法話集

法話集

川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
・それぞれの小題はHP作成にあたり管理者が適宜つけたものです




  仏教と自分


白陰大悟十八遍小悟その数を知らずというんでしょう、悟りという実にまああの人不惜身命たいていじゃないことやっています。でもってどうして行かない。有心だからなんですよ、
「われこそは仏教の第一人者」
あるいは、
「仏教をどうしても我がものにしたい」
それはいいんだけれども、
「仏教をもって」
なにほどかしたいんです。どこまで行っても仏教があるんです。無心になれない、彼岸にわたっていないんです、此岸のとやこう取扱の問題なんです。
このあたりをよくよく見てください。
シャバの世と別れを告げる、難波のことは夢のまた夢、たとい、
「おれはいったいなんであったんだ」
という底無しの反省がないんです、出家のまっぱじめに来るはずの感想ですよ。だからどっか学者と同じに、どこまで行っても、
「仏教のえらい人」
なんです、収まり切らないんです。大切は、あなたの納まり切らない何かです。どこまで行ってもシャバの世の欲求不満ではないか、自分とこの現実世界、流転三界にケリがつかない、ひょいと見たら過現未一切自分の掌の上という、大力量の本来を知らない、そういうことがあるんですよ。
雪峰我今はじめて鰲山成道、しくしく雪ん中でやってるんですよ、足つん出して寝ていた兄弟子が、な-にやってんだおまえって云うんです、
「いや、どうしても行かん、あのときはこうだった別事どうだった。」
施設する、標準を外に求めているんです、
「こうあるべき」
から抜けられない、
「このばかったれ-めが、門より入る物は是れ家珍に非ず、てめえ通身からをもって蓋天蓋地これ。」
と示す。実に坐禅とは
「標準もとっからこれ」
に気がつくことなんです、ことはまったく簡単です、てめえ満足大安心という物差しがあるっきりです。でもたいていそれを間違えるんです、悟った申し分なしといって、朝三暮四を繰り返すのはこれです、知らぬまに標準を外に求めて、自分はの二分裂です。このばかったれ、三日耳を聾することなくんばってことあります。
よろしく。



  説教


 むかしは命を鴻毛の軽きに置けと云った、鴻毛とはみずとりの羽、ダウンです、吹けば飛ぶような軽さ、必要とあれば、いざとなったら自分の命などはというわけです。でもって戦争に負けたら、人の命は地球より重いと云う、北朝鮮べったりの社会党が、「だからごめんなさいって謝ったじゃねーか。」といって、開き直っても生きて行ける国の、アンチョコ転換てこったけれども、これ鴻毛の軽きにと云った時代のほうが、地球より重い今よりよっぽど、人間を大切にした、生き生きした子供の目、品のある年寄り、頼り甲斐の大人っていう、そりゃ社会現象の違いってことあるけど、どっか根本に「おかしい」って思うことあるんですよ。もう一度考え直して下さい。人の命は地球より重いって、これひょっとして鴻毛の軽きに置けと同じ意味だったんじゃないんですか。人の命は鴻毛の軽きに置き、自分の命は地球より重いと云ったら、今様人間の見本が出来たりする、そうではないんでしょう、まったくそうではないんでしょう、「おかしい」って思うことここらへんにあるんです。
 なにがおかしいって、ほんの三つのころから親の愛情だのいうお仕着せ砂糖漬けの、物心ついたときには窒息死している、つまり自分のために以外なんにも考えられぬ人間、これ人間とはほとんど云えない、おむつかえてもらって文句云ってるしか能がない、てめえ杓子定規の思い通り、通り一遍しか世の中ない、そりゃもうどうしようもないです。
 趣味だのてめえの快感自分流という、そりゃ行き詰まりの道なんです、自分と自分以外どっちが大きいか、どっちへ住んだほうが楽しいか、自由であるかってこんなこた猫でもわかるのに、世間一般がわからない、とにかくゼニ儲けしかないって、こりゃどういうこってす。
 どこ向いたってすっきりしない、そりゃ当たり前のこってす。
 人間の根本を履き違えている。
 色即是空の仏法は、自分の身も心ももとまるっきり自分のものではない、というんです。自分の物だと思い込む、ちらともそいつを手放せ、彼岸に渡れ、渡り切って下さいです。
 すべての不幸はそこから起こる、ものみなまっ平らをよこしまに私するから、つまらんことになるっていうんです。
 仏を説いて我利我利坊主とか、好き勝手云ってなんにもしない評論家とか、人のことばっかりギャースカ云ってる一般人とか。「おかしい」ってこりゃ根本に間違ってることに、まず気がつくこってす。でなけりゃなんにもなりはしない。
 ちらっとも気がついたら、できること一つやりゃいい、それだけのこってす。世の中すっきりしますよ、一つやりおおせる、まず冗舌が納まるです、民主主義だといって原発賛成反対20年もやっていたりとか、幼いみっともないこと自ずから止むです。
 一人光明なれば全世界を救う、はいこれ仏法です、他になんの方法もないんです。世の中ぜんたいが幸福でなければ、個人の幸福はありえないという、わたしの大好きな宮沢賢治の言葉は、こりゃ西欧思想なんですけど、間違っています。世界中うるさったく正義のアメリカだの十字軍だ、テロってことになる、アッハッハどうですか、そういうこったと思いませんか。



  晋山式


 晋山式はそうですなあ、諸国行脚の僧が寺へ入って住職になる、行脚の草鞋を脱ぐところを安解所という、たいてい村の旧家、大世話人の家です。そこで風呂を使い朝飯を食って、たいてい大ご馳走になったり、支度を整えてお寺まで行く、台傘さして五侍者引き連れて、そうして稚児行列が出て賑やかにやって行く。山門頭に香を拈じて錫杖を突いて偈を唱える、我こそはといって住持人たるべく力量を披露する。むかしはけっこう猛者どもたむろしてやり返して、かなわずば退散てことあったらしい、今はとにかく寺のせがれが跡継ぎのこと。ついで本堂へ入って本尊さま達磨さん開山堂と同じように挨拶して歩く。終わって管長辞令を読み上げ、お迎えの言葉でもって晋山の儀はけり。ついで出国開堂ということになる。一休さんはその人気にあやかって大徳寺の住持になった、偈を唱えてたってすけべ雲雨そのもっての唱えて歩いて、終わってみたらもういなかった。でも人みな集まって傾きかけた大徳寺は一息ついたとある。
 偈というのはひょうそく合わせて予め作っておくが、それにしたって自分の心境とはさっぱり関係もない物まねってのはその後の住職一生、お経の内容とは似ても似つかぬはりかんぼう。そいつを平然やってこう武士は会見互いっての-なんだかもう。
出国開堂は本尊さん前須弥(須弥山に見立てる-シャバに向き直る意)壇上に上って、三界に偈を発し世間一般の問答を受けてこれを接化のしるしとする、
世尊一日しん座、文殊白鎚して云く、諦観法王法王法如是。
という故事による、世尊お-釈迦さんが一日座に上られて大衆の面前にあり、一語も発せずに座を下りられたのを、文殊菩薩が
「諦観法王法、王法かくの如し。」
と示す。
 白鎚師というのがいて、本寺たるわしに回って来たのもあったが、たいてい本山のお偉いさんとか来る、本山の後堂老師というのが来た。黄色い衣黄恩衣とかいうの他三人来る、宗務所長両本山使、ウッヒ本寺さま合わせ先住忌に4人同じ部屋になる。こういうのむかし億劫だったけど、今どうってことないな。ちゃ-んと立ててやってる、ただこういるだけで向こうちじんじまうからおかしい、なんてまあてんぷらども、偉そうやる他に爪っから先もなくって、よくぞまあその年までってワッハッハ笑っちまう。
 でもって問答になって諦観法王法もくそもない、そりゃまるっきり茶番で何百年猿芝居で続いて来たってんなら、そりゃ国民性が疑われる-とにかくどうしようもないてんぷら、蚊の鳴くみたい、やたら声ばっかでかくって終わって、そうしたら世話人代表、県会議員の某か祝辞に一発かました、
「わたしは県会の議長をやったことがあるが、いうこと聞いて吉祥吉祥大吉祥といって引き下がる人はめったやたらにゃいなかったです。さすがにお坊さんは違いますか、せっかく新命さんにお願いします。わたしどももそりゃ禅問答だ、大吉祥といって引き下がれるお答えをぜひにお願いします。」
 一瞬坊主はりかんぼうマッチ箱みたいに揺らぐかと見えた、やっと一般人も云うこと云えるようんなったか、こりゃ面白いやとにんまり-でもさどうなるんだか。
 出国開堂終わって首座法戦式わしの出番もあってカ-ツやってさ、猿芝居ぶっとばしって、旧住職引退式あって記念撮影あって、いや前の晩から首座入寺式とか本則行茶とか、つまり弟子をとって修行も提唱もマニュアルに乗っ取って一夜漬けをやる。こんなことを鬼の首とったみたいやっている、
「なあにやってんだ。」
しゃば人に云われるのがもうそこまで迫っているのにだ-れも気がつかない。



  宗門坊主


 どうにもこうにもそのアホさ加減というか、どっちしたってお布施稼いで葬式稼業の、仏も仏教も使えるものあればなんだっていいという、その上お寺に生まれりゃ説教だ、お釈迦さん以来の血脈だってそりゃもう、地球上最悪最低のなめくじ人間な、シャバ人の遠く及ばぬ腐れ睾丸いい加減さ、でもって真面目にやろうだってさ、思っただけで胃が悪くなっちまうで、平然やってられないです。
 坊主だけはどうしようもない、情けなやこれが30年勤続坊主のわしの感慨です。一カ月に1、2度会えばあとは知らん顔で過ごせるからやって来た。さぼってばかりの、宗門の云うことなるたけやらんのが宗門の為とな。
 どうにかならんかって、どうにもならんな。
 こうしてシャバ人に痛切に指摘されることが良薬。
 宗門とうのむかしに命脈尽きて仏教のぶの字もないこと、僧堂といったって修行のノウハウもない、ただもう資格取ってかっこつけて、-
 ちったわかったと見えてこのごろ宗門はシャバ人雇って説教させてる、アッハッハつまりもう葬式稼業御坊の他ないって白状な。
 聞きに行けってえから怒鳴ったことあったっけ-大人げなあ。
 あれわしとしたことがぼやいてらあ。
 悟後の修行というでしょう、悟ったのとをどうするっていうんです。それは悟らぬ人が云うんです。悟った人は悟ったあとしかないんです。でもって道元禅師は悟れって云わなくなったんです、もう一度悟ろうっていう、そりゃどういうこった、なにを企んでるってこってす。
 わかりますか。
 仏祖師方はそりゃ悟る以前、従前の我に振り回されていたことを知っていて、それによって指導するんですけども、いつかそんなこと忘れちまうんですよ。かくの如くかくの如くある、どうしてそうならんのだ、迷悟中のことやってるんだ、たとい迷悟中だって、迷悟中がそのまんまとやるんです。
 でもってそれ正しいんですけど、だから悟らなくっていいっていったら、それっこそなんにもならない、
「このま-んま」
と云われて、道元禅師は是、あなたは不是ってとこから、ようやく参禅なんです。
 これしきのことわからん坊主ってそりゃ、脳味噌欠落してるか、わざとやってるうちに壊死しちまってふ-らりふ-ら、心理学の対象物ってわけです、てめえのかあちゃん殺人しても救えないってやつ-恥ずかしいったらな。
 そうなんですよ、
「悟る前はむちゃくちゃ何やってもかまわん」
でも、
「悟ったら修行があります」
ということなんです。
 修行の中身がちゃ-んとあるんです、一寸坐れば一寸の仏です、さぼったら面白くないです、僧堂清規の如くに毎日が行く、悟る前の人はやってやり切れんのでしょう、息抜きが欲しい、いいねえちゃんやる、仏はしからず、いいねえちゃんも息抜きも坐中っていう、まったく同じなんです。
 こ-んな面白いことないんです。



   自殺


 コレサイッパンロンダケドキミニハリツケー仏教では自殺をどう説くかっていう質問を貰って、アッハッハ仏教では各人てめえの勝手って答えたんだっけかな忘れちゃった、真面目にやらんと怒られるんだっけか、
「てめえでやってみろ。」
しか答えがないのが仏教です、つまり仏教というほどのものがないんです。自殺が流行っている知らぬ同士が練炭火鉢、女に限るとかいっていっしょに死のうって、こやつ情けない、てめえ勝手って妄想の延長上にあるの、それ死ぬってこと知らない、ただの敗北です。死ぬ=敗北っていう常識ですか、それっこそそんなん仏教にないですよ、自殺禁止なんてもとっこ禁止もなんもできないこというキリスト教じゃないです
がね、死ぬときぐらい完全勝利ってのが仏の教えです。
 200%生きる=死ぬなんです、だって死ぬ人間は世の中有耶無耶から解き放される、ったく自由になる、生まれついての本来なんでしょう、それじゃすべてふっとんで万歳死ぬでいいんです。
 それをあっちこっち呼び集めて変なとこでこそなんてやつ、そりゃそういうの集めてむかし炭坑今北朝鮮て、人身売買たこ部屋やって儲けようかっていって、また叱られ。奴隷だって存分に生きていたんだ、てめえの妄想の奴隷になってその上人を巻き込んで、いいきになって甘えん坊の自殺なんて、そんなん屁にもならねえよ。
 自殺したいんならカンボジアアフリカ行って地雷処理要因やれ、ぼかっと吹っ飛んで内蔵木の枝にひっかかる、子供がてめえの母親そうなうの見たって話聞いた、その母親の代わりになれ。一生にいっぺん人の役に立て。
 人の役にたったとき初めて人っていうんだぞ。それ以外のは妄想っていうんだ。
 生き甲斐もなんにもあるもんか。
 なめくじの両性類さ、自家受粉のオナニイマンやってんのさ、ちいとも面白くなくなって練炭自殺か、情けない。
 情けないってのは生の喜び、強烈なのこれっぱかしも知らないであの世行くからさ。
 だって今の世の中生の喜びないって、アホ抜かせ。
 だったらやって来い、わずかに坐っておのれを脱する、
「うわあ天下取った。」
 秀吉もジンギスカンもくされ女も世の中もさっぱりいらんぐらいの気にはなるよ。
 もとっこそう出来ているのさ、人間も虫けらもお月さんも空の雲もだよ。
 ウッフッフそこらうそぶき歩くのさへ強烈命ってね、ほんのがきのころから砂糖漬けやって来て、世の中かさぶたみたい自分=お仕着せての一枚脱げ。
 ものみな有頂天の他ないよ、手の舞い足の踏む所を知らず。
 ちらともこれを知ってから自殺したら。
 自殺もてめえの勝手ってアッハッハ、ミイラんなって死ぬのもいいし、腹かっさくのもいいよ。
 死ぬからには自分=世間一切合財。ビックバンの三つ分ぐらいパカッとやっつける。
 やろうかな、自殺者大募集、100人1000人集めて地雷処理版。いやどっか兎ってからゆきさん大儲け、えーとどっちしよかな。



  仏像


仏教もちょうどアフガン破壊のガンダ-ラ、ギリシャ人の影響を受けるまで、500年ほどは偶像というものはなかったですよ。たった一つあったのは仏足石でした。
如来お釈迦さんの足型が二つ、つまり一足分あったんです。その上にお釈迦さんが立っている、お釈迦さんてなんだ、な-んにもないではないか、そうさな-んにもないのさ、だから宇宙万物一切、空の雲あり花あり緑あり、家屋あり往来する人あり、馬あり小鳥あり、一切の音声とともにあり、風がふけば風というんです。
そうだよ、君もお釈迦さんになれる、その足型の上に立ってごらん、
「ほうらこのとおり。」
というのが仏足石、唯一の仏像だったです。
日本鎌倉彫刻の最優秀のものは、たとい強烈巨大マッスの仁王像だって、まったく虚空と等価なものがあります、世間知らずたって、中世雪舟と同様にこの事体現して=仏になって描き彫刻した数人があったです。
すばらしいことでした。






  論の尽きたところ


 う-ん論の尽きたところしか、この道ないんだけどな、学者仏教や2000年歴史の垢じゃないってこと気がつく人と、そうでない人といる。仏教論議なんてとりわけつまらないのにさ。だってもと砂上楼閣だってのに。わたし砂上楼閣でもない幾つかについて18~25歳にとことんやったです。どっかで云ったけど、ドストエ-フスキ-、ニイチェ、カフカ、ゲ-テ、シェ-クスピア、アイスキロス、リルケ、カロッサ、モ-ツアルト、ゴッホ、ピカソ、セザンヌ、芭蕉、万葉、つれづれ草とかです。徹底してやりましたよ、論を尽くすなんてもんじゃない、命がけってな、刺し違えるんです、破れほうけ死んで蘇るってのだったです。だから今だってたいてい文芸評論家とか学者の論なんて、あほらしくって聞いてられんですよ。それにむかしから学者とかなっちゃなかったけど、今様学者ほとんど意味をなさんてふうです、これほんと。ドストエ-フスキ-は今の日本の心を解明するのに決して古くさくはなってないです。いいですか、こと論文という非論理的なもの、じつに野蛮野卑な品物です、ほんとうに論じつくすとは芭蕉の俳句です。論者と論とそれを聞くものとがぴったり一致する、論とはこれ以外にありえないんです。この点で白川静さんは唯一尊敬できる学者です。彼はなん10回なん1000回のトレ-スをもって思想を生み出す、それは向こうにあるんです、自分の発明という不完全いい加減の入る余地がない。いいですか、万葉を研究するとは万葉の歌一つあるいは三つそっくりに作ってみるということしかない、本歌取りだろうが一句でもあとの句でもいい、そっくり使えるかということ以外になく、他の研究がなんの意味もなさぬことを知るんです。このあいだ平家物語の琵琶を弾じて物語るのをちらと聞いた、感動だった、日本人はこうあったんだという、涙ぼうだ。これを研究するとは研究のあとかた失せるということだ、平家の語りだけが生き生きと残る、これ以外に研究の成果なんぞあるものか。
 わたしの出家の原因はモ-ツアルトだった、人をたぶらかしための悪魔の発明といわれる、とことんくらいついてついに破れほうけ、これ西欧一神教文明の極致なんです、どういうことかというと、しごく簡単なことなんだけれども、死ぬ思いの七転八倒があり、これを人に説明しても、そうねえだれも聞いてくれなかった。
 でも出家のちの苦労はモ-ツアルトを免れることだったです、一切を捨てないと一個にはなりえぬ、これが仏教の鉄則です、すべては自分=世の中という架空のでっちあげなんです、思い込みです、このうわっつら一枚はぐのに人は大苦労する。坐禅は正直なもので捨てられていないと坐が坐にならんのです。(これ故に只管打坐なんです、臨済の公案禅無字だの隻手という近道はどうあったろうがかえって遠い道なんです-公案なんて100でも200でもいっぺんにといてみせますよ。)いいですか、仏教の根幹はここにあるんです、仏教辺を知るなら知らない人になるんです、これできないとどうしようもない、せっかくの縁も縁にならない。モ-ツアルトはなかなか離れてくれなかったです、なん十年とかかった覚えがあります。
 でどうかというと、モ-ツアルトをときたま聞いて涙流したり、ピ-ピ-口笛吹いたりしてますよ。
 ここのところが勉強学問の人にはわからないんです、モ-ツアルトを免れること、これほんとうにモ-ツアルトになりきれるんです。
 忘我という仏教の肝心要を知らない禅宗旨仏教学者が増えています、これないと「今の世はこういうふうにしにゃいかん~だから」とかいってただの常識ごとに終わるんです、むかしの学者のほうがまだしもましだった。他愛ないんです、わざわざ仏教を借りる必要がないってのに、なんで仏教なのか。
 解脱とは解脱する以外なんにもないんです。云いうるだけ違うんです。解脱人が他のためにするのは、自分がないからです、人間とは自他のかけはしです、自分=他人です。すると迷悟中の人は、そんなことありえないという、ひっくりかえってしまうという。字義思想意見としては自他なし無眼耳鼻舌身意はめちゃくちゃになっちまう。そうじゃないんです、ほんらいほんとうっていうだけです。衆生済度とは衆生済度があるんじゃない、ほんらいほんとうがあるっきりです。衆生済度の他にはないんです。
 仏教をいいながらただの雑念ということに気がつかない。どうかそのようなことを脱して下さい、無位の真人=ただの人になって下さい、生まれついての本来人=如来です、他にはないんです。






   心は傷つかないことを知る


 人間は傷つきやすいものです。傷つきやすいほど、真卒であるいはナイ-ブなんです。傷つかぬほどに、傲岸で行徳の俎板-ばかですれてるって感じで、あるいはそっぽ向いてるんです。禅の修行は俗に不動心とかいって、鍛えたり傷つかぬ心を作るんじゃないんです。そりゃにせもんです。その反対です。いわば裸で剥き出しにする、どこにも隠れ場所のない、生まれついての自分です。
 そんなことすりゃ、傷つき無惨な破れほうけと思うでしょう、そりゃ傷つき悲しいたってね、傷つける相手のどうしようもなさ、不備欠陥が丸見えたってね、アッハッハ一目瞭然-赤ん坊のようにです。でも、
「心は傷つかない」
 んです、たといどんなことあったって、取り返しつかないことしたって、心はまっさら無傷です。
 これを知るのが仏であり、救いなんです、
「心は傷つかないことを知る」=坐禅。
 傷つけあう人たちも、自分を省みるということを、ちらっともすれば、ことは収まるんです、だって自分とくとくとしてたって、傍から見ればなんてこっ恥ずかしいって思う、どうしてあの人はって、丸見えなのがやっぱり世間です。  
 わたしの住むど田舎も同じ、しょうがないなあ、あいつはっちゃ、みんな暮らしている、
「知らぬは我が身ばかりなり」
です。
 これねえ、機会があっていうだけいったら引く、これ以外ないようです。石っころはよけて通るってしかない場合、よけて通りやいいです。
 そうして自分はそういうものにならないんです。外見りゃ紅葉あり、月あり風あり「傷つきやすい心=まったく傷つかぬ心」に答えてくれるものいっぱいあります。そうして世間にも答えてくれる人あるんです。一人でもありゃ(ほうらわたしにとってのあなた)他の傷つけ会う(いたらぬからですよ、愚かなんです)千万どうでもいいってこと。なるたけよけて通る、だめだったらそれ相応の手段てことでいいです。
 悲しまないで下さい。
 世間淋しいってことないですよ。


   ただ


 これのありようを、それらしい知識をもって弄んではいけないです、ことはなんにもならんし、百害有って一利ないです。そうでなくって、一に自分を忘れ去ることがある、では坐してみよう、たったこれだけ、他いらんのです。自分という垣根の取れることは、そう難しいこっちゃないです。即座にできる-すでになっているはずが、そうですねえ、たいてい三カ月坐ってみるほどに手に入るんです。でもこれ、身心ともになしだから、内と外ないはずといって、とやこうやってみても、とやこうの自分があるっきりで、なんにもならんです。
坐禅とは、そういう思慮りを手放す工夫です、
「生まれる前と死んだ後となんら変わりない-静かです。」
 これ間違ってますよ、静かでもなんでもないんです、ただです。ただってわかりますか、わかったらただじゃないんですよ。無心とは、無心という絵に描いた餅じゃないです。禅らしいなにかしらあったら、そりゃ言い訳世界です、つまりは静かだっていって、次いでめっちゃくちゃ、いったいなんにもならぬのは、そうやって観察する自分があるからです。
 現実の心を「静かだ禅だ」などいう自分が見ている、「こうあらねばならぬ」という、いいですか、すべてはこれが原因なんです。現実に追いつかない、どうしてもぴったり行かない、世の中妄想といわれる、これが単純な構造です。
 人みなこれに悩むんです。
 心は一つなのに、二つあるいは二つ以上にあって、双頭の蛇は、ただ行けったって行けない、ただのことができない。ウッフッフ一切苦厄の根源なんですよ。この単純なことが、人みな不明なのは、人常にその渦中にあるからってことです。
 したがい、これを抜け出ることしか、不明に気づく方法はないんです。
 「そのまんまに、その上何を望むのか。」
 いいですか、ほんとうにそのまんまの時、こんなこといってないんです、雪ふったらわあきゃあすっとんでまわるってなもんです、鳥やけもののように、あらゆる一切において、あらゆる一切きりです。
 しかも人間です。自分に首を突っ込まないんです。
 いったんこうなりゃもとへ戻らない、このメカニック、そりゃ手に入れなきゃ使えないです。どうかつつしんで己れが不備に気がついて下さい。



  UFO


 こりゃみんな自分の体験ていうんならおもしろいんだけど-、ずうっと以前イラストレ-タ-の横尾忠則氏がやって来て参禅のあと、私は日本UFO協会の会長だと云った、もしなんかあったら知らせてくれといってさまざま目撃例を挙げた、わしとしちゃ-そ-ゆ-ことけっこうくわしいから、み-んな聞いたふうなこと記事としちゃ三倍ぐらい知ってるとも云わんで黙って聞いていた、でもUFO人に出会ったらどうするって云ったから、
「この法-仏法を教える。」
と云った、
「だってUFO人はわれわれの何十倍も進んだ頭脳と文明をもっている。」
「進んだろうがなんだろうが、知らなきゃ示す。」
でもってUFO5人乗りマニュアル付き貰えんかなあって、そうしたらグレ-トバリアリ-フ釣り行くたってあっという間-とかなんとか、残念ながらわしはお目にかかったことがない、たいていの人より夜釣りとか山ん中とかそこらじゅう突っ走ったとかしてるのに、縁がない、
「向こうがこっちを選ぶんだ、真っ正直な人にしか出ない。」
忠則どのは云ったけど、UFO人ってあの真っ黒目玉ののっぺらぼう、どっか無気味であんまり好意的にも思えぬ、昆虫でもみみずだろうが生命も非生命も、それなり美しい、優美ってことある、宇宙人だって宇宙人の倫理ってのあろうがさ、なんであんなにみっともない、いいことない面してるんだ。
 そりゃまったく人間の想像物のように貧弱だ、ぞっとしない面、あの無気味な無表情は、そういう顔の人間増えている、どっちかっていうと近未来人間?
 いやもう古くなっていて、もっとめちゃんこカリカチュア、モ-ニング娘ってどっかUFOリッヒなとかさ。
 まだイラストレ-タ-との会話あったな、科学的に証明するという儀式だ、そいつ終わればUFOもUFOでなくなるってこと、見たからどうのだからっていう天皇制みたい信仰みたいのバカらしいって、でもまるっきり思想信仰の新機軸来るんじゃないか、
「アッハッハ仏教はかわらないよ。」
って、こっちファナスチックってそんなことないのさ。秋田県鹿角市にあるスト-ンヘンジ行ってみた、知ってる、UFO地図っていうの、むかしから地殻のきしみ、ひずみとかある地帯にス-ンサ-クルやスト-ンヘンジないしは教会やモニュメント建っていたっての。なぜかってえとUFOがやたら現れるんだってさ。宇宙人と云わず神さまってったんだな。電磁現象だってさ。なんとか山の発光現象みたい。大槻教授に賛成なんですよわしは。物理現象を無視するっての、こりゃ10階屋上から飛び降りるってのと同じだでな。夕焼けの飛行機雲だとか、金星とかさ、それに水彗星ってのあんだけどな、大小あんだけど一戸建ての家くらいのがカ-ボンの薄膜かぶって日に何十何百箇地球に飛来する、地球の水紀元はこれと云われている、実に観測しにくい、そいつが流れ星んなったり飛行機に張りついたりする。
 でもさ人間の作ったもんのほうがとんでもなくおっそろし-よ。ステルスだって実験途中はUFOって云われたんだ、無人機新型ミサイルとかたいていそういうのいっぱい、それより羊のレトロウイルスとインフルエンザ菌くっつてエイズウイルスこさえたとか、エボラ出血熱とか、水爆だけじゃないよ、そりゃどこの国だって変なもの作ってる、そ-ゆ-もの作って、たといテロもアフガン攻撃も、ジャステスなんてもなありっこない、アホやりゃアホの結果ってこったがさ、どうやらほんにどいつもUFO人間なっちまってって、ぼやきたくなる。
 横尾どの来てっからしばらくUFO目撃者ってのがわしとこ連絡して来た、まじめってえかナイ-ブな人もいた、つまり魂消たびっくり人に云おうってのです。大半はどっかだらしない-知的にだらしないくさ-い感じの人だった、ど-もUFO関係ってそ-ゆ-人多いよ、どうぞごかってにってお引き取り願うやつナ。
「UFOに驚くよりもさ、空の雲草の葉っぱも驚天動地。」
ということ、信じられないだろ-がさ、これほんとのほんと、人間の基本わざ。
 UFOがあったらそれただのFO、すすきっぽの方が何層倍もよかったりしてさ。
 バ-ロ-めえ仏教は22が4ってんだアッハッハ。



  禅門たった一つ


禅門たった一つと心得て下さい。世の中あまりに偽物多い、いいかげんな切った貼ったみたいのばっかりですが、これ今に始まったこっちゃないです。自分まっすぐに求める、ただこれ唯一の方法です、脇見運転しないんです、禅門はこうあるべきとやらないんです、自分は何が欲しいかです、禅門が欲しいのか自分の本来ほんとうが欲しいのか、たとえば無有恐怖にしても、
「無心なら恐怖なし、なぜなら心が無いから。」
というアプロ-チじゃダメなんです、
「こわい、どうにもならない。」
に面と向かうんです、答えは自分自身です、たとい、
「どうにもならなかった。」
という答えも正解の時は正解、役に立たないときは役に立たない、尽くしていない=自分の辺に答えが出ていないんです。
わかりますか、
「無心とは何か、アンチ有心である、だからこうだ。」というのはダメです、心とは自分にある一個しかないんです、禅門も仏教もまさに自分たった一個です、これに聞きこれに確かめるよりないんです。いいですか、ここにおいて自ずから正師邪師を見るんです。禅宗旨とはこういうものだという、あなたのいうのは思い込み、種々雑多です。分裂病だなんて(504そんなの何云ったんだかほっとけって、いや失礼)無限ル-プの生き地獄なんて恐怖やってないんです、それ自分で思い決めて一人相撲=有恐怖ですよ。
なにさ地獄ぐらいじゃ心無ケゲ-かすっともかすらないんですよ。
それを確かめて下さい。
いいですか、無心とは何か-自分が答えるたった一通り。それはどういうことか、あなたの答える一切がなんの役にも立たぬことを先ず知るんです、たといどのように答えようが糠に釘、その厄たいもない「答え」の中に自分溺れかけている-ということに気がつくんです、ついに無心の行なわれている様子を見る。
「答えがない。」
答えを知ることができない、答えが自分だからです。
わかりますか、実に単純な問題です。
東山寺アッハッハ逃げも隠れもせんですよ、評判わるいのはよく承知してます、でもさハテナと思ってもとことん付き合うことおすすめ-自分で云ってりゃ世話ないが、この事初めから終わりまで自分自身との対決です、ための踏み台にしてくれりゃいい、踏み台はめちゃんこ踏んでみて、しまいもう一回踏むぐらいすりゃいいです。



  変な人 


 変な人というのは、けっこう長年座禅をやってねりにねっているという人なんでしょう、一見にこりゃどうもならん田舎じっさの能書きって思って、なんのかのいうからもっと端的にいってくれといった、でも止めぬ、はすにかまえて井上義衍老師がどうの良寛がどうの、めんどうになって、わしとこそういうむずかしいことせんでお引き取り下さいといった。そうしたらとつぜん問答めいたこといって、看破了だといって帰って行く。どっか寂しそうだった、引き留めようかと思ったけど、面倒くさいのが先にたった。
わしは反省してます、やっつけるんならやっつけるべきってね、でも再度同じことありゃ同じことする、
「そりゃ違うよ、あなたには座禅がある、あるだけそいつを持て余すんでしょう。」
といって、ちらとも気がつく人って初心の他にはそういないです、たいてい骨折り損のくたびれもうけ。白陰も罪なことをしたもんだ、座禅はこうあるべき教ですか、ねりにねってでもっていまだしという同じ穴のむじな、なんのためにという根本が欠落している。
ばっさりやるよりはーいばっさり切られてあげますって、どうもわしとすりゃそんなとこ。
自分甘やかしの座禅おむつ、一見に勝負はついてるのにさ。
あれやりきれないんだろうがなあ、孤立無縁というか自閉症なるっきりだけど。
ひいては狂人な。






  本来を知る


 出発点とゴ-ルが同じなのに、ではなんにもしなくっていいかというと、さっぱりよくもなんともない、依然として自分に未解決なんです。これでいいんだと云い聞かせ人生です、人もこうだから自分もまあとか、棺桶に入るまでお茶を濁す。これじゃ面白くないです。如来として生まれた意味がない。本来を知るんです、本来あるがまんま。
 修証一如といいます。今の世出家としてのおおかた修行はてんぷらだと思って下さい。見せるための修行、形ばかりあって無内容です。いたずらに厳しいとか騒々しいだけです。
 そうではないんです。仏とは何か、仏はほどけ、自縄自縛するところをほどき終わればもと仏です。知るといいます。修行によって形作られるものはなんにもないんです。心は鍛えようがない、むしろ邪魔っけなものを除くんです。どんなこんぐらかりコングロマリットももとないと知る。金剛不壊といわれる元の木阿弥です。だから救われるんです。仏になるんじゃない、元仏の大海に帰るんです。たどいどんな苦厄も解消するんです。

 ではどうすればよいか。まるっきりただ、手を付けない方法があります。只管打坐、ただうちすわる。自分という自縄自縛の縄をほどくには、これに手を加えない。ところが世間日常は、自縄自縛の縄をいよいよぐるぐるの方向にしかない。だからたとい坐禅であれ、なにかをやると縄いじりです。まずこれを止める方法を発見するんです。
 単純なんですが、なかなかできない、あるときできるんです。すると坐禅は坐禅になって行く、坐るのが苦痛でも修行でもなんでもない。
 心地よいを通り越した心地よさの中にあります。
 そういっている自分も身心ともに失せ切ってしまうんです。
 まるっきり失せ切ると、我と有情と悉皆成仏の実感があります。生まれてより、いや生まれる以前からこのとおり行なわれていたという現実です。出発点とゴ-ルが同じって、これまったく似ても似つかないんですよ。従前の我という、自縄自縛の自分です。そりゃ仮ものです、人の言葉印刷した紙っぺらみたいなものです。時の風に吹かれて舞うんです。本来の我、如来来たる如しは、地球も人類の歴史も二つ三つポケットにするといったふうです。実感としてそうなんです。自分というお仕着せの殻を破る、わずかに突き抜けるんです。際限がないんです。風動かず幡も動かず汝が心動くなり、木の葉っぱ揺れないで、こっちが揺れている。

 このまあ思いももうけぬ実体です。これを得るためなら不惜身命の思いが修行なんです。最短距離を願うんです。師に聞法は必至です、どうやってもどうにもならん、どうかしようとて、食わず飲まず一週間ぶっとうしに坐ってみたりします。はたから見りゃどえらい修行ですが、本人修行だなぞこれっから先も思わない。我未だしの一点があるっきりです。面白いんですよ、気がついてみると、至らぬのは自分がそうしていたってことです。まさに道本円通争か修証を仮らんです。七転八倒なにもかもが自分でやっていた、放てば満てりなんです。七転八倒そのものなんです。
 でもねえこれこれやらんきゃ手に入らんです。
 この今の自分はどうしようもないってところからの出発です。



  茶碗の中へころり


 茶碗の中へころり-これあるときできるんです、奇妙なもので言葉で云えば宇宙空間の中に自分が消えている現象なんですが、宇宙飛行士なんかめじゃないと云ったらSFぽくなるし、はあっと気がつくと有頂天の喜びの中にいたり、しごく平静な人もいます。
 一つには「手に持った茶碗の中にころり」の他に、仏教も世間哲学もあれこれ色っけもみな失せきっていること-お釈迦さんの道なんです-がもっとも大切なんです。でないと擬似体験、バ-チュアルなものに終始して、それをまた振り回すということになります。本来仏の道とは別途です。
 一つには無眼耳鼻舌意という、無心という、身心ともになしという、仏教の基本わざなんです、つまり人間もとこのように生まれついていたと、再確認です。だからもと無眼耳鼻舌意で、いつだってな-んにもない自分なんです、それをなぜか体あり心ありとしている、身心という架空の形骸なんです。うち破るのに手間ひまかからないはずが、わずかに自分あれば不可、あらっ茶碗の中に入っている~気がついてもそれを見ている自分がある、繋げる馬です、さらに一歩。
 そうしてこの事を得てごらんなさい、なぜだかさっぱりわからないのに、公案も仏説も掌さすんです。向こう半分も言わぬうちに答える、びったりです。目から鼻へ抜けるとか一を聞いて十を知るんじゃない、もと答えのどっぷり浸けです。
 世間知の人、仏にはもっとありがたい何かあると聞く、あるいは哲学だの善だのと云う、まったく違うんです、ただ自分のてのひらになっちまえと云う、だまされたと思ってやってみて下さい。
 一人でも二人でもわたしを証拠して下さい。仏説の正しいことを証明して下さい。



  座禅の方法


 座禅の方法はまったく単純ななもので、心意識がさまざまに出る、妄想です、その内容によらない、どんないい考えもわるい考えもです、それをそのまま手つがずにしておくんです。
 手を付けると、どこまでも妄想発展であ-でもない-でもないどうのこうのとやっている、あるいはなにをどうすべきとお仕着せしたり食み出したりです。
 世間一般にはこれを思想といい、自分は~であるからとやる。
 仏教-座禅はこれを取らないんです。
「心意識をぽっと出りゃぽっと出たままにしておく」
 これだけなんです。他になんにもないんです。
 結果どうなるかというと、
「心意識から自由になれる」
ということです。言い換えると、
「自分が自分の奴隷にならない」
ということ、よくお考え下さい、たったこれだけがすべての問題に解決を与える-一切解決済みの実感です。
 神についても仏についても、
「明白」
ということがあります。
 明白とは、もとこうあってこうなったっていうことがいっぺんに分かるんです。
 ところが心意識に手を付けない、たったこれだけがなかなかできないんです。
 只管打坐というでしょう、
「ただうちすわる」
ということです。ただではただにならないんです。たいていの人ただと云っては、自分に手を付けるんです、手をつけないといっては、自分を眺め暮らす、ちょっと坐ってみるとその風景が見えて来ます。坐らない人はごたいそうなこと云うけど、どうもおいそれをは行かない、わずかに自分という爪から先がさっぱり云うこと聞いてくれん、どうにもこうにもなんです。
 だから解脱といい悟りといい身心脱落というんです。
 くんずれほんずれの自分から、抜け出す解脱ですよ。悟りとは知るっていうこと、心意識という自分の生み出したものにしてやられない自分です、これを知るんです。清々さっぱりの100っ万倍ってなぐらいさっぱりします、だから身心脱落なんです、自分というたが外れて本来人です。
 どうしてもノウハウが必要です、ノウハウってね正師です、先に行った人です。
 こりゃしょうがないんです、ことは自分が自分にかかわる、てまえ判断が利かないんす。
 仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。
 さしあたって道元禅師のこの語をよくお考え下さい。なぜに自己を忘れねばならぬかということです。
 自分を観察するもの何、ということです。神仏ばちあたりの問題一切を含みます。



   悟り終わって悟りなし


 ダライラマが仏教タイムズのインタ-ビュ-に答えて、「悟のないのは仏教とはいえない。」
と云った、そりゃただの信仰だと、わたしのまだ出家して間もないころだった、
「へえチベット仏教なんてたいしたことないと思ってたけど、しっかりしてるじゃないか。」
 そう思ったことだった。そりゃ悟なければ、仏教ではない。悟なければ、他の常識ごと殺し文句と同じです。悟があるから、たといどのような問題にも答えを出すことができる。
 ですから普通には取り付く島もないふうに見える、そりゃそうなんです、一般常識で解釈できるんなら、そりゃそれだけのものです、なにかあると総崩れになっちまうです。
 そうじゃないんです、金剛不壊と云われる本来のありようです、帰家穏坐です、シャバに吹き荒れるどんな嵐もここに来れば、まったく納まる。
そうでなけりゃ役立たず、仮にも宗教とは云えんのです。
 他の宗教は信不信による、鰯の頭も信心からです、らしく眼蔵牽強不会も、こうだってんで信じ込んでお人形さんやってりゃ、そりゃまあ信仰とは云える。
 でも仏は信不信によらぬ。信仰の荒唐無稽を取らないんです。一よければ多悪い、たいていひとりよがりの信仰です。宗教の功罪罪のほうがよっぽど大きい、人類の歴史が証明するところです。
 そりゃ思想イデオロギ-も一神教の延長上にあった。
 人間も目を覚ます必要がある。
 如来来たる如し、ものをあるがように受け入れる以外にないこと、真実相です、いらんものよけいことは不要というんです。
 これが釈尊の教えです。
 ところがことはまったく単純だったんです。
 一切事について思いつくかぎりを試みて、
「ついになんにもならず」
 刀折れ矢尽きて、ガンジス河の辺菩提樹下に座す、手つかずなんです、なにをどうしてもどうにもならんから、自ずから諸縁を放捨です。するとこういうことが起こった、身心が失せるんです、生まれたまんまに戻ったといったらいいか、生まれる以前というべきか、体も失せ心も失せ、身心の失せたことにも気がつかない、忘我です。
 心意識の欠如なんですよ、それがたまたま明けの明星によって一念起こるんです。
「我と有情と同時成道」
 自分というものまったくなくってものみなあるんです。こりゃやってみなくっちゃとうていわからんです。類推の識域を超えるんです、宇宙と一体化するっていえばそういうこったろうが、じゃそれを観察するっていう余計ものがない。
 とやこういったってしょうがない、やってみるっきゃないし、たとい理由付けは二束三文です、うれしくもなけりゃ実際でもないもの、いくらひけらかしたってアホらしいってより、ただの害悪です。
 驚くべきことに仏教一切事すべてこの一瞬に成立するんです。
「この宗ごう末なれども一切沙界含容す」
 もと如来としてあったものが、いつのまにか自分も知らぬまに迷い出して、ついにわけがわからなくなっている、それをもう一度きしっともとに戻してやる。
 戻ったとたんあ-そうかっていうんです、他になんにもなかった、わずかに自分という架空現象の思い込みがあった、それによってとたんの苦しみがあった、今雲散霧消する、脱落身心です。真実相です、如来来たる如し、まさにこの通りというんです。
 五祖禅師がおうむしょじゅうにいしょうごうしんの一語に悟ったのは実にこれです。
 般若心経に端的に記されています。
 悟とは人間のメカニックそのものです、一回的にこうあるんです。メカというと外部操作ができるんですが、こりゃ自分のこったでどうもこうもってことになる。正師につく以外ないと云われるゆえんです、無心から有心へ迷い出て無心に帰る、もと無眼耳鼻舌身意です、二二んが四みたい簡単です。正師-たまたま先にやってみたんです。ノウハウがあるんです。
 いろんなこと云うのはわからん人です。
 次に悟を得たとはもとへ戻ったということなんです、もとへという本来復帰は一回こっきりです。だから、
「悟を得て悟のないことに気がつく」
んです。ここが言葉の上の理解では首かしげちまうんですが、実際にはこうなってるってだけです。
 ですから悟った人は悟りを云わない、悟らない人がいろいろ云う。ここを坊主どもは故意か偶然か-頭悪いってだけだけどさ-間違えるんです。なんと自分が生まれつきお釈迦さん~道元さんだっていうわけです、いやはやってただのでたらめですよ。無心忘我体験のないことには、
「自分というどしようもないもの」
にけりがついていないんです。だったらなんにもならない、我欲の為にしかできない、仏教のこといってるようで、おれがおれがって云ってるだけ、しかもなにかというと洞喝するのは、仲間を頼んでの他なんにもないからです。仏教はほんらい仏、いろんな人もいいけど、たった一人もいいんです、すなおで余計ことしない。草や木や鳥や雲の仲間なんです。強いていえば生きている楽しさですか、それが一体化してこうあるんですよ。理屈なんか云ってないで、どこのだれだって関係なく、お釈迦さんの追体験なんです。行ないすますとからしくの世界じゃない、実のことです。



   一指頭


 え-とだれだったかな、一指頭の禅は。だれ来たっても指一本立てて示す、まさにそれでこと足りることを知らんきゃ、そりゃだめですよ。あなた絶対に信頼する人に、如何なるか是れ仏法、何を聞き、何をもって行っても、指一本立てられたらどうします。十回三十回百回指一本。さあどうします、むちゃくちゃだ、言葉にできないこったからとか、万法一に帰すとか、無だ空だ、知るかぎり、聞いたふう、ど-んなこと云ってもだめ、ついにどうもこうもならんです。
 じゃいったいなんだったんだ、おれっていうこいつ、な-んにもならん、めったらおしまい、え-いそうかってんで、ひょっと開ける。
 得ることなく失うものなし、もと如来としてこうある、そんなこと百も承知だって、自分ちっとも満足しない、自分さっぱりよくない、なぜかっていうんです。なぜかっていったってどうにもならん。
 これに答えるに一指頭の親切、他のうぞうもぞうの比較を絶するところを見て下さい。小僧が一人いた。師の真似をして、人がものを問うと指一本つったてる。師がそいつを見て、如何なるかこれ仏といった、小僧指つったってる。そいつを小刀で切った。いっつ-泣いて去る。他時小僧を呼んで、如何なるかこれ仏と問う。小僧習慣で指つったてるんです。つったてた指がない。忽然大悟とあります。
 無門関も碧巌もほんとうにあったことと見るんです。
 でなきゃ意味がない。
 ざるといわずなんという、ざるって人が一先ずそう呼んでいるっきりですよ。ざるっていわずに見てごらん、生まれて初めて見るんでもいい。けっこう如実に見られるんです。ましてやそいつがふわっと消えている。見るもの見られるものという、後念知識による思い込みがふわっと失せるんです、かつて夢にだも見ない現実があります。
 ちらっともこいつを見りゃいいです。無茶とかニタ-と笑ってるとかいう、それ比較検討上の言い種でしょう、常識ではこうだという一札が入る、そうじゃないんです、ほんとうに自分こっきりに見るんです。無茶もにた-もあるもんじゃないです。
 たいてい参禅という人、かならず禅という、仏という、聞いたふうなこと見たふうなことに、ひっかっかりとっかかりする。お釈迦さんの大法を得、仏教という広範なもの、ありがたい人生のしるべとかなんとか、そういうものを手に入れようとし、必死になりいい加減になりです。
 大衆三千の中にたった一人免れ得た者がいたんです。花を取って示す、みな右往左往するんです。あなたがまさにそうでしょう。人のうわさをとっくりかえしひっくりかえしです。なにかあるとちらとも思う、でなかったらアホらしいとか。でもみな真剣にお釈迦さんの法を求めていたんです。しかもどっかひっかかる、本来人ではない。
 求めずは囚われずなんていったって、そりゃなんにもならんです。人の噂に付和雷同です。まずはこれを免れることから始まる。仏の道です。そうしてどうしてもまた、その仏の道にひっかっかる。
 こりゃまあそういうこってす。
 わやな大衆なんかいなかったです。就中摩訶迦葉一人葉破顔微笑、なにを用もないことしなさるっていうほどに。これを見てお釈迦さんは、
 「我に正法眼蔵ネハン妙心の術あり、摩訶迦葉に付嘱す。」
といって、仏法が今に伝わったんです。
 わたしに至って86代です。
 ちなみに摩訶迦葉尊者は、お釈迦さんの会下にあって、三年の間身体を横にしたことなかったと云われています。事実と思います。自分というとっかかり妄想を、仏教というちらとも思い込みを、即ちソウ絶するんです。簡単に見えて、そうは問屋が下ろさない。何ゆえに自分を、一個の自縄自縛現象を、ソウ絶せねばならぬか、無門関とはそういう意味です。よろしくよくお考え下さい。




   人を苦しめない


 人を苦しめない-自分を苦しめない-人を苦しめても苦しめない-自分を苦しめても苦しめない、どうですか、まさにこの間の問題だと思います。
 人を苦しめる-無知の故にです、従い人を苦しめていると思ったときに、もはや苦しめていない。苦しめるのが趣味の人は、こりゃどうしようもないです、でもこういう人自分が同じことやられると、強烈脆いんです、なんか不思議にそうですよ、つまりやっぱり無知の故にです。
 自分を苦しめるのは、頭念を燃やすといいます、頭のてっぺん目頭あたりぐるぐるやって、ぐるぐるぐるめっちゃか収拾がつかなくなる。
 これ座禅ではちょっと意をてのひらとか足のあたりに置く、するとふうっと軽くなって免れたりします。
 要は自分ていうの脱いだり着たりできる着ものってぐらい、ほんとうの自分てビッグバン三つ宇宙の四個分ぐらいって、これほんとなんです、身心脱落-悟り、禅脱っていうの、つまり自分集合体、自分という思い込みから一抜けたってやるんです。
 どんなに苦しんでも、ちっとも苦しまない理屈。
 どんなに傷つけてもまるっきり傷つかない。
 心はこういうものだと、ちらっとも知るにいいです。
この世は仮の世というと、いかにも儚い云い分ですが、そういうふうにいった昔の人の方が知恵があったんです。現代ものみな理屈にかなう、主権在民民主主義だっていうほうが儚い夢です、人間一切なにがどうなるかわからない、どんな親しい人だって、明日はそっぽ向く、あるいは死ぬetcです。しかもわっはっはの朗らか人生、なぜかって、百万ビックバンのうちの、たった今はこういう世間わたっているんだっていうぐらい、アッハッハどうです、坊主の辻説法。
 自分苦しんでも苦しまないこと知ると、だ-れも苦しめないんです。



