良寛詩 讃

孔子

異なる哉之を瞻れば前に在り、
忽然として後に在り、
其の学や切磋琢磨、
其の容や温良謙譲。
上に古人無く下に継ぐ人無し、
達巷わずかに無名を嘆ずる所以、
子路徒らに口を閉ず、
孔夫子孔夫子。
太はだ端無し、
唯愚魯なる者有り、
彷彿として其の室を闚ふ。 孔子

異なる哉之をみ(目にクにたれにルに言)れば前に在り、忽然として後に在り、其の学や切磋琢磨、其の容や温良謙譲。

これが孔子だという是是、人間というもののフル活動は人間というたがを外れる、もしこれお釈迦さまなら、その学や切磋琢磨なく、その容貌温良謙譲なく、無学の人破れほうけの宇宙真空はただこれ跪拝するほかなく、習うにはおのれを習うよりなく、おのれを習うとはおのれを忘れるよりなく。


上に古人無く下に継ぐ人無し、達巷わずかに無名を嘆ずる所以、子路徒らに口を閉ず、孔夫子孔夫子。

なんかまあこれほんとうにニアミスですか、達巷は村の名、大哉孔子博学にして名を成す所無しと達巷党人云うとさ、名をなすとは面倒くさいのと、名に隠れて孤立無援でいられるのとさ、どっちにしたって死なば百億の麦じゃなくって自由無碍。子路はしろしろっていうと尾っぽ振る孔子の弟子。


太はだ端無し、唯愚魯なる者有り、彷彿として其の室をうかが(門に規)ふ。

愚の如く魯の如くただよく相続するを主中の主と名付く、仏にあらずとも大事端なくはただこれのみ、良寛まさに彷彿としてその室をうかがうと。

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寒山拾得

拾得手中の箒、
顛の塵埃を払ふも、
転た払へば転た生ず、
寒山時に経を授く。
終年読んで足らず、
今も昔も人の善く買ふもの無し、
天台山中長く滞貨たる所以、
畢竟そもさん。
当来下生慈氏の判断を待つ、 寒山拾得

拾得手中の箒、顛の塵埃を払ふも、転た払へば転た生ず、寒山時に経を授く。

拾得手中に箒をもって、頭のてっぺんの塵埃を払う、払えば払うほど塵埃を生ず、寒山時に経を授け、寒山国師の弟子ってこって、妄想を払わぬ方法を授かったわけですか。


終年読んで足らず、今も昔も人の善く買ふもの無し、天台山中長く滞貨たる所以、畢竟そもさん。

参ずれども参ずれども尽くす能わず、今もむかしも人のよく買うものなし。はーいこれ参禅の要訣です、だったらどうすりゃいい万事お手上げです、天台山の坊主の残飯食って生きておったという話、寒山拾得の詩いまに残る。長く滞貨たる所以を知るありやなしや、はーてさ、


当来下生慈氏の判断を待つ、

弥勒に聞いておくれってんです、しょーがない良寛め。

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髑髏

凡縁より生ずるもの縁尽くれば滅す、
此の縁何より生ずる、
また前縁より生ず、
第一最初の縁は何より生ずる。
此に至って言語道断心行所滅す、
吾れ此れを持って東家の婆に語る、
東家の婆悦ばず、
西家の翁に語る、
西家の翁眉を顰めて去る。
或るとき胡餅に題して狗子に与ふ、
狗子また喫はず、
所謂ふ是れ不詳の語、紛々の句と。
生と滅と丸く一合相と為し、
野辺の髑髏に与ふ、
髑髏忽然として起き来り、
我が為に歌ひ且つ舞ふ。
歌は長し三世の引、
舞は妙なり三界の姿、
三界三世三弄すれば、
月は落つ長安半夜の鐘。
髑髏

凡縁より生ずるもの縁尽くれば滅す、此の縁何より生ずる、また前縁より生ず、第一最初の縁は何より生ずる。

縁を追求するまさにこれ髑髏ですか、科学の不毛のようについにどうにもこうにも髑髏面にもならない、前縁という最初の縁という手放すと縁の中にぽっかり浮くんです、どうにでもしてくれったったむだっこと。


此に至って言語道断心行所滅す、吾れ此れを持って東家の婆に語る、東家の婆悦ばず、西家の翁に語る、西家の翁眉を顰めて去る。

縁は異なもの味なものというぐらいがシャバの通り相場ですか、三百代言みな縁による、坊主の説教天理教の殺し文句というお茶を濁すことねこまんまの如く手を振って退散するがよろしく。


或るとき胡餅に題して狗子に与ふ、狗子また喫はず、所謂ふ是れ不詳の語、紛々の句と。

あるときまんじゅうだと云って犬にやったら犬も食わず、云くこれ不肖の息子じゃなくって不詳の語ですか、紛々の句どうしようもない収拾がつかないってわけです。


生と滅と丸く一合相と為し、野辺の髑髏に与ふ、髑髏忽然として起き来り、我が為に歌ひ且つ舞ふ。

生滅というのを一丸にしてほいさってんで、野晒しの髑髏にくれてやったら、髑髏がふーわり起き上がってわしの為に舞い躍る、そりゃもう酒食らっていっしょに舞い歌うよりないか、わっはっはそれにしても、


歌は長し三世の引、舞は妙なり三界の姿、三界三世三弄すれば、月は落つ長安半夜の鐘。

歌は長いこの世とあの世と前の世と過現未にわたり、舞は妙にして流転三界わっはっは髑髏なんかと付き合うからだ、一瞬のおねーちゃんのほうがいーのさ馬鹿ったれ、弄し終わって月は落ち長安、とこしなえに安楽を告げる半夜の鐘。つまらねえ。

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仙桂和尚

仙桂和尚は真の道者、
黙して言はず朴にして容らず、
三十年国仙の会に在りて、
参禅せず読経せず。
宗文の一句も道はず、
園菜を作って大衆に供ず、
当時我れ之を見て見ず、
之に遇ふて遇はず、
吁呼今之に効はんとするも得可らず、
仙桂和尚は真の道者。
仙桂和尚

