心銘:牛頭山初祖法融禪師。
心性不生何須知見。本無一法誰論薫錬。往返無端追尋不見。一切莫作明寂自現。
前際如空知處迷宗。分明照境隨照冥蒙。一心有滯諸法不通。去來自爾胡假推窮。
生無生相生照一同。欲得心淨無心用功。縱横無照最爲微妙。知法無知無知知要。
將心守靜猶未離病。生死忘懷即是本性。至理無詮非解非纏。靈通應物常在目前。
目前無物無物宛然。不勞智鑒體自虚玄。念起念滅前後無別。後念不生前念自絶。
三世無物無心無佛。衆生無心依無心出。分別凡聖煩惱轉盛。計校乖常求眞背正。
雙泯對治湛然明淨。不須功巧守嬰兒行。惺惺了知見網轉彌。寂寂無見暗室不移。
惺惺無妄寂寂明亮。萬象常眞森羅一相。去來坐立一切莫執。決定無方誰爲出入。
無合無散不遲不疾。明寂自然不可言及。心無異心不斷貪淫。性空自離任運浮沈。
非清非濁非淺非深。本來非古見在非今。見在無住見在本心。本來不存本來即今。
菩提本有不須用守。煩惱本無不須用除。靈知自照萬法歸如。無歸無受絶觀忘守。
四徳不生三身本有。六根對境分別非識。一心無妄萬縁調直。心性本齊同居不攜。
無生順物隨處幽棲。覺由不覺即覺無覺。得失兩邊誰論好惡。一切有爲本無造作。
知心不心無病無藥。迷時捨事悟罷非異。本無可取今何用棄。謂有魔興言空象備。
莫滅凡情唯教息意。意無心滅心無行絶。不用證空自然明徹。滅盡生死冥心入理。
開目見相心隨境起。心處無境境處無心。將心滅境彼此由侵。心寂境如不遣不拘。
境隨心滅心隨境無。兩處不生寂靜虚明。菩提影現心水常清。徳性如愚不立親疎。
寵辱不變不擇所居。諸縁頓息一切不憶。永日如夜永夜如日。外似頑 内心虚眞。
對境不動有力大人。無人無見無見常現。通達一切未嘗不 。思惟轉昏汨亂精魂。
將心止動轉止轉奔。萬法無所唯有一門。不入不出非靜非喧。聲聞縁覺智不能論。
實無一物妙智獨存。本際虚沖非心所窮。正覺無覺眞空不空。三世諸佛皆乘此宗。
此宗毫末沙界含容。一切莫顧安心無處。無處安心虚明自露。寂靜不生放曠縱横。
所作無滯去住皆平。慧日寂寂定光明明。照無相苑朗涅槃城。諸縁忘畢詮神定質。
不起法座安眠虚室。樂道恬然優遊眞實。無爲無得依無自出。四等六度同一乘路。
心若不生法無差互。知生無生現前常住。智者方知非言詮悟。
牛頭の法融禅師は禅門の隆盛を見る六祖大鑑慧能禅師のそれ以前に当たります。問答往来活発地の花よりも仏の教えはこれをもってして足りるという、実にはっきりした心地と就中親切があります。対句一つをもって足りる、乱暴に云えばたてに読もうが横に読もうがいいんです。人間平らな平地です、聞いた風な禅問答や禅機横溢だのでなく、手つかずの我と我が身心の為に、この心銘はもっともふさわしいんです。初心の人には最善です。ついに参禅に倦む人には端的の品です。どうか一句通じて下さい。ほんとうにこのとおりにあるんです。詞を記憶してもなんにもならんです。心理学なぞ逆立ちしたって及びもない一三00年以前の心銘です。
心性不生、何須知見、本無一法、誰論薫錬。
(心性は不性なり、何ぞ須べからく知見を用いんや、本と一法無し、誰か薫錬を論ぜん。)
摩訶般若波羅蜜多心経ぱーらみーたー彼岸にわたる心の経、経すーとら実際を説くんです、心銘心のありようこれです、仏教すなわち足る、心を知る、救いとはこれです、よくよく看て取って下さい。心性こころというものは、心の姿ですか、もと不生、手つかずです、もとこうあるっきりで、作ったり失ったり、汚れたり払ったり、強くなったり、弱くなったり、立派にしたりできない。どうですか、これを知る、ほんとうの救いでしょう。心はどんなことがあっても損なわれない、生まれたまんま、生まれる以前のまっさらです、御命御辞ですよ、はいおしまい。宗教だの道徳思想主義など不要、だからゆえにいらない。何ぞすべからく知見を用いん、どうこうすることない、へたな反省文書いたって同じことの繰り返し。懺悔とは何か、オナニーの類ですか。知見とはだからどうのいっちゃ頭撫でくるだけ、氷を水といったろうが、溶けるときゃ溶ける。どう能書き垂れたって水とは何か=不明は科学者どもがよう知っている。心を求めるに不可得、われなんじを救い得たりと、本と一法なし。ピックアップしたって始まらぬ、乃至は鍛えようがないんです。これを無心という、心が無いんですよ、無いものはもうどうしようもないですあっはっは、はい仏教これ。
往返無端、追尋不見、一切莫作、明寂自現
(往返端無く、追尋すれば見えず、一切作す莫くんば、明寂自ずから現ず。)
ですからまず坐ってごらんなさい、坐らねば見えないんです、日常にまぎれていいのわるいの云っている分には、そりゃ縁なき衆生です、世の中先生だの宗教家だのばっかりですか、ではどうもこうもならんです。坐るに従い心に接す、ようやく面と向かいあう。すると見ている自分=心ですか、と見られている自分のの二分裂です、心=自分はたった一つなのに、どうしてもそういうことになる、嘘なんです。幽霊を取り扱う様子、往返端なくです、行き帰りするに従い、アンタッチャブルです。そりゃそうです、もとないものをどうこうしようとする、追尋するに従い見えず、追い求めるそのもの=心なんです、これはやるだけ無駄だ、めったやたらの真っ黒け。不甲斐ない、賽の河原に気がついて、手を引く、もうあかん、おらあの手にはおえん、なんとでもせえと投げ出すんです。するとふうっと来る、ふわあっとなんにもないんですか、明寂自ずから現ず、なんにもないを見ている自分=心がないんです。
前際如空、知処迷宗。分明照境、随照冥蒙。
(前際空の如く、知処宗に迷う、分明に境を照せば、照するに随い冥蒙。)
もとまったくこのとおり、初心というあなたが見るとおり聞くとおりのまっさらなんです、これを空と云うた、手つかずなんです。あなたが死んで三年たった後の風景、あっはっは同じ、あなたがいないだけ。空という消しゴムで消しさったんじゃないんです、だから空の如しと云うた。これを知ろうとする、人生いかに生くべきか、我らのありよう如何と問うときに迷妄、ただもうわかんなくなる。宗とは旨ですか、趣旨赴こうという、もとこのとおりまっただ中に生きている、自由自在なんでしょう、それをどうすべきこうすべき、是非善悪の縄に縛る、だれに頼まれもせずの自縄自縛です、その縄のはしくれを=自分だと思い違えるから、分明に境を照らせば、照らすにしたがい冥蒙、めったやたらのまっ暗がりです。これをそうだだからやってないで、坐ってよくよく見るんです。坐るとまずもって空です、取り付く島もない、じゃそれでおしまい完了なんですよ、淋しいなんの取り柄もない、はいそれがあなた。ところがすったもんだはじめる、どうしても取り柄が欲しい、悟りという自分がほしい。よくなったすばらしいとやる、境地というにしたがい迷妄、迷妄すったもんだあっはっはどこまで行っても、これを坐禅と思い違えている、さあどうですか。坐を知らない諸の宗教=随照冥蒙。
一心有滞、諸方不通。去来自爾、胡假推窮。
(一心滞る有れば、諸法通ぜず、去来自ずから爾たり、胡暇推窮す。)
妄想煩瑣で困るというんでしょう、妄想を起こすものおのれは一箇です、妄想の種類によらない、たといいいこと悪いことも、神経しなっぷすの点滅、念起念滅です。おもむくところ、面と向かい合うところ一つ、なにか一つ滞るとぜんたい不通です、だから一つ通ずると、ぜんたい解けるんです。皆由無始貪嗔痴生生世世を尽くしてという、自分はもうどうにも救いようがないなど、思い込まぬことです。そう思い込むことしなっぷすの一揺れです、次にはもうないんです。あっはっははいこれ救い。去来自ずからです、手のつけようがないんです。爾たりとはかくのごとくといいまたあまねしという、それに文句をつけて胡仮推窮、胡とは漢に対して云う、本来味方と外敵ですか、脇見運転して四の五の云う、他の標準を仮りて、こうあらねばならぬなど物差しをあてがうんでしょう、推し量る他なしに窮する、自分という自受用三昧にいちゃもんつけて坐っているんでしょう、そりゃ諸法通ぜず、なんにもならんよというんです、真っ黒け。はーいふっと開けるとぜんたい。
生無生相、生照一同。欲得心浄、無心用功。
(生に生相無く、生照一に同じゆうす、心浄を得んと欲せば、無心の功を用いよ。)