   思考ということ


 考えるというと、受験勉強しか知らない、せいぜいコマ-シャルソングってほどの、なんというのかなあガキ世代。
 自分というアレルギ-症状のあ-だこ-だ能書きしかないのを思考という、ゴジラ出てそこらじゅうぶっこわしてくれってのが答えだったり、すっきりしないの多いよ。「倫理性のない思考というのが、どだい成り立たない」といったら、なんていうだろうか。

 仏と道徳っていうのはこれ別ものにしたって、およそ人間の面付してないってふうの、これ仏教もへちまもない。どっかなんまんだぶつの仏典復興会だっけか、なんかそんな名前のがパンフレットを送って来た。前にも送って来て、なんというのだろその説きっぷりに辟易した。仏を説きながらなめくじっていったらなめくじに怒られる。観念倒れというより、もうどうしようもないひとりよがり、
「それをちっとでもぶち破るのが仏の道だろうが。」
といったって、ちっとでもわかりそうにないから黙っていた。
 また送ってきた、第一禅寺へ見ずてんで送りつける恥っさらしっての、気がつかないその恥さらし。見ると仏典知識の押しつけ以外になく、それじゃカルトと同じじゃないか、かのテンポラル現象と同じく、仏は、
「いいからいいんだ」
以外になんにも持たず、ただもうそれを押しつける、つまり数を増やしお布施が欲しいっきりない、
「他の苦しみを見てなんとかしてこれを」
という切実な願い、ことの本質に欠如する。
 でもって臆面もなくtelして来て読んだかだってさ。

 こういうのを思考というだろうか、思考欠如とは云うであろう。
 あっちこっちまさにこんなふうだ。
「考えたことあるの」
って改めて聞きたくなる。他人さん理論も呆れて物がいえぬところがある、八正道というのを聞きかじって、これをどうだというから、ちっとは思考のヒントを云ってやったのに、人の云うことがまるっきり理解できない、なぜか、かつてOXの他にやったことがない、思考欠如-まるばつものさしに計って、あてはまらなければダメってやつで、ダメってのに二つ三つ種類がある、じゃその一つにはめこんでという、でおまえをやっつけた、おまえよりおれがOだ、看板と女取ろうって、アッハッハ倫理感ていうよりまんがだ。
 自分がまんがということに気がつかない、これが問題だ。なぜにそんなことになったのか。
 あっちこっちの坊主、坊主に生まれりゃ説教という、生まれついての解脱底なんてない、これを知るにはいったん自分を失い去る必要がある、これを省いて仏教だという、さすがにどっか変な気がすると見えて、へ理屈理論をおったてる。でもこの連中の思考欠如倫理観のなさは、特筆に値する、どうにもこうにも形容の言葉がない。
 ただもう反吐を吐きたくなるっきりだ。

 思考とは何か。
 論文がなんにも論じていないことを知るといい、五七五の定型にしたって歌にも詩にもならぬことを知るといい、仏教を知ったってなんの仏教にもならぬことを知るにいい、自分を知るとは自分を忘れることだと知るにいい、たやすいという危険を知るにいい、思い込みと現実の違いを知るにいい。どんなにすばらしいことでも一瞬とどまらぬのを知るにいい。
 考えるとは何か、いまだかつて考えることをしなかったと気がつくことが先決だ。
 あらゆる物差しを捨てる、物差しとはそういう椅子だ、腰掛けて思考ストップ。
 思考とは何か、相手があるのです。
 おおかたの思考は一人相撲、自閉症だということを知る、なんにもならない、面白くないというのは、他人の云ったこと絵空事をなでくって、それを思考したと思い込んでいる。
 思考とは何か、あとさきまったくないことです。思考している自分を観察しないんです、これができた人は云って下さい、三世の諸仏かえって知らず、ほんとうの思考があります。
 断じてかすじゃないんです。
 科学は思考というより思考ストップの分が圧倒的に多いんです、よって科学は人も地球をも幸福にしないってこと、どうぞ思考してみて下さい。
 人知に比べりゃ花と昆虫の一億年のほうがとんでもない思考能力。
 花の思考は「知らない」自分を知らない思考なんです、知らない思考100%の思考です、どうかこのこと思考して下さい。



   発心の人へ


 坐禅はどのように坐るのかと聞かれて、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄と坐りなさいと云う、心経の冒頭の一節まことにこれに尽きるものがあります。
 観自在菩薩、なんのとらわれもなく、まっさらな赤ん坊のようにとは、一切事に於て尽くし終わるんです、音と一つことになっている観音菩薩ですよ。面白いでしょう、人間も仏教も卒業しちゃうんです、すると生まれたての赤ん坊です、生まれる以前の姿です、すなわち七歩歩んで上下四惟指さして天上天下唯我独尊です、これを如来という。六道輪廻を一歩踏み出すんです、解脱すると如来なんです、来たる如し宇宙の一かけらのような生まれ立ての赤ん坊の目。
 むちゃくちゃに坐るにいいです、なにをどうしたって届かない、どうにもこうにもならんのです、人為の所を停止する、自分という格好をつけない、観察しないんです。もとこのとおり手つかずと答えはわかっても、未だ至らずです、だからむちゃくちゃです。なりふりかまわずもとこれっきゃない。すべてが坐中です、矛盾もなにももうありゃせんです、アッハッハ死んだらもとっこってこんですかな。
 行深深く行ずるんです、手つかずの坐をたとい手をつけたってなりふりかまわずです、そっくりそのまんま行く、どこへ行くったってもとこのとおりですが、長いほどいい、飽きるほどに坐ってはまた坐る、投げ入れてしまえばいい、ふと気がつくと身心というものなくものみなある、はあっという自分を指し示す指がない、葉っぱは揺れずこっちがこう揺れている。
 不思議です。
 思議に預からんのです、これがもとのありよう、自分というのうしてものみなある、父母未生前の消息です、これを般若波羅蜜多パーラミイター彼岸にわたると云います、こっちの岸からあっちの岸へ。
 放てば手に満てり、握り締めていたものを離す、これ坐禅の要決です。もと自分のものなんてこれっから先もないんです、この点仏教は徹底しています、二番煎じの神さまなどを用いない、身心身も心ももと仏、自分のものではない、ほどけば仏です、行深とはこの間のことを云うんです、坐禅です、坐っても坐ってもっていうんです、なかなかほどけば仏にならない、身心として我がものと思い込みが強いんです、どこまで行っても握り締めています。
 彼岸にわたってもなを彼岸です。彼岸にわたりきったら彼岸が此岸のはずだのに、なをかつあっちと云ってるんです。
 ちらとも見る身心脱落の様子から、
汝今身より仏身に至るまでこの事よく保つや否や。
 ということあって、ほんとうにこれになり切って行く、これが坐禅なんです、それまでは修禅の域を出ない、つまり坐禅にならない。
 無所得の故にぼーでぃさっとばです、色即是空のそのまんまです。
 照見五蘊皆空と知るんです、ものみな思い込みと知る、人類世界からいったん外れて下さい、正中妙挾交唱並び挙ぐ宗に通じ途に通ずです、いったん離れる、ものみないっぺんに把握するんです、ち草の味わいの如く金剛の杵の如しです、ただこうあるっきりのオールマイティです。
 これが坐禅です。
 自分を知らないんです、悟りもなく仏もなく坐としてこうあらねばならないということないんです、なにあったろうが即座に救われてある、もと解決済みを知る、度一切苦厄です。どうです、度一切苦厄と坐ってごらんなさい。
 いいですか、度一切苦厄ですよ、あんまりすばらしい楽珍というとき、その楽珍をも捨てる。

 どのように坐ったらいいかという、舎利子、色不異空、空不異色と坐ればいいです、じきに色即是空です、もとっから空即是色なんです。
 舎利子シャーリプトラお釈迦さまの十大弟子のお一人と云います、でも三蔵法師は巧みに訳しています、校舎の舎利益の利子は人です、たといシャーリプトラももとは私らと同じぼんくらです、てめえのうちとてめえのことばっかりのおまえさんよ、というのです、色不異空空不異色、てめえの敷居から一歩外へ出てごらんなさい、なんにもない淋しいという、そうじゃない、なんにもない取り付く島もないそれが仏です、仏こそおまえさんなんだよ、よこしまにしている分を自分と思い込んでいる、もとなんにもないところへ色をつけているんです、見聞覚知色眼鏡です、色眼鏡を外してごらんなさい、清々しますよ、ほんとうの清々とは、見聞覚知色眼鏡のあなたです、あなたが色なんです、あなたという思い込みを取り外すんです、真実不虚です。
 坐っていて自分があると思っているんでしょう、自分の内と外がある、ひとまず内つまり自分を色、外自分のいない風景ばっかりを空です。色不異空ですから、内外の垣根を取り除く。
 これが坐禅です、自然になそうが無理矢理だろうがなんでもいいやってごらんなさい。
 色即是空の証明です、なるほどと納得します。一つには虚空=自分以外の風景というなんにもない所へ自分を持って行く、自分と見える、坐って観察している所を捨てるんです、うそなんです、もとあるはずのない自分です。そうして自分=虚空です、淋しいはかない、自分という取り柄一切がなくなる、せっかく喜怒哀楽も失せるという、そのとおりです、棺桶に入るのと同じ理屈です。
 でもこれができなけりゃそりゃ仏教は手に入らんです。
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。
 死にきってしまうとすべてが復活します。
 世の中上を向いても下を向いても切りもなしまあこの辺でとかお茶を濁す、坐禅らしい格好とかいいことしいの人はどうにもならんです。
 頭のよしあしとかじゃないです、自分はどうもならんと思う人、なにかあって痛烈に悩む人など早いです、急転直下します。
 もとあるところへ帰り着くんです。なにかを得るんじゃない。
 作り物は壊れものです、得るほどにかたくなです。いいですか、仏を求めながらあべこべやっている愚に気がついて下さい。
 色不異空と知る、ある人柱開にも坐っていた、梵鐘がごーんと鳴ったとたん、自分がまったくなくなってしまった、手足を動かそうにもどうもならんふうです。やったあというんでしょう、それを持って師家のもとへ飛んで行った、師家は魂消て大見性だ、大見性だといった。虚空ものみな=自分の様子です、大力量ですか、指一つ宇宙を動かすといったほどに。
 これをまた別の師家に挙した、どんなもんだいといったぐらいです、するとこの人、
「あなたはそんなことを云っているから駄目なんですよ。」
 と云った。
 さてどうですか、たしかに空不異色と大力量のはずが、いったいなぜ駄目なんですか。
 はいそうです、彼岸じゃなくってこっちの岸でした。
「たしかにこのとおりあります、だからどうなんです。」
 と聞かれて、是非善悪の彼岸にあることができますか、善悪の彼岸不可思議なんです、知ることができない。

 どのように坐ったらいいか、是諸法空相、不生不滅不垢不浄不増不減です、是諸法空相ものみな自分が関わらないんです、空という人のかってに空相を思い決めないんです、まっしろけなんにもなしとはそりゃあるんです、諸法ものみなでいいです、形あろうがなかろうがです、形而上のものを仏教は扱わないという、なに目で見る耳で聞く、心に思うだとてそれそのまんま、とやこう詮索したってもとっこ同じなんです、平地に穴を穿つ愚かさというんですが、もとっこ穴を穿つこと不可能なんです。
 いいですか、空とは空観じゃないです、仏教学者の言説は間違っています、言うことなんぞもとないんです、空とはよこしまにしないんです、自分なければ空なんです、したがい自分なしを知る以外、空を知る方法はないです。自分の取り柄なし。たとい学者言説は自分の取り柄分なんですよ、それじゃ無心じゃない有心です、遠くて遠いんです。
 まあこういったって自分を免れがたい、ひとまず内と外、色即是空という色と空とに見りゃいいです。
 自分の外が自分だという、それに見習うのがいいです。
 淋しいなんにもない取り柄ない、そこへ自分を捨てて行く。
 捨て切ってあっち側です、彼岸にわたると彼岸が此岸です、こっちがわになる、ものみな一切自分のものになっている。大死一番大活現成です。
 どうしたってこれをやらなけりゃそりゃ仏教にならんです。
 ただじゃどうにもならんです、無理矢理だろうが四苦八苦だろうが、これを得るより仕方がない。仏はほどけ自縄自縛の縄をほどくにしろ、捨身施虎にしろ、ぽけえ坐りゃ直指人身見性成仏もそう簡単じゃない、おいそれとは手に入らんです。ただ坐ってりゃいい只管打坐といって、命なげうって初めてただになるんです。手つかずの手をつける人もない、只管打坐が只管打坐になる季節。
 諸法空相を知るんです。
 不生不滅不垢不浄と、とやこう能書きいったってどうもなりゃせんです、ものはこうあることを知る、まざまざとこの中に住む以外になく、とやこう自分の取り柄分やっている時と天地雲泥の相違があります。
 わしは破れほうけの文学青年で、どうかしてものを清らかに見たいと思った、師について十年になんなんとする、ある時、
「このごろは見るもの聞くもの清々というかなんといううかー 」
 すばらしいというのをみなまで云わせずに師、
「それはまだものを清らかに見ようとする心が残っている。」
 と云った。わしはようやく気がついた、頭を剃って未だ出家せず、無心の道ではなく有心色の道だったです。その年の臘八にどうやらぶち抜いた、大屋根にふりつもった雪が溶けて流れる、
「ぐわーっ。」
 てなもんです、こっちも流れ下る、
「清々と云おうかなんて云うか。」
 云うことは同じ、内容はまるっきり違う、そりゃもう天地雲泥なんてものじゃなかったです。
 そうですねえ雪舟の絵がよくこれを描く。諸法空相不生不滅不垢不浄あるいは不増不減のビジュアルな姿です。

 坐ったらどうなるか、坐る標準はというと無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法です。これは文字通りなんです、比喩でもなんでもないです、もとこの通り行なわれ今まさにこうあるんです。それを知らないとは、嘘の生活を送っているんです。だからもういっぺんきっしり気がつかねばならない。
 無眼耳鼻舌身意つまり眼がない鼻がない乃至心がないんです。目で見る、見ている、目があるない、どこに目があるという実感はない、もとこれを知る感覚器官がないんです、それを後念の知識によって、目で見る見ていると「知って」いるんです、知っているという思い込みです、見ているこっちと見られているあっちの区別もないんです、では私と他人の区別もつかないかというと、実はつかないんです。すべては生活便利の都合から「というもの」という判断です、なれっこになってそれを実際とする。乃至無耳鼻舌身意です。
 だったらどうなんだという、別にどうってこたない、目がある乃至有耳鼻舌身意の暮らしでいいという、実はいいようでよくないんです、不安心身症病は気からの病気の原因はすべてここから来るんです、うそを云っては道理引っ込む、実際の面白さつまり生活の内容が欠落するんです。
 絵に描いた餅は食えないです、そうしながらそれを知らない、不定愁訴の建築土台ですか。他になにかが欲しいという=人間の始まりです。如来来たる如しではなくなる、楽園追放という身勝手な夢を描く。
 無意という無心です、心はもと一つ自分が意する以外にないのに、二通りする、見ている心と見られている心ですか、これが有心の姿です、ないのにあると思い込んでいる。だって一つきりの心をかえりみることができない、見聞不可能なんです、人間あるものには悩まない、ないものに悩むんです、この辺のところよくよく鑑みて下さい。
 人類総ての問題のこれが発祥の因縁です。他ないんです。
 ぽっと出ぽっと消えるだけの念に取り付く。尾ひれをつける、そうしてそれを心=人間だと思い込む、始末に終えんです。
 故に悟る必要がある、身心脱落の大切さです。おぎゃあと生まれ本来に帰る、如来です、生まれて三カ月ぐらいまでの赤ん坊に、無眼耳鼻舌身意を確かめてみるといいです、耳を知らない耳で聞く耳がどこにあるかを知らない赤ん坊に、パチッと指を鳴らす、通身にぶるぶるっと反応する。目で見る見ている自他の区別のつかないところへ、手を左右する、大人はせいぜい目玉をきょろりですが、赤ん坊は体を左右させる。
 どうしてもいったんここまで戻ってみる必要があります。
 自分というもののなんたるかを知るんです。無心の実体です。風景がそりゃ同じたってまるっきり違ってしまうです、手の舞い足の踏む処を知らず、手つかずとはなんという喜び。
 ある人臘八接心に悟らずんば生きていても仕方がない、生き埋めにしてやろうと云われ、十人ばかりそう云われて穴を掘らされた。十人のうち九人まで行く、自分だけどうもならん、生き埋めにされちゃたいへんといって逃げ出した。石にけつまずいて生爪を剥がす、ぐわあってなもんです、痛いことは痛いんです、だがどこが痛いかわからない。
 光前絶後の事玉露宙に浮く。
 ぼかっとなんにもなくなってるんです。
 
 坐ったら何か特別なことがあるか、以無所得の故にです、奇跡や超能力や神に選ばれた選良意識ではない、群を抜いて益なしという、まるっきりただの只管打坐とは、悟り終わって悟りなしです。これを無無明亦無無明尽と坐る、無老死亦無老死尽と坐るんです。
 われわれは悟った、妄想無明のやからとは違うんだ、くそったれがいうこと聞かぬやつはサリン撒いて殺してしまえという、オウムのような幼い集団はやりかねないんです、でも他の一神教なども目くそ鼻くそ五十歩百歩です、旧教みな殺しの兄弟喧嘩オリバークロムウエルも、行ない清ます聖人だとてやっぱり五十歩百歩です。老獪になって許すふりをするだけなんですよ。だまされちゃいかんです。剣呑です。
 なぜかというに色即是空を知らない、どこまで行っても無明のものなんです、パーラミーターいったん抜け出すことをしなければ無明の人無明を排除するんです、いいわるいの世界です、無明なく亦無明の尽きることもなくという、まるっきり手つかずの自由を得ない、どっか必ず杓子定規です。
 そんじゃ坐禅にならんです。無明の尽きることもなく、いいですか他人の無明じゃないです、そっくり無明のまっただなかです、で無明ってどこにあるんだって聞くんです、知らないってなもんです、無明を免れているんですよ、
「あいつはもう終わった人間だで。」
 という師の誉め言葉を思いだします。
「終わったらつまらんじゃないか。」
 はいつまらんです。どんなにつまらんかというと、今咲いている桔梗の花、ふわっと出会うとたんクワアとわめいていっしょに死んでたりします。
「紫なんてけしからんあんまりひどすぎる。」
 涙流してぶつぶついってるのはあんまり人に見られたくないです。でも大丈夫ドライブ密室。ドライブ密室で大声上げて歌ったりする、こないだ夜通ったら、夜中家路につく女たちがやっぱり歌ってた、アッハッハいいこったなガンバレヨっても云いたくなる。
 無老死亦無老死尽、たといしわたかってみにくい爺だろうが、まったく関係ないんです、人間のありようがこうなら人間のありよう是です、痛いかゆい哀しい痛烈あったって、ひっきょう空に遊ぶんです。
 今用無しになって首くくってもいいぽかっと死んだらどんなに楽だろう、肉体を開放されるサンキュウてなもんです、でも生きていること退屈と楽しいと、しょっちょう遊ぶことばっかり考えて、お盆せわしかろうとどさくさいっぱいあろうと、うんざりというより先に日常なんです、一つ起こって一つ過ぎ、やっぱりぽっかり露の玉の宙に浮かぶ。
 毎日坐りなさい。
 他になんの取りえがあるか。
 人類の仕出かし事なぞ300万年来同じだけの場合数っていうんですか、どうしようもない陰惨も念起念滅なんです、悲痛断腸も一瞬です、生きているとは、
 やがて死ぬ景色も見えず夏の蝉
 蝉のように200%鳴いてごらんなさい。
 いいですか100%じゃまだ自分の皮つら残るんです、色即是空パーラミイターとほうらねあっちとこっち一つこと200%でしょう。
 はいこれ坐禅です。
 坐禅見習いなんてしないんですよ、しょっぱなっから200%です、どっかひっかかりとっかりなを未だしというんなら、そいつに真っ正面向いてごらんなさい、とたんにないんです、そうそう向き合ったこっちがわも共にですよ、楽になったらもっと楽に、底抜けになってワッハッハおわっちまうんですよ。

 どのように坐るかというと、究境涅槃三世諸仏と坐るのです、ねはんニールバーナはだれあっていったんはどうしても忘我ということが必要です、般若波羅蜜多に依るが故に得あのくたらさんみゃくさんぼだい、無上正当菩提です、ぱーらみーたー彼岸にわたりきってはじめてこれを得る、ことのなんたるかを知るんです、百千万の説明能書き仏教如何人間とはなにか等が失せるんです、坐り方をどうすればいいの答えはここにしかない、かつてちらともけいげある、つまりどっかとっかかりひっかかりする、それが完全に落ち切るんです、落ち切る歴史が参禅ですか、次第単純を示すんです。
 ふわっとなんにもなくなるという、どうしてもなんにもないを見つめているものがある、なんにもないからという人がいる、そうではない対峙を双眠するんです、いじろうどうかしようというのが失せる、そうですよ、こっちがわが失せるんです、自覚というまるっきり別世界ですか。
 なんで今まですったもんだしていたという、そういうそれ自体が行深します、ほんとうにまったく無為の法です。
 でもいくら歳月かけようが、棺桶に入りかけてようやく得ようが別段文句云わんのです。
 ハイって云うきりですか。
 三世の諸仏まさにこうあるんです。
 人のありようこれに勝るはないんです、絵に書いた餅じゃないたった一人あっても直きに納得するんです。
 この世にだれ一人諸仏いなくったって唯我独尊です。
 文学詩歌の徒輩が孤独といってあげつらうのとはまったく関わりないです、そういう連中のはただの甘えです。
 孤独孤俊ただもう断崖絶壁です。もとより取り付く島もないです。
 いいですかとやこう云うその自分がまず失せる。
 ことはそれからです。
 自未得度先度他という、この心のうしては導師と云えない、仏教とは云えない、そりゃその通りです、自分のいちばん大切なものを捨てるにいいです、捨てようとした時に既に捨て終わる。今どき修行の人自分という生活安定があって仏を云い修行を云う、たとい二の次三の次です、一番大切が食う寝る安穏だったりしている、だったらそれを捨てりゃいい。でないと得度もなんもない、どこまで行ったって出家してないです。
 一番大切命より大切が仏教ということになって、はじめて修行は修行です、四苦八苦七転八倒も血肉となる、転んでもただでは起きないんです、小悟百遍大悟その数を知らずという、たんびに行深したんびに未だしということがある、あるいは切歯扼腕するんです、事として弁ぜざるなし我こそ仏教第一人者だという、
「ではそれを捨てて他の人の成仏得道のためにしなさい。」
 これが自未得度先度他の心です、思い切ってそうしたとたんにまるっきり失せることがあります、もとないところに下駄を履いていた、それが脱げたというんです。
 苦労もなんもいらない広大無辺、生まれついてのどかんとこうあるっきりです。
 自らはついに仏にならず先度他という、こういうからには仏になることがあるんです、お布施坊主のてめえ棚に上げてじゃないですよ、葬式坊主なんか仏教とは関係ないんです、死出虫稼業だけです。そうじゃないんです、仏になることがあるんです。
 ほんとうですよ。
 これをどう云うたって自分でなってみるよりない、はい仏ですといって他に全ったい提示できるもの。
 菩薩清涼の月畢竟空に遊ぶ、是故空中、無色無受想行識と空の中の空とて提示するんです。衆生の心水浄ければ菩提の影中に現ず、人としてまたものみな一切のこれを受けざるはないんです。

 坐禅は坐禅の為にすという、坐るという坐るっきりになる他ないんです、故に知る般若波羅蜜多、是れ大神呪、是れ大明呪、是れ無上呪、是れ無等等呪、能除一切苦、真実不虚と坐るんです、まったく他なし=自分という一切合財です=自分の入る余地がないんです、虚空そのものになり切るとは虚空をも知らず真実不虚です。さあこのように坐ってごらんなさい、パーラミーターの教えの間違いないことを知る、他にはまったくないことを知る、すべてが尽くされていることを知る、自分のもっとも大切なものと交換して、そうです惜しいとは思わないんです、必要とあらば腕を切って差し出すんです。
 真実不虚と永しなえにこの中に住むんです、能除一切苦です、無上であり無等等であることを自ずからに知るんです。
 もしちらとも能書きト書き説明などあったら駄目ですよ、これを学者師家布教師どもは知らんのです、とくとくとしてたとい感無類とかしゃべくって嘘なんです、嘘とはすなわち現れる他なく、そりゃみっともない醜い人です。
 ぎゃていぎゃていはらそうぎゃてい、have beentoです、have gone toです、彼岸にわたるパーラミーターです、ト書き能書きの一切入る余地がないんです。
 坐禅をする人とやこうああだこうだ云ってるひまに坐って下さい、坐禅が坐禅の為にならぬ、人生だの仏教だのとやこうやっている間は途中受用という、では急転直下です、とやこうああだこうだそのまんまです、どんな解決も宙ぶらりん未解決もそのまんま、はいそっくり終わり真実不虚です、虚空というなんのさわりもない大神呪です、即今大明呪です、呪とはもと自分が関わったというほどの、たよりないはかないなんにもないに参じ尽くしてオールマイティです。
 いいですか、世の中に宗教というもの思想新興宗教など五万とあります、一目瞭然事です、キリスト教は邪教であると断じて下さい、はじめから終わりまで間違っています、世界中が巻き込まれて悲惨な目にあって来ました、自国も無惨他国も無惨タヒチやハワイやアマゾンの民や、ひとりよがり押しつけの宗教は、色即是空を知らんのです、彼岸にわたることをしない、無明をもって無明を排除しようとするでたらめです。ついには石油欲しさのアメリカです、300年間まるきり変わってないです、アフリカ人を奴隷に駆り立ててああ神様という身勝手です。
 ダンテやルネッサンスの巨匠はというんでしょう、そうですキリスト教なければもっとすばらしい詩歌や絵画だったです。
 まったく間違っているのですよ。
 しまい共産主義のカリカチュアですか、キムジョンイルとブッシュと現実を糊塗することはそっくりです。
 仏の子はそんなことしちゃいかんです。
 生まれついての本来があるっきりです。なるべく単純で人為のないほどいいです、地球の平和はどうしたら来るか、そりゃ人類抹殺すれば即平和と、進化のいびつから出て発展するという、脳味噌のそいつにしてやらればっかりです、どうかここらへんで卒業することを考えて下さい。花のように自分を、
「知らない。」
 人になって下さい、知っている分がみな嘘です、醜い上にいさかいのもとです、早く地球のお仲間入りをして下さい、ぜんたいをどうこうじゃない、いいですかたった一人個人です、個人光明となって四惟を照らす、これ仏法です。



  只管打坐Q&A


「悟りとはどういうことですか?」

「わたしらがもって生まれた現実を、ほんとうに見るんです。」


「いつだって現実です、どう違うんですか?」

「自分というものをまったく抜きで見るんです。」


「じゃ風景があるっきりですが。」

「風景を見ている自分抜きです。」


「死んでるのと同じなのか、それともとんでもなくすばらしいのか?」

「両方です。」

 
「悟りというきらきらしいものではないんですね。」

「生まれて初めて見る風景です。」


「どんなふうですか?」

「自分で見るよりないんです。」


「我と大地有情と悉皆成仏とお釈迦さまが云われたそうですが。」

「我とものみな成仏と、もとそのとおりにあったことに気がつくんです。」

「そう云われればそうだという気がする。」

「というんではなんの役にも立たないんです。わずかに忘我、自分を忘れるということがあります、向こうから証明されるんです、でなかったら言い種に過ぎない、仏教ではないんです。」

 
「悟りおわって悟りなしと云いますが?」

「自分という、我とものみなの本来を知るんです、知り終わって納得する以外なんにもないんです。」


「ではなんの役にも立たないんですか?」

「はじめて物の役に立つんです。」


「悟りという境地でものを見るということですか?」

「なんの境地ももたないのを悟りと云います、思想イデア宗教などそうゆう一切にとらわれないんです、自分の思想の自分は主人だということを知る、だから役に立つんです。」


「悟ったという実行力とか。」

「悟ったから、それだからということが一切ないんです、眼横鼻直にして他に瞞ぜられずといいます、なんにもないんです、ですからあらゆる一切です、無思想無宗教というほどに、人は右往左往して種々さまざまとらわれっぱなしです、是非善悪の、自分流といいながら他人の物差しです、そうゆうものからまったく免れている、出入り自由なんです。」

 
「でも悟ったか悟らないかと云うんですが。」

「悟りとして忘我、我を忘れる体験はあったほうがいい、百万語をつくしても、百聞一見にしかずといって、ちらとも見ればそれで終わるんです。」


「悟らなければ駄目ですか?」

「悟ろう、悟を得ようというところから始めたほうがいいです、そうして悟りというものを卒業してしまって下さい。」


「どういうことですか?」

「ほんらいないものに振り回されていては、卑小なものになってしまいます。」


「悟らないと役に立たない。」

「ひとまずそう思ったほうがいいです。」

 
「でも悟ったら悟りに振り回される。」

「そういうことがままあります。」


「どういうことなんですか?」

「忘我体験を持つ、つまり風景としてあとから見るんです、するともうそれは別物です、でも苦労して得たからおれは、わたしは悟ったというんです、たしかに一般人の及びもつかぬことがあります、だからおれは、わたしはという分浮き上がってしまいます、たといお悟り風景を持たずとも、悟ったあとはまったく違うことがあります、とらわれのない生活というのは、同じようでいてがらっと変わってしまいます、すると自ら世を食み出すか、悟った人といって別格の地位を求めるか、ということがあります。」


「一個の自由人というわけにはいかないんですか?」

「ほんとうに明きらめることです。」


「ほんとうでないってことがあるんですか?」

「ほんとうでないってことはないんですが、たとえば忘我体験がある、せっかくぴったりやったのに、三年たって会ってみると何の足しにもなっていない、人から食み出す分けちになって、そうしてなおかつ悟りを求めていたりする。かと思えば必死に仏教、祖師の語祿を研究して鉄壁の鎧と、そのお悟り仏教を身に付けて、一山の主一方の旗頭にのし上がろうとする、どちらも不可です、ただまったく手つかずの普通の目を見開くことがなぜできないのか。」


「なぜできないんですか?」

「只管打坐ではないからです。」


「特殊体験ですか?」

「ひょっとするとそうなってしまう。」


「なぜでしょう?」

「なんにももたない、これに徹底できないからです。」

 


「悟りということに世の中一切がある、仏教ということのすべてだという。」

「そうではない、たった我がこの一個のすべてです。」


「それで用が足りる。」

「あとのことは必要に応じて勉強すりゃいいんです。」


「世間のものは世間のもの。」

「そうじゃないんです、世間のものなんてないんです、すべては法のもの、法といってとやこうじゃない、個々別々、そのものずばりです。」


「自ずからということ。」

「七通八達と云うんですか、この只管打坐を、久しく絶えていたものを、独力で復興した人がいます、飯田トウ陰老師という方ですが、今に残っている碧巌祿など提唱祿を見ると面白いんです、ノ-ベル賞ものですよ、なんでもかんでもなんです、本人はポンチ絵、つまりマンガを見ろなんて云ってたんですが、仏教語の解説やら、坐禅の勧めじゃない、そんなもの天下にないと云いたげです、本来人です、おぎゃあと生まれて人こうあるっきりないっていうんです。」


「でなかったら自由の分がない。」

「なんのための悟りであり仏教ですか。」


「忘我のためではないんですか?」

「忘れたっきりじゃいられないんですよ。」


「もどって来て平地に立つんですね。」

「他ないんです。」


「でもそれたいへんな力量がいるんじゃないんですか?」

「そんなことないです。」


「だって今のような多種多様社会にあって七通八達って、大コンピュ-タ-なみの能力がいる。」

「赤ん坊の目で足ります、知らんことは知らぬでいい、光陰として過るものすべて、そのすべてのまっただ中にこうあるんです。」


「たとえばピカソの絵がある、ちんぷんかんぷんの代名詞。」

「そんなことはない、あれほどたしかで、洗練された表現力ってないんです。」


「それは見方を知った人の。」

「絵描きはすべての人のために描きます。」


「批評眼に歴史的背景とか。」

「生活そのものです。」


「ルネッサンスの全人格にプラスアルファ。」

「ただの人です。」


「そんなことができるんだろうか?」

「目は横鼻が縦ならできます。」


「心理学とかへんな現代流、ないしは心身症におかされない、すばらしい人生。という。」

「たった一人木の葉っぱと揺れているってやつです。」


「良寛さんは子供とだけ付き合って、まったく社会にそっぽを向くようにみえますが。」

「そっぽを向こうが平行線だろうが、ちゃんと生きています。」


「好きなことばっかりしてですか?」

「子供と付き合うことが、そう簡単でないことは、いっときやってみればいいんです、自分の貪嗔痴を殺すのに、絶好のチャンスです、良寛さんと子供が呼ぶ、は-いと出る、子供いない、ひっこむとまた良寛さん、は-いと半日やっている、良寛のとぼけ顔が面白いんです。良寛さんあというのがあります、あというほどに、身を反らす、さば折りになってしまい倒れる、あれはもう年だから止めさせてくれ、自分でそういえ、いやそれがどうもというんです。一生不離叢林(僧迦を離れず)の、子供というのがきっと、良寛さんの規矩だったんです。」


「それはたいへんなことですね。」

「ホ-ムレスのふしだら得手勝手ではないんです、実にきちんとしています、地球上の人間以外のものが、たいていそうです、わがままな、やりたいほうだいなんてないんです、悟り終わって悟りなしの実際です、自由無礙とはそういうことです。」


「普通の生活をしたとしたらどうでしょう?」

「特別のことなんかしてないんです。」


「でもサラリ-マンとか、その。」

「だれだって一番気に入ったことする権利があります、今は今のように、道を専一にすりゃいいんです、つまらんことしたくない、でもやれっちゃできないことないんです。」

 
「歌や詩に生きる、書をかくということは、道を専一とどうなるんですか?」

「なにをしたってだから悪いってことない、即今即今その中ってこってす。」


「良寛歌は道歌というよりも、花は花に風は風のまんまというか、面白い哀しいってそのまんまですが。」

「面白い哀しいそのまんまが、ほんとうに出来るんです。」


「ほんとうにできる、道を専一ですか?」

「道といって、どこにそんなものがあるかっていうんです、あったら枠にはまる、なかったら自ずからです、ちらともあり、あるいは世の中しきたり通念思想宗教他にとらわれるから、不自然ふしだら余計ごとになるんです、たとえば、『春は花夏時鳥秋紅葉冬雪ふりて涼しかりける』というのは、もと道元禅師の御歌です、それをそっくりもって、良寛さんの歌だと人が思っていたりする、著作権云々とどっちが正しいか、万葉の歌も花を見てすばらしいとなりゃ、そりゃもう自分の歌です、一言半句違ったろうが同じだろうがいいんです。」


「万葉といえば、良寛さんの歌材について調べた高校生がいたんです。そうしたら決まりきった“松にさくらに時鳥”っていうほかなかった、新しい工夫とか今の多種多様とは無縁なんですね?」

「そりゃそうなんです、歌という伝統は一木一草空の雲にいたるまで、シンボライズっていうんですか、一個人の趣味なぞほとんど入る余地がないんです、二千年あるいは五千年もっとかけてそういうふうにできあがっている、芭蕉は新しいものを付け加えるのに、命がけの苦労をしている、おいそれとはいかんのです、良寛はたいていそんなことはしない、平然人まねまでやってのけて、伝統の大海に楽しむんです、もしくはそれには技術がいるってことです。」


「道とは無関係?」

「すべてが無関係です、これを道というんです。如来というんでしょう、来たる如しなんです、ものみな百パ-セントそのものずばりです。」

 


「もう一つ良寛さんですが、『ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りなば』、という歌があります、これに付けて貞心尼が、『君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじおや』と歌っています、どういうことですか?」

「まりを一つつく、つきながらほんとうにつくことができない、だから不満でありがさごそと騒々しいんです、淋しいんです、ひいては人類百万年の歴史が、この不満足淋しさから引き起こされたごたごたです。お釈迦様はそこを哀れんで、只管打坐という、まったか手つかずのただという、広大慈門をお開きになったんです、いいですか、心して狭き門より入れという、狭い門から入ったら、狭いまんまです、そうじゃないんです、今あるたった一つをほんとうにする、その他まったくないんです。」


「そういう人がいなくなったら、世の中いったいどうなるかということですね。」

「幸いここにあります。」


「方法を知る人、無為の真人というんですか?」

「そういうことなんにも云わない、ただの人です。」


「名もないが正解?」

「いいえあなた自身です、常行なわれつくすところに、ちらとも目を向けて下さい。」



  自分の立場を守らない


 自分の立場を守らないとはどういうことだと思いますか、時所位、あるとき是あるとき不是という、自分という氷ではなく方円の器に従う水である、自分という架空事、そういう思い込みのないことです。するとただの子供赤ん坊の舌頭たたわわなんです、ついに物を得ずです。
 どうですか、そうやって一生を生きること本当に面白いんです、100%200%するんです。
 そうして間違わないんです。禅に批判的だろうが反仏教もでたらめも心理学もどうしようもないのも、まっさらな目には一目瞭然なんです。
 自分がないんです。
 どう対応したらいいかといって、対応以前に答えが出ている、こりゃどうしようもなくはっきりしてるんです。
だからそれを是とする人には道があり、不是わからない、云うこと聞かぬ人には、そりゃこっち引き下がるよりないです。またの機会ということです。
「人は大悟したほうがいい」ではなく「迷妄を住処とするな」です。
 悟り=目覚めて下さいということです、はた迷惑禍殃累生に及ぶとむかしから云われている所以です。
 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜明けにけるかな
 目覚めて下さい。

 仏とはほんとうのわたしに行き会うことです、とやこうあげつらうことではなく、他にはないんです、自分に行き会いこれを長々出させる。
まったく一個の道=万法に通ずるんです。
 方向がどっか違ってやしませんかと、まず顧みることだと思います。
 ちらとも見ることあれば、ものみな一切です、
「そうか。」
ということあります。
「それまでの知識・体験に基づき、自分にとって良く、実行可能だと思ったことをやっているだけだ」という箇の形骸-どんなに卑下したってこれを思い上がりと云うんです-をぶち破ること、乃至は「と自分を見ている」その自分如何と問う-問うもの問われるもの自分なんです-二つが一つになって消え失せる=無心です。
 すなわちなりふりかまわず、むちゃくちゃといったぐらいです。
 どうしよもない自分というのがあり-自分というに従いどうしようもないです、これを万事お手上げする、
「なんというまあおれは」
という皆懺悔です、皆由無始貪嗔痴の反省です、なんというまあ、自分じゃどうにもできん、
「仏よなんとかしてくれ」
といって坐るんです、まくじきこまっしぐらこれ。
 釈尊のむかしから変わらんです。
 通身問えば即今答です。



   坊主情けなや
 

「道元禅師が解脱を求めてはならないとおっしゃる以上そんなものを欲しがるつもりはありません」
 これが曹洞宗門坊主のそうねえ、おおかたの根拠なんです、新興宗教と言われても仕方がないです。
 みなさんまあよく見てやって下さい。
 どうしてここまで曲げて解釈せにゃならんのか、たといお飯ま食うためといったって、
「エンジンのねえのを自動車と言うんだといって開き直っている車屋」
 なんて譬えを云うさへアホくさってな、こうしてもってごんずい固まりにかたまって、真を排斥し、朝夕坐禅しろとからしくとかいって、どうにもならんというより、こりゃ集団自閉症、世間実生活人みなから解離してしまって、心理学の対象にしかならん。
 たといわたしに対するたって、かの臨済坊主とまったく同じ、下世話の恐喝みたいの、これ世間人の取らぬところです。このトピでわたしに悪口雑言云う人だって、思想意見が合わないからといってとやこう云うんです。坊主どもみたいうすぎたない言い種せんです。
 外務省お役人より警察幹部より、学校の先生どもよりいかに坊主どもが腐って他愛ないか、これまさに見本です。よくよくご覧下さい。
 坊主自閉症です、理解力ゼロでたとい何云ったっててめえの言い分繰り返すだけです。
 坊主だから説教して客寄せしてという他、まったくの無内容を見てください。
 おおかたの坊主が大同小異です。
 すでに釈尊の子じゃないんです。



   きちがいの兆候


1 自分は正しいんだいいんだという、実はその根拠がない、
2 従いすべてに能書きが付く、反対されればされるほど鋭利に精妙になる、
3 それでもっていっぱいになっているから、人のこと他のことが見えない、
4 自分正しいという以外いやそれ自身もふくめて物語の中、
5 ゆるやかに回転する堂々巡りが次第に早くなる、
6 回路が焼き切れてついには発狂、

 以上のことがあります、うっかりしていました、こういう人にはどんな形でも手を付けてはいけない、助長し追いやるだけです。
 仏教にはきちがい多いです、いろいろ見てきました、実際と思想観念とをごっちゃにして入れ揚げる-いい気になっちゃうからです、どうかよくよく気をつけて下さい、ひけらかすんではない自分をという平らに真っ正直です。



  心のメカニック2


 自己憐憫も他人憐れむも、ないしは一切の喜怒哀楽~たとい現代事情の複雑感情も、これを否定するとかじゃないんです。否定しようが捨て去ろうが、へたすりゃ化けて出るっきりの、いわばどうにもならぬ現実です。心のメカニックはつまりこれらを入れる容器です。去来のままに置く容器です。だから思想感情の交通整理とかじゃない、もっとずっと単純に、一切の想念がよいわるいに関わらず、ぽっと出ぽっと消えるものと見る-見る見ないに関わらず、ぽっと出ぽっと消える、最大で13秒とかいいます。だからこれに取り付かない工夫なんです。ほっときゃいいってこってす。
 たいていほっとけない、ぽっと出たところへしがみつく。いいわるいするんです。座禅一坐の間ごたすたやっている。思い悩むという現象は一日中やってるんです。
 でも実は神経シナップスのぽっと出ぽっと消えしかない。

 人の苦しみは、思想の内容じゃないんです、対象物ではなく、ぽっと出ぽっと消えるところをしがみついてああでもないこうでもないするからです。過負荷超過負荷になる、ついには同じ回路をぐるぐる回りです。正常人と気違いの区別がつかないのはこれです。
 人は四六時中、夢の中まで想念妄想を追うんです。無になるといって、妄想を断絶させようとするんではない、妄想を追いかけるのを止める、手放す工夫なんです。だから心のメカニックです。仏教本来のことはもと人間たるこの身心に備わっているんです。それをほんとうに丸出しにさせてやればいい。長長出といいます。
 ここを他の仏教者創価学会もないしはいろんな人が間違うんです。仏教を作り上げそれを信じようとする、妄想の辺に仏教という別妄想をおく作業です。
 そうではないんです。妄想思想というぽっと出ぽっと消えるから始まる、際限もなく見えるこの心意識現象の、自分は主人だということを知るんです。妄想思想の自分が産みの親なんです。思想に追われ支配される自分じゃない、ことはこれっきりなんです。
 他にまったくないんですよ。

 他になにかあると思っているうちは、仏教じゃない。ものにならんです。でもわずかに心のメカニックと知る、これ般若心経の示す通りなんですが、中村元なんていう大権威とされる仏教学者が、ぜんぜんわけのわからんこといっている。読んで字の如くだっていうのに、なぜ曲解せねばならぬか。仏教で飯が食いたかった、いっぱし権威になりたかったからです。実に般若心経は、つまり仏教はな-んにもなし、心のメカニックを示しているだけなんです。自分の辺にたしかめるよりない、飯も食えんし権威にもなれんです。ただの人なんです。
 でもこう明きらめ来るのに、思想も権威もそうしておそらくは自分の命さへ捨てる覚悟が必要です。なにか頼るところがあると、もとっこほんとうということがわからない。生まれ立ての赤ん坊でいいってことです。捨てたって学問知識なくなりはしない、かえって捨てれば捨てるほどしっかり身に付くんです。自分という妄想我執が関わらないからです。でも捨てる時はほんとに捨てねばならない。これができるかできないかです。
 実知恵とは行動そのものといったらいいところがある、へたな考え休むに似たりです、自分というないはずの妄想に支配されないんです。

 自分とは何か、かえりみるにない、これをどうしたって知らねばならんです。知るとはまるっきりない自分に出会うんです。とやこういってりゃ、いってる自分です。ないしはなんにもないという、なんにもないを見る自分です。ついには忘我の他なく、忘我をしている、欠落ですよ、そこから我に帰るんです。いっぺんに心のありよう、そのメカニックが手に入るんです。な-るほどってことです。
これを思想にこねくりまわしてもなんにもならんです。それメカニック単純だから、別に難しいこっちゃない、でも理解したってなんにもなりゃせんです。
 仏教たらそういうものです。知りゃ知るほどに単純、言葉とかへ理屈止めちまうです、ありがたやなんまんだぶつ、仏坊主からますます無縁です。



   御開山禅師打睡一下


 これは道元禅師坐中に忘我、すべてを忘れきっているとは、そういう自分をさへ意識しないんです、あとから顧みるに記憶の欠落です。たまたま隣単に居眠りする雲水がいて、坐禅と眠りとは違うぞといって、如浄禅師が打睡一下する、策を下す。これが因縁によってはあっと我に返る、一念起こるんです。すると自分という身心まったく無うしてものみなあるんです、
「我と有情と悉皆成仏。」
と獅子吼したお釈迦さんの云うとおりの現実です、天地有情と同根一体化、仏教はたったこの一瞬に成立するんです、やったあやりましたといって、如浄禅師のもとへすっとんで行く。
「心身脱落来。」
心身脱落して来ました、やったあとうとうやりました、と云うんです。これに対して如浄禅師は、
「脱落心身底。」
脱落せる心身底、そうじゃないよ、もとっからこうあるっきりだよと示すんです。ここにおいてまったく納まるんです。

 お釈迦さんはそれ以前に仏教というものはなかったんです。あらゆる思いつくかぎりを尽して、なをかつ初発心自分の疑念が晴れなかった。満足しなかったんです。ついに刀尽き矢折れてガンジス河の辺に坐す。忘我の法は自然に得るんです。
「な-るほどなんにもしなくてもいい、もとこのとおりに生まれている、大安心大満足を障害するものは自我である、自分という架空のものだ、これにさえ囚われなければ、如来として宇宙に花開く。」
という自覚です。そうしてこれを仏と云い仏教と名付けた。たとい道元禅師自然に脱落も、仏と云い仏教という何ほどかあるんです。
「やったあ、ついに得た。」
という思いがある、するとはあっと一念起こる追憶が、
「心身脱落来。」
として残ってしまう、すると今度はこれが自縄自縛の縄になるんです。おれは悟っただからの世界です。これを如浄禅師は奪い去る。
「そうじゃない、もとっから身も心もない、まるっきりたった今の、そうさその通りあるっていうのに、何故か身心ありと思い込んで来た、今それが外れた、清々の底が抜けたって、もとこれっきりない、悟るも悟らぬもないさ。」
と云うんです。
「そうか。」
と云って一件落着も、たいていの人悟りを持って大苦労するんです、もういっぺん忘我すると、不思議にぴったり納まるようです。
 どういうふうにぴったり-まるっきりただの人です。
 空手還郷です、眼横鼻直にして他に瞞ぜられず。
 宗教とはこれしかないんです、信不信ではないただの事実、あっちの神様こっちの思想ではない、廓然無聖個々別々です。ぽっかり咲いた花のように不識なんです。



   知らない


 知らないっていうのはほんとうに知らないってこと。
 口先だけの人は実際を知らない、知識学者坊主どもは悟を知らないんです。明星一見の事です。するとたとい何云ったってまるっきり違う、近似値でさえない、このことにどうにも気がつかない、従前の自己妄想線形の上にしか見ない。第一役に立たない。自分満足しないし、人に手をさし伸ばすべきを(おれさまはどうでだからおれをなんとかしろ)って云っている、学者権威だろうが偉そうだろうが、口開けばそう聞こえるんです。
 
 正師邪師ほんものにせものを見分ける方法はだから、
1自分を囲うものにせもの、なりふりかまわぬものほんもの。
2にせものはアレと云い、ほんものはコレと云う。
3たいていにせもののほうが詳しい、いろんなことを持ち出す、ほんものはなるたけ手段を控える、一言いうそれによって開け外れる分と、かえって蓋になり迷う分とあるんです。だから云えば云いっぱなし、あとであの時こう云ったからと云われても、こっちが覚えていない。
4らしいとほんものを見分けるのは、でもそう簡単ではない、らしいものまね、大昔っからあるさまざま手練手管、ほんものよりらしくみたいのや、いかにもって感じの食わせもの、また詐欺師は自分信じ込んでからってのあったり、奇々怪々だったりします。でもこっち真っ正直なら、そりゃ真っ正直に出会えばわかるんです。たとい云うことちんぷんかんぷんだったって、ついに我が遍歴終わるんです。