仙桂和尚は真の道者、黙して言はず朴にして容らず、三十年国仙の会に在りて、参禅せず読経せず。

仙桂和尚は真の道者、黙して言わず質朴にして容ずくらず、三十年円通寺国仙会下にあって、参禅せず読経せず。


宗文の一句も道はず、園菜を作って大衆に供ず、当時我れ之を見て見ず、之に遇ふて遇はず、

宗門の語のひとかけらも云はず、菜園を作って大衆に供ず、当時わしはは見れども見ず、会へども会わず。


ああ(口に干、呼)今之に効はんとするも得可らず、仙桂和尚は真の道者。

今わしはこれに習おうとするもできない、仙桂和尚は真お道者。 このことは伝え聞いていた、良寛が云うんだから間違いない、僧堂にこういう人がいたんだ、涙。

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狗子

趙州有かと問へば有と答へ、
無かと問へば無と答ふ。
君有と問ふや答へず、
無と問ふや答へず。
不審の意そもさんまた答へず。
狗子

趙州有かと問へば有と答へ、無かと問へば無と答ふ。君有と問ふや答へず、無と問ふや答へず。不審の意そもさんまた答へず。

有と云えば世界全体有、無と云えば世界全体無、わかっちゃいるけどそれができないんです、うぐいすのホーホケキョでも蛙のがーでもいいです、まずこれをやって下さい、できれば宇宙世界200%です、できなければ何をどうなぞくったって面白くないです。生まれながらにしてかくの如くは、生まれる以前も死んだあとも一切変わらず、無所得の故に菩提薩た修菩薩行です。あとはただの蛇足ですかそもさんか参求して下さい、千変万化するそのおのれが用なしです

