葬式1
人の死ぬるやその言や良しという、生きている間は曖昧模糊、妄想観念が皮被って歩く如き、年取るにしたがってがらくた出し殻というのが、あるいは相場でさっさと荼毘にふせすっきりするという、死ねば仏です。人間仏から生まれて仏に帰る、新紀元なんのだれかれと戒名するのはこれです、戒名です俗名じゃないです、戒名のつけ方も知らない坊主どものただもうゼニカネ貼ったりじゃ情けない、引導をわたすなんてものじゃない、さっぱり浮かばれぬ、ただこれ死体はほっておけぬので、死出虫稼業なんとかしてくれという、だったら葬儀屋だけでいいです、葬儀屋のらしい嘘八百に空涙ですか、人間の尊厳などからっきしも残ってないんですか、どんな人間でも死に顔は仏、わしは坊主になってたった一つよかったと思うのは、人の死に顔に出会えるからですといって、あるとき棺桶の蓋を開けると、猛烈な暑さで二目と見られぬほどに膨れ上がる、さーてさて。死人に接するにはてめえも死人、魚屋は魚食ってみてから売る、坊主は死んでみてから葬式しろ、うっかり坊主組合に演説して総スカンを食った、わっはっは馬鹿どもめが。
葬式2剃髪
葬式は剃髪して仏弟子となることから始める、仏弟子となって戒を授かることは、生まれ本来生まれる以前からの姿に帰ることです、真人間になることですか、他の宗教は迷いの上に迷いを載せるだけです、すでに仏弟子として戒名を持つ人はこの項を省く。
剃髪のゲ
流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者。三界に流転するあいだは、恩愛を絶つことはできない、恩を捨ててなんの為にもせず、真実の恩に報いる人となって下さい。
剃除鬚髪、当願衆生、永離煩悩、究竟寂滅、(三度となえる三度目を安楽)髪を剃り落として、願わくは衆生とともに、永しなえに煩悩を離れ、ついには寂滅すべし。安楽なるべし。
三つの子供までは仏そのものに近く、寂滅相を示して安楽です、よくよく見てとって下さい、物心つくに従い恩愛不能断ですか、いつのころからかなぜにそうなったかわからぬうちに迷い出して、六道輪廻たらい回しの流転三界中です、七歩歩んで天上天下唯我独尊、お釈迦さまの降誕会です、願くは元のありように戻して下さい、それ以外に人生の希求としてないことを知って下さい。寂滅と安楽と。
葬式3受戒
夫れ新帰元( )信士、帰戒を求めんと欲せば、先ず当に懺悔すべし。右両懺有りと雖も、先仏の護持したまう所、嚢祖の伝来したまう所の懺悔の文有り、罪障悉く消滅す、吾が語に随って之を唱う可し。
我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん(目に真)痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。
我という罪障悪業の集大成です、みな貪り怒り愚かしさによる、これ身口意に従いよって起こる、一切を今我は懺悔するというのです。我という自分というものないものをあるとして架空の一生です、仏でありぜんたいであるものを独り占めする、貪り怒り愚かさです、有色声香味触法です、有心といういつか知らぬ間に自分という後生大事です、これを元の木阿弥に返す、ぱーらみーたー此岸から彼岸に渡る、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見語薀皆空、度一切苦とあるように、これが仏教の根幹です、人間としてものみなとして他にはないんです。右両懺ありと雖もとは、只管に打坐するをもって正門となすとあるように、懺悔は坐禅による、墓には先ず無理です、我昔所造諸悪業と、痛烈に思い知ることただもうなんにもなしのまっしぐらに坐るよりないんです、公案だの無事だの手段を用いるとき思い上がるだけです、なんていう思い上がりはた迷惑であったか、血を吐く思いに懺悔する、ようやく坐禅の始まりです、彼岸に渡って下さい、無色声法味触法です、身心脱落してはじめて本来を知る、寂滅安楽です、戒を第一安穏功徳の諸住所となす。
葬式4受戒
すでに身口意の三業を懺悔して大清浄なることを得たり。
次には応に仏法僧の三宝に帰依し上るべし。三宝に三種の功徳有り、いわゆる一体三宝、現前三宝、住持三宝是れなり、一たび帰依する時、三種の功徳悉く皆円成す。
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。
帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊。
帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。
帰戒を授与すること此の如し、今より以後如来至心等正覚は、是れ新帰元( )信士が大師なり、更に余の邪魔外道等に帰依せざれ、南無大慈大悲大哀みん故。
大清浄とは自分を観察しないんです、身口意の三業なにをもってか悪業となす、参じ尽くして下さい、どうあったって身口意から逃れることは不可能です、しかもただちにこれを免れている、人間以外鳥もけものもみな大清浄です、虫けらから花から空の雲までまったくの大清浄です、人間だけなんで穢れ汚れるんですか。
一たび帰依するとき三種の功徳悉く皆円成すと云い終わって、仏性水といって水を注ぐ、これ仏教以前からの水です、唐草模様や火炎式土器の水の溢れ返るさまを映し出す、生きとし生けるもの、いえものみな水をもってす、無心これです、大清浄の卍ですか、よくよく思慮みて下さい。
坐禅はこれ通身帰依です、そのほかには微塵もないんです、みなまた思い違えています、以無所得の故に修菩薩行です、うたた悟ればうたた捨てよ、まさにこれ仏恩を報ずるにてあらん。南無帰依仏です、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけり。ただほんとうにこうあるんです、帰依僧和合尊と、仏にあらずは和ということを知らんのです、ものさしをあてがっての狂信ですか、鯨は人間に近いから食うなとか、労働のみ価値ありの共産党とか、結果すでに歴史の証明するところです、早く人間も地球ものみなのお仲間入りをして下さい。帰依仏無上尊と死って帰依仏竟です。
如来来る如しただよく相続するを主中の主と名ずく、愚の如く魯の如くして只管打坐です、更に余の邪魔外道等に帰依せざれ、南無大慈大悲大哀みん故に、残念ながら余の邪魔外道等になんの影響も受けぬ人をわしはあんまり知らんのです、哀れですか。
葬式5受戒
既に仏法僧の三宝に帰依す、次には応に三聚浄戒を受け奉るべし。
第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒是れなり。
身心のおのずからこうであることを知る、律とはものごとを邪にふしだらにするなということ、ものごとはもとそれがありようの如くにある、我侭にすりゃ我侭が跳ね返ってくる、我慢というわがままの裏返しです、律するこうなくてはならぬというとき、かえって摂律儀戒をそこなうんです、摂善法戒も同じく、不思善不思悪正よもの時那箇かこれ明上座が真面目と、六祖禅師が道う、明遍体汗流れ、当下に大悟泣涙作礼して問うて云く、「上来の密語密意の外、かえって更に意旨有りや。」と、六祖云く、「我れいま汝が為に説くものは、即ち密にあらず、汝若し自己の面目を返照せば、密はかえって汝が辺に在らん。」と。律として善として仏教としてどうこうせねばならんというのは、自己をかえりみればかえっておのれが辺にありというのです、よくよく見てとって下さい。ただこれ手放しで摂衆生戒なんです、自分というよこしまを去って下さい、実にまったく外にはないんです。只管に打坐につとめて下さい、三聚浄戒を知るたった一つの方法です、修証一如です、強いて云えば因果必然を知るんですか。
葬式6受戒
次には応に十重禁戒を受け上るべし。
第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不貪淫戒、第四不妄語戒、第五不こ(酉古)酒戒、第六不説過戒、第七不自讃き(股の月ではなく白にエ)侘戒、第八不けん(樫の木ではなくりっしんべん)法財戒、第九不しん(目に真)い(圭のしたに心)戒、第十不謗三宝戒是れなり。
上来、三帰、三聚浄戒、十重禁戒、此れは是れ先仏の護持したまう所、嚢祖の伝来したまう所なり。我れ今汝に授く、汝今身従り仏身に至るまで、此の事能く護持し上るべし。