 ないあるという、趙州狗子に仏性ありやまたなしや、云く無、云く有。これねえ知識学問じゃどうもならん、鏡三つなんていう道元さんひっかけに見事ひっかかるしかない。あれ仏法僧をもって云ったんです、堂の辺り行き過ぎてまさにそのとおりってだけですよ。ないあるという、実にこれ実感なんです。身心失せた人が知らないという、風景まさに有るというにはまったく無いんです、無いというにはものみな有って千変万化です、千変万化しようが見るとおり聞くとおり他ないんです。こんなこと言葉でたとい百万語尽くそうが、
「ば-か。」
舌べろうと出してけりです。そうですねえビジュアルには雪舟の絵がよく表わしています、実にあのように見える、目無うして見るんです、人宇宙の中心でありながら人無しです。これぎゃ-すか云ったってしょうがないです、たとい一片の正確あったって、自分がそれ享受しなけりゃな-んもならん、見たことも聞いたこともないこと説明したってそりゃだめです。見りゃいい、それでけりです。
 こんな単純なことネグレクトして、やれ眼蔵だやれ道元禅師がどうのって、これクレイジイでなきゃ相当の能足りんですよ。

 とにかく自分囲ってないんです、色不異空とてめえっちの敷居から一歩踏み出す、これ仏教ことはじめ。
 坊主も学者も一般人もまったく同じです、てめえ囲ってるもの役立たず。一歩でも二歩でも踏み出そうとする、そうしたら仏です。引き籠もりさん死ぬ思いして、九州からお寺までやって来た。そうです一歩出ましたよ、二歩めもじきです。



   方丈の言葉がわからない


 一つには言葉=実際ということあって、ふつうの観念論的とでもいったらいいか世の中認識論とは違うです。至りえ帰り来たってと云ったら、行って帰る-行ったまんまの-実際の行為が一通りあるんです。形影あい見るが如しといったら、実際に影法師が自分かこっちが自分かってことなく、あい見ている一通りがあるんです。魚行いて魚の如しといったら、まさにその通りに見え、水自ずから澄むんです。
 ホントこんなやさしいことないって云って、わたし文芸評論自信あって出家したですが、師の提唱ちんぷんかんぷんだったです、三カ月毎日聞いてやっとそうかって、そのうちここで机叩く、次や一指頭出てくるぞとかつうかあ牢名主になった。しまいには提唱を聞いて悟る-良寛さんがそうでした-ものがわかるという不思議な体験とか、そりゃあったんですけど、ほんとうほんらいになるにはまだ暇あった、そりゃわたしの自堕落ってこってす。
 ものわかんなくってけっこう。



   仏陀


 仏陀は各種行なわれていた修行他一切にけりを付けています。乃至難行苦行にもけりをつける、
「たしかにあなたの云われるようにやってみた、しかしわたしの疑問を解決するものではない。」
ということです、すべての書は読まれたり、肉は悲しとは西欧詩人の言い種ですが、一切事において役立たずを知る大力量=真っ正直だったです。
 ついに刀折れ矢尽きて、ガンジス河のほとり菩提樹下に坐す。そうして明星一見の事、我と有情と同時成道を知るんです。
「何を求める必要もなかった、もとあるがまんま=すべてが解決済み。」
を知るんです。如来来たる如しの道です。他の一切宗教と違います、仏陀の目には他の如何なる宗教も、こうすればこうなるという邪教です、迷いの上の迷いにしか見えなかったです。
 現在の仏教といって、ほとんど100%どうも、わたしも曹洞宗門としてまことに申し訳ないんですが、いろんな仏教というもなく、仏教とは云われんのです。
 まっすぐに、真っ正直に見て下さい、自分にとって何が必要かということです。古来仏教が欲しいか自分自身が欲しいのかという問題だったです。他所っことじゃないんです。この事一切事において役立たずの、仏陀の道をたった今も同じに通る他ないです。便法はありません。たとい座禅もあ-だこ-だいってるうちはなんにもならんです。修行途中で逃げ出したろうが、そんなこと一向にかまわんです、でも自分から逃げ出したらだめです。
 人の噂に惑わされんで下さい、知っている人はこれと云い、知らぬ人はあれと云います、よく聞いているとわかります。一応の目安になります。
 ねはんと無常は諦めじゃない明きらめなんです。大喜悦大安心ということがあります。他にはなんにもいらない、
 雪月花をほんとうに雪月花と知るんです。如来あるがまんままというのは、実にそうできているからです。そうでなきゃわれわれの存在自体の意味がないんです。花も月も人間以外みな如来、だのにどうして人間だけそぐわないという、即ちこれが仏教の命題なんです。



  座禅・凡人・別格の人


 これ云わずにいられんのは、「凡人に禅の坐り方ができないのは当たり前、とにかく坐れ。」
という語です。
 座禅はむずかしいものじゃないんです。難しいものにすると難しくなるんです。坐ってなにがどうなるといって凡人も別格の人もないんです。五体こうあって心といい五感というこうあること、だれあって変わるもんじゃないです。
 坐って自分を眺め暮らすという状態を、静かに坐っている、あるいは妄想煩瑣という、双方同じなのにそういっている、その延長上に星を目印なんです。まずもってこれに気がついて下さい、これじゃ百年河清を待つなんです。
 座禅とは座禅のノウハウなんです、手つかずの工夫といって、これだけがあるんです。自分とは一つっきりなんです。自分といってみとめるときに二分裂です、忘我によって始めて一つ体験です。実にこの間の工夫しかない。
他のこと何をしたって同じだ、思想思念わがままの河を濁すだけだと知って、ついに座禅という、別格大力量をいうなら、むしろここに至る過程です。

 ガンジス河の辺にあって忘我するのに、手間暇いらなかったです。
 すべてを尽くしてなんの取り柄もなく、あるいは取り得るものはなんの役にも立たずの実感です。なんにもしようとしないんです、元の木阿弥です、自分に手をつけない、次第忘我です。忘我しているときそれに気がつかないんです。たまたま明けの明星です、はあっと一念起こるんです。すると自分というものまったくなくって、ものみなあるんです。星が向こうにあり我こっちにありの、通常概念じゃない、明星が自分なんです。
「我と有情と成仏。」
人は生まれついて、いいやものみな生まれる以前からこのとおりの実感です。
 三七二十七日の間、喜びの中にあったといいます、如来来たる如しです、それを徒らに手をつける、能書きして自分が自分に首を突っ込む、なにをどうしなけりゃならん、凡人はどうの仏教は云々、いらんことしなけりゃ満ち溢れる喜び、そういう我らの存在だというんです。

 これねえ過去のこっちゃないです。頭のよしあし環境の別なく、そうねえ、わたしどものところでは、平均三月も坐りゃあ、
「あらっほんとだあ、おれと風景-こっちとあっちがわの区別ない。」
ってやってます。こうしてINだけでもそこここ忘我の人います。どおってことないんです、人間もとっこそうできているんです。 
 難しくするのは、仏教といい成仏といい悟りという、2000年来歴史の垢なんです。お釈迦さんを怪物に仕立て上げて、いやわしらはとってもというんです。座禅というなにかしらイメ-ジングをして、凡人にはとってもというんです。大悟徹底ヒヤ-そんなこと思いもよらんて、噂がうわさを呼んでるってだけです。
 そういうこと止めたら、もとっこ座禅するのは自分一人です、強いていえば身心のメカニックがあるだけです。
 お釈迦さんがかくの如く示す、はいわかったといって菩提樹下に坐せばいい、日頃の習慣が失せるに従い忘我です、習慣が気にかからなくなるんです、たいして手間取らんです。むしろ忘我を得てそのあと、ほんとうにお釈迦さんかという、そっちのほうが問題です。バカんなってやって行けるかってことです。
 座禅が座禅になる季節、坐っているでしょう、すると実になんにもないんです、体のない実感です、無眼耳鼻舌身です、そういう感覚器官もとないってだけなんですが、無意、心を観察するに心なし、だって心一つなんです、そうしてついに忘我なんですが、な-んにもないっていう、なんともすばらしいんです。
 普通な-んにもないっていうと、な-んにもないを見つめているんでしょう、そりゃないんじゃなくあるんですよ、つまらない、そうじゃない、群生の永えにこの中にありという、ものみな一体感なんです。
 座禅とはこれ一通りしかないんです、他のさまざまはそれ失敗なんです、たんに「そういう自分を見つめている」ということです。



  一切経


 一切経を全部読んだって、そりゃご苦労さん、一昨日おいでって云やいいです。因みに道元禅師は十五歳に比叡山へ上り十七歳に一切経巻を尽くして、畢竟するところ「人間本来本法性天然自生心」ということが解った。それじゃもとこのまんまなんにもせずともいいといって、寝たり起きたりしていた。ちっともよくなかった。これじゃどうもならん、なんとかしようと云って、中国へ渡るんです。
 本来本法性も、なを証せずんば現れずということを知って、ついにこれを証拠するんです。
 たとい一切経を尽くしたって絵に描いた餅です。
 これを知らんきゃそりゃしょうがない。ばかったいきりだ。
 たとい一切経を尽くして、一言で云うとどうなるか、自分にとって何かということ、他人をやっつてけ議論に勝つ為の仏教じゃないんでしょう。ひけらかしたってなんにもならんです。無駄なことは無駄です。なぜそんなことをするか。真っ正直に問えばいいです。
 それができなきゃ自分も無駄ことと違いますか。
 阿難尊者はお釈迦さんそっくりに説法して、どっちがどっちだかわからん位だったそうです。けれども大法を得る-その説法の内容を得る、一切経の示すところを知る-には二十年の歳月を要したんです。
 こりゃどういうことか、一切経=自分のことです。自分について研究し、説き明しても、やたらうるさったいばかりで、なんにもならない。歩くのに歩き方をとやこう云うと転んでしまう理屈。自分について忘れ去りゃいいんです。覚えていることが邪魔になる。如来来たる如し、ただってことです。まったくの手付かず。即ちこれが一切経の意味です。他ないんです。



  前生の因縁


 退行催眠やると前生にたどり着くっていう。前の世何したからそいつでもってこうなるっていうの。心理学的には、現実にまったくあるようにこさえてしまう現象だって。アッハッハたまにゃ心理学に賛成するか。これあったろうがなかったろうがどっちも同じです。前の世あるっていうの、人間の都合勝手の分あんまり多すぎて、とうてい承服しかねるんだけども、たとい前の世あっても、それ今の世に影響したっても、すべて妄想世界のことなんです。真実じゃない思い込み世界、こんばくこの世に留まりてってやつ。面白くないんです。人類史がでっち上げってほどに個人史も適当にピックアップ、それをもってしてこの世に留まっちまう。どんな悪たれ悲惨だって、すばらしいにっこりとか、人に感謝されとか何度だってあったのに、たとい豚箱に入ったったあそれっきりになっちゃう。どえらい苦労した、認められないとかさ。でもってそいつが前世の因縁だなんていうの、馬鹿に付ける薬にもならんです。
 それ故六道輪廻、地獄餓鬼修羅畜生人間天上のたらい回し、どこどうほっつき歩いたって同じ際限もなしを、個人史人類史に仕立て上げる愚かさを、ついに一歩抜け出るんです。七歩歩いて天上天下唯我独尊。わずかに妄想にとらわれないんです。思い込みではない人生。するともう輪廻転生しないと云われています。そうですよ、すべての赤ん坊が正に唯我独尊と生まれています。如来です。前生も今生もどうです、みなさんもういっぺん考え直してみたら-テレビ見てる坊主より、ゼニなし他のことできない。



  信長


 信長の安土桃山城は、敵は本能寺で闇討ちにあってから三年後、これも放火されて焼け落ちた。今遺構を掘り起こして、復刻してみると随分の建造物であるという-このあいだテレビでやっていた。城門から広大な一本道路がまっすぐに天守閣へ続く。これは城責めに備えてではなく、天皇をお迎えする道だそうで、途中休息所あり馬繋ぎあり、御座所は御所とそっくり同じにこさえてある。信長創始の天守閣はキリスト教から来ている、仏教の八角形をなし、まさに天守に住し、八方の平和を見そなわして、黄金を張り、もって釈迦孔子の故事来歴を写す。その広大さ海山を見る、乃至は楽市楽座の大発展、当時世界大一級の首都たるによろしく-
 どうも
「鳴かぬなら殺してしまへ時鳥」
の信長とは一線を画す、後世の配慮はたいへん間違っていたのではないか、というのだ。
つまりは、せっかくここまで来て、明智の闇討ちに会い、せんもない、人生五十年夢幻のうちと、舞いを舞って死んだといわれる信長の、
「うっふう、さもありなん。」
と、にんまり笑って信長党の、わしもその一人。
 残念ながらコンピュ-タ-グラフィックは、風景になっていない、ごたすたと残骸。本ものは或いは自然の中の大自然ともいうべき、壮麗不可思議、まさに世紀の大魔王の面目躍如たる-だっても安土桃山の障壁画を、洛中楽外図、浜辺図、豊国社祭礼からどれ一つ取ったって、ゼニなし坊主垂涎の代物で、一生かかってたった一枚模写できれば幸せ、というよりそんな面倒せずと、涎垂らし放しってやつ。だったら物量の積み重ねみたいグラフィックとは無縁の品。
 学者集まって壁画復刻してみたって、マンガにしかならぬ。

 信長の前で各宗派互いに法戦の話はしばしば聞いた。キリスト教に博覧強記がいて、仏典を調べ尽くしてああ云えばこういう、あわやというとき大喝して、これを黙らせたこと。かの十八年乞食大燈も大いに弁舌をふるったこと。
 信長を今様の合理主義(戦争X平和Oで平気とか、科学という思考停止とか)に解釈した史家他の間違い。だが宗教を総合して平和国家に当たろうというには、いったい信長のレベル如何、と思うにはこりゃこっちの届かぬところか。
 答えを出さずは承知出来ない。こんなはっきりした人物はいない。たとい戦争のことは手下に任せ、宗教の答えは宗教人に任せ、でもって折衷案であったろうか。そんなはずはない。人には宗教が必要だ、戦争は終わった、心の領土は宗教にという理屈。そりゃまそうゆうこったろうが、比叡山を焼き討ちにした信長が、尋常の思惑でなかったことは確かだ。それとも中年晩年考え方が変わったか。たとい人間どうにもならん宗教虫、或いは天皇便利と知る。
 どうもこのへんで止めておこう、死んだやつの心理解析したって、そりゃマンガにもならん。
 とにかく信長秀吉家康と順次つまらんやつに取って変わって鎖国日本。まったく名は体を表わすといったらいいか、諸法の信を長久ってんで信長、これもっともよし(あいつ短気のくせに劉邦みたいとこあった)。善悪に秀でる秀吉、思いつき卓抜といってついにはエロじじいな。お家安泰の他爪っから先もない家康、さ-てさてでもって今に至るという、お粗末坊主マンガ。
 家康大好き日本人また背ちんちくりんなって、世界の仲間はずれ-かな。



  升田と大山


 将棋はほんのへぼ将棋だけど、将棋知るが知るまいが青春の血を沸かせた升田と大山、木村名人三つ巴の話。木村升田対決は戦争をはさんで三回四回する、ついに木村名人を香落ちに追い込んで、升田は身体不調とか云って指さなかった、名人を香落ちに指すのを心よしとしなかった。なんたって人間臭い男だった。今の名人五冠タイトルとか云ってるの、コンピュ-タ-に目鼻くっつけたようなの、そりゃきっと抜群強いんだろうけど、さっぱり面白くもなんともない。
「今に日本将棋もコンピュ-タ-に負けるようになるよ。」
って云ってるみたいだ、じゃ何が残る、将棋じゃない人間だって、もう一度云ってみたくなる。
 逸話の宝庫みたい升田は、将棋必勝法なんてのを考案して、そいつが何度か成功する。こうやったら勝つんだけど、それじゃ面白くないからこう指す、とか云って負けた試合もあった。そこへ行くと大山は目立たない、升田にこてんぱんにされちゃじっと我慢、
「なんたって升田だ、大山みたいのきらい。」
っていう、わたしふうのけっこう多かった。なぜきらいかって云うと、だってきらいってなもんで、升田の宮本武蔵人生劇場みたいの、大向こううならせるっていうか、けっこう毛だらけってとこ。
 詰め将棋をするようになって、木村名人のから何冊となく本を買って来てはやった。クイズとしちゃまことに面白い。木村名人のはすなおで入門編にいい、今様のものはトリックじみたりする。就中大山名人はすばらしい、これは詰め将棋という芸術だ、馥郁たるものがあった、
「そうか、すばらしい人だったんだな。」
と思う、なんせへぼ将棋はそこまでたって、大山かくの如くありって、なにほどか風景として残る。

 先日テレビで北アルプスで遭難して35日めに自力で這い出した男のことやっていた。35日めっちゃたいしたもんだと思ったら、どうも人っていうより、けものって感じ。遭難もどっかずさんなら登山届けも出さず、山歩きのいろはも知らぬ、沢へ迷い込んで日記をつける。食いものとせいぜいが家族母親に会いたい、もっといい子でいたかったとか、唯一の願いはいい結婚したいとか、これ男子一生の、
「いったいなんじゃあ。」
って云いたく-なるのはわしのようなアナクロか。
こんなもん死んだってちっとも惜しくはね-や、人間の尊厳もくそもなし、かたくり一株のほうがまだいいって云ったら死刑?
「人の死ぬるその言やよし」
ってのは今はなしかって、商売柄死体と番度び直面して、「死に顔はいい。」
 デスマスクじゃない、仏に帰っていると思う、曖昧煩雑が消える、妄想=自分が死ぬ、惜しむらくは生前にこの顔を得て欲しいと。
(食えないとなったら食いもののこと考えないのさ。断食三日で空腹感なくなるよ-胃が停止する。食いもののこと思うから食いたいのさ。)

 哲学だの思想とは云わぬ、だが少しは自らを顧みる。
 これなくんば人間とは云われぬ。
 そうさ、さっぱり面白くともなんともない。コンピュ-タ-と食欲色欲いい結婚生活のほかな-んもない、うすっぺら。
 つまんないよ-、なんとかしとくれ-。
 そりゃ一には教育の荒廃だ、青春というものが爪っから先もない。
 青春とは何、男と女とその間に流転三界全世界が入るんだ、箇と全体をつなぐ掛け橋、たとい吹けば飛ぶような将棋の駒だって、男一匹人間一匹これっきゃないんだって、浪花節やれってんじゃない、一度っきりの人生そりゃ虫っけらけものじゃない、人間の人生だ。取り返しの利かないやつ。たとい仏教辺もここから発する、ちっぽけな自我の殻破らなけりゃ、そりゃなに云ったってな-んもなりゃせん。



  日本人の心


 この年だと少しでも物をよくしたいと考えます。どうもやっぱりどん底の世相のような、多少とも日本人の心を取り戻さないと、たいへんだと思います。その為の一でも二でも、どうかいっしょに貧者の一灯を点じて下さい。
 ゼロ戦の坂井さんはすばらしい人です。日本人さむらいのル-ツじゃなくって最後ですか。鍛えに鍛えて視力を6.0 にする、ゼロ戦がすでに時代遅れになった時さえ、勝ちはしなかったけど負けなかった。今の中小企業の持つ技術力は、これを脈脈受け継いで世界に冠たるものと思っています。日本人はどうしてもこれなんです。そうしてこれっきりに終わらない、百年に一度の大器が出るんです。黒沢明や勝海舟のような人です。思想が実際と等価というんですか、手足もってこれに答える以外にない、生きたる証拠の世界です。
 だから中途半端は殺されてしまう-ヨ-ロッパ人のいうように抹殺教育です、思想と人間性のゆとりを見ないという、言語の違いだという、どっちしたって善かれ悪しかれ、どうにもこれ変わらないんです。
 むりやり英語覚えさせたって、英語ができるって顔に書いてある人間しか生まない。乃至はぜんぜん役立たず、なっちゃいない思想家を生む、自分のいうことに責任を持つことを知らない、よくできましたOといわれたいだけだったり、つまりは根無し草なんです。
 これを泳ぎきって大器を待つ、いやそんなおおぎょうなことは先ずおき、いいものをいいと見る素直な目でいいです、一人の勝海舟をみんなで支えて行く、そういう下地を作りたいんです。

 カルトや新興宗教の非常識じゃない、良識です。
 今もっとも欠落しているものです、まずなによりこれを復興せにゃならん、ゆとりある人格というでしょう、そうじゃない、赤貧洗うが如くというのが日本人です、自分のことなんか知らん、つうといえばかあと手を差し伸べるんです。これを恥の文化というんです、罪の意識もなしに、西欧流個人主義というのは、結果ジュラシックパ-クです。どんなことをいい、なに並べ立てたってつまりは、したいやりたい食いたいのてめえ欲望に突っ走るっきり、これじゃ人間は住めない。さまざま豊富な知識も日本人は、実際が伴わないとみんな嘘になる、つまりは間違いの不可知論です。それはこのINにもよく見るところです。ついには何しゃべったろうがその言葉の意味がわからない、生まれることのない卵、生まれようとしたら金属バットのいるガキ世界です。そりゃ老人どもも大同小異という恐ろしい結果です。
 これをなんとかせにゃならんです、逃げてる場合じゃないってアッハッハ。

 ます人格の形成っていうこと、これを教育しつけの眼目にしなけりゃいかん、文部省指導型でない改革です、文部省お役人上級公務員試験て、ありゃ今の教育が生んだどん底社会の旗手=成れの果てです。そんなもん手つけりゃ手つけるほどおかしくなるっきりだ。
 そうじゃない、笑いを取るんじゃなくほんとうにほっと笑うことができるか。村起こしイベントじゃない、神の祭りは自然に対する畏敬の念です。おらとこさ来いじゃなく、おら村と山が好きだ、だ-れも来なくっていいよです、人なんかいらんよってほどです。三流マスコミのうすぎたない面見るより、おいしいご飯です。



   無心の法  


 仏教のことは、まったく始めてっていうのがかえって好都合と思います。仏教という先入主なしに、すんなりもとあるがまんまってことです。

1仏はほどけ<飯田とう陰老師
 自縄自縛している縄をほどけ、ほどき終わればもと仏。仏法として別にあるものじゃないんです、だから習い覚えることじゃない、かえって外す取り去る-捨てる道だと思って下さい。自分とは何かという=自縄自縛の縄、(道徳とか世間事とか宗教だの科学だのなんだのかんだの、今聞いた事実さへそれをもって自分を縛る縄にする、だれに云われたわけでもないのに。)これを従前の心という、では自縄自縛の縄をほどきおわった(ほんのはしっこ一つほどけば全体ほどけるものです。)これを本来心といいます-心に二心あり<心銘。

2仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり<道元禅師正法眼蔵
 仏教が欲しいのか自分のほんらいが欲しいのか、もし仏教が欲しいとなれば、それは百年河清を待つです(仏教というがものはもと存在しないからです、たとい仏教を得て肝心の我が満足しなけりゃな-んもならんです。)~自己を習うなりは、そりゃ他の諸宗もいいます、でも自己を忘れることは、仏教の根本です。これのうしては結局どうもならんです。無心ということなんです、ないものは文句の付けようがない、有るものは絶えずああでもないこうでもない、自己の正当性を主張し続ける、徒労に終わるんです、これを有心といいます。

3仏足石
 ガンダ-ラ以前の仏像というと仏足石といって、石の上に二つ足型が刻んであった、これお釈迦さん如来の足跡です。どういうことかというと、たった今もここにお釈迦さんが立っておいでになるんです、どこに、見えるもの森であり小鳥であり空の雲であり、人であり人家でありする。そうですお釈迦さんです。如来来たる如し、如去去れる如しと同時漢訳される<三蔵法師、これの実際です、ないんです。身心ともになし、悟りはこれを知る、これを得るんです、もと与えられたほんらい空です。無眼耳鼻舌身意です、徹底して知る-忘我です、我を無うしてものみなある、悉皆成仏です。仏足石は、人はだれでも-人以外でもです、その上に乗ることができる。お釈迦さんになって、来たる如しとこうあるんです、群生の永えにこの中に使用する、各々の方面に知覚を残さずと<修証義

4坐禅
 心の問題です、身心をあげての問題です、心が心を扱うことをしていては、いつまでたってもなんにもなりません、速やかにあり明きらめて、対峙を双眠<心銘すべきです、つまりあらゆる一切が、たった一つこの我が身心の辺ということ、他にはない、棺桶に入るのに世間がらくたいらんといったふうです。真に問えばこの身心必ず答えてくれる、他一切いらないってことです。

5仏教は問答のものです、どんな問いにもいつだってお答えいたしますので、どうぞ



   無字公案  


 趙州因みに僧問う、狗子に仏性有りやまた無しや。州云く、無。
 趙州因みに僧問う、狗子に仏性有りやまた無しや。州云く、有。
 二つともたしか無門関にのってたと思います。
 犬に仏性があるか、有るといえば情解に落つ、無いといえば空忍に堕す、さあ云えっていうんです。なかなか一筋縄では行かない。趙州和尚無といって、むうの中にまるっきり消えてしまう、虚空ぜんたい無になっちゃうです。
 古来無門関の第一則たるゆえんはこれです。
「無になって来い。」
 というんです。からすがかあ鶯が-ホケキョでもいいですよ、ほんとうになり切ってやってごらんなさい、でなきゃ生きてる甲斐がない、一生の脇見運転というのです。「む-」
 心機丹田に無の字を置いて、それを見つめ見つめして行く、発心寺無字の公案、不眠不休でやっとったですよ、そのうちばからしくなった、ちえ-おれは人間さまだ、お猿じゃね-んだとかいって飛び出した。
 でもとにかく無の字です、これなんとかせんと仏教もへちまもない、隻手の公案も一隻眼を得るにしたって、みなこの工夫なんです。
まあ便法ですか。

 でもね、近道卻って遠いってことあります、自分というものをほんとうに一掃するには、ただの法手つかずの方法なんです。
 自分をいったん忘れ去る、なぜにってこと知らんきゃだめです、忘我の必然性、悟の一回的、無限とか限界がないとかいっているんでしょう、そりゃ別にそういう首枷かけなきゃいいってだけです。
 有るといえば限界無といえば無限というふうに囚われては、そりゃ失墜しちゃうです。
「ム-」
と一つ我を忘れていってみて下さい、始めて生きたって気になりますよ、そうしてやっと地球のお仲間入りです、仏教の哲学の臭いインキで貴重な紙材よごしたりしないんです、人類総反省ってね、ほおっと太息地球を呑却。



   達磨廓然無聖 


 無心ということは、忘我においては無心をも知らず、念我においては、まったく自分というものなしに、部屋をわたり庭に出で、人とつきあい車を運転しているんです、水の中の水という、面が面のまんまうつりかわって行くような、スピ-ド感にはちょっと変な気がしたりするものです。でもそれでまったく間違いなく行くんです。洞山大師弟子と行くついで、野鴨子の行き過ぎるを見る、鴨が飛んで行った、あれはなんだって弟子に聞く、鴨が飛んで行ったと弟子がいう、その耳ひんねじって、どこへ飛んで行ったとやる。これ仏教知識の人にはまるでわからんです。たんにただ自分が飛んで行くってだけです。雨といっしょに降ったり、手に持った茶碗の中にころっと入っているんです。それがなんの役に立つかという、
「無功徳。」
達磨さんがいう、
「何か役に立たないとだめかい。」
これが仏教の本来なんです、もとあるがようにある、無心の本来です、それに反することしたら、ろくなことがないよっていうんです。仏教にくわしい人が、有無をいい色即是空をいい、ニ-ルバ-ナをいいたとい百方に説いたとしたって、そりゃいわく因縁です、思惑あってのことなんです。
 無心じゃない、ない人にはあるものは、ほんのちらともありゃ映る、ある人有心の人は気がつかない、困ったことになる、そりゃ立ち去る以外にない。

 梁の武帝達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。
 有名な達磨さんの不識です。
 梁の武帝は五胡十六国の時代ですか、一代に建国し孫の代にはもう滅んでしまった、仏教に入れ揚げたせいだというが、敗戦を迎えてさへ敵の王が一睨みでちぢみ上がったというから、なかなかたいしたものだった。仏教の故かも知れない。
 僧をもてなし仏塔を建て、自らも放光般若経というお経を講義した。天花乱墜して、地黄金に変ずという境地を見た、これぞ聖諦俗諦の第一義、きまりっていうんなら、それっきりのものを、どうしても確かめてみたい、三重丸つけて貰いたいわけです。
 そこへのこのこ達磨さんがやって来た。
 なにしろほ仏心印を持つという、活仏だ、ようし引っ張ってこいってわけで、
 如何なるか是れ聖諦第一義。
 とくとくと仏教辺の羅列とおしまい、いやおまえさんっもたいしたもんだと、頭なでてくれると思いきや、
 廓然無聖。
 がらっとしてなんにもないよ、或いは個々別々っていうんですか、どこにもピラミッドなんかないです、まっ平らの平地です。
(そんなはずはない、だって仏教ではないか、地球より重い人間さまより、まだでっかいってのに。)
というわけです、なにかいいことないと納まらぬ気がしている、
(なんだ、活き仏だっていう、こいつはいったい何ものなんだ。)
 朕に対する者は誰そ。おまえはだれだ。
 磨云く、不識。知らない。
 帝かなわず、終に江を渡って少林に至り、面壁九年。
 知らないって、そんなのおまえ、無礼であろうってわけです。そりゃ今これをごらんになっている、おそらく百人が百人、無礼であろうの 梁の武帝です。そうでない人はこの則耳たこだったり。

 でも花をごらんなさい、花におまえはだれだと聞く、知らないって答えるんです。そりゃ花は人語しゃべらないからって、そんなことないです。花がもし、わたしは菊で、いわゆる管巻というやつで、なんのたれがしに育てられて、肥やしはどうで日照時間は云々、上を見りゃ切りもなし下を見りゃ切りもなし、まあこのぐらいでなんていいだしたら、もうそれっきり花を見るのがいやになる。
 なぜか、知らないもっとも親切-ものみな100%なんです。知っている分が嘘です。こりゃ仏教知識じゃないですよ、達磨さんが一番仏教を知らんです。仏祖といわれる人に、議論のネタなんかないです。自分はなんにも知ることない、自分さへまったく知らないんです。人がなにかしらいう、するとそれ違ってるよってことがある、人のよこしまが筒抜け見えるんです、そりゃたいへんだって、たいへんなこた- 悲しく辛いってことあるですよ、醜い、なんともいいようのないあっちこっち、苦笑するよりないです。
 そりゃ花もけものも鳥も、人間妄想の醜さに辛い悲しい思いしてるんです。
 激痛を味わいながら、でも歌い舞いやってるんです、なぜかって無心は傷つかないんです、どんなことになっても損なわないんです。

 達磨さんの正体は、
「知らない」
なんです。どういうことかというと、自分を見ること不可能事を知っている、八方睨みの達磨といって雪舟の傑作があります、あの人唯一人といっていい、無心の風景を描くんです、我無うして見るときに、山水長巻はまさにああゆうふうに見えるんです。
 南面して北斗を見る。
 これが達磨さんの目です。知らないの正体は宇宙一切と同一です、知る必要がないんです、人間という和という花にぽっかり見開いている、わかりますか、仏法のちりの垢なんかつく余地ないです、ただの人ったらこういうこというです。
 達磨さん以外の人み-んな思い上がって、われこそわって他愛ないこと、いたずらにあたりかき濁して平気でいる、なんという無神経殺伐、そんなことするの人間だけなんです、一木一草の微妙さといえば、百日回峰だの余計ことせにゃおさまらん、どうして手つかずの日送りをせぬ。
 少林に至って面壁九年。

 仕方ない、一人っきり坐っておった、そうしたら変なやつが来た、仏の道を聞きたいという、聞きたいたってそんなもん持っておらん、どうせ世間知の色餓鬼めとか、ほったらかしたら、なんと右腕ぶった切ってぬうっと突き出した。
 こりゃむちゃくちゃやりおって、といって振り返った。
 慧可大師一流の学者であり、詩文の大家であった、右腕とはそれぶった切って差し出したんです、命といっしょです。それじゃもう、半分終わってるんです、もとな-んもありゃしない、思い上がった分落ちれば、すでに一件落着。
 あとは自然成を待つ、こりゃだれでも行くんですよ、行かないってそりゃ思い上がる分です、ちらともありゃだめです。わかりますか。
 絵空事いってるんじゃない、思い切ってやってみるんです、仏教が欲しいのか、自分のほんとうが欲しいのか、無常迅速という、では無常迅速とはなんですか、答えられるうちはそりゃだめです、まったく返答に窮したら広大のこの門に入っています。よろしく。



   無色


 無といってな-んにもないの想定するでしょう、するとそりゃな-んにもない空白空間があるんです、無じゃないんです。では無とは何かというと、すべてものみなあるんです、じゃこうしている世間一般と同じかというと、同じといってしまいたいんですが、ちょっと違います。有とはすべてものみなあるところに、こっちの勝手ってのが入る、すると自由空間をこっちの意志で縛る、無が有になる、まあこんなふうなことです、色とは色眼鏡でいいです。こっちの勝手そのものです。どうしてももとあるまんまの無のようには見えない、色眼鏡かけて見る、一切の厄介ごと苦しみはこれによって起こる、てまえ勝手によっておこる、と仏教は示す。

 観自在菩薩-自在に見る菩薩、色眼鏡を外して、じぶんかってのないくもりない目で見る、なんのとらわれもなく見てごらん。
行深般若波羅蜜多-はんにゃはらみったパ-ラミ-タ-彼岸にわたる、もとこの世の中に自分のものったらないんです、このないが無なんです、すべては後念のとってくるところ、名をつけられ目といい鼻といい、音といい匂いといい云々して一個ができあがる、自己を中心にして見る世界です、架空の自己なんです、これをこっちの岸此岸という。行深です、いったんそれをもとのありよう、彼岸あっちの岸に戻して下さい、ぜ-んぶ自分というもの=有る有心です、を明け渡して下さい、そうしてもとの無い無心に立ち返って下さい。
 照見五蘊皆空-五蘊というのは有眼耳鼻舌身意から来る観念概念生活の一切ガッサイ、まあたいていやってることのみんなってやつです。即ち、すべては思い込みであったと知って、
 度一切苦厄-ほんらい空じ切るというんですよ、物心つくからのわんさかどんさか=有-有ると思い込んでいるんです、そいつ汚い重たい臭いってのを脱ぐ、身心脱落といいます、脱ぎ捨ててせいせいするんです、これ以外に仏教なんてないです。
 仏はほどけ、自縄自縛の縄=有る有心、そっくりこれ自分と思い込んでいるものです、をほどいたら仏=無い無心、いまだまったく夢にもみない真我です。



   立ったり寝転んだり坐ったり


立ったり寝転んだり坐ったりが、立ったり寝転んだり坐ったりだけになる。とやこうするとかお釣りが来ない。やるときやるっきゃないという、至極当然過ぎることができていない、だから坐禅をするんです。禅=単を示す。
九このまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば
という良寛さんの歌があります、一つ二つとまりついて十になったのを十でもって百。座禅の数息観の方法です、呼吸にあわせて一つ二つ~十まで数えてこれをくりかえす。
君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじおや
良寛さんの歌に貞心尼が返し、あなたがいなくなったら、たとい百回千回ついたって、ただの一度もほんとうにまりをつくことができない、というんです。
「一つことほんとうにする」~「とやこうお釣りがでる」どうですか、世の中この二つの間にあって、戦争だ平和だいっちゃ、お騒がせ人類地球のお荷物は、一つことやりおおせぬ淋しさ、騒々しさなんです。
違いますか。
単を示す、坐るんなら坐るってこと、坐ってながらあれこれやっている、妄想を追いかけている、心意識ぽっと出る、もはやないはずを追う、あるいは坐っている自分を観察している、自分が自分を観察する不可能事をです、あるいは自分を坐っているなにものかに見做すなどです。だから坐りながら余計なことしている、坐ってるのに坐にならない。
これが問題です。
無心というこれです。ホ-ムラン打つのにバット振るっきゃない、そりゃノウハウいろいろあるけど、バット振るとき、それみんな忘れてないとだめです。とやこうやるにつけうまく行かぬのは、スランプになると自分いじくっていよいよだめ。調子いいときなんも考えない。ほんとうにうまく打つとき忘我、ほとんど覚えていないっていいます。
ここらへんをよくお考え下さい、座禅のノウハウをただひたすら忘我というのはこれです。
ほんとうにやり切るとき自分を忘れているんです。
すると今までよそっことだった環境、風景宇宙というものが不思議-思いの他です-に自分のもの、自分になっている。
夢中の楽しさ、喜びってことあります。
ちゃ-んと内容があるんです。
これねえ、むずかしいだいそれたことでもないかわり、能書きいっくら垂れてもだめだし、人っことじゃない、立ったり寝転んだり、いいか悪いかって自分こってす、そりゃある程度単を示す-一つっきりできると、寝ても起きても常住坐がってことあります。そりゃ当然です。でもはじめは努めて坐ったほうがいい、これのなんたるか-ノウハウがわからんからです。
ノウハウってね、むしろむちゃくちゃなんです、自分に手をつけない、ただ=只管打坐、坐りっぱなすんです、あとさきなし。
アッハッハこ-んな楽なことはない、実際工夫がうまく行けば行くほど楽になります。世間流の楽の三倍方っていっときますか。身心ともに消え失せる実感~自分をまったく観察しないんです。
努めて坐る=好き勝手坐るでいいです、だからどうだいわないんです、ちらっとも気がつくことを狙うっていうんじゃなく、楽しんで行って下さい。
また日常何かある、どんなたまらんことあっても、坐が解決する、我と我がこの身心一つが答えを出すんです、面白いんです、いったんこれを知る、自分のほんらいを知るんです。



   道元禅師空手還郷


道元禅師は十三歳に比叡山に上り、十七歳のころには一切経巻を尽くして、要約するに、
「本来本法性、天然自性心。」
ものみなほんらい仏、手つかずに現れる、ということであった。ではなんにもしなくてもいいか。寝たり起きたりやっていたが、少しもよくない。仏の教えとは何かと、栄西禅師に問う、禅師の答えは、
「三世の諸仏知らず、狸奴白狐かえってこれを知る。」というものであった。仏教について知っている、そいつは狐狸の類さ、仏はな-んにも知らぬというのだ。そりゃその通りで、口を開けば無上迅速だのネハン寂静だのいう人、仏教といううわさ-虎の威を仮って、他をたぶらかすだけの狐狸、仏ほんらい仏を知らず。
だが道元禅師はかなわなかった。一つには説得の不備、一つには御自分も仏教を持ち歩く狐の類であった。
どうしても仏教があって、それから自分、でもこの双頭の蛇は納りつかんのです。どこまで行っても修行の、それらしいお為ごかしをするか、ほんとうに決着をつけるか。
決着をつける、仏教をきわめるという、未だなお仏教というものの延長線上にある。偉い人、とんでもなくありがたい人、道を極めた人を求めに、大宋国へ渡る。
彼が思いを打破する人が見つかるか。
彼が思い、そうです、一人角力をやってるんです、大悟徹底というネタをひっつかんで、なんとしてもどうにかしようとする、いやどうにもなるもんじゃない、そんなやついるもんか、自他ともにどっちも偽やるんです。そのようにして、当るを幸いやっつけて歩く。
外国語でもってまあ達者なこと。
四年してついに諦めて帰ろうとする、天童山の如浄禅師に会う。未だ求める心は失っていなかったんです。これは仏教知識やコネとかっじゃない。ホンモノと知るには欲しいと願う一心だけだ。でないとせっかく出会いながらかなわず、出会ったといって狐狸につく。
「いうてみなさい。」
如浄禅師はいった、総ざらいまくし立てるんです、仏教の知識を総動員すれば、
「それでもってあなたは満足したんですか。」
「しなかったです。」
「では不要のものです、捨てなさい。」
「はい。」
仏教辺を捨てるとほとんど残ってはいなかった、もっとも大事に思うことを捨てる、右腕切ってさしだした慧可大師と同じです、これはとやっているそれを捨てる、すると生まれながらの鼻たれ坊主です。
「食う寝るやりたいもの欲しいという欲望はどうしたらいいんですか。」
「欲望を押さえたいんですか。」
「ある時押さえある時、そうです、忘れています。」
「だったらそれでいいです。」
「いいんでしょうか。」
「欲望にとらわれないことができる、だったらいいじゃないですか。」
「はい。」
どのような質問もついには心のありよう、そのメカニックの問題だ、
「心意識はそりゃ、こっちの自由にゃならんのですよ、どうこうして、たといいいことをもって律しようが、わるいことは避けたろうが、そうするにしたがい、収集がつかない、心意識としての内容じゃないんです、あるときぽっと出る、ほっときゃ消える、その尻尾を押さえてああでもないこうでもないやらんけりゃ、な-んにもないと同じです。」
けだし諸問題これっきりになる、むしろこれを出家というんです、大力量の人にして始めて得るんです。中途半端の人は、いいことしいっていう、仏教周辺事、世間事です、そのあたりを徘徊する、それ取ったら自分なくなる、こわいってわけです。徘徊してもって末は博士か大臣かっていう、うすらみっともないです。
道元禅師はそっくり投げ出す、捨身施虎です、自分なくなる、そうさ(なんにもない)に食われっちまえです。
こわいって、そりゃ死ぬのとまったく同じ。
ついに問法のところ、まったく失せる。
そうして坐っていたんです。
坐っている身心、それを見ているなにがなし、わずかに残っている、それが消え失せる、忘我です。
たまたま隣単の僧の居眠りをとがめて、警策する、ばしっという、三日耳を聾すという、そりゃ指をパチッと鳴らしたろうが、なんでもいいです、これを機縁にはあっと我に返るんです、一念起こる。
すると自分というものがまったくなしにものみなあるんです。
我と有情と悉皆成仏底です。彼岸にわたる、パ-ラミ-タ-向こうへ行っちゃったっきり、向こうへ行きゃこっち岸。
「やったあ。」
っていうんです、そりゃ筆舌に尽くしがたいとこあります、こればっかりは能書きじゃない、自分やってみるっきゃないです。
すっ飛んで行くんです。如浄禅師のもとへ行って、
「身心脱落来。」
身も心も脱落して来ました、とうとうやった、やっつけた得たっていうんです。すると如浄禅師は、
「脱落身心底。」
脱落せる身心底、そりゃ得た得ないじゃない、もとっからこうなんだよ、というんです。
ここに於てまったく納まるんです、如来来たる如しとして、生まれながらにこうあるんです、本来本法性、天然自性心です、でもこれに気がつく必要がある、なほ証せざるは現れずです。気がつく再発見する、それが驚天動地なんです。まあたいていの人天下取ったってやるんです、見るもの聞くもの掌、仏教経典八万四千巻み-んな自分に書いてある、そりゃ当たり前だってこと知らない、自分が先でお経があとです。天狗になるんです、禅天魔といわれるゆえんです。するともう一苦労せにゃならんです。空手還郷にならんです。今度は悟りを握り締める。如浄禅師はこれを除き、さすがに道元禅師は覚るんです。なにものかを得たか、もとっからあるものをなんで得なけりゃならん、じゃなんの為に万里の波頭を超えてたって、そんなこた知らんぞ、故郷に帰るのになんで空手じゃいけないんだ、アッハッハ船に満載のお経が欲しいってかい。
「眼横鼻直にして、他に瞞ぜられず。」
目は横鼻はたてって他な-んもない、しかもだれ出たってたぶらかされない、これ仏教の真髄です、三世の諸仏知らずです、狸奴白虎の類かえって是を知る、他の諸宗みなこれ、そうですよ、何か知るにしたがい議論の種、教義を立てるにしたがいいさかいです。
ちらっともあったらおしまい、手つかずのただの人。
ほんとにただの人なんです。
ただの人になるのに、なんでこんなに大苦労せにゃならぬか、今の和尚トピみたい、じゃなんでもいいってってやらせとくと、わんさか収拾がつかんです、どうしてもいったんキレイさっぱりやらんきゃだめなんです。まあいい証拠品ですか、ばかったいきりだけどもさ。
ア-ケイックスマイルの古代人、洞窟壁画のクロマニオン、巨大ネグロイドとか火炎式土器をこさえた人も、単純で限りなくただの人に近かった。
だからなつかしいんです。感動であり、見れども飽かぬ第二の自然、いいや人間もと手つかずの自然、如来です。正師につくこと、すでについているのに、なんてえ無駄っこと。
そうむずかしいこっちゃないです、今の世こそもっとも大切と思うのに。人間のこれ根本です。



   一つっこと


 春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける
 心象風景とただの風景が一致してるんです、百万の知識よりも石っころ一つってね、そうなあこれ仏教とはほど遠いんだけど、すべての書は読まれたり肉は悲しって語あるでしょう、マラルメだっけかな、あっちこっちじゃない一つっこと尽くしてみなさいよ、そうすると自分しかない世界ってあります、立ち往生するんです、まあ仏の道を知るのにそんな大仰なこたいらんけれども、わたしやってみましたよ、モ-ツアルトと差し違えたです、そうしたらぼろくずのように転がってたです。
 月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな
 自然がいいという、ほんとうに自然を見ているのか、見れども見えずの空き盲ではないのか、どうです、ことはこういう問題なんです、平家なり、太平記には月も出ずって日本語です、どういうこったかわかりますか。
 芸術の喜びだってさ、ばっかじゃなかろか、ピカソでもクレエだって絵一枚のっぴきならぬってことあるよ、ほんとうに絵一枚見たことあるんかな、彼らの絵-ほんものがいいんです、ゴッホなんかとくにそうです-絶句して突っ立つ以外にないんです、冷や汗だらだら目ん玉が氷っちまうってことある。日本画伯だってすごいのいるよ、彼らが一枚にどれほど精力を注ぎ込んだかわかりますか、精力=人生だったです、
 死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
 知識だの議論だのそんなものの取り付く島がないんです、ほんとうの生活があるんです、ものみなそうです。ものみなそうだってことちらとも気がついて下さい、生まれて始めてってことありますよ、始めて自分の人生に手を触れるんです、形而上学じゃないです、現実です。
 日本語の勉強ならつれづれ草がいいよ、正確な論文とはこういうもんだって、ちっとは日本人やってごらん、男の子だめんなったの、説明文学だらだら韻律なしの、自己分析とかやってるからだよ。オナンの精のようにただふりかかるってね、これリルケがまるてベ-ト-ベンを聴いていった言葉です、マルテの手記にあるよ、世界的なデカタンス-まあそうさなあ、あなた流にいえばそういうこった、人も我もそりゃ同じ平地、でもってこれをどうするかの問題だったです、たとい我叫べばとて、天使はだれもそっぽ向いたまんま、リルケはそうですよ、結局失敗したとしかいいようになく。
 なぜか、言葉のせいだって、学生のころ思いましたよ、日本語なら成功する、よおしってね、アッハッハでもってこけの一念でやり通したです、こんなこと仏教には関係ないからいわんだけだ、でも仏教は西欧人が失ったモ-ツアルトを取り戻してくれましたよ。モ-ツアルトなんかいらんです、木の葉っぱ一枚と揺れているんです、これがどんなことか、そりゃ日本語なんかの行きつくこっちゃない。
 濁りなき心の水にすむ月は波も砕けて光とぞなる



   悟りっていうの、物理現象といったほうがいいほどで


 悟りを開くのは開き損なうってことあるかも知れませんが、悟りっていうの、物理現象といったほうがいいほどで、失敗とか無に閉じ込められるとか、ややっこしいこととまったく無縁ですよ。
 忘我というんです、身心ともにないんです、忘我の本来は忘我している自分を知らないんです。一念起こって、つまり忘我から引き返すことあって、はあっと気がつく、このときに自分というものなしに、すべてが存在するのを通身から知るのです。本来終わり初物といって、それっきりのものです。
 無は神であり、無信仰であり、無の部屋でありみ無限地獄云々のことは、悟ではなくそういう思い込みです、自ら囚われているんです、表裏一体とかいって、囚われるところに説明を付け体系化しようとする、妄想が妄想を呼ぶんです。
 悟りはそうじゃないんです。忘我して自分というものからいったんまったく離れると、もとあるまんまケイゲなし、なにごとも取り付くことない、ほんとうの現実があります。

 ですから、
「無は神だったのです」といったとたん「有は神だった」「無は無だった」「無なんかありえない」「そんなこともこんなことも知らない」100通りぐらいの仏語だろうが、聖書の文句だろうが朝飯前ってことです。人間の言葉も思想も、言葉は言葉思想は思想ということです、あってもいいし、なくってもいい、水の辺に文字を書いたってなんにも残らない理屈です。しかもそういうものが壊滅したってこっちゃないんです、強いていえば出入り自由ですか、思想言葉をこっちが使う、使われない、奴隷にならないっていう、当然事です。
「天国と地獄は表裏一体」という、石ころ一つそのようなせまっ苦しいハンチュウにないこと、とくと見て下さい、生まれて三つ四つ、あるいは十のころまで、そんな変な言葉で自分を縛らなかったはず、いや大人になった今のほうが思考分別あって正しいという、そりゃ間違いです。天国も地獄も知らない人-人以外万物みんなそうです、は天国や地獄に悩まないんです、だったらそっちのほうがよっぽど正解です。
 無はないんでしょう、ないものにどうして苦しめられるんです。少なくとも三つの子供はそんなバカなこといわないです。
 ツマラナイモノなんていってみるからつまらない、自分がなにをやっているか、なんてドアホなことをしているか省みるにいいです。この無欠のものを与えられて、とやこうあ-でもないと手枷足かせサドマゾ、だれに頼まれたんでもない、そんなつまらんことないです。



