2006年06月10日 20:05せっちゃん
決めに行かない、できるかなこれ、仏祖師のどなたであったか忘れたが、跡継ぎになる弟子が、もう大丈夫だといってげを呈するのに、なにものか断ずることありやと師聞く、断ずるなにものもなしと応ずる、是といって直指単伝するんです。
いいですか、我らまるごと生きているんですよ、生死のたがも嵌められない、まして況や不殺生戒をや。
はーいそっくり手に入れて下さい、100%元の木阿弥。そうですこれができないんですよ、ほんとにさ。
2006年06月15日 06:50せっちゃん
そんだから赤ん坊のように裏表さらけ出してたたわわですよ、赤ん坊になると暮らして行けないではないかという、そんなことはない、人生経験や知識はちゃーんとあって、けいげなくかえって洗練されて働くんです、凧に譬えれば糸の吹っ切れた凧、後ろで糸を操らない、糸を引くものは仏、無に帰するとは思い切ってということ、座禅しながらもなんにもない=断崖絶壁ですよ、そこへ自分をなげうつ工夫なんです、千差万別あろうがそのまんま、たとえばどうなるんだろう恐怖、狂うんではないかというのへ一歩進める、たとえばなーんにもならん十年苦心が水の泡、これであってはならぬしない、なーんにもならんつまらんやつに自分を置く、などなど、こっちが言ったらそりゃあっはっはなーんもならんですか。
2006年05月17日 09:42 せっちゃん
お寺つきの庵主さんでけっこう美人でさ、お経も美声でうまい、仏教のぶの字もないのに、そのお経読んでる間だけ大悟底なんだ、魂消たなああれは、もう死んじゃったけどさ、盤桂語録にそういう尼僧さんのこと出てたけど、まさにそれ。
いいですか、教えられたとおり座禅して、教えられたとおり心身を空じて、それでもってなんの役にも立たない人って、そりゃあ情けないったらこれなんぞ。
わが庵主さまは、幼いから徹底してお経を仕込まれて、お経を読むにあたっては、無心無我。
しかも世の中の習慣を破ることゆめ思わず。
いい人だったが。
2006年07月02日 20:20 せっちゃん
これを得るということは、すばらしいことなんです、言説をもって云々したって、なんの役に立ちます、得るか得ないか、得るにはどうしたらいいか、自分ははたしてどうなのか、ただこれだけがあります。坐ってまったく失せる、忘我ということあって、かつての自分ではない真我を生じ、これに住することは、だれあって同じなんです、でなきゃ仏教なんてとうに消えてなくなっています。
2006年07月05日 11:36 せっちゃん
思想の失せるところをもって参禅、参禅するにしたがい、うさんくさい思想が吹っ切れる、なんてあほうなことを今までってわけです、ものみなそうですよ、バット振ったことのない人間が議論百発、振ったとたんにあほらしいってなもんの、ただもうバット振るんですよ。ことに我と我が身心、どうしてもこれをっていう一心のほかは、ただもう邪魔になるっきりです、わるいことよりいいことのほうが、近似値ほど邪魔になるんです。思い知って下さい。
2006年07月09日 06:26 せっちゃん
虚無の会をなすなかれ、ニヒルは有心です、心を求めるに心なしは断崖絶壁、身を投げるそやつがふわあっと宙に浮く、捨身施虎と同じ、そうかあっていってこれを得るんです、ないものを得ることあり、たった一回の金剛不壊。わかりますかこれ、絶対わかりっこないんですよ。
2006年07月12日 20:04 せっちゃん
南総ー惣だな、美術館すげーぜ、光悦の茶碗宗達の屏風とか何億みてえなやつがずらり、あんなもんなんで能登にって気も狂うぜったく、また行こう、どうだみなして行こうぜ、能登の祖院も中身駄目だけど見た目よろしい、うんあと見るものってえと千枚田と身投げによろしい海岸とかさ。
2006年07月13日 07:03 せっちゃん
座禅なんかだーれもしない宗門、座禅とはらしーく人に見せてゼニ取る仕組み、なんとかしねえとったってとうに命脈尽きてらあな、ばかったくって嘘っぱち、まいーか生きてるかぎり復活だあ、てめえ1個えーともう1個に伝えてな、これさ早く法をつげ、それっきゃねーよ。
2006年07月24日 11:29 せっちゃん
底抜けあっはっは底抜けまで坐るっきゃねーんだなこれが、理由くっつけて=言い訳してる間惜しんでなにはなんでもさ、ついには人生もてめえも捨てちまう、箇の単純身も蓋もなし、わかっかなあこれ。
2006年08月25日 07:17 せっちゃん
雨ってこのごろのさ、こないだ山形県通過して来たら、そこの川突然溢れて子供が二人死んだ、そういえばさして降ってもないのに川が濁流なったり、これわわしらんとこだけど、ドライブしてたら雲の流れるあたりに、どかんダウンバースト、そこだけモウゼン雨降ってるんだな、あとで聞いたら200ミリ越えたって言ってた、恐ろしいよこれ、今までの常識とちゃう注意しなくっちゃ。
2006年08月27日 07:06 せっちゃん
ながさきあげはが静岡県に定住したってさ、大型の美しい蝶でわが少年時代のあこがれであったな、代りにうちのおおひかげやうすばしろちょう、ぎふちょうが絶滅、はるぜみも絶滅。見たこともなかったあさぎまだらが築山に飛ぶ。まあわしゃどうせじき棺桶に入るでいっか、棺桶に入るまでに役人さまみたいに酒池肉林ー
2006年08月28日 19:55 せっちゃん