得度式の時は、汝今身より仏身に至るまでこの事能く保つや否やと聞かれて、よく保つと両三度答える。死人に口なしで、なに死んだものは仏になっているで慌てるこたないと、わしが葬式ことはじめに老師が云った、わっはっはそういうわけたってとやこう滞る。十重禁戒のうち外はどうにか守れるかも知れぬ、だは第一不殺生戒はまったくこりゃ無理だ、草木も命だし大腸菌も命だ、こんなん保ったら一瞬も生きていかれんどうしようたって、親類縁者集まっている、鳴り物入りの出家も否といったらおしまいだ、よく保つと嘘をついてすませた。後年寺を持って駒澤の学生が来た、おれは大学四年間これが気になっていたという、第二以下はなんとかなるかも知れん、でも第一不殺生戒だけはどうもならん、教授に聞くと妄りのい殺すなかれ、妄りに犯すなかれだと云った、だがおれはそんなこっちゃ到底納得できん、お釈迦さまは人に守れんような嘘を教えたんかと云う。よくみてみろとわしは云った、第一不殺生戒第二不偸盗戒~いいかこりゃもとっからこうあるんだ、人の決めたこっちゃないと、そうかと云って彼の体倍にも膨れ上がる、かれこれ悟るところがあって帰って行った。番たびわしはこの話だが、理屈はどうであれ若し仏を志すもの、たとい十重禁戒と真正面に対決して下さい、うやむやにしたら一生有耶無耶です。いわゆる山上の垂訓とはまったく違うんです、守って守りきれぬのを無理強いという契約宗教じゃないんです、いいことしいだからいいんだというのは、不こ酒戒を破っています、思想の酒に酔うこと共産主義の如くにして、はた迷惑は拷問密告政治ですか、魔女裁判というろくでもないこと、よくよく見てとって下さい、人間押さえ込んだらだめですよ、参禅なんでもありありは、まさになんでもありありの自分100%をもって、ついには十重禁戒等の犯しても犯され得ぬことを知るんです、自分というまったく無いんですよ。
葬式7血脈授与
此れは是れ、仏祖正伝菩薩大戒の血脈なり。仏仏祖祖嫡嫡相承して、我れに到る、我れ今新帰元( )に授く、汝今身従り、仏身に至るまで、頂戴護持し上るべし。
血脈というのは過去七仏といわれるお釈迦さま以前の仏から、わしに至る嫡嫡相続底86代を、受ける人の血をもって書き記すのでこの名がある。継法の儀式はしまいに千拝遙拝を含めておうよそ一週間かかる、たいへんな事業だが紙きれ一枚じゃ、どんなに荘厳にしたところで猿芝居だ、宗門のしきたり二束三文、だれもその内容を知らず、お釈迦さまにそっぽを向き、道元禅師に後足で泥をかけして、お寺に生まれたから説教で、得度したから出家で、継法したから大和尚でという、嘘とはったり空威張りだけの、三つの子供にも見破られる他愛なさです、ついに宗門坊主地に落ちて、花を飾っただけの、空中散布の、好きな音楽葬をといって、葬儀屋の儲けになるきり。釈迦牟尼仏明星一見の事、摩訶迦葉ねん(てへんに占)花微笑、阿難倒折背刹竿著以来、今に至るまでだれ彼まったく同じに相続するんです、だれ彼命を賭けることなければ得られないです、すべてを捨てることあってはじめて門戸です、慧可大師断臂摂心の如くに、自分の命を切って差し出す覚悟がないと無理です、たとい印下底何人もいやしないといったって、これが基本わざです、これなくば引導を渡そうにもなんにもなりはせんです、浮かばれないといってぶん殴られた坊主もいた、今はただもう胡散臭く死出虫稼業の、ぜにやるから早く去れというだけです、人の死を荘厳する手段なし、なんという情けないこと、たとい大法を継ぎ得ずとも、お釈迦さま道元禅師に跪拝する、格好付けごまかしではない心が必要です、でなけりゃ葬式の意味がないです。いじましくどっ穢いだけです。どう糊塗したっって露われるよりなく。
葬式8受戒
衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じゆうしおわる、真に是れ諸仏の子なり、南無大慈大悲哀みん摂受。
お寺い生まれて小学校何年かのころ、得度式があって親族檀家集まって師匠たる父親に頭を剃って貰う、するとかくの如くの位大覚に同じゆうしおわる、まことに是れ諸仏の子なりと、格好思い込みだけのことそりゃ人格を破壊する、修行も知らず仏も知らず、嘘八百ばかりの肉系相続です、求道心もなければ、出家したくてもできない情けなさ、せっかく純粋まっすぐであっても、じき腐れて付和雷同の集団自閉症です、おおかた病理学の対象にしかならぬ。仏戒を授かるとは、人間芦の成長点です、かくの如くあるとたとい今は知らずとも、必ず得る、もと大海の中にあって水を求める哀れ、痛切に大慈悲を思うんです、イチローの200本安打大リーグ新記録への道というドキュメンタリーをやった、実にこれもしわしが印下するとしたら孤俊イチローだと思ったです、年はわしのせがれと同じだが、実際というものとものがぶつかりあって生死のきわですよくやりおおせている。