   唯我独尊人


 色即是空の色眼鏡取るに従い、ものみな親しいってことあります。いまだかつてないといって驚くんですが、もとっからこうあるっきりなく、風景は風景さっさと忘れるに及くはないんです。いいわるいじゃない、こういう現象です。もし留意してこれを持とうというなら、そりゃひっかかり妄想になっちゃうです。
「なるほど」
でそれっきりにする。
また、これちらっと見ただけなんです、見ている自分があって、それがとやこう脇見運転するんです。面白くないです。その見ている自分をも失い去るんす。
坐るにはただ坐る、どこまで行っても同じです、なりふりかまわず坐りっぱなす。
糸の切れた凧、ほんとうの唯我独尊人たることを自覚して下さい。これには方法はないんです。もと唯我独尊人だからです。
音と一つになる、面白いでしょう、じき一つになっている、もっとも自分なければ内も外もないんです。テレビのこっちは、こっちってのどだいないんだけど、云うべきって示す必要あってです。そう、あなたのけっこういい線行ってるけどなあ。もっともこれ形影相見るという、あるいは手に持った茶碗の中にそっくり入れという、むかしっから公案手段として用いられたんですが、ほんとうにそうなりゃそれっきりです。でもちらちらっと見る、これ本来こうあるってこと確かめただけなんです。これを持する必要なく-もとこうなんです、だからどうだってこともない、強いて云えば当然てことです。出たり入ったりでもいいです。
いよいよ坐って下さい、そうしてついにこいつを手に入れて下さい。アッハッハぜにもかからんし、こんなにいいことないです。
気にかかってるなら、もう一回でも何度でもやってみりゃいい。でもって仏教というものが他にはまったくないことを知る。膨大な仏教経典がです。わずかに自己を忘れること、この宗ゴウマツ(毛ほどってこと)なれども一切沙界含容す。そうして結局自分とは何か、初発心なんです。



   念我と忘我


茶碗の中にころりと入ること、無眼耳鼻舌身意なんです。自分と思い込んでいる身心があるときふっ消える、ほんらいまるっきりないんです、大には方所を絶し、細には無間に入るといいます。アッハハちょっとこれけっこう難しいんです。わたしの兄弟子がかつて参禅に、いくたび接心やっても同じところへ行く。自分は自分だっていう、あるいはな-んにもないっていうふうでいて、しっくりいかない、どっかお釣りが出るのは、そういってる自分が残るからです。えいこんちくしょう、おれも男だってんで不眠不休で坐り出した。だめだったらいっそ死ねとかいって、井戸の上に板さし渡して坐っておったそうです。なんたってもうめっちゃくちゃです。すると飯台に汁椀を持って、汁を吸い終わったら、そのお椀の中にころっと入っていた。お椀が自分でこっち見ている感じ-
そのあと天下取ったってふうでもって、老師逆さに吊るしていたとかいってた。てめえもちんちくりんのくせに、よく吊るしおったっていたって、うらやましいと思ったです。
自分という垣根が取れるんです、自分がいったん消える、そうするとぴったり納まって、もう元に戻らない分がある、そりゃ身心ともになんです。だからこっち悟ったなんて持って行かずとも、師のほうでわかる。
念我と忘我と行ったり来たりではなく、行って帰るんです。
至り得帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。
とあるとおりです。
でもね、念我と忘我のことは、後にまま問題になって来るんです、たしかに悟った、でもどっかがって思いする人多いんです、これもういっぺんやってみると納まるんですが、結局は念我と忘我の問題ってことあるんです。双方ともに跡形なく消える、どっちもないんですよ。
水鳥の行くも返るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ。ということです。
音と一つんなることからやってみて下さい。



   無
   

 無というもの、ないものを持っているんです、ないんだからないのに、ないがある、アッハッハたいていこれにやられるんです、するとただもうつまんないことになります。
 ない=すべてがある 
 鏡ってないでしょう、だからみ-んな映る、その鏡から枠とかガラス抜いた、つまり自分という身の枠も心というガラスもまったくない人間鏡、これを無というんです。身心脱落は、自分という架空のものが雲散霧消する、枠とガラスが失せるんです、すると、まったく失せたときに、失せた-無ということに気がつかないんです、これを忘我といいます。忘我からはあっと我にかえって悟りなんです。
 物理現象といっていいけれども、物理学の外的操作の届くところではない、薬なんかどんなに発明したってそりゃだめです。
 自分の問題は自分でやるっきゃないです。
 過去なにがあったということを一切勘定しないんです。
 なにがあったと勘定できるということは、悟りから見ると、すべてが失敗できそくない=ただの妄想ということなんです。
 はっきりしてるんです-物理学のように。
 たった一つあって完全に納まり切る、したがって標準は、「これでいいのか」
 と問う、だれかれ悟りをえた仏教はどうのの、見栄も外聞もなく、我と我が身心に聞いて、
「よくない」
といったら、そりゃよくないんです。
 なぜか、というんです、水の中にあって渇きを求めているなにかしらある、そこへ目を向ける、真っ正面に向くとないんです。
 自分はどうだ、ああだという、まずまっさきにそれを捨てる、捨てるとやるせない、立場もプライドもなくなる、つい今までのわたしはという、そのやるせなさ、頼りなさこそ無の門なんです。



   風動幡動 


 六祖禅師五百生の大善知識といわれる所以は、釈尊端坐六年、大迦葉三年身を横たえず、阿難尊者実に二十年といわれる、これを目に一丁字もない人が、往来に応無所住、而生其心と聞いて大悟徹底するところにあります。、仏教ってたった一つしかないんですよ、六祖以来禅門大いに興るところは碧巌録等にくわしいんです、神秀上坐の偈、
 身は是れ菩提樹、
 心は明鏡台の如し、
 時々に務めて払拭せよ、
 塵芥を惹かしむる事勿れ。

に対して六祖禅師は、
 菩提もと樹に非ず、
 明鏡亦台にあらず、
 本来無一物、
 何れの処にか塵芥を惹かん。
といった、これ常識の至るにあらずなんです、むしろ思慮を入れんや、これを得るのに人によっては、どえらい苦労するんですよ、色気が抜けないっていえば、それまでですがね。六祖猟師の仲間に入ってしばらく時を過ごす、あるとき二僧あい争う、風になびく幡を見て、風動くか、幡動くかというんです、六祖出て、風も動かず、幡も動かず、汝が心動くなり。といって論争にけりをつけた、これ以後六祖が世に出るんです。
 風動幡動の則といいます。答えを出してごらんなさい。



   メカ


 そりゃ人間て精妙な機械といっていいんじゃないんですか、内蔵諸器官感覚器官大脳神経、心臓血液骨格皮膚どれとったって、いまなお人知の遠く及ばぬすばらしいメカニックです。どうして心だけが特別なもんですか。心といって残像五蘊を追い求めている、心象風景の際限のなさじゃないですよ、それを仏教では従前の心と呼ぶんです。みなさん方はそこをとっつかまって、わあわあさわいでしる、そりゃそんなものなにどうやったって解決つかんです。そうじゃないもとある心です。たった今使ってるやつですよ。単純なメカニックです。だからこそ必要な手続きすりゃ解決済みなんです。アッハッハわしゃ口を酸っぱくしてそれいってるのに、ほんに今の人って頭わり-のとちゃうかって、いいたくなるよ。いや悪しからず。
 でもってねこれ、心使ってるのが心だから、能書き説明じゃだめなんです、なんしろやってみるっきりないってこと。ぎゃ-ぎゃ-いってるひまにってね。



   ただの人


「 現世の人間の身体は、この世に有る内の肉体と、永遠の命とを持つ魂とに、依って成り立っています、この肉体は、生活道を通して維持されているもの、その他の方法有るや否や?貴方は如何なる方法で、維持されて居りますか、その方法は、この世の全ての人々が使えますか?全ての人々が使えない方法で無ければ、仏の法にあらずなり。
言葉や、文字で悟れるものなれば、現世に来るを認めずなり。
肉体の要らぬ世界で悟れば良い。
わざわざ苦行多きこの世に来た目的は、如何なるものや?」

というのどっかおかしいと思いませんか、心経に無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法とあります。平らにいえば肉体のあるなしをわたしどもは実感できない、というのです。いいかえれば実感できても、あるなしはおろか(どこでどうなって、だから云々)できないというのです。有眼耳鼻身意、有色声香味触法、つまり常日常と思い込んでいる姿は、それは教えられて、習得してそうなった、耳はどこにある、耳で聞く、目で見る、見える、むこうとこっちなどです。色といい声といい味といいみなそうです。
生まれて間もない赤ん坊の生活は、だからわたしども大人とは根本的に違っています。目の前に掌を左右すると、大人はせいぜいが目玉を動かすぐらい、赤ん坊は体ごと左右させる、目を知らぬからです、自他の区別がないからです、17歳になるまで塔に押し込められて、一人っきり生活していた青年が、赤ん坊と同じ生活態度、つまり無眼耳舌身意であったという報告例があります。
ところがこれじゃいわゆる世間生活ができない、したがい観念概念知識を身に付けるんです。手は手足は足、自分と他人、この激痛は痛いということ、痛ければどうなる~痛いことしたら泣く、やっつけるとかです。
眼界乃至意識界という五蘊が生ずる、世間生活の集積回路です。
そこでどうですか、現世の人間の肉体は~永遠の命とを持つ魂云々のお考えは、この五蘊から発生したものではないですか、つまり実際体験がもとになっていない、後念のしからしむるところ、観念上の願いであり架空のものと違いますか、決して満たされるところのない、思想というのか思い込みです。
照見五蘊皆空、度一切苦厄。
これが心経の総論、つまり仏教入門です。
観自在菩薩-自由に見る、なんのとらわれ思い込みもなく、くもりない赤ん坊のようにまっさらです、
行深般若波羅蜜多時-ぱ-らみ-た-彼岸にわたる、こっち岸みんな自分の都合勝手にきめる思い込み世界です、有眼耳鼻舌身意です、それによって起こる自己中心の世界です。それをもとへ帰すんです、無眼耳鼻舌身意のほんらい実感の世界です。
そうしたら、すべての厄介ごと苦しみごとが、な-んだ自分のかってに作っていた、すべては思い込みだったというんです。ありながらにしての有頂天このように楽しいすばらしいという、無上正当菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいの実感です。
ですから、いいですか、あなたのいわれるように、たとい肉体がこうで魂が永遠だろうが、もとそのように備わってこう使っている、永遠といわれようが一瞬だろうが、魂なかろうが、肉体めくそはんかけだろうが、
「はいそうですか。」
「そんなこたいらん」
のどっちでもいい、いわれたとたんに忘れほうけて十分なんです。
維持することも、大法を云々も悟も未悟もない、生活も生活道もそりゃ自ずからです、寝てばっかいりゃそういう結果、頭使えば使ったということ、などいくつかこうあるっきりです。
でもこれ知らなきゃあそりゃ使えんです。
生活教というなら、大死一番して得るほどの一大事因縁。
そうねえそれいうんなら、人間の生活なんてものほんらいないんです。あるのはそういう思い込みっきりです。
悟りがあるといって迷い、ないといって迷い、生活といって言い訳し、現世に来るを認めずたってちゃ-んと如来のくせに、月より花より山川草木より、な-んだかさっぱりの曖昧もこです。つまらんです。
知るとはどういうことだ、達磨の不識ってご存知ですか。達磨さん、おまえはだれかといわれて、
「知らない。」
と答えたんです。
これしか正解はない、知ってる分がみな嘘です。花におまえはだれだって聞いてごらんなさい、知らないっていいます、そりゃ口きけぬからだって、そんなことないです、人間以外たいてい「知らない」ほうに入るんです。
だれが永遠の命などいいます? すでにして永遠の命なら、まさに100%生きてりゃいいです。他になにいるんです。花は花のように咲く、いいわけもだからもいらん、如来来たる如しを=「知らない」っていうんです。
アッハッハ知らないを知る方法とでもいっときますか。要するにもとの木阿弥、まったくただのこの方法=仏教は、ただじゃあ手に入らないんです。
どうしても、まず第一に観念知識、後念根なし草の五蘊どっぷり浸けから、足を洗わにゃだめです。
仏教仏についてちらとも知ってることあれば、それが邪魔して仏になれない。
単純なからくりなんです、アダムとイブの地上の楽園は、もと生まれながらの真実生活-無眼耳鼻舌身意にあったんです、天地宇宙とともにある我と有情と悉皆成仏の実際です。失楽園つまりそこを追われて観念生活に入ったんです。
入れば入るほどに実感がない-淋しい-人みなそうだ-なんとかしたい-宗教理想その他といって、つまり満たされぬこと、不満足楽園に戻りたいというのを、観念の延長上に行なをうとする、そりゃだめです、どこまでいったっていよいよ不満足、たとい地球を支配してみたって、まんがにしかならんです。
そうではない、もとに戻ったら納まるぞと知ったのがお釈迦さんです。いったん元へ戻ってみるんです、すると故郷へ帰ったんす、ぴったり収まりつくってことありますよ。
そうねえ、こりゃ実行の問題心のメカニックです、心経に書いてある通りなんです。
他ないってこと知るのに、真剣勝負ですかナ、まあ。



   究極自分はどうか


 仏教は人間の生み出したものだろうが、仏と仏の道は人間の発見したものです。人類が滅び去っても仏の道はあります。

 福祉をあんまりしない、愛が足りないとかいってるのは、だからまったく見当はずれなんです。大法という、自然の摂理といったら、他に観察者がいるんです、そうじゃない観察者抜きの自然そのものです。これは人間だけを区別しないんです。みんな仲良く平和なんてことは二の次三の次、というよりみんな仲良く平和が、結果どうなるか、大法にそむくこと、自然に反すれば袋小路。それゆえに他の諸宗というんです。キリスト教を独善とみなす。人間を頂点とするピラミッドなんてないです。まして人間に似た神さまなんて噴飯ものです。最後の審判じゃない、たった今です、そりゃもの行なえば審判は下ってるんです、行なわずともです。
 そろそろ人間も宗教ということに、平らに目をやる時だと思っています。三つの子どもの目で見りゃいいです、宗教必要悪といったらいいか、いらんものばっかり多すぎる。
 いったい何故に人間だけが宗教か。
 宗教がなにをもたらしたか、功罪ともにあるとしたって、弊害のほうが矢鱈多すぎはしないか。
 それは何故か。
 思考というものは究極自分はどうかということです。
 あっちこっちの知識-知識とはほんらい自ずからのものです、多煩の知識いいようでいて、断じて当たってないんです-ではない、是非を論ずるのに自分一個ありゃ足りるんです、いらんもないらんとそれっきりです。
 政府がカルト防止法案をいくら作ったって、そりゃ嘘っこんの便法にもならんです。
 カルトと他の諸宗いわゆる旧宗教とは、本質的に区別はないんです。目くそ鼻くそです、旧宗教が国家転覆の過激な時代を脱しているといったって、妥協の皮ぬぎゃやっぱりどくろ面です、他みんなだめってしかない。やること巧妙になったというだけ始末に悪い。
 宗教の別は有心か無心かです。もし有心の宗教であればそれは有害です。
 有心-人間の有意によるんです、そりゃ科学だって同じです、もと一神教の申し子です、いくら厳密だろうが、大統一理論も、ついに得たと思ったらひっくりかえって不毛の砂漠、そりゃ古来物はそういうことなんです、これ知ったら科学も十三歳ぐらいにゃなれる。



   服と不服とは医の科に非ず


 いってわかるやつと、どうしようもないのいて、いってわかるのには、ぶっ叩いても示すんです、
「生活ってなんだあ。」
てのもいいし、黙って坐らせとくのいっちいいし、
「あなたの夢にも見ないことがあります。」
 今までの生活がなんの生活にもなっていなかった、生まれて始めてほんとうってことある、だまされたと思ってという、生活教なら別に仏教なぞいらん、お釈迦さんが出家することなかった、仏の道が常識ごとなら、とっくに歴史の塵になって消えているんです云々。
 でもさなにいったってだめなやつはだめ、今このトピでわあわあしてるの、何が欲しいんじゃない、なあなあ会話ってか喋くってりゃそれでいいやつ、こんなの付ける薬ないよ。
 そうしたら、ハ-イハイといって、ほっとくよりないです。
 仏教はむかしからそうでした、服と不服とは医の科に非ず、説くだけ説いて、その人かなわなければほって置くんです。
 生活教という、その生活に破綻をきたして、はじめて仏にすがるというのが、大昔からの定石パタ-ンでした。今は浅薄な考え、ロボット思考というんですか、知識観念の集積回路っていうだけの、な-んにもならん人いて、そりゃそういう教育の成果なんだろうけど、だからいざってときオウムみたい、ま-るでばからしいカルトにころっとやられる。
 そりゃなんとかせなとは思います。
 でも宗教というのは、本質的に我と我が身心をどうしようかという問題です、ふだんの生活に満足してる人には無縁のものです。
 いくらくわしく知ったろうが、そりゃ隙だらけのてんぷら。
 だってさ、自分はこれでいいかという、命かけるよりないってとこあります、でなかったら役に立たんです。



   丁の字


「知識が乏しく考えもいたらず、経験も浅い人に、むかしのえらい坊さんはどのように導いたか。」
 知識はふだん生活できれば、たといできなくとも十分です。考えはふつうの判断でいい。経験は毎日のありようそのものです。その他の何かを求めたって、特殊能力が身に付くというだけのことです。そうではないんでしょう、あなたそのものです、あるいは大安心という、平らかなことじゃないですか。

 1、むかし百姓のせがれで、目に一丁字もない、つまり文盲の人がいた、何かのおりにこの事あるを知り、大悟徹底といういったん自分を空じきる方法です。どんなにすばらしいものかと思った。どうでもこれを手に入れようとの一心で、中国へわたるんです。師を探し当てた。真剣に求めれば正師はあるんです。師は漢文はおろかかたことも通じない、この人の手を取って、てのひらに丁という+です、を書いて、これといって指さした。この人四年後丁の字に成り切るんです。一言半句通じないたって、師も本人も是です。徹底成仏底を知るんです。師を証明するといいます。帰朝して仙台にある大寺院の創立となった、百姓のせがれが仙台公の菩提を弔う、これ実話です。

 2、香厳という人は非常な学識と、たいへんな秀才であった。仏について説けば、一を聞けば十を知る、目から鼻へ抜けるといったふうで、何いったって答えがある、どうにもこうにもです。師はそこで、
「お前の父母の生まれる前のお前の眉毛はどんなふうであったか。」
と聞いた。香巌はさあわからなくなった。日夜施設して持って行ったって、師はうんといわぬ。とうとうこれしきの問題がわからんようじゃ、とっても僧はつとまらんといって、自ら寺男になって、毎日庭掃きをしていた。あるとき掃いた石が飛んで、竹藪の竹に当たって一音を発する、これによって悟るんです。香巌爆竹の則といって、今に公案になっています。

 どういうことか。もと仏なんです、知識経験のあるなしじゃない、頭のよしあしじゃない、もとどっぷり浸けの仏です。
 だがそれに気がつかない、日常の習慣他我という架空のものを立て、それによって取捨選択愛憎の生活です、自分のほんとうがお留守になっている。香巌の場合は、せっかく大法に出会いながら、自分の知識判断力がかえって邪魔をするんです。
 このとき、
「おれはだめだ、僧なぞつとまらん。」
といって架空の自分を=浮き世の人にとっては自分そのものなんです、九割方免れる、いっぱしの僧になる、これが彼にとってもっとも大切なことだった、かなぐり捨てるんですよ。てのひらに+と書かれて、これだという、ではこれだの一心不乱です。できたといって持って行ったって、師はそりゃできなけりゃうんといえない。師がはっきりしていなけりゃ駄目です。毎日庭掃きの同じことのくりかえし。庭を掃くっきりの生活です。何ができた。庭を掃くとき庭を掃くことができたんです。他の人何やったって中途半端、ああでもないこうでもないでしょう、それがほんとうに一つこと一つになった、忘我。掃いているその自分をまったく忘れ去るということが起こるんです。たまたまコ-ンと竹に石が当たる、はあっと我に帰るんです。すると手足も耳目もまったく失せて、環境と自分が一体化しているんです。
「我なくしてものみな。」
という実感です、人は生まれながらにしてこのようにあった。もと万物の故郷です。そうです、父母未生前のその我が眉毛なんです。
 一切事解決済みを知る。不思議なんですよ、こと終わるんです。だから目に一丁字なくったって、大寺の住職、三界の大導師がつとまるんです。
 他にはない、こういうことがある、どうしてもやってみよう、必要なのはこの気持ちだけです。
 いろんなこといってる間はなんにもならんです。



   真っ正面

 
 これね、そう難しいこっちゃないです、実行の問題なんです、坐ってみると一切が自分でしょう、世間事そりゃあるにしたって、こうして一人こっきり、見渡すかぎり-宇宙一切自分てこってす。
 そうしてね、まずは坐に任す、なにおこったって手を付けないんです、自分の苦しみ不都合はもとちゃ-んと解決済みです、だって過去のことどこにあります、わやわや出てくる妄想を取り扱う必要はない、もとそりゃ根無草です、どうかこの間のことちらっとも手に入れて下さい。
 三つのがきとぜ-んぜん変わらないってことです、オリンピックみてギャアギャアわめいて、次の瞬間別事です、人間てそうできたっきりですよ。それをどっかで余計な操縦してるんです、後ろめたい気がして、こうあらねばならぬとかやってるんです。
 え-いもう止めたって、いっそ自分-人間止めちまうって寸法です。
 だれに頼まれて自分やってるわけでもないってね。
 煩悩の自分が主、煩悩の奴隷ではないんです、煩悩もまっとうな思想もまったく同じです、大脳停止せんかぎり白雲去来です。

 わたしは坐によったです、煩悩を取り扱わない、追っかけ追っかけられない工夫、ただ-只管打坐手を付けないんです、手をつけまいとすると卻って煩瑣とかあるんです、でもあるときころっとできる、な-んにもなくなっちゃうです、煩悩が失せたんじゃない、煩悩を観察する目が消えたんです。だって煩悩を生むやつと、それに煩わされるやつと同一人でしょ。同一人がめでたく一つになっちゃったんです。おしまいってことです。
 これを手つかずの工夫といいます、実感としてはむしろでたらめ、好き勝手に坐る、いい気分になりたいってふう。こうしちゃいけないどうのって自分の坐と喧嘩しない、喧嘩すんなら底抜けにやる、なにやったってやったってことがあるっきり。
 自分と真っ正面に向き合うこと。
 それゆえに何か疵ある、問題ありというなら、そいつと真っ正面に向き合うんです。逃げると追って来るエリ-ニュ-ス、正面切るとそやつがない!



   眠くなる


 痛くなる、飽きる、いやだ、妄想まるけ、すっちゃかめっちゃかなんにもならない、どうにもならない、は-いこれ坐禅の実態、乃至はコツなんてものないっていうおまけ付き。
 どう思います。
 自分というものいつだって自分の手にはおえぬ、自分流になんとかなったと思うのは単なる錯覚、という身心の現実にまざまざと行き合うんです。
 ではどうしたらいい。
 どうしようこうしようとすればするほど、すっちゃかめっちゃか。
 うまくいったというほどに、な-んにもならない、うまくいかないといえば、うまくいってない。見えないはずの自分を眺め暮らすか、とりとめもなく想念を追う。いきがってどうのこうの、してはうすぼんやり眠くなる。これを手付かず。
 自分というものそっくりに、手を付けない、放てば掌に満てり。
 ところがそれができない。
 うまくいったといって手を付け、だめだといって手を付け、見えないはずのものを眺め、想念を追い、だからどうのやる。

 実はそうやっていることだけがある。たった今の自分が全部仕出かしているってことに気がつかない。
 そうしてうまく行かないといってほったらかすか、もうちょっとといってやってみたり。
 只管打坐-ただの坐禅にならない。
(いじくらなくたっていい、あるものそっくり100%用いること。)
 こうと知っって手を引くんです、解脱の解です、とたんにもやもやわんさかぶわっと消えちまう、手をつける=自縄自縛の着物を脱ぐ、手をつけていた自分が失せる-忘我ということがあります。
(いじくらなくたっていい、あるもの100%用い得て妙。)
 それがまずわからない、今の自分じゃなくもっと他にといって求める、そりゃその通りなんだけれども、他に頼ったって仕方がないってことを知らぬ。
 次にわかっちゃいるけど、止められないんです。
 手つかずの工夫ができない。物心ついてより、自分はという手をつける工夫しかして来なかった、そい つを止めろったって、おいそれとは行かぬ事情。
 こいつを突き破るっきりない。

 はいコツは、
「仏のいうすばらしいことがある。」
 それっきりです、ではどうしてもそれを得るんだ、
「できるまでやろう。」
 これっきりです。
 他にちらともコツある=手をつけるです。



   心 


 大切なのはどんな難行苦行も、おぞましい殺人もたとえようもない数々も、心をちらっとも傷つけることができないということです。これを知るんです。すると光明です、触れるものみな救われるってことがあります。
 肯定も否定も身心を挙げてということです。思想としてとか頭ん中口先の交通整理じゃないです。ここをよくごらんになってください。身心を挙げて-ぜんたいで-ただってことです、行けば行った、行かねば行かぬってこと。実はいつもみんなそうやってるんです。しかも肯定だ否定だというと、思想手段をふりまわす、奇妙っていうかなんにもならんです。うるさったいだけなんです。したがい、荒行は荒行、苦行は苦行、寝ているのは寝ている、座禅は座禅の、100%まったく過不足なくこれっこっきりです。
 ところがみんな荒行をしても苦行しても寝ても歩いても、これがこれっこっきりにならない。如来来たる如しにならないんです。するとそのお釣りの分、脇見運転の分地球のお荷物、人間の不幸ってこってす。

 ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば  良寛

 君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや  貞心尼

 良寛さんが鞠をつく、一つ一つほんとうにつき切るんです、仏教はこれしかないんです、形而上学じゃない、乃至は世の中の幸福その他もろもろこれに尽きるというんです。



   これあればかれあり


死刑無期という、これは心のありよう、道徳観念とは一つ別問題として考えたらいいと思います。今のような(犯人加害者温情裁判)だと、今のような(男の子育たない)世の中になる、目には目をのハンムラビ法典だと、そういうものみなばっさりの世の中になる、といったことです。
どっちみち法律裁判とか必要悪なんです。弁護士に自分の良心を弁護して貰う、どう思います、自分とはもっとずっと厳しいものではないですか。法律が人格じゃないです。そんなこと常識だっていうのに、いつのまにか法律にさえ触れねば、裁判に勝てばという、それっきり人格が居座ってないですか。
裁判がでたらめな時代、人は死刑の宣告をどう受けとめたか、そりゃさまざまあります、恨みつらみから、(おれはこういう罪を犯した、でたらめ判決も天の示すところ)と受けとめる、前世の因縁と諦める人、あるいは次代に資すべく何ほどかの努力等-でも人の死ぬるその言やよしってことあります。たとい通り魔だろうが交通事故だろうが、侵すべからざる自分てのあります。
心無けげ-自由ってこってす。
そういうことどっかに忘れてしまってませんか、いつの時代だって人間変わりないです、木の葉も雪も変わりないです、鶯ならたとい死ぬたってホ-ホケキョって鳴きます。
そりゃ社会は住みよくしたほうがいい、でも裁判ごときに心を左右されたかないですよ。
裁判官てこのごろマスコミ世論べったりな、これじゃ陪審員制度したほうがいいよ。
でも陪審員て、ギリシャ悲劇のオレステイアにある、あれね、それは人間だというスフィンクスの謎解きから来ている、日本人になじっまないっていうより、始めっから契約事つまり嘘八だ。



   目で見えるものしかない


目で見えるものしかない、といったらそれで足りるんですよ。実在や真理という念想観の運用じゃないんです、面倒臭い人だねえ、ほんとうに、目を開いて見れば、そこに環境があるでしょう、木の葉っぱでも畳でも紙屑でも窓枠でも、見るとおり聞くとおり触れる味わう-五感にうったえるものです。仏教はそれっきりだといってるんです。他にいろんなこと考えないんです。
環境というこの現実です。形而上学ないんです、思想イデ-イデオロギ-世の中立派そうな、いかにも人間的大切といったようなことないんです。
だからとっつきにくいっちゃ、とっつきにくいんです。天上の音楽をもってこれに誘うんではない、大梵鐘をゴ-ンとやる、汝ら目を覚ませ聞鐘悟道です、ぶっこわすんですよ、自分といううわさ話にどっぷり浸けから、ちらとも実体化です。実体化-自分というその思い込みの垣根を外すんです。
垣根を外す-目で見えるものしかない、この現実と一体化するんです。
(いったん自分を忘れ去ると、もと環境と自分が不可分のものであることがわかる。)
ただこれっきりなんです。
これ思想とか日本語がどうのって、とやこういったってしょうがない、やってみるしかないんです。
「手に持った茶碗の中にころっと入っている。」
といわれたら、ころっと入ってみるんです、それがどういうことで、下らない、仏教と関係ない思想的にはどうのってじゃない。入って見ると面白い、世の中なんか三つ四つ爪っから先って気分になる、気分てそりゃ世間流の気分とえらい違いだけどさ。
なんか空しいねえ、いえばあなた反論のことしか思わんのでしょう、そりゃ反論しようと思ったら、いくらでもできるよ。アッハッハ、これやってみる気になる人は、そりゃまあ思想だのって、たいてい一つっことやり尽くした人だな。世間体のどっかぶち破れないと、いじいじと思い込み人生やってますよ。
どっ汚いお仕着せ脱いでみないと、くっさ-っての分からない、動物の死体と糞とごみあくたとを首飾りにして、首にかけたという、古代インドのたとえがあります、その汚臭腐乱にあるとき気がつく、七転八倒してこれを外そうとする、外れないっていうんです。
気がつかなきゃそれまで。



   和


 和ということをどう思いますか。平和といい戦争というアンチテ-ゼじゃない、だれしもの根本です、原理じゃなくってありようです。平和というイメ-ジングをする、それがすでに間違いと思いませんか。歴史上江戸時代元和エン武の300年は珍しいほうです、しかも無理強い四苦八苦の上の平和ですか、モヘンジョダロの1000年というのは人類の奇跡です、アルタミラ洞窟画のクロマニオン人はもっと平和であった、人類ってどうしようもなくどっか狂ってるんじゃないかって、アッハッハそんなふうに思うんですよ。
 ではなにが平和を妨げているか、弱肉強食の風景論か適者生存の進化論か、いかに人間が説明しようたって不可解、違うんです、不可解をいうその人間ども絶滅したら、即ち平和ってことあります。弱肉強食だろうが適者生存だろうが、いっぱいいっぱいってこと、生態系に時として破綻があったろうが、じき修復する、だからという。でもどうもそんなふうにいってみてもはじまらない。

 雀でもたぬきでも見ていると、食うための生活ってより、よく遊びけっこう傍若無人ですっとんきょうだ。
 食うために生きてるって人間だけだ、野獣のようだってのは人間のこと。
 このまあ進化のいびつから出た毛なし猿、ろくなことせん、どっかまだいびつの完成しとらんてね、春は花夏ほととぎす秋紅葉冬雪降りて涼しかりける、他にいったいなにをあくせく、人間以外み-んなちゃ-んとしてるのに、どうしてっていうんです。

 わたしはこの問題に仏教お釈迦さんが答えたんだと思ってます。
 自分が生み出した思想観念の奴隷になるな、それはろくなことがない、本末転倒事だっていうんです。いったんもとへっ戻そう、そうしたら人間として、ちゃ-んと完成して生まれていることに気がつく、如来来たるが如しというんです。
 考え方を卒業するんです、それが坐禅です、羅漢果を得る方法です、五百羅漢平和の大集団です、眼横鼻直にして他に瞞ぜられず、まるっきりただの人。



   アポリジニ 

 
 オ-ストラリア行ってアポリジニに会って来ましたよ、補助金貰って昼間っから酒飲んでる人いっぱいいた、自信なくして情けない顔してつったってる、立派な体っていうより太りすぎだったりしてさ。ブッシュ歩いてったらエミュ-のつがいがいたです、そいつが優雅に歩く、きっとむかしアポリジニもあんなふうにブッシュ歩いていたんだなあ、美しいチョウチョがいっぱい飛んで、とかげがいてワラビ-がいて毒蛇がいて、それからいろんな昆虫がいて、雨季にはいっせいに花が咲く。ちょうどもののけ姫見たあとで、丘のむこうにアポリジニの真っ黒な顔がにゅっと笑って、でいだらぼっちみたいにつったつ、そういう想像しました。
 ガイド(空手の羽賀)のいうには、つい最近見つかったアポリジニがいて、なんでもキリスト教的日常生活ってんで、お仕着せ着せて食事とかだってさ。いや-な感じしたって、そりゃまそういうの、結局変わらないんだろうがさ、一神教のひとりよがり、牧場という徹底的自然破壊は、ニュ-ジ-ランドのほうがひどい、うんことしょんべんで海岸死んじまって、回遊魚しかよらん、自然は征服すべきものっていう考えは、そりゃ自然保護だなんいったって、根本ずれちまって、親和力わかったってただの和ってのわからないよ。
 マリアン・アンダ-ソンよかったけどキリテ・カナワよくない。

 アポリジニはそりゃどうしたって滅びるさ、むかしに帰るのもむかしの心も無理ってわけだ。パ-スの博物館寄ったらあんなつまらないものないのさ、くじらの骨と風景写真てだけっての、鉱物の標本と化石だとかさ、文化のぶの字もないってやつな、別室にアポリジニの絵があるという、入ろうとしたら準備中だって、でもなんでも押し入ったら、レプリカみたい油絵があっちこっちぶら下がっていた。
 アポリジニは砂の上に描いたんだ、美術鑑賞とか心のハイマ-トとかじゃなくってさ、宇宙と人間の構造そのものみたいなのな、そこでわしらはなにをするかってのな、用事終わればもうおしまいさ、風が吹っ消しちまう、うまくはいえないけど、博物館になんかそりゃ収まりゃせんよ、アポリジニ画伯なんて、個性的とかっての、そんなもんわし信用しないよ。
 あれまおしゃべりしちゃった、早く仕事止めていっしょ旅行しようって、かあちゃんに怒られる、おんもしろいぞ、わたしバ-ジェス欠岩動物の化石拾いやってみた-い。



   単純事実  


 わたしのいってることありがたいこと-観念知識じゃなく、心のメカニズムです。わからないというまえにご自分の心=すべての人の心、でもって確かめて下さい。そう難しいことじゃないです。
 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法とあります、眼も耳も鼻もないっていうんです、どう思われますか、だってあるじゃないかという、はたしてそうか、確かめてみりゃいいです。身体メカニズムとして、眼~身、色~触を知ること不可能に出来上がっています。目はどこにあるか、知らない、目で見ているか、知らない、見ているものと見られているものの区別、知らない等です。知っているとは後から教えられて知っているんです。実感じゃないんです。もとないものをあると思い違えて生きているんです。そこが問題なんです。

 生まれてほどない赤ん坊に対って、指をぱちっと鳴らす、赤ん坊は通身ぶるぶるっとやる、耳で聞こえる~指を鳴らす等の観念がないからです。大人はなんだというんです、何用あってと。
 赤ん坊の前に手を左右する、赤ん坊は体ごと左右する、自他の区別がないんです、目で見る、見ている等の観念の欠如。
 赤ん坊はそりゃ役に立たない、いったん観念知識を得なきゃどうしようもない、でも本当ほんらいは赤ん坊にあるんです、生活の充足感です、もとこのように生まれついている、何不足ない、花のように月のように人もあり、雪月花ともにあり、パンドラの箱なんか開けなくってもいいように、宗教思想その他無用の長物~百害あって一利なしってふうに出来上がっている、でなくばわたしらの存在の意味がない。
 ということを知るのを悟りという、無常正当菩提、あのくたらさんみゃくさんぼだいという、元の木阿弥帰家穏坐底です。
 だれにも一回だけあります-そりゃ当たり前。

 観自在菩薩-自由に見る菩薩、なんのとらわれもない、まっさらに見る、赤ん坊のようにまっさらに見てごらん-般若波羅蜜多を深く行ずる時-はんにゃはらみつパ-ラミ-タ-彼岸に渡るの意、もとまるっきりないものをあると教えられ思い込みです、見る聞く味わう触れる~心があると思い込む=自分があるという思い込みです、そうしてすべては自分中心に考える、これをこっちの岸此岸といいます。もう一回もとへかえす、手放してごらんなさい、行深です、まるっきり手放すんです、すべてはあっちの岸彼岸です。無心の実際です、忘我といいます、あなたが今とやこうといっている、正しかろうが間違っていようが、そういっている自分をいったん忘れ去るんです、あのくたらさんみゃくさんぼだいです。それ以外に道はないことを仏教は端的に説くんです。でなけりゃ何いったってなんにもならん、ただのかす、地球のお荷物ですよ-五蘊は皆空なりと照見して-五蘊有眼耳鼻舌身意から来る観念知識のコングロマリットです、仏教ありありがたやあり、私サイトあり、すべては砂上楼閣です、人はあるものには思い悩まない、ないものをありとする、だから思い悩むんです、五蘊皆空すべては思い込みであると知って-一切苦厄を度したまう-放せば手に満つんです、すべては自分が形作る自縄自縛であった、自分=自縄自縛の縄です、ほどき終わればもと仏。

 仏説にはもとなんにもないんです、心のメカニズム心のありようはこうだから、これに違反したらろくなことがないとそれっきり、ほんらいあるがまんまに満足出来なければ、そりゃどうしよもない、如来=来たる如しなんです、花も如来石っころもごみあくたも如来、だのにどうして人間だけが、というのがお釈迦さんの仏教なんです。

 無眼耳鼻舌身意の無意ということについて、お考え下さい、あなたがたといどんなことを考えようが、そりゃ心としちゃまったく同じこってす、なんで意が無いのか、どうです、意があるとはどういうことです、意を観察するから有るという、では観察する意はどこにあるんです、見る心と見られる心の二分裂、そんなことありっこないです。
 いいですか無心という実体です、これを知らんけりゃ仏はないんです。有心でいくらごたくさいったって、世の中かき濁すっきりです、お釈迦さんに習ってお釈迦さんに違反するんです。
 無心-見る心と見られる心を一つにする-ふわ-っとなんにもなくなっちゃうんです。
 糸の切れた凧の実際です、どのような心の動き~有縁無縁因果等もただそのあるがまんまに行く、ほんらいこれっきりしかないのを知るんです。能書きじゃない、現実です、アッハッハわかりますか。



   考え方


 考え方、一多の際といいます、時所位(時と所による)ということにまず目を付けて欲しいです。
 カルトなど論外ですよ、カルトに入信して一生を終えるのはただの奴隷です、脱会してまっさらになりゃいい、そうでなければやっぱり奴隷のままです。1234いくら考えたって事情はさっぱり変わらんですよ。
「人の命はなによりも尊い」なんてことないです。
「人類滅亡すりゃ地球は即平和」あるいは、「文明人一個死ねば虫も草木もどのくらい助かるか」等、人の見解なんてもの数知れずです。
 飢餓貧困にどう対処すればいい、ひょっとしてあなたもマスコミ風あっちこっちっていうだけではないのか。
 これは実行の問題ではないのか。

 次は質問です。
 1、しばるものと、しばられるもの如何
 2、人真似でないアイデンティティ-ってありますか。
 3、心とは何かというのに、どうして他の意見辞書なぞ引っ張り出すんですか、なぜ我と我が身心に直接問うことをしないんですか。
 4、心とはいったい何かと問うときに、問うている心と問われている心という、二分裂が生じます、1と同じですが、たとい何をするにしても親切心も、宗教心もアイデンティティなるものも、これを免れない。思想分別の多様ではない、実に単純なこのメカニックをどう思いますか。
 5、仏のいう無心とは4の回答です、あれこれとやこうではなく、我と我が身心との直談判です、心とは何か、たった一つの回答があります、カルトも他の宗教思想等五十歩百歩です、自分一個もとあれば、なにものにも惑わされず、自由であり生死眼頭です。自分自身について回答して下さい。肉体精神霊魂などいってみても、そういう噂聞いたふうなことから一歩も出ない、カルトに付け入られる所以です。
 6、なにをどういったってみな現実です、なおざりにしてはいけないと思います、人間の命がなにより大切というなら、たった一つ手の届く自分を真に大切にして下さい。



   スプ-ン曲げ


 わたしに超能力はあるかって、スプ-ン曲げいくらやっても曲がらない、たけし番組超能力バトルに変な酒屋のおっさん出て、自由自在に曲げていた、さしもの大槻教授がぎゃふんたって、真鍮の鍵は曲がらない。どうだってんで得意げな面は、肯定派連中のうさんくさあに共通する、なぜうさんくさかというと、客観的な論理がない、てめえかってにこうだとやっつけるについては、どこかでそれを自分が知っている、ごまかしを何かにすりかえる。人間てのは正直なもので隠すよりは現れる。大槻教授が必死こくのも、その面つきに参っちまうせいだ。生理的に悪いよ。 

 スプ-ン曲げにはトレ-ニングとイメ-ジングが必要だという、超能力あやしい目付きのおっさんがうなずく。
 わたしスプ-ンもってきてやってたんだ、曲がらない、ぜ-んぜんだめ、なにイメ-ジングだと、とたんに気がついてひょいとやったらくにゃと曲がる。アッハッハこりゃ大槻教授に教えてやらにゃ-超能力なんてもんじゃない。
 イメ-ジングが(スプ-ンを曲げるという)一連の動作を圧縮する、無意識のうちに事を運ばせる、かなてこと機械で150kでやっと曲がるなんてことに、びっくらこいてなくてもいい、ちょっとした-あるいは熟練のトレ-ニングで実にスム-ズに行く。+アルファの超能力感覚が後押しというわけだ。真鍮の鍵のように、できないものはできないのが当然。

 こりゃ物理学というより心のメカニックの問題だ、実に簡単に説明がつくから、うさんくさい連中に拍手なんか送らんでいいってこと。
 早稲田の先生ってろくなんいない、だのになんでわんさか押しかけるんだって、ウッヒヒあっちこっち云いふらしていたけど、そういや漱石のむかしっから、学者なんてろくなもんいなかった。中谷宇吉郎は詩人だった。大槻教授も厳密な真面目な面してるぜって、まあどっちでもいいこったけど、超能力があるにして、科学という土俵にまだ上がってないというだけで、大騒ぎするよりそりゃ先駆者の血の滲むような苦労が必要だってこと。まあそういうこったな。
 単純未来予知能力とかあって、受験ときそれでもってパス、むかし見知らぬとこ行って、つまじろうらじゃのめ出るなと思ったら、比較的珍種のつまじろうらじゃのめ出たり。これ人間コンピュ-タ-がちゃんと察知したわけ。
 独参やってると、坐って坐ってやって来た人から、ど-っと風吹いて、うわって感じになったことあったり、指差された背中にぽつんと火傷とか-実際はあとかたもなく、そりゃまあっちこっちあるってばあるけど、どこでもドアっていう超能力欲しい。



   死んで菩提


「信ずるものは、その人にとってただ一つのものでなくてどうするんですか、そんな唯一のものが人それぞれの中に流れている。」
というんでしょう、ではそれを(坐禅という自己の俎板の上に乗せて-もと不必要なんですが)ついには真っ正面に見る。面と向き合うとない、(信じるといって)見ている者も見られている物もない、これが只管打坐の方法なんです。
「信ずるといっている者だれ」
と問うこと、
「唯一のものという時二分裂する、即ち唯一ではない」
あるいは、
「信によって不信が生ずる」
ということです。
 これをまったく手つかずの工夫=生まれついてのただ=如来来たる如しといいます。
自分の思想念想観の延長上にはないんです、まずそれの非を悟る、どうしたってこりゃぶった切る斧ってこってす。
 ぶった切られりゃ痛いんだけど、はあっと気がつくと痛むはずの身心がない。
 わっはっは、耳なしほういちじゃない、無眼耳舌身意な-んにもなしから、皮相の表面ずらを一つ。

 趙州因みに僧問う、如何なるか是れ仏法の真髄。趙云く、汝の云うは真髄に非ず、皮袋ならずや。
 仏の真髄如何と問うんです、なにをどうしたらいい、唯一のものとは何、信不信如何と問うんです。なにをどうしたらOか、これに対して趙州和尚は、お前のいってるのは真髄のこっちゃなくて皮っつらだろうという。

 これ一件落着なんです。
 心とはなんですか。心はどこにありますか。
 人間を一筆書きにしてぐるっと回転すると、皮袋です、自己の立場を擁護するのも、頭にきたこんちくしょうやるのも、これこそ大切なものだ、良心社会正義をいい心理分析同情もです、み-んな皮袋のこってないかいっていうのです。
 なぜってね、人間の感覚器官ないしはそれによっての生活、五蘊はみんなその皮っつらにあるんです。 病気にでもならなければ皮っつらの下は仏ホットケですよ。
 悟とはどういうことか、皮っつら一枚はぐんです。
 すると自分がまったく失せる。
 どういうことかわかりますか。
 平たくいえば宇宙と自分が一体化する。
 もとこのようであったと知る。
 そうするとね、他のどのようにすばらしいことだろうが、そりゃ後からの産物、出入り自由だってことです。バッハすばらしい、だけどバッハを信ずる必要がない。バッハとともに気絶して、次にはもう忘れているんです。
 100%味わって次の瞬間まるっきりない、これが無心です。

 有心は滞るんです、いいわるいをいう、ダカラといって縛るんです、信じれば救われるという、信じても信じなくてもものみな同じなんです、花は花月は月、知らぬは人間ばかりってことあります。
 自分が有心のものって気がついて下さい。有心故に滞ることをです。
 日常なんとなし行っている人は、仏門を叩かないんです、有心にちらとも傷がつく、さあどうしたらいいってわけです。
ほんとうに困ったら答えてくれるんです。
 いうだけアホらしくなっちゃった。そんな人そりゃ数の上では最大多数といったらいいんです。思想観念によらないということが、どうしてもわからない。自分の意見をなでくってくれ、いい子いい子してくれとしかいわない。でもそれじゃなんにもならない。
 同病相憐れむということしないんです。
 おまえもこうだがおれもこうだっていうアッハッハ。たとい正論という=一般的というだれかの物差しによって支えられている、どんなたしかそうなことだって、時代が変わればくるっと変わっちゃうんです。今はもう三年ごとにくるくる変わる。
 いいですか、だから信仰といったって、どこかに無理があるんです。信ずれば信ずるほどダカラの世界です。だからといって絶え間なしに栄養を与えていないと、色あせ固まってしまうんです。集団の力を借りて絶えざる進展という、騒がしいかぎりです、いずれナチスヒットラ-と目くそ鼻くそ。
 そんな無理難題しなくったって、もとあるまんまでよいってことあります、でなかったらわたしらの存在自体無意味です。如来来たる如しの法。



   人類滅びの一途


 CDデスクの自然劣化-寿命は二十年フロッピ-デスクは五年、むかしフィルムのほうが長持ちする、紙は250年~500年、石に刻んだのは雨降り地帯でなきゃ二万年も持つってさ。
 そりゃ困ったもんだ、文明の最先端をどうする、永久保存版など嘘八、マジな記憶はって、-
 そうかねえ、目下のところどうでもいいんじゃん!現代文明なんて記憶すべきもんない。かすくずいやらしIN文化なんて、そりゃにせもん、けっきょくな-んもなりゃせん! 一時の嵐行き過ぎるまで待つ、光デスク二十年もちゃお釣りが来る、うわっはっはだってさ。
 どうだろ、ショホウのご意見いかが。

 モヘンジョダロ、ハラッパ、ド-ラビ-ラのインダス文明ってのテレビ見た。完全な計画都市こさえて、神聖な沐浴場から水路、溜め池下水施設から、ほんとうにうまくこさえてある。そうして子ども~大人の遊び道具、双六とか将棋とかいっぱい出るけど、武器は貧弱で身を守るものしかない。5000年以上の長きを通じて、戦争-戦争による破壊あとが見つかっていない。なんという人々だったろう。たいていみんな平等で、権力者というものがなかった。
 そうさ、近代史のわずか50~100年だって政治のかってな暴走、だれも望まぬ悲惨陰惨、平和といって人類の大半を犠牲にしてのわけもわからぬ繁栄、いやそんなこというだけヤボの、世の中終末すれっからしの、いいとここれっぽっちもない、いやホントどうしてこうなったかって、なんかどっか2-3000年前に狂っちゃったと違うか。
 インダス文明の文字は解読されていない。印章に7~10文字刻むのが残っているっきりだからという。他にない、じゃ解読したってなんにもならないよ。彼らは歴史の虚偽をようく知っていた、進歩発展とか偉人為政者とかいうものの、邪魔にこそなれいったいなんの役にも立たぬことを、ほんとうに確かに知っていた。すばらしい人物像が出土する。祇園精舎もお釈迦さんも、直接の祖先をモヘンジョダロやハラッパに持っていたんだ、そうさ、そんなふうに思うよ。
 人間はこうあるべき、とまさにこうあって何千年。
 きっとお釈迦さんのころから人類滅びの一途ってな-