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法華賛



開口

口を開くも法華を謗り、
口を閉ずるも法華を謗る、
法華法華如何が賛せん、
焼香合掌して日く、
南無妙法華と。



序品

如是の両字高く眼を著けよ、
百千の経巻這裏に在り、
若し多門慶喜の後に隋はば、
旧に依って蒼蝿故紙を鑚らん。

白毫相光何の似たる所ぞ、
直ちに実相を指して諸人に示す、
言語道断心行滅す、
看よ看よ花発ひて萌えず枝上の春。

文殊は高高峰上に立ち、
逸多は深深海底を行く、
伯氏は壎を吹き仲氏は箎、
助発す諸法一如の声。



方便品

度生すでに了ず未生の前、
安祥定を出でて宛たかも癡の如し、
縦然鷲子機を見るの作あるも、
輪却す五千退席の児。

性相体力作因縁、
蘭に秀有り菊に香有り、
君見よ法華開演の日、
知らず何れの処か是れ糟糠。

諸法本来寂滅の相なり、
伸びる者は伸び屈する者は屈す、
是の故に仏子の行道己りぬ、
何ぞ妨げん来世に作仏を得るを。



譬喩品

昔時の三車名空しく有り、
今日一乗実也無し、
咦、趙州の東壁胡蘆を挂く。

昔時の三車名空しく伝ふ、
今一乗実也休す、
意気有る時意気を添へ、
風流ならざる処也風流。



信解品

父を捨てて逃逝すること凡そ幾年、
伶俜辛苦此の身を送る、
尚城中に到って門外に止まる、
苦ごろに数ふ涅槃一日の功。



授記品

声聞次第に授記を作す、
記し去り記し去って太だ端無し、
河裏銭を失して河裏に簏す、
山前馬を放ちて山前に覓む。



化城喩品

大通智勝道場に坐す、
不得成仏今に在り、
信ぜずんば試みに菜園に向って看よ、
冬瓜は苦瓜の大より大なり。

目前道に非ず道目前、
大通智勝人の之く小なり、
憐れむべし多少の参玄子、
多く化城に休して生涯を誤る。



五百弟子授記品

半千の尊者謄々に任ず、
親しく曾て見来たる人中の雄、
国土名号並びに寿量、
頭止尾止虎と龍と。



授学無学人記品

空王仏の時同じく発心、
或いは精進を楽ひ或いは多聞、
相似たりと雖も修むるに遅速有り、
等閑に説く莫れ疏と親と。



法師品

空を座と為し慈を室となす、
任運挂著す忍辱の衣、
従容として哮吼す無畏の説、
栴檀林中の獅子児。



見宝塔品

十方の化仏聚会の時、
宝樹荘厳殊妙を列ぬ、
人天暫らく他土に移され、
今に至りて斫額す新羅の鷂。



提婆達多品

劫説刹説熾然説、
海中唯説く妙法華、
Y角女子頓に成仏し、
白眉の老僧頻りに嘆暛

一顆明珠直い大千、
持って仏陀に呈す詎ぞ真率なる、
師資妙契奉と納と、
誰か此の間に至って毫髪を入れん。

相好誰人か良に有らざらん、
男女を以て軽がるしく商量することを休めよ、
只能く本の拠る可き無きを知らば、
当処を離れず是れ南方。

樵子の活計は林間に在り、
漁父の生涯は水を程とす、
暫時相逢ふ閙市の裏、
話り尽くす山雲海月の情。



勧持品

各仏前に於て誓言を催す、
灯篭露柱且らく低声、
我れ等仏の教を奉じてより、
塵塵利利此の経を宣ぶ。



安楽行品

魔党衣を著けて法座に升る、
嘆ずべし而今澆末の辰、
任重くして路遠し通塞の際、
勉めよや旃(これ)四安楽行の人。

千林色を呈す細雨の後、
百城光を分つ午夜の前、
輪王護らず髻中の珠、
只是れ人天漫りに遷延す。



従地湧出品

皆是れ大衆唱導の首、
地従り湧出す幾千千、
如来の寿量の遠きを示さんと欲して、
更に逸多をして問端を致さしむ。



寿量品

空は把る可し風は繋ぐべし、
如来の寿量は議すべからず、
常に霊山に在して説法すと雖も、
人をして敢えて容易に視せしめず。

或は己身を説き或は他身、
又滅度を示して又常在、
霊山の説法若し己む有らば、
無限の百川海に朝せざらん。

劫火洞然大千破るるも、
我が此の国土正に平安、
此れ是れ神仙の妙秘訣、
誰れか蓬莱を指して波乱を凌がん。

他の毒手に遇ひ他の悩みに遭ふ、
乃ち昼乃ち夜漫りに狂顛、
医王知らず何処にか去る、
長く良薬を留めて大千に在り。



分別功徳品

看経は須らく看経の眼を具すべし、
切に忌む文に随って漫りに西東するを、
此の経の功徳如何が委せん、
行住坐臥其の中に於てす。



随喜功徳品

水を出ずる芙渠は彫琢を絶す、
従他白赤鮮新を争ふは、
根茎枝葉○と台と、
人間の物比倫に堪ふる無し。



法師功徳品

鼻八百舌千二、
紫羅帳外珠玉を撒す、
然く一等精魂を弄すと雖も、
就中這の段最も奇特。



常不軽菩薩品

朝に礼拝を行じ暮れに礼拝、
但礼拝を行じて此の身を送る、
南無帰命常不軽、
天上天下唯一人。

斯の人以前に斯の人無く、
斯の人以後に斯の人無し、
不軽老不軽老、
我れ人をして長く淳真を慕はしむ。



如来神力品

仏の此の経を属せんと欲すること、
当に知るべし小縁に非ず、
瓦礫忽ち光を放つ、
烏藤倒しまに天に上る看よ看よ。



嘱累品

山自ずから高く水自ずから走る、
情を尽くして分付す遅疑する勿れ、
諸来の仏陀並びに清衆、
帰りなんいざ東西南北。



薬王菩薩本事品

曾て妙法に参じて旧因を慕ふ、
瞻葡の香油一枝に燃え、
再び完全を得る他に是れ誰れぞ、
咄。



妙音菩薩品

曾て伎楽を奉じて此の身に感ず、
一華わずかに謝して一華媚ぶ、
一華媚ぶ、
茲より万事遊戯に伏して参ず。



観世音菩薩品

長者は長短者は短、
応現不現観自在、
三界は茫々として古より今、
晴天白日亡子を覓む。

真観清浄観、
広大智慧観、
悲観及慈観、
無観最好観、
為に報ず途中未帰の客、
観音は捕陀山に在さず。

風定まって花尚落ち、
鳥啼いて山更に幽かなり、
観音妙智力、とつ(口に出)。

妙音観世音、
梵音海潮音、
勝彼世間音、
希音是れ真音。
是故我れ今頂首、
南無帰命観世音。

一心称名風に吹かるる柳、
観其音声水を覆ふの萍、
七難三毒這是れ、
鋒鋩衂らず凱歌を奏す。

西方安養界を捨つるに慣れて、
五濁悪世此身を投ず、
木に就いては木、
竹に就いては竹、
全身を放擲す多劫の春。

脚下の金蓮水泥を抱き、
頭上の宝冠塵埃に委す、
乃往一時楞厳会、
侘の吉祥をして疏親を択ばしむ。

森森たる二十五大士、
独り此の尊に於いて嘆嗟頻りなり、
南無大悲観世音、
哀愍納受せよ救世の仁。



陀羅尼品

各おの仏勅を受けて神呪を説く、
神頭鬼面也た慇懃、
如し我が語に違ひて法師を侵さば、
果然頭破れて七分と作らん。



妙荘厳王本事品

禍を転じて福と為すは尋常の事、
邪を捨て正に帰すろ真に独り難し、
今日より心に随って行ぜずば、
是れ此の厳王也た肝に銘ぜん。



普賢菩薩勧発品

幾回か生まれ幾回か死す、
生死悠々窮極無し、
今妙法に遭うて参究に飽く、
正に是れ普賢の威神力。



擱筆

草堂四月日年の如く、
七軸の金文舒べ且つ巻く、
宗乗を発揮する我れ豈敢えへてせんや、
漫りに禿筆を援いて蕭散に付す。

法華賛

開口

口を開くも法華を謗り、口を閉ずるも法華を謗る、法華法華如何が賛せん、焼香合掌して日く、南無妙法華と。

法華とは法華経ですか、法の華ですか、なにをどう云ったって届かず、云わずばなおさら届かずですか、良寛のこの常套句参ずるによし、無と言わずになんと云うといわれて、十八年間振り回された人もいます、焼香礼拝して南無妙蓮華経ですか、はーい三百棒。


序品

如是の両字高く眼を著けよ、百千の経巻這裏に在り、若し多門慶喜の後に隋はば、旧に依って蒼蝿故紙をき(金に賛)らん。

如是でぜーんぶおしまいってことを知る、参禅とはまさにこれです、八万四千経巻焼尽す、釈迦牟尼仏金襴のお袈裟を伝ふるほかに箇の何をか伝ふ、阿難と召す、阿難応諾す、倒折刹竿著。阿難尊者多聞にして容貌秀で人みな喜ぶをもって慶喜と呼ぶ。ついに多聞も慶喜も雲散霧消です。


白毫相光何の似たる所ぞ、直ちに実相を指して諸人に示す、言語道断心行滅す、看よ看よ花発ひて萌えず枝上の春。

白毫相は仏三十二相の一、眉間に白毫右旋して光を放ち下阿鼻地獄にいたり、うえ阿迦尼天に至る云々。仏にあったってわしにゃさっぱりそんなのない、ただちに実相をもって諸人に示す、言語道断心行を滅す、花や雲や日月山河みなかくの如し、仏は仏に接するたとい掌を開く如くに、見てごらん花開くんです、萌えず枝上の春、萌えたってなに不遜ありや。枝葉末節錯然たり地上の春。


文殊は高高峰上に立ち、逸多は深深海底を行く、伯氏はてん(土にイに黒)を吹き仲氏はち(竹に虎)、助発す諸法一如の声。

弥勒の問いに文殊が答える、逸多は弥勒菩薩、高高峰に立ち深深海底に行くそりゃまあほんにご苦労さん。伯氏兄たり文殊、仲氏弟たり弥勒ですか、てんは土笛ちは横笛。くわしくは法華経を見て下さい、わしも100年後にはきっと読むんだと思いますはーい。


方便品

度生すでに了ず未生の前、安祥定を出でて宛たかもち(痴の疑)の如し、縦然鷲子機を見るの作あるも、輪却す五千退席の児。

花開いて萌えずの春は、死に絶えて後の世なんです、すなわち生まれる以前に返る、用なし人間です、ぱーらみーたー彼岸に渡り切る人数少なし、安祥として坐を立つ舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相完具するが如しと、鷲が機を見るに敏たがわずにありとも、鷲子舎利弗なーんてのはどーでもいいです、死んでのち機あり千万不思議を知る、たとい五千大衆退散すとも法華の花です、今の世にはたしてありや、仏教はまさに時代環境に依らんです、死ぬことはいつだってだれにだって出来ます。


