悪の報に三時あり、一つには順現報受、二つには順次生受、三つには順後次受これを三時といふ。仏祖の道を修習するには、其の最初よりこの三時の業報の理を効ひ験らむるなり。しかあらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但だ邪見に堕つるのみに非ず、悪童に堕ちて長時の苦を受く。

これをよくよく見て取って下さい、仏教仏道として他にあるものではなく、まったくに自分の取りえなしです、自分用なしの時に初めて、善悪の報に三時ありと知るんです、色即是空自分よこしまの色眼鏡を外して下さい、物理法則よりも確かに一刀両断です、取り付くしまもなくただこれ善悪の報なんです。いいですか、栂野の明恵上人は紅葉の上に坐す姿が描かれていますが、耳がない。天竺へ行こうとして果たされず、罰だといって自分の耳を切った。今の人これをむちゃくちゃと云うか、でたらめというか、しかし因果を知る人明恵上人です、現代のだれかれ曖昧能書きばかりで、却って因果のいろはも知らないんです、痛烈に省して下さい。もしこれなくば邪見です、我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。とただこれあり参禅です、他になにかあると思うだに不可、公案百則たとい一千透過したとて、自救不了はどこかにてめえ頭なでなでする甘えです、因果必然ちらろもあれば流血、吸毛剣は触れりゃ切れるいえもとぶった切られています。邪師は付け足す、自分というつけたしこれ長時の苦を受けるのみです。

当に知るべし今生の我が身二つなし三つなし、徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん惜しからざらめや。悪を造りながら悪に非ずと思ひ、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。

仏道を求めるとは実にまさにこういうことです、今生の我が身二つなし三つなしとは、人みな痛切に知るものです、怪我すりゃ痛い病気は苦しい、身心をよこしまにするとは痛苦であり、他人をもまた風景自然をも巻き込んで不幸です。思想は主義主張宗教思い込みによらぬ仏教だけが、もとよりこれを免れる、生まれ本来生まれる以前、死んだ後もこれをまぬがれる、不染汚の法です、濁りに染まぬ露の玉のたとえのように万象をそのまんまです、ころころと転々するんですかたとい蓮の葉っぱの辺です。無心無身ないものは混合不壊です、傷つかず損なわれない、これを知ること即ち救いです、不生不滅不垢不浄不増不減、善悪業等のあるいはそのまんまに花開き、宇宙を空じ山川草木を掌する、かつてこのとうりあり、今もまさに如来としてこうある、無覚の覚です、たった今これを知るいつだってたった今です、邪思惟も悪業報もこれ取り付く島もないんです。いわんや感得をやと、仏はすなわち仏。

第二章 懺悔滅罪
仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生をしょう(言に登)入せしめんが為めなり、人天誰れか入らざらん。

懺悔とは参禅です、言葉じりをもって是非善悪を問うのは、物差しをあてがっている自分そのものには届かないんです、徒に複雑怪奇になること、キリスト教の牧師みたいです、妄想をかきまわす糞かき箆ですか、妄想そのものの醜悪ですか。そうではないんです、広大の慈門というのは妄想主義主張あるいは宗派の別によらないんです、たといだれ何云ったろうが、母親が我が子をかき抱くようにする、生きとし生けるものいや生物無生物の別なく、広大無辺の慈しみです、愛というもとよこしまにするなし、たとい捨身施虎の如く、虚空に食い尽くされてなんにも残らない、なんにもない時になんにもないという自分がない、すると現成するんです、我と有情と同時成道です、一切衆生を証入せしむるほかに事してないんです、自ずからに為るというほどの意識もないんです、端に為にすという、ただ此れ取り付く島もなし、法を引っ担いで何をどうこうする手続きがいらんのです、触れるものみなとともにある、即ち自明の結果です、中途半端なんてものはない、たといなにあろうと元これっこっきり、糠に釘です、広大慈門まるっきり手つかず、人天誰れか入らざらん、はーいもとその中にあります。

彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり、然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし。

順現報受順次生受順後次受の三時ですか、あの時どうしたこのときどうしたというよりも、痛切に感ずる、刃もて切るほどにです、すると懺悔ということがある、等閑にしない、できないんです。がきのころかごに支えして籾を撒く、雀が中に入るとばったんてやつです。逃れた雀は二度とひっかからぬ。人は反省会だの、生徒に反省文を書かせなどする、たいてい同じことを繰り返す、なぜか、痛棒を食らってもワンパターンです、監獄教育は監獄人間を育てる如く。懺悔ができていないんです。恥は鉄鋼より強いとある、命をもってする懺悔です、坐るよりないんです。坐ってまっさらになる、なんにもなくなるときに免れ出るんです、なんにもない自分を見ているんじゃ、なんの懺悔にもなっていない、担いで帰れと云われる所以です。しかあれば誠心を専らにしてと、即ち坐禅が坐禅になるのはこれが真正面です、わき見運転不可、注意一生怪我一秒です、たといわき見運転も死ねば同じですか、真正面の底をぶち抜いて下さい、前仏に懺悔とはもと仏であった自分に出会うんです、仏に報告すなわち懺悔、仏以外に懺悔しうる所なし、歴史という嘘八百、同じことの繰り返しはとうとう地球ごと監獄教育です、解き放って下さい、一箇半箇専らにするこれが勤めです。

いんもするとき前仏懺悔の功徳力我をすくひて清浄ならしむ、此功徳能く無げ(石に疑)の浄信精進を生長せしむるなり。浄信一現するとき、自他同じく転ぜらるるなり、其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。

