証道歌
接心提唱は永嘉大師証道歌です、三島でやってみて効果のあることがわかった、じせん大人の寄付で東山寺も校本を仕入れた。
君見ずや絶学無為の閑道人、妄想を除かず真を求めず。無明の実性即仏性。幻化の空身即法身。法身覚了すれば無一物。本源自性天真仏。五陰の浮雲は空去来。三毒の水泡は虚出没。実相を証すれば人法無し。刹那に滅却す阿鼻の業。
どうですか三つごろまでだれでもまさにこんなふうです、絶学無為の閑道人です、いいやそんな持って回った事云わんでもいいです。心地を尽くすとは元の木阿弥です、仏教という付け加えることなし、妄想のまんままるっきり手付かず、もと真なんです、その上に真を求めることはいらんです、あるがまんまとはこれです、ところが人はあるがまんまという余計ことを目指す、なぜか、どうしても他にあると思う、自分はどうしようもない、なんとかしなければという、それを払拭するんです。法身覚了すれば無一物です、自分というまったくないんです、断崖から身を投げる如くです、無明が自分ならば無明のまっただなか、無明を知らんのです。心は一つです、一つの心が一つの心を見ること不可、無心とは心がないんです、五蘊皆空度一切苦厄、我汝を救い得たりと、達磨さんが慧可大師に云うのはこれです、心がなきゃ一切苦厄はないんです。実際には幻化の空身即法身、まるっきりなんにもないものが宙に浮かぶんです、これを無上楽です、たとい貪り怒り馬鹿もきあすっともかすらないんです、刹那に滅却す阿鼻の業。六道輪廻から一歩出て、七歩歩んで上下四方指差して、天上天下唯我独尊です、すべての赤ん坊がこう生まれついています。物心つくに従い外れて行く、子供は三つまでの親の恩はすべて返すという、仏さまといっしょの生活です、どんなに年を取ろうがひねくれようが、もとに帰ることができる、帰家穏坐というこれが仏教です。
坐ル煮はなんでもありのめっちゃくちゃに坐って下さい、自分に手を付けないんです、ノウハウはおのれ一個宇宙全体です、なーにさ坐ってりゃいーんです、仏の家に投げ入れて力をも入れずまるっきりの向こう会わせです、こんな楽ちんなことはない、自分始めから用無しです、飢えた虎に食われてしまって下さい、自分からとやこうする要らぬお世話、人格を整えいいことしいなど飢えた虎には関係ないんです。
誰か無念、誰か無生、若し実に無生まらば不生も無し。機関木人を喚取して問え。仏を求め功を施さば早晩成ぜん。四大を放って把捉すること莫れ。寂滅性中随って飲啄せよ。諸行は無常にして一切空なり。即ち是れ如来の大円覚。決定の説は真僧を表す。
無念の念を念としという、こっちがあって向こうが無念とやってたって、さっぱりらちあかんです、無念とはなんにもなしです、なんにもなしを見ているものがないんです、切って落としたようにない、無生の人とはこれです、坐っていて無心という、心が無いんです。心はたった一つです、たった一つを観察不可能です、だから無いんです。坐っているとさまざまあったりなかったりする、妄念の中にそっくりはまりこんで無我だったり、あっちこっち確執あったり、呼吸困難や、すべて放捨してほうっと太息したり、みなこれ機関木人です、たとい形有るように見えてなーんもないです。仏を求めて功を施さば早晩成ぜんと、ただもうこれ機関木人です、境地がどうの仏がどうのたといどーやったとて無所有です。虎に食らわれるのに是非善悪じゃない、まるっきり向こう会わせです。どうしても坐るしかない、だったら坐りゃいいです、あるときうまく行った、あるときうまく行かなかった、とやこうすったもんだはーいそのまんまです、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけり。なにかしらあって苦しむんです、どこかにもとないものをあるとする、よこしまにしているんです、機関木人がそれを教えてくれる、目を向けると機関木人もない、ふーっと抜けてなんいもないんです。四大に放って把捉することなかれ、参禅者はややもするとものにしよう、わがものにしようとするんです、そうではない四大地水火風、もとわがものないのを知ってもとの木阿弥です。寂滅性中随って飲啄せよ、飲んで食ってもてめえの所有じゃない、諸行は無常にして一切空。これ如来の大円覚、決定の説は真僧を表すと、七転八倒めったやたらなんたってかんたってやって下さい、いっときよくったってそんなものなんのその。