性相体力作因縁、蘭に秀有り菊に香有り、君見よ法華開演の日、知らず何れの処か是れ糟糠。

茹で蟹の七足八足するが如く四大もとかくのごとし、性相体力作因縁まさにかくの如し、蘭に秀有り菊に香有り、まさに花開いて糟糠さんざくたの苦労はーてさどこへ行ったんだそんなもの。良寛また人みなかくの如しです。抜きん出るものなし。


十方仏土指注に在り、唯有り一乗転多子、且らく道へ何を以てか標的と為すと、熟柿従来熟柿を弔ふ。

これ面白いです良寛和尚煮ても焼いても食えん、十方仏土を知ること坐断し尽くして始めて元の木阿弥です、一乗もって多子にわたる、多子もって一乗となす、いずれ如何、標的これ如何、わっはっは熟し柿従来熟し柿を弔う、どーもだから困るんです、ただこれと示すのに、汝今これを得たりよろしくよく保護すべしとしか云いようがない、難難。


諸法本来寂滅の相なり、伸びる者は伸び屈する者は屈す、是の故に仏子の行道己りぬ、何ぞ妨げん来世に作仏を得るを。

寂滅の相彼岸にわたりきるんです、死んで死んで死にきるんです、すると修菩薩行がただこれ自分の不始末の故にです、収まりきることこれ仏を自ずからです、十一面観音ですか、八面六臂ですかただこれもとなーんにもないことを知る、ないものは滅びないです。


譬喩品

昔時の三車名空しく有り、今日一乗実也無し、にい(口に夷)、趙州の東壁胡蘆をか(桂のてへん)く。

三車羊車鹿車牛車、譬喩品にある三乗のたとえ、仏道に入るのにたとい遅速ありともと云うが如し、むかしはこうであったが今は空しい、一乗は成仏ただこれ、今日あげつらうばかりで実なし。にい喝するほどに、趙州和尚趙州城に住むことがあったのでこの名がある、如何なるか趙州城、東門西門南門北門。東門西門に相対すと、なんにもない壁にひょうたんがころんからん、どうですかこれ。

昔時の三車名空しく伝ふ、今一乗実也休す、意気有る時意気を添へ、風流ならざる処也風流。

声聞縁覚乃至権乗諸位仏教を云々して筆紙を汚すほどになんの役にも立たない、学者説法もとよりうるさったいばからりの、せっかく聞いてやらにゃならん年寄り厄介かと思ったら、一乗成仏の道もお祭り騒ぎのもてはやす以外になく、でなけりゃただの一人芝居ですか、意気ある時意気を添え、ちったあ力んでとやこうするもよし、風流に外れてごろんがらんの痩せ瓢箪、わっはっは良寛坊主かくの如しだとさ。


信解品

父を捨てて逃逝すること凡そ幾年、りょう(イに令)びょう(イに専)辛苦此の身を送る、尚城中に到って門外に止まる、苦ごろに数ふ涅槃一日の功。

信解品に日く、諸君常に知るべし、此れは我が子なり、我れを捨てて逃走してりょうびょう辛苦すること五十年。りょうびょう孤独、行くこと正しからず。貧窮の子諸の聚落に遊び国巴に経歴して遂に其の父の所止の城に至りぬ。良寛尚城中に到って門外にとどまる、ねんごろに数ふ涅槃一日の功。ぞっと真実はこれ一人よく法の太守たり獅子吼万歳。長者窮子の譬え。


授記品

声聞次第に授記を作す、記し去り記し去って太だ端無し、河裏銭を失して河裏にこ(竹かんむりに鹿)す、山前馬を放ちて山前にもと(不かんむりに見)む。

摩か迦葉に光明如来、須菩提に名相如来など如来号を授けること、声聞次第にってのがおかしい、いやまさにその通り、はなはだ端無しを以ての故にわずかに可。河に銭を落として河を漉くんですか、山に馬を放って馬を求めるんですか、面白いことは面白い、しかも如来現前まったく比類なき。


化城喩品

大通智勝道場に坐す、不得成仏今に在り、信ぜずんば試みに菜園に向って看よ、冬瓜は苦瓜の大より大なり。

大通智勝仏十劫坐道場という公案がある、なんとしてか不得成仏なる、もって今にあり、信じないっていうなら試みに菜園を見よ、とうがんはにがうりの大よりも大なり。どうですかとうがんとにらめっこしますかわっはっは、因みに大勝智勝仏の十六番目の弟子がお釈迦さまなんだそうです、はーいはい。


目前道に非ず道目前、大通智勝人の之く小なり、憐れむべし多少の参玄子、多く化城に休して生涯を誤る。

おれは大通智勝仏と思う人あり、良寛しかり、でなくんば宗門坊主説法のとりこになって憐れむべし生涯を誤る、いえ曹洞宗門なんてそりゃ仏教じゃないです。目前道に非ずです、これありかれありじゃないんです目前道、道そのものなんです、良寛のほかにいったい幾人。


五百弟子授記品

半千の尊者謄々に任ず、親しく曾て見来たる人中の雄、国土名号並びに寿量、頭止尾止虎と龍と。

富楼那以下の下根の五百の声聞が領解して成仏し如来の称号を与えられる、貧人宝珠の譬、宝の持ち腐れですか、半千つまり五百の尊者謄謄任運にまかせて、まかせきるなら200%任せればいいってことです、だれかれ成仏の如来ではなくたった一人のおのれで十二分です、国を善淨と名けん、其の仏の寿命無量阿僧祇劫にして法任すること甚だ久しからん、竜頭蛇尾じゃなくってわっはっは虎と龍ですか、頭も尾も名号無量。


授学無学人記品

空王仏の時同じく発心、或いは精進を楽ひ或いは多聞、相似たりと雖も修むるに遅速有り、等閑に説く莫れ疏と親と。

空王仏の時同じく発心、なにかあると思っている間は発心にならんです、なにかに頼ること転ばぬ先の杖、むしろ転んでもただでは起きぬと知るが如く、仏なく人なく信仰なく主義主張なくはじめて発心というもうまるっきりむちゃくちゃです、にもかかわらず精進という楽をもってし、多聞という虎のかけたる如く馬の夜目の如く取り扱う、いつまでたってもどこまで行ってもです、叩きつぶすか馬走れと鞭打つか、遅速有り師家の等閑たとい身を切るが如く。