自分という形骸よこしまなしに坐るんです、坐禅はもしほかに何かあればうまく行かない、ちらともあれば身心のしこり、障りになります、なんにもないをもって標準にして下さい、標準という物差しをあてがうことは、なんにもないとは違います、しゃちほこばって枯渇です。前仏懺悔の功徳力です、父母未生前のおのれに参じて下さい、来し方行く末用なしです、染汚せずとは露の玉の如くですか、いいえなんにもないものは、壊れず汚れず傷つかず金剛不壊です。自分という無始劫来貪じん痴を今皆懺悔とは、雲散霧消するんです、難波のことは夢のまた夢、なんのだれがしは終わるんです、我というもの失せて如来が現ずる、来たる如しです、省みるに我なく省みる我なしです、ただこうあるとき浄信一現するんです、転ぜられるとは、たとい風景が自分でこっちをこう見ている、情非情まるっきり手つかずにあるさま、不思議な実際に意識さえ失せることがあります、すると実際とは何かということが手に入ります。その利益あまねく情非情にこうぶらしむ、仏のありようかくの如し、乃至は千変万化、仏の功徳界は讃揚し尽くし難し。

其大旨は願くは我れ設ひ過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏書祖我れをあはれみて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん哀れみを我れに分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。

大旨われらがありようこれ、過去の悪業無始劫来ですか、自分覚えのあるいは忘れ去っているさまざま、思い出すだに悪業ばかりです、わがままひとりよがり、思想の酒に酔いあるいはなをざり不真面目です、仏をかき汚し仏に返ろうとする心の障りにんる、たとい出家するだに自分で自分が許されぬ、しがらみのうちのしがらみですか、育ちまっすぐな人が早く解脱する、自分を捨て他人のためにという人が早い、まっすぐなんです、点取り虫がりがり亡者はひん曲がっている、坐相からしてそうです。もとまっすぐ真正面であったものを、まずもって元に復す、仏はほどけ、ほどきはなってやればよい、こうであってはならぬだからというのはもう一つ縛るんです、それよりも痛切に思い当たって涙するがいいですか。仏の掌がそっくり辺に乗せる。無尽法界に充満弥綸せらん哀れみとは、もとこの中におぎゃあと生まれたんです、それを損ない狭め傷だらけに歪む、心無心にして濁りの染まぬ露の玉を、身をもってまずは知って下さい、あるいは号泣に値する、仏は常に不変の仏、だれでもないあなたです。仏祖の往昔はわれらなり、われらが当来は仏祖ならん、はいこれが参禅の大旨です、他にはないんです。

我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん痴、従身口之所生、一切我今皆懺悔、是くの如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をしてしょう(金に肖)いん(タに員)せしむるなり。

我昔所諸悪業、皆由無始貪じん痴と、坐禅の俎板の上に載せて、とことん尽くして下さい、真正面に向かいあうと無い、逐一に結果を見て下さい。懺悔という人に白状したって、悔い改めたってそんなものは半分にもならんです、ちらとも残ればまた化けて出ます、だめなら死ねとほどに向かい会うんです、しかも結果を得ない、なんというどうしようもないやつ、おれはさっぱりお話にならんというときに、挙げて仏の家に入れあげて下さい、飢えた虎に食わせて下さい、自分用なしです、発露白仏です、これなくば坐禅にならんのです、坐禅参禅という言い訳申し訳、ひいては坐禅何段というようにひけらかす、もってのほかの罰当たりです。心念身儀とは思いのほかの事実です、体ごともって行かれる、捨身施虎なくば悟ろうたってそりゃ無理です。罪根が消滅するのは死んだらってこと。

第三章受戒入位
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易へ身を易へても三宝を敬い奉らんことを願ふべし、西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。

仏法僧という何か別誂えを人間がこさえたものではないんです、仏あり法あり僧ありは過現未永劫にこうあって、他にはない他は色付けです、真実はただこれ、信不信あるいは言葉に因るも拠らぬも関わりなく、ものみなただこれ仏法僧なんです、これを知らずば贋金を掴まされる如く、一神教や思想主義や天理教などと同じく、でっちあげをもって同じ羽の鳥を集め、数と権力というより暴力をもって、がんじがらめの不愉快です。もとこのとおりあるものは、他なく因果必然による、一騎当千ですか、たった一人よく保護し、たった一人もいない時でさえ、まったくに滅びないんです、さあよくよく仏法僧とは何かを見て取って下さい。仏の掌を見るが如く、あなたというそのものが仏法僧です、見るになし、なんにもないんですよ。おろそかにしちゃならん、等閑にしちぃかんです。

若し薄福小徳の衆生は三宝の名字猶ほ聞き奉らざるなり、何に況や帰依し奉ることを得んや。徒らに所逼と怖れて山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、彼はその帰依に依りて衆苦を解脱すること無し。

仏法僧に出会うことなければ救いなく、この世に生まれ出た意味を知らず、帰依するという真実無為をも知らず、どうにもこうにもの付和雷同右往左往の一生です。真実不虚信ずることはたとい100%なんです、3%ほど信じては信不信をさまよい歩く複雑怪奇ですか、そうではない信じ切ると忘れる、ものみな忘れ去ることで成り立っています。生活とはこれ、すなわち自然宇宙をよこしまにしないんです。所逼を怖れるたたるとか病気になるとか、創価学会風の弱り目に祟り目を利用する、新興宗教外道の制多いというろくでもないもの、銭かねと仲間意識しかない袋小路です、宗教とはさらにまったくこれです。ただの方法を知って下さい。今たった今目を見開いて見る、これ以外に救い救われる手段はないんです。衆苦を解脱すること如何、一箇半箇正に面と向かい合う、真正面の問題しかないんです。わき見運転じゃない、注意一生怪我一秒じゃないんです、たとい転んでもただでは起きないんです、ついには衆苦を掌する観音大師これはだれと参究する、答えはまっぱじめからたった一つ。