   ひとりごと


 つまりさ、どうもこれないやつが勝ちっていうんです。なんにもないやつに、なんかいう、鏡に映ると同じ。なにどういったって、自分のうぞうもぞうが映ってしまうっきり。
 もう一つ、わたしは自分のこと-現実あるったけをいうだけ、三つのガキとはこれ。他の人はINコンピュ-タ-持ってて、ポンと押しちゃ関連知識やる、そうしてああいやこうやるんでしょう、そりゃたいへんなこってす、しかも三つのガキについて行けない、だってこっちはただの行き当りばったり。

「宝蔵自ずから開けて、受容如意ならん。」なんて、もっともらしいこというんだけど、ロハってこってす。たとえば、
「道元禅師はかくあり-あるべき」
という、そういうのないんです、眼横鼻直にして他に瞞ぜられずなら、そういうことが自分の上に行なわれていることを知って、忘れるんです。

 だから他を説得の自信なんて、まるっきりないんです。でも他がなにかいうと、ちがうっていうかひっかかるっていうか、別ことやってるから、そうじゃないよってやるんです。
 それからわたしのいうこと、きまりきってるってことです。自然界は単純な公式ってね、イッヒッヒ物理学より倍もはっきりしている仏教公式な。たとい傲慢だって、そりゃそっちが傲慢、謙ったり、対話してもって回る、らしいことする、それ偉いからやる。こっちは事実の他なく、痛いとき痛いっていうがきんちょです。
 裏を見せ表を見せて散る落ち葉
 だめもいいも同じこってす。



   歩きながら 


 歩きながらどうやって歩くか、歩くのになんの意義がある等考えだしたら、ひっくりかえるか立ち往生です。なんの為にこの世にいる-人生いかにとか、人生まっただ中で考える、ついには自殺ってふうです。
 だからこの答えは、考えいじくっている限りはないってことです。歩くときほんとうに歩く、手つかずの歩くこっきりでしょう。

 自分はなんで生きるか、手つかずの生きるこっきり。
 如来というんでしょう、如来来たる如し、悟り終わって悟りなしの人です、元の木阿弥人間、おぎゃあと生まれたこっきり=ものみなを100%味わい尽くす、四の五のいわないんです。如来ははじめ如去とも漢訳されて、しばらく併記したといいます、来たる如し=去れる如し、よくよくこれを見てとって下さい。

 梁の武帝達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。
 仏教気違いの王様が、尊い仏教のほんらい、そのエッセンスは何かと聞いた。達磨さんは、がらっとしてなんにもないよ、個々別々だという。この世のそっくりなんです。尊いもまずいもない。王様たまげて、そういうお前さんは、仏心太子などいわれているが、いったい何者と聞く。達磨さんの答えは、
「知らない。」
です。

 どうですか、花にあなたはだれと聞くと、知らないと答える、でなきゃ見れども飽かぬものにならない。知っている分が嘘です。観念知識の嘘-面白くない、実際の感じがない、ひいてはなんの為にある、人生如何にと考え出す、満足しないからです。
 知らない=如来。
 月は月、花は花、月は月といわず、花は花といわず。これを父母未生前の消息といいます、要するに知っている-観念知識の分-嘘をいっぺん突き破って、もとのとおり、地球宇宙という実際に、生まれたまんまに、立ち返ってみたらというんです。もしこれに満足できなかったら、わたしどもの存在そのものがないんです。

 如来の大自在大歓喜七通八達という、わずかに自分という嘘の殻を抜け出すんです。
 何で自分はこの世に居るか、その答えなんです、答えを出してあまりある、そうなんですよ、生きてこうあることこそ答えなんです、それを知らない、なんていう情けない、ということから仏教は始まる。
 お釈迦さんが如来となってよりの仏教です。

 だから坐禅は坐禅そのものになる道です。人間が人間そのものになる、
「もとっからそのものじゃないか。」
といったって、はあてと首を傾げるっきり、そうじゃないんでしょう、ほんとうにこれと知る、観念知識-嘘を去ってみるとは、忘我の方法なんです。生まれほんらいに立ち返るとは、環境に自分を投げ与えるんです、するとちゃ-んと受けとめるんです。



   チベット仏教 


(カルパ17世がダライ・ラマ14世法王のもとへ来ました、カルパ17世はチベット仏教カギュ-派の最高活仏と聞いています、活仏のいることは輪廻転生があり、霊魂・魂の存在を認めざるを得ない。)
どうですかということなんですが、わたしも新聞知識しかないので、思ったこというっきりで勘弁して下さい。

 そうですねえ、わたしどもの世代はチベット仏教というと、風変わりというかどっか軽蔑の目で見ていたんです。仏教なら間に合っている、他人ごと仮らずでもいいってふうです。インドへ亡命した先代ダライ・ラマですか、仏教タイムズに寄稿して、
「悟のない仏教は仏教とはいえぬ。」
といった、
「おお、こいつはしっかりしているぜ。」
それを見て師がいった。わたしはチベット仏教を見直したんです。
 曹洞宗派は悟もなく、威儀即仏法などいってご都合主義に堕す。
 
 後年オウムの流行ったときに、参禅者がチベット仏教の本を持って来て、ちょっと覗いてみました。
 たしかに悟ということではしっかりしてるんです。
 でもどうもそればっかりじゃないんです、失念しちゃったですが、いろんなことがある。でもそれ、所変われば品変わるんです、風俗習慣に属することと、教壇仏教に関わることと、もう一つ悟りを得たそのもの個人、個人の存続に関わることの三本立て。
部外者、あるいは他宗派には、どうもそぐわないといって捨てるしかない。
「あ-そうか。」
忘れちまう類。
 ほんとうに申し訳ないです、その本読んでみようと思ったら、どっか行っちまったです。

 活仏、達磨さんです、活き仏、自性霊明とあります、幽霊という、幽も霊も奥深く微妙という、もとほんとうのありようの、なんの障りもない筆舌に尽くしがたい、その平らかな様子の形容です。
 いつか幽霊になって、一人歩きするのは、活き仏の廓然無聖です。がらんとしてなんにもないんです。個々別々です。神さまイデオロギ-として、一を取り他を捨て~とっつこうはっつこうがないんです。おまえはだれだといわれて、不識、知らないと答えるんです。自分がない、知らないんです。

 どうですか、ちょっと見幽霊そっくりでしょう。乃至は霊魂・魂にそっくりっていう、あっはっは、幽霊といわず、たましいといわなければ、達磨さんの心にそっくりなんですがね。
 なぜわたしがこんなことをいうか、お考え下さい。

 因みに花におまえはと問えば、知らないって答えるんです。
 花の世界観は人間と違うたって、無上の幸せってことそっくり同じです。
 人間妄想とっつきはっつきの故に、これを損なう。
 さて、それで今あなたが活き仏、達磨さんになったと思って下さい。

 輪廻転生はありますか。霊魂・魂はありますか。
 我と我が身心に聞く、答えは必ずあります。我と我が身心に聞く意外の答えは、そりゃうそなんです、たとい答えたってなんの役にも立たないんです。
 数学の答案じゃないです。
 でもって今達磨さんです、如来来たる如しです。宇宙と自分が同じものです、木の葉っぱ揺らげばこちいも揺らぐ、天上の星も指呼の間という実感です、欠けること何一つないんです。

 どうです、またダライ・ラマになって生まれて来ようと思いますか。
 そんな必要があるんだろうか。
 過現未何億年だろうが爪から先ってね。もういいっていうのが本音だったり。わたし鮫に生まれ変わってやろうなんて、悟りの悪い証拠。六道輪廻、地獄餓鬼修羅畜生人間天上から一歩抜きん出て如来です。するともうふたたび生まれ変わらない、これ実感であり、仏説です。

 お釈迦さんの誕生は、七歩歩んで天上天下指さして、唯我独尊といった、どうですか、六道輪廻を一歩出るんです。そうです、すべての赤ん坊がこう生まれるんです。如来-宇宙の一欠片としてこう生まれるんです。
 輪廻転生だの、霊魂・魂だの人間の勝手で大騒ぎしないで、けっこう毛だらけ猫灰だらけってやつです。

 どうですか、それをダライ・ラマの生まれ変わりとする、正しいことは正しいんでしょう、幾人もの覚者がこれを厳選する、なんのために、物心つくに従い如来釈尊が、世の妄想の虜になる、これを免れることはできない、だったらもう一度如来来たる如しを知る-悟るためには器の大きいほうがいいか、乃至は信仰と教壇発展の為に。
 どうもわたしの預かり知らぬところ、勝手にやってくれといいたくなる。
たしかにいいことはいいんです、霊魂を認めようが、輪廻転生を信じようが、それはいい、でもそれによって影響を受けちゃつまらんのです。
 モンゴルの発展を損なうもの仏教だとしたら、仏教の余計物ってことです、いらんことすりゃとんでもないこと起こるんです。

 輪廻転生と聞いて、人格を予想する、そりゃ間違いです、人格を予想しなかったら、輪廻転生あってもなくても同じ。



   食用人間


 孔子もガンカイだったか弟子の肉食ったっていうから、中国人カンバリニズムやってたんだな。ニュ-ギニヤじゃつい最近までやってたっていうし、尊敬すべき敵の脳味噌食って一体化しようってやつ。純粋に食料として食ってア-メン神様っていったから無罪だって、ほんきに無罪んなっちゃった、航空機事故の毛唐いたな。硫黄島玉砕のとき、おれの肉を食って死守しろ、日本国のためだっといって、怪我した兵が自決したってこと。そうやって守った日本人、ゼロ戦体当たりのつわものとか見たら、なんていうだろうな。ぐえこんなもな全員食肉工場へ送れっていうかも、肉体の価値しかな-んもねえ、あとは害悪ばっかだってな。

 そりゃとにかく、人口100億の世の中、食人制度復活するぜ。人間なんてアンチョコご都合主義で、食用人間、働き蜂、奴隷、セックス用ダッチワイフとか、そんなふうにすりゃ、そりゃ神様がそういうふうにこさえたとかいって、平然やっつけるわけな。動物園水族館だって、もしてめえ檻ん中入れられたらって、ち-とも思わない。人間牧場しか、蛋白質源ねえってなりゃ、はいよってなもんで、いかに効率よく飼うかってのが美徳んなる。食用人間の食い方っての、毎日テレビでやって-アッハッハもう止めた。

 世の中どんすか世襲制階級化してるよ、うちは三百代続いた民主政治家の家系でな-んて、きもいばあさんいうころ、何代だかそ-んなことしらん、うちは最上等ハムんなる家系でって、ほかのくず肉用家畜人間かいば用とか軽蔑の目で見下す。
 家畜人間ヤプ-てのはもっとおおらかってか、おんもちろいとこあったけどさ、とかく現実ってのはやんなることば-っかの、悪貨は良貨を駆逐して行くんであるな。



   歓喜天


 どっか行ったら、じっさにとっつかまって、坊主ってのはなんでも知ってるだろう、だったら十三仏さまの名前みんないってみろっていわれて、往生したことありました。火炎に包まれた不動さんで終わる十三仏さま、掛け軸にかけてお念仏講があって、それでじっさ知ってるんだけど、坊主帰って来て調べて、大日如来にふくうけんじゃく?とかいって、そっくり覚えたらそっくり忘れていました。

 宗門には礼仏といって、百仏千仏三千仏といって、仏名を唱えてお拝する法要があり、維那は別段のことはいわず、
「これ、おまえらん中にみんなあるんだ。」
でけり。
 知りたいんなら本見ろってなもんの-悪しからず。

 歓喜天有頂天とか、笛を吹き舞いを舞いして、雲岡の石窟に描いてありますが、どうです、野っ原に一人草木も歌い雲も歌い、鳥や獣もいっしょになってという、どっか外れた有頂天を思うことできますか。
 お祭り騒ぎのライブでもって、酒を飲んで乱痴気騒ぎでもって、古代デオニュ-ソスの女どもでもいい、バリ島の十六ビ-ト、クラシック音楽だっていい、いろんなことがある、ふっと自分を忘れるんです。
 明日はまた日常に帰る。
 必要な一時なんです。
 これが欲しいために麻薬に走ったりします。

 人は個人と全体の間に揺れ動く。個人ではたいていなんにもできない、ぜんたいだけでは働き蟻と同じだ。
 人間発祥以来の大問題だったんです、個人に目覚める=他のなんやかやどもと一線を画す、即ち人だったんだけれども、どうもちっともうまく行かない。
 ハイルヒットラ-といえば、ぜんたいまとまる。
 思い込みです、強力なハ-ケンクロイツが欲しかった。たった一人であってもぜんたいという、ひょっとしてどこまで行ってもやっぱり思い込み。

 宗教=必要悪っていうんですか。なんたってもう人間の数ほど宗教ってね、そりゃ中国殷の神さまより、人間主義の一神教のほうがいい、でももっとずっとクロマニヨンの洞窟画のほうがいい、-
 そうなんです、これにけりをつけたのが仏教だったんです。
 ヒュ-マンもハ-ケンクロイツもいらない、わずかに忘我、自分という一個人=心失せてもぜんたいがある、ぜんたいという人間の作り出した-思い込みではない、人間を離れたもとっからのぜんたい、帰依という一OO%の如来-来たる如く、去れる如しです。
 忘我=有頂天の歓喜を知るんです。
 ちらとも何かあれば損なう、そこをよくよく見てとって下さい。ちらともある、少ないほど強烈とか、人類の歴史は、実にこの(何かある)お釣りの部分から生み出されて来たんです。

 明星一見して、我と有情と同時成道、個と全体の合一です。三七二十一日の間夢中の歓喜の中にあって、ついに死のうとした、観音大師現れて、その手をとって他が為にせよといった、聖観音ですよ、純粋無雑に他が為にあるんです、
「なぜなら、ひとえに心のメカニックだけで、大歓喜し大自在をえるんです、無上正当菩提です、他にはないんです。」
 死んだらもうそれっきりだといって、お釈迦さんの苦難に満ちた四十年の行脚です。

 観音大師讚に、南面して北斗を見るという語があります、南を向いて北斗星を見る、これを実感として味わって欲しいです、音を観ずる、一音響く世界宇宙全体あるんです、観世音、たとい地球のはしっこの小事件もその一身に起こるんです。十一面観音も首無し観音も同じこと、千手も万手も他に向かって差し伸べるよりないんです、自分がないとは、ぜんたい自分、歓喜の正体これとも、大自在の正体これとも、心というぜんたいです、故にまったく損なわぬものを知るとも、すべての苦しみが自分の苦しみです。
 忍というんです、大慈大悲です。
 だれだってそうできているんです、たといアラシだろうが横レスだろうが、(もとそうできている自分)から免れないんです。

 卍ハ-ケンクロイツは左まわりったって、左卍は向下門といって、もとっから仏教のものだったです。もっともこれ水の流れる様子から来たらしいです、唐草模様もそうですし、火炎土器もそうらしいです。

 せっかくの仏教です、解き放つ方向です、上乗せや金縛りしてハイルヒットラ-じゃない、解脱です、自分というどっ汚い着物をいったん脱ぐんです。着物を脱ぐことならだれにだってできます。
 若い人だって同じです、化石言語ふるって一所懸命やっています、単純きわまりない仏説です、一人でも二人でもほんとうを得て下さい。
 心の問題が急務です、小学生を殺して自殺した人も、九年間監禁男も、わずかに心の持って行きようを知らなかったんです
 人のことは我がことなんです。 


   
   涙 


 飯食って囲碁見て、ベトナムの子に絵描かせるテレビちらっと見たら、絵見せて恥ずかしいって女の子-不意に涙が出る。
 五十年前のわたしら、ど田舎の子そっくりが、恥ずかしいって。
 だれか涙のこと書き込んでいた、坊主一番涙もろいっていったら、笑われるから黙っていたけど、刃にぐさっとやられたように、涙することあります。
 歌を聞くと涙が出るっていう、いつだったか、ブラジルのどっか奥地で、若い女の子が歌手になりたいといって、歌う-へたっくそ、そいつが涙溢れてどうしようもなくって、こっそりトイレ行って拭って来た。

 なぜかって、そんなことわからない、
(人がいるんだよ。)
としかいえない-砂漠の旅にとつぜん。

 オ-ストラリア行ったとき、インドネシア航空に乗って、とつぜん目のやり場に困った、クバ-ヤという花を描いた民族衣装のスチュワ-デスが、
(優しいあのむかしの心。)
を持つ、彼女らの-胸のふくらみの中へ、ぽっかり入ってしまう、そんなことしちゃだめだって、どうしようもない、仕方なくずうっと寝たふりしていた。
 向こうにはそっくり残っている、どうして日本にはなくなった。

 帰りのステュワ-デスはクバ-ヤを着た日本人だった、いやなものを見た、NHKの視聴料払えってのに、童話マンガあった、なめくじが金ぴか衣装着たの、そんなうすっ気味悪さ。
 夢の島ルックみたい、つっぱり化粧したほうがまだ正直だ、だらしない-ナントカ丸出しってとこが取り柄っちゃ取り柄。
 インベイド、異星人に乗っ取られたら、かくもありなんていう、守るべきものがない、売っちまった、心を売ったんです、そうして何が残った、銭金とグッツと暮らしっていう、無惨=なんにも残らないってことに、気がつかない。
 どうですか、そうは思いませんか。

 わたしどものささやかな試みがなんであるか、無心。
 糸の切れた凧って、恥ずかしいっていうがきんちょ、生まれついてに返ること。
 伝統であり文化とはこれ。
 心とは着ている着ものまず脱いでみる。



   常識とは


 これいけない、いいってことじゃないです。常識を守らないと、食み出し者になったり、とんでもないことしたり、常識を守ると、常識倒れになって、胡散くさかったり、世の中遅れを取ったりです。
 常識とは時処位です、常識というそれしきのものです。使ったり使わなかったりするのが、人間の心です。仏教では情識と書きます。それは情のうつろい、妄想情堕によって、ほんとうのことを知らぬからです。

 たとえばこんな常識、

 坊主と先生にはろくなものがいない-そうだっていうでしょう、たしかにそのとおりのことある、でも個々別々ってことある、じゃどうするって、だれかれ使い方間違わないんです。痛烈なとき使って、あと知らん顔。

 世界の四大宗教-だからどれもいい、尊敬すべきだといって、答案の点数稼ぐぐらいのことしかないんです。もし宗教という、身心の救いということになったら、まったくそんなこといってないです。どれか一つっきりない、なぜかって一人が二つってことないです。百人信じようが十億いようが関係ない、関係ある人いるけど、そりゃ不純です、これでいいかってこと先決です。じゃ常識はどうなる、仏道を先にいうと、速やかに世法を捨てて正法に就けといいます。でないと待百年河清です。
 神を信じるったって、そうですよ、契約を守るか、命より先に神さまってことです。でなきゃな-んにもならない、ただの雑念。

 鬼畜米英-これ戦争中の常識だったです、へた反対すると首が飛んだ。

 みんな仲良くふれあい愛-これ今の常識、べったりうそばっかりのくせに、反対すると首が飛ぶよ。

 キリスト教に占領されつつある-これ常識にしようと思ったら、反対ヒジョウに多い、なぜかなあ、だ-れもキリスト教の本質およびノウハウ知らんのに、なぜかO。天皇制と変わりないってより、その何層倍もの手練手管、巨大さっていうのにさ。長いものには巻かれろの常識、巻かれるからには「いいもの」に巻かれろっていう、これも常識。

 いいことはいいからいい-というのが総じて常識の一番の欠陥です。

 ときには革命も必要です。心の急転直下、清水の舞台から飛び降りる、そうです、その楽しさ。
 革命も意識革命も常識化すると同じ。   

 人類歴史の100万年、宗教イデオロ-グノウハウ、世の常識とて、どれを取ったって間違いだらけってことあります。かつてより今の方がいいなんて常識うそ。未来に向かってきっとよくなるなんてありっこない、たいてい同じの人口増える分ただもう悪くなるっきりって、は-てこれ常識?
 
 イッヒヒまた怒られそうだけど、古代宗教いろんな宗教より一神教がいいという、発展して出来たという、その常識おかしいんです。宗教もだけど、ものみないいほど悪いってことある。人間を知らない拷問機械と人間を熟知した拷問機械とどっちを択ぶかって問題-ウハ-またへんなこといっちゃった。
オウムと他宗の違い、他のイデオロギ-との違い-実はだれもこれを指摘できないんです。でなきゃ特別立法なんてややこしいこといらないんです。



   楽しい座禅


「坐禅が楽しいという人がいる、不思議なことだ。」と、言う人がいる。
「坐禅が楽しいという、不思議だ。」
 これ答えなんです。不思議-思う議にあずからず、思想思念の他にというんです、だから楽しいんです、無上の楽しさがあります。

 坐禅をやってみる、足が痛い、ま-るで死ぬ思いがする。ちょっと慣れると妄想頻出して、わけがわからない。とりとめがない。もうちょっと坐って比較的静かになる、すると自分を眺め暮らしている、目は外向きについているのに、なぜか自分という暗影が見える、あるいは真っ暗がり、あるいは深淵のように思い違え。でもって静に入ったなどいってみても、結局なんにもならない。
「坐禅してみたけど、なんにもならない。」
という感想です。

 二三日前にもそういって来た人がいた、
「参考書、仏教解説読んだけど、いっているようにはならない。」
という、どうも十人百人そんなふうです。
どうしたらいいか。
「歩くとき歩くばっかりでしょう、歩き方を観察したり、歩く研究をしていたら、うまく歩けない、いいですか、坐禅のとき坐禅すりゃいいんです、自分を観察してああでもない、こうでもないしない、吐く息吸う息数息観も、ただもう坐るっきり、それがほんとうに出来たとき終わるんです。」

 わたしとしては、こういうっきりなく、只管打坐とは、ただうちすわる、まるっきり手付かずということです。これがそう簡単にはできない。
 なぜか。

 人間もとこうあるっきりなのに、人間とは何か、人間らしくと思案する、どうもマンガみたいことを、だれかれ大真面目にやって、結果間違いだらけってことあります、(ひゅ-まんの追求に答えが出ないこと、よってかくの如し)=人類の歴史って思いませんか。
 やりゃあやるほど、正確に見えれば見えるほどおかしくなっちまう、迷い込んでへんてこりん。
 どうですこれ、坐禅してるときとそっくりでしょう。

 坐禅は温室ですと、先師老師がいった、他日異日必ず花開くと、禅=単を示すと書くんです、わたしどものもとそっくりのありよう、付け足すものなんにもない、これっきりです。

 これがどうできているかというと、心経にあるとおり、五蘊皆空、度一切苦厄です、どんな厄介ごとも苦しみも、妄想なんもかもとっつかない、不染汚という、染みがつかない、なぜならなんにもないからっていうんです。
 なんにもない=無眼耳鼻舌身意です、目がどこにあるか、知らないんです、目で見るということを知らない、見るものと見られるものの区別がつかない、以下同文ってこってす。
 いいですか、目はここにある、目で見ている、そんなの当たり前じゃないかという、でも体にはこれを知る感覚器官はないんです。後念の知識、教えてもらって習い覚えたんです。
 つねる、痛い、でもどこ痛いかわからないなど、これ実感ですからたしかめてみて下さい。
 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法と、わたしどものありようを、改めて記載しなければならないほど、後念の知識観念概念生活に、がんじがらめになっている。

 たしかにそりゃ、音は耳で聞くという知識は必要なんだけど、それによって実際を離れてしまう。
 せっかく単を示そうと思っても、おいそれとそうは行かないんです。
 物心つくとからに、がんじがらめ生活を強いられて来た、それをいったん元へ戻す、ぶち破る必要があるんです。
 でないといつまでたっても、坐禅が坐禅にならない、苦痛と我慢大会ばっかりで、ちっとも楽しくならないんです。

 不思議じゃないからです、妄想を追い-とは無意でない、妄想を生み出す自分がその妄想を追う、有意です、ありっこないことをやっている、苦しみの原因です、人はないものに苦しめられる、しばらく確かめてみて下さい。
 自分を眺め暮らすのも、坐禅はこうあるべき、思想理屈をこねまわすのも同じ二人三脚です、いったんこれを止めるんです、無理強い止めるってじゃんしに、自然に止む、これ只管打坐です、でないと弊害があります。

 一つこっきりになる、思想と自分と同じならな-んもない実感です、ついに忘我。自分を観察しないということが始めです。
 ですから「楽しい」の実際は、坐っていながら(なにしていてもです)自分というものがまったくない、外と内の区別がないんです、じきにそれを見ている自分がないんです、不思議です、たとえようもない平らなふう、度一切苦介の現実です。
 こうなって初めて坐禅が坐禅になるんです、元の木阿弥自分というものの実際を知るんです、如来来たる如しです。

 そう長くはかからないんです。こういうことがあると知って、まっしぐらです、たいてい三カ月も坐っていりゃちらとも気がつくものです。
 ですから、坐っていてなにがあっても、手を付けない、なりふりかまわずってことです、坐すとき坐すっきり、歩くとき歩くってこと忘れている、でないとうまく行かない、坐すとき坐を忘れている、手放しのときそっくり終わるんです。
 乃至は人生思想道徳なんのかのうっとうしいこと、そっくり終わるんです。


   
   キリスト教と仏教は友達になれるか


そりゃ友達になれる、なれないって目くじら立てるこっちゃないけど、そういってちゃ答えにならんです。でもね、人間て変なもので、キリスト教はキリスト教人間、ユダヤ教はユダヤ教人間ての作るんです、らしい人間ですね、お互いの信仰を理解してという付き合い方ですか、一に同じ宗派、二に同じ宗教の別派(しばしば対立抗争-喧嘩はこっちのほうが凄まじいんです)、別宗教、異端、無宗教という順序立てです、日本人は無宗教に寛大ですが、西欧では問題外っていう-信用ならない部類に入れる。
無宗教というんですが、ほんとうに無宗教という人を、わたしは知りません、むしろ多神教といったほうがいい、教育の神様マスコミの神様、一OO円均一の神様、死体おしゃれの神様、生ごみ団子の神様、英語の神様、internetの神様、なんの神様、とかくなんにもならんというだらしなさです。でもって間違った宗教でも、その信者にころっとやられるんです、心の本来性を一番知らない者=無宗教といっている人です。
でもって間違った宗教ほど恐ろしいんです、カルトまで行かなくっても、せっかく生まれついての如来です、花も草木もです、手つかずをデフォルメする、神様-契約というんですか、大人-大人社会の勝手でもって、むりやりねじ曲げる。
「それは間違ってるよ。」
といってそれからです。
それから友達になりたいんです。
クリスチャン-仏教徒の問題も、お互い数多いから、社会の一員だからという先に、
「いったいどういうことだ-もしこれを取れば。」
という根本に、目を向けたいんです。
でなければ、どっかがへんです。
=仏は思想にとらわれない、思想の主人であるというんです、共産主義であろうが、どんな理想、どんなよかりそうな主義主張も、とらわれては本末転倒事、これを声色の奴卑と馳走す(奴隷になって走り回る)というんです。
宗教も思想と同じという、ここに仏教のユニ-クな点があります。
春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける
人間以外に思想宗教をいう者はないんです、人間のそういう特性-実は過ちを取るか、人間以外の一切-実は人間も含む、この地球宇宙の一員となるか、ということとわたしは思っています。
達磨さんに梁の武帝という人が、おまえはだれかと聞いた、達磨さんは「知らない」と答える、達磨の不識というんですが、花に向かって、あなたはだあれと聞いてごらんなさい、「知らない」と答えるんです。だから花は「見れども飽かぬ」花です、人間が自分について知っている分オ-ルうそってこと思い当たって下さい。
悔い改めたってやっぱりうそだったりするんですよ。
そりゃ親友になれないってことないですよ、でも仏教とキリスト教は、似ているとか目的とかいうより、まるっきり別ものなんです。一般常識が間違っているんです。紀元一OO年頃の歴史家が、当時の宗教を、一神教多神教的な(神と契約による、信仰と戒律による)宗教と、(一個の解脱、まったくの自由を得る)仏教とに、大別しています、それほどの常識のない、つまりオ-ムなどののさばる世代です、照顧脚下-足下を顧みるんです、人のふり見て我がふり直せ。「わたしはどうか-わたしにとってどういうことか。」という、これが宗教の眼目です、その他のアップロ-チはないんです。
そりゃ人間ですから不可能なんてことないんです、でも捨てなけりゃならんですよ、キリスト教的なものも、そうでないものもです、いいものほど捨てられないんです、捨てなけりゃ得られない、仏とはほどけといいます、自縄自縛する縄をほどく、ほどき終わればもと仏、自縄自縛の縄=自分であったと気がつくんです、キリスト教が自縄自縛のもう一本の縄であったら、こりゃほどくっきりないんです。愛とは何か、手つかずなんです、少しでも手を付けたら愛憎です、流転三界恩愛不能断、棄恩入無為真実報恩者。これは出家剃髪の偈です、アップロ-チの方法がまったく違うんです、キリスト教は向上なんです、天上の清らかな音楽を奏でる、仏教はぶっこわれです、どん底っていうんですか、ご-んと鐘が鳴ってみんなお釈迦にしちゃうんです、そこからしか始まらない。



   救い


 人間の救いとは何か、本来救われてあるということを知る、なんら手続きのいらない、これ以外にはない、悟とは実にこれを知る、端的に知って他を救いうる。
どういうことかというと、生まれたての赤ん坊、toutetu坊っちゃんが、世間事パアというのに、人を救いうる力を持つ、実にそういうことで、物心つくにしたがい離れて行く、そのすんでにちらとも、
「赤ん坊の君が正しい。」
と、知らせることができたらと思う。けれども知らせることができて、自知するにしたがい、他の一切が身に付かずということが大いにありそうだ。

(この発菩提心、多くは南閻浮の人心に発心すべきなり)という、世間世の中、妄想の渦中にあっての発心という、いったん迷い出てその後にということで、初めて役に立つ。
 この事は実に言語に絶するもので、神による救いをいい、道徳思想をいい、永年にわたってそれらしいことをなし、後生大事の学者硯学も、一宗の長だろうが、弁舌さわやかだろうが、目くそ半欠けだろうが、いかなる権威も一目瞭然。
 ないものにはちらともあればそれが映る、という単純明解な仕掛け。

 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
 パ-ラミ-タ-彼岸にわたる、いったん妄想我田引水の此岸を去って、自分という架空道具です、その邪まにするところをお返しして、もとの木阿弥彼岸にいたる、観自在菩薩、自由自在に見る、なんのくもりもなくまっさらの、赤ん坊のようにです。五蘊皆空と知る、すべてが思い込みであったと知って、一切の苦厄を免れるんです。実に仏教とは、たったこれだけのことで、般若心経のおおむかしから、それっきりに伝わっている、伝わっているに係わらず、わけのわからんありがたや、手を合わせ、八万四千巻のお経とか、仏教大学とか、仏教というきらきらピラミッド、ひいては葬式坊主とか、派生宗派、これは仏教ではない、風俗習慣、しゃば世間に帰属するものだ。

 たとい参禅の人も、(単純を示す)これに参ずるんではなしに、悟身心脱落の噂に参ずる、もと本来に帰るんではなしに、大悟徹底といい解脱人という、祭り上げられたものに至ろうとする、苦労の甲斐がないんです。
 苦労のはては、人にひけらかす他なく。
「こうあるべきだ。」
という他なく。

 老師師家という役者芝居、威儀即仏法という物真似、たまに、
「ちがうんではないか。」
と問えば、どなりまくって、
「だって、先祖代々こうやって来たんだ。」
という、耳をすませて聞いてみるによし。そういうものにひっかからないんです。一生のむだっことです。もっともこの事にせだろうが、ほんものだろうが同じ人間てことで、始末に悪い。

 乃至はかさぶたじっさにならないこと、知識思想は人を豊かにするという、それは知識思想に縛られない人です。主客転倒という、生み出した人間が、生み出したものの奴隷になっている、
(声色の奴卑と馳走す。)
 走り回って一瞬止みまもない、声と色という、見たふう聞いたふうです、いってみりゃ人の食いかす、不消化うんちです、だれはこういった、ものはこうあるべき、かさぶたです、だからそういうものをが使えばいい、使われていたらだめです。  
 一生の猿真似は残酷であり、ついには動脈硬化。

 ものをほんとうに見ることをしない一生なんて、意味ないです。
 ほんとうに見るとは、電子顕微鏡や天文台ではない、大統一理論の至りえ帰り来たるんじゃない、もと生まれたまんまのほんとうです、でなかったら無意味です、記述じゃないんです、ほんとう実際とうことを知って下さい。この五体満足になに付け足したって、不自由なばかりです。
 如来釈尊をあがめたてまつって、自分を卑下し、ついには仏祖をそしり、人もそうだから自分もこうでといって、世の中ついにバスジャックの十七歳を生んだのは、
「そういう自分のせいだ。」
と、ちらっとも思い当たることです。

 この事科学より直接厳密です、心経にまさに示すとうりです、心のありように反することをすれば、結果このとおりということ、実に単純明解です。
 わかったらさっさとやりゃ0ってこってす。
 なんの手続きもいらない。
 根も葉もないんです。



    南宗北宗


 南宗と北宗は、六祖大鑑慧能禅師と神秀上座の逸話でしょう。慧能もと技量なし、樵夫のおっさんであった六祖さんが、つまり六代を継いだんだから、神秀の北禅は付けたし、並び称されるにはちょっとと思うのに、学者が取り上げて今に至っている。実際まったく比較にはならんのです。ただいつの世でも神秀的仏教、あるいは禅というものがあり、禅定力だの、心を練るといい、立派な格好の人格を形成しようとする。実用向きゼニカネってふうです。有心です。無心を説く仏教とは相容れないんです。でも、禅道場といい、師家といい、無心を説きながら実は有心という場合が多いです。したがい、南禅北禅の問題が蒸し返されるってことかと思います。

 五祖禅師の後継に、時の皇后の家庭教師をしたという神秀、人格教養抜群、われこそはと自他ともに認めるところです、とつおいつの末に一偈を壁に貼りつけた。
 身は是れ菩提樹、
 心は明鏡台の如し、
 時々に務めて払拭して、
 塵埃を惹かしむること勿れ。
という、目に一丁字もない六祖禅師、寺童に読んで貰って、そうかそんならおれにも出来るといって、代書して貰って貼りつけた。
 菩提もと樹に非ず、
 明鏡亦台に在らず、
 本来無一物、
 何れの処にか塵埃を惹かん。
とはまあ、こういいたくなるところです。

 身はこれ菩提樹という、仏の道の完成という絵に描いた餅です、自分が自分を観察して、まだまだ、いいやもう少しとか、立派になったとかやる。他人の物差しを借りて推し量るにしたって、じゃそうやって計っている自分はどうなるってことです。二分裂です。しゅんじゅんとやこうする筈です、絶対に結果は出ない。
 よかったり悪かったりの繰り返し、せいぜいがだんだんよくなる法華の太鼓と、そういう自分をなぜくってみるだけです。これが北宗の正体です。
 うすぎたないんですよ。インドの修行者というのもたいてい同類です。いわば人に見せる為の禅であり、立派さ加減なんです。お釈迦さんはそんなことじゃ満足しなかった。何にもならんじゃないかってわけです。

 そうじゃない、菩提もと樹にあらず、そうやって眺めているかぎりは嘘だ、明鏡も台にあらず、おのれ本来なければ、あらゆるものがそっくり映る、たしかに仏の真髄だ、でも真髄ってものがあったら、そりゃ不自由です、ほんものじゃない。
 ここが仏の仏たる所以です。どうも今昔これが大問題です。

 ここを通過するか否か。
 たしかに仏教のいうところ、まさなこの通りと、七通八達、つうかあになりながら、そういっている自分がちらとも残れば、本来無一物にはならない。
 繋げる駒ふくせるネズミです、その綱をほっと切る、ぼかんとな-んにもなくなる、なんにもないという自分がない、文句の付けようがないとは、付ける自分がいないんです。何れの処にか塵埃を惹かん、です。

 これは到達しえた境地ではない、もとのありよう、おぎゃあと生まれたらこうあったんです。それを転倒夢想の故に、自分というお仕着せ-架空を中心として生きて来た、砂上楼閣です。うまく行くはずがない、こっちの岸此岸です。もういっぺん生まれたまんまに戻る、あっちの岸彼岸です。すると不思議にぴったり行く。ふつうなかなか行かない、座禅は忘我の為の手段ですが、手を用いて無理押ししてもよくないです、自然成只管打坐です。六祖禅師は薪を樵って町へ売りに行くという、それっきりに成り終わる、気がついたら応無所住而生其心とこうあったんです。本来無一物ものみなそっくりとこうあったんです。
 わがことまったく終わるんです。

 自分というこれは手付かずでいいということを知る。因みに、
「手つかずでいいから。」
といわれて、自分に手をつけないことが出来ますか。
できない、
「時々に務めて。」
というんです。甲斐がないんです。
 たしかに五体満足、そりゃ不満足でもいいです、心このとおりにあり、付け足したってなんにもならない、付け足しても付け足せず、減らそうにも損なおうにも、これっから先も減らないんです。
 こう出来上がっているからこそ、存在体です。

 如来、来たる如しこれ。
 花も鳥も大空の雲も、人間以外皆如来です、違いますか。妄想観念、手をつける者と付けられる者が同じということ、不必要不都合です。
 即ち何れの所にか塵埃を惹かんと、どうかこれを手に入れて下さい、そうして六祖と神秀のなんたるかを知って下さい。人間とはかくあるという、たったこの南北がオ-ル全部ってことです。どんな人もどっちかってこと、必ず六祖ってことです。



   どうしようも


 テレビをつけたら瀬戸内晴美がお釈迦さまとかいっていた、なんといういや-なみっともない面して、生涯うそばっかりついて来て、な-んでお釈迦さまだあって、てなこというと死刑になるんかな、なんせ勲章貰うっていうから。

 小栗上野之介が群馬県の田舎に引っ込んでたところ、とっつかまって、手下どもといっしょに打ち首になる、無実だって手下ども騒ぐのへ、
「お静かに。」
といって、首切られた。納容としてと、むかしはいったんだ、そいつを俳優のだれかコメントして、
「お静かにという、あれ演ってみたい、万感恨みつらみこもっている。」
だってさ、小栗上野もへんなもんになっちゃった、死ぬとき死ぬっきゃないぐらいのこと知ってなきゃ、いっぱしの仕事出来なかった時代ってあったのにさ。
 そういえば大根役者ばっか増えたな。

 殺人やってみたかった、バスジャック事件とか、がきどものこりゃもう人格以前のこったけど、卑怯残酷ぶっ殺しといてすまなかったなと、そういって相手どう思うってことも知らない、口あんぐり、
「とにかくかかわらぬこと。」
しかなく、アメ-バみたい異星生物な。
 自分にとってどうだっていう理屈しかない、他のこと欠落した青春ての、昭和三十年代の後半、池田内閣の所得倍増あたりから始まって、ついにど底、一つには罪の意識のない利己主義っての、恥の意識の日本捨ててのさばったってこと。生きざまだ美学だふれあいだ愛だの、がきの世界な、がきって差別用語だって、な-にいってんのかね、これもうどうしようもないよ、日本の将来なんてそりゃもう、人はいうだけでな-んもせんしな。

 文部省つぶす、大学は放送大学一本にする、政治はもうだめだから、外国からプロの政治屋一人十億出して二十人ばかり雇う、役人はぜ-んぶコインボックスにして、がっちゃんやりゃぱかっと許認可証とかな。先生と坊主はぜ-んぶ死刑。いらん農地は自然に帰す。マスコミはPRなしのゼニ払ってテレビ見る。裁判官とか弁護士とか中学生にやらせる、ハンムラビ法典する、がきの場合は家族みんな死刑、オウムの親分とか土にいけて竹の鋸で通行人が首引く。
 まあだいたいこんなふうやらんと、どうもならんよ。
 中学生にマシンガン無料で配るってのが、いっち早いかな。



   いいだとういん さん


そうなんですなあ、漱石のころも禅門大いに流行ったんだけど、本来人ほんものと来たら皆無だったんです、無字の公案隻手とかあって、先ずこれを得てという、いったい何を得、何がそれからなんか、正直に自分に聞くことをしない、いっぱしのものになるか、商売道具になるかっていう、卑しい根性っきり、禅道何段とかいう代わり、なんとか禅師の免許皆伝な、あほらしいったら、役者みたい所作したり、公案マニュアルあったり、噴飯ものは白陰禅師のころから、もうおっぱじまっていたです。
飯田木党陰さんという人は、東大医学部インタ-ンであった時、コレラが大流行りして人が大勢死んだ。それを目の当たりして、医学では人は救い切れぬといって、禅門を叩いた。坐中にぶち抜いたそうです、痛烈にやって、ようしってわけです、英国にスペンサ-という哲学者がいた、あいつ偉そうなこといってな-んも知りゃがらん、説得に行こうといって、もう少し坐ってみようと、あっちこっち参禅した。
そうしたら、仇名南天棒という、身の丈二Mもある有名な臨済の宗乗がいて、そいつの常套手段、
「無といわずになんという。」
というのに、ひっかかった。
由来十八年南天棒に参ず、あるとき南天棒とその高足の話を意なく漏れ聞いた。
「飯田居士もずいぶん長い、そろそろ許してやったらどうか。」
「うんそうしようか。」
というんです、木党陰さんこれを聞いて、憤然として袂を分かつ。
「自分で自分が許せぬのに、なんで他人が許せようか。」というのです。100人~10000人の参禅者のうち、これを云い得るもの一個半個。
お釈迦さんと同じなんです、他のだれが是といっても、自分是でなけりゃな-んもならんてこと、三つの子どものように知っていたんです。
参禅とはどういうことか、いつだって初心そのものに帰って問い質す必要があります。
禅定が欲しいのか、大満足が欲しいのか。
仏教が欲しいのか、自分が欲しいのか。
そうだおれはと納得すれば急転直下、いつの世だろうがまったく変わらない真相です、それを何事かことを構えれば、百年河清の遠くて遠いんです。
その代わり、これを得てなんにもならんです、他にひけらかすこともできねば、いっぱしの者にもならず、禅だといって売るどころか、かえってひた隠ししてえへら笑っていたり。
でも、眼横鼻直にして他に瞞ぜられず、まったく微動もせんてことあります、一人暮らして行ければ王候貴族ってね、うっひっひこうやってエロじじい、どっ気違いやってます。日々是好日ってことの本来があります。
飯田木党陰さんは、独力で道元禅師の只管打坐を復活させた。
どこ尋ねたってらしきものはなんにもなかったそうです。独力っていうのは、そりゃ結局独力なんだけれども、なかなかのこってす。
「南天棒仏教のブの字も知らず。」
と、後にいってます。只管打坐、
「初めの悟でよかった。」
ということです、そりゃねどうあったって、まっぱじめでよかったんです。わかりますかこれ、帰り着くところです、自分というものないんです、だれの証明も要らんです、というと我田引水あっちこっちでいけないから、ちゃんとさせる。そりゃま、だれ何いって来たって、一目瞭然てことあります、臨済みたいにパカッとやれりゃ痛快なんだけど、やらなくたってばっさり切ってる、相手切られたこと知らんだけです。戦に負けようが、しっぽ巻いて退散も同じこと。
出会ったら勝負ついている。
木党陰さん医者だったけれど、六十歳大趙州に因んで出家するんです。資格を取るってんで発心寺安居した。大雲祖岳老師が堂頭であった、室に入っていっぺんに透過する、後を譲ろうというの約束が反故になった、仕方ない木党陰さん追ん出て山門前の小屋に住んでいた。朝っぱらから塩引き買って飲んでたら、
「とういんさんこれこれしかじか、罰当たりやってる。」と衷心に及ぶやついる、
「もっての外。」
だってんで祖岳さんやって来て、一睨みされてすごすごって話がある、他にもいろんなのある。
でもな、当時、
「行ない悪かったけど、祖岳さんより木党陰さんの方が力量あった。」
という、そりゃぜんぜん当たってないんです。木党陰さんには仏教あったけど、祖岳さん仏教のブの字もない、あるいは木党陰さんに一物の仏法なく、祖岳さん仏教浸け。
実際沢木興道老師と並び原田祖岳老師、宗門に担がれてもう少しましなとこあったら、今のこの衰退はないんです。残念です。発心寺のでたらめもって、見性禅の悪評判を買う。早く許し過ぎる、あるいはちゃ-んとやっているものを、その上に変な上乗せする。そりゃ味噌の味噌臭きは上味噌にあらずという。でも発酵しなけりゃ味噌にならない。悟のない仏教なんて問題にならんです。ただの常識倒れ。
でも、白陰禅師のむかしから、わからない至らぬ分が難しくなっちゃう、大騒ぎして、騒いだ分だけ偉くなっちゃう、どうもこうもないです。
そんなこといらんです。
わずかに自分に決着つければ足ります。
わたしは、必ず過った方向には行かない指示をします。
くったくなく聞いて、質問して各人かってに坐っていてたいてい十分です。かってにって自分勝手ってこっちゃないです、仏教を付け加えるんじゃなしに、余計物取り去る方向です。何物か形作るんじゃなしに、もとはじめっからある方向です。
つまらん苦労しないことです。



   さわきこうどう さん


仲人やった末寺の若が写真かなんか持って来て、接心前準備の応量器とか見て、お作法はどうの、だからどうのいい出す、うっかり、
「ふりやらしさじゃない、本来ことやってるだけ。」
といっちまったら、ぎゅうと睨みすえて、
「訴えてやる。」
といわんばかりの。
弱ったね、親父神さまにするラゴども(お寺の子)、その親父どの、坊主には珍しく坐禅する、一度うちの坐禅にもやって来て、老師が来ていたころだったが、話はぜんぜんわからない、五日坐ってひげも頭も伸びたのを、「みんなに見せる。」
といって、得意然として帰って行った。笑っちまうんだけれど、
「人に見せるための仏教。」
という以外、それっこそ欠落してな-んもなし。今様人間な。ないっての恐ろしいよ。永平寺風ってんで、えんさうんさ盛り上がってお拝して、お袈裟のかけかたはどうのやる、行事綿密の、威儀即仏法の、そりゃ仲間うちだけ通用ってか、信仰っていう、なあなあいじめだけどさ、雀や蛙大笑いするってやつ。 
「ぶさいくな無駄っこと。」
軍隊の行進みたい、歩調取れな、でもっていくらなんでも、そればからしいから下火になったかというと、はあてなあって、また復活?
だれもそっぽ向いたって、それで飯食えてりゃあんちょこ。
沢木興道さんという、きわめて人のいいだけの、墨染め着たら天下取ったような気分だったとか、行ないすます以外、らしい気分に浸ってる以外な-んもない人いたんだな。
そいつを宗門が担ぎ上げた、ラゴども肉系相続の世の中、仏法だの悟りだのわけのわからんこといってちゃ、一寸も成り立って行かぬ、幸い西有穆禅といういいかげん人物いて、正法眼蔵のどこ捜しても悟りなんて書いてないとか、忘我っての夢中事ご都合主義やって、つまり組織犯罪な、仏教というものを急遽中身空っぽにして、体面だけ保ってりゃいいってことにした。
沢木さんはいなくなってたが、その弟子の内山興正という人に会った。さしでもって肝心なとこに来ると、托鉢してどっかの婆さんがどうのの変な話になる、いったいこいつなんだろうなあと思った。人をおちょくってるんだろうか、だれも好き好んで仏門なんか叩くものか、にっちもさっちも行かなくなった、どうにかしてくれ救ってくれっていってるんだ、それをまあ、-
京都の安泰寺というところだった、若いのがいかのも堂々坐っている、いかにまずい飯食ってるかっていいつのる、そりゃいいけどもさ、だからどうなんだっていうんだけど。
でもな、ことは本物より偽のほうがらしく見える、それに本物は心痛むんだけど、偽物は痛まない。便利あんちょこ、いやもうまさにやりがいがあるってやつ。
人に見せてどうだな-んて、小っ恥ずかしくって、いやはやってな。
そうじゃないっていうんなら、そりゃ新興宗教だよ、お仕着せ人形、いらんこというな無理矢理教な。
沢木さんの坐禅の写真見たけど、ただの見せ物ってっだけ。
そういや、良寛さんのころから坊主はもう猿芝居ばっかり。
もう一人弟子の酒井得元という人にも会った。これは坐って妄想失せるにしたがい、自分を眺め暮らす、このな-んにもならんのをあのくたらさんみゃくさんぼだい-無上正当菩提とする、つまりこれでいいというのだ。
こりゃ噴飯もので、そんなの認めた日には仏教のブの字もなくなっちまう。
お釈迦さん以来命がけの苦労がいったいどこ行っちまうんだ。
でもって長い間こんなふうが宗門主流であった。
若いのの親父はときおり禅問答みたい、変なこというから、問答にもなんにもなっとらんし、ほおっておいたら、いいかげんメッキ剥がれたと思ったら、化けの皮いよいよ背負い込んでいたには恐れ入る。
坊主っていつのまにか偉くなっちまうんだ。
絵に書いた餅の滑稽さが、なんでわかんね-んだろうなあって思うのは、そりゃこっちのこと。
意識の退廃は坊主から起こったな、無心と有心の区別がつかなくなった。
それじゃどこに心の拠所がある。
宗門坊主もひところどうにもならなくなって、ちったあ反省かと思ったら、なにやらまた巻き返す。だめんなった世相となあなあ関係な。こりゃこっちの出る幕じゃないったって、な-にさへらへら笑って孤軍奮闘、ぼろっとやらんよう気を付けねばな。