てんぐだけが酩酊譫妄状態になってさ24時間眠るとけろっと治る、べにてんぐだけは猛毒へたすると命落とすよ。食用のたまごだけによく似ていて間違える、このあたりでは月夜茸といっぽんしめじが一般で毎年中毒事件起こるよ、きのこは死なないまでも死ぬ思いするで覚悟しとけ、どくささごという越後特有の、ちょっと見にはならたけみたいのがさ、解毒剤なし、食うと三日後から手指足指針つっさすような激痛、そいつが三ヶ月続くとさ、よっしゃこいつ食わせたろう、何年か前弟子がわんさか取ってきたあ、あぶなあ。
2006年08月29日 11:02 せっちゃん
うんきのこだけは知ってるものだけ、これ鉄則、図鑑で調べてよさそうなんてのぜーんぜん危ないです、ワイン一本で一種類あて教えてやっからさ。
2006年08月29日 16:32 せっちゃん
まつたけしいたけせんぼんしめじこうたけすぎたけつちすぎたけあかんぼうくりたけあみたけふじたけおくしめじねずみあし
2006年08月30日 07:10 せっちゃん
すぎひらたけ何千年食用にしてきたやつが、とつぜん毒きのこだってさ、まだ理由とかはっきりせん、らりってるお役人に食わせて実験、腎臓の薬飲んでるとかに駄目死ぬってな、はあてあんないいきのこなかったんにさ。今は取るものいない、晩秋山に行くと、本堂ぐらいんとこにいちめんまっしろに花咲く。
2006年10月06日 21:48 せっちゃん
あかんぼうってきのこあって、さくらしめじっていうんだけど、茹でて大根おろしと食べると、ほろ苦くって酒の肴に絶品。
2006年10月20日 19:23 せっちゃん
浜松にながさきあげはがいたよ。すごい華麗な蝶で九州にしかいないやつが、北上して数年来静岡に越冬すると聞いた、ほんとうだった。もんきあげはのように黒地に黄色の紋があって、その下に真っ赤な紋があって、白黒模様の下羽におひれを欠くのが特徴。少年時代のあこがれの蝶。
2006年07月20日 06:18 せっちゃん
小千谷塩谷で地震のモニュメント、観音さまの慰霊塔建てた、子供を抱いている、花を供え手を合わせていた、手を合わせるに値する観音さま、王の世界制覇から、日本人はきっとUターンしたんだ、人間の顔が刻めるようになった、仏のおすがたを見ることができるように、日本のむかしを取り戻す、心を失いかけたそやつをきっと。
2006年07月14日 19:52 せっちゃん どうしても座禅はこうあるべきが抜けないな、無所得しないで獲得物質だな、それじゃ木に登って魚を求めるが如し、魔境ってなんなんだ、妄想ってなんだ、てめえ自身に聞いてごらんよ。
2006年07月15日 07:00 せっちゃん
数も数えないでただ坐ってりゃあーうわほんとにいいも悪いもすっぱーん通り越して、
なにどうあったっててめえ満足しなけりゃなーんもならん。
満不満をいう自分なし。
無自覚の自覚。
なんていったらいいんだろ、うーんなーんとも云えんなあこれ。
2006年09月03日 07:45 せっちゃん
むかしはお寺がちゃーんと泊めてくれた、作法も決まっててね、わしんときからもうお寺そっぽ向いていたな、野宿はきついよ、くそ暑い夏でも夜中えれえ冷えるし、蚊は食うし。開聞岳まで行った弟子、五万円のワゴン買って乗ってった、わしがそうしろっていったんだ、警察に尋問されてわけ話すと、そりゃいいご身分だっていわれて無罪放免、彼の手記は面白かった、年賀はがきのお古持ってて先々で書いてよこした、あいつ文才があってなかなか。そのうち披露すっかあ。
2006年09月13日 07:09 せっちゃん
日蓮てへーんな人、一神教みたいなんな、我田引水てえか納まりつかんで分派を繰り返す、そいつが命なんだな。親鸞さんも奇妙なお人、あの連中どっか説得不可能なとこあるぜ、悟りを嫌う、割り切れない無限小数みたいなさあ、妙好人なんていう言い訳ばっかりうっふ。真言はリンガヨギみたい愛欲教だし、要んとこ来ると真言サンスクリットとなえる、あほか。時宗の一遍上人はありゃたいしたもんだ、お釈迦さまの親類みたいとこある、でもあとに続くものいなかったな。
2006年10月15日 14:33 せっちゃん
自分を捨てて行く、その味を覚えるといいんです、
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
坐っていて、決めてやろう、こうあるべきだ、なにものかになろうと囲い込む、わがものにしようとする、それを投げうって行くんです、取り得なくする、頼りなくはかなく、そっち行っちゃなーんいもないってとこへ身を預け、預けしてって下さい。得るんじゃない、ちらとも得たらそいつが障りになる。
2006年10月20日 19:19 せっちゃん
ただいま、お寺のわきにトンネルあってさ、鉄道敷くはずだったのが中止になったんだってさ、200mまっくらがりくぐって向こう抜けたら異次元世界、すっかり道に迷ってさ、三人でだれも文無しケータイなし、ぐわーえらいこった、ずずしい女どもが公民館へ押し入ってロハで電話して迎えに来て貰って、あれせっちゃんて肝心のとき逃げるのね、そーさ君子危うきに近寄らずって云うだろとかさ、すっかり信用なくなったあ。いひひ、でもあそこどー考えてもへんてこ、パラレルワールドかなあ、だとするとわしはいったい~
2006年03月07日 16:39 せっちゃん
座禅をするには、楽うにでたらめ200%という、こうしちゃいけない、いいのわるいの、だからどうだとやらない、そういうのぜんぶひっくるめて自分です、自分ぜんたいで坐って下さい、すなわちごきげんで坐る、どこへどう連れて行かれても故郷、いえ他にはまったくないんです。もし問題があったら真正面に向き合う、そうです、どんな答えももとはじめから解決済みなんです、自分という不思議、自分という無限大、はーい自分という忘我ですよ。はーい単純この上なし。