生きているというんでしょう、ではそれで了畢おしまいです、だからゆえにと云ったって始まらんでしょう。生死また同じ、どうしようもこうしようもなくあるんです。あるいはないんですか。それを生如何と問うとき、問うそのもの生です、見ること不可能を生照一同と云った。心は一つゆえに無心という単純な理屈です。ですから、坐っていて心を浄くする、あるいは心という純粋無雑なものを欲する、あるいはこれが本来とする、まったく意味をなさないんです。にもかかわらずだれかれやっている、愚かなことです、糠に釘ですか。そうじゃない、手をつけない、只管打坐まるっきりただ坐ればもと心浄なんです。浄いとは無いんですよ、坐って無いを知る、前人未踏ですか、絶学無為というんですか。まったく預かり知らぬことなんです、坐らない人には予想も付かないんですが、坐る人もあっはっは予想の外なんです、半日坐しても一瞬、自覚症状がないんです、そうです、無心の功を用いて下さい。
縦横無照、最為微妙。知法無知、無知知要。
(縦横照らす無きを、最も微妙なりとす、法を知るに知る無く、知る無きをもって知の要となす。)
照とは他に標準を設けていいの悪いのする=知りたいんです、坐っていてどうしてもそれをやるんでしょう、すると自受用三昧に行かない。ものみなふっ消えて、龍の水を得る自ずからなるということがない。忘我底という微妙に入らぬ、入頭の辺領というて、どうにもこうにもとやこうのおのれが邪魔になる。かまわんからおくんです、投げ捨てる、法を知るが嘘なんです、まっただ中にあっては知ること不可能は、思い切ってもうどうにもなれ、おれは法も仏教もおれもいらんとやる、自然成です。知るなきをもって知るのかなめとなす、あっはっはこれ仏教の真髄です。如何なるか是れ真髄、真髄ではなく皮袋であろうと趙州和尚の応える、皮袋を破って下さい、取り付く島もないんです。まっぱじめっから自分という用無しです、外に参じて下さいというが如く、これ初心もってすべては終わり、わかりますか、まったくわかる必要がないんです。
将心守静、猶未離病。生死忘懐、即是本性。
(心を将って静を守る、猶を未だ病を離れず、生死忘懐、即ち是れ本性。)
坐っていて静かになったというんでしょう、妄想が納まる、具合よく行っているという、なをこれ病を離れず。静かを見ているもう一つの自分があります、二分裂です、収まりつかないんです。坐る人だけこれを知って、さあどうしようかということです。坐らぬ人はいいことしいですか、だからおれはいいんだという悪、信仰という不都合、女の身勝手あり、男のヒステリーありですか。世の中騒然です、難病ですかな。わずかに坐して生死懐うを忘れる。なんでもありありをぶっつけるんです、たとい坐にすべての答えあれば、これを聞く、結果なければ坐と心中、ぶっ殺したるの勢いです。静かとは本性これ、どうしようもこうしようもなくぜんたいです、すなわち自覚症状なし。それを静かにしているという、犯罪人矯正ですか。お仕着せの道徳、こうあるべき、おまえは悪いことをした、だからという、刑務所人間を作るだけです、嘘なんです、せいぜいが二重人格、二度と真人間になれないんです。懺悔という宗教といい、たいていそういうこってす、どうです、免れて下さい。
至理無詮、非解非纏。霊通応物、常在目前。
(至理詮無く、解くに非らず纏うに非らず、霊通物に応じて、常に目前に在り。)
先哲至理などいう、詮はせんなくなどいう、至りえ諦めるとは、もとこのとおりにあって納まるんです、哲学や科学の中途半端じゃない、記述するからに遠いんです。外れていることを知らない、それじゃどうにもならない、とくとくとして弁じながら、どうにもならないことをどっかで知っている、これが世間人です、騒がしいんです。そうではない、解くにあらず纏うにあらず、手を触れるに従い無いことをしる、これ坐の工夫です、触れる手のないのを知る、じきに霊通応物です、ものみな現前している、初心とはこれ、たしかに我れと有情と同時成仏事、別格であり歓喜これに尽きるはなし、ですが一体にものみな変わらんです、不生不滅不垢不浄付け足すところもさっ引くところもない、それゆえにまっただ中です、大海の中にあっての大海、虚空が虚空を坐禅します。とやこうの理屈能書き失せて、大般若です、もと初めからです、一切事に於て然り。
目前無物、無物宛然。不労智鑑、體自虚玄。
(目前物無く、物無うして宛然、智鑑を労せずして、體自ずから虚玄。)
物があるという、ないというのとまったく同じです。無心とはこれ、わずかに自分というこのものが失せると、目前物無く、物無うして宛然です。有象無象という我利我利というのと同じです、画像を描く妄想よこしまを描くんです。雪舟の水墨画のように、目前無物無宛然がほんとう本来なんです。自分で確かめるよりないです。すると智鑑を労せず、評論家、フェユトン時代がどっか行っちまうです。こうあるべきの物差しが失せる、もとこれ標準自受用三昧は、自分という皮袋が破れてまわりとおのれが同じ、内外なしは内外なしの意がないんです。これを体自ずから虚玄です。どういうものか百万べん云ったってせんないです、自ずから現ずると、あっはっはどうやら浮き世おさらば。たとい人類滅亡も、はいそうですかってなもんの、せせこましい地球宇宙だの、醜悪みっともないきりの平和だ幸福だのと、すっかり無縁になりますか。こーんなに楽しいことはないって、はじめて本来人、生まれたての赤ん坊ですか。
念起念滅、前後無別。後念不生、前然自滅。
(念起念滅、前後別無し、後念生ぜずんば、前念自ずから滅す。)
五W一Hなにがどうしてどうなったという、そりゃまそういうこってすが、たとい起承転結も、そういう訓練も、もとぽっと出ぽっと消えるきりの念起念滅です。神経シナップスの電気現象ですか。前後別なしです、思想の内容に関わらんのです。心というもののこれ本来です。心という器ですか、主人です、思想はお客さん、これは主人の問題なんです、ぽっと出ぽっと消えるところをそのまんまにする。なぜかなどわからない、ぽっと一念起る、するとそれにとっついてだからどうの、あるいは際限もない、その取っ付くところを止めればいい、後念生ぜざれば前念止むんです。自ずから滅、ぽっと消える神経シナップスそのまんま。妄想が出たらいけないんじゃないんです、この念起念滅なければ脳死です、発狂します。ただ後念不生ならばまったくないと同じ、心が一つになるんです、出っぱなし、取り扱わない、するとぱあっとなんにもない、それを見るなければ仏、はいこれ無心の実体です。
三世無物、無心無仏、衆生無心、依無心出。
(三世無物にして、無心なり無仏なり、衆生無心にして、無心依り出ず。)
三世は過去現在未来または前世現世来世です、あっはっはひっくるめて全部です、自分という思いつく限りですか、三世物無なく、どうですかこれ、まったくの自由でしょう、解き放たれる、以無所得故にボーディサットバ修菩薩行です、わかりますか。理論じゃない実際ですよ、仏というたがをはめない、心というこうあるべきじゃないんです、心は心を見ること不可能、仏は仏を知らないんです。たとい万能の神様がわれらものみなを作ったって、衆生はそれを知らないんです、知ったらおかしなことになる。あっはっはどうですか。ものみな無心より出で、無心によってこのとおりこのとおりするんです、キリスト教の牧師が、どうもたいてい複雑怪奇な面してますがね、ついには神さまを一00%信じることだと云った、100%信ずるとは忘れることです。わたしらの暮らしが、実に忘れることで成立っているのを見て下さい。箸を持つから歩くから用便から、パソコンをうつまでみーんなです、複雑怪奇じゃないんですよ、ものみな無心より出ず、はいこれ。
分別凡聖、煩悩転盛。計校乖常、求真背正。
( 凡聖を分別すれば、煩悩転た盛んなり 計校すれば常を乖れ、真を求むれば正に背く。)
凡人聖人という、驚異あれば狸奴白虎下劣あれば宝貴珍御ですか、どうしてもこれをやる、迷悟中の人です。坐っても坐ってもなかなか抜けない、今に見ていろ僕だってです。いつかな悟れない、悟った人はこうあるべきという、煩悩うたた盛んです、是非善悪に終始する。他の標準を仮りダイアモンドと炭ですか、じつはそうしている、計校しているそのものなんですが、だって自分とは他にないです。いいわるいもない、ただの現実、事実です、それに背いたってどうもならん、めったらになるだけです。君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず、だって初心まっぱじめからこのまんま、どっぷり漬けなんです。答えが出てるのに答えを求めようとする、そりゃ煩悩うたた盛んです、正に背くんです。いやはやいくら云ったって始まらんですか、なにしろ知らんけりゃどうもならんです、知って下さい。知るには手放しです、たいてい大苦労の末に、もうどんずまり、手も足も出ないやってんで、あっはっは手放し、初心を呑却。
双眠対治、堪然明浄。不須功巧、守嬰児行。
(対治を双眠すれば、堪然として明浄なり、須べからく功巧を用いず、嬰児の行を守る。)