あっはっは、坊主愚痴っちゃ駄目だな。



   キリスト教


 そりゃ同じ人間のことだから、いろいろあるんです、キリスト教の人の参禅もむかしからあったんです、でももう一つ開けない、なぜか、たとい理論は精緻を尽くしても、理論理屈の上でこれを得ようとする、これは同じように見えて、まるっきり正反対なんです。おそらく、自己の潜在意識の中に神あり、宇宙であるという人も、意識思想の上でこれを確かめようとする、色即是空のこれは色なんです、どこまで行っても空にならない、あるいは空じた時点でキリスト教じゃないんです。仏は知らずといって、自分のとやこうするところを先ず捨てる、まったく捨てきって、しまい万物のこれを証するという、向こうから証明されるんです、だから金剛不壊の確かさです。自己の推量でないから、諸々の弊害を免れるんです。仏の修行のことはじめは、自分からどうこうする、その推量りを止めるんです、これができないと仏教にならない。どうかこの点をお考え下さい。
 一神教またキリスト教の、色=人間の推量です、人間の人間のための、人間による、いいですか、結局どこまで行ってもそうなんです、一神教の子どもである、科学もそうです、ひとりよがりなんです、その弊害は深刻なものがあります、常識ごとを止めて、キリスト教-アングロサクソンに占領された二十世紀という視点で、ものを見たほうがいいんです、自然と対立するっきりの宗教と決めつけるには、あんまり世故に長けていた、-



   常識があるだけです


 参禅に形式しきたりはないんです、四六時中です、寝てるときは叩き起こさない、トイレに入ったらだめという、常識があるだけです、坐るたって摂心暁天坐の他はてんでかってです、一人が熱心に坐ってあと野球やっていたり、作務はみんなでが原則ですが、それだってだれか寝入ってたりします、規則なしなんです、そうでしょう、人間が規則をこさえる以前に、法としてこう、自然として厳然とあるものなんです、乃至は警策でぶっ叩く、やたらどなったりってことないです、自分のことです、ほったらかしをみんな一生懸命なんです、独参てそりゃありますよ、提唱独参なければ、たいていなんにもならんです、曹洞も臨済もそんなものはないんです、ほんとうに法を継ぐか継がないかってことだけです。
 わたしは困ったことに、遊ぶの大好き人間でひまさえあればなんか仕出かすんです、すると弟子どもは、仕方なく付き合って、こんだおまえだ、おれ昨日きのこ取り行ったからとかやっています、麻雀牌を燃えないごみの日に、捨てられたこともあります。
「ちええなんだ、世の中こんな面白いのに、うだうだ能書きたれやがって。」
とかいったって、弟子どもにすりゃとんだ迷惑、でもね、早いとこ決着つけて、
「たたわわ。」
です、いっしょに遊ぼうよっていうんです、一人より二人のほうがいい、二人より三人のほうがいい、月あり花ありオ-ストラリアありペンギンあり南極あり、わあきゃあっていう、なんていうすばらしい世界ですか、それを肩肘張ってつっぱらかって、なんになるんです、たしかに飯食うってことがある、だったらなんとか食って、世間事は世間事という、他なんにもないんです。
 なりふりかまわず、これを取って下さい。
 カ-ブやシンカ-投げてるんじゃないんです、直球だけです、まわりっくどいことはいらんのです。
 インタ-ネットもただの手段です。



   座禅と瞑想の違い 


 座禅と瞑想と、どうせ同一人がするんだから、どっちもどおってことないんだけど、これ目的がまるっきり違うって、区別しといた方がいいです。
 瞑想はそうしている自分を認めている、ということです、あるいはほとんど忘我もどっかで有心のものです。
 座禅は一に忘我を求めるものです、自分というものをいったん忘れ去って、はじめて座禅になるんです。
 ですから、すっからかんというのかな、瞑想とはまるっきり別の味わい-不昧という三昧があります。あるいは瞑想が内と外を区別するのに対して、内外なし、風景の中にぽこんと入っています。
 大には方所を絶し、細には無間に入る、といいます。
 瞑想は訓練すれば巧みになる程のものですが、座禅が座禅になるのは一瞬です、あるいは近似値も結局さまにはならんということがあります。
 無心という、これが心というもののほんとうの姿です、これを知るか否かということです。



   無心


 本来の能力というより、なんにもないっていうこと、能力主義主張の器です、どんな能力もその器なりに備えることができ、いかな主義主張も取ったり外したりできる、エゴとかなんとかでない、人本来そう出来ているんでしょう。
 まっさらな白紙ならなんでも書ける、いろんなこと、あるいはちらっとでも書いてあったら、書き込みに具合が悪い。
 でもってその白紙書いても書いてもまっさら、まっさらのくせに書いたことは、うっかりぽっかりしなけりゃたいてい役立つ。うっかりぽっかりも役立つ。

 どうです、心とはそういうものじゃないですか。
 無心というんですよ。
 無心が本来です、それを有心をもってする、主義主張あり、だから-ねばならぬという、なにかしらを持つ、本末転倒です、それによって使われてしまう。
 これは身心のありようを知る道です。
 エゴになる坊主になるならぬ等でない、

「もとこうあるのを、どうしてか、いつのまにやら迷い出して、わけがわからなくなっている、それをもういっぺんもとに戻そう。」
という試みです。結果は必ず得られます。

 え-とそうですね、般若心経のはじめにこうあります、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
 自由自在に見る菩薩、なんのとらわれもなく見る、見解によらない、主義主張でもって見ないんです、菩薩=あなた、赤ん坊のようにまっさらにというんです。
 般若波羅蜜多、パ-ラミ-タ-彼岸に渡ると訳します。彼岸、ものみな一切自分のものではないんでしょう、自分の生まれる以前からこうあるんです。にもかかわらず物心つくにしたがい、自分というものから物を見る、自分中心に世界が回る。これをこっちの岸此岸という。つまり握り締めたものを手放す、放てば掌に満てり。彼岸に渡る、もとの木阿弥に帰するんです。
 すると照見五蘊皆空、思考したり主張したり、よかったり悪かったり、めちゃくちゃだったり、すばらしかったりのあらゆる一切が、世間=自分の作り事だった、もと根なし草だったと知る。
 自分というこの身心までも架空事だった、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
 度一切苦厄、人の苦しみ厄介ごと一切が、架空事をほんとうとする、自分のものでないのをよこしまにする、ないものを有ると思い違えることによって生ずる。
 こうと知って雲散霧消するというんです。

 理屈は単純なんですが、思いもよらぬふうなんです、因みにわたしは、正師に就いて半年もの間、はてなあってやってました。
 どうしても思想観念の延長上に考えてしまうんです。
 そうでなくって、思想し観念するその主体、心意識そのものの実体なんです。
 実生活何しようと関係ないんです。
 なんていうのかな、人間の基本わざ-もとっからこうある、たまたま気がつかないっていうんですか。



   大乗と小乗


 大乗と小乗ということがあります。大乗とは何か、自分だけでなく世のため人の為といいます、小乗とはなにか、まず自分自身を目指すといいます。

 一に、世のため人のためといって、自分がぱあじゃしょうがない、ヒットラ-だって、世のため人のためってわけです、とくに宗教だというんなら、その弊害も大きいのです、オ-ム他のカルト集団とか、一神教の兄弟喧嘩もあんまり感心しません。ですからどうあってもまず自分です、自分を空っけつにしないことには、することなすこと、自我の影響下、ひとりよがりの色に染むんです。同じ羽根の鳥を集めて、大勢力を目指す他ないんです。
 では、小乗はどうかというに、ではなんの為の修行かということがあります、インドの行者を見ていると、とやこうの教えに従い、立派な人格をこさえて、それを人に見せようというんです、単なる見せものです、つまらないんです。

「おまえも修行すりゃこうなる。」
といわれて、そうなってからお釈迦さんは、
「なんだこれは。」
というんです、
「初めの疑問がちっとも解決されておらんじゃないか。」
という、ついにはこれらを捨てるんです。
 自分をどうにかしようとする、それをです。

 でも初めっから捨てていたんでは、なんにもならなかったりします。一切を捨ててはじめて得るんです。自分だと思い込んでいた架空の自分、絵空事の嘘っこんです、それゆえに苦しみ悩んだ、その自分を捨てるんです。

 真我というとうそっこんみたい、ほんとうの自分とは、おぎゃあと生まれたまんまの、あるいはそれ以前のもとの木阿弥です。
 このもとの木阿弥=ただです。ただの人はなんにもかまえない、持ってるものがない、ひけらかさない=人間です。
 人の間にいるっきりないんですよ、これ大乗の根本なんです、他に大乗ってないんです、強いていえば、人の間にも自然の間にも同じく有るんです。
 だから自性霊明のまっただ中に暮らし尽くす。
 座禅が座禅になるんです、称名が称名になるんです。

 いくら坐ってもいくら唱えてもむだっことってことあります。
 むだっことなくなるまでけっこう苦労するんです。

 達磨面壁九年、万里の波頭を越えて、とくとくとしてやって来たんでしょう、梁の武帝に会う、帝云く、如何なるか是れ聖諦第一義。仏教のエッセンスは何か。磨云く、廓然無聖。がらんとしてなんにもないよ。帝云く、朕に対する者は誰そ。なにをいう、活仏だ仏心太子だ鳴り物入りでやって来た、おまえさんは誰だ。磨云く、不識。知らんよっていうんです。帝かなわず、ついに江を渡って小林に至り、面壁九年。だれもそっぽ向く、へたすりゃ殺されかねない、仕方ない、一人坐っていたんです。
 そうしたら誰かやって来た、ほんとうが欲しいっていうんです、大法が欲しい、きらきらっとまあまた余計もの欲しいってやって来たかってなもんの、知らん顔していたら、右腕ぶったきって差し出すんです。
「そうか。」
といって振り向く。
 大祖慧可大師詩歌文章の権威でした、右腕を切る、つまりそれを捨てたんです、命といっしょに差し出すんです。
 そうして法は伝わったんです。

 一個いりゃそれでいいってこと、そりゃあります。
 自然も人間ことも、ここへ来ればまったく収まるんです。



   仏法


 仏法というものがほんとうに行なわれると、実社会各方面にけいげなく-なんのひっかかりとっかかりもなく行くはずなんです。どのようなものも本質的でないなどいうことなくなるからです、ものみな個々別々というのが、廓然無聖という達磨さんの答えに近いんです、ものの価値判断は時所位といって、その時々によるというのが、仏の教えです。
 だからなんの支えもつっかいぼうもない自分を考えて下さい。仏教がほんとうに行なわれるとは、仏教のない現実です、山川草木どこのもそんなレッテルないんです、どっかにレッテルが貼ってないか、それによって苦しむのは、自分だということ、いらんことだということ。
 偉そうにいってるんですがね、わたしサラリ-マンやったら三日ともたなかったり、そこんところはよくわからんです。
 ぜにかねのことはわたしだって、出来の悪いがき二つ育てましたよ、世の中のことってありますけど、みんなひっくるめて大法なんです、当然でしょう、たといなに面白くったって、もとこの中なんです、他にはないんです。
 出家しようがしまいがです。
 ア-ケイックスマイルってあるでしょう、古代微笑っていう、アポロン像など、
「人類が幸福であった時代。」
と歴史家はいいます、ほんとうに見るからに充足感というか、すばらしいって気がします、でも紀元前だろうが神話世界も、戦争あり残虐ありなんでもありありの時代でした。
「だのにあの幸福。」
ってね、ひょっとして意識それ自体の問題って気がしませんか、ねはんといい、ニ-ルバ-ナもどうも古代微笑の親戚って気がします、なにかまわん、心理学だの資本主義に吸い尽くされてなんにも残らないだの、人口爆発だの、会社人間だの本質だの、マフィヤだの、インドネシアだのなんだかんだの、あったらあったっきりでいいです、そういうのに出入り自由っていう自分です、自分にも出入り自由ってことです。
 ぽかっと楽になるんですよ。
 木の葉同じっていうんですか、いつの時代に生まれたって、だれに負けず生きる権利あります、クロマニオンの壁画ぐらい描いてみたいってね、あっはっは。



   ただの工夫


 知を捨て去るというふうにやったらだめなんです、知識は知識なんです、よくも悪くもないんです、是非善悪もとっから必要なんですよ、でもそれにとらわれない方法なんです。でもってどうするか、考え方であ-でもないこうでもないやったら、むずかしい-収拾がつかなくなるんです。だから坐禅があるんです、けっかふざして坐るでしょう、

一、足腰痛むとかいって、痛まなくなったとかいって、自分を観察している、ないはずの自分が見える等。

二、次から次へ妄想して、それを追いかけている等。

三、うすぼんやりとか半眠り。

四、なにかへんなものが見える。

五、自分がなくなる。

六、とどこまで行っても取り扱っている=とらわれです。

 ですから坐禅とは手つかずの工夫といいます。何起こっても手を付けない、これの工夫=無知の知、あんまりいい語じゃないけど、そういうことです。只管打坐、ただの工夫です、いつかこれが手に入るんです。単純なことなんです。
 とらわれを去る-思考の論理じゃできないってこと先ず知って下さい。とやこう考える即ちとらわれなんです。そうして何が手に入るか、自分自身になるんです。
 仏教が手に入るんじゃない、だから禅の言葉とかいらない、そんなものありっこないんです。
 自分になる=忘我。
 忘我になるには忘我っきりない、他はみんな余計者物です。捨てたつもりになったって、そりゃだめです。



   イデオロギ-


イデオロギ-っていうと、檀家に共産主義いて、たまたまわたしの書いたもの見て、
「なんにもね-なんてばっかいってないで、もっと大事なこと書け。」
といわれて、では書いたものとか見せないようにしてたら、
「共産主義も仏教も同じものだ。」
といいだすから、つい違うといっちゃった、どうもこれいいことはいいっていう、信仰みたいな共産主義、ほっときゃいいのに、とやこういっちゃって、そっぽ向く。
でも日本イデオロギ-って、そういうこと多かったんです、思想=共産主義ってことあった、西洋音楽を聞くのはいいことだ、だから聞く方式の、好き嫌いいいわるいの、まっぱじめがどっかぶっ飛んでいる。
至道無難唯嫌揀択ただ憎愛無ければ洞然として明白なり。という仏教の根本、これは是非善悪に管せず、とらわれない、どんなことからも元まったく自由であるその本質です。
ところがそういうことだからという、お仕着せしたら、思想=共産主義、なんだっていいことはいいからってことになっちまう、臭いものには蓋みたい-なあなあ式、それ自身イデオロ-グってことです。だから日本人に必要なのは、さまざまな思想をちゃんと見る目、憎愛取捨選択が出来る-ノウと云える、ということです。
そうしてもって、これほんとうに出来るってことは、とらわれないってことを知る。
ヨ-ロッパもアングロアメリカもこれ出来ないんですよ、必ず囚われる、とらわれることはよいことだが、連中の基本姿勢なんです。
キリスト教もマホメット教も、どうしたってこれ囚われるというところから始まる。信仰という、こっちの神様絶対ってこと、異端と差別する同じ羽根の鳥。
そりゃイデオロギ-も同じです、イデオロギ-には奇跡とか超個人的夢中の喜び、我を忘れてっての希薄です、その分物足りないかというと、ナチスでもポルポトでもヴォルシェヴィ-キでもまあ集団狂気っていうか、拷問ていうかいろんなことやっている。
イデオロギ-とイデオロギ-殺人と、どんなにすばらしい思想だって、クジラは殺すなといったって、それ信奉しちゃ即殺人てことあります。
恐ろしいんですよ、番外の者は死んでもいいって発想なんです、100人が100人オリバ-・クロムウエルってね。
一神教の人はこれを免れえない、なぜかってこと洋の東西を問わず、考えなきゃならん時です。
たしかにマホメット教のほうが、おっしゃるようによっぽどましってことあります。神について難しいこといわんてだけでもましです。
でもどっちにしてもこれを正確に見極めるには、とらわれない、番外ってことです。番外って、生まれておぎゃあといって番外ですよ、人間意外の地球生物無生物みんな番外地。
もとっこ思想宗教イデオロ-グの戸籍番号ないんです。
東山水上行ってそういうただの風景です、三つの子が月動くか雲動くかってとこです。
思想宗教イデオロギ-に出入り自由っての、日本人の最終兵器、あいまいなあなあじゃないんです、正確に見てこれを利用出来ること、他とらわれ人だろうが、こっち囚われない。
「さまざまあって楽しませてくれてありがとう。」
というふうです。
もっともだからといって、どうでもいいんじゃないんです、囚われ一神教の心の張りっていうか、ダイナミズムよりもっとっぴったりってのなけりゃ、そりゃどうしようもないです。



   近似値


「他人の言葉に真理を求めても無駄、突き放すのも、同情も、それはたかが方便ヒントでしかない、それをどう扱うかが問題。」

 そうかも知れない、「他人の言葉」を雪月花、いや木の葉一枚に置き換えたらどうなります。無駄といい、突き放すといい、同情といい、たかが方便ヒントという、そうやって、
「扱っている自分という余計物」
なんです。
 木の葉っぱといっしょに揺れてりゃいい、これが答えです。
 他人の言葉という、どんな学者が何いおうが、うすらバカがいおうが、子供がわめこうが、その言葉の内容如何に係わらず、なにがどうあったって真相吐露の他にはない-そうは思いませんか。
 なぜかってお互い人間という木の葉一枚です。
 その心意識を心理学とかいってマニュアル化したって、
 うす汚いだけで、いっそなんの役にも立たないということを知る、どうもそこらへんが人間いろはのいじゃないんですか。

「表に見えたり見えなかったり、それを求めて自分が動き回っても空しい。」

んですが-空しくなかったり。
 見えるものは見える、見えないものは見えない、それっきり他なし、しかも自分が空回りする、どう空回りしても不増不減。

「他人の全てを理解することは不可能だと思う、相手だって同じ。」

人の思想の内容を理解したって、うさんくさいだけだ、なぜでしょう、だれの思想だってたいていただの借り物です、他人の物差しにどう振り回されているかという問題があるっきりです。でもって理解しあえた握手とかいって、いったいなにがどうなる、もう面も見たくないとかいう、よくよくお考え下さい、人間は思想の主人です、理解するしないとかいっている、そのとやこうをひょいと入れ替えることができるんです。

「理屈でわかんなくなった所からは、結局信じるしかない~宗教的なことを誰もが日々やっている。」

 そのような面倒な手続きがいらない、手足を動かすのに、ただやってりゃいいんでしょう。
 石っころ一つわかんなくなったからって、信ずる信じないもない、宗教だから月の光が青くなったってことないんです-青くなっちまったり。
「なんかどっかがおかしい。」
そう思いませんか。
 なにがおかしい、自分がいらん情識に振り回されているところがおかしい。
 元はまったくおかしくないんです。



   ただの人


 本物の禅者というものはないんです、ただの人があるんです、なんのとらわれもない、生まれついての、生まれる以前からそのまんま、
「舌頭たたわわとして定まらず。」
といいます、赤ん坊のまっさらです、だから禅の説明、仏教語とかいうと、それだけで嫌気がさすんです、禅語もお経の文句も、右の引用は宝鏡三昧からですが、学者の言説ってのはあてにならないにしても、ぴったりと便利でもって使いますけど、ふだんは禅だろうが、ど田舎ネエちゃんだろうが、からすのかあだろうが、時によっての、見境なしです。
 それでなけりゃ面白くない、生きてる価値ないです。
 モ-ツアルトがいいってばモ-ツアルトだし、きのこ取りしようってばきのこ取りです、そこを、禅ではどうの、仏教はなんていうの、あほくさってこってす。

 ですからどんな問題も痛切な問題であり、宗教や思想という、そんな人間の作り出したものに、してやられるってことないです、赤ん坊の特権ですよ。外部と内部のないのが、たたわわの赤ん坊、禅の視点なんてものあったら、糞詰まりのヘルニヤんなっちまうです。どうですか、禅とかステップとか相対主義とか、未消化うんち止めて、つうかあただの人になりましょうよ。
 
 坐らんけりゃ、座禅にならない。
 これね、ただ単に体得=知るっきゃないことです。
 まずご自分の思想知識というものの、そう絶を待って初めて、禅というものがあるんです。
 たいてい間違えるんです、言説思想がなんかの足しになると思うんです、そういう世界じゃないんです。

 こういうことほんとうにいいたかないんだけど、わたし東大出、でもって脳味噌ごっちゃりにして、出家して、高校中退した二つ下の兄弟子といっしょにいた、毎日議論ふっかけて、爪っから先もかなわなかったの覚えています。
 別に禅や仏教のこっちゃない、わたし専門のドイツ文学(ぜんぜんぱあです、念のため)だっても歯が立たなかった。
 彼は死に別れた両親に会いたいといって出家した、東北の人です、正師を求めて、岩手から浜松まで雲水行脚です、ついに正師に会う、

「おらもうこれで死んでもいいと思ったぜ。」
という、ついにぶったおれるまで坐って、先輩たちに助け出された、
「時節因縁てことあるから。」
「いいや、おれは今が時節因縁だ。」
 という、わたしの出会った時は、すでに十年選手であった、
「どうやら只管の消息。」
 といってにっこり歩いていた、歩々清風起こるその姿を思い出すんです。
 思い出せば涙。



   ちらとも


 ちらとも自分をはなれると、その分だけ喜びがあり自由がある理屈です。自分とは自分という思い込み、自分という自縄自縛の縄なんです。ほんとうの自分は手つかず大自在にこうある、そうと知ることが先ず第一。では自縄自縛の縄をほどくには、どうすればいいか。ああもしようこうもしようという、考え方、こう気がついたどうのという、これみんな縄の一種、ほどくんではなくって縛りつける。仏教はどうかといって、せっかくの仏教も荒縄にしてがんじがらめ。

 そこで坐禅のように、吐く息吸う息のまんまにうち任せという方法があるんです。手つかず本来です、しばろうとする諸縁を休息する、もとあるものに帰るんです、只管打坐という、まるっきりただの工夫です。
 じきにこれ、とやこういっている、あ-でもないこ-でもないやっている間はだめだと気がつく。
 空手故郷に還る、眼横鼻直にして、他に瞞ぜられず。

 今ここに、室生犀星の詩があります。
 故郷は遠きにありて思うもの、
 そして悲しく歌うもの、
 よしや、うらぶれて異土の乞食となるとも、
 帰るところにあるまじや。

 百人が百人おそらくこういうことかと思います。空手で帰って行けるはずの故郷は、錦を飾らないとさあてどうなる。
 うらぶれて異土の乞食となる、そんなのいやだっていう一人二人。
 (故郷を遠くにみて悲しく歌う必要のない)方法です。
 だってどこだって住みゃ雪月花、だんぜんな-んにもいうことない。世間付き合い世間付き合いに任せ、てめえ取り柄と来たら、目はよこ鼻はたてにくっついて、でもってどんなえらいの来たって、だまされもすかされもせんていうんです。
「世間そんなこといわないよ、第一それじゃ悲しい歌うたえん。」
 とかいってみたって始まらないんです。小鳥がぴ-っと鳴きゃそれでおしまい。

 わずかに自分一個の解決です、古来こういう道が残されています。
 仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。



   中庸


(自分は一人で生きて行くわけではありません。他人と接し会って生きて行くわけですから、自分だけに通用する価値観を生み出してもこれまた厄介なのではと思います、中庸が一番なのでしょうか。)

 仏教はこれに十分お答えできるものです。
 暴れん坊の孫呉空が、世界のはてまで飛んで行って、柱が五本あった。そこへ名まえを書いて帰って来た。どんなもんだといったら、観音さまが掌をさし出して、これかいといった、ご存知西遊記の一節です。
 どういうことだと思います。

 どんな価値観、観念思想だろうが、たとい戦争も平和も、歴史哲学イデオロギ-宗教という、とらわれ振り回す-振り回さない、あらゆる一切が、観音さまの掌の上っていうんです。
 人間のやること、場合の数決まっている。
 たとい二十一世紀だろうがさっぱり変わらない、価値観とは何か、時処位というんです、その時その時です。
 今の世こうだから、戦争は悪いだからとかいって、一を取れば他が見えぬ、是非善悪、どんなよかりそうなことでも、囚われてはならぬ、それにぶら下がったらおしまいだっていうんです。

 色声の奴卑と馳走すという語があります。
 色声とは観念知識、価値観思想という、もと人の生み出したものです、あるとき必要であり、あるとき不要であり、一多の際というんですか、功罪かならずある、ばかと鋏は用いようの、その鋏なんです。
 その人間の生み出したものに、生み出した人間が振り回される。
 鋏に振り回されるばか-本末転倒事。

 どうですか、ふだんわれわれのやってることみなこれでしょう。
 卑しい奴隷になって、あたふた走り回って、人を傷つけ騒ぎを惹起こして、しかもそれに気がつかない、自分が戦争の原因なのに、戦争は悪い平和がいいとか、平然といっている。
 なぜか、価値観が主人、価値観を見極めるはずの、こっちが客だからです。
 そんなことあっていいはずもないんです。

 中庸とは何か、中庸なんてあるわけがない、自分とものみなとこうあるだけだ、世の中の思想分別は一片の木の葉に及かぬとは、思想分別たといどんな天才の生み出したものまで、観音さまの掌と知って、三つの幼子のようにまっさらに見る目です。
 人は百人百様あるという、人から思想宗教価値観をさっぴいたら、さっぴかなくっても、みんな観音さまの掌っていう、百人百様の面白さが残るっきりでしょう。
 だれの家にもずぱっと入って行って、いらん手続きがない、和南すというんです、和尚というこれが本来の意味-ただの死出虫稼業になり終わったり。
 そうしてこれを知るには、いったん自分というものを去る、観念知識に囚われる、そのど真ん中を失うんです。忘我の方法です。
 観音さまって、別にあるもんじゃない、あなたそのものだっていうことです。
 これに気がつくのに、いいの悪いの観念知識じゃ、百年河清を待つ、どうもこうもならんということです。
 
 だから仏教のこの事は、常識の至るに非ず、むしろ思慮を容れんやという、もとっこの自分、生まれついての観音さまに帰る、へたな考え休むに似たりです。
 この故にむかしっから、思想とか他人の物差しに愛想つかした者が入る、無門の門。
 あるいは、ぎゃあぎゃあいってないで一つこと、ほんとうにやろうとする、ついにはこれっきゃないんです。



   夢幻-未だかつて知らず


 虚空青空なければ、ものみな一切そのもの。夢の如く幻の如しとは、現実であればあるほど夢という、いいですか、自分を顧みる、あれはどうだった、だからおれはとかやってないそのものずばりの時、ほとんど記憶がないんです。現実感という追憶現象じゃない、たった今100%はかえって夢のようなんです。夢幻というほどに、驚天動地の現実感。一年三百六十五日夢とは、この実感です。夢だ幻だと言説の人がいう、まったく似ても似つかぬ真反対です。
 未だかつて知らぬもの。
 だれがどう見ようが、観察する人、そういう心があれば、それは無に、無心にならないんです。忘我を観察することはできない。一念起こってみて、はじめて我と有情と同時成仏を知る、これ-他のいう観察面とはまるっきり無縁の現実です。

 これを説くのに、実に筆舌に尽くしがたいんです。百聞は一見に及かずの、見りゃそれで終わる。そうしてこの宗ごうまつなれども一切沙界含容すとあるように、仏教のすべてが終わっているんです。
 大般若教も心経もないんです。一切が我と我が身心の上に具現する。我と我が身心の上になければ、そんなものはいらない、無用の長物-百害あって一利なしなんです。
 仏在世中あるいは、仏教二千年の歴史の間に、ああも説きこうも説いた。それはなんの為に。我と我が身心の上に、もとからこうあるものを悟らせるために。仏教があるんじゃないんです。膨大な仏教経典じゃないんです。学者に飯を食わせる為じゃない。仏教経典の説き違い-差異を見るとは、自分自身に未解決だからです。自分自身に未解決なら、どう経典を読んでも似て非なる結果です。本末転倒事を繰り返すばかりです。

 すべての名は仮なんて嘘です、仮がどうして真じゃないんですか。
 あなたご自身が先、仏教経典があとに従う、他にいったいどういう方法があります、経典はただの紙っぺら、あなたは大自在の千変万化する生きた現実です。
 因果律は生きた現実そのものです、因果律としてふりかえったとたん大火傷。
華厳よりねはんに至るんまでって、あなたおぎゃあと生まれて棺桶に入るまで、信不信に関係なく、まったく過たずにちゃ-んとこうあるんです、貫く貫かないなんてけちなこっちゃないんでしょう。どうです。



   法とは何か


 法とはもとこの中に生まれ死に暮らしする、あるいは生まれる以前死んだ後です。人為のものではない、仏法として別にあるものじゃないんです。ですからこれを求めることは、見性といい、悟り、覚醒、気がつくというんです、もと法の通りにある、物理法則に似ているんですが、科学のように観察者を置くと近似値になってしまいます、そうではなくどっぷり浸け、どうあったってこうあったって逃れられない、観察者を置く科学の正確が人を不幸にすることを思ってみて下さい、あるいは真理だというマンガじみたオ-ムを思ってみて下さい。見えるものじゃないんです、周辺がわかりゃいいんです。

 一例-無眼耳鼻舌意、無色声味触法と般若心経にあるでしょう、わたしらの五感は目を知らない、どこに目があるか知らない、目で見る、あるいは見ると見られるの区別も付かない、だのに目を知り目の在処を知る、見る見られるとやっている、以下同文の有眼耳鼻舌身意の生活をしています、すべて教えられたもの、観念知識によるんです、法ではなく人為-つまりうそっことなんです、これちょっと確かめて下さい。
 うそっことは困ったことです、もういっぺん生まれたまんまに戻してみよう、そうしたら万事うまく行くに違いない、でもってぴったりうまく行った、というのが仏法の根幹なんです。

 「な-んだいわゆる純粋体験というやつ。」とはまるっきり別の仏教です、男一匹一生を賭けて、たとい得られぬも悔いないんです、男より女のほうが得たり、三つの子が早かったり、もと法の中にある、どっぷり浸けです、とやこうつっぱらかるの止めたら、自然にそのものです。



   禅は自我を脱する方向


 麻原彰晃という人はでたらめっていえばそれまでなんです。禅は自我を脱する方向です、ついに脱し去るんです、彼は自我の延長上にあり、こけおどしの道具立てに自らのめり込んで、ついにヒットラ-です、人をこの世を支配しようという、幼い自我のまんま、ガキのはた迷惑にのしをつけるんです。
 間違えないで下さいよ、いくら禅だの悟りだのいったって、そりゃなんの関係もないんです。そりゃ人間のやることだから、どっかでつながっているといったって、彼の方法で、最終解脱とかいっても、メカニックとして無理なんです。

 こういう公案があります、高い木の上に上って、足をはなせという、足をはなして両手でぶら下がった、手をはなせという、はなしてもって、歯で噛みついてぶら下がっていたら、下に救いを求める人が通った、法を説けというんです。
 これ参禅の道です。
 最後の最後、
「これっこっきり。」
 と噛みついているところをはなす、まっさかさまと思いきや、虚空にぽっかり浮かぶんです。

 そうなってから、神や仏を問うてごらんなさい。すべての人間にとってどうのという、ぜんぜん質問になってないことが解かりますよ。
 心して狭き門より入れというでしょう、いいですか、狭い門から入ったら狭いっきりです、そうじゃないんでしょう、もとどっぷり漬け、おぎゃあと生まれる以前から入りっきりなんです、それを洗礼だの割礼じゃないんです、無門関といいます、入りっきりの自分に気がつくんです、あるものしかないってことです。余計ことじゃないです。

 またこの法は殺人犯だろうが強姦魔だろうが、もしほんとうにその気になれば手に入ります、心というものが、たとい何あったって傷つき痛まぬことを知るんです。不生不滅、不垢不浄、不増不減=心です。
 でも死刑は死刑だし強姦罪は強姦罪です、これは社会の約束ごとです、改心したからどうのってんじゃないんです。



   人生もとの木阿弥に


 人生もとの木阿弥にいったん戻って見る方法、だ-れにだってできる、生まれて初めて宇宙風呂どっぱり浸けの、なんにたとえようのない感慨。
 でもってね、あ-そうだったかといって、ほんとうに自分を見極めることができる。
 だってなんだって、自分てたったこれしきのものです。たとい何いってみたって、手足胴体と地球一切。

 仏教二千年来のことだてにあったわけではないんです、今様心理学哲学等では決して届かないもの、たとい二十一世紀も人間乃至は物本来変わらないんです。すけべじっさが信用ならぬより、わたしを利用してあとポイ捨てすりゃいい、だれの為でもない、自分一個の無限の開放、ことの真相、
「生きててよかった。」
という、たった一回切りの人生です。
 棺桶に片足突っ込んでから後悔したってもしょうがない、だれのなんの物差しをも仮らず、おのれ一個天上天下唯我独尊です。
 もし思想観念でそういうことしたらヒットラ-です。
 すべての赤ん坊が七歩歩んで天上天下唯我独尊です、いったんそこへ帰ってみりゃそれでいいんです。

 諸般の事情-おのれを取り巻く環境に振り回されて、自分を損なう、大切なまっさらな心です、親から天然自然から授かったそれです、たかが人生百年なんぞで売り払わないんです。
 自分というこの手に委ねられた一枚切符。
 淋しいからどうの腹いせでどうのじゃないんです。求めなければ得られないんです。
 自分こうありゃ法律が守ってくれる、みんな平等お客さまは神さまのマスコミいっしょくたじゃないんです。
 せっかくの自分をだめにしている何か。
 
 だめでもとっこたって、木の葉一枚小鳥のさえずりさえ、遠くて遠し、せっかく同じこの世に生まれながら、さっぱり手が届かない、だめっていう無意味の疎外ってことあります。
 ちらっとでもいい花一輪ほんとうに見る、
「もういつ死んだっていい。」
という有頂天があります、涙ぼうだ。
 人類の歴史百万年のそのどこへでも行き通う、そりゃ当たり前です、石っころ一つ大空の雲どこへ行ったってなに変わりようがないんです。
 実感として味わって下さい。
 
 それにはまず自分という思い込みの、架空の着物を脱ぎ捨てることです、身心脱落-脱落身心という他にはなんの方法もない。
 色即是空空即是色、とやこういう架空の色眼鏡をとって下さい。
 お釈迦さまの修行体系もやっぱりいらんです、十牛の図あるでしょう、実にその通りなんですが、あとから見るとまさにその通りなんで、現実にはどっちの方向行っていいかわからない一図のときも、十図の完成すっからかんです。
 そういう思い込みが人間の性っていう、思い込みもみ-んな完成図。
 途中受用底の本来です。



   知る


 一人でも三人でも、本当にこうあるものを知るんです。仏法といい大法というんでしょう、むかし変わらずあるんです。わたしがどうのっていうこっちゃないんです。知るチャンスがあるんです。
 これは意見思想じゃないんです。
 心のメカニックというのは、人の思想とか考え方の入る余地がないんです。それだから万法に効くんです。
 仏教という下駄を履けば、仏教というアスファルト道路と、ことはそう行かないからへんてこです。自縄自縛する、縛り切れない分食み出す。
 どこまで行ったって納り切れないんです。

 そうではない、手つかずの方法。
 解き放つ、悟るとは解脱、身心脱落です。
 悟りおわって悟りなしとは、もとっからな-んも付け足すことのないのを知るんです。
 眼横鼻直にして、他に瞞ぜられず。
 掛け値なしの一個っていうことです。
 大円鏡智、平等性智、妙観察智、常所作智という、もとの木阿弥です、生まれ本来の大自在をえ、ものみなと共にある本当の喜びを知るんです。

 しばらく世間=自分~意識下においても意識上においてもです、を離れる工夫です。
 世間=自分をはなれる、死ぬと同じことなんです。
 いったん死んで、大死一番大活現成。
 自分という、物心ついてより着たきり雀の着物を脱ぐんです、うわ-ってなんていうすんばらしいったら、宇宙風呂。
 脱いでみて初めてわかるんです。
 くさ-いどっ穢い着物-歴史哲学社会通念理想とか現代批判とか-だって世間がそういう、一切合財自分という、わけのわからん着物です。

 悪いと思うほどのものは捨てられる、いいと思うものほど捨てられない。
 でもなんでも捨てなきゃ役に立たない。
 死ぬとはそのこと。
 自分というもの-その成立を知るんです、仏教思想とか言葉で知ったって、役に立たないんです、そういう知識を振り回すしかない、そうではない、知るとは、な-るほどそうかってしかない、だから悟りっていうんです、身心をあげてです、ぴったりってこと。

 そうなんです。
 いつだって同じことしかいわない、心のメカニズム、たった一つことです。
 広範な知識も仏教思想もないです。
 でもどんなことにだって通ずるんです。
 ただの人間=心ということです。

 わたしの仏教は会話-他と接するところにしかないんです。
 人なければ雪といっしょに遊んでるしかない。
 仏教著書なぞないんです。会話一転語、一語あるいは対になった一句で終わるんです。
 どんなことでもいいんです。
 この単純が世間一般すべてに通用することを知って下さい。
 心理学のマニュアルじゃない、そんなものの要らないことを知るんです。
 マニュアル化しない人間、それをこそです。
 まっさらの目。



   器量の物

 
(1)その人の主義主張によらないのを仏法といいます。{主義主観理想イデーetc}は、人の生み出したものです。それに惑わされるのを本末顛倒事といいます。声色の奴卑と馳走す=追い廻されて七転八倒です。けれども、私どもは、本当はそうではないんです。このそうではない本当を器量の物と云い、不病の者といったのです。器量の物=単なる器です。応量器(鉢の子と云って、良寛さんの托鉢器、雲水の食器、お釈迦さんの頭蓋を型取ったものといわれる)です。ものみなを正確に量る=とらわれないこと。不病とは、心の病です、本末転倒事によらない、思慮分別の主人になれるという事です。

(2)これはもと自らに備わっています、修行してこれを得、鍛えておくものではない、発見するものです。この発見の過程を参禅といいます。もとからこのとおり行われ尽くしていたと知ることです。

(3)ですから、道元禅師、正法眼蔵がたといどのようにすばらしいものであっても、これを読んで、参禅の足しにする、心の糧にしようとするのは過ちです。百害あって一利なしです。自分が参禅して得ることあってのちに、確かめてみる方法です。古来、参禅者はそうして来ました。欲を捨てると云って、では捨てて御覧なさい。どこまで行って何の解決にならんことを知るんです。



   自分を捨てるということ


 自分を捨てるということなんです、自分の安心だけで菩提心もなにもあったもんじゃない-そんだからなんだってんだってね、生皮かわるわけもねえんだ、ほっとけ、苦しみから開放だと、ばかめが、一昨日おいでってね。
 見性をなんべんもしたという、それでいいはずなんです、別に他のこっちゃない、向こうにあるんじゃないんです、まわりを見るでしょう、大悟徹底も同じ変わらぬ景色なんです。

一、自分のこととやこう云わないんです、発明なら発明やってりゃいい、偉いと思いくずと思いもうかると思い駄目だと思い、いいですか、どうこうおれの知ったこっちゃないってね。まあしばらくほっとくんです。

二、坐ってね、なにかしらうまく行かないって、それたった今自分がそうやってるんです。みんな自分が作る、修行未熟の大悟徹底してないからじゃない、うんさかわんさかうまく行かなくしている、だからあれっというまに、みんななくなるんです。ふわ-っとなんにもなくなって坐る、これねちょっとやってごらんなさい、すぐできるんです、できないのは、そう、自分ができなくしている。くどいようですが、手間ひまかからんというのを、だれも知らんのです。

三、ですからだれだって大悟徹底です、大悟徹底でない心意識なんてありっこない。

四、坐れば一人っきりになるんですよ、一人っきりになれば正念相続ですよ。自分というその皮っつらを、たといお釈迦さんだって、指さすことできないんです、

五、いいですか、なにかあったら、目を向けりゃないんです、なんにもない標準です、なんにもないといっている自分もない、なにちったあったって、いい感じ、なにとだって交換したくないんです、楽うに坐れるんです、なんともいえん「らくうに」です。

六、向こうに見るんじゃないんです。 


   
   故郷


 たった今見ている雪や木の葉っぱが=美しい故郷であること、これを言葉や思想でどういっても届かない、わずかに自分というたがを外して、風景というこの中にすっぽり入ってしまう、
「群生の永しなえにこの中に住す。」
という、あるいは、
「人間の如来は人間に同ぜるが如し。」
という、他にむかって、故郷をまったく求めない自分に行き合うんです。
 
 これなければ、いつまでたっても、故郷は遠くにありて想うもの、そして悲しく歌うっきりなく、遠くにおけば一見美しく、帰れないと思えば純粋に悲しく-うそなんです、美しくも悲しくも、だって人はだって自分はという一札が入る、故郷の山川まで破壊する今様社会はという、故郷なしは心もない、心身喪失だなどいいだす、単なる甘え根性です。
 真相ではないんです。

「向こうの山からぬうっとゴジラが出そうな日和ですなあ。」
 ほんとうにゴジラが出たら、うわって思うでしょう。日常の皮っつらはげて、山河大地がいっぺんに強烈。
 自分という嘘の皮が破れほうけ。
 悟りっていう、徹底というそうですよ、するとゴジラの十倍ぐらい、どはっていう実在感、
 存在観っていう陳腐な云い草も故郷も、いっぺんに吹っ飛んで、
「ふるさと? な-にそれ、う-ん、ああここのこと。」というんです。
けりがつくとは、満足する-食い足りるんです。

 おぎゃあと生まれて、もと故郷なんかなかったんです。物心ついても、自我という自分という嘘っことには、あんまり縛られない。三つのころまで心行くあった。あるいは十までも過ごす。あとっからそれが故郷になったんです。
 無理強いの故郷です、どう足掻いたってそりゃだめです、三つの子ども以前にいったん立ち返る、それ以外になんの方法もないことを知るんです。これが仏教です。
 故郷とは何-汝が父母の生まれる以前の汝が眉毛。


   
   面壁九年


 だれにだって面壁九年があるんです、もっとも達磨さんの九年間はただ坐ってただけですよ、自性霊明といってね、我のうしてこうある、ものみな一切なんです、座禅が座禅になったら、だれでも出来ます。でも今は別の意に取ります。
 どうしてもどうにもならん自分との対決です。
 一宿覚といって一夜で徹底した人もあれば、往還に応無所住と聞いてすっかり終わった人もいます、阿難尊者のように何十年かかった人もいます。拈華微笑と得た人もいます。
 
 これ人まねしたってだめです。だからわたしの面壁九年はちっとも参考になりませんよ。要は色気の問題だと思っています、色気しゃばっ気あるかぎり、どっかでひっかかっていて、それが障りになってぼかっと消えないんです。なんにもなくなると、自由自在です、それをとことん知っていながら、ままならぬ、つなげる駒伏くせるネズミってね、すべては自分でやっている、自業自得です。

 わたしはモ-ツアルト大好き人間で、その好き好きモ-ツアルトがどっか行っちゃったんです、もうどうもならん、生きていたって仕方ない死のうと思った、死ぬより出家ってことあるって思ったのが、一生の不覚ってか、ことの始まりです。
 でもってまあすったもんだやって、う-んと、大悟十八ぺん小悟その数を知らずといったのは、白陰禅師ですが、そんなのちゃんちゃらおかしいってくらい悟って悟ったですよ。たんびにモ-ツアルトです、なんたってどうもこうもならなかった、ついに捨てるんですよ、=自分を捨てたんです。

 う-んどういったって、これ以上いえないな。
 捨てるが勝ち。
 でもって捨てた自分とモ-ツアルトと楽しくやってます。
 早く捨てりゃいいのに、まなんてこったという感想です。
 人生のいいときを費やしてしまった、後悔なんかしていませんよ、後悔する自分がないです。でもね、ぎゃていぎゃていはらぎゃてい、 早く彼岸にわたるこってす、だってだれにだってできるんです。
 死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき



   青山常運歩


 青山常運歩は思想常識の至るにあらずです(そりゃどんな命題-公案もそうです、たった一つ解けばまったく終わるんです。)、ただの風景なんです、我のうして見る風景です、なってみりゃなんだこれって、なってみなけりゃ千万里でどうにもこうにもです。その千万断崖絶壁を、思想で越えようとしないんです、ああもしこうもすりゃなるってやって、そいつがどうもならんと知った時にようやく近いんです。
 ただ坐る只管打坐に近づく。

 近づいたってだめなんです。始めにしかし只管打坐、坐るということの内容についていいますと、身心ともになしは、文字通りなんにもないんです、自分を観察することがない、これね、なみの人には決して出来ないんですよ、坐ったって坐禅にならないんです、でも私とこへ来た人は平均三ケ月といっていい、自分と環境との垣根が外れるんです、神秘体験じゃない、ただの現実です、なにたいてい坐ってりゃなるもんなんです、下らぬ仏法だの余計ことせねばじきです。

 化かされたと思って坐ってごらんなさい、なに出て来たって、とやこうなしのまっしぐら、馬鹿んなって坐すんです、坐のほうが自分をどっかへつれてってくれる、そいつがおもしろい、私という思想はなんの責任も取らない、糸の切れた凧の行き当りばったり。
そうしてね、忘我という、我と有情と同時成道という、一瞬なんです。あのくたらさんみゃくさんぼだいという、忘我からはあっと我に返る一瞬です。
 すべてがあるんですよ。

 失礼ですが私は仏教知識に関する限り、どんな学者たとい釈尊が出たって負けないです。でも仏教の勉強ってしたことないんです。仏教用語って、これなんだって聞くと、たいてい間違った学者説、違うよそうじゃないんだって指摘します、どういうことかというと、
 悟-見るイコ-ル仏教のすべてってことです。
 知識はそのあとのものです。
 ですから先ず捨てるんです、どんなに精妙な仏教知識も二束三文です。
 初心に返るよりないんです、自分は三つの赤ん坊のようにまったく取りえなしです。
 なんにもわかりません。

 今わたしはあなたにこう説いて、ずいぶん長い間自分を捨てられなかったんです。
 自分を捨てる、死ぬのと同じです、死ぬのはつらいです、生きていたいんです。
 そうして結局だめにしてしまう、東山水上行をそっくり身ながら、そいつが紙っぺらのようになったり、要するに中心にあるべき、無心が有心に化けてしまっている、こんちきしょうめってんで落着なし。
 捨てるこれっきりです。
 見事に捨ておほせて下さい。

 忘我の術はアルタミラ洞窟壁画の太古からあります。
 でも釈尊のように捨て切った人は他にないんです。
 さあその釈尊を捨てて下さい。
 たとい自他の垣根が外れようとも、それを見ている自分があっては、つなげる駒です。
 一切終わって下さい。

 当然ですよ、私一個ここにこうあるんです、人知も釈尊もインタ-ネットもへちまもないんです、おれと大地有情とこうあるんです、だれがなにに責任取るなんてないんです、どうしたいんだ、仏が欲しいのか自分が欲しいのか、自分てなんだ、ねえちゃんとやりてえのか、だったらやりゃいい、ねえちゃんなんかつまらん、地球と一発ってんならやりゃいい、宇宙を支配したいんなら支配するんです。文字通りのこってすよ。
 一対全体の対決です、まるっきり遠慮はいらんのです。



   自分というものがもとない


 至りえ帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。という語があります、忘我という行ったっきりになると、(そういうこともあります、バリ島十六ビ-トに踊り狂って忘我になった人とか、それっきりって廃人になってしまうんですが、仏教ではよくこの事を弁えるということがあります、へんな神さまとか余計こと付け加えないんです。)役に立ちません。行って帰って来る、つまり思想の主としての生活があります。自分というものがもとないことを知っての自分です。詭弁ではないんです、わたしの実感としては、自分に出たり入ったりというふうです、思想にとらわれないんです、どのような事件、思想宗教イデ-イデオロギ-芸術音楽歴史人物とか社会とか、そういうもの一切がお客さんとしてあるんです、別に私がアインシュタインより頭いいってんじゃないんです、頭下げたら下げっぱなしってことない、白雲去来すれども山おんなじです、お客は引き上げるんです。

 当然でしょう、当然のことが悟る=自分というものを知る以前はできないんです、必ずなにものかに囚われ引き摺り回される人生です、声色の奴卑と馳走すといいます、奴隷になって走り回るんです、せっかく出世間も今度は仏教に囚われたりします、柳はみどり花は紅もすっきり行かない、借金地獄-他人からの借りものばっかりでしょう、どのような判断もああでもないこうでもない、だれかいったこう聞いたの物差しばっかり、喧嘩するさえおまえは悪いおれはいいだからってやってます-の色眼鏡じゃ、見るものの物にならない。ちっとも面白くないんです。

 九のまり十まりつきてつきおさむ十づつ十を百と知りせば
 子どもらとまりつきをして遊ぶ良寛さんです、一つ二つ九のつ十とついて、十づつ十ついて、百になったらおしまい。
 貞心尼がこれに付けて、
 君なくば千たび百たびつけりとも十づつ十を百と知らじおや
と、激しい口調でいうんです、あなたが死んでしまったら、たとい百回千回ついたって、十づつ十を百と知る人がいるだろうか、たといまりをついたって、まりがつけていない、だれなにやらかしたって、うそっこんだよっていうんです。
 人間うそばっかりの地球のお荷物。

 どうですか、悟り終わった人の消息、別事なしってことわかりますか。良寛さんを特別人間みたいにいいますが、よく見れば、人と違ったことなに一つしていません。
 人は悟り終わって悟りなしの、
「ただの人。」
になるんです。それまでを迷悟中の人といいます。
 迷悟中でないもの花一輪。