2006年03月08日 09:39 せっちゃん
仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。道元禅師の云うたったこれだけなんです。あらゆる一切事が、自己を習うに帰って来るのを待つ、あれもありこれもありでは虻蜂取らず、そうしてたいていの宗教がおおよそこのレベルまでは行くんです、すべてを知るのは、すべての中心は自分だ、自分しかないという、でもその自分を忘れることのみが正解とは、これ仏教しか知らないんです。ちらとも忘れないで残すと弊害はなわだを、どうぞよくよくお考え下さい。眼横鼻直にして、他に瞞ぜられず。これ即ち宗教。
2006年03月10日 20:15 せっちゃん
どうですか坐ってますか、なにしろ坐って坐禅が好きになって、ひまさえあれば坐るってのが、もっとも端的です、人生坐るっきゃないと知った人が勝ち、そうして身心脱落です、自分という垢汚れた来たきり雀を脱ぐ、こーんなにすばらしいことないです。自分=世間=すったもんだのすべてに、出入り自由の身、脱落身心ですよ。
2006年03月11日 10:29 せっちゃん
坐るとたいていの病気治っちゃうよ、自分抜きに坐るんですよ、そうねえお釈迦さまの整斉がみそなわすってんだな、坐ってるときも坐ったあとも、楽しいーものみなすべてってふうでもってさ、うひひこの世はハーレムなんちゃってさ。すけべ坊主より。
2006年03月13日 09:55 せっちゃん
坐中も坐が終わったあとも清々として蘇る感じですが、早く身心を脱却して下さい、自分という糞袋をうっちゃって虚空が虚空に坐るふうです、すると無い目もぱっちり、身は風のそよぐ如く、歩歩清風起こる、ぬぐわれたような現成行くも帰るも跡なしですよ、生まれてこのかたって、生まれる以前からこうあり、死んだあともさっぱり変わらない実感です。
2006年03月15日 13:40 せっちゃん
普勧坐禅儀に坐り方が出ています、あるいはけっかふざ、あるいははんかふざと、そのように坐って自分を省みることないんです、でたらめいいかげんでいいですよ、真剣もなまくらもぜーんぶありです、あんまり自分と喧嘩しない、ごきげんで楽ちんに坐って下さい、坐にいそしむ工夫。長く坐るほどいいですが、あんまりそうもいかないから、40分坐って20分休む、けっこうこれが永続します。ついには身心脱落、身も心もなくなってしまうまで坐って下さい、でないと、あっはっはたいていなんにもならんです
2006年03月16日 21:00 せっちゃん
言うは廉く行いは難し、まあそういったこってすが、赤ん坊は坐禅真っ只中ですし、幼い子が老師にこうと示されてぴったり坐るの見たことあります、漆桶不会とはよく言ったもので、もとこうあるがまんまなのに、どっかしびれちゃって垢まみれっていうか、あっはっはいっぺんに通ずる工夫をどうぞ、自分の内を見ない工夫ですか、外は七通八達、清々すら宿らないまるっきりのただ、即ちこれ。
2006年03月17日 14:13 せっちゃん
とにかくもう坐るよりないって、必ずや自分の、いえさ全世界宇宙の一切に答えてくれるって、それをのみ頼りに坐って下さい、満足するものは自分という身心一個、であったら必ずや大安心、大満足です、ハイこれ本当。
2006年03月19日 19:36 せっちゃん
自分がないと物を見ることも感じることもできないという、そんなことないんです、ないほどに確かで如実だということをたいていの人知らない、あんちょこ愛だの思想だのみんな仲良くだのに犯されて、ぶよぶよにとろけちゃってる、どうしようもこうしようもない現状打破=無心です、心もと無いことを知って下さい。あると思う有心の迷妄間違いを知って下さい。自縄自縛の縄=自分を免れ出て下さい、人間本来赤ん坊の200%を知って下さい、人間の回復これこそ現代の急務です、まずもって今ある自分をかなぐり捨てる、破り去ることをもってす、まっさらの空がちゃーんとあるんです、それを知って下さい。
2006年03月20日 08:52 せっちゃん
がんばれえ早く自分城明け渡せ、いつでも常にまったくこうあるっきり、受信拒否してないのって、あっはっはまあ坐る一番かなあ。
2006年03月20日 12:49 せっちゃん
人生の目的はなにかというと、わしらは単純まったく一通り、悟ること身心脱落です、他にはないんです、だれあって他にはなし。なんとなれば、生きてこうあること以外に人生の目的なぞありえないからです、これを自覚し200%長長出させる、実に目的まさにこれと知れるんです、清々七通八達他なしの大安心、生きがいまさにこれ、日々是好日=日々大葛藤すったもんだ、こーんなに面白いことないですあっはっは。
2006年03月22日 21:22 せっちゃん
楽しんで坐る、ひまさえあれば坐るってのがいいです、結果を予測しないで、結果どうなるかなあっていう楽しみ方、ほんとうにあるとき自分失せて、大喜びしてる人何人も見てます、へえ坊主のいうことほんとうだったんだって、あっはっはまったく本当ですよ。
2006年03月24日 19:11 せっちゃん
徳とは何かを考えてみて下さい、世間常識ではまったくない実質、たとえば鳶の徳ってなんだろう、大空の雲の徳ってなんだろう、三つの子供の徳ってなんだろう、徳なきは哀れむべしという、どうしてなんだろうってふうです。
2006年03月26日 21:16 せっちゃん