対治を双眠するこれが要決なんです、どうすべきこうすべきと云っている自分と、そう云われている自分と、あっはっはそんなこともとありえないのに、なぜかやっている。坐の工夫です、工夫がうまく行くとは、標準通りにするか否かではない、ただもう手放しなんです。捨てるとはこのこと。どうしても捨てられない、無所得の故にと云いながら、得ようとする、握り締めるんです。それを手放して行く、捨てるという、すなわち自分を捨てるんです。きまって対治を双眠します、堪然として明浄、ふうっとやって来ます、なにがなし気がつくことあります、向こうから来るんです。自分という特別じゃない、初心ただの風景ですよ。風景に自分が消えちゃうんです、消えるから帰依ですよ。仏という筆舌に尽くし難い、微妙幽玄です、あに巧功を用いんや。功巧の離れ切ったところに、とやこうない、嬰児の行を守るんです。坐ったことのない人は、必ず世界平和だの、みんなでもって偉業をだの、宗教同じなどやるんです、すると必ずその反対があります、騒々しくがさつです。自足を知らないんです。
惺惺了知、見網転弥。寂寂不見、暗室不移。
(惺惺として了知すれば、見網転たた弥まねし、寂寂として不見なれば、暗室移らず。)
そりゃどうしたって悟ろうとする、安心立命が欲しいんですか、約束手形がいるような気になっている、ただじゃあすまされんのです。初心もとこのまんま、はいおしまいってわけにはなぜかいかない、従いこうあらねばんらぬ、すべらくかくの如しやる。もと標準は自分、自受用三昧だというのに、他の標準を仮るんです、すると見網転たたあまねしです。世の中これをもって是とするんですか、見解の相違という、他の万物一切が同死同生底、手を携えて行くのに、人間だけが見識と弁解です。喧嘩をするには必ずおれはいいおまえが悪いやる、滑稽です。そうじゃないんです、ものみなあるがよう、一目瞭然です。長らくともに暮らすと、せいぜいがあれはああゆうやつだという、詮索したってなんにもならんことをよう知ってます。ハウルの動く城を見たときに、いきなり画面になってアッハッハ向こう合わせです。まったくの無感想で帰ってきたら、哲学出の弟子があれは失敗作でもってなにがどうでてという、浅薄です。このばかったれ、それでも坊主かと怒鳴って、はて糠に釘。寂寂として不見は暗室移らず、ものみなあるがようにある、意見によらない、そうねえ200%存在ですか。為にするには機縁による、熟さぬ人に何云ったって、こりゃどうもならん、自分の持ち物見解にいっぱいで、他入って行かないんです。以無所得の故に修菩薩行です、他にこんな教えはないんです。ようやく坐が坐になる、悟ったとか大自在とかいう、そういう腰掛を蹴倒すことからです、でないと不具者ですよ。うっふ、癡人に夢を説くなかれ、はい。
惺惺無妄、寂寂明瞭。万象常真、森羅一相。
(惺惺として妄無くんば、寂寂として明瞭、万象の常に真たり、森羅一相なり。)
一切合財が失せ切って、もって洞然として明白、虚空の中の虚空ですか、虚空というイメージングじゃないんです。境地や悠々自適などの絶しはてた世界です、あっはっは世界がないんですか、空前絶後の事。菩薩清涼の月畢竟空に遊ぶ、衆生の心水清ければ菩提の影中に現ずは、これ修行の尽きるところ、あるいはこれよりまったく修行、というより生活が治まるんですか。万象の常に真たり、森羅一相してこうあるんです。わがことまったく終わるということあって、実に日々に新たに行くんです。こうなったら転法輪です。たしかに曖昧未だし、どっかひっかかる感じのしている間は、どっかひっかかる転法輪しかできない。たしかに他なしと知り、まったく他なしに指示するとも、実にそうは行かんのです。自未得度先度他の心を起こすとは、まさにひっかかりとっかかりのおのれを明け渡すことなんです、大法のほかてんからなくなって、自分が得たいという、ちらっとも一点を明け渡すんです。他の能書き三百代言の預かり知らぬところです。今の世流布には及びもつかぬ、百人のうち九十九人までは、仏に出会うとも知らず信ぜず、あるいはそういう世の中かも知れぬ。では一箇半箇に確実に伝え残して行く、これのみを畢生の大事です。いつか必ず花開く、いえこの事無うしては、人類そのものの意味がないです。
去来坐立、一切莫執。決定無方、誰為出入。
(去来坐立、一切執無く、決定無法、誰か為に出入す。)
去来坐立立ったり坐っり行ったり来たり、一切執なく、我々の日常は実にそのように行なわれているんですが、それを知らないんです。暗室移らずという、ものみなものみなの露われるまんまに行く。わずかに坐った人のみこれを知る。無内容という内容ですか、信ずる者は救われるという、5%ほど信ずると信じたというんでしょう、だからおれはと、100%信ずるとそんなもの失せ果てる、忘れるというだけがようやく筆舌です。これ生活そのもの。生活しながら生活をそけっぱなし、そけた分をああだのこうだのいう、淋しい淋しいで騒々しいんです。すると収まりがつかぬ、人類の歴史ないしは社会国家これです。苦集滅道よってもってすべては苦しみだという、苦の集大成これ認識、ではそれを滅する如何、道によるという。いらんこってす、無用の長物。決定無方、だからこうすべき、おれはもう決してこういうことはしないという、まさにそういうはしから破れるんです。この自分というまったくの無自覚を、200%そのまんま生きる道しか実はないんです。だれが為にか出入りす、これまったいらに知って下さい。端に為にすと、自受用三昧の是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪とある、幸福だの平和と人のいう、そやつの千万倍じゃなく、ただの完成体です、すなわちただの人、うっふうかすっともかすらない。
無合無散、不遅不疾。明寂自然、不可言及。
(合無く散無く、遅からず疾からず、明寂自然にして、言の及ぶ可くにあらず。)
人を引き寄せるにはまず人の辺に乗っ取って、あっはっはあ頭なでなでして、おうおういい妄想だとやっといて、ふわーり浮き上がったところを急転直下。わしは短気で狭量だで、すぐこの馬鹿たれえめがとやってしまう、いやもう大いに反省しなくっちゃ。合なく散なく、遅からず疾からあず、のらりくらりのひょうたんなまずですか。意見主義主張によらぬ大器というよりは、単に器なんです。変なやつだなあと云われるゆえんです。仏がしゃばの皮かぶっている、となれば人々みなかくの如しなんです。生まれてからしばらく、自分というよこしまをもって七転八倒します。なにしたってろくなことない、傍迷惑地球のお荷物ですか。大統領になろうが聖人であろうが同じです。これに気がついて、われというその思い込みを返上する。すると仏だったんです、今までのことは反省しようが追いつかない、雲散霧消してあとかたも残らない。たとい余生も仏という現前する、ものみなと同死同生底です。明寂自然、言葉の及ぶべくにあらず。着た切り雀の、われという劣悪のお仕着せを脱ぐんですか、うわーっといったぐらいの仏の、宇宙風呂ですか、空前絶後事、でもさこれを得るには、まず自分とおさらばせにゃいかんです。
心無異心、不断貪淫。性空自離、任運浮沈。
(心に異心無く、貪淫を断ぜず、性空自ずから離れず、任運に浮沈す。)
自分とは何か、いいの悪いの云っている者なんです、云われている方も自分という、へんてこりん。自分とおさらばとは、この二つが一つになる、心に異心なく。いいですか一つになるとなんにもなくなっちゃう、無心です、心が無いんです、坐禅とはもとこれを実証するためのものです。心に異心なくとは、まるっきりなしで坐る醍醐味、これ筆舌に尽くすこと能わず、各々自分で確かめるしかないです、はーい確かめようにないものこれ。そうしてもって貪淫を断ぜずです。自縄自縛の縄のはしくれが、かつての自分だったとすると、その縄がどっかへ行っちまったです。時と所に従うだけです。世の道徳家宗教家のように、こうせにゃならぬ、神様だのだからの云わない、そういう縄で縛らない、新興宗教もそりゃ他諸宗も、縛りをもってなるたけ大勢らゼニを寄せる仕組みですか。すなわちもっとも真実に背く、でたらめ滅法界です。平和を云い幸福を云うは、まさにその反対を云うのと同じなんです、よくよく見て取って下さい。性空自ずから離れず、あるがまんまという手付かずです。いいですかあるがまんまというお仕着せじゃないんですよ、任運に浮沈す、まったくの糸の切れた凧。てめえこうあってそいつをうしろから糸で操る、うっふ諸悪の根源これ。是非善悪の徒輩もっとも不合理、不条理を知って下さい、思い切って手放す、任運に浮沈して下さい、大死一番これ。
非清非濁、非浅非深。本来非古、見在非今。