法師品

空を座と為し慈を室となす、任運か(桂のてへん)著す忍辱の衣、従容としてこう(口に考)吼す無畏の説、栴檀林中の獅子児。

法華経を聞きこれを流布する人への成仏を記す品、受持読誦解説書写する五師法師だとさ。良寛空に座すはまるっきりなんにもなしに、慈の室わずかにあり、シャバの世行き当たりばったりの忍辱の衣、愚の如く魯の如く獅子吼する無畏の説、たった一人乞食しておんぼろ屋敷に住んでさ。わずかに一人半分あり。


見宝塔品

十方の化仏聚会の時、宝樹荘厳殊妙を列ぬ、人天暫らく他土に移され、今に至りてしゃく(石に斤)額す新羅のよう(揺のてへんをとって鳥)。

多宝如来が法華経流布の真実を示す、仏教のお祭り騒ぎですかまあおおいにやって下さい、わしはよーも知らんよ。仏如来参集して宝樹荘厳殊勝を極め、人天しばらく他所へ追っ払われ、矢新羅を過ぎると外れっぱなしも真、しゃくがくは手を額にかざしてはるかに見る、ようははやぶさ、うっふぼそっと何か残ったか。


提婆達多品

劫説刹説熾然説、海中唯説く妙法華、Y角女子頓に成仏し、白眉の老僧頻りに嘆さ(口に差)

だいばだったのような極悪人も法華経を聞く、八歳の女の子ももって成仏すと、利益海の如くして、眉毛まっしろになった老僧も嘆ずるが如く、たしかに仏も仏教も滅びず、絶えざる発展あるのみと知る、悪人女人畜類の成仏という法華の一切皆成仏の基準これ、わしのように死に損なってようやくに仏を垣間見る嗟嘆おくあたわざる、仏の功徳界は賛揚し尽くし難し、礼拝する身心失せ切って日に新たなり。


一か(果に頁)明珠直い大千、持って仏陀に呈すなん(言に巨)ぞ真率なる、師資妙契奉と納と、誰か此の間に至って毫髪を入れん。

一か明珠はこのことを云うんです、身心脱落し終わって宇宙全体です、ものみな個々別々です、魔尼宝珠如来蔵裏親しく収攬すと、寒山国師の云うとおりです、坐ってまるっきりない無覚の覚、箇の無体験ですか、もって仏陀に呈す何ぞ真率なる、わっはっはこれが真実だなぞ云うものがないんです、師嗣妙契そりゃもうまったく同じなんです、一器の水が一滴漏らさず一器になぞいうまだるっこいことないんです、無いものは滅せず、不生不滅、不垢不淨、不増不減と心経にあるとおりです、まったくこの間毫髪を入れず。


相好誰人か良に有らざらん、男女を以て軽がるしく商量することを休めよ、只能く本の拠る可き無きを知らば、当処を離れず是れ南方。

相に三十二を具へ、以て八十種の好を用い法身を荘厳す。女人の身には猶五障あり云々、これまあお経の文句だわな、一長一短抜きん出ることイコールどーもこーもならんです、人っていうのは面白いですね。相好みんなこれ良だっていうんです、男女がどう誰彼こうだからって軽々しく商量するな、あれはあーゆーやつだからって仮に納得すればそれで支障がないんです、評論家あげつらうは不完全、ほんとうの理解は頭念を通さずにただこれ、おおよそ当処を離れず南方はまさにこれ頓に無生を了ずるんです。わっはっは清き一票の所以まさにこれ。


樵子の活計は林間に在り、漁父の生涯は水を程とす、暫時相逢ふにょう(門のなかに市)市の裏、話り尽くす山雲海月の情。

わっはっはこりゃもういいですな、はーい人間生涯こういうこと、川の学校というのテレビでやっていた、だれか小説家みたいのが一念発起して、がきどもを精一杯川で遊ばせる、まあさ箱庭だけれども子供が甦る、わしらがきのまんま育った大人は将来夢も希望もなんにもないな、世の中終わっていると思っている、良寛のあとつぎなら出来るよ、一人半分つなげりゃいずれ開花するという臨みな、うっひっひばーたれめが。


勧持品

各仏前に於て誓言を催す、灯篭露柱且らく低声、我れ等仏の教を奉じてより、塵塵利利此の経を宣ぶ。

八十万億那由他の菩薩が如来滅後に於いて法華経を広める誓言です、露柱灯篭は身心脱落してのちの独露身です、暗夜を照らす灯だけの存在ですか、しばらく低声にして、塵塵利利この経を宣ぶ、仏の教えを奉じてよりまことに微力ながらというんです、一人半分に伝えれば他に云うことなし、良寛詩歌行いなすことさらに流布して大発展です。
                                                 

安楽行品

魔党衣を著けて法座に升る、嘆ずべし而今ぎょう(さんずいに堯)末の辰、任重くして路遠し通塞の際、勉めよやこれ(栴の木でなく方)四安楽行の人。

文殊が滅後悪世に於いて法華経をひろめる要心を問い、身口意誓願の四安楽行を説く。魔党衣をつけて法座に上るとは、今の師家禅師の類坊主あるいは半坊主悟ったさん困ったさんみなこれで、うるさったいっていうか履いて捨てるほどです。ぶんなぐると引っ込むか、拒絶するかうっは面倒臭い。良寛のようにまるっきりそっぽ向くしかないってこったわな、任重くして路遠い八方塞がり四面楚歌ですか、そりゃなんとか生きて行くこってす、てめえかってな命なんてないんです。


千林色を呈す細雨の後、百城光を分つ午夜の前、輪王護らずけい(髷の曲でなく告)中の珠、只是れ人天漫りに遷延す。

法華経の功徳よく一切智に至らしむること細雨の後千林色を呈するが如くと、転輪王がけい中の珠を与えんとす、衆生を済度するに疎くというこったな、人を云えば即ちわがこと、ただこれ人天みだりに遷延すと、色を呈し光を分つまさにこれたった一人の五合庵ですか、たった一人の夜更けよくよくこれ良寛大人。


従地湧出品

皆是れ大衆唱導の首、地従り湧出す幾千千、如来の寿量の遠きを示さんと欲して、更に逸多をして問端を致さしむ。

仏是を説きたまふ時娑婆世界の三千大千の国土地皆震裂して其の中に無量十万億の菩薩、まか薩あって同時に湧出せり、是の諸の菩薩は皆金色にして三十二相無量の光明あり、先より尽く娑婆世界の下此の界の虚空の中に在って住せり、是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて下より発し来たれり、一々の菩薩皆是れ大衆唱導の首なり。逸多は弥勒菩薩のこと。まあこーいった按配です、人の一人ぼっち孤独なんぞありえないことを知って下さい、如来滅後にもあれ同じこったですよ。まずもって虚空をわがものとして下さい、虚空なーんにもない。