自分がないという実感は本当はないんですが、その周辺というんですか、日常無の実感は清々として比類なき、月を見て忘我のごとく、星とともにある、山河草木と同死同生ですか、なに三つの子供の日送りです。坐ってもどうしてもそうは行かない、修行とはなんだ地獄だ、意味がないなどすったもんだやってるやつが、ある日とつぜんー
2006年03月29日 10:01 せっちゃん
イルカやクジラが浜へ打ち上げるの、あれ自分たちで間引きしてるんだと思いませんか。
2006年04月02日 12:16 せっちゃん
ほどけば仏、自縄自縛の縄をほどく、ほどき終われば元の木阿弥、生まれたてあるいは生まれる以前です、自縄自縛の縄のはしを自分だと思い違えていませんか、生死そのものと禍福はあざなえる縄の如しですか、六道輪廻そのものですか、いえいっぺんに離れられもすよ、七歩歩んで上下四方指差して天上天下唯我独尊、人はみなそのように生まれたんです。もとへ帰って下さい。
2006年04月19日 17:06 せっちゃん
見つめない、半眼にして視線を50センチ手前に落とすふうで、あとはどこも見てないんです、まああんまり気にかけることないです、目をつぶると妄想煩瑣、開けてきょろきょろやると座禅にならない、要はほんと座禅こっきりになること、ただもうまるっきりただ、どうのこうの註文つけると二分裂、でたらめなんでもあえいありいいご機嫌まっしぐらてなもんの、なんせ坐るが勝ちってね。
2006年04月26日 16:15 せっちゃん
自分でとやこうやってもせんないことを知る、ものみなまったく変わらんのを、自分はどう対処する、対処する自分のないことを知る、こてみな人為のものじゃないです、自己をもて運んでなんの甲斐もないことを知る=参禅。坐断する、坐りつくすんです、あっはっは結果を求めないの、いけねえ、しゃちほこばらなくっていいよ、いろんなことしながらひまあったら坐るんです、ぜんたいわがものですよ。
2006年04月28日 20:43 せっちゃん
細には無間に入り、大には方所を絶す、わずかに自分がないーない自分を見ているのは不可、見ている自分があるんです、野狐禅はたいていこれです、担いで帰れといわれる所以、一人ではなかなかできないのもこの故に、わずかに身心なしというこれ、すなわち唯一の宗教なんです、他多種ある宗教は妄想でたらめです、なにしろこれを知って下さい。ただの人=目は横鼻はたてにして、他に瞞ぜられず、般若の智慧というんでしょう、ぱーらみーたー彼岸にわたるんです、私というよこしまなしです。他のもの一切なし、ただこれ、真実不虚。これを知る人の1個半個を待ってますよ、1個あれば大光明。
2006年05月12日 09:48 せっちゃん
即今はたった今です、どうですかたった今のほかに何かありますか。如来とは来たる如し、返り点うつとこうなるでしょう、では花も如来雲も水もものみなぜーんぶ如来です、人間の如来は人間に同ぜるが如しといいます、どうして人間だけがすったもんだ、ぜんぜん往生しないんです、往生応生すなわち100%生きること、無心また返り点をうつと心無しです。心があると思えることの余計、心はたった一つです、そのたった一つがおのれを見ることの不可能。ですから達磨さんが、おまえはだれだと問われて、不識知らないと答えたんです。いいですか、花にあなたはだれと聞いてごらんなさい、知らないって答えるんです、花がわたしは菊で管巻きというやつで、なんのだれがしに育てられ、肥料はどう日照時間は云々、上を見りゃきりもなし下を見りゃ切りもなし、まあこのへんでと言い出したら、それっきり花を見る気がしなくなります。どうですか人間はもういやという、人間の胡散臭さこれ。知っている分がみんな嘘です。達磨さんの知らない、これ仏教の根幹です、如来来たる如しのおのれかなと知る=知らない、真実これ以外になし、知識として知っても役に立たないです、即今如来往生とほんとうにこれ、応生ですか、身心ともにない真我に帰って下さい、これを味わいつくして下さい、天女さんになりますよ、花よりゃ人間のほうが美しいです、そうしてものみな解決済み。
2006年05月13日 07:00 せっちゃん
月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな
2006年05月14日 20:33 せっちゃん
どうしても悟というものなければ、それは仏教にならんです、身心失せて虚空になりきる、するともとからこうであったと知って、悟という持ち物も失せるんです、これをただの人といいます、眼横鼻直にして他に瞞ぜられず、それをごっちゃにして、仏らしく弥勒さんのように、あるいは行い済ますというのは、そりゃ清々じゃなくみっともない、醜悪な事件です、ここをまずもって知って下さい、ほんとうに正直になって生きて下さい、らしい真似事では第一つまらんです、不自由このうえなく。
2006年05月12日 09:48 せっちゃん