(清に非ず濁に非ず、浅に非ず深に非ず、本来古に非ず、見在今に非ず。)
世の中清濁合わせ飲むなんて云うでしょう、清とし濁とする標準がある、物差しをもって見る、すなわち濁ですか、醜悪です、虎の威を仮る狐。でもって風景を見るのに、取捨選択による、すなわち汚ですか、趣味をもってまったくすっきりしないんです。でも浅にあらず深にあらずというとき、人はいったん死なねばならんです。自分という固執がふわーっと外れる、かつて坐るについては、我がものにしようとする。なにほどか結果が欲しい、獲得が必要であったのが、根本に失せる。ものみな掴み所がない、意味なしです。自分というたった一点を失うんです。本来古にあらず、本来今にあらず。来し方行く末が見えぬ、すると歴史や社会や、ついの今までよってもって自分であったものがない。自分という生涯、たまたま、しばらく迷い出て、二十年あるいは五十年、なんのなにがしであったものが、雲散霧消して、さあ如来が現ずるんです。そうか夢を見ていたんだな、たった今覚めた所だ、長い間うっふう何をしていたんだ、さあ現実がある、生活が。本来古にあらず、今にあらず、なにさ五十年の夢も一瞬。
見在無住、見在本心。本来不存、本来即今。
・見在住する無く、見在本心、本来存せず、本来即今。
自分という存在はと求める、ダザインだなどいうとき、うっふう求めるに不可得は、二二んが四の数学ですか、求めるものこれ。見在たった今です、たった今を無住、どこにどう住んでいたかわからない、これ実感です。能書き垂れてだからどうの、よってすなわちやると、住んでいるような、たった今あるような気になるんです。嘘なんです。六祖応無所住而生其心、乃至は風動かず幡動かず汝が心動くなり、真実はこれ。木の葉揺れずこっちがこう揺れ動く。本来存せず、本来即今をほんとうに手中にして下さい。もとこのようにある、万人あろうがたった一通り、実に違いようがないんです。仏と云い大法という他なしです、実際です、パーラミーターという人智なる、一切の智慧ここより生ず、不生の智慧。オールマイティあるがまんま。
菩提本有、不須用守。煩悩本無、不須用除。
(菩提本有、須からく守ることを用いざれ、煩悩本と無し、須からく除くことを用いざれ。)
菩提本有、菩提心とは何かと問う弟子がいた、もと菩提心、手つかず二00%、いらぬお節介、取り越し苦労を止めて、長長出せしむることこれ。要するにてめえに首突っ込んで歩くな、なんていうみっともない。どこにそんな鳥獣、あるいは花に月に空の雲に、木石山河みーんな丸出しの、てめえ不格好のてめえばっかりがいるかと。でもまた聞く、菩提心とは何かと。仏教らしいことをしたい、なにほどかいいことやってないと納りがつかぬ、この馬鹿ったれ、坊主止めちまえ、我利我利亡者が。すべからく守ることを用いざれ、まずそいつから手放すことだ。自分という取扱なければもと仏、地球ものみな手つかず。見れども飽かぬ、でなくってなんの存在。羽化したての美麗もおんぼろ蝶も、さなぎもいもむしもぜーんぶです。煩悩といってたとい忌避したとて、別口破れてわっはあ不始末。刑務所教育の二重人格こさえるが落ち、もとまるごともって、まったく不始末のない現実。共産主義のようにそっぽ向いて理想なと、目的のためには手段を選ばずといって、なんたる不始末、見ても聞いてもいられない。他の一神教等よくよく見れば、地球の病気、くじら捕るなのこれはまあいったい何。
霊知自照、万法帰如。無帰無受、絶観忘守。
(霊知して自ずから照し、万法に帰如す、帰する無く受くる無く、観を絶し守を忘る。)
幽霊と云うんでしょう、幽も霊ももとこれがありよう、自分という邪まなしにものみなのある様、自分なければものみなもないんですが、すると死んでホワイトアウトの真っ白というんでそう、あっはっはそりゃ真っ白けがあるんです。雪舟の水墨画のようにものみな整然、太虚の洞然たるが如しと、ありながらない、ないながらある、幽かそかに霊おくぶかしですか、すなわち幽霊になって一人歩きしちまった。どうにも想像がつかないんです、すると想像をつけるものが幽霊になったんですか。すなわち自ずから照らす、中心が失せ切るんです、あっはっは皮袋がです。手足を持つあたわず、足だけ無いんじゃないです、これを万法に帰如という、坐って下さい、坐らずして名文句なぞないです。たしかにものみな失せる乃至は親しく虚空これが内容です。日々新たにですよ。帰るなく受けるなくただもう長長出です。生悟りも空前絶後も、だからどうのあっちゃ届かないんです。境なしどんな具合だと聞かれても答えようのない、なんにもねーじゃねえかと云われて、せいぜいがどあほと返す。観を絶し守を忘るることこれわが宗旨なり、他の諸宗の預かり知らぬ所です、はい月のように太陽のように。
四徳不生、三身本有。六根対境、分別不識。
(四徳不生にして、三身本有たり、六根境に対して、分別して識らず。)
四徳仁義礼知ですか、まあ徳あるは誉むべし、徳なきは哀れむべし、世の中というあるいは生涯というめりはり、あっはっは潤滑剤ですか。今の世あんまりみっともないんですか、言葉使いがなきゃ言葉も不自由、四徳なければかえってがんじがらめ、でもこれもとないんです、どこにもそんなもの書いてないんです。よって出入り自由、知らぬまにこうあり、人を喜ばせ、あるいは身に徹するということあり。人本来厳粛です、荘厳なんです、別に四徳にもよらず四戒にもよらず、あっはっは四芸にもよらんですか。孔子の周礼は美しいですが、それによって国を興す、あるいは人倫も、なを過ぎたるは及ばざるが如し、一長一短です。よって老荘思想というんですが、同じ問題の裏腹というより、千変万化、すなわち自堕落。そうではないんです不生、こうだからこうあるべきと化けて出ない、仏の知慧これ、よくよく鑑みて下さい、ついに鑑みるおのれがないんです。六根清浄という、清浄とはないんです。無眼耳鼻舌身意無色声香味触法、たとい分別ありとももとないんです。触れることも見ることもできない、あっはっはなんとなれば目もなし、手足なし心もなし、六根境に対するという、そんなことまったく知らんです。ゆえにもってなんの捕われもなく、明日が来て毎日、まったく不染那、汚れを知らんのです。うっふっふ自殺したいんなら、はいどうぞ。
一心無妄、万縁調直。心性本斉、同居不携。
(一心妄無ければ、万縁調直なり、心性本と斉うて、同居して携えず。)
一心妄なくんばとは、妄想にしてやられるんですか、すなわち乱れる、暗愚です。心という無心、もとなんにもないところに有を生じて、だからどうだとやる。アメリカは軍産複合体で、ブッシュの馬鹿はその傀儡でもって、十年にいっぺんは戦争して、要するに株が値上がりゃいいとか、一念起こって際限もなくやるんでしょう。すると万調直というわけには行かなくなる。一神教という、三つ巴の兄弟喧嘩ですか、万縁調直を逆なでするような、こっちの神さまに従えばという。お互い尊重しあうったって、あっはっはないに越したことはない。満ち足りて喧嘩せずなら、赤貧洗うがごとくあって、大満足です。大安心とは、心性本ひとしく、同居してたずさえずです。たれかれだからどうのとやらない、平和とは不生なんです、自ら事を運んでこうすべきしない。その心性本斉個々別々、廓然無聖知らんわいなんです。地球ものみなかくのごとくあって、それを人間さまだけがかき濁す。神だの仏だの云って、同居して不携ができない、牛や豚は食うためのもの、くじらはガイアの魂だからなど、勝手な理屈つけないんです。因果必然、天に唾すりゃてめえに跳ね返って来るだけなんですが、なんせ傍迷惑。信仰なくして、信仰一00%の帰依、清浄というさえ汚らわしいんです。無宗教は雑念です、さあこれを得て下さい。でないと宗教はなくならんです。
無生順物、随所幽棲。覚由不覚、即覚無覚。
(無生は物に順うて、随所に幽棲す。覚は不覚による、即ち覚は無覚なり。)
それだから参ずるに当たってどうしようかという、妄想や空想をおくのか捨てるのか、出っぱなしの手つかずと云えば、妄想のまんまにぐらぐらやっている、追っかけ回すのと、そのまんまと区別がつかない、あっはっはどうしようもない。今の人とくにだらしないというんですか、なんとも不都合です。たしかに念起念滅、ぽっと出るぽっと消えるままにすると、まったくなんにもないんです。なんにもないを見なければ、それでおしまいです。でもそうならず、妄想煩瑣四の五の云っているには、もと自分に用なしです、なんでもいいまっしぐら、外に向かって坐るふう。初心見たとおり聞いたとおり、それそのまんま無生順物は、死んで三日たった世間ですか。あなたいないでものみなあるんでしょう、うっふ随所に幽霊ですよ、自分というどうのこうの取捨選択によらんのです。どこへ行こうがそこ、坐っていて、時間も知らず我れも知らずという、そういうことが必ず来る、すると近いんです。失せ切る無上楽があります、まさに覚は不覚によるを知る。無自覚の覚ですよ、意識のあるとなしとに関わらずです。仏如来が実現します。これを云うにただの人、元の木阿弥、なんとまあこんなにすてきなことはないんです。世の中ただでいられる、生まれ変わり死に変わりしようが、路傍の石ころになろうが、うっふう真実。