 花に、
「あなたはだれです。」
って聞いてごらんなさい。
「知らない。」
って答えるんです。
 私は菊で、くだまきというやつで、色は何色なんのたろべえに育てられて、栄養はどうでなにがどうで、上を見ればきりなし下を見てもきりなし、まあこのへんでといいだしたら、それっきり見るのもいやになります。

 花=如来。人間の如来はたとえば、こんなふうです。
 梁の武帝達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義-仏教のエッセンスとは何か。
 磨云く、廓然無聖-がらっとしてなんにもない、個々別々。
 帝云く、朕に対する者は誰そ-そういうおまえさんは。
 磨云く、不識-知らない。
 知らない人になって、ほんとうにまりをつく=実際なんです。



   心意識


(1)たとえば、心とは何かと問うでしょう。すると問うているその心は?となります。自分は何かと問う、同じ事です。自分が自分に問う、どこかおかしいと思いませんか。蛇が自分のしっぽを飲み込んだら、しまいに消え去るかというとお釣りばっかり残ってしまいます。

(2)心にニ心ありと云います。従前の心と真の心と。従前の心とは、心という残像を追い、無いはずのものに苦しめられる、二分三裂するように見える心です。架空事です。これを先ず知ることが大切です。真の心とは風景そのものであったりします。

(3)如来という語があるでしょう、何だと思いますか。(逆さから読むと)如来=来る如し、なんです。なぜに自分がこうあるか、どう答えたって答えにならないんです。如来とこうあるっきりです。どうですか、花でも空でも雲でも如来じゃないですか。鳥も獣もたいてい如来の分で活動しています。人間だけが従前の心にとらわれて、戦争だ平和だといって暮らして来て、どうもあんまりいいことがなかったんです。

(4)仏足石といものがあります。お釈迦さんの足の型が石に刻んであるのです。むかしはこれだけが仏像だったんです。そうです、立派な仏像です。お釈迦さんがその上に立っているんです。え、お釈迦さんなんかいない→いないのがお釈迦さん→いない=すべての風景=天地宇宙です。そうして、自分がその上に立つことが出来ます。

(5)無心という言葉を聞いた事がありますか。無心にやればうまく行くとか、無心な子供とか、お金をせびるのも無心といったりします。真の心はこの無心と同じと思ってもよろしいのです。従前の心は、心が心を振り返る、省みる省みる心はどこに、というように、不必要であり、既にないものをあると思い込む煩瑣、うるさったくって有害です。そうして、ほんとうの風景、雪月花=心と云われる(春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりきける、なんて云います)。日本人の幸せに、うす汚れたフィルターをかける、身心病に至る、ひょっとしてこれがすべての原因と思われます。心の二人三脚です。歩きながら歩き方を研究したりとか、後ろ向きに歩くetcとかです。

(6)私は若い頃、師に就いて参禅していました。ある時の摂心(5~7日間の坐禅)に妄想妄念が出て困った、振り払おうとするとますます煩瑣です。なんとかしようというんで、まっ黒になってやっていました。4日間ぶっとうしに、こんちきしょうってやっているうちに、もうどうこうもならん、どうともなれと突っ放したら、パアーッみんなどっかへすっ飛んで何にもなくなって坐っていました。

(7)心意識が失せたんではなく、心が心を追い求める二人三脚の二重性が消えたんです。真っ正面に向くというか心が一つっきりの、もとのありように立ち返ったのです。心意識=念がぽっと出て、ぽっと消える、これだけになった時、ハアーッとなんにもない実感です。

(8)一つっきりの心、真の心を持っての生活は、一年365日夢という楽しさがあります。真実であればあるほど夢、なぜかたった今を味わいつくして、とやこうの反省文がないからです。子供の頃のことをあんまり覚えていないのは、記憶が失せたんではなくって、あんまり楽しかったからです。
 動植物はみんなこのように生きています。

(9)従前の心、{振り返りたしかめなければいられない}心が、漠然とも判然とも、すべての不安の原因になります。なぜか。ふり返って見るときに、もはやないからです。残像、記憶としてあると思い込む。或いは、ふり返り見る自分=心という事実から目をそむけるからです。

(10)心のメカニックは実に単純ですが、だからこれをどうしようという時、そう簡単にはうまく行かないんです。古来さまざまな人が、ほんとうに苦労して手に入れたんだと云っていいです。でも、自分のことだから、だれにだって出来ます。

(11)出来たとたん、たとえば「正常人と狂人との区別がない」とかのことを、なあるほどと思ったり、狂人は精神病院じゃ治りっこないと思ったりします。。狂うとはなにか、これも単純なメカニックです。幸せや罪悪感も適当なブレーキがかかっている時だけ、正常というんです。なぜなら、幸せにしろ罪悪感にしろ、みんなそういう思い込みだからです。

(12)月は月花もむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな(至道無難禅師)ということが一生に一度あったらいいんです。



   生死という事

 
(1)文明人一人生きるのにどれほどの自然破壊が必要か。地球宇宙にとってはた迷惑か、それを考えたら、いますぐ死んでしまうのが大正解というわけです。
 でも仏教には

(2)「死んで死んで死に切って思いにままにするわざぞよき」(至道無難)という、生きながら死ぬ方法があります。至道無難禅師は、白木屋のご先祖筋にあたるという江戸時代初期のひとです。別にこういう語があります。  

 ある人、地獄を問う、余、答えて曰く、身心に科あるを地獄と云うと。また極楽を問う、余、答えて曰く、身心に科なきを極楽と云うと。また、仏を問う、余、応えて曰く、身心無きを仏と云うと。其の人曰く、身心無ければ死人と同じ也。余、応えて曰く、然り死人と同じこれ我が宗旨也。


(3)生死を明らめることは、自分の心のありようを知るということです。身心という、もともって生まれた本来は、生きる死ぬとか云う事を、遥かに卒業して如来(来る如し)とあるものです。そのことを知る必要があります。

(4)他の解決方法は無いことを知る。殺し文句にしてやられ迷いから迷いへの旅は愚かなことです。単純な心のメカニックです。解決方法は2×2=4という程徹底しています。{心は心を知らぬ}



   月光


濁りなき心の水に澄む月は波も砕けて光とぞなる
 傘松道詠-道元禅師のお歌です。
 宗門では坐禅和讚とかいって御詠歌にしてますが、てんぷら御詠歌、いやこれいいお歌でしょ。
 波も月も水も光も向こうに見えるもんじゃない、自分というものふっ消えて、すべてが自分になっている、得あのくたらさんみゃくさんぼだい、そのものなんです。
 どっかのバカがなんで説教だと聞く、

春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける
 ではこのお歌はどうなる、日本の心と題して、川端康成がノ-ベル賞受賞講演に引いた、神を説き道徳を説き、平和を説き人類の未来を説く、即ち、
(ちらともあれば百害あって一利なし)
 たといどのような哲学思想も、よってかくの如しは、歴史の証明するところ、

死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
 これは只道無難禅師のお歌です、思想観念を去る、いったん人間を卒業せよといっているんです。
(戦争はいけない平和だという観念が、戦争を引き起こす、差別用語はいけないという決めつけが差別を起こす)なぜか、自然(じねん)にあることと違うからです。どっかがいびつなんです、水ではない氷です、ぶつかりあって破壊するんです。
 あれやこれやではない、ものみな仏、ものみな仏である、これをほんとうに知ればよい、

月は月花は昔の花ながら見るもののものになりにけるかな
 色即是空です、思想観念にとらわれるところ-氷が水になるんです、生まれてはじめて、ものをほんとうに見る自覚。
 照見五蘊皆空、度一切苦厄。
 説教などいうもののなんにもない世界です。山水長口舌、ものみな説教だの、思想哲学の中途半端-有害無益を免れて個々別々です。宗教ではない、花の知らないというそれです。

水鳥の行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ
 なにをいってはいけない、これがタブ-ってことないんです。
 宗教といえばたった一つのこれが宗教です。
 教義とタブ-、あるいは荒唐無稽の神話、千差万別です、人類という独善、どこまで行ってもいさかいのもと。
 ちらともあればオウムと区別がつかない、だから特別立法の大騒ぎなんです。
 人みな自分のオウムを免れる、もしくは付和雷同を免れる。
 これ人類の急務。

三世の諸仏知らず、狸奴白虎却って是れを知る。
 せっかくの仏教を、ありがたや手を合わせだの、説教のネタにする、狐や狸の類。
 いったん仏教を止めるんです。
 仏教という一枚看板、ひっかついだ板を外して、
 人間の如来は人間に同ぜるが如し、水自ずから澄む。
 群生の永しなえにこの中にある、一個半個。



   後継者


 参禅される方に、自他ともにない本来のありようを示す、理屈として単純だし、座禅の方法として、とっかかりひっかかりするのを外してやると、次第坐るのが面白くなって、ひまさえあれば坐っていたりします、するとあるとき忘我、忘我まで行かなくっても、自他の垣根が外れて、ものみなと一つっことして、いいなあ生まれて始めてとかやっています。
 それでいいはずなんです。

 ところが数年して会ってみると、ちっともよくなかったりします。世間しゃば流に押し流されるのか、悟りという、本来ある通りの他になんにもないんだよっていうのが、どっかへ行ってしまう、歯がゆいんですよ、これをどう説明していいのか、悟りとしては、私よりきっぱりとやっている人も二三います。にもかかわらず、
「このばかったれが、なんだと思ってやがる。」
とか、どなっちまったりするんです。

 いいですか、悟りのあるなしじゃないんです、悟りなければ問題にならぬにしたって、もと自分という、これっこっきりのものでしょう、もって生まれた如来という、仏という他にな-んもいらんのです。
 つまりそれができないんですよ。
 必ず悟りあり、禅あり仏教あり、坊主の地位あり、ぜにかねあり、なんだかんだなくっちゃ、生きて行けないって気になるんです。
 ちらっともそれあったら、収まり切れないんです。
 いうなら、
「わがこと終わった。」
という実感です、他どういったってしょうがない、どう説きようもないんです、
「終わった人。」
をどうしても作りたいんです。でなきゃ自由の分がない、仏教のくびき、あるいは世の中いいわるい判断のとりこになる、だったら面白くないんです、眼横鼻直にして他に瞞ぜられずと、道元禅師の語にあります、そういう人が欲しいんです。

 人間の資質に関係するものかどうか、とにかく世の中と自分とを卒業しちまう、それっこっきりです。
 悟りという自他の垣根が外れるのに、平均三カ月(平均なんてことないんですが)というのは、たいていそんなもんですよ。
 いらんことしなけりゃまっしぐらです。
 でもわたしの願いは、原初の行を守るという、ほんとうにそれっこっきりの人間です。
 かえってわたしを証明してくれる人です、
 「おまえなんかいらん。」
 といってくれる弟子です。



   クリシュナムルティ


どうも一言いいたくなるんです。
クリシュナムルティの本(科学者との対話であったと思います。)を以前弟子が示して、わたしも目を通ました。
「止めなさい。」
といったんです。
「云うことは間違ってはいない、でもこれを聞いて大悟徹底する人はいない。」
大悟徹底、便利な語だから使います。仏教科を出た弟子は、チベット仏教だなんだのと読み漁っていました。
「そうさ、棚ぼたのおまえさんを肯うにはいいかも知れん、でも寝てて食われるってのは、狼に食われるばっかり。」
知識という、他人の残飯、ト書き説明書きでは、しまいずたずたに破れほうけるだけだっていうんです。
とやこういうとまた怒られそうなんですが、事をうるにはたった一つでいいんです、あっちこっちじゃあっちこっちきりです。
「あなたは何かを求めておられる、そして何かの解決方法を探しておられる。探すことを続ければ、あなたは何も見つけられない。苦しみを回避することは、これを強める結果を招くことにすぎない。愉快であれ不愉快であれ、それがなんであろうと、あるがままのあなたに気づきなさい。それを正当化したり、あるいはそれに逆らったりせずに、それと共に生きなさい。真理は、結論、説明、言葉をはさませぬ観察があるときおとずれる。」
よく読んで下さい、いっていることはそのとおりです、でもいっていることから免れることができないんです、どこまでいっても、ほんとうを行ずる自分なんです、真理はという、ではそれを観察する自分は何かという問題が未解決なんです。
どこまで行ってもいいことしい、どうにも収まり切らんてことあります。
お釈迦さんはここからなんです。つまらんていったんです。
趙州因みに僧問う。如何なるか是れ道。州云く、道は籬の外にあり。僧云く、我が問うは大道なり。州云く、大道長安に通ず。
この有名な例も能書きじゃぜんぜんないんです。
垣根の外にあるよ、自分というその垣根をとっ外せば、世間出世間一切道というまえに、はっと見りゃアスファルトのほこりまるけがあるんです、この僧気がつきやいいのに、我が問うはそんな道にあらず、大道なりといった、あると思い込んでいる、そやつを大道長安です。すべての道はな-んて云わなくっていいんです。
月とすっぽんの違いってことに、どうか気がついて下さい。
クリシュナムルティの夢にも見ぬこと。



   生きていたくない人へ 


 かつては生死の問題はまず真っ先に仏門を叩いたものです。一に何があってもなみあむだぶつと唱えることによって、一切苦厄あるいは自分というものを去る工夫です。また、なりふりかまわず面壁して、一切苦厄をあるいは自分を、真っ正面に見る工夫です、真っ正面に向かい合うと、なんにもないんです、救われ免れているんです。この二つはほとんど同一のものでした。
 今仏法地に墜ちて、坊主というどうにもこうにもわけのわからんちんの死出虫稼業になって、日本の今の閉塞社会の引き金を引く、そうですよ、お役人も警察先生とか、どこもかしこもったって、坊主ほど腐ってはいないんです、申し訳ないことです。
 でも仏教として、仏法としてちゃんと残っています。

 一、心の闇に呑み込まれる、ただ壊れて行くのは嫌です、 
-心の闇なんか見えるはずがないんです、目で見ているというのなら、目は内側に向いてくっついてはいないんです。心が見るというのなら、心は一つっきりで、心が心を見ることは不可能なんです。人間は整理的にそうできている、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、だのにないはずのものが見え、闇に呑み込まれるという、そうです、そういう思い込みです、思い込みにしてやられる、そんなばかなってことです。そんなばかなって、真っ正面に向き合う、生まれついての素直さです。

 二、生きていたくない、死にたい、
-石ころ一つ生か死かという公案がありました。花一輪生か死か、魚一匹生か死か。この公案に参じて知るところは、一に自分という思い込みを免れる、嘘っことと知って脱却する、解脱ということですが、実は生も死もそういう抽象概念に過ぎない、いってみれば言葉だけ、迷い迷わされるのは人間だけ、なんというつまらない、月も雲も山河も死といおうが生といおうが、まるっきり変わらない、もしかして自分のこの命は、月や花と同じにある為にこそっていう実感です、春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける、なんという幸せっていうんです。

 三、世間はぜんぶ敵ばかり、四面楚歌の引きこもり人生、
-どんなに引きこもったって、それはそういうふりでしかないんです、篭城というでしょう、そういう城があって大騒ぎ、やたらへんなことばっかり起きそうです。四面楚歌って知っていますか、虞美人といっしょに楚歌、つまり自分の故郷の歌を聞くんです。切ないなつかしい、命の最高潮と違うかっていうんです。
百伝う磐れの池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなん
という歌万葉にあるでしょう、死ぬとはそういうことです、自分と自分の世界宇宙がなくなるんです。世間は全部敵だって、雪月花や山川草木と同じ我がものです、失ったらもはやそれっきり、失いたくないんで篭城じゃがきの仕草です。
 もっとも仏教には、
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
いったん死ぬって方法があります。

 四、他人に認められたい
-認められたい方向はコップの底みたいに、ついに寸詰まり、他人を認めてやる方向は広大無辺です。戦後教育がどうも、民主主義というキリスト教社会では、それなりの自他の厳格さっていうんですか、義務責任神の前において、はたして自分はという根本理念があったんですが、日本ではなんたって個性だ、インツ-イッションだ、自分流を延ばすってことしかなかったんです、行き詰まる道理です。むかしこんな言葉がありました。(自分の)命を鴻毛の軽きに置け、というんです、鴻毛ダウンです、吹けば飛ぶような綿毛です、戦後これに代わって、人間の命は地球よりも重いといった、そうして殺人暴行おかまいなしになったりって、ちょっと考え直してみませんか。

 五、心の外へ出さないと、あなたの苦しみは減らないよ、
-心経の冒頭を引きます、坊主にお経わあやだなんて云わないで、聞いてください。観自在菩薩、般若波羅蜜多を深く行ずる時、五蘊は皆空なりと、照見して、一切苦厄を度したまう。観自在、自由に見る、なんのとらわれもなく、赤ん坊のようにまっさらに見るんです。菩薩はあなた。般若波羅蜜多パ-ラミ-タ-彼岸にわたるというサンスクリットを漢字にあてたんです。彼岸此岸といいます、おぎゃあと生まれて私するものはなんにもないんです、物心着くにしたがい、自分といい、これといいあれといい、社会生活の為という、物事を抽象概念化して捉え、善悪をいい、自分を中心にして考えるんです、サッチ-みたい地球は自分中心に回ってしまう、そういう思い込みです。これを此岸こっちの岸といいます、これをいったん手放す、もとの木阿弥に返す、あっちの岸彼岸に渡るといいます。放てば掌に満てりです。五蘊、目あり耳あり有眼耳鼻舌身意からなる一切合切、思い込みっていえばいいです。ですからこの一句はこうなります。
 なんのとらわれもなく、赤ん坊のようにまっさらに見てごらん、自分という現象がすでに架空のものだったんですよ、すべては思い込みだったんです、心といい体といい、生といい死という、そうです、それも嘘八だったんです。一切苦厄はないものをあると思い込む、よこしまにする、そこから起こって来たんです、もとな-んにもないんですよ。そこに気がついて下さいっていうんです。

 六、みなさん命を大切にして下さい、夢にも見ない喜びってありますよ。



   心のメカニック


 生臭坊主もこの年になれば、実社会がたいてい、いいかげんというか、まんがというか、たこやき風景、なまくら焼き鉄板みたいの、ふりしたって、角出したってろくなことなく、そんでもって外れりゃたいへんてね。
 う-んわし坊主だから、坊主社会ってわけで、坊主と先生にろくなもんいないって、完全に平行線の、つまりまったくの食み出しで、「なんとか落っこちないよう。」
やって来ました。だから人さまにいえないです。あっはっは、なんとか落っこちないよう-しばしば落っこちて、これ我が生活モット-なんです。

 深刻に気を使って、なんたって鬱陶しくって、破れほうけのずたずた、身心症でまがいでもって、
「くるっと首振ると。」
まっさらってのどうです、
 え-とね、yahoo掲示板のどっかへ、口出したら、お呼びじゃないっていわれっぱなしん中に、31歳女性子どもあって、別居生活みたい、毎日死にたいってばっかり、くよくよってのあって、
「心のメカニックですよ。」
といったら、聡明な人で理解するんです。どうメカニックかというと、心意識というものは、ぽっと出てぽっと消える、わきから栄養与えてどうのこうのやれば、際限もない、ほっときゃ納まるってこと、消えてもうないものを追う、だから苦しむ。

 どんな複雑怪奇だろうが、あるものには悩まない。
 幽霊にしてやられるんだっていう。
 これ心のメカニック。
 つまり、悩み鬱陶しいとかいうその正体は、実は思想の内容にはよらないってこと、いいわるいだからどうだって解決にならない。
 ということを知ってもよし。
 ハイってね。

 こんな例を挙げました。三つになる女の子が、ずるっこいお兄ちゃんと、があがあわあわあ、かあっとなって、
「ぴかちゅう。」
とやるんです、ひどいときは、身をよじるようにして、ぴかちゅう唱える、するとぽっかりにっこり。この子よく心のメカを知っています。
 際限もない心意識を切るんですよ。
 いろんな枠や前提=だから抜きの石っころなら、うっかりつまずかぬよう努力だけで足ります、目の前にありゃある、なきゃもうないんです、それをどこへ行ってもあると思い込む、鬱陶しいわけです。理屈こうなんですよ。
 それとね、たいてい自然体っていうそれ知らんのです。自然体っていう枠と前提なんです。
 これとっ外すと風景みんなおらあがんてね。

 出家とはね、世の中家族みんな捨てちゃっても、すすきの葉っぱ手に入れようっていう、極道なんです。
(断じて許されるこっちゃない。)
と痛切に思いましたよ、二十九の年に出家したんですがね、毒食えば皿までです、世の中ネビュラのはてまで満喫、なにねきのこ一本取って、
「あんがとよ。」
涙ぼろり



   色即是空のこと
 

 私が参禅のはじめ、老師は眼前の急須と茶碗を取り、どっちが大きいかと聞く、なにを聞くんだこのじいさ、そんなもん急須が大きいに決まっている、- また真っ赤な鉢を示し、赤いか黒いかという、あるいは筆をとって、あるかないかと聞く、あるに決まってるじゃないかアホ、-
 何度かやっているうちに、大小ということがふっと失せる、赤いが真っ黒になったり、あるとないが同じになる。
 哲学上の問題じゃない、見た目のことです。理屈を云えば、あるなし大小色あいのこと、人間のかってにつけた便宜上の名称です、おぎゃあと生まれ立てにそういう概念化抽象化はなかったんです、すると世界はどう見えるか。
「ちらとも見せてやりたかったんです。」
老師は云った。

 あるといいないといっても現実はまったく変わらない、でも理屈じゃなくって実際に知るにはちょっと間があるんです。
 あるということにそれだけ固執している、とらわれているということです。
 色即是空あればあるほどないっていう、これ仏道のいろはのいです、けれどもだからどうのいったってだめです、見るもの聞くもののこってす、見たり聞いたりのほかないんです。峨山韶碩禅師臘八摂心にこれはという者十名をえらび、目の前に穴を掘って示し、もしこの間に成仏せずんば、生きていたって仕方なかろう、生き埋めだといった。十名のうち九人までは行く。あとの一人がどうでも行かぬ。生き埋めにされちゃたいへんだといって、逃げ出した。途中石にけつまずいて、生爪をはがす。
「いっつう。」
というんです、痛いことはいたい、でもどこが痛いのかわからない。

 無眼耳鼻舌身意を知るんです、自分というこの身心がまったく失せて、ものみなと一体化するんです。
 これ面白いんですよ、もと無眼耳鼻舌身意、色即是空と生まれているんです、元の木阿弥に返ったんです、すると不思議(思いによらない)にぴったり納まるんです。
 文句云おうたって文句いう自分がないんです。通幻寂霊禅師の因縁です。
「わたしも後を慕うて行ってみましたがね、なに、なんの変哲もないただの道ですよ。」老師はいった。



   極楽浄土


 あなたね、極楽浄土が想像できますか、思い描くことができたら、それはうそなんです。でもほんとうに、思い描くことができたら、デュ-ラ-やホルバインの百層倍の絵、そいつがかってに動きだしたりします、自分の現実を抽象化するんですよ、摩訶止観等古来あったんですが、オ-ムのように、いいかげん妄像、薬をもってというのはうまくないんです。因みに禅門ではこれを途中段階-取り扱ってはならぬ-と示します。
 まざまざと見えるんです、極楽浄土といっている人は、見られるといいです。というのは仏教という、悟りという知識じゃないんです、そんなこといくらいってもだめです、腹の足しにならんというより、不明なんですよ。

 明日の生活一年二十年後の自分、成長してないと不安だという、ではそういう自分を捨てればいい。
 捨てようとして、捨てられますか、捨てたつもりが同じだったり、無気力、どうでもいいやとか、-
 知識つまり頭ん中で捨てるからです、極楽浄土を云々と同断です。

 たとい座禅でも摩訶止観でもいい、やっているかぎりは捨てられているんですよ、本来になるに従い、捨て切っているんです。すると一年後十年後をもっとちゃんと考えるんです、捨てられている=自分のことを外から見られるんです。乃至は行深般若波蜜と充足した時間がある、満足する自分です、不安が消えている、
「成長なんてしんきくさあ。」
というんですよ。おらそんなえらかねえやとかいって、得るものを得る、平気でものごとやってるんです、人がよっついて来ますよ。

 むかしこんな話がありました。せっかく出家したんですが、物忘れがひどくって、頭悪くて困った、このまんまじゃどうもならんとて、お不動さんのお堂があって、そこへ籠もる。三七二十一日の間坐っていたら、お不動さんが現れて、長短二本の剣を示して、どっちを呑むといった。どうせなら長いのをといって、そいつを飲み込んだ。
 明日の朝からっと晴れて七通八達、つうかあになったというんです。実話なんです。
 ぺいぺいのカメラマンがニュ-ヨ-クいってことばもI don't knowで参っていた、夜中必死に坐ったら、目の前にでっかい仏さんが坐った、ほんとうに、
「手伸ばしやさわれるっていうふうに。」
 という、そのあと外人恐怖症とか吹っ飛んだと、これわたしの聞いた実話。

 悟りは境地じゃないんです、発見です、自分の辺にある、もとどっぷり浸けを、証せずんば現れずです。
 現わすためには、やるんです。



   もとの木阿弥
   

 解脱という大悟徹底という、「もとの木阿弥に立ち返る」法は、言葉や哲学という、そういうこととまったく係わりがないんです、子どもが欲しい物を取るのに、とやこう理屈、云い訳なしと同じです。ただ取りやいいんです。
 ただ取るっていうのができない。ものみなただ取りゃいいのに、人生の多様性だの明晰だのいっている、ではそれで何がどうなる、なんにもならない。一木一草あっちむきこっちむきばっかりってね、だからちょっとこう免れるんです。

 人間同士の会話とか、世の常識ごととかいうのを、
「ほんの少しの間おれ留守するから。」
see you agein てやるんです。参禅てそういうことですよ。一人っきりになるんです、一人坐ってるのに、一人っきりになれない、そんなバカなっていうでしょう。
 だれしもそんなバカなんですよ。
 どうしても何事か求めるでしょう、そりゃ求めなければ、得られないんです。一人っきりになる、他所ことじゃない、なりふりかまわず求めるんです、求めるっきりになる、
 
 趙州因みに僧問う、如何なるか是れ仏法の真髄。
 ほとけの真髄ってなんだって、問うんです。趙州答えて云く、おまえさんの求めるのは、真髄じゃなくって皮袋だろうっていうんです。どうしても真髄、ほんとうぎりぎりのハ-ドコアってやるんですよ。そいつを皮っつらだろうって、人間という一筆書きする、そいつを三百六十度回転させると(数学的にはちょっと)皮袋になるでしょう、そいつが問題だっていうんです、人間の感覚器官この面つらについているんです。自分=皮つらなんですよ、こいつをぶち破れば、おしまい、自分=世間=皮袋が消えると、自然とか環境といって、外に見ていたものだけになる、内外なしです。

 はい仏教の真髄。


   
   けりをつける


さがすと見つからない、さがすものそれという、気がついたとき、泥沼そのものがふっ消える、まったくにこうある、心のメカニックです。 
無意識であろうと意識的であろうと、ことは同じです。泥沼とは、それに自分が係わることによって成り立つ、どう係わるか、係わっている自分をまた自分が追うという、どこまで行ってもです。その内容如何ではない、際限もない繰り返し、しかも自分のそういう自作自演を対象、つまり内容如何に置き換える。自作自演にくたびれてどうにもならんという、泥沼だぶあつい壁だとか。
どっかがおかしい。どうやっても答えが出ないんです。ないものを、そりゃもとないんです、答えの出ぬものを追い求める不都合。
でもって、泥沼はたいへんだ、人間真理の深層だ、無意識の方がよっぽどといってはお茶を濁す。世間一般もそういう、自分もそうだから人もそうだやってないで、いったんけりをつけりゃいいんです。
ことは簡単です、自分を自分が追うという不可能事に首を突っ込まない、不可能事だから際限もない、ではそいつを止めりゃいい。
心が心を追わないと、泥沼はないんです。心は一つ自分は一つっきりないのに、なぜ見たり見られたり、追ったり大風呂敷拡げてみたりするのか、どっかがおかしいとはこれです。泥沼の正体がこれだというと、みんな大急ぎで反論する、おかしいというより、それほどどっかどっぷり漬けになっている。
凡人なんてものあるわけがない。
泥沼に手をつけないと、自分というものの多少のくせがあるだけです。
どっぷり漬け止めて、自然の風物とほんとうに付き合うってのどうです。



   大悟後の変化


 悟る以前と悟ったのちと、なに変わるということないんです、たしかに従前のとやこうああだこうだ、自分という架空なもの(思い込みであり、不明瞭である、自分が自分をなにものかに見ようとする、できない相談です、ないものをあると勘違いする、答えが出ない、出した答えが不確かです。)を中心にする世界は吹っ飛んでしまいます、でもって生まれたまんまに、何一つ変わらないんです。
 変わるというなら納りきらんのです、他と別というならオウムのように大騒ぎです。真理を知るから何をやってもいいとか、バカったいことです。
 
 大円鏡智平等性智妙観察智成作所智という如来の四相を、たとえばこんなふうに知ったらどうです。
 仏足石というものがあります。石の上に如来、お釈迦さんの足型を刻むんです。如来没後五OO年間他に仏像はなかったんです。その足型の上にお釈迦さんが立っておられるんです。実に如来そのものなんです。
「なんにもないではないか。」
 山川草木大空の雲飛ぶ鳥家並みけもの咲く花に月、自分というものがすっかり失せて、すべてがあるんです。如来の足型の上に立ってごらんなさい、あなたも如来です。こういっているんです。
 身心ともになしといいます。心経にもあります、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、もとそのように生まれたものを、いつしか、自分でも知らぬまに、有眼耳鼻舌身意、有色声香味触法、乃至は身心ともにありにどっぷり浸けです。
 それをいったんもとのありように戻してみようというのが、悟りです。

 従い悟り終わって悟りなしといいます。
「それっきりがどうして。」
 仏教だ大悟だという大騒ぎ、仏教大学に大蔵経とかどういうこったって、だいたいいらんものはいらんのです。悟りをいう者は先ずそういう歴史の垢を振り落として下さい、世間流布はなんのあてにもならんです。かえって肝心の事実より、そういう空騒ぎを免れるほうがたいへんだったりします。
 この事はただやってみりゃいいんです。
 そう難しいこっちゃないんです、へんなのにたぶらかされなきゃ一件落着です。

 大円鏡智=目がなくって見るんです、わたしがこっちにあり、自然がむこうにあるハXわたしと自然と一体化するガOです。見解の相違とか物の見方ではない、他にはまったくないということを知るんです。
 平等性智=個々別々というんですか、ものみなあるがとうりなんです、神仏がないんです、ダイヤモンドも石ころも人間の価値判断を免れて、自ずから無限絶対です。
 妙観察智=自分という価値判断基準を免れて、ものを見るんです、自由自在、孫悟空が世界のはてまで行って、五本の柱があったから、そこへサインして帰って来たら、観音さまの掌という、人間のすること場合の数は決まっているんです、わずかに自分という嘘を止すんです。
 成所作智=こうしてもってことを行なえば、過不足なくぴったりっていうんです。



   日々是好日


 お釈迦さんがお生まれになったとき、七歩歩んで上下四維指さして、天上天下唯我独尊といはれたとあります、わたしはすべての赤ん坊がそのように生まれ付くと思っております、実感です。七歩とは六道輪廻にもう一歩、六道輪廻を抜きんでて、如来としてあり、来たれる如しと、上下四維指さして天上天下唯我独尊です。
 
 われらの実感は現実生活にあります、どうですか、あなたご自身、毎日が六道輪廻たらいまわしという-日々是れ好日とは程遠い現実を痛感しませんか。今日は地獄明日は極楽、一瞬一瞬が阿鼻叫喚であり、他人を蹴落としても一円でもよけい手に入ればとか、ほっとした二日後には子どもが交通事故、夫婦げんかのああいえばこういう、てめえのへま、いったい自分の望みはなにか、なんで世の中がこうある、通り魔でもやってやろうか云々です。

 痛切に思い、古くより六道輪廻とあるその壁です、生まれかわり死にかわりのこっちゃない、たった今のおのれを、どうにかしてくれ、どうにかならないかっていうんです。それを一時棚上げにして、いいことしいは極楽浄土となと、お題目に過ぎないといったら、そうです、お題目だっていいたいんでしょう。なんまんだぶつと巨大な数珠を一つづつ繰りながら、みなしてなんまんだぶつと唱える、一万回百万回念仏です。
 我を忘れて唱えるんです、我=六道輪廻なんです、法悦というでしょう、自分という地獄餓鬼畜生修羅天上人間を免れるんです、そうしてついに忘我です、ほんとうにすっからかんになれば、天上天下唯我独尊の如来です。

 物心つく前の赤ん坊がそうです、宇宙の一かけらのような、こわいような目をして。
 わたしの実感は、既に生まれかわり死にかわりしないっていうことです。そんじゃつまらないってね、あっはっは、極楽浄土ぐらいつまらんとこないですよ、蓮のうてななんて退屈して死ぬ-理想郷とか共産主義とかたといなんだって、人間の観念の生み出したものには、人間は住めないんです。
 如来とは何か、六道輪廻たらいまわしを来たる如し。



   解脱の道は標準が自分


 欲しいとか欲しくないとか、説法するとか、普通に暮らすとかのこっちゃないんでしょう、強いていえばどれもみんなあって、怒る切ないこんちくしょうとか、地球破壊爆弾とか、きれいなお尻とかあって、存分な世の中です。悟ってこれなしあっちだめなら、悟らないほうがいい、だからね、どっか根本的に、考え直す必要あるんです。ことは自分が自分に関わる、つまりとやこうやっているその自分というから厄介なんです。

 他のものは標準があって、つまり物差しをあてがって、ちょい違いもう少しとやればいい、でも悟る解脱の道は標準が自分なんです。それが間違ってるって、だれ判断するんです。でもってどうしたって、経験者に導かれってことあります、でないとどっち行っちゃうかわからない。
 でも科学より厳密まちがいようがないのは、観察者という別ものを置かないからです。自分が標準という醍醐味を知るんです。

 欲望ってね、欲望を殺さないんです、なにものも殺さない、一OO%あるいは二OO%生かす方法です、手つかずの法、只管打坐です。そうして欲望を収めることを知っています、悲痛苦しみ他一切、あるがまんま手を付けぬ方法を知っています。ほんとうの生活です。手を付けないと、起こって消える、念起念滅です。
 たいていこれが出来ないんで苦しむんです。
 苦しむ人に手をさしのべたいんです。
 実際はほっとくことの方が多いんですがね。
 
 悟りというのをなんか遠くに置かないんです。生活必需品といっていいんです。そう長くはかからない、他に求めるってことさへ止めればじきです。



   自分は何か


 自分は何かと知るのに、故人幾多命がけの参究があったんです。なぜでしょう、あるがまんまを知るのに、あるがまんまじゃだめってことあるんです、従前の心をもってしてはどうもならんのです。でなきゃ仏法なんてあったってなくったって同じですよ。
 心とはなんでしょう、心は二つはないはずです、でもなぜか、
「自分はこうだ。」といい、
「あるがまんま。」といい、でもってどうだ、それだからと、ついには際限なくやっている。どういうことです。
 心が一つなら不可能事です。

 あるがまんまを観察する自分てなんです。心意識として、ぽっと出る、するとそれに対して、こういいああいい、またそれにと続くんです。
 ぽっと出るのはすぐ消えちゃうというか、ぽっと出たきりなんです。
 だから残像、すでにないものに対してああだこうだ際限なくやるんです。
 ふつうこれを心といい、それの集合体インテグラdtを自分といっています。
 ないものから発する-根なし草です。

 五蘊は皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまう、という般若心経の冒頭はこの間のことをいっています。
 平らったくいえばみんな思い込みだというんです。人間といい自分といい、ありのまんまだという、そういうかってな思い込みの故に、人間の苦厄はあるというんです。
 覚醒せよ、目を開けて見ろってところから、仏の道は始まります。
 ですから思い込みイコ-ル嘘です、架空の自分およびそのありとあらゆる千変万化-五蘊です、その上の砂上楼閣を如来は取らないんです。
 どんなに立派そうに見えても百害あって一利なしです。



   一遍上人  


 大燈はものすごいやつだったがな、足びっこで坐禅できない、いよいよ弁舌並びなき、機鋒鋭く、あっちこっちの禅坊主やっつけて歩いていた、ついに、こいつがまた忘れちゃったんだけど(老人ぼけ-固有名詞健忘症)なんとか禅師に会う、さんざんやっつけて、うんといわない、ようやく気がついて、三日三晩立ちつくす、ついに悟入するんです。大悟して一説を立してのち、十八年間乞食暮らしをする、キリスト教とか法難あって、彼を呼び戻そうとした、大燈は瓜が好きだった、乞食に瓜を施して、「手を出さずに取ってみよ。」といった、瓜につられてやってきて、「じゃ、手を使わずに出せ。」とかいって、とうとうとっつかっまった。乃至は見事に法難を救うんです、古今を通じて弁舌一等といわれた。遷化するときに、坐禅を組むんです、びっこの足から、骨が突き出たといわれる。

 となうればほとけもわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして
 一遍上人は、こいつはごっつい、たいしたもんなんです、おそらく我国宗教史上一といって二のない人物です、なむあみだぶつと唱えながら、ついに空じ切る、しかも老若男女だれを厭わずです、ふれるものみなを度して歩いた。
 となうればほとけもわれもなかりけり
 だれだってこの実感を持つはずだのに、どうして落着しないのか。
 他いったい何が欲しいのか。
 落着しないという自分があるっきり。

 なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。
 なんまんだぶつの声消えて、四智円明の草も木も。
 いいですか、たったこの間のことなんです。
 いったいなにがあるんです。



   浮き世のこと


 心理学を二通りに分けて、フロイド、ユングから来るいわゆる心理学と、ドストエ-フスキ-からのものとあるというんです。でもってわたしはその後者というより、心理学っての独断、偏見でもって、だ-い嫌い、あれはたとえば信仰を一OOとすりゃせいぜいが七O、いや実際とこ四Oも行かない、心の退廃かさぶた-とかいって、そういうこと禅に反するんですけどさ、つまり後代の人はきっと、今の世を心理学的時代と呼ぶに違いないと思います。ドストエ-フスキ-には、日本人には黒沢明の天才をもってしても、計り知れないところがあった、そりゃゴッホもそうなんです、一神教西欧精神の根本に関わるんです、それをいえば精神分析等心理学も一神教の末裔です。

 宮沢賢治に、「ぜんたいが幸せにならない限りは、個人のほんとうの幸せはない。」という語があります、明治以来西向け西で来た、日本文壇の唯一西欧をマスタ-した人です、即ち要約するにこうなったんです。
 これね、日本人のわからないのは、心そのものの構造がこうだっていうこと。

 個と全体といえばそれまでなんですが、ポリス社会-人間社会という、その向こうは砂漠だったという、そこへ行ったらだれ一人生きて帰れんのです。
 砂漠という信じられぬほど美しい、あるいは奇跡というその幻想を持ち帰るだけだ。
 釈尊のように菩提樹下に坐す-自然そのものと身心の一体化です、それがないんです。
 囲いを廻らせて、スフィンクスを置き、「それは人間だ」という謎を解かぬように、人間の人間による人間のための、合議制です。
 自然は制服されるべきもの、コンパスと三角定規で計るっきりのものです。
 そうして膨大な歴史を生んだ、絶えざる進化-すなわちどうにも納得しないんです。
 地球壊滅の日まで。
 でもその西欧精神の、バッハやモ-ツアルトに見るような、ほとんど東洋精神とまったく平行線を保つといったらいいか、無心と実に同じに見える、一切傷つかぬ心です。

 めんどうだから端折ります、そうねえ、ゲ-テはお金かかって大騒ぎ、良寛は無一文で成り立つって違いですか。でもって西欧精神は滅びるんです、ドストエフスキ-がその現場証人です。
 滅び行くものを追ってもしょうがないんです。
「一個が幸せが万人に及ぶ。」
 これ仏教方式です、一個風穴を開ける、この方法滅びないんです。
 いえ、わたし宮沢賢治大好き人間です。
 どうも、かってな御託並べました、失礼。



   マニュアル


 マニュアルになかったら、なんにも出来ない、デバ-トガ-ルに角度何十度の最敬礼とか、そういうことされてどこ嬉しいっていいたいんだけど、文部省ぶっつぶしゃ、ちっと教育よくなる、外務省退けりゃ外交できるって発想じゃない、現実見ね-のかバ-ロ-めって、檀家に上級試験十三番とかで文部省入ったのいて、からかいついでなんかいったら、
「そんなことしたら全国うん十万先生どもどうやって養う。」
といった、入ったばかのぺいぺいがって、開いた口が塞がらない。だれも大蔵省しかいわないけど、文部省なくって大いに結構。大学もテレビ大学、IN大学にすりゃいい、文学部ってとこどっぺって何年もいたけど、そのまあ教授助教授どもの、いやもう云う甲斐もない、詩人天才をぶっ殺すための、世の中税金ねぐらにこもって批判するだけの、おそろしくバカで物まね以外なんにもできない、漱石の時代から根腐れ病の、やくざってしかいいようのない連中。
 あらま、わたしとしたことが、でもそいつがだんだん悪くなるばっかりの、
「そんなもんに教わる学生ってなんだ。」
といいたくなる。
 理科はともかく、語学歴史編纂所のほかに、始めから不必要な?
 人の足引っ張るものでしかなかったと思う。

 マニュアル二題-どっちも恥かき。
 せがれ中学三年の父兄面談に、成績こうだどっこも受からないといわれた、
「どうして。」
「だって内申書てんでぱあだ。」
 試験受かればいいんだろってことない、じゃこの体育二とかいうのなんだ、授業中に喧嘩したのと、一人で海泳ぎ行ったから、だってもさ、ひ弱な体トレ-ニングして鍛え直したんだけど-そういうのマニュアルにない。
(てやんでえ。)
 高校の先生に聞いたら、いや内申などすれすれでないと見ないですよっていう、ふんならてんで、三カ月特訓したら受かった、高校受験など頭いらん、完全詰め込みの参考書三べんやりゃいい。でもって娘んときも右に全く同じ。
 
 ウヒヒ、中学先生どもがん首揃えて謝りやがった、校長定年退職で記念樹植えるという、PTAの若いのが、そのゼニでアフリカへ植林しようっての、賛成、校長なんてほっとけっていったら通らなかった。
 あれこれどっかで喋ったかな-やだね-年より同じことばっか。

 でもさ、もう一つマニュアル、いつかの四月雪消えてドライブ行こうってんで、雲水どもと飛び出したら、見通しの曲がり角で、ポリ公張っていた。ポリ公張ってたんだけど、田んぼから山鳥ふっとんで来て、車に当たって交通事故。雲水飛び降りて、スタンピング-かわいそうだから早くって思った、だったら首ひねればいいっての、ハングリ世代のこっちは知ってたけど、
「なにしてんだ。」
 見たら、そこにポリ公つったっている。
 もたもた、やっとこ山鳥抱えて車ん乗って脱出。
「なんでなんにもいわね-で突っ立ってんだ、ポリ公。」「マニュアルにないからさ。」
 
 坊主の殺生って書いとけとかいって、OX式マニュアル-その山鳥どうしたか。
 一、花をそえて丁重に葬った。
 二、信濃河へ捨てたらぽっかぽっかと流れて行った。
 三、猫に食わした。
 四、羽根むしって料理してうめ-うんめえといってみんなで食った。
 正しいのにO-そりゃ坊主だから答え決まって?