即今はたった今です、どうですかたった今のほかに何かありますか。如来とは来たる如し、返り点うつとこうなるでしょう、では花も如来雲も水もものみなぜーんぶ如来です、人間の如来は人間に同ぜるが如しといいます、どうして人間だけがすったもんだ、ぜんぜん往生しないんです、往生応生すなわち100%生きること、無心また返り点をうつと心無しです。心があると思えることの余計、心はたった一つです、そのたった一つがおのれを見ることの不可能。ですから達磨さんが、おまえはだれだと問われて、不識知らないと答えたんです。いいですか、花にあなたはだれと聞いてごらんなさい、知らないって答えるんです、花がわたしは菊で管巻きというやつで、なんのだれがしに育てられ、肥料はどう日照時間は云々、上を見りゃきりもなし下を見りゃ切りもなし、まあこのへんでと言い出したら、それっきり花を見る気がしなくなります。どうですか人間はもういやという、人間の胡散臭さこれ。知っている分がみんな嘘です。達磨さんの知らない、これ仏教の根幹です、如来来たる如しのおのれかなと知る=知らない、真実これ以外になし、知識として知っても役に立たないです、即今如来往生とほんとうにこれ、応生ですか、身心ともにない真我に帰って下さい、これを味わいつくして下さい、天女さんになりますよ、花よりゃ人間のほうが美しいです、そうしてものみな解決済み。
2006年05月13日 07:00 せっちゃん
月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな
2006年05月14日 20:33 せっちゃん
どうしても悟というものなければ、それは仏教にならんです、身心失せて虚空になりきる、するともとからこうであったと知って、悟という持ち物も失せるんです、これをただの人といいます、眼横鼻直にして他に瞞ぜられず、それをごっちゃにして、仏らしく弥勒さんのように、あるいは行い済ますというのは、そりゃ清々じゃなくみっともない、醜悪な事件です、ここをまずもって知って下さい、ほんとうに正直になって生きて下さい、らしい真似事では第一つまらんです、不自由このうえなく。
2006年05月19日 20:53 せっちゃん
はいよろしく、ほどけば仏、自縄自縛の縄をほどき終わるともと仏。だれに頼まれもしないのにがんじがらめ、縛り縛られていることさへ気がつかないていたらく、これにまず気がつく、ほっとほどけると体倍にも膨れ上がって、そうかあという人。自縄自縛の縄のはし=自分と思い違えていませんか!
2006年05月21日 11:56 せっちゃん
そうなあ、たしかに気がつくたんびにがらっと変わる、ついに無変化になる、それからだという、もとっこ変わると観察するその自分の問題です、自分失せてものみな、そりゃ変わりようがない、ところが昨日のわしは今日のわしではないという、日々是好日底があります、比較を絶するんです。
2006年05月24日 20:26 せっちゃん
高い木の上に上って、手を離せという、手を離すと足を離せという、手足離して口で噛み付いてぶらさがっていたら、下に人が通って仏を問う、如何という公案があります。これ座禅のやり方ですよ。手を用いノウハウですか、どうやりゃ坐れるやるです、なんとか格好ついて足ですか、こんなふうとかいってよかったり悪かったりやってるんでしょう、今にきっとてなふうです、さあそいつを放せっていうんです、ノウハウなしですよ、手足つけ難し、なんせノウハウのある座禅てそりゃ、ろくでもないものです、そんなのけっこう多いですがね、利己心ですか、まずそいつを捨てなけりゃ仏教じゃないです、ただの邪魔です、だがやっぱり残っている、必死にかじりついてるんです、他がためにそいつを放して下さい、どかん落っこちてめっちゃくちゃ、いいですか、ただもう坐ってる自分という、まるっきり無制限、無形用、無自覚がありますよ、強いて言えば地球宇宙といっしょですか、はじめっからこうやりゃ終わってるのにって感慨ですか。
2006年06月03日 07:14 せっちゃん
熊谷守一な、絵ってのはあーゆーふうに描くもんだって思うよ、自然との対話=自然と同一化あって芸術。秋の宮島のがらくた資料館見てたら、棟方志向の版画が飛び込んできた、たった一枚の小品、そうだなあ言ってみりゃ宇宙があるのかなあ、これだって思ったです。
花は花月はむかしの月ながら見るもののものになりにけるかな
という大事件あってのゆえに。
がらくた不幸の一家、なんとしてか生まれ変わってかくのごとく、絶句する如く。
スコータイの貧しい一家から出家者が出て、それが一回だけお経を読みに帰ってくる、世界遺産のテレビで見たです、涙溢れてとめどもなく、日本にはもうなくなってしまった出家、でもこれこそきっと真実かと、その出家のおそらくは最後の一人として思う、どうですかなこれ。
2006年06月17日 07:20 せっちゃん
自分のない実感てのあるんだよ、面白いよ、身心脱落という、心ほんとうに失せると無自覚なんだけど、至り得帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。ものみなこうあるまんまにわしといいほかという、喜怒哀楽まっしんに至る、知らないというその真我、有無の論はとやこういってるあいだはなーんもならんです、ちらとも見るといい、お釈迦さまの言うことどうやら間違いないです、自分ない=こうんな楽しいことない。うつせみという実感とおいう、一年365日夢という、現実であればあるほど夢、目の当たりだけっていうんですか、反芻し取り扱わないんです。うっふっふでもってかくはろくでもないわしですよ、すんません。
2006年06月17日 19:57 せっちゃん
ぎりぎりのことってしばしばあります、なにこそ死んでやれって踏ん張ると、すんなり乗り越えられたり、不思議に力が湧いてきたりします、まあほんとうに人間てどえらい可能性あるんだなあと思ったり、でも無理したらその三倍休む要領でしょうか、ソレと疲れるのはとやこうだからどうのやるからですよ、こんなんおれ大丈夫だろうか、いやさもっと踏ん張ればとか、人はこうだからとか、余計なお節介で疲れちまうです。人はあるもの=現実には悩まない、ないもの=架空によって悩むです。無責任行き当たりばったり結果往来、わしのお奨めでーす、心配は他人にさせる、てめえのったりのほほん、じき忘れちゃう、これもっとお奨めでーす。仏はほっとけさまよりえへ。