日米野球の恐怖と戦ってついに忘れる、なにか齟齬があると必ずふりかえる、坐禅とは自ずからこういうものです、ただこれ現実です、ついに打法に完成はないと知る、一瞬ごとに変わる、これ仏道極妙の法則です、師家禅師だの無数の悟ったさん困ったさんとは別世界のすがたです、よくよく見習って下さい、イチローは野球です、人天の大導師という帰依僧和合尊、あるいは仏を志すもの畢竟如何、出家はた迷惑断じて自分を許されんのなら、まずもってそこが出発点です、自分というこのものは決してごまかされんです、ついにはなんにもないものになりおわって下さい、かつがつに存続の分があるんですか。
入がん(合のしたに龍)諷経
上来諷経する功徳は、新帰元( )信士に回向す、伏して願はくは、入棺のいで、封地を荘厳せんことを。
棺桶へ入れるから荼毘に付してしまい位牌安置まで儀式があって、しきたりがあって坊主丸儲けの仕組みが、繁文縟礼式にできあがっていて、坊主たるものただもう必死にお経と所作とにしがみついて、外のことなんかこれっぱかしもないです、人の救いの弔いの悲しみもまるっきる吹っ飛んで、ただもう杓子定規のよってもって次第に偉くなる、あほらしいったら付き合っちゃいられんです、人間のくずだな。戒名は生前のおもかげ、リルケが云ったが人はその名の通りになるそうの、名前とおもかげをあるいは残し、人の願いとしては名前通りの人間以上を望むんです、そうして仏子になったんだから、仏の名です、三島由紀夫の戒名がテレビに出た、なんだこりゃ文学一辺倒みたいそれじゃ戒名にならない、そんなんなら三島由紀夫でいい、俗名は世の穢れ垢まみれです、せめても払拭してやるべきです、一に生前のおもかげ、二にその願い果たせなかったほどのこと、三に仏の名ですか、新帰元というもとに帰るんなら、秋露童子とか露柱明道とか元の木阿弥に人の世の過ぎるふうですか、一つだけ無断で戒名を紹介させてもらうと、松寒印心月夢想居士という、地方の名家の主でよく人のために尽くした、死ぬるころの風格が松の大木然としていたによる。印号は世間称号ですか、あるいは感じ入るところがあった坊主がおくりなする。信ずるから信士信女、一応羅漢果を証拠したによって居士大姉なんですが、まずはそんなこととまるっきり無縁になっています。
大夜念じゅ(踊の足ではなく言)
切に以んみれば、生死交謝し寒暑互いに遷る。其の来るや、電長空に激し、其の去るや、波大海に停まる、是の日即ち新帰元( )信士有って、生縁すでに尽きて大命俄かに落つ。諸行の無常なることを了って寂滅を以って楽と為す。恭しく現前の清衆を請して諸聖の洪名をじゅす、集むる所の鴻福は、覚路を荘厳す、仰いで清衆を憑んで念ず。
清浄法身毘蘆舎那仏、円満報身蘆遮那仏、千百億化身釈迦牟尼仏、十方三世一切仏、大乗妙法蓮華経、大聖文殊師利菩薩、大乗普賢菩薩、大悲観世音菩薩、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。
お通夜のことです、切におもんみればとは同一です、人と同じになるとは妄想思想の内容ではないんです、坐禅は捨身施虎、自分という世間体思惑には一切無関係です、自分用無しにして坐って下さい、如来としてこうある生死交謝し、寒暑互いに遷るが実感です、あるいはそのほかにはまったくないんです、一生とはなにか、春は花夏ほととぎす秋紅葉冬雪降りて涼しかりけると。身命とはなにか、汚れなき心の水に澄む月は波も砕けて光とぞなると。歓喜これに尽きたるはなしを知って下さい。その来るや電長空に激し、その去るや波大海に停まる、如来の実感です、如去のすがたです、諸行の無常なることを了って寂滅をもって楽となすは、参禅のありようです。ある人地獄を問う、余答えて云く、身に科あるを地獄というと。ある人極楽を問う、余答えて云く、身に科なきを極楽というと。ある人仏を問う、余答えて云く、身心ともになし。身心ともになければ死人と同じではないかというに、しかり死人と同じこれわが宗旨なりと、至道無難禅師の語です、よくよく見てとって下さい。諸せいじんの洪名とは、かくのごとくこれみな自分自身なんです、あるいは自分というよこしまにするなくして、十仏名があるんです、大夜念じゅに即ちこれを唱えます。
回向