早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。其帰依三宝とは正に浄信を専らにして或いは如来現在世にもあれ、或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す。

帰依するとは至心帰依、発露白仏です、神さまは絶対だから、いいものはいいんだから帰依するという、無理無体ではないんです、数を頼んでのお仕着せでもなく、情痴のよってくるところ、外道の制多じゃない、ただこれ疑いようがないからです、無上呪無等等呪大神呪大明呪能除一切苦真実不虚です、疑うならとことん疑って下さい、疑う自分の底をぶち破るほどに、いいですかついに自分用無死です、もとはじめっからにこうある、真実不虚の中にあって各箇かくの如し。菩提を成就するとは、各箇かくの如しがまったく解消するんです、なんにもないという本来意です、清々比類なきというんでははるかに及び難し、人々これを証拠するんです。如来現在世です、謹んでこれを受けるによく、合掌し低頭して云く、仏はこれ大師なるが故に帰依す、法は良薬成るが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依すと。これイメージングの世界じゃなんです、こうあるべきだからどうのの説明能書きじゃない、色即是空身心ともに脱落です。

仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、即ち三帰によりて得戒あるなり。

自然という山の緑も谷の声も我が釈迦牟尼仏の声と姿とという、自然があればいいという自然帰依では百歩襲いんです、自堕落を免れえないことがあります、腹ふくるるわざなり、あやしゅうこそものぐるほしけれという、たとい王朝バサラもいっぺんにしゃきっとする、三帰依です、仏の家に身を投げ入れるんです、自由気侭はないんです、お釈迦さまの手足でいいんです、たとい不惜身命です、はじめっから命なんかないんです、エスさまがいるからという虎の威を借る狐じゃないんです、独立独歩人の命です、喜怒哀楽即ち不惜身命なんです。葉隠れ武士もお国のために天皇陛下万歳もなを未だし、人に利用されているんでははなはだ心もとないです、ましてや人の命は地球より重いとなど、がんじがらめの身動きできないんです、さあ一箇とは何か、心行く参究して下さい、一生まったくにこれ悔いなしw知る。

此帰依仏法僧の功徳必ず感応道交する時成就するなり、設ひ天上人間地獄鬼畜なりと雖も感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、すでに帰依し奉るが如きは、生生世世在在処処に増長し必ず積功累徳し阿のく多羅三みゃく三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ世尊すでに証明しまします、衆生正に信受すべし。

帰依仏法僧とはあれこれ哲学歴史上の知識ではなく、たんにこれ帰依仏法僧です、蛙のかあと鳴くうぐいすのホーホケキョという、ただこれまるっきり他なし、無字の公案を用いる、用いるもなく用いる人も失せるときに始めて透過。これを悟ったといいなんとなればかくの如くと、見る人と見られる人の二分裂は百害あって一利もなし、妄想の延長をはいずりまわって、悟れ悟ったというかつてオウムの弊害はこれ、マインドコントロール辺の我田引水です。帰依三宝とはほど遠いことを知って下さい、大小無数の悟ったさん困ったさんの世の中です、どぶへはまったものはどぶへ突っ込んでおけという、自分一箇まず免れて下さい。感応道交とはいったんは忘我です、天才や直感やなどとは無縁のものです、自分ひとりよがりを免れること根本です。たとい天上人間地獄鬼畜なりともです、環境人種千差万別にはまったくよらぬこと、自分用なしをもって捨身施虎です。虎に食われりゃ痛い命を捨てるには惜しい、痛烈にこれを知って真正面です、神さまに捧げる等の安易あんちょこはないんです。そうしてこれを知る、生生世世在在処処に増長して下さい、日々脱し去り脱し去って下さい、昨日の自分はもうないんです、なんていう愚かであったという、感想といえばこれあるのみ。あのくたらさんみゃくさんぼだい無上正当菩提ですか、お釈迦さまですよ、お釈迦さまの底をぶち破って下さい、まずもってお釈迦さまに出会うにはこれ以外にないです。はーいお釈迦さまを印可したらついでにわしも印可して下さいあっはっは。

次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり。

自堕落我田引水の糠に釘ですか、さっぱり役立たぬことを知る、神さまがいないと何作っても中途半端と、ヨーロッパ人どもが嘆く、人間一人じゃなんにもできない、どうにもならんとは人間始まって以来の大問題です。自分を用なしにする、自分失せるにしたがい、摂律儀戒です、臣は君に奉し子は父に順ずという、順ぜざれば孝に非ず奉せざれば補に非ず、儀に従うべく儀に出入り自由です。摂善法戒、もとよりいいことしか出来ないんですよ、よしあしの判断を他人基準によらぬところが仏観音大士です、よろしくよく保護すべし、自分なければただこれ為人のところ、それ故に僧は勝友たりうる。坊主という寺に生まれりゃ説教という、世の中こんなろくでもないものはなく、嘘とはったりで塗り固めのごんずい塊、そりゃ仏教のぶの字もないです、すでにして滅び葬儀屋の使用人になり終わる、はいそんなもんと付き合っちゃだめです。

次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不ちゅう(愉のにんべん)盗戒、第三不邪淫戒、第四不妄語戒、第五不こ(酉に古)酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀他戒、第八不けん(樫のりっしんべん)法財戒、第九不しん(目に真)い(圭に心)戒、第十不謗三宝戒なり。