   良寛さんの五合庵


 良寛さんの五合庵てね、人を案内するのにあんな困るものないんです、なんせたったの五分、ひと目見りゃおしまいの、あとどうするかったって、寺泊に魚買いに行ったり、だからきっと印象にないんです。
 出家したてに、庵主さんにつれられて、墨染め着て五合庵から、潮騒の路を、毒消し売りの宿によって、角田浜まで行ったことがありました、今は観光道路になっていますが、波のしぶきが衣の裾にかかって、それっこそにわか良寛さん。

 良寛を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘ずるなり。新潟には良寛学者良寛博士がいっぱいいます、もっとも付き合いたくない連中です。
「良寛さんに一番遠い者。」
はっと気がつく人も少うしはあるんですが。
 良寛さんにばったり出会ったらどうします、三拝九拝お引き取り願おうって魂胆?それとも、
「蚤たけんでくれよなあ、おれ現代人だから。」
とかいってがきの付き合い! 良寛さんあっていうんですよ、すると良寛坊主あとそっくり返る、あというたんび反り返って、ついにはぶっ倒れる。
「おれも年だからあれだけは止めるよう、子どもらにいってくれ。」
と良寛さん、
「なら自分でいやいいに。」
たってね、良寛僧堂は長年にわたって、子どもらだった、そうですよ、子どもら絶対っていう修行方法は、たいていじゃない。
(子どもらはうそではない=他に仲間はない、だから。)というんですが、たとえば隠れんぼうをして、しっとかいって、日の暮れるまで隠れている、良寛さ-んとだれか呼ぶ、は-いと出る、だ-れもいない、そのぼかっとした顔が面白いといって、良寛さ-ん、は-いって、半日もやってるんです。

 そこへおのれを置く=忘れ去るの修行です。とんでもない修行です、他のだれもおそらくやったことがなかった。自分でいやいいにってわけに行かない。
 良寛さんあというのは、物売りが大声を上げて、あっと反っくり返った良寛さんが、面白かったというんです。面白かった、人為のものじゃないからです、身心のない、忘我に近いんです、ぴしっと音立てたって、どわっと来るんです。
 出雲崎へは三十分、柏崎には高速道路で三十分。とっつかまらなければ二十分。
 失禁の涙ではなし良寛坊主。



   悟り 


 悟りはたった一回きりのもので、思想や考え方の延長にはなく、各人各様のものでなく、二二んが四というほどはっきりしいていて、お釈迦さんの悟りと他のいかなる人の悟りも、寸分違わぬ、心のメカニックとしてあるものです。

 香巌爆竹の因縁-香巌という非常に聡明な人があった、一を聞けば十を知る、目から鼻へ抜けるというふうで、ああいえばこういう、どうもならんので、師が、
「おまえの父母の生まれる前のおまえの眉毛はどんなふうだった。」と聞く。さあわからなくなった、これしきのことがわからんようでは、とっても坊主やってられんというので、寺男になって、来る日も来る日も庭を掃いていた。あるとき掃いた小石が、竹藪の竹に当たって音を立てる、これを機縁に悟るんです、かつねん大悟とあります、まんがじゃない、実話です。
 どういうことかわかりますか。

 父母未生前の消息-師の設問はでたらめじゃないんです、おぎゃあとこの世に生まれて、父母未生前から、この世にたたき込まれるんです。生まれついては、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法なんです、自分というものがない、自分を意識することがない、自他の区別がまったくないんです、父母の生まれる前のおまえの眉毛=悟りとはこのまっぱじめにもういっぺん戻ってみることです。
 自分がない状態から自分が生じて行く、たしかに人間として一丁前の生活を営むには、それ以外の方法はない、けれども現実を概念化する、有眼耳鼻舌身意、有色声香味触法です、実際ではない、あると思えという架空の生活です、仮の自分なんです。

 すべての問題はここから起こる。架空と現実のずれ、砂上楼格、思い込みです、思い込み人間がおのれを省みる、どうもならんのです-五蘊は皆空なりと知って、一切の苦厄を免れるんです。
 ものごころつく前にやったことを、もういっぺんやると、心のメカニックというものが、はっきりする、迷わない、すべての迷うのもとを知る、ものみな解決済みなんです。
 ですから悟り終わって悟りなしといいます。

 その方法は一通りあります。(仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘れるなり。)です。
 自己を習うとは、ああだこうだいってないんです、概念化したところを免れるのに、悟りはどうの何はどうのやってたら、百年河清を待つです、目から鼻へ抜ける香巌が、どうもならん理屈です。
 自己を習うとは、思想概念の主人たる自分を発見の旅です、捨てる旅です、思想概念を自分と思い込む、では自分を捨てるんです、坊主やってられんといって寺男です、むかし坊主=神さまってことあったんですよ、寺男じゃ死んだも同然だったんです。そうして死ぬんです。
 自分を捨てて庭を掃くっきりになるんです、掃くっきりになる、自分もない庭もない、掃くもない、すなわち忘我。
 忘我とは忘我していることを知らないんです。
 たまたま小石が竹に当たる音に、はあっと我に返るんです。
 
 自分が失せて一切がある、通常の体験とはぜんぜん違います、我と大地有情と成仏といった、お釈迦さんと同時成道するんです、一瞬に仏教の成立があります。不思議に自分=世間すなわち人間を卒業しているんです。
 悟り終わってようやく地球のお仲間入り、悟る以前は地球のお荷物。
 如来来たる如し、花のようにぽっかりと咲くんです、月のように自ずからあり、万物とともに、雪は雪降る。
 むかしも今も寸分変わらぬのは、意識妄念によらぬからです。
 まんがでなくって真剣に求める人はどうぞ。今だってまったくちゃ-んとしてますよ。



   死んだ子どもを忘れられない母親に


 死んだ子どもを忘れられない母親に-自分も死んでみるしかないんです。慰め励まし助言とかいうの、殺し文句の世界です、キャッチセ-ルスみたいのにころっとやられる、いっときなんとかなるってことです。夢から覚めてまた夢というより、夢のまた夢、迷いの上の迷いです、頭上に頭を按ずといいます。
 死ぬ方法の一つは、壁に向かって坐る、面壁です、坐ったらどうなるの結果を考えたら駄目です、坐っているとか思う脇見運転だめです、なりふりかまわずです。
 なんとかならないかって坐ったらなんとかなるんです。
 わずかに心意識の上の問題です、だったら身心そのものが必ず解決するんです。
 古来みなそうやってやって来たんですよ、お茶を濁したらお茶を濁した人間になってしまう。
 答えが出なかったら、生きてはいられない。
 これ解決のたった一つの方法ってこと、今の世だろうが心理学もなにもないんです。

 でもね、そうやって坐っているでしょう、身心あい整って来るんです、つまり余計ことどっかへ行く、すると死んだ子がまざまざと出て来るんです、
「あああのときわたしはなにもしてやれなかった、そうじゃないわざと意地悪して、そっぽ向いて、そんだのにあの子は、-」
 自分を責めるっきりない、三心不可得というその現実のまんま、ばかあ-っと来る。
 号泣の他ないんです。
「もう坐れない、許して。」
といって来る。
「いいから坐りなさい、仏さまがお前を罰するというんなら、首さし出すんです。」
 坐るんです。

 不思議なんです、何度か去来する、哀しい我が子が、二度と同じふうには去来しないんです。
 同じふうに思い出したって、もはやかつての影響力は持たない。
 死ぬということです=解き放たれるんです。
 これを生半可にやる、つまり半分逃げるからいつまでも追って来るんです。
 三心不可得-過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。悩み苦しむ等およそ不可能だっていってるんです。

 かつて我が子が死ぬるほどの大事件があると、出家剃髪して、ほんとうに個の三心不可得をうる、生死を明きらめたんです。
 その仏門がなくなってしまいました。
 じゃ人間どこへ行ったらいいんです。日本は滅びるではないかと危惧します。
 キリスト教は邪教だけれども(というとまた怒られるんですが、)ちゃんと修道院があります、テンプル騎士団やフリ-メイソンが文化を担って来たんです、文化とは人類あし草の成長点です、止まったらもうおしまい、腐れるっきりです。
 禅門が大いにこの役を担って来ました。今はない。
 そんなことはない、復活すればいいではないか。
 腐ったらたった一つの種でいい。
 必ず芽吹くんです。
 おれはなんだからといってないんですよ、一個半個(わたし)という形骸を脱するんです。



   戦争


 戦争は狂気と一蹴して全く反省しない、戦争って反省されたことって、あったんかなあって思います、一度でもあったら戦争なくなってる-でもなくならない、少なくもなってない。

 いったい誰がどう反省するんだろう、田舎にゃごろごろいる-いたんですよ、中国あたり行ってろくでもないことして来たやつ、強姦殺しかつあげとか、いじめとかもうなんでもあり、平気でいるんだか-忘れるってことないはずが、口を開けば戦争は悪い-
 日頃見りゃ「こいつは。」って思うやつもいる、ぜんぜんのっぺり面もいる、あんなスマ-トなのが兵隊自殺させたとか、かと思うと仏さんみたい人情家が憲兵であったり。
「ドイツみたい子が親訴えるくらいやりゃいい。」
と思ったり。

 わたしどもは終戦直後の教育を知ってます、教科書墨塗って、サックつけてこれっから先の鉛筆使って、な-んもないその時代、先生の目が輝いていたんです、
「戦争は終わった、民主主義の時代が来る。」
 あんな楽しいことなかったんです、わたしはしょうもない子で、三日に上げず怒られてたけど、涙とともに思い出すんです。
 だれもかれも生き生き人間、鼻たらして目やにたけて、勉強ってふうじゃさっぱりなかったけど、毎日楽しくって、真っ黒けになってやっていました。

 そいつがふと気がつくと、受験だの、大ボス小ボスだの、出世主義先生とか、指導要項になっていた、-
 むかし下士官みたい、運動部の学生とかいじめとか、なんもかもまったく同じというより、だらしなく馴れ合いになって、戦前のいいとこだけ消え去ったって、これ実感です。
 一億玉砕鬼畜米英といってたのが、くるっと変わって戦争反対民主主義って、これ変わったんじゃないまるっきり同じです。
 反省なしの横すべり。
 ぜんぶ反省なしの横すべり、戦争を終結させたのは、米内光政と井上茂美、山本五十六との縦三人組だった、三人は初めから戦争なんてめじゃなかったんです、米内はすばらしい男だった、井上は厳密な精神を持っていた、山本は世界をよく見ていた、戦争=歴史に否応なく巻き込まれた、(外っかわの)人物って思います。
 終戦時にとくに必要であった。

 あのへたくそな戦争、緒戦は外務省の手落ちで、最後通牒が遅れ、戦争裁判という一方的押しつけに、罪もない人まで死なせ、日本人は悪者のレッテル、外務省は四十年もひた隠す-だれか何かいうか、なんにもいわない。
 ミッドウエイ以後の負け戦、そりゃ物量がないから当然だ、無理な戦争だったで、片づける、そんなことないんです、あんまりに不細工な戦争だったです、舟がそこへ行けば勝てたの引き返す、むくちゃな陸戦とか、くわしいこと止めるけど、海戦も陸戦も半分以上、勝ってたです。

 いいですか、農家の働き手が戦場へ行って、勇猛果敢な兵だったです、それを用でもない戦に見殺しにする、時の運とかの問題じゃない、へたっくそっていうかなっちゃないんです。
 参謀がなっちゃないんです。
 戦争の反省-参謀つまり頭脳を育てること。飛行機の時代に、血涙である税金使って戦艦大和作らない、脳味噌です。これが第一。
 は-い大蔵官僚ってね。

 これはだれかを選んで教育する以前に、一個一個が議論ぐらいできるって、そういう社会の問題かも知れない、知識なくったっていいこと言えるやつ、戦後バラ色民主主義はそういう方向行くはずだったのに、やっぱり革命でもって血流して、土地や権利獲得しなきゃだめかって気します。
戦争ね、人殺すの宗教なんですよ、とんでもない理由ってのないと殺せない、でなきゃ自分犯罪者。
 宗教についちゃ、いらんことです、人類の必要悪、でもこれを免れる方法がある-



   万事を休息する


 なりふりかまわずということがまずあってなんです、至りえ帰り来たってというように、行っておのれの足で踏んづけみなけりゃ、観光案内も出来ないんです、写真からビデオからあるったって、そりゃだめですよ。
 因果無人だから無人の境地っていう、一木一草も生えないんです、人を殺すなら殺せっていう、殺そうたって殺せないんですよ、一人っきりというのは、万事を休息する、悟りの本来がここにあるんです。心意識としてぽっと出ぽっと消えるでしょう、それをそのままにしておけないんです、どうしても取り扱ってしまう、静かになればなるほど妄想煩瑣。

 私ことですが、かつて摂心にわんわんと妄想が出て困った、なんとかしてやれと思うにつけて、ますます煩瑣、まっくろこげになって三日四日やっていた、どうしようもなくなって、お手上げです、えい、どうともなれっていったとたん、ぱあっとな-んにもなくなった。
 がらっとなんにもないんです、心意識が失せたんじゃないんです、ぽっと出ぽっと消えるそのままになった、観察しないんです、心=自分は一つことであるのに、自分の思念を自分が観察する、二人三脚というより、不可能事なんです、つまりなくなった残像を追う、もうないんです、うそっこんです。これがもとに帰ったんです、起こすものと観察するものが一つ=心意識だけ=なんにもない。

 これをもう一つ進めて忘我なんです、至りえとはこれです。忘我のまんまじゃ行ったきりだから、はあっと我に帰る、このときに仏教のすべてなんです。
 それまで一言半句もなかった人が学者仏教の過ちを指摘するんです。六祖大鑑慧能禅師の如きは、文字も知らず、薪を担って往環を行く、たまたま、応無所住而生其心と聞いて徹底するんです。
 我というもののすっかり失せて薪を担っていたんです。
「おうむしょじゅうにいしょうごうしん。」 と聞いてはあっと我に返ったら、
「おうむしょじゅうにいしょうごうしん。」 とこうあったんです。
 そうしてあっちこっちの坊主とかに、
「違うよ、こうだよ。」
 といって歩いた。文字いらないってのわかりますか、でないと宗教とはいえんのです。



   人間の本当


 わかりやすくって、だれにも解かるようにって思うんですが、なかなかうまく行きません、でもほんとうは簡単な理屈なんです、仏教というさまざまあるものって思わないで下さい。人間のほんとう、本来ある姿っていうのは、実にたしかで間違いようがない、
「こんないいものを持っているのになぜ。」
 っていうんですよ、信じる信じないもない、生まれついてこうあって、三つのころまでは、いや十も十五までも溌剌と、楽しいっていうんですか、ものみな新鮮で生きて来たのに、なんでっていうんです、なんで自分ばっかり覗き込んで、まっくらやみで、ぽっかり浮かんで行く空の雲も見ないのか、そこに咲いた草花と生を共有しないのか、風のそよぎも水の流れも他所事にするのかってことです。

 ストレス社会いじめ学校とか世の中メタンガスみたい、将来夢も希望もないとか、若い人は私なんぞよりずっと鋭く、さまざま感じているでしょう。
 でもたとい公害世の中だって木の葉っぱは変わらないんですよ、木の葉一枚あれば全人生ってことあるんです、牢屋の中に閉じ込められていて、草が一本生えた、はるののげしの花を咲かせた、でもってほっと微笑むんです、そうして生きるんです、そういう人生がありました。人間の命について根本的に考え直すいい機会なんです。仏の教えは「答えが全部自分に書いてある。」っていうんです。どんなに思い悩もうが、他人のせい世の中のせいで事起ころうが、すべては我が一心で解決できるというんです。私は只管打坐といって、座禅を専らにする者です。どんなことも坐って解決して来ました、坐るって、自分とその思想とっきりないんですよ、仏教の勉強なんかしたことないです、でもお経だろうが仏祖師の語録だろうが、解からないってことない、自慢なんかしていません、ぴたっとそのとおりっていうんです、たといお釈迦さんだって、へんなこといったらだめっていいます。

 人間てだれだってそうできているんではないですか、ただの人、恐いものなしっていうか、だれに気兼ねなく自由自在です、ピカソもモ-ツアルトも、楽しくおもしろくって、でも月見たほうがいいやってあるんです。私は私の主人です、世の中資格も地位もお金もさっぱりだけど、そんなの爪っから先のことっていうんです。
 三つの子どものようにものみなおらあがん。
 おらあがんてね、良寛さんが人の物だろうが、手にするものみんな、おれのもの、おらあがんて書いたそうです。
 でも良寛さんは実にきちんとした人でした。はた迷惑人間じゃないんです。



   物理的な苦しみ 


 物理的な苦しみを脱するのは無感症とか麻薬とか、肉体的に死ぬことですよ、つまり生きることを放棄したいのと同じです。激痛が走るのは、そういう必要性がある、ガンにかかるときはガンにかかるっきりないです、この身心として与えられているかぎりを、一00%二OO%(自分という思い込みの内+外)する=ただの人が、悟り終わって悟りなしなんです。特別や例外に頼らないんです、とはそれだけ自由なんです、自分の二本足で歩くっきりない、この上ない楽しみなんです。

 でもね、肉体的苦痛が単純に肉体的苦痛っての、わりかし少ないんですよ、取り越し苦労の分が多いんです。
 双子の赤ん坊があって、はいはいのころ行ったら、クッキ-一つ相手の口ん中へ手つっこんで食っても、平然二人でやっている、不思議な気がするんです。それが物心ついたころ行ったら、片方が手上げただけで、わ-っと泣いたりする。そのまんまというか、そいつを助長してみんな大人になるんです。痛いかゆいの実質の部分がいかに少ないか、悟り終わって思うことの一つはそれです。

 たとえば死ぬのいやだ、死の恐怖って考えてごらんなさい、ちらっちらっと何秒も思ってないんですよ、ほんらい、
「老人-みにくい-ぎゃ-。」
 終わりってなもんで、老人ていうその跡形もつかないのが、心です、それを四六時中考えている、思い込んでいる、気になっている。
 ばかというより気違いです。
 でね、老人みにくいぎゃ-の他、どう敷衍したってその周辺、ガンだ-死ぬ-苦しいって、別にあとないんです、それをもうおれが死んだらどうなる、どんどんがんがんと、めっちゃくちゃ。

「おれガンなんだってさ。」
といって、一人半分人を救って死んで行くなんて、かっこいいんです。自分がだめなら人救えばいいんです。落ち込むひまなんかない。もう一つ、身心ともになし、自分がないということを知ると、けっこう病気にならんことあります、風邪引いたら摂心てね、脳内麻薬っていうか、いろんなもの引き出すんです。
「痛いの痛いの飛んで行け。」
という、これ正解なんですよ、内より外、ほんらい外っきりなかったりして。



   モアイ


 世の中どうなってるんかな、きっとゴジラの出る季節になったか、地球のへそがもう一回パンクするんか、う-ん、へそってそりゃイ-スタ-島に決まってるさ、あのモアイ像ヘイエルダ-ルのやつろくなことせんで、うすらばかの行列だっていって、そこらじゅう盗み歩きやがって、落っこちてた目ん玉拾ってくっつけたら、ぱりっと美男子んなって太陽の子。野郎バチ当たってエイズじゃなくって、睾丸腫れ上がって死んだ。
 モアイはどこから来たか、永遠の謎。
 
 瞬間転送機に乗って宇宙から来たんだぞ、へその緒といわれるパイプを伝って、見かけ上は地球内部から実体化したんだ。
 わかるかな-わかんね-だろ-な。
 そうして何をどうしたか、コピイ器械を作って、自分そっくりのヒュ-マノイド-人間なるもの-をこしらえた。島は地球の真ん中にあって、八方に潮が流れて行って、八つの大陸とその島々に、-人間なるもの-を送り込んだ。

「よく見届けるがよい、すべては記入されるであろう、美しいこの地球に、できうるかぎり手を付けぬこと、それが使命だ。」
 -人間なるもの-はよくよく使命を守って、かつがつ木の実を取って食らい、必要なだけの鳥やけものをかっぱらいして、十分な長寿を保ち、死ぬ時来たらぽっくり死んで次に譲る。実にその原形とそっくりにできていた、だもんで手数不足でもってコピイ器械を作った。
 自分をコピイするとちょっぴり違って、そのまたコピイはだいぶ違って、こりゃいかんといってコピイ器械を破棄したころには、地球は戦争だ宗教だジンギスカンだぎゃ-すかわんさ。

 原形はどうしたって、役目を終わってのっしのっし、海辺まで歩いて行って、そこでモアイになった、モアイもういいっていう語がなまった、つまりそのまんま宇宙空間へぶっ飛んだ跡型。

 遺伝ていうのは、へんてこりんにできていて、コピイ一号型が何代めかに、そっくり先祖返りを起こしたりする、人間という悲惨無惨歴史の、つまりは彼-彼女がこれを担う他なく、-
 二号三号~N号型、いったいどこまであるんだやら、そうして自分は何号型、な-にさどっちみちコピイ人間。
 因みに天孫降臨とかいう、イ-スタ-島から第一号がやって来たってこと-ひょっとしてそのまたコピ-がどっかからとか。
 すべては記入されて、もうじき終末って、そんなオウムが考えるほど、世の中甘くね-んだ。



   木の葉


 風も揺れず木の葉も揺れず、汝が心揺れるなり、というのなんかあると思うんでしょう、そうではないんです、木の葉揺れず、こっちの体が揺れる。
 自分という垣根が外れてしまうんです、ほとんど心も失せて-見ている自分がない-単なる現象です。
 テレビを見ている、テレビが自分で、そっくりこっちを見ているような感じ、形影あい見る如しというんですが、大悟徹底といわなくとも、無眼耳鼻舌身意といわれる、これのありようは見て取れるんです。
 
 で、それがなんだという、自分にとって、自分の人生観にとってなにほどのこと。そうです、こういうふうに再三再四思うにいいです、いったい何-はあてわからん。
でもってほんとうに身心失せる時、
「そうか。」
っていうんです。通身納得する、絵に描いた餅ではない、食べて大満足です。標準、つまり物差しっていうのはこれしかありません、たとい大見性も、人がどんなこといおうが、自分納得しなければ二束三文です。

 悟りという、見性という、一回やったらもう一回やれといわれる、もう何回やったって、悟りがあり見性あれば、そりゃそれっきりのものです。信といい不信といい信いらず不信なしといいます。そうじゃないんでしょう、ものみな見るとおり聞くとおりある、あるとき信じあるとき信じない、でもって身心あげてものみなと 永しなえにこうあるんです。
 どうですか、他にないんでしょう。
 坐って忘我の工夫です、もと行なわれつくしてるところに帰りつく、もとこうあるのに、どういうわけか泳ぎ出している、その分なにかとうまく行かない、帰家穏坐、只管打坐手つかずの工夫です。
我と我が一身-一心あれば他になんにもいらないんです。



   坐禅が坐禅になる季節


 禅語も漢語ももとないんです。どういうことがあるかというと、自分が自分に立ち返るということです。他一切ないんです。自分はいつだって自分だという、でもうそっことです、今日も法事に行って、弟子に云ったことは、
「いつまで真似っことのお経を読んでいるか。」
ということです。鶯がホウホケキョと鳴くでしょう、蛙がケ-ロと鳴くでしょう、同じにあるいはそれ以上に鳴いてみろっていうんです、通身に、全身全霊を挙げてというより、ただ鳴けばいい、もしこれが出来たら、座禅なんてことまったくいらないんです。わかりますか。

 春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける
 自然というでしょう、そうではないんです、自然と人間という二つじゃないんです、鶯も烏のかあも自然という別ことを知らないんです。もと一つことです。
 一つことになった時、ほんとうっていう実感です、生きているって始めて味わうんです、もう死んでもいいってくらい、一OO%二OO%です。

 お釈迦さんは、生老病死苦という難問を解くために、王子の身でありながら、妻子を捨てて出家します、生老病死という、人生いかに生くべきかという、いえどんな問題でもいいんです、
「どうしたらいいか。」
と、こうほんとうにあるんです。   
 諸方尋ね歩くんです、おそらく思想宗教乱立して、今よりもっと複雑怪奇な世の中だったんです。Aのもとへゆきaといえば、Aよりaになった、Bのもとへ行き、bといえばBよりbになったんです。思いつくかぎりをお釈迦さんは試みるんです。そうして、 
「おまえもおれと同じになった、いっしょにAをやって行こう。」 と云われて、はてなっていうんです、
「自分はいったいなにか=生老病死苦です。」
 という疑問が氷解していない。さっぱり満足しなかったんです。 すべてを尽くすんです、火責め断食もどうもならん、ついに刀折れ矢尽きて、ガンジス河の辺に坐るんです。
 菩提樹下という木陰です。
 なにをしたってどうもならん、どうしようこうしようの心がまったく失せているんです。
 
 座禅の形は古来からあって、鼎の形に体を支える、他どうやたって支点は一つなんですよ、もっとも長時間自在なんです。いいですか、お釈迦さんのこれが只管打坐なんです、矢尽き刀折れる、
「すべてを尽くして、自然(じねん)に手も足も出ない。」
という、だれだってまったく同じに、仏祖師も私らもです、ここを通るっきりないんです。
 手も足も出ない、ほんとうの自分です、はじめて自分こっきりなんです、あ-でもないこ-でもないの、他人の物差しを仮らないんです。

 実に参禅とはこのことなんです。
 正師につけとはこれをいうんです、邪師は必ず付け加えるんです、仏教を云い、禅問答です、よく聞いていると「あれ。」といいます。正師は奪うんです、取っ払う、余計ものはいらない、早く真っ裸の、生まれたまんまの自分に戻って下さい、放てば手に満つ、もとっからあるんです。「これ。」というんです、これといって気がつくまでです。
 お釈迦さんはこの過程をたったお一人でやったということです、ぜ-んぶ引き算、教えられること、つまり外から入る物じゃさっぱりってことです。作りものは壊れものってことを、十何年もかかって知るんです。
 そうして坐っておられた、忘我です、坐っているとやこう、それを観察する自分がない、まったくなんにもないとは、なんにもないって知ることができない、忘我とはまるっきり無ですよ。

 たまたま一念起こるんです、お釈迦さんの場合は、明けの明星だったんです、おそらく一OOtとんかちでどっかん、こりゃ自分でやってみるっきゃない、明けの明星っきりになるんです、弘法大師が四国の山中で修行中に、星が頭の中に入ったという、そんなちゃちい-不完全燃焼じゃないんです、それを司馬遼太郎は、宗教人のいうことはわからんなんていってるけど、もっての他のことです。
 人間生まれたまんまのありようですよ。
 
 無眼耳鼻舌身意-つまり自分という、体も心もまったくないのに、ものみな一切がある、
 我と天地有情と悉皆成仏です。
 もとへ帰ったんです、仏教ってたったこれだけなんですよ、不思議にまったく納まるんです、人間の妄想=生老病死苦がいったいどうやって発生したか、それによってどうこんぐらかりコングロマリットであったか、もとの木阿弥になった一瞬に手に入るんです、他の方法じゃたとい百万語費やしたってだめなんです。そういうもとっからのメカニックです。
「そうか我らはもとなんにもしなくってよかったんだ。」
というんです。
 当然です、なにかしなけりゃだめだってんなら、この世に生まれ出た意味がないんです。

 そのよかったっていうのがね、なまじのもんじゃないんです、三七二十一日の間お釈迦さんは、うれしいっていうんかね、ほんとに一木一草手にふれるものみな、
「いいなあ。」
としかいえぬのが残念です、みんなおらあがん、極楽だのなんのってこっちゃないです、浮かれ歩くってでもないです、なんにもいらないんです、でもってオ-ルマイティ=自ずからです。
 で、もう死のうと思った、宇宙この世の中喫した心残りはない、おまけに元の木阿弥のなんにもないの、人に説いたってしょうがない、だって、
「らしいこと。」
 なんにもないんじゃ商売にならない。

 観音さまが現れて他が為にせよといった、そうしてお釈迦さんの四十年が始まったんです。
 みんな「らしいこと」なんですよ、仏教を求め参禅し、だからどうだとやる、いいですか、かすなんです、仏教二千年歴史の垢です。 参禅のいろはのいは、
「らしいこと。」
 をかなぐり捨てるんです。
 実に単純な勇気です。
 お釈迦さんに仏教なぞなかったんです、ましてや禅なんかないです。
 思い切ってお釈迦さんになろうって人が欲しいんです。
 なにたいしてかからんですよ。
 三カ月もあればたいがいって、一瞬で足ることあります。
 お釈迦さんて、ただの人です、おっそろしない化物にする、まずそういう「らしさ」から開放されるんです。時代とか思想とかによらないんです、縄文人になりたけりゃなりゃいい、
「そんなけちなもんにならないよ。」
 というなら正解。
 坐禅が坐禅になる季節。



   賢治のこと


 よだかの星はいいですね、私どものうら山によたかがいます、昼間はやぶっ原に置物みたいにとまっています、見るにつけ千年も前に読んだ(なんせ化石人間ですんで)賢さを思い出します、賢さというのは賢治の署名なんですよ、いい字で賢さと書いてあるんです、よたかってほんとうはちどりの仲間かなあって、いまも賢さのいいなりに思います。
 私化石人間は虔十公園林なんてずっと好きでした、オッペルと象も好きですし、黄色いトマトというのがあって、黄色いトマトって聞くと還暦越えて涙ポロっと落とすんです。
 実に人間のほんとうのって、原点っだって気がします。

 けれども彼は道人ではなく詩人でした、並みの詩人じゃない、ディッヒターと呼ばれる、人生イコールぽうえむというんですか、実にゲーテの詩と匹敵するんです。
 いーはとーぶぉに根づいて、土や雲や恋愛やうずのしゅげです。
 明治以来西向け西で来た日本人の、そうなんです、唯一賢治だけが、西欧精神をマスターしたといっていい、ものまねじゃないんです、人を感動させるんです。
 でもね、「すべての人が幸福にならなければ個人の幸福はない。」という、実に美しい語なんです。美しいこの語はヨーロッパの物です。およそこの語によってヨーロッパは退廃し滅ぶんです。

 宮沢賢治を私が熱愛したころはほんのマイナーでした。今はむしろ日本人のバイブルといっていい。ですから、「すべての人が~」の美しい過ちは知らぬまに影響大なんです。
 これを逆にしなければならない、
「一個の人間がほんとうに解き放たれれば、ふれあう万人を救う。」
にです。
 これは東洋の心と西洋の心の違いなんです。いいですか、いま他から外れてはなんにもできないという、マスコミ一辺倒だったり、視聴率第一とかいうの、学校教育とかいうの、
「それはかまわん、でも私は私のすることをする。」
っていう、一人二人出て来ることを切望します。
 英語をしゃべればさくらマークじゃないんです。
 陪審員制度じゃだめです。
 
 ギリシャ悲劇においでぃーぷす、あがめむのーん、おれすていあの三部作があります、西欧の心というものが、砂漠-壁-人の住む世界という構造をしていることがよくわかります。スフィンクスという謎をおいての約束ごとです、外では生きられない、ほんとうよりも人間同士ってことです。だから、すべての人が幸福にならなければ個人の幸福はないんです、これね、後の一神教に受け継がれて今に至る、西向け西の日本人にどうしても理解出来ないことだったんです。心がそういう構造を持っている、恐ろしいことです、ドストエフスキーの小説はこれが崩壊の赤裸々な記述です、さすがの黒沢明が映画に仕切れなかった。そうです、ゴッホをみてその苦しみを理解する日本人はいなかった。
 ゴッホもドフトエフスキーも滅ぶんです。 
 そいつをまねるこたあないっていうんです。

 釈尊は森林に坐すんです、ガンジスの辺です。
 自然と一体化するんです。 
 一個よく百万人を救うんです。
 ちょっと荒っぽい説明ですが、大筋は間違っていないつもりです。
 みなさんどうかよくお考えになって下さい。
 賢治の現実はほんとうは、「ただの現実」だったと知って下さい。


 
   個性・没個性


 個性と没個性って、それ面白いんですよ、個性的であるほど没個性、無思想無性格がもっとも正解っていう、没個性であればあるほど、個性的、そうねえ、どこまで行ってもそういうことのようです。コンピュ-タ-的没個性とは嘘~そういう作り物です、なんの役にも立たないんです。

 問いに対して問いが答えるとは、仏教の問答はすべてそうなんです。問所即ち答所といいます、
「この世に何の楽しみかある。」
「松に風峰には雲。」
 どうです、なんの楽しみかある=答えになっていませんか。
「如何なるか是れ仏法の大義。」
 知らないこと-知っていること、これどう思います、知識ってなんでしょう、おしゃべりの種の他に、生活便宜の他に、知的な楽しみ-趣味という他に、医学とか科学~人類の獲得した膨大な知識って、いったいなんです。花に、
「あなたはだあれ。」
と聞いてごらんなさい。
「知らない。」
というんです、帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。達磨さんは、
「知らない。」
というんです。これ仏教の根幹。

 いいですか、壁に頭をぶっつけても(いえわたしも色んなことやりましたよ。)自分はなくならないんです、まったく別の方法があります。
 坐禅はそのもっとも端的な方法です。けっかふざして坐り、去来する自分をそのままにして置く、手を付けない工夫です、すると必ず自分を忘れる、忘我ということが起こります、多少時間はかかっても、自分という「たとい深い哀しみ」の原因が失せるんです、するとぴったりうまく行くんです、生まれついての没個性-強力個性、つまり一OO%自分なんです。
 これ現実です、空想してもさっぱり役に立たんです。
 
 モ-ツアルトシェ-クスピア芭蕉とか没個性-個性的の代表です。代表の上の代表モ-ツアルトだって、あなたの心にはなんの影響も与えない、去来するだけってこと知って下さい。仏教-坐禅-解脱とはそういうことです、心はなんの傷もつかぬ=救いということです。
 知らない-なんにもない-傷のつきようがない、乃至はモ-ツアルトだろうが、ビッグバンだろうが入る-問所即ち答所-個性も没個性もないって、こういう関係。



   マッド・サイエンティスト 


 身心症神経症がウイルス性疾患であるかも知れないとは、ありうることです、なんせ医者科学者どものいうことは、三年にいっぺんひっくり返って、たんびとくとくとして弁明-吹聴するのは、面覆馬車馬=科学者の特性とするところです、原爆作っといて平気で平和運動とか、成り上がり者と同じノ-ベル賞づらとか、エイズもたしか生物兵器の副産物とか、これを要するに何をかいわんやってやつで、麻原彰晃の方がよっぽどかわいいというか、世の中に責任を持てない連中。

 檻とトランキライザ-だけの精神病棟、電気ショックとか拘束衣とかいう、とにかくゼニが儲かる工夫としては、世界最高で、出たり入ったりの他なんにもならん、なぜかっていうんです、科学じゃ心はわからん、そうですよ、なぜかっていうんです。観察者を置くからです、見るものと見られるものとの二分裂、つまり科学がすでに気違いの道、な-んていうと怒られるけど、これほんとう、成り上がり平和運動なしの、純粋科学者=マッド・サイエンティストです、自分の心の持って行きようを知らない-ウイルス性疾患なんて、あっちこうならこっちもこうってアッハッハ、そりゃ科学者大喜び。

 でも問題の本質は変わらない。心の病を癒すものは心をおいてないんです。一に本来心を知ればよい。他から教えられて知るものではない、もとあるんです=あるがまんまといってないんです。
 物差しをあてがうも心。あてがわられるも心。
 神経症とは絶えず物差しをあてがうことから始まる。
 ほんらい不可能なことをしている、どこかで不可能を知っている。心という実に単純なのに、こんぐらかり、こんぐろまりっとの始まりです。修正しようという作用が病そのものです。

 困ったことには、たといどのような精妙知識も、別口の物差しなんです。
 ついにこれを破る以外に方法はない。
 ないものをあるとする不自由から、まるっきりないの自由空間へ。
 (神経症を病気とみず、自然な心のありようだとして、薬も使わず、そのまま生きれば、神経症になりきれば、全快するというもの。もっとも、悩んでいること自体が自然なことですから全快というのもおかしいわけです。) ではこの物差しをぶち破るんです。



   座禅について


 一人で坐るのに注意を要することは、たいてい同じことですが、普勧坐禅儀にあるとおり、欠気一息して、目はつぶらないよう、つぶると眠くなったり妄想煩瑣です、きちんと坐ってリラックスする感じ、そうして何があってもまっしぐら、吐く息吸う息っきりにやっているんです。
 ああでもないこうでもないを取り扱わない、取り扱っちゃいけないとやったって、同じことですから、
「でたらめめっちゃくちゃ。」
ぐらいがいいんです、こうしちゃだめ、ああしちゃだめしない、どんなことあっても全部O=どんなことあっても全部X、つまりなにしたってなんの役にも立たない、あるいは何したってオ-ル仏なんです。

「なんもかんもみんな注ぎ込んで坐れ。」
といったりします。吐く息吸う息だけといって、眺め暮らし、見えないはずの自分が見える、まっ暗がりの向こうに心とか、それ全部うそです、自分の内部を観察する感覚器官はないんです、自分の内と外を区別することも不可能です。
 それがなぜかある。
 ではこいつをぶち破る。そう難しくないんです、とやこういわずに坐ってりゃいいです、結果を予測しない、出たとこ勝負っていうか、坐を楽しむふうがいいです、おやこんなになったと、ふっと気がついたりします。
 ぴしっという音に飛び上がったりします、
 「あれ、おれがない。」
 どうしたんだっていって、立とうとしたら足がなかったなんて。

 でもね、こうやって気がついたときに、相談して下さい、未だしのまんま有頂天になったり、だからどうのやり出す、すると百害あって一利なしです。
 一人で坐るのは、う-んまああんまり感心できないんですが、しまい身心ともになしってことがあります。如来成道と寸分違わぬってことです。
 では必ずこれをっていう意志です、中途半端じゃなんにもならない、そうして必ずできる、だれだってやろうと思えばできるってことです。
 
 「途中受用底」という語を進呈致します、完成しようぶち抜こうといっている、そのものずばり、宝ありゃくずあるんじゃない、とやこうわけのわからん私全部ってことです。今のまんま。
 途中受用が手に入ると、もうそこです。



   ドラキュラ


 ドラキュラになりたいって、うっふう、真っ白いうなじにザクッと噛みつく夜の住人、わたしはかつて透明人間になりたかったから、おたく+ソケットならこっち-かな。
 わたし大地とインタ-コ-スしたことありますよ、坐っていたんです、どうしてそんな気になったって、これ、たとえじゃなくって、ほんとうにやっちゃうんです、スペルマ出なかった、へ-えと思って、それっからやっぱり夫婦でいるのかなあ、ガイヤさんと二人って、でも天地宇宙、別に-透明人間張らなくたっていいとこある、どうってことないか。

 新宿西口に風月堂ってとこあって、そこの牢名主やってたら、「オオ、ジャパニ-ズボ-イ。」なんて優雅であるべきはずの、LPがつぶやく、ありゃなんだといったら、四分何十秒だったかなあ、なんにもいわね-のある、笑っちゃったです。
 これね、どう思います。
 「らしく」なんですよ、結局は作為(縛るっきりない)なんです、「やってみた。」という一事引くといったい何が残る、う-んて首傾げる。

 そのころ絵描き詩人の卵とかと付き合って、音楽とか芸術とか首突っ込んだ。忘れちゃったですけど、向こうの人で禅をモチ-フって人何人かいた、アンリ・マチスはさすがに禅とかじゃなかった、でも東洋ぶりっての、向こうの神さま忘れちゃったんじゃないかって、思わせる、そこ行くとセザンヌが徹底していた、神さまかそうじゃないかって議論すると、限りなくそうじゃないほうだけど、
「やっぱり。」
と思う、どっかどうしてもふっきれないものある、時間が無限延長して、だけど停止しないって感じ?
「ふん、禅に一番近いって、それレンブラントにでもしとけ。」
というのが結論だったか。
当時のわたし-ピカソとゴッホかなあ、とんでもないこいつらと刺し違えて、死んじまうより透明人間て思ったんかもってね。
後のこってす。

 富岡ホワイトの富岡画伯ご存じでしょう、もう死んじゃったけど、黒いとこ真っ白に塗ったくって、削ぎ落としてゆく、ユニ-クな作風だったが、あの人、
「雪舟の空間を手に入れるために、ヘリコプタ-で雪山を。」
とかいった、それ聞いてもって、日本人てまあなんて非常識になったんかって、思ったんです、せっかく絵好きだったのに、しょうがないなあって。
 
 雪舟はほとんど唯一人、禅の境地(なんの境地にもよらんのを、禅の境地というんですがね、ただの人の風景-ふつうの人は特別です)から絵を描いたんです。
 禅のビジブルなもの、まだありますよ、鎌倉彫刻が最高です、こればっかりは作者が成仏してないと、どうらしくやったって、見るもの見りゃ、な-んだこれってことです。あのまあ仁王さんの膨大なマッスが空です、虚空と同じに見える、うわっと思うんです、こんなことあっていいものか、東大寺の仁王さんなんて目じゃね-やってね。
 でもこれがほんとうです。



   はるははな


 九十七の老人が死んだ、戦時中は大陸へわたって、大地主になって、人を何十人も使い、鉄砲担いで虎退治と洒落込んだり、いい目を見たらしいのが、着のみ着のまま引き上げてて来て、それからどうも鳴かず飛ばず。施設でなくなって、本家と組になった何軒かでもって、傾きかかった物置き小屋に葬式を出した。雪が降っていた。今様献花のその蘭の花。
絢爛は花をのみして雪の辺に九十七なる倉三が死にき
 
 人生の計画からとうに外れて雪の辺、というのがしみじみというか、そのものずばりというのか、
「別に云うことはないさ。」
と自然が、ものみながそういっているような。
人間=傍迷惑、万物の霊長生態系の頂点などいったって、ただそういってみるだけの、ろくでもないっていうか、人一人お騒がせ人生。

 ではなにがいったい人間、尊厳をいい安楽をいい、主客を問う、即ち一挙手一投足これ。
 あるがまんまという釉薬かけなければもとあるがまんま。
 仏という自縄自縛するところをほどけば、もと仏。
 ついに取るべき手段なく。
 取るべき手段なしと知る若干人。
 観音という世界宇宙歴史人生の、はるかなはしっくれの一音も、これ我がもの、同死同生底です。
 如来という来たる如し、知らず知らずして定の則にかなう。
 流水意無うして落花を送る。
 何をどうしようではなく、ものみなこうある処へ落着。
 ああだこうだの意見ではなく、修行して得られるものではない事実。
 すなわち人生の感想は、
 春は花夏時鳥秋紅葉冬雪ふりて涼しかりける
 強いていえば涼しい人生を送って下さい。



   国破れて山河あり


 懸命に生きているからという、これではね、どうしようもないことあるんです、そりゃ一生ない人だっていますよ、でもね、そういうときどこに頼るか、信仰あるいは宗教って、そういう問題だったです。出家がなんで出家かってことです。自分という、まったくうたがいようもないものの崩壊です、どうしたらいいかにっちもさっちも行かない、途方に暮れるんです、これに答えてくれるもの、仏教です。
 そりゃむろん、それだけが仏教とはいわんです、でもね
 ほんとうにずばっと入る人は、破れほうけの人です。いったん家国破れる、それが仏教の根幹だからです。

 因に、風動くか、幡動くか、わたしが参じた師は、六祖さんが大好きで-そりゃわたしらだれだって、六祖さんがなつかしいですよ、よく提唱に挙げた。
「へ-え、風動幡動ね。」
 理屈としちゃわかるんです、でもどうしたってそうならない、摂心で坐っているんです、トイレに行くたんび、手洗いの手拭いと、浜松のからっ風です、そいつとにらめっこです。風も手拭いも揺れ動くけど、こっちどうもならん、五回十回やるうち、たしかにこうわかるんですよ、手拭い止まってるんです、こっちが揺れ動く。さっそく飛んでって、師に挙すと、

「そりゃ、そうやって見ればなるわさ。」
といって、笑われた。そうなんですよ、自分というたが-自分という思い込み、いいですか、仏教っていうの、まったく単純ていうか、自分なけりゃ悩まない、一切苦厄なしって理屈です、身も蓋もないんです、でもってね、自分ないから、風動かず、幡動かず、心=身心=たがはずれて宇宙全体動くんです。そういうとやこうじゃない、単なる現象ですよ。でもそれ見ている自分があったら、徹底しない、つまりなんにもならない、師に笑われるわけです。

 これね我見とやこういってないで、ちょっとたしかめたらいいです。
 無眼耳鼻舌意、無色声香味触法が、たしかにこのとおりだということです。
たいして手間ひまかからんです、気がつくと自分がない、そういうことあります、別に天才だ、特定の人じゃなく、だれのって、あなた自身の問題です、でもってね、わたし座蒲団ひっくり返すっていう、「座蒲団ひっくりかえす」問題十ばかり出題、イヤミっていうんでなくって、議論なんてな-んもならん。

 座蒲団ひっくりかえす問題十
1、色即是空-空即是色
2、無無明-無無明尽
3、身は是れ菩提樹-菩提元樹にあらず
  心明鏡台の如し-明鏡亦台に非ず
  時々に務めて払拭せよ-本来無一物
  塵芥を惹かしむること勿れ-何れの処にか塵芥を惹かん
4、如何なるか是れ仏法の真髄-真髄に非らず皮袋なり
5、一夜落花雨-満域流水香
6、信心不二-不二信心
7、風動くか幡動くか-風動かず幡動かず汝が心も動かず
8、個性的-没個性的
9、世法-正法
10、なんにもない-担いで帰れ
 どれでもいいです、ほんとうに解けば同じ。もっともどんなアップロ-チでもいいです、ケッサクっていうのや、死ぬほど笑っちまうの、いいけどな。



   あみださん


あみださんには阿弥陀さんなく、お釈迦さんにはお釈迦さんがなかったんです、だからほんとうにこれを得るには、お釈迦さんなく阿弥陀さんなくです、ちがいますか。
禅という、呼び名なければ困ることあるから、単を示すといって禅と書くんです、どういうことかというと、余計ものなんにもない、ただの人です。
たとい嘆異抄あり四十八願も、
「どうしてそんなものがいるの。」
という三つの子供の問いに答えられるものではないんです、大人は、
「そうじゃない、これはありがたい人の心、ものみなのまこと。」
と説く-わたしはこれを厭うものです。
なぜかってわたしも三つのがきんちょだからです。
(阿弥陀あり仏あり四十八あり、ありのままをそのままに表現したという)わたしには、えら-い人、ありがた-い人、ふつ-じゃないすばらし-い人に見える、頭なでられたらうれしいけど、早く逃げ出して、どろんこまみれになって、遊びたいんです。
いい子になんかなりたくな-いってね。つまんない。
仏教は単純な理屈です、研究したり信奉したりだからどうのという問題ではない、ただ仏教の示すとおり成道せよというだけです。
仏の示すところが、自分とその環境の上に行なわれている、そりゃ当たり前のことです。
だからどうのと開き直ったら、ただの壁、うっとうしいだけです、じゃこれをどうするか、あのくたらさんみゃくさんぼだい無上正当菩提を得る、では得るっきゃない。二も三もないんです。
取り付く島もないんです。
もとわたしども一個取り付く島もないんです、たとい釈尊もちりあくた。
ちりあくたっていっていたって、ちりあくたにならない。いってる分にはこっちが、ちりあくた。
沢木興道さんは沢木興道さん、鈴木大拙さんは大拙さん、そのあるとうりにしか見えないんです。沢木さんは仏教とほとんど関係がないんです、大拙さんのほうは、悟り大悟徹底というものを持っているんです、悟り終わって悟りなしの、ただの人ではない、悟りという別ものを求める、白陰禅師がそうだったんです、大騒ぎの人です、大悟十八ぺん小悟その数を知らず-じゃみんなうそだったんです、どうしても自分が仏教をという、初発心の一点が抜けなかった、お釈迦さんは、どうしたら四苦を免れるか-ついに答えを出す。仏教を求める者が答えを出すには、もう一つ初めに帰ることが必要です。
悟の境地じゃないんです、境地なんてはしめっから見るとうり、聞くとうりの平地です。それになぜか収まり切れぬ自分があるっきりです。
やさしく単純なものです。
一個生まれて一個になりたい、それだけのこと。
いったい他に何が欲しいんですか。



   ありのまま


「ありのまま」というのが鬼門なんですよ、ありのままでいいという、ありのままにならない、只管打坐、直指人身見性成仏というんです、只管打坐って、ただうちすわる、まるっきりただすわるってことでしょう、そんじゃただ坐った、これでいいおしまいたって、ちっともおしまいにならない、これでいいたって、なにがいいんかわからない。
直指人身見性成仏って、だまって坐りゃぴたりと当たるってことでしょう、
「で、ぴったり当たったとして、だからなんなんだ。」
そんなもん、足痛めて座禅したって、もうまるっきり無意味ってね。
じゃどうするって問題があって、
一、仏教=自分を発見の旅です、を止めて、観念思想のギョウ舌に走るか、
二、もうそういうのには飽きた、やっぱり仏教=こいつをやってみよう、
の二つに一つってことです。
道元禅師が十五才で比叡山に上り、十八の歳には一切経巻を尽くして、要約するとこうなった、
「人間本来本法性、天然自性心。」
じゃなんにもしなくたって、このまんまでいい、寝たり起きたりごろごろやっていたそうです、でもさっぱりよくない、臨済に栄西禅師という方がおられた、行って聞いてみたんです、如何なるか是れ仏、仏とは何か、栄西禅師応じて、
「三世の諸仏知らず、狸奴白狐却って是を知る。」
仏は仏を知らない、花が自分を知らないっていうのと同じです、ありのまんまということを知らない、きつねや狸のほうが、かえって知っている、仏は仏教は、いいやなんとかはとやる、知っている分み-んな嘘です、さわがしいばっかりだというんです。
「な-にいってんだ、ちんぷんかんぷん。」
道元禅師はそういって、海をわたって入宋沙門となる、世界の中心て中国しかないです、きっと正師に出会えると思った、それがなかなかだったんです、道元さんあっちをやっつけ、こっちをめちゃんこやってます、中国語でもってスゲ-へ理屈ってね、総じて、
「おれも知らんけど、おまえも知らんじゃないか。」
ということだった。空しい、引き揚げようと思ったときに、天童山の如浄禅師に会うんです、正師に出会うということは、面白いんですよ、こっち仏教知らないんです、(知る知らないって、どっちみち使うっきゃない)ちんぷんかんぷんだけど、正師ってことわかるんです、親父に会った、わが遍歴の旅終わりって、夜も寝られん思いがします。求めているとわかるんです、一つの目安は、よく聞いていると、邪師は「あれ」という、正師は「これ」というんです。ありのまんまとはどういうことか、なお証せずんば現れず、
「そのまんまじゃ、ありのまんまにはならんよ。」
「じゃどうすればいいんです。」
「自分で自分を観察してもって、ありのまんまというでしょう、どっかおかしいと思いませんか。」
「? 」
「一つは、なにを基準にありのまんまというか、一は、自分を観察する、その自分はどこにあるかという問題です。」
「そういえば、これがありのまんまだってものないです。自分が自分をって、はあてその? 」
「答えが出ないでしょう、出たらうそなんですよ。」
「どうしてです。」
「自分てたった一つっきりなんでしょ。」
「はい。」
「だったらなんで、観察したり、されたりするんです。」「う-ん。」
とまあこんなふうです、そうかと納得したところで、どうもならん、自分=一つにならんのです。
仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。道元禅師の語です。先ず仏教というもとないものなんです、それをとやこうする、どういうことか、わからないから求めるという、なんの為に、自分と世界宇宙の為に、じゃもとっからここにこうある、-つまり泳ぎ出している余計っこと止める-聞法です、従聞記にくわしい、もうなんでもかんでもさらけ出して聞く、正師はなんもかんも奪い取るんです、着ている着もの剥ぐ、生まれたまんまでいいっていうんです、邪師は別着もの着せる。
次第一つことになる、九割方参禅終わるんです、あとは坐ってりゃいい、一つになるを見ている、そいつがなくなる=坐忘です。ほんとうになんにもなくなっているんです、その間のこと覚えてないんです。たまたま、隣単に居眠りする雲衲を咎めて、如浄禅師一下するんです、これを機縁にはあ-っと我に返る、自分という身心失せてな-んもないのに、ものみなあるんです。とんでもない現象です、「うわ-やったあ、やりましたあ。」っていうんです、手の舞い足の踏むところを知らずです、すっ飛んで行って、
「身心脱落来。」
身心脱落し来たる、やって来ました、とうとうやりましたっていうんです。これに対して如浄禅師は、
「脱落身心底。」
脱落せる身心底、そうじゃない、やったやらんじゃない、もとっからこうなんだよっていう、ありのままなんだよってね。
ここにおいてまったく納まるんです、でないと禅天魔みたい、ど気違いになるんです。生まれついたありのまんま、如来来たる如しとある、「こんなにすごいものを貰い受けたんだ。」というには、ちっと手間暇かかるんです。
仏教という空手還郷の手段が、ながらく目的になっていた、
「今それを得た。」
という、ありのまんまにならないんです。
眼横鼻直にして、他に瞞ぜられずという、教義も契約もない-だから喧嘩もない、ありのまんまの宗教です。



   生微涼


 この橋わたるべからずと、看板を立てて一休さんは真ん中をわたったんです。曲がりくねった道をまっすぐ歩けといって、ただ歩いてみせたんです。

 な-んだっていうコロンブスの卵じゃないんです、なにかする=橋をわたる、ではたいていの人が端っこ渡っちゃうんです、自分で自分を推量してあああでもないこうでもないの、二人三脚、あげくの果てにいいのわるいの反省会、まっすぐど真ん中わたるっきりない、ど真ん中わたったら、それっきり忘れておしまい、この醍醐味を君知るや、です。あるいはいつだって、ど真ん中わたってるのに、なんだって文句百万だら、このバカったれ、です。
 曲がりくねった道を歩いてごらんなさい、まっすぐ歩くっきりないんだすよ、そうかあといってはあっと気がつく分=一OO%

 一休禅師頭ぼうぼうの、どっか助平面の頂像(ちんぞう)があります。禿筆による「薫風自南来、殿閣生微涼。」のすばらしい書といっしょです。ばあさんが観音さまの像をこさえた、来合わせた乞食坊主に、開眼してくれといったら、はいよといって、前まくってしゃあっと小便ひっかけた。したたかぶんなぐられるんです。どこ行ったって一休禅師命がけでやってるんです、それほど世の中の無明、迷いに迷いこんぐらかって、人類と地球に重くのしかかっているんです、おのれ命などいらん、ほんの少しでも真実、世の中に風穴開けようっていうんです。助平は付録だって、付録もど真ん中わたっちまうんです。薫風南より来たる、神秀上座のいいことしい仏教を北宗といい、六祖禅師の、これより大いに興るこの宗を南宗といった。お釈迦さん、達磨さん六祖さんを経て、たしかにわしに伝わったというんです、無明黒闇を破る光明、宝の持ち腐れにはすまいぞ。

 殿閣微涼を生ず、命がけ八面六膂の大活躍も、ほんのわずかな涼風、ほんのわずかなその風が今に伝わる、涙なしにはって思います、殿閣のほうはまあ、地球の癌みたいはびこったにしてもです。