寿量品

空は把る可し風は繋ぐべし、如来の寿量は議すべからず、常に霊山に在して説法すと雖も、人をして敢えて容易に視せしめず。

空はとるべし風はつなぐべし、如来の寿量は議すべからず、そーだなあこれはもうまったくお経の文句だな、如来寿量品げは毎日読んでいる、霊山に在して常に説法すといえども、方便力の故に滅と不滅とありと、人をして敢えて容易に見せしめず、ほんとうにこれを知る実に稀なり、良寛はせっかく左一を得て先立たれ、わしはむちゃくちゃでたらめをもってまだ一人もなく、でももうじきできるような予感がする、そーしたら仏の王国だな、空あり風ありして如来現ず。


或は己身を説き或は他身、又滅度を示して又常在、霊山の説法若し己む有らば、無限の百川海に朝せざらん。

或いは己身を説き或いは他身を説くこと寿量品にあり、己身は仏果なり他身は九界なり、九界とは菩薩界より地獄界に至る九界を云うと、これ坐禅のありようです、仏果を証するとはまるっきり自分です、ものみなの証するさまです、外れると他身ですか菩薩から地獄までを見る、毎日そのようにするんですか、ちらとも仏に出会って下さい、如来は或いは滅度を示し或いは常在です、霊山に於いて説法の絶えることあれば、百川海に入ることなしと、わっはっはものみな物理学の法則に外れてしまう、有をもって無を証明する無限軌道も潰えますか、死ぬまでやっとれってやつ、馬鹿も死んだら止むんです、まあさそーゆーこと。


劫火洞然大千破るるも、我が此の国土正に平安、此れ是れ神仙の妙秘訣、誰れか蓬莱を指して波乱を凌がん。

衆生効尽きて大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏にして天人常に充満せりと、これはこれ神仙の妙秘訣と云うからには、自然のあるいは霊山の説法におのれ身心を加えて下さい、たといこの世は破れ果てるともです、日本は存亡の危機にあり、人はどうにもこうにもです、これを投げ出そうが渦中だろうが一身よく保つと、不滅と滅と説くことこれ、よくよく見てとって下さい、我此土安穏天人常充満、実に正にこれです、言い種じゃない坐って下さい、証して下さい。


他の毒手に遇ひ他の悩みに遭ふ、乃ち昼乃ち夜漫りに狂顛、医王知らず何処にか去る、長く良薬を留めて大千に在り。

毒の中って父の薬を飲まない子に、医王は方便して他国に行き、父はすでに死んだと云いふらしてその子を覚醒せしめ、薬を飲ませて救うということあって、仏の常在不滅を説く。人々仏に手を合わせいいことしいの却ってまさにこれ毒、達磨を毒殺するは坊主ども、沢木興道流人に見せるだけの禅、大雲祖岳の見性禅、いずれ仏には遠く毒はなはだ、越後流ごんずい塊のありがたーい毒、毒も悩みも同一人、仏ほっとけ知らぬ存ぜぬってだけかな、良寛はよくよくかくのごとく。服と不服とは医の科にあらず、毒にあい他の悩みにあう、自分がないとはどういうことかよくよく見よ、昼夜みだりに狂顛かただもう知らん顔か、大非観世音何面して北斗を見る、宇宙のはてまで飛んで行って孫悟空と書いてきたら観音様の指であったという、世界のはての一音もともに震撼、医王長く良薬をとどめて大千にあり、知らずいずれにか去ると、いつでもこれ薬。


分別功徳品

看経は須らく看経の眼を具すべし、切に忌む文に随って漫りに西東するを、此の経の功徳如何が委せん、行住坐臥其の中に於てす。

法華を聞いて一会の大衆種々の功徳利益を得たりと、お経を読む、看経というすべからく看経の眼を具すべし、お経を上げりゃお布施が貰える、だからお経はありがたいという、ありがたいことを言いふらして、ナンセンスまるっきりの無内容ならまだしも、だみ声裏声を上げて嘘八百、心はそっぽを向いてぜにかねと車と女だけという、これが坊主の姿である、お経の意味も知らない、娑婆の西友俳優の心意気さえない、なんなんだなこれは云う甲斐もなしの罰当たり。師が弟子におまえらは眼光紙背に徹するからだめなんだと云う、看経禁止で、自らは平気で声明をくちずさむ、どうですかこれ、お経を読むなと田んぼの蛙より悪いとは道元禅師の語です、蛙のようにうぐいすのように出来るかというのが、わしんとこの初関です、でなかったらお経なんぞ読むな、鳥のぴーと鳴く、鳴けりゃ向こうが応ずる、後先なくなんのけれん味もなく。すなわち行住坐臥のうち、文に随って東西するは妄想私利私欲ですか、一句通ずれば世界通達、たといホーホケキョ一音全宇宙を知る、お経が人の救いになるのはこれ、でなきゃモーツアルトやバッハのほうがよっぽどいいです、彼は無心を知らず。


随喜功徳品

水を出ずる芙渠は彫琢を絶す、従他白赤鮮新を争ふは、根茎枝葉○と台と、人間の物比倫に堪ふる無し。

法華経を聞いて随喜する功徳大無辺ということ、芙渠は蓮、彫琢を絶すと惜しいかな一日で散る、人のものみなに較べるなきこと、まさに法華経を云うによく、蓮華水より出でざる時如何、蓮華。蓮華水より出ずる時如何、迦葉。

 
法師功徳品

鼻八百舌千二、紫羅帳外珠玉を撒す、然く一等精魂を弄すと雖も、就中這の段最も奇特。

分別品随喜品法師品の三功徳品のうちもっとも奇特なりと云われる、なんかさっぱりよーもわからんけど奇特なんだろーて、鼻が八百舌が千二百とわっはっは三百代言よりゃいささかましなんかな、紫のとばりの外に珠玉をばら撒く、まーるでこりゃ新興宗教の教祖さまみたいだな、よく一等精魂を弄すと、そりゃ説教たいへんですか、法華経出現によりただいまの坊主堕落あり、ご詠歌でも歌って嘘とはったり空威張りにのしつけて、具輪もーけったくそわりーやかってにさらせ。