上来、念じゅ諷経する功徳は、新帰元( )信士に回向す。伏して願くは、神浄域を超え、業塵労を謝す、蓮は上品の華を開き、仏は一生の記を授く。再び清衆を労して念ず。
神浄域を超えとは意識無意識にかかわらず、人間の取り計らいを止めることです、すでにまったく手が届かない、死ぬとはそういうことです、たましいだの神だの浄穢という問題じゃないんです、大悟するとは頓に無生を知る、ついでに業塵労を謝すんです、僧かなんと言うごったらすたらやっておったんだ、要らんことをまあ仏の目をくらますことばっかりって、なくなってはじめて気がつく。いっぺんに知る、仏は一生の記を授けるんです、はーい一巻の終わり、死んで花実が咲くものかというんでしょう、死ぬとぽっかり花咲くんです、和は花よりも美しいという、自分まったくなくなると、蓮は上品の花を開くんです、よくよく見てとって下さい。
引導法語
生死去来一夢の中、忽然として醒覚せば自ずから円通、本源晦まさず天真仏、穢土浄邦異同を絶す。
以みるに( )信士南か(木へんに可)の愛情尽きて、西方の妙蓮紅なり、念無念に至りて風清く月白し、法法位に住して海深く山高し、故に渓声山色般若を談じ、烏鳴雀躁真空を説く。正与もの時、末後の牢関に到りて、如何が重功を露さん。とつ。
脱退無依活卓卓、縦横自在威雄を振う。
これはずいぶん古い例を挙げたんですが、基本はつまりこんなふうです、人の葬式に自分の悟境を披露する、ただそれだけ、しかり死人と同じ我が宗旨です、故人生前の毀誉褒貶を延べたってそりゃ民間の弔辞です、仏として仏を紹介すりゃこと足りる、だが嘘ついたらダメです、悟りもせぬ真空の妙智というより、常識ごとらしいふうにお茶を濁すのはもっともぶしつけです、死んだ人に対して許されぬことです、生前の塵労を謝すに持っては仏のものさしをあてがうんです、でなけりゃ帰依僧和合尊の意味がない、葬式にならんです、乃至は千百の葬式を出そうとも、常に初体験です、死ぬ人はじめてなんです、花一輪を取ってするのも金輪際これっきりです。約束ごとがあって、はじめの詩は自分で作る、これ平仄あわせをやっていると不勉強のわしは3時間かかる、韻を合わせるぐらいでいいです、かっして後の一句は成句を使うんです、もっとも古くから詩句は洗練されていて、どのようないいまわしもちゃーんとすっきりしたのがあります。
老師の葬式のとき、坊主何人も(七仏師)法語を言う、へーえと感心したです、ふだん坊主どもの嘘八百が老師にはぴったりなんです、法であり仏であった人でした、すると坊主どもらしいようの成句がそのものずばり。
是の日即ち新帰元( )信士有って、既に縁に随って寂滅す、乃ち法に依って荼毘す。百年虚幻の身を焚いて一路涅槃の径に入らしむ。仰いで清衆を憑んで、覚霊を資助して念ず。
清浄法身毘蘆舎那仏、円満報身蘆遮那仏、千百億化身釈迦牟尼仏、当来下生弥勒尊仏、十方三世一切諸仏、大乗妙法蓮華経、大聖文殊菩薩、大乗普賢菩薩、大悲観世音菩薩、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。
上来、聖号を称揚し覚霊を資助す、唯願くは、慧鏡輝きを分かち真風彩を散ず。菩提園裏に、覚意の華を開敷し、法性海中に無垢の波を活動す、茶三てん(尊の寸を大に)を傾け香一路に焚き、雲程に奉送し、聖衆を和南す。
百年虚幻の身です、世間人にとってはそういう言い草であっても、参禅するとはまさにこれを知る、自分という破家散宅です、自分というなんかしら取りえが消えるんです、取り付く島もないんです、すると涅槃が見えます、ちらともあったら不都合です、」まるっきり見えなくなったら本来事です。四大に帰ると等しく地水火風に戻るとは、個人というものなし、十仏名はいわば人間らしいことへの執着ですか、最後のお別れですか、そうして次の世への手がかりです、仏の一端として生まれ変わって下さい、聖号を称揚し覚霊を資助すとはこれです。慧鏡とは法宝三昧です、自分というなければ世間宇宙鏡です。生きながら実感して下さい、仏教とはまさにこれです。輝きを分ち真風彩を散ずと、死に行くに従い色神が失せます、なんにもなくなる途方もない体験があります、透過して下さい。菩提園裏に覚意の華を開く、法性海中に無垢の波を活動すということがあります、仏です。道元禅師の正体ですよ、我が釈迦牟尼仏の声と姿とです。はいはなむけのお茶です。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。