得得式に、つまり坊主になるとき示される、汝よく保つや否や、よく保つと答え、もしこれ第二以下ならなんとかやれんことはない、だが第一不殺生戒は、たとい大腸菌だろうが殺せば一瞬も生きていかれん、どうしようかと思った、なにしろよく保つと云って式終わる。のちに寺を持って駒澤の学生が来た。教授に聞けば妄りに殺すなかれ、妄りに犯すなかれだという、おれはそんなことでは納得出来ない、不殺生戒などいう、守ろうたって守れぬことをお釈迦さまは示したのかという、大学四年間の疑問だといった。よく見ろとわしは云った、これは人間の取り決めじゃないんだ、もとっからこうあるんだと、そうかと云って彼の体倍にも膨れ上がる、悟ることは悟って帰って行った。いいですか誰あって仏者たるもの、正面切ってこれ十重禁戒に対決して下さい、結果出ぬなら仏落第です。必ずや得て下さい。仏遺教経にある、戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、まことにこれ安穏功徳の住処です、よくよく見て取って下さい、一神教契約宗教の山上の垂訓とはまったく別なんです、これを知る元来仏の道です。

受戒するが如きは三世の諸仏の所証なる阿のく多羅三みゃく三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん。

受戒するということはあのくたらさんみゃくさんぼだい無上正当菩提を証拠する為です、三世の諸仏のこれをもって示すところ、他にはないんです。すなわち涅槃妙心を得ることは受戒を根本とするなりと、自堕落手前勝手のお悟りなどないんです、今の人まったく間違えています、文学や直感や他にひけらかすための、あるいはお悟りという自分で自分を観察するんでしょう、そういうことの寸分もないのが仏なんです、たった一人暮らしの良寛さんは一生不離叢林です、たとい対大古法ががきどもであったとして絶対服従です、永平正法眼蔵に涙のあとを記す、ひとりよりあるいは坊主らしさだの物真似のこれは取り付く島もないです。あのくたらさんみゃくさんぼだい、なんにもないんです、なんにもないといっているものがない、誰の智人か欣求せざらんと、良寛研究など取り巻きの夢にも見ない、日々葛藤ですか破家散宅の枚挙に暇もない、不落安穏という皮面一枚剥がして、なほさらに遠く。

世尊明きらかに一切衆生の為に示すしまします、衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じゅうしおはる真に是れ諸仏の子なりと。

一切衆生はあながち人間のみにあらず、生物無生物の別なし、同じなんです、自分なければ一切他の為にすということです。坐禅をしても妄想を追い妄想のああだこうだばっかり、坐っても坐らないでも同じ、なんにもならんどうしたらいいかという、ノウハウが欲しいという、ノウハウなんかないです、ただちにそやつを抜け出す、他になんの方法もなし。さっぱり埒開かんなんとかしてくれったって、人任せにすりゃ百年河清を待つきりの、むちゃくちゃなんでもあえいをただもうぶち抜く他ないんです。数息観も隋息観も隻手妙音も無字の公案も早いようで遅いんです、手段のないほうがいいです、人間我ら元来手段なし。無字も数息観も何人かクリアーしたっていう人を見ましたが、どうもほんとうの役には立っていない、なぜか、なにしたってついには手段なし、ただの手付かずしかないはずが、たいていは本来のものにならず。即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じゅうし終わると、はい他はなーんにもないんです。

諸仏の常に此中に住持たる、各々の方面に知覚を遺さず、群生の長しなへに此中に使用する、各々の知覚に方面露れず、是時十方法界の土地草木しょう壁瓦礫皆仏事を作すを以って其起こす所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟を顕はす。是れを無為の功徳とす、是れを無作の功徳とす、是発菩提心なり。

これがまさしくこの内容です、よくよく見て取って下さいとは、物真似や見習うんじゃないんです。自分をもて運んでどうしようこうしようというんではない、あるいはこの実情各々の方面に知覚を遺さずという、知覚を残さぬとはどういうことかと、たとい誰にも指し示すことはできないんです。群生のとこしなへにこの中に使用するとは、仏という生活それ自体です、本体を説明し法はよって件の如しという、そりゃ百歩遅いんです、ただもって如実に示す、永遠に使用して下さい、これあるによって一切ものみな擲っても仏なんです、ただもうこれっきりないんです。各々の知覚に方面露はれずとは、まずもって自分こっち悟ったという皮袋一枚剥がして下さい、向こうに行っちまっている、彼岸にわたると彼岸が此岸です、面白いとはまさにこれを云うんです、ぱーらみーたー般若の智慧です。風水の利益という、風水という別格があるんじゃないんです、幽霊に形なし、利益にあずかるとは甚妙不可思議の仏化です、これゆえになんにもないというあのくたらさんみゃくさんぼだいを得るんですはい実に得て下さい。無為の功徳なり無作の功徳なり、これ発菩提心なり、できたといって安楽椅子とはまるっきり無縁です。

第四章発願利生
菩提心を発すといふは己れ未だ度らざる先に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設ひ在家にもあれ、設ひ出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありといふとも、楽にありといふとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。