唯だ証して乃ち知る。測るべきこと難し。鏡裡に形を看る見ること難からず。水中に月を捉う争でかねん(てへんに占)得せん。常に独り行き常に独り歩す。達者同じく遊ぶ涅槃の路。調べ古り神清うして風自ずから高し。貌かじけ骨剛うして人顧みず。窮釈子口に貧と称す。実に是れ身貧にして道貧ならず。貧なれば即ちみ常に褸褐を披す。道あれば則ち心に無価の珍を蔵む。無価の珍は用うれども尽くること無し。物を利し縁に応じて終いにおしまず。
実証するよりないんです、類推したり想定するのは百害あって一利なし、および悟りも、悟っておれもこのくらいだからという不可です、ありがとうなどわしの提唱にお礼を云うやつ、ぶんなぐって面の皮ひんむくにいいです。宝鏡三昧は自分失せる、相手だけが映るんです、経行のさいむかいが自分になってやってくる、影が自分でこっちを見ているふう、いずれ仏教だの如来だの云うひまはないんです、水中に月を捉えるいかでかねんぜんと、常に独り行き独り歩く、前後裁断です、昨日今日明日なんてのない。達者同じく遊ぶ涅槃の路。お釈迦さまも達磨さんんも道元禅師もまったく同じです、寸分違わずです、自分というかけらもないんです。雲門の公案を授かったというおっさんがいた、もし雲門禅があったとすりゃとっくに消えています、あるものは必ず滅するんです、なんにもないから金剛不壊、とこしなえです。なんにもないからものみな世界宇宙人類、妄想にも真にも、いいことしいだろうが、あくたれうそにも通用するんです、ちらともあればつっかえ糞詰まり、けつまずいて転ぶ。智慧とはこれです。
人の云うことさっぱりわからんで、てめえの智慧をひからかす人、そんなんが最近増えている、まるっきり痴呆ですか、マルバツ式優等生の、智慧のなんたるかを知らない、女一人口説けない、きちがいにもなれないなーんだろこれ。そんなんが増えています。
調べ古り神清うして風自ずから高し、まさにかくの如しですよ、どうしようもないぼろくずのようなんでも、悟ればがらっと変ります、悟っただからおれはというのとは断然違います、一人でも半分でも出てこの世の中救って下さい。貧乏おんぼろけが無価の珍を持つ、物を利し縁に応じて惜しむ、けちることがないんです。
上士は一決して一切了ず。中下は多聞なれども多く信ぜず。但だ自ら懐中に垢衣を解く。誰か能く外に向って精進に誇らん。他の謗ずるに従す他の非するに任す。火を把って天を焼く徒に自ら疲る。我れ聞いて恰も甘露を飲むが如し。しょう(金に肖)融して頓に不思議に入る。悪言は是れ功徳なりと観ずれば、是れ即ち吾が善智識と成る。せん(言に山)謗に因って怨親を起こさざれば、何ぞ無生慈忍の力を表せん。宗も亦通じ説も亦通ず。定慧円明にして空に滞らず。但だ吾今独り達了するのみに非ず、恒沙の諸仏体皆同じ。
上士は一決して一切了ず、はいだれあってこのようにありたいものです、中下は多聞なれども多く信ぜず、原発事故の薀蓄ですか、ただもう知識をひけらかす、ほかには指一本動かさない、てめえ知識をひけらかして、他の云うことは聞けない、大災害は起こるべくして起こったんだと思わざるを得ない。人間が先にメルトダウンしちまった、多聞にして不信、この世の終わりですか。たとい最先端でも任に当たっては譲る。ただ自ら懐中に垢衣を解く、大丈夫のなすべきことこれ、なにがどう起ころうとも一切了ず、もと解決済みの清風です、こういう人の一人半分が欲しいんです。波紋を広げる人じゃないまったく収まる心です。外に向って精進を誇らず、人に見せるための沢木興道禅ですか、みっともないったらそんなものを宗門は用い、ついに滅びてどーにもこーにもならんです。他の謗るにまかす、非するに任す、火をとって天を焼く、自ら疲れるばかり、法を知る者はまさにこのとおりやって来た。そりゃたいへんなこったですが、わっはっはわしみたい短気はこれ再度学ぶべし、とんでもないめにあった十人二十人、わっはっはあいつらまるっきり文句云わんな、さすが仏じゃ、涙が出る。恰も甘露を飲むが如し、しょう融して頓に不思議に入ると、わしはどいつも一発かましてみーんな大人しくさせちまった、口も聞かんで無視してらーな、はーいこーゆーのいかんです、mixiでもあっちこっちぶん殴って追い出して、うっはだれもよっつかねーや。でもよく坐ってるぞ、悟りそーなのいねーなもしやさ。自分がなくなったどーしたらいいかって聞くの二人いた。こりゃもーじき使えら。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。