2006年06月20日 20:07 せっちゃん
座禅はついに自分1個他にはなんにもなくなってその自分も消える方法です、単純そのもののたったこれだけにすべての智慧があります、ぱーらみーたー彼岸にわたる=智慧なんです。わしのことを頭がいい、頭がよすぎるという、そりゃまったく当ってないです、もうなんせもうろくもいいとこだしむかしからそう頭よくなかったです。ただ無心無身です。目から鼻へ抜けるよりは目鼻なし、1を聞いて10を知るよりはまっぱじめっからぜんたい。はいこれ仏。
2007年02月26日 11:35 せっちゃん
しかんたざ、ただうちすわる、手つかずの工夫と言われます、これができたとたんに行く勘定。うまく坐れると清々了々です、かなうまではそりゃ七転八倒ってとこあります、自足して収まるんですよ、だからものみな無理やり納めないこと、難瀬まっしぐらのすったもんだですかあっはっは、これじゃいかんということでけを知っている、我という心身が知っている、そいつが消えるんです、
もとない、真正面に向うと無いんですよ、注意一生怪我一秒してないんです、ただ。
2007年07月22日 15:23 せっちゃん
しょーがねえなあ、今の世如風さんとか馬頭観音とか、心の問題についてどうにもあんちょこなの多いんかな、やるせないってえかいやになるなあ、心という開けたものについて、何かどっか遠くにある、ひとりよがりの、結局は数を増やせしかない、いぎたない、だらしないんだなあ、まあ匙投げてみたってなーんもならん。苦笑するっきゃないか。
2007年07月24日 20:19 せっちゃん
たしかに日常無事禅をぶち破る必要があります、無字の公案とかそのほか、でも手段は結局そいつを卒業すること、手段倒れでろくなものにならんのを数多く知っています、そうじゃない本来本当。坐って坐って坐り抜く以外の方法はないんです、如来現ずる、如来現ずるなければ渇仰して止まぬ、自分失せる時節たった一つ。
2006年06月18日 07:23 せっちゃん
師家とはいったん自分という漆桶底をぶち抜いたもの、自分という架空を離れることあれば、あなたの前にあなたしかないという、宝鏡三味が現じます、ただの人これ、ですから師家の人を見るなといいます、わしらの同参連中も老師の人柄をいう人はみな失敗してます、しいて言えばそういう格好のがそこにあるというだけ、自分に必要なだけっていうことです、ついに必要がなくなるまで。
2006年06月18日 17:50 せっちゃん
あっはっは鏡は自分をいさめないですか、曇らないからこそ役に立つ、お互い同士そりゃやっぱり鏡なんです、でも二人三人よったくって、ろくなことにならない、戦争だなんてよくあるこってすよ、どっかがおかしい、漆底これを哀れんでお釈迦さまが手を差し伸べる、これ仏教です、はばかれることなんかありません、自分のことですよ。
2007年02月16日 11:13 せっちゃん
くじら食いに行こう、あいつら生き残って集団自殺、かわいそうだ人間の身勝手な、なんせ一頭生きるためになんぼ食わんきゃなんねーか、さよう象やゴリラやくじらはさガイアの魂、てめえちのことよく知ってるなあ、ゴリラの目何万年の目、ふん。
2009年03月16日 06:42 せっちゃん
自分を救うとは自分を捨てる=まわり自然と同一化する、我と有情と同時成道です、すると救いとは何かがわかります、片隅を照らすものこれ国宝なり、触れるものみなを救い得て妙、まあさだまされたと思ってやってごらんなさいなあっはっは。
2009年03月19日 19:08 せっちゃん
まず悟る、すると坐れるようになる、生活が始まるんです、命捨てないと悟れない、人みなけっこう苦労するのかな、めちゃくちゃなんでもありあり、あるいは仏さまを信じ切って坐るんですか、一人また一人悟るから面白い、自分がなくなったいっときがあります、はあっと我に返るふう、変だなあありゃあという、わかんない寝るとかいって、飯台さぼった人もあったな、さまざまでも事は一つ。結果を予測しない、いいですかこれだめあれいいんじゃない、めちゃくちゃあんでもありの、ひまさえあれば坐る、坐禅を楽しむふう、そんなに手間かからないんです。
2009年03月20日 17:18 せっちゃん
なにもかもただこの事実です、だからどうなんだよくなった、悟りのかけらという前に、ほんとうに無上楽、もはや此れあれば人生ほかなんにもいらぬ、死んだっても悔いはないというものを手に入れて下さい、なんにもないを坐る醍醐味です。見ている自分があれば不可。
2006年06月26日 06:36 せっちゃん
足の痛み自分以外のものー虚空でも飢えた虎でも仏でもいいよ、に預ければ痛み失せる、限界をひょっと超える、たといまた痛むたってやってごらんな、人間ててめえ決めた枠には収まらない代物、あっはっは。
2006年07月03日 15:40 せっちゃん
智慧=ぱーらみーたー彼岸に渡ることです、すなわちてめえなにものかと思う、その阿呆に気がつく=智慧です、そこからですよ参禅は、
てめえの馬鹿さ加減ー人はたいてい見て取っているんです、気がつかないのは自分だけ、恥を知れってさ、これ仏教ことはじめ。
2010年01月10日 08:43 せっちゃん