発菩提心のない仏教なんかありえないんです、仏教学者娑婆の三百代言ひいては師家説教師法師に至るまで、飯の種てめえをひけらかし売らんかなのほかになく、仏仏教を食い尽くしてどぶっかすしか残らない宗門という付和雷同、これはもうどうしようもないです。ほんとうに道を求めてついには自未得度先度他です。悟り得て二ールバーナ本来本法性は私するもの微塵もないんです、それゆえ菩提を究尽するの修証なんです。どうにも残る未だしという、私しているそやつを先度と明け渡すときに、ものみな完全するのを知る。どうかこれ肝心要と知って仏を得て下さい。だれかれ仏教らしいことを云って、おれはまだ悟ってはいないがなどいうのは論外です、仏教らしいことなんてないんです、ないものをまことしやかにする、恥を知れというのが仏教入門です。いいですかてめえ我利我利亡者で人を説いたってそりゃなんにもならんです。もっとも大事において他に明け渡す、仏教以外に道はなし、同じ鳥の羽の集団しないんです、歴史の恥人類の汚点です。或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというともと、これよくよく見て取って下さい。仏とは何か、仏の教えとはなにか、みなまたついにはこれを得て下さい、一切事において解決済み=まったくの未解決ですよ、発菩提心。

其形陋しといふとも此心を発せばすでに一切衆生の導師なり、設ひ七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずること勿れ、此れ仏道極妙の法則なり。

自未得度先度他の心、自分のいちばん大切なものを捨てても他のためにという、これ仏道です、仏道極妙の法則とはなにか、よくよく見て取って下さい。もとないはずの仏法云々じゃない、無心という無い心のありようをいうおろかしさじゃないんです。法要猿芝居の導師をして人天の導師などふんぞり返る坊主が最低ですか、人のふりみて我が振りなおせ、唾棄すべき坊主から三つの子に立ち返ってごらんなさい、人生あるいは人間というものがなんというすばらしい美しいものかと思い当たる、たといいたずら手に負えぬがきでもです。ましてやお釈迦さまは触れるものみんい救う、どうしようもなくそのものそのものなんです、会うだに見るだに歓喜であり幸せこれに過ぎるなしを知る。そうです、自らを省みないからです、そういうものになって下さい、日夜励んで下さい、寸分も滞るなく。

若し菩提心を発して後六趣四生に輪転すと雖も其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設ひ空しく過ごすといふとも、今生の未だ過ぎざる際ひだに急ぎて発願すべし。

菩提心をおこすということ、今の人学者坊主もまた一般知識ももっとも遠いんですか、いたずらに知識をひけらかし、飯の種にしおれはだから偉いんだという、テレビにも出ようかという、菩提心がもっとも欠如しているんです。仏教というもとあるはずのないものをもてあそび、他の為にするんではなしに、自分の弁護に用いる、こんなのは下卑たる唾棄すべき。命は鴻毛の軽きに置けという、人間の命は地球より重いという、他人の命を軽く、自分の命を地球より重くという、そりゃ北朝鮮金正日です。たとい仏教を云々して北朝鮮をしていませんか、仏とは何か根本に問い直して下さい。たとい菩提心を発して六道輪廻に浮沈すともという、人間われら即ち六趣四生に輪転です、すべての赤ん坊が七歩歩いて天上天下唯我独尊であるはずが、なぜか輪転浮沈です、しかもなほかつ菩提心をおこせば必ずこれを得る、たとい従来の光陰は空しく過ごすというともです。

設ひ仏に成るべき功徳熟して円満すべしといふとも、尚ほ廻らして衆生の成仏得道に回向するなり、或は無量劫行ひて衆生を先に度して自らは終ひに仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益するもあり。

仏になるべき功徳熟して円満すとは、常識三百代言とはまるっきり無関係です、または無門関碧眼を卒業したという無駄骨折りです、自分というもの如何に失せるか、自我という架空を去るかということたったこれです。北野元峰禅師は只管打坐というよりは一つ二つと数えてぶち抜いたそうです、そういう人幾人あったろうが禅師はたぐい希です。人に唾を吐きかけたら拭うなと云われる、拭えば相手に悪感情を起こさせると、朝鮮赴任の折にだれか大威張りに、うっかり挨拶がおくれて、痰を吐き掛けられ、拭わずに平伏すると、かえって相手がいたたまれなくなった、実際にそういうことがあってのお言葉であった。何百という聞き手に罵詈雑言であったという、おまえらのような強欲どもはさっさと死んだがましだとほどに、みな随喜の涙を流して聞く、侍者であった老師からわしは親しく聞いた。自分という取り得ないしは取り得を計量するものなんにもなかったんです。おそらく悟ったからどうのなんてこと、爪から先も思わなかったんでしょう、悟れば悟るほどにいよいよ発露白仏です。衆生の成仏得道に回向するほかなく。最後の禅師であった。飯田とういんさんと禅師と、いいえそのあと宗門は完全に仏教にそっぽを向いてしまった。もはやこりゃどうしようもないです。禅師も飯田老師も出会えばまったく違うんです、仏とはこれ娑婆人間とはまるっきり別です。ほんとうですよ。

衆生を利益すといふは四枚の般若あり、一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事、是れ則ち薩た(土に垂)の行願なり。

布施愛語利行同事というみなまた人に日常、なりわいといい事件というそのものです、別にあるものじゃないです、そうしてこれ自分で囲うところを開く、開き与えるんです、ついに与えるもののないときに同事というんです、ボーディサットバ修菩薩行さったの行願とは、ありのままでいいわしは悟ったなどいう安楽椅子の微塵もないことを云うんです、一寸坐れば一寸の仏という、仏とはこの世に花開く、二ールバーナ涅槃寂静というには、一寸も滞るなし、想像を絶するんです、何をしただからいいんだという世界じゃないんです、徳を積むべしという、徳という意識あってはただもう醜いばかりです、日本人の男はみんなきんを抜かれ女はパン助の、占領されっぱなしから立ち直るきっかけはこれ、絵に描いた餅ではなんにもならんことを知って下さい。野球が世界一になった、豚もおだてりゃ木に登るっていうんですか、野球選手のはつらるつる面構え、活躍ぶりは人天下一のハンコを捺せばかくの如くと、まずもって見性して下さい、宇宙いっぱい大n明け渡す、見るものも見えなすこともなしうるんです、いじけきって自己反省、あいまいもこのひげ生やした中高年じゃ、そりゃまあどうもこうもならんです、死んだがよっぽどましですか。