常不軽菩薩品

朝に礼拝を行じ暮れに礼拝、但礼拝を行じて此の身を送る、南無帰命常不軽、天上天下唯一人。

いにしへ威音王仏の時に常不軽菩薩あり、読経せず常にただ礼拝を行じ何人に向っても、我深く汝等を敬うて軽漫せず、ゆえは如何汝等皆菩薩の道を行じて常に作仏することを得べきが故にといい、杖木瓦石、悪口雑言の迫害にあうともこれを厭わず終始礼拝す。将に命終わらんとする時六根清浄を得、寿命を増益して法華経を説くと。はーいさまあそーゆーことです、だれがなにをどーしようが天上天下唯一人であるはずが、これを知る実に稀なりとは、まさにかくの如くです、よろしくよく見てとって下さい。


斯の人以前に斯の人無く、斯の人以後に斯の人無し、不軽老不軽老、我れ人をして長く淳真を慕はしむ。

仏祖以外に敬うなく慕うなくというまことに実にこれです、不軽菩薩実に比類なしというとも菩薩みなこの人以前に人なく、この人以後に人なし。良寛以前に良寛なく、良寛以後に良寛なし、我も人もですか長く淳真をして慕はしむ、まっすぐというのは疑いようも触れようもない、空虚の洞然のように人ものみなの範疇には拠らんです。絶学無為の真人というならまさに人みなこれ。


如来神力品

仏の此の経を属せんと欲すること、当に知るべし小縁に非ず、瓦礫忽ち光を放つ、烏藤倒しまに天に上る看よ看よ。

深法を菩薩に付属せしめんがために十種の神力を示す、以無所得の故にです、自ら得ようとする所のものを放って行く、神力とはこれです、ここがまずもってわからない、知らぬまに自分を肥して趣向のままに行く、悟るにしたがい尊大になる世の坊主娑婆流です、よくよく見てとって下さい、自分の預かり知らぬところに向っての参禅です、十種が百種あるかも知れんです。瓦礫忽ち光を放つことは瓦礫が自分という全世界なんです、まったこそれっきりです、烏藤は杖です、杖が自分になり終わって天に上ること、だから理屈推論じゃない現実なんです。


嘱累品

山自ずから高く水自ずから走る、情を尽くして分付す遅疑する勿れ、諸来の仏陀並びに清衆、帰りなんいざ東西南北。

諸菩薩をして弘経の為に苦労せしめ給うこと、山自ずから高く水自ずから走る、ほんとうの教えは嘘とはったり空威張りじゃないんです、くされ坊主も一神教もワンクリック詐欺の架空請求ですか、そうではないほかにはない仏の道です、情を尽くして分付する、つけるんです、狐疑逡巡疑うことなかれ、仏陀と清衆です、この世には仏陀と清衆しかないんです、よくよくみてとって下さい、わっはっは帰りなんいざ東西南北、東門西門に対し、南門北門に対す、もとまったくにこれ。


薬王菩薩本事品

曾て妙法に参じて旧因を慕ふ、せん(目にクにたれに言)葡の香油一枝に燃え、再び完全を得る他に是れ誰れぞ、とつ(口に出)。

薬王菩薩は、過去に一切衆生喜見菩薩として日月淨明徳仏に法華経を聞いた恩を報いずるため臂を焼いて供養した、かつて妙法に参じて旧因を慕う、せんぷくとは香花樹といい花細くして香ばし、その気風に従い遠く伝うと、ひじを焼いて供養することこれ、大祖慧可大師の如くにひじを切って差し出す、まことにこれ命と引き換えの価値ありと、今の人に説く空しいばかりですか、妙法に参じてはじめて知るんです、顔のない人格形成のないインターネット世代が国を滅ぼすんですか、でもたといなにがどうあろうたって一箇これ一箇。再び完全を得るこれたれぞ、たとい傷ついたろうがもと完全です、すでに自分という痕跡がないんです、心を求めるに不可得。


妙音菩薩品

曾て伎楽を奉じて此の身に感ず、一華わずかに謝して一華媚ぶ、一華媚ぶ、茲より万事遊戯に伏して参ず。

三十六身に変幻して法華経を説く大神力の妙音菩薩ですとさ、野の花きくざき一華も妙音菩薩さな、大騒ぎしてないでさらりさらりと風の如くにさ、一華謝して一華ぶ、なんで花は謝して媚んだろうなあ、はーて遊戯三昧これ。
一華なる咲きたつ見ればあしひきの杉の門は足掻きも行かな


観世音菩薩品

長者は長短者は短、応現不現観自在、三界は茫々として古より今、晴天白日亡子をもと(不に見)む。

三十三身に変幻自在して衆生を得度する大神力大慈悲ある観世音菩薩が霊鷲山に於いて釈迦牟尼仏多宝仏塔を供養し敬う。長者から短者まで三十三身に変現して、あるときは現れあるときは現れずして観自在、三界茫々一切衆生輪廻の世界に、晴天白日はーてな一子に現前する、一子とはあなた、まーさやっとくれ。


真観清浄観、広大智慧観、悲観及慈観、常願常せん(目クたれにハに言)仰の一句を無観最好観にする、 為に報ず途中未帰の客、観音は捕陀山に在さず。

ふだらか山光明山インドの南にあり、ふだらく渡海ですかつまりいないんです、行きて帰らぬこれ仏、行きて帰る心の味は芭蕉、ただのでたらめは現代俳句、仏は無心心がないんです、無観最好観行きっぱなしが菩薩行です、見返りはないんです。


風定まって花尚落ち、鳥啼いて山更に幽かなり、観音妙智力、とつ(口に出)。
妙音観世音、梵音海潮音、勝彼世間音、希音是れ真音。
是故我れ今頂首、南無帰命観世音。

風定まって花なほ落ち、鳥啼いて山さらにかそかなり、希恩これ真音なるを看るによし、仏だのなんだのわいわい連中の渦中に、たった一音良寛あり、聞く人あるいは皆無、妙音観世音宇宙のはてまでも響くんです、ごーんと鐘の鳴る海の潮の如く、たといどーしよーもない流行世間音などものともしないんです、是故応頂礼。南無帰命頂礼観世音。信ずるから始まって信ずるおのれすべてを投げ与えるんです、するとようやくに梵音海潮音、響きを伝えるなにものか、かすかにあるいは応ずるあり、もとまっぱじめからこの中にあるを知る