得失両辺、誰論好悪。一切有為、本無造作。
(得失は両辺なり、誰か好悪を論ぜん、一切為に有り、本と造作無し。)
得失是非という、世間問題にするのはこれです、生きて行かねばならぬから、ゼニ儲けなけりゃいかんからという、いったん生き死にをはなれ、ゼニ儲けを外れると、物のありようが見えて来ます、仏という我れそのものです。あっはっは人間一度はそこへ帰るべきです、救いも真実もそこにしかないです。一得一失一つ得るあれば一つ失う、天然原理ですか、ただこれ一得一失だけがある、人間の好悪好き勝手にゃよらん、好悪は論じて際限もなしってだけ。一切為に有りです、だれがなんの目的でという、そんなけちな話じゃないんでしょう、猫には猫現じ鼠には鼠現じ、まったい正解他にはなし。坐禅は坐禅の為にす、もと造作無しを知るにしたがい、本来のものになるんです。なんのことはない、もとあるがようの廓然無聖です、花のように知らないんです、月のように自ずからです、花は花と云わず月は月と云わず、世界宇宙まったく平和です、永しなえにこの中に行なわれることを、ようく見て下さい、他に云うことなし。初心の行を守る、空劫以前の出来事です、はいこれ。
知心不心、無病無薬、迷時捨事、悟罷非異。(心を知る心なく、病無ければ薬無し、迷える時は捨てる事をし、悟ればすなわち非異を罷れる。)
心のありようをこれほどに確かに記すもの他になし、心理学だの宗教などいらんです、心はたった一つ。一つが一つを知ること不可能、だからなんにもない無心です。なんにもないと云って来た人に、担いで帰れと云った、そりゃなんにもないを見つめている心があるんです、一つが二分裂です、たいていみなこれです。虚空と云えば虚空があるように思う、なにをどうすりゃあとて、七転八倒。参ずるには自分の心をあげつらう、そりゃもと不可能なんです、糠に釘やってるだけです。病無くんば薬無し、自分という無いものにかかずらわる、すなわち病です。病をこさえといて、薬が欲しいという、あっはっは諸君の参禅まさにそれ、違いますか。ないはずの自分と格闘技、虚空と自分の格闘技、すんでに近いですか。ないはずの自分を見つめて無事禅を免れる、格闘本来そのものと気が付くのに、手間ひまいらんです、底をぶち抜いて下さい。迷う時は捨てようとする、捨てるはしからますます煩瑣です。対峙を双眠という、妄想をなすのも、捨てようとするのも同じ自分、たった一心なんです。これを悟るに従い手つかず、いいことはいい、だから悪いしたってらちあかんのです。らちあかん世の中、あっはっは世界宇宙、人類一般まさにこれに尽きるんです、他にはまったくないんです。世の人他のことばっかりなんでしょう、騒がしくって不幸です、まったく収拾がつかない、はい、たった一人でいいです、納まって下さい。
本無可取、今何用棄。謂有魔興、言空形備。(本と取るべき無し、今何の棄つる用あらん、有を謂えば魔興り、空を言えば形備わる。)
だからもとこのまんまなんです、自分をどうしようこうしよったって、本来人なんです、自分というたがを食み出しちまってるんです。自縄自縛のにいくら縛ってみても縛れない。虚空というと虚空のあるように思え、いいことあれば悪いことある、そりゃ世の中のしきたり、あるいは個人の便宜ですか。でも便宜そのものが底抜け、魔起こり形そなわりする、あっはっはアメ-バみたいですか、たとい捕らえどころがないんですか。いえそんなこっちゃまったく届かない、バーチュアルなゲーム機械の勝ち負けのように、いったん離れると夢、人生ゲームまさにそれですか、銭金に変えるというあっはあっは。難波のことは夢のまた夢、もうないはずの跡形を歴史というんですか。取るべきなく棄つるべきなし、ものみなどうしようもこうしようもないです。尊敬する愛着を持つ、見習うべきは、いったん自己という架空を離れる。我妄を抜け出して清々は、仏という真我という、有という邪魔もなし、空という形骸もなし、たとえようもない独立独歩です。もと与えられた個という、無限宇宙ですか、手つかずに得るこれを、どうか得て下さい。おれは悟った、お釈迦さんだろうがなんだろうがという人、わずかに自足を味わって下さい、他の何にも変えがたいのです、修行のみ。
莫滅凡情、唯教息意。意無心滅、心無行絶。
(凡情を滅する莫れ、唯息意せしむ、意心を滅する無く、心行を絶する無し。)
どうしてもこれ参禅の始めに、煩悩妄想を滅しようとする、わいわい出て来るやつがうるさったい、あるいは考えとしてこれはいい、これは悪い、恥ずかしいだのだからおれはやる。ただこれ取扱による、妄想煩悩とて、もと自分のものじゃないんです。さまざまにある、たださまざまにあるっきりです。それを取り扱うから煩悩であり、うるさったいどうしようもないんです。取り扱わなければまったくないんです。ただ息意せしむ、ぽっと出ぽっと消えるに任せる、意というこっち側とすりゃ、心という向こう側ですか、すでにないものをとっつかまって、ではこれを滅しようとする、そりゃお笑いです。あっはっは七転八倒です。幽霊と格闘、勝ち目はないですか。心というつまりはこうあるからこうすべきという、行い清くしという、坊主とすりゃこうあらねばならぬ、二重人格だのバサラだのいう。なに赤ん坊のようにただ。まったくに顧みぬ、だってさどっち行こうが、人間それ以外にないんです。世の中世の中の通り、まずは落っこちないように生きて行く、はっはっは格好つけるよりは、仏が大事です、だってさここにおぎゃあと生まれたんです、他つまらんことは肩が凝るです、はい。
不用証空、自然明徹。滅尽生死、冥心入理。
(空を証するを用いざれば、自然に明徹す、生死を滅尽して、冥心理に入る。)
虚空というと見える、ビジュアルなものに思えるんでしょう、これ心病です、そんなはずがないんです。空という、空観という学者が弄ばれる、すなわちおのれの空想にしてやられる。菩薩清涼の月畢竟空に遊ぶというとき、空という空しいものがあっては、そりゃ様にならんです。参禅の人まずこれがわからんのです。空を証するを用いざればということによって、始めて坐が坐になるんです。なんにもないがほんとうになんにもないになる、はいまずはこれです。無心に入るんですか、こんなやさしいことはないのに、これができない、どこまで行っても有心なんです。有心の七転八倒は、一に得た、どんなもんだと云っては他にひけらかす、一に自分納りがつかないんです。有心は有心という架空、不都合を知っています、ただで終わっているはずが、食み出し泳ぎだしする、さあこれをどうするか、自然に明徹すと。自ずからの方法しかないんです、どう説いたって手放し、対峙を双眠せしむるとほどしか云いえぬ、人人苦労する所以です。思い描くことを辞めればいいんです、すると自分ということがまったく見えない、赤貧洗うがごとくとはこれです。文無しには明日の予定がつかない、あっはっはホームレスでも青テントぐらい工夫するんですが、お先真っ暗冥心ですよ、そいつが逐一に理にかなうんです。奇妙なものです、元の木阿弥これ。
開目見相、心隨境起。心處無境、境處無心。
(目を開いて相を見るに、心は境に随ひ起こる、心処に境無く、境処に心無し。)
どうもノウハウを問うのに、心のありようをという、こうしちゃいけないだからどうだという、総じて不可は、そうやっている、取り扱っているもの心なんです。すでに念起念滅しているものを、さあどうしたらいいという、是非を問う、そうじゃないんでしょう、目を開いて相を見る、真正面を向くんですか、するとないんです、心というたった一つです。境とはまあ外にあるもの相手ですか、従い起こるんです、たとい因果必然もぽっと出ぽっと消えるだけです。心起心滅するただそのようにあるだけです。心というゼロがあるっきりです、ゼロとはあらゆるものに瞬時に反応する100%です。心清らか心濁るとかに無縁です。正直とは目を開いて相を見る、すなわち全面開放です。心処に境なく、当然のこってす、なんのとらわれもなくです。境処に心無く、我執の身勝手が届かないんです、こんな当前がごっちゃになって混乱している、俗人という世間シャバこれですかあ、だったら元に戻して下さい。諸悪の根源、騒々しい淋しいっきりですよと、仏が示す。信じる者はがんじがらめ、道徳通念喧嘩のもと、思想という酔っ払いです、哲学という無駄、人間の救いとはわずかに心処を知る、ただこれ。