ちがう、こっちがひっぺがそうとするやつを必死でしがみつく、ただそれだけ。象は自分を象だと知らない、云わない、人間はなぜ人間といい人間らしいと云うのか、そういうたんびに残虐な殺し合いいがみあい自然破壊だ、知らぬもっとも親切という禅語を知って、知らぬもっとも親切を知らない、達磨を知って達磨に会わず、こんなこと一瞬も許されるものか、いいか気がつけ、でなきゃ参禅にならぬ、わしの云うこと疑うんなら去れ。
2010年03月13日 14:19 せっちゃん
うはは書き直した、ここにのっけてこ。
清観首座法戦問答
一
問、それがし作入叢林請ふ師指示し玉へ。
答、近離何れの処ぞ。
問、不去不来にして来る。
答、いんもにし来る者は是れ誰ぞ。
問、仏祖もまた知らず。
答、漆桶底を打破せよ。
問、仏足石上に舞ひ踊る。
答、汝に三頓の棒を許す。
問、珍重。
答、万歳。
二
問、仏を殺し祖を殺すも古人の圏き(糸貴)に落つ、棒を行い喝と行ずる、何を以てか人の為にせん。
答、おのれ無くんばよし。
問、活殺自在如何が自覚せん。
答、如何が是れ平常の言語。
問、知らず。
答、圏きに落つる勿れ。
問、莫妄想。
答、妄想有りや。
問、珍重。
答、万歳。
三
問、栴檀葉香風起こる、誰かこれ香を聞く者ぞ。
答、鼻孔遼天。
問、それがし何によってか聞くことを得ざる。
答、身心ありやまた無しや。
問、香界に入って香惑を蒙むらず。
答、遂に敗壊たり。
問、請ふ尊意。
答、栴檀葉香風起こる。
問、珍重。
答、万歳。
四、
問、大通智勝十劫坐道場、仏法不現前、不得成仏道の時如何。
答、仏法不現前の時なし、あるいは出家以前に赴け。
問、元の木阿弥のなんにもならず。
答、是。
問、既に是れ坐道場、なんとしてか不得成道なる。
答、不成仏なるが故なり。
問、なんとしてか不成仏なる。
答、知らず。
問、珍重。
答、万歳。
五
問、大死底の人却って活する時如何。
答、夜行を許さず、明に投じて須べからく到るべし。
問、珍重。
答、万歳。
六
問、如何なるか是れ大道。
答、捨身施虎。
問、却って是れ趣向する有りや。
答、何と道ふぞ。
問、如何なるか是れ道。
答、道は知にも非らず、不知にも非らず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し至り得ば、廓然として明白、太虚の洞然としてものみな無きが如し。
問、珍重。
答、万歳。
七
問、如何なるか是れ最上無為の妙術。
答、仏仏にさずけてよこしまなることなきは、すなはち自受三昧その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
問、妙術として有りや否や。
答、はなてば掌に満てり、あに一多のきはならんや、かたれば口にみつ、縦横きはまりなし。
問、超関脱落の時節これありや。
答、各々の方面に知覚を遺さず、群生の長しなへに此中に使用する、各々の知覚に方面露れず、みなまた甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟りを顕はす。是を無為の功徳とす、是れを無作の功徳とす、是れ菩提心なり。
問、珍重。
答、万歳。
八
問、諸法の仏法なる時節如何。
答、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
問、万法ともにわれにあらざる時節如何。
答、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
問、修証如何。
答、自己をはこびて万法を修証するを迷ひとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
問、仏道如何。
答、仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をならふといふは、万法に証せらるるなり、万法に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟跡の休かつなるあり、休かつなる悟跡を長長出ならしむ。
問、珍重。
答、万歳。
九
問、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな。とは思いももうけぬお悟りですか。
答、思いのほかの事実です。
問、有頂天の我れと有情と同時成道ですか。
答、だからどうのということじゃないです、ほかにはないんです。
問、はい。
答、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。と、朝打三千暮打ち八百という、日々新たにです、生活とはただこれです。
問、珍重。
答、万歳。
十
問、ここのまりとおまりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば。という良寛さんの歌は修行のありようですか。
答、吐く息吸う息数息観のように見えて、もうまったく終わっているんです。
問、終わって大ひまが開いてみたいです。
答、はい油断なくつとめて下さい、久しくいんもなることを為さば須からく是れいんもなるべしと。
問、はい。
答、君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや。世の中騒々しく淋しいばかりだと、貞心尼の云うとおりです、真箇の唯一人になって下さい。
問、珍重。
答、万歳。
2010年09月10日 11:09 せっちゃん
坐る他ないってことある、どう理解したってさっぱりどうもならんてこと知るが先決。