一心称名風に吹かるる柳、観其音声水を覆ふのうきくさ(くさかんむりにさんずいに平)、七難三毒這是れ、鋒鋩ちぬら(血に刃)ず凱歌を奏す。

風に柳と受け流しというのは身を守るための意図です、そんなんじゃさっぱり面白くない、風も知らず柳も知らず、水を覆う浮き草はただこれ水のまにまにです、良寛のほかにこれをなしうる人寡聞にして知らず、七難は火難水難羅刹難刀杖難鬼難枷鎖難めん(穴に兎)賊難だそーです、三毒は貪り怒り愚かの難。ただこれこれとあって鋒鋩を血塗らず凱歌を奏することは、ためしにどうぞやってみて下さい、自分なにがしかと決めて世の宗教家道徳家しても、なにがしかに触れると血塗らずってわけには行かない、つまらんです。無手勝流良寛坊主です、どーしよーもこーしよーもないんです。


西方安養界を捨つるに慣れて、五濁悪世此身を投ず、木に就いては木、竹に就いては竹、全身を放擲す多劫の春。

安養界は極楽の異名、五濁は劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁だとさ、現世のことなり。西方極楽浄土いいことはいいから願うというさえ捨てて自堕落ですか、いつか現世の汚辱にまみれという、心を云う人これです、だからおれはどうのこうの次第ニヒルに七面倒にとつまらねえあいまいもこ、売国奴亡国の民の100人のうち99人ですかわっはっはどーしよーもないな。無心の術を学べ、竹については竹、木については木、全身をなげうってとこしなえの春です。わずかに心のなきを知る、いつの世だろうが同じです。


脚下の金蓮水泥を抱き、頭上の宝冠塵埃に委す、乃往一時りょう(木へんに口口方)厳会、侘の吉祥をして疏親を択ばしむ。

胎蔵界の文殊は白蓮に座す、蓮の台は水泥を抱き、宝冠はほこりまるけ、へたに塵を払うと金箔が剥げる、りょうごん会は四月十日から七月十三日まで大衆りょうごん会啓建といって読経して歩く、なむさたんどーすぎゃとーやーとサンスクリットでもってようやく馴れるころには終わる、なにがなんだかさっぱりわからんあり方やーのなんまんだぶつ。侘の吉祥をして疏親を択ばしむというのは、良寛のかってにつまみ食いかなこれ、文殊普賢に本尊如来に幾つ仏にってさよーもわからん。りょうごん経の抜粋は祖師の語録問答にしばしば出て来る。


森森たる二十五大士、独り此の尊に於いて嘆嗟頻りなり、南無大悲観世音、哀いん(枚の木でなく民に心)納受せよ救世の仁。

二十五観音は、観音、勢至、薬王、薬上、普賢、法自在、獅子吼、陀羅尼、虚空蔵、宝蔵、金光蔵、金剛蔵、光明王、山海慧、華厳王、衆宝王、月光王、日照王、三昧王、定自在王、大自在王、白象王、大威徳王、天辺身、徳蔵の二十五菩薩ですとさ、侘の吉祥をして疏親を択ぶことはたしてありや、みなこれ我れの時節如何。疏とはあっち向いてほいですか、なにをどーしたりうが親しいんですか、とりわけ南無大悲観世音これわが正体です、救世の人あるいはまったく知らず。


陀羅尼品

各おの仏勅を受けて神呪を説く、神頭鬼面也た慇懃、如し我が語に違ひて法師を侵さば、果然頭破れて七分と作らん。

陀羅尼品は、薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天、持国天、鬼子母神、十羅刹女等が各陀羅尼神呪を説いて法華受持の者を擁護し、若し迫害する者あらば、頭破れて七分になすこと阿梨樹の如くならんと。神頭鬼面また慇懃、らごら坊主どものなんしろもーどーしよーもないごろつきどもをさ、なんとかしてくれってんだなわっはっは。このぐらい仏、仏法に背くやからなし。


妙荘厳王本事品

禍を転じて福と為すは尋常の事、邪を捨て正に帰すろ真に独り難し、今日より心に随って行ぜずば、是れ此の厳王也た肝に銘ぜん。

妙荘厳王淨徳婦人の王子、淨蔵淨眼の二人が父母をしてその師に帰依せしめ法華経をもって大善智識となす、難値難遭の仏に出会うこと父子の別なしを説く、淨蔵淨眼は薬王薬上の二菩薩であった本事を明らかにす。禍福はあざなえる縄の如しという渡る世間に鬼はなしほどの世の常ですか、すべておのれのよしあしから来る、これを捨てて真に帰る、今日よりは心に随ってという、心無心、たれかれ肝に銘ずるほかなく。


普賢菩薩勧発品

幾回か生まれ幾回か死す、生死悠々窮極無し、今妙法に遭うて参究に飽く、正に是れ普賢の威神力。

普賢菩薩大威力大神力を具し、無数の菩薩を率いて来たり、仏滅後に於いて法華経を得る方法を問い、釈迦如来云く、一には諸仏に護念せらるることを得、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発するなりと示す、若し法華経を誹謗するあらば、白痴の病その他厭うべき不幸を得べしと。幾回か生まれ幾回か死に生死悠々きわまりなし、もう生きるのはさんざくた勘弁してくれっていう人いるんですが、悠々きわまりなしがその姿です、今生この世っきりなんて寸詰まりなこっちゃないんです、でもって今妙法に遭いて参究するに飽きる、まさにこれ普賢菩薩の威神力のもってするところだってさ、あっはっは坐って下さい、答えのまっただなか、蛇足ながら答えという固定観念じゃないですよ。


かく(てへんに閣)筆

草堂四月日年の如く、七軸の金文の(舎に予)べ且つ巻く、宗乗を発揮する我れあに(山に豆)敢えへてせんや、漫りに禿筆を援いて蕭散に付す。

四月の日は年のように長く、七軸の金文は法華経七巻ですか、ゼニもねーのによーも揃えたな、でも法華讃は立派であった、古今未曾有の独立独歩、かく筆とは筆を置くこと、宗乗を発揮する仏そのものを現すんです、ただこれ坐る以外になく、みだりに禿筆をって漢詩漢文の素養もなまなかのものではない、わしらの逆立ちしたって追いつかぬ程の、でもさ法華経講釈なんてえものやって薀蓄しねーよって云うんです、あったりまえだどあほ。