將心滅境彼此由侵。心寂境如不遣不拘。
(心を将って境を滅すれば、彼此由り浸す。心寂にして境如たり、遣はず拘らず。)
境というたとい見えるものです、ほんとうは見えない、知らない無いんです。それを境地といい、悟った人の心境とか、光明とかなんとか云うんでしょう、あっはっはそんなこと云ってるうちは俗人迷悟中です。ちらともあればそれによって倒れる、よってもって境を求める。心を運んでこうあらねばならぬ、是非善悪です。まさに心境を得たという時に、彼此より侵す。造りもの壊れ物です。初心の人必ずやるんです、初心そのものでおっ放しゃいいんです、女人でまさにおっぱなし坐り放す人がいます、一度二度の接心に、古参がまったく敵わない、面白いです。どこまで行っても心を用いて境をなすには、思い切って手放して下さい。自分というものの死ぬのを覚える、すると七転八倒が消えます、心寂にして境地というまったく無いんです。イメージングのない現実だけです、ちらとも浸せば身心が不可という、背くんです、仏という大火聚の如しですか。遣わず拘らず、水は方円の器に従う、氷であったがつがつにもうはや帰ることができないんです、汝今これを得たり、よろしくよく保護すべし、銀碗に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、あるいは混ずる時んば処を知ると、はい宝鏡三昧です。
境隨心滅心隨境無。兩處不生寂靜虚明。
(境は心に随うて滅し、心は境に随うて無し。両処生ぜずんば、寂静にして虚明なり。)
境と心という、どういうことだと思いますか、心あり境あり、見るものと見られるもの、無眼耳鼻舌身意だからどうのと、うっふっふ解かる人間違いなんですよ、まあさわしにはまったく不明です。説こうたって弱っちまうです、こうあるといって両手を広げるぐらいが関の山、仏法を尋ねるには、どうか他へ行って下さいと云いたくなるです。わずかに日々に新たにということがあるっきりです、申し訳ない。境を求め心を究めようとする、求め究めようとするものこれ。無心というは無いによって金剛不壊。無いとはものみなです、どうしようがこうしようがそのものです。取捨選択に拠らない、取捨選択も大海の波ですか。不生とはこれ、寂静虚明の人、まるっきり手つかず。磐桂禅師は、中国から隠元禅師がやって来ると聞いて、ありがたいことだ、万里の波頭を超え、大法の為にと云って、江戸から博多まで出迎えに行く。タラップを下りて来た隠元さんを見て、くびすを返す。弟子がせっかく来たのになぜと問うたあ、あれは不生の人にあらずと云った。趣味の人、騒がしゅうことを起こす人だと云ったんです。単を示す禅者にはあらず、境あり心あり、無心という金剛不壊を知らず、一目瞭然事。
菩提影現心水常清。徳性如愚不立親疎。
(菩提の影現ず、心水常に清し。徳性愚の如く、親疎を立せず。)
菩提心とは何かというんでしょう、自分というこのものを隠さず、くらまさずまったく現わすことです。菩提といって求め趣くものじゃない、形にする狭き門じゃないんです。心して狭き門から入れという、あっはっは狭き門から入ったら狭いっきりですか。もと水の中にあって渇を求めるごとく、菩提本有です。衆生の心水清ければ、菩提の影中に現ずと、影という、うっふっふ浮き草に影というものありにけりですか。いいえ影なんてないです、だれか菩提心という、では菩提心と云うたです。濁りなき心の水に澄む月は波も砕けて光とぞなる、せっかく本来本法性でありながら、なお証せずんば露れず。これこのまんまを長長出させるには、そりゃ坐るよりないです。あるいは浮き世根無し草を免れ出る。如来仏とてこの世の夢をぶち破って下さい。いったんこうあって、愚の如く魯の如く。ただよく相続するを主中の主と名付くと、どうもあんまり世間人ってわけには行かんですか。得失利害に拠らないんです。いいやつ悪いやつという、得手勝手を知らない。そりゃだけどたいていものみな、地球宇宙の構成員は、来たる如しの如来の仲間なんですよ。食み出してかってに苦しんでいるのが人間ですか、あっはっは、もう一回食み出して寒山拾得の生活しますか、歓喜のこれに尽きたるはなし。
寵辱不變不擇所居。諸縁頓息一切不憶。
(寵辱変らず、所居を択ばず。諸縁を頓息して、一切憶はず。)
寵辱という、まあ世の中その二つんですが、そりゃなんたって寵を思い辱を厭うんです、そうやって育てられ、あるい身心そのように出来上がっているんですか、でもだからといって出入り自由、免れることができるんです。誉められりゃ嬉しい、ないがしろにされりゃ切ない、はいそれを否定したって始まらんです。いじめや疎外の苦しさ、ではふっと免れる、一枚衣脱いで下さい、できますよ。人間という皮袋うっちゃる如くです。虚空そのものに成り終わる、納まる、帰りつくんです。所居をえらばずとは、もと択びようにないんです。無始劫来貪嗔癡の、失せ切って元の木阿弥です。せいぜいがまあ、尾を引かぬようにして下さい、あるときこうあって、次にはもうないんです、念起念滅の身心です、諸縁を頓息しとはこれ、十字街頭に大手を広げ、あっはっは他にゃないです、どうやったって十字架の桀刑ですか。そうねえいったん死ぬるとしか云えんですか、この世をおさらばして、うっふ無上楽で生きて下さい。まさに真実を知る。一切を憶わずたって、思わぬわけには行かんですが、なぜか過って行く、去来だけがある、あっはっは無責任この上なしですか、でもどうもこれが本当です。花草どんなことあっても花草であるほどに、そうそうまずは無心ですか、無いものは傷まない。
永日如夜永夜如日。外似頑愚内心虚眞。
(永日夜の如く、永夜日の如し。外は頑愚に似て、内心虚真なり。)
永日夜の如く永夜昼の如しというのは、こりゃ実感です、なにがどうしてと云ったってどうもならんです。だからといって真っ暗真っ昼間というと、まったくそうではないんです。たとい八九成をもって成ずという、意識と無意識とに拘らず、本来かくの如く、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありという、如来無反省とでもいうべきですか。ものみなありながらない、ないながらあるという、100%いえさ200%の実感うっふオールマイティですよ。まったく他にはないんです、すると夢の如くという、現実であればあるほどに夢。三つまでの子供にほとんど記憶がないのは、あるいはこれです、暮らし尽くしてしまうんです。花は花と云わず月は月といわず、なにほどかこれ仏、これ人間。世の中というまた別ものあって、なんとか暮らし向き立てるんですか、するとどうも器用には行かんです。そりゃ世の中という嘘なんです、嘘の醜悪が如来の顔面になりますか、あっはっはあるいはたが外れてますか。でも類いない清々これ、歩歩涼風起こると、真実虚心が行く、お釣りもなくいい加減もないです、ただこれ。
對境不動有力大人。無人無見無見常現。
(境に対して動かずは有力の大人なり。人無く見無く、見無うして常に現ず。)
ですから境というと心というと不可分です、動くはあっはっはもろともです、心騒ぐという別ものじゃない。昨夜は雲間に満月が射す、どうですか、筆舌に尽くし難いというのは、境だけあるいは心だけだからです、何か云うにはぐわーとでも喚くですか。映画を見るに大画面が自分になる、まったくの無感動に終わる。つまらないんですか、これ感動200%なんですよ。だれか批評すると、何を下らんことをと云う、まったくわがものになっているのを知る。はいこれ有力の大人ですか、あっはっはそんなけちなもんじゃない。月を見て遠来の客を忘れる良寛さん、こりゃ大人なんてもんじゃないです、ただ、ただの阿呆とでも云っておきますか。人無く見無く、はいこれが人のありよう、ものごとの本質なんです。文芸批評だの政治だのなんだのいう、必ず人を見てどうのこうのいう、見は見解です、だからどうだのいう、云う間は届かないんです。夫婦親子隣近所は、たいていそんなこと云わない、あれはあーいうやつだぐらいなんです。見を持つなというのが、新郎新婦へのはなむけですか、見無うして常に現ずる、これが生活です。見解意見時と所によるっきりです。イデーフィックスはきちがいの証拠、世に歴史から学べというんでしょう、歴史から学ぶことはたった一つ、刧火の燃ゆるが如くですか、歴史というがらくたの堆積です、そんなものを当てにしちゃいかんていうこってす。
通達一切未嘗不 思惟轉昏汨亂精魂。