其布施といふは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌はず、其功の実なるべきなり、然あれば則ち一句一げ(喝の口でなくにんべん)の法をも布施すべし、此生侘生の善種となる。

我が物にあらざれども布施を障えざる道理ありと、もと我が物なんてないんです、自分という身心も思い込みです、ものみな仏であるのに邪まに我が物とする、あらゆる苦しみ不都合はそれによって起こる。観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五うん皆空、度一切苦厄。と心経にあるとうり、ぱーらみーたー彼岸に渡ることをもって仏教の根幹です、邪まの我をもとへ返す。よって無上正当菩提涅槃妙心を得る。それゆえに貪るも貪らないもないんです、法を説くとはなんにもないゆえにすべてを与えるんです、法を説いたからおれは仏だ、ほんとうに仏になっていないけれども、これを知る、だからといってする、我利我利亡者です、ほんとうに成仏するとき、微塵もないちりあくたです、耳を澄ませてよう聞いて下さい、耳無うして聞けばいい、無心を説きながら有心という障りです、三つの子供にさえ明白です、此生侘生の善種となることまさにこれたった一つ。

一銭一草の財をも布施すべし、此世侘世の善根を兆す、法も財なるべし財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず、自らが力を領つなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり治生産業固より布施に非ざること無し。

浮世の産業事業もとはといえばこの通りに成り立っているんです、たとい死んで財産を残したとて、自分のものにはなんにもならんです、子孫がそれによって潤ったとて、自分にはさらに関わりがないんです。それを我が物と思いどこまでもキリスト教支配みたいな感じですか、浮世を重くし煩さったくするだけです。此世侘世の善根を兆す、法も財なるべし財も法なるべしと、ただこれこうあるっきりです、どこかに自分というよこしまあれば、たとい隠しおおせたってもとより現れるんです、舟を置き橋を渡すこと、たとい碑を建てても後の世の荷厄介、手をもたげれば宇宙おのずからに運ぶ、花をねんずれば香衣に満つる如くに、因果必然です、必ず行われて所有と非所有とこれまったく同じことを知る、人生の醍醐味です、坐っているのと同じなんですよ、わしらのような貧乏人も無一物中無尽蔵。

愛語といふは衆生を見るに先ず慈愛の心を発し顧愛の言葉w施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐ひを貯へて言葉するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐むべし、怨敵を降伏し君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面ひて愛語を聞くは面を喜bしめ、心を楽しくす、面はずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず愛語能く回天の力あることを学すべきなり。

正法眼蔵愛護を書きうつす良寛の書があります、ただこれこのとうおりです、心身脱落の季節他なくまさにこれ書き写すによく、涙もてするによく。

利行といふは貴賎の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単へに利行に催さるるなり、愚人謂はくは利侘を先とせば自らが利省れぬべきと、しかには非ざるなり、利行は一法なり、普ねく地侘を利するなり。

これは道徳や宗教ではないんです、利行は一法なり、あまねく自他を利するなりと、もとただこのとうりにあるんです、自然法則というように、自分という観察者が外にあって云うんじゃないんです、自他なし自分も自分のほかももとこの中にどっぷり漬けです、だからどうしようというんではなく、よこしまにし過つことあれば不具合なんです、一切苦厄のもとになるという、よくよくこれを知って下さい、これを知るとは色即是空です、身心脱落して空じ切る他なし、でなけりゃ我欲をもって無理無体があるばかり、もと行われていることがただこれ納得できないんです。流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者と、これ出家剃髪のげです、自分=世の中というめくらましですか、架空を捨て去ることからです。愛という色眼鏡じゃないんです。平和博愛という蛇足じゃないです。

同事といふは不違なり、自にも不違なり、侘にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、侘をして自に同ぜしめて後自をして侘に同ぜしむる道理あるべし。

同事です、これを知らずはそりゃ仏でも坐禅でもないです。汝これ彼にあらず彼まさにこれ汝、経行といって歩く坐禅に向かう相手が自分になってこっちを見ている、不思議だなあと思ったのが最初でした、すっかり相手になっている、意識を通さないんです、面白いでしょう。先ずもって自にも不違なりです、自分という偽者がいたらそりゃだめです、仏教以外にこれを知るものはないんです、自我と神さまの三者対談じゃそりゃ収拾が付かないんです、それを無理やり納得ずくが西洋の歴史でしょう、平和を云いながら喧嘩ばっかりしています。醜悪このうえないです、法王の演説という妄想まるけです、これでは侘にも不違なりなんてこれから先もないです。信ずる者は救われるというお仕着せです、右の頬を打たれたら左を出せという厚っかましさです。如来来る如し、もと人間というお仕着せの枠組みじゃないんです、信不信によらないんです、魚に似て魚行けり見ず自ずから澄む、真相とはたとい人間の如来は人間に同ぜるが如し、まさにもってこれを知って下さい、知識じゃない現実なんです。それゆえに如来は先ず仏になれと示すんです、そうしてついには自をして侘に同ぜしむるんです、特別別格などいうものないです、自分という別誂えの思想を要さない、外にあるものばっかりでいいんです、思想という多種類は多種類のまんま用いればいいです、さまざまな存在理由ですか、はいはーいと返事してもう忘れています。たとい自分妄想の虜なら、鏡に映し見るように習えばいいです、ついになんにも映らなくなります、するとやや近いです、同事ということが起こります。