2010年09月10日 12:16 せっちゃん
無眼耳鼻舌身意無色声香味触法と知る、理解しても空前絶後の事玉露宙に浮くってわけに行かない、なぜか、無いと知る自分が無くならないという単純な理屈これ。
2010年09月10日 12:23 せっちゃん
自然はただの自然因果は因果必然、そのまっただなかで暮らしている=みんなわかっている=知らない。手つかずの工夫これ=ユーレイカがある。
2010年12月01日 11:32 せっちゃん
毎日4柱坐っておくれ
2010年04月18日 07:05 せっちゃん
ヨガと禅は無関係です、ヨガにはノウハウありということは自分をよりよくしようというもう一つの自分があります。禅は単を示す、たった一つの自分ということは自分がないんです、無心です、無心にノウハウなし心の無いことを知る。すなわち知ること不可能です。ものみなの基本これ。悟らなければ問題にならんです、悟り終わって悟りなし。はいこれ。
2010年05月17日 10:46 せっちゃん
悟り終わって悟りなし、あんたもさちっとは悟ってからにしてね、羅漢果といって忘我体験だよ、でないとまあさ中学生みたいてめえいいおめえわりい、侮辱されたばかりやっててなんともならないよ、恥っさらしなお人ー情けねえなあてめが見えねーんかな、自我のごんずいかたまりな。
2010年05月17日 11:35 せっちゃん
悟らないと悟りなしがわからんのです、羅漢果を得て二十年阿難さんはようやく悟りなしを知るんです、道元禅師は打睡一下の因縁、如淨禅師のもとへ走って、心身脱落来、心身脱落し来る、悟ったあ悟りましたという、これに対して如淨禅師は脱落身心底、脱落せる身心底、そうじゃないよもとっこ脱落しているんだよという、ここに於いてまったく収まるんです、でなきゃ悟りを振り回す不自由です。いいですか羅漢果を得るのもそう簡単じゃないです、悟跡の休かつなるを長長出ならしむという、悟りなしを知るほうが難事です、あなたのような知ったかぶりの来るところじゃないです、みなまた不惜身命の年月があってたとい書き込みもあるんです。
なんにもないものを教えるなんてどうしてできるか、たわけてないんです。
はいこれを透過して下さい。
2010年05月17日 12:52 せっちゃん
悟ってみてから云って下さい、涅槃は涅槃です、悟り終わって悟りなしをそんじゃあ悟りがないといったら馬鹿につける薬にもならんです、涅槃に至るには自分も自分の命も一切を捨てないと問題にならんです、その苦労もせんんでなんかのいう、つまらん人だねえまったく、こりゃどーもならんは。
2010年05月17日 14:06 せっちゃん
あなたのように理解、りげというんですが、ではそりゃちんぷんかんぷんです、理解じゃどうにもならないのを知って参禅です、涅槃はないんですよ、見る人も見られる人もない、あなたがたのないはあるなんでしょう、担いで帰れといわれる所以です。そうやっていくら御託並べてもいいことないです、悟って下さい。悟るには悟ったらこうなるという予測があっては悟れんです、意味が解ったらおしまいの不惜身命です。達磨さんにあなたはだれかと聞く、知らんわいと答える、達磨の不識です、ぽっかり咲いた花にだれだと聞いてごらんなさい、知らないと答えるんです、もし私は菊で管巻きでもってなんのたろべえが飢えてこやしはどうのなんのかの、品評会に三等を取った、上見りゃきりもなし下見りゃきりもなし、まあこのへんでなど言い出したらそれっきり花など見ないです。見れども飽かぬと万葉にある通り、人間だけがあなたのように理解だのああでもないこうでもないやるんです、宇宙をかき濁すものです、一生にたったいっぺんでいいから花のようにぽっかり咲いてごらんなさい、仏とは元の木阿弥です、来たる如くの如来かな、知ってる人をかなぐり捨てて知らん人になって下さい。思い上がっていちゃそりゃだめですよ。
2010年07月02日 08:11 せっちゃん
悟り終わって悟りなし、これが仏の姿です、悟らないと問題にならんですが、悟りを残すときっちょむ話の妖怪になります、これ自分でやってみる意外にないです、仏になることこれ、いずれの宗門も関係ないんです、本来本当があるきりです。
2010年07月05日 08:14 せっちゃん
言葉も概念も暴力んもなりゃ役にも立つんです、数学は数学言語は言語です。悟りとはそれがほんとうに使えている実際です、もと過不足なくこうあるんです、それを知るということです、言葉や観念に追い使われている自分が、ある日まったく自由になる、身心脱落です、これ言葉や観念ではだめです、数学的正確さではどうにもならんです、云うは難く行いは安しですか、どうかやってみて下さい、ないものは傷つかない、自分という観念のたがを外れるんです。
2011年03月07日 20:40 せっちゃん
だめだなーやっぱ、わしの書いてるのわしの自我主張じゃないんよ、見えねーな、てめえなくなってみな、物を書こうがなにしようが為人のところ、これを見えるよーにしれ、平面蛙止めるの。自分を観察しない坐禅だよ、おまえさんのは必ず自分を勘定に入れる、かったるいぜよったく。
2011年03月08日 06:45 せっちゃん
てめえという挙げてお供え、てめえのとりえまったくないの、日々壊滅あるのみ、うたた悟ればうたた捨てよ、居座る椅子がない=
2011年03月21日 11:15 せっちゃん
妄想のまんま妄想にかってにやらせときゃいーんよ、するとなーんもない
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。