(通達一切未だ嘗て生ぜず、思惟すれば転た昏く、精魂を汨乱す。)
これ一字抜けているのは、パソコンの活字にないからで、原典が手元にないので、あっはっは適当に入れておく、通達一切未だかつて滞らずじゃ百歩遅い。目をやればたって目をやらずも全世界ある、他なしの七通発達です。光明も聖体もないんです、われらの全存在としてものみなある。わずかに皮袋を脱ぐ、ぶち破って脱却です、これなんとも云いようにないから、生ぜずとした。思惟すればうたた昏迷、だからもの本来を知らぬ一般、よってもって取り扱うに従い、どうにもこうにもなんです。詩と真実などいい、哲学思想という、ただの袋小路です。そうしてもって人を虜にして、なにしろ同じ羽根の鳥を増やす以外にない、宗教またこれ。井伏鱒二のさんしょううおみたいに、巨大なコロップの詮ですか、おまえももう駄目なようかと、お互い慰めあうのが関の山。でなかったらお布施稼ぎの狂信、あっはっはでなかったら共産党ですか金日成さん。さあさこんな愚を犯さぬことです、時代変わろうとて因果歴然、毫釐も違わずです。汨という水の流れ淀むありさま、いたずらに精魂を費やすんです。金日成も中国もブッシュもまあ気の毒=毒ですよ。ですから座禅はこれを解き放すんです、坐りながら汨乱精魂していませんか。得ようとしたら駄目なんです、不生です、もとはじめっから通達を、こちらから手を替え品を替えしないんです。そうする手を開く、放てば満つる、もとまったくなにひとつ余さずを知るんです。
將心止動轉止轉奔。萬法無所唯有一門。
(心を将って動を止まば、轉止転奔す。万法の所無うして、唯一門有り。)
心をもって心の動きを止めようとする、坐りながらよくやっている、矛盾しているというか土台不可能です。心は一つただ一門ありです、なにをどうやったろうが、そのものぜんたいでしょう。どうのこうのするほどに煩瑣、轉とはめぐる、ころぶと訓む、いじくるはしからです。轉止轉奔あっはっは、あるとき妄想煩瑣、ようしなんとかしてくれようと、やりゃやるほどにめったら、もう真っ黒けになって接心四日もやってたです。体力の限界、えいどうともなれと抛った途端、ぱあっとなんにもなくなった。それっこそなーんにもない、脳死じゃない、ぽっと出ぽっと消える、念起念滅してるんですが、それをあげつらうものがない。手つかずですか、するとなんにもないんです。そうかこれかと思ったです、なるほど万法所無し、まったくの無責任ですか、そりゃ当たり前です、ものみなこっちの執着にゃよらんです。どうにもならんのを、では心というやっぱり手つかずです。ただ一門有りという、すなわちそれを知らんのです。ここにおいて只管打坐という、本来本法性です、ただが成立する。就中おいそれとは行かんです、得たといっては居座り、仏といっては作仏する。そうしてはどこか足らぬことを知る、生まれ変わり死に変わりと云ってみたって届かぬ、しばらく七転八倒しますか。あっはっは遂に落着の底を抜き、諸仏一切掌にありというか、しかも日々に新たなんです、そうすると楽しいこた楽しいですか、うっふう。
不入不出非靜非喧。聲聞縁覺智不能論。
(入らず出でず、静に非らあず喧に非らず。声聞縁覚智の論ずる能はず。)
出入なくとはもと一つことで、そりゃ出るも入るもないです。でもこれ至りえ帰り来たったといって、なをさらに参ずる。死んで死んで死に切っても、死に切るものさへなを残ると思って下さい。かすっともかすらずともなをおのれという。捨身施虎、虚空に食らわれ尽くすのは、あるいは生易しいこっちゃないです。捨てただけ入る勘定です、捨てなきゃ入らない、これを徹底して、そうですねえ入った分を味わう。楽しんで行って下さい。捨てる淋しいいない、おれはないの繰り返しから、得てもって行く、ついにはほんとうに死ぬるんです、この世に自分はいないんです、これをもって仏の仲間入り。あっはっは死人を仏と云うんでしょう、まったく正解。棺桶の中身はほんとうにいい顔をしてます、示寂と云います。世の静喧嘘八百を免れて、生まれ本来のほんとうです。死人と同じこれ我が宗旨なりと、至道無難禅師の日く。唯嫌選択ただ憎愛無ければ洞然として明白なりという、余は明白裏に非ず、却って護惜すやまた無しや、死ぬる以外にないんです、そりゃ声聞縁覚のまるっきり預かり知らぬところです。でもこれみな知ってます、仏にも死人にも手を合わせて、あっははっは厳粛ですよ、人の生活は死に事で成り立っている所あります、賛美歌や天上じゃなくただ、無心です。まあさ変な音楽しない、直面して下さい。
實無一物妙智獨存。本際虚沖非心所窮。
(実に一物無うして、妙智独り存す。本際虚に沖し、心所窮まらず。)
見聞覚知というんでしょう、実はそれだけで成り立っていて、見聞覚知というに囚われねばまさにそれ。見るもの聞くものありながらない、触れてもなく、打たれてもないという、一00%いや二00%実存を、あっはっは見聞覚知の人夢にだも見ず。ハイデッカーだのヴィトゲンシュタインだの云うことはなにやら云う、実際は夢にも知らんのです。配下100万出たとてただ迷妄。妙智独り存するという、哲学じゃないんです、そういうかすがなんにもないんです。妙智とは触れる能わず、触れる手もないんです。無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法の、生まれ本来なんです、生まれる以前です。これヨーロッパ流に一00万べん説いてもどうもならんです。おそらく今世紀中に仏教西へは無理かも知らん、たとい座禅も自我を助長です、どうしたってこうしたって、信ずるだか正しいという、いいことしいの頭なぜなぜ、本際虚に沖しないんです。はじめにわざありき、言葉ありきをまずもって返上せやならん、有力の大人出でて、思い切って西欧ぜんたいを捨てる、Ichを忘れ去ることだ。心所窮屈ですよ、なけりゃ窮りないんです、単純な理屈がなぜわからない、不思議な気がするたって、そりゃ始めの囚われを捨てないからです。心は一つ、すなわち見ること不可と、たったそれだけ。この心銘実に西欧精神の救いによく、早く自我を去って、あっはっは、十字軍以来の野蛮不細工を払拭して下さい。世界中ほおっと太息吐きますよ。
正覺無覺眞空不空。三世諸佛皆乘此宗。
(正覚は無覚なり、真空は空にあらず。三世の諸仏、皆此の宗に乗ず。)
正覚は無覚によるということが、どうしても学者や声聞縁覚、あるいは他宗、外道には解らない、どうしようもないんです。坊主ども悟りといい、境地を云い、あるいはだれかれ光明だの清らかのいう、そういう有心をあげつらう間は遠くて遠いんです。あっはっは、持って回って必ずおれはとやる、俗人です。無自覚の覚これ仏の他に知れるなし。真空は空にあらず、空という一般必ず空というものがあるんです、ではそりゃ頑なです。水と氷のように、なんにも見えないがあっちゃ不都合、さあこれ根幹ですよ。無心を得て下さい、心が無いんですよ、理の当然唯一心です。一つきりはおのれを見ること不可能ってだけなんですが、これを本来に落着することは、生易しいことじゃないです、なぜかそうなんです。どこまで行ってもうだうだ能書き、坐は正直です。上には上があるような気がして、一心に勤しむ、ついには仏です。仏であるおのれにまったく気がつかない。すばらしいっちゃ歓喜っていえば、まさにものみなの自ずからです。たしかにお釈迦さんのいう、達磨さんのいうその通りです。でもまったくなんの自信もないです、ただ他が云えば、云う先に応答ですか、まるっきりかくの如くです。もって自分とは何か、知らないんです、自覚症状のない、すなわち健康です、自覚症状のないままに日々新たにです、仏向上事これ。
此宗毫末沙界含容。一切莫顧安心無處。
(此の宗毫末なれども、沙界含容す。一切顧みる莫うして、無処に安心す。)
他の諸宗は教理り信条あり三位一体あり荒唐無稽ありするんですが、この宗ばかりはなんにもない。これがこれでいいという、一切顧みるのうして、無処に安心です。取り付く島もない、はい取り付く島もないのがあなたです、それを取り付こう、どうにかしようとするから迷妄起こり悩み喧嘩です。あっはっはすでにどっぷり漬け、というのも汚れですか、水の中にあって渇を求める七転八倒、悪足掻きを止めれば、元の木阿弥大安心です。坐っていてどうにも坐が坐にならないという、満足が得られないという、それみんな自分でやっている、自業自得自縄自縛するんですか、手を放すとほうっとおのれに帰る。おのれという架空の思い込みじゃないんです。従前のおのれという、それをもってしては自業自得です、なにしろ脱却せにゃ始まらぬ。忘我という元の木阿弥、自縄自縛しない世界を知る、でないとただの言い種我田引水なんです、これを厳に戒めて下さい。坐とは自分が自分に戻ることなんです。オウムやインドの聖人みたいな中途半端、絵に描いた餅じゃない、百害あって一利なし、マンガやってるんじゃないんです。毫末とはこれ、指さすにふっ消えているんです、宗教という悪戯ではない、本来これ。