自侘は時に随ふて無窮なり海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり、大凡菩提心の行願には、是の如くの道理静に思惟すべし卒爾にすること勿れ、済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん、功徳を礼拝恭敬すべし。

自侘は時に随ふて無窮なりとはこの宗のありようです、信不信の選択ではなく趣味能力の是非ではない、もとこのとうりに行われて、本来無窮なんです、おうよそ菩提心の行願という、よくよく見るにいいです、静に思惟とは自分が自分を観察する騒がしさを免れるんです、卒爾にすること勿れとかこれです、さわがしいおっちょこちょい、自分という見えないはずのものが見えるんです、なにをやってもお釣りが出ます、そうしては反省会ですか、反省するたんびに同じ間違いをする、すなわち人間というレッテルですか、つまらんレッテルをひっぺがして下さい、済度摂受に一切衆生皆化をこうむらんという、きわめて希なことなんです、だれかれみないいかげんにお茶を濁す、まあこのぐらいでといっては元の木阿弥、悟ったといっては我田引水、どうだといってはひけらかす恥知らず。功徳を礼拝恭敬する、身も心も挙げてです、ちらとも自分あればかたくなです、水の中の氷です、捨てて捨てて捨て行くには未だ自分です、通身帰依のほかになく。

第五章行持報恩
此発菩提心多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来たれり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

南閻浮題はああこの浮世のことです、たとい王侯貴族の生まれでありながらも出家して法を求める発菩提心です、何をしなくてももうこれでいいというんでは、そりゃそれっきりの退屈至極ですか、人間としてこうあらねばならないというたがを超えて求めるんです、元来そのように出来ています。宇宙あり星震を頂き山河大地あり、草木あり生きとし生けるものありです、願生此娑婆国土し来たんです、ほかのことはいらんのです、同事というは不違なり侘にも不違なり自にも不違なり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんやです。世界にはさまざまな宗教があるんではないんです、仏と仏の教えだけがあるんです、薄福少得の衆生はついに仏に会わず、たといその百生も迷妄のままに現を抜かす、本当本来のおのれを知らぬままにする、人類の歴史とはすなわちこれ、瓦礫の山です、しっかりと目を見開いて見て下さい、はーいたった一つです。

静に憶ふべし正法世に流布せざらん時は身命を正法の為にほう(てへんに九に力)捨せんことを願ふとも値ふべからず、正法に逢ふ今日の我等を願ふべし。

どうしても真実が欲しい、ほんとうが得たい、ほんとうでありたいというのは、人皆の根本の願いです、身命を挙げて思う所です。でも正法に出会えない人が千万人、出会える人がたった一人いるかどうかです。出会えている自分、あなたです。他にはさらにないです。坐っていても妄想を追いかけるだけだ、どうしたらいいかと問う人、それじゃ坐禅にならないといえば、どうしたら坐禅になるかと、ノウハウなしを知ること先決、ノウハウなしを知るはどうしたらいいかと聞く、ノウハウなしと。取り付く島もなし、はいこれ身心まさに取り付く島もないんです、あなたというものに手を付けること不可能、はいこれ仏法です。ものみな取り付く島もなし、ものみな正法です、真実相として成り立っています、ではそれを知る如何、知らぬもっとも親切、朕に対するは誰そ、磨云く、不識。知らないと大手を広げて下さい、大海中の海水ですか、これ通身帰依、不惜身命です、飢えた虎に食われ終わって下さい。ノウハウこれ。

見ずや仏の言はく無上菩提を演説する師に値はむには、種姓を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌ふこと莫れ、行ひを考ふること莫れ、但般若を尊重するが故に、日々三時に礼拝し、恭敬して更に患悩の心を生ぜしむること莫れと。

無上菩提ということがある、他は二の次三の次です、一神教の神さまではない求めるおのれ自体です、共産党の目的のためには手段を選ばずじゃない、もと全体ですひとりよがりは不可です。若しこれを演説する師に値はんにはとある、仏の噂ではない仏なんです、仏教というないものを言触らすんじゃない、もとなんにもないんです。種姓もない、男女の別もいらん、非を嫌う行いを考えるなし、そりゃあみな世間知です、世間比較をもって真実に当てることなし、世間知は世間知としてあるときは用いあるときは用いず、ただし非をいとわず、行いを見ずは便利でいいという坊主ども、そりゃまったく別ことです。たった一人暮らしの良寛さんが実に厳格であったことはよく知られています。もとこれゆるがせにせず、老師も是是といいながら実に厳格であった。もとよりでたらめ放逸などないんです。でたらめ放逸の人は坐っても妄想を追いかけるだけ、実に坐禅にならんのです。ただ般若を尊重するがゆえに、日々三時に礼拝しと、身心を挙げてたったこれ一つです。般若ぱーらみーたー彼岸にわたり切るんです、智慧とはただこれ。人為のものじゃないんです。患悩の心を生じてはもとより右往左往、たとい生じても即ち消えるんです、ちらとも見て下さい、身心おおよそのありようです、でないとなんにもならんです。

今の見仏聞法は仏祖面々の行持より来たれる慈恩なり、仏祖若し単伝せずば奈何にして今日に至らん、一句の恩尚ほ報謝すべし、一法の恩尚ほ報謝すべし、況や正法眼蔵無上大法の大恩これを報謝せざらんや。