無處安心虚明自露。寂靜不生放曠縱横。
(無処に安心して、虚明自ずから露る。寂静不生にして、放曠縦横たり。)
処というこれ観念が決める、求めるんですか、水は方円の器に従うという、水は無処です、氷がぶつかって有処です。実際に大安心は無処による、確かめて下さい、無覚の覚ですよ。どうしてもこれを求めるのに、得たといい、解ったという、たしかに仏の云う通り、お釈迦さんの示す通りにという、そりゃ物まねです。云われた通りに布延する、じゃしょうがないんです、新たな自縛の縄をなうっきりです。寂静不生は、静かになった騒がしいとは無関係です、静においても騒においても、心という、自己というものまるっきり見えないんでしょう。不生の人と盤桂禅師の云う、実に一目瞭然なんです、どんなに何云おうが、本来人は妄想人とは別ですか、あっはっは顧みるには却って知らず。妄想まるけなんですか、廓然無聖なんですか、こうあるべき、だからどうのという物差しがないんです。人は自分で格子をこさえ、自分で中に入っている、そんなあほなっていうんでしょう、まったくどあほです。もと広大無辺、縦横無尽を知る、だってそのように生まれついている、というより不生、生まれも死にもしていないんです、ものみな。
所作無滯去住皆平。慧日寂寂定光明明。
(所作滞る無く、去住皆平らかなり。慧日寂寂として、定光明明たり。)
所作滞るなくとは、何をどうしたろうがそのもの自身なんです。所作として観察するものなし、却って所作の方がこっちを見るんですか。不思議なとは思議に預からない、影というものないんです。慧日寂寂という、ただ青空ありあけぼのありするんです、信じられぬほどに直截です。どんな絵描き詩人も及びが付かない、我れ無うしてものみなの実際です。百万語費やしたっておっつかぬ、わずかに自分をぶち抜きゃそれでいいです。どうかおやり下さい、真実不虚、この事他にはないです。去住皆平だの定光明明だの云ったって、お題目にもならんです。たといどこまで行こうが自我の網、なんというおれはと顧みる。けれどもこのありよう、始めっからしまいまで同じです。わずかに取り扱うものあって、空の空なるかなと行かない、空を持ってしまうのです。いらんことですよ、皮袋ぶち破って清々は、一生に一度必ずという、生まれ本来の姿に帰るという、すなわち自知する。ものまねではない、首を縦に振らん覚悟ですか、自分で自分が許せぬものを、どうして師家だのなんだのが許せるか、というんです。あるいは意識の退廃、心魂の根腐れあるんなら、その薄皮一枚剥ぎゃいいです。まあさぶん殴るっきゃないですか、あっはっは。
照無相苑朗涅槃城。諸縁忘畢詮神定質。
(照らすには相無うして、苑朗たりねはん城。諸縁を忘畢すれば、神詮はり質定まる。)
それ参禅は静室宜しく飲食節あり、諸縁を放捨し万事を休息し、善悪を思わず是非を管することなかれ、と普勧坐禅儀にあります。照らすに相無くは、是非善悪です、自分の都合勝手による取捨選択ですか、照らすんです、心意識の運転を停め、念想観の測量を止めとまたある、世間生活利害得失ですか、まずもってこれをやめる。万事を休息すると、自分というもって生まれた本来です、生まれる以前のものみなですか、箇のありよう、いつだって現前するんです。空気のようにただある、それに満足できない、気がつかないでいる、諸縁という有相という、あるいは自分という世間という架空事の故になんです。改めて思い当たって下さい、座禅があるんじゃないんです、ぶち抜いて悟りじゃない、仏教学者や坐禅何段じゃないんです。わずかに気がつかない、泳ぎ出して真相じゃない、余計ことです。もと神そなわり、精神といい神経という微妙円満を損なう、質定まりという、もと備わるものをいびつにする、手を付けるに従い齟齬です。はいこれを知って下さい、ただこれ苑朗ねはん城です、ニールバーナ無自覚の覚、無上楽。
不起法座安眠虚室。樂道恬然優遊眞實。
(法座を起たずして、虚室に安眠す。道を楽しんで恬然、優遊として真実たり。)
今の曹洞宗門はかっこうをつけて坐って見せる、悟りもなくノウハウもなく、無理矢理無事禅です。だれも楽しまない、他に見せるためのお布施稼ぎですか、達磨さんに毒を盛る連中、でもこれやりきれないんでしょう。座禅というのは、まさにかくの如く、法坐を起たずして虚室に安眠す、まさにその通りこの通りあるんです。坐という真空です、観音さまの日常、無自覚の覚として轉々して常住座臥です。歩々清風起こるという、そうですねえ一般しゃば人の、千倍の大きさで歩くといったら叱られますか、もと本来の姿生まれつきです、縮んで自閉症、あるいは失調騒々しいのと違います。エトルリアの楽園人やアアポルローン像にも似ますか。そりゃ人間です、自分という形骸、自縄自縛の縄から解き放れたら、それっこそ万倍。道を楽しみ恬然という、道という金縛りもないんです、まったく解き放たれて、優遊真実です。神もなく仏もなくもとこの通りこの通りに、はい雪月花ものみなあるんでしょう、あっはっはだったらその通り生きて下さい、過不足ないんです万々歳。
無爲無得依無自出。四等六度同一乘路。
(無為にして無得、無に依って自ずから出ず。四等六度同じゅう一乗路。)
六度というのは六波羅蜜、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智恵の六つ、四等というのはようもわからん、四苦や四恩四倒ほか、そりゃいっぱいある、三つにしたり七つにしたり、三方に載っけてご丁寧に差し出すのが、しきたりというか人間世の常。八正道など鬼の首でも取ったように云う坊主、すなわち偽物です。面と向かってやってみない人の云うこと、ひとたび向かえば、六度四生もなんの意味もなさなくなる、葛藤これ人生という、実智恵に区別も段階もない、そのときに当たって一00%常に本来です。でなきゃ成長もなんもないです、そうしてほんとう本来無為を知る、無得を悟るんです。これを知らずば生活指導の反省文です。同じことを反省のたんびに繰り返す、ちったあよくなるといっては、豚箱教育の二重人格、いびつを作るのが関の山。早く世間常識、お仕着せの無駄ことを免れて下さい、無心です。心を顧みるに心無し、無いとはものみな二00%です、ちらともあったらそれによって滞る、錆つき詰まった水道管です、いえ入るも出るも不都合です。無心無いものは傷つかない、いつもまっさらです、救いとはただこれ。神さまの免罪符じゃないんです、そんな要らん手続きしないんです、ものみな一乗路、自ずから知るんです、作り物は壊れもの、早く帰りついて下さい、春風至って百花開く。
心若不生法無差互。知生無生現前常住。
智者方知非言詮悟。
(心若し不生なれば、法に差互無し。知生無生にして、現前常住なり。智者は方に知る、言詮に非ずして悟ることを。)
不生というんでしょう、これを理解するのに、言詮、言葉をもって詮じ尽くすこと能わず、というより無意味なんです。自分という、あるいはものみな不生です、わずかに自分をもって証する、思い当たる他はないんですよ。すなわち参禅という、仏というまさに至るよりない。知ろうとして泳ぎ出す、歩みを進むれば近遠にあらず、却って山河のこを隔つと。知ろうとする、たいていは知識の交通整理ですか、あれとこれを結びつけて、だからどうだで納得したつもり、まずもってこれを免れること第一歩。ノウハウを知ろうとする、知ろうとするものこれ。動中の禅をどうしたらいいかという、そんなものないんですよ、どうしたらいいという前後不覚。せいぜい目を開いてまっ平ら、まっすぐに見るんですか、なというと今度は目のやり場など工夫する、あっはっは笑っちまうです。もとこうあるこれっこっきり、ただ坐りゃいいという、そんな楽ちんがわからない、だってさ、他に何があるんですという、一つよくよく我れと我が身心に問い糾して下さい。身も蓋もないんですか、ついに現前常住は、もと始めっからなんです。父母未生前の消息、生まれて間もない赤ん坊の目を見てごらんなさい、宇宙の一欠片のようです、恐いほどです。はいこれ仏如来、大悟徹底人です、帰家穏座して下さい。赤ん坊は世の中も意味もわからんで、役に立たんですが、如何なるか言詮に渉らざる底の那一著、とおーつ。はーいまっ平ら、鳴り響むんです。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。