仏仏に単伝する以外に仏教はないんです、余語のことはみな娑婆世間の有象無象です、どう取りすがったとて身命の救いはないんです、らしいことをしてお茶を濁す、迷妄が迷妄を呼びただこれ同じ羽の鳥を集めるだけの淋しく騒々しいかぎりです。まず自分というこの一個かららしいこと、淋しいことを取っ払って下さい。人まねしたってうるさったいだけです。鶯のようにホーホケキョと鳴くたって物真似じゃ届かない、坊主のお経がうすら気味が悪いだけの、趙州無字の公案たとい透過するも、一箇無になり終わる、ようやくにして小鳥の囀りに匹敵しますか、花が咲いたら花の楽しみです、ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせばと良寛、君無くば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをやと貞心尼。仏祖単伝するとはこういうことです、まり一つつけない自分のわだかまりを知って下さい、ことはそれからです。行持宇宙に鳴りとよむんですか、無上大法の大恩を報謝して下さい、生きとし生けるものこれ、山河大地これ。

病雀尚ほ恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚ほ恩を忘れず余不の印能く報謝あり、畜類尚ほ恩を報ず、人類争か恩を知らざらん、その報謝は余外の法は中るべからず、唯当に日々の行持その報謝の正道なるべし、所謂の道理は日々の生命を等閑にせず、私に費やさざらんと行持するなり。

病雀は舌きりすずめです、窮亀は浦島太郎です、三府の環余不の印はまあようもわからんが浮き世の往来とつけたしとですか、恩に報いることあるいは人間の根幹です。大法の恩に報いるには、ただまさに日々の行いです、日々なおざりにせず、わたくしに費やさざることです、坐禅の根本です、自分ひとりよがりのために坐禅し、見性を求めている、なを木によって魚を求める如しです。坐禅見性といい得たといいだからといってひけらかす、もっとも仏に遠いことです。坐禅も見性もせずはそりゃ問題外です、坊主のみにくさだらしなさを見習うことはないです。行持綿密は猿芝居じゃないです。箇の無縫塔これよくよく見るによし。

光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる、徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり。

徒に百歳生きる以外になんの取りえもなしというのが現代の形骸社会ですか、国の借金ばかり増えてあるいは犯罪大国淋しく騒々しい、うっとうしいすっきりしないという、これ人間の本質を忘れています、民主主義でも多数決でもない、光陰は矢よりもしみやかなりと知るなにかしら、身命は露よりも脆しと見るいきさつ、たとい百千万あろうがおれはこれというたとい潔さです、生まれて来てその意味も知らずに死ぬ、他愛ないつまらない生涯ですか、いいえつまらない命なんてないです、比較によらない無限絶対です、でなければいったいなんですか、そりゃもうアホらしくっていぇってらんないです、目覚めて下さい、百年虚言の夢、頼まれもしないお仕着せのおんぼろ衣脱いで、そうねえまずは宇宙風呂。

設ひ百歳の日月は声色の奴卑と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の侘生をも度取すべきなり。

声色の奴び(女卑)です、思想考え方の奴隷となって馳走す、追ったくられ賭けずりまわるんです、そうしながら天才だ個性だの宗教家だ共産主義だのやっている、そりゃ回りを見ればみんなそうだから抜きん出て何かという、まことに仏の道は魯の如く愚の如く、世間知比較競争を外れてしか成り立たないですか、わずかに生まれ本来の真相です、生まれる以前死んだあともそっくり同じ、どうもこうもあっはっは役立たずの道ですか。あんまりお奨め商品じゃないですが、たった一つこれだけがほんとうに世のため人の為地球の為なんです。他は淋しく騒々しい地獄餓鬼修羅畜生のすがたです、どうかこれを思い当たって下さい、通身に思い当たってお釈迦さまの出家があったんです、人も地球のお仲間だということを知る、ほんとうに知れば百歳の侘生をも度取する、ものみなを救い得るんです。たった一つの行持を行取することこれ、ホーホケキョとうぐいすの鳴く、宇宙一切を領有するんです、ホーホケキョと鳴いてごらんなさい、ほんとうに鳴けると人にもそれがわかります、救いとは何かものの真相とは何か、喜怒哀楽がそのものそれっこっきりの姿です。抜きん出て益なし。

此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬ふべし、我らが行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。

あるいはこの段がもっとも大切ですか、仏教の根幹です。この一日の身命尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なりと、いったい今の世に何人がそのように思い得ることができますか、尊たび貴とび得ない自分など世の中のまったくの害悪なんです。柄に描いた餅やらしいふりの虚偽はったりじゃあうるさいだけです。ほんとうに実に是、坐って自分というものをまったくなくして下さい、自分なくなってたといお釈迦さまが現実します、尊であり貴である身心あるいは形骸です。これを現実しうる自らも愛すべし、敬うべしと知る、すなわちようやくこれ人の生活です、人間の尊厳これです。人の命は地球より重いなどいう上っ面じゃないです、命を鴻毛の軽きに置けという、飢えた虎に投げ与えてしまって下さい、虎の威を仮る狐の不惜身命じゃないです、たいへんなことですとはただの一箇の消息です。その一箇の消息とは、我らが行持によりて諸仏の行持見成するんです、仏を見るんです、はじめて仏のなんたるかを知る、これによって諸仏の大道通達するんです、ついに仏を継いでしきぶつびばしぶつにつなぎ、お釈迦さまに返るんです、これが仏教です。

然あれば則ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり、謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏といふは誰といふぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。

吾ら皆また諸仏の種子です、あれこれあるんではない、ただこれ仏に成る時はお釈迦さまに成るんです、過去現在未来の諸仏まったくに他なく、答えはたった一つなんです。吾ら日々新たにする参禅のよすがは、これ即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらんと、只管にうち坐るんです。自分の取りえなんぞなんにもないんです、強いてありと云えば挙げて報謝。