ぜんごぜんご
仏足石
薬師寺展にもあった、これ完全無欠の彫刻作品、仏像ですか。平たい石の上に如来、お釈迦様の足型が彫ってあるだけです。花びらがあったりするのはお飾りです。この両足型の上にお釈迦様が立っておられる、なーんにもない、あるのは風景ばかりですか、空の雲が行き、人や車が行き、家があり山川あり、鳥が鳴きけものが走ると、はいそれが如来、お釈迦さまです。無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、身心脱落、脱落身心、あなたもその足型の上に立ってごらんなさい、まさしく如来、お釈迦さまです、生まれついての無為の真人です。仏教というなにかしらあるわけではない、もと仏足石の上に立つ、ただこれだけが仏教です。仏と成ることは、もと仏であることを知る、箇の無体験です。ほかにちらともあれば、邪であり不都合です。よくよく見てとってください。
捨身施虎
お釈迦さまが修行中に飢えた虎に身を投げ与えた、この因縁によって先に衆生済度に現れたという、他に同じい譬えが二、三あって、シルクロードを伝わってついには日本の玉虫の厨子になる、これ仏教の本質です。他のインドの聖者だの諸宗道徳思想の違い歴然です、飢えた虎に投げ与えるのに、人格の完成や妄想のあるなし、ましてや真実だの仏教だの云う必要はまったくないんです。これが坐禅です。自分用無しにしてただもう坐って下さい。虎に食われる方法です。食われ終われば痛くもかゆくもない、虚空そのものです。太虚の洞然たるが如しです。四の五の云おうが云うまいがまるっきり関係ないんです。只管打坐これ、はじめっからなんにもないんです、悟りを得るだからどうのとやってるかぎりはものにならんです。安楽の法門これ、大安楽が待っています、坐って坐り抜く、捨てて捨てて行く、なりふりかまわずのただもうこれ。直きにあけわたして下さい、如来来たる如し、無心とは心無しです、無心無身はーいお釈迦さまです。
無事禅と公案禅
二つとももとそんなものありっこないんです。無事禅と云うとからにだめ男ですか。公案と云うとからに信用ならんですか。無事禅という、なんにもない自分を眺め暮らす、二分裂です、禅という単を示すにはならない、担いで帰れと云われる所以です。大悟十八っぺん小悟その数を知らずという、やっぱり二分裂です、悟ったという自分がある、どこまで行っても本来のものにはならんのです。見せるための座禅、売らんがための座禅ですか、自分も救はれなければ、人も救い得ぬ、これ仏ではなく自閉症です、笑うべき猿芝居をふりかざして、とやこうという、自然に背くんです。花のように知らないという、達磨さんを駆逐し毒殺しようという連中。そうではなく、なんにもないとは見る自分も見られる自分もないんです、このときはじめて禅です。無心とは心が無いんです。無上楽これ、すべてを捨てて始めて得られます。しかも日々新たです、だからこれでいいなんてものがこの世にあろうはずもないんです。座禅を履き違えないで下さい、白隠以来のあいまいを脱して下さい。獲得物質じゃない不識です。そりゃもう比較を絶するんです、他の演説を敷衍して安楽椅子じゃ、犬の糞にもならんですよ。
仏心
仏心は法界に充満し、普ねく一切群生の前に現ず、縁に隋い感に赴いて周ねからずということなし、しかもこの菩提座に処したまう、仏の功徳界は賛揚し尽くし難し。これは仏開眼式の回向です。仏=心、心も見えず仏も見えないんです。物扱いしたり思想のよしあしではないです。摂心に大学院生の女の子が来た、ヘルスだとかセラピイだとかいって精神医療に仏教を使うと効果があるという。坐るにはみみずののたくったような、寒いといって山のように被る、すぐにノートを取ってパソコンを抱えて論文を書く、大姉寮の顰蹙を買った、作務には外れてたいていなんにもしない、云うことだけはしゃしゃり出る。我侭というより自閉症ですか、仏教というもとそんなものないんです。ないものを使うことはできない、人を救うにはおのれ仏になる他はなく、まずもって自分を救うとは、自分という自我のまったく失せる時を待つ、自分失せればあまねく一切群生です、たとい何をしたってしなくったって、為人の所、縁にしたがい感に赴いて周ねからずということなし、触れるものみな救うんです。それをヤフー掲示板みたいに、仏教云々おれは悟ったんだからという、たといあばずれ女も引き裂いて理非を糾すという、こりゃただのがりがり亡者です、仏を云いながら仏に遠くて遠いです、恥じ入る心をもって仏入門です、いったい何を重い何をなすったって、ただの心理学の対象じゃみっともないですよ。
法要
なんでお経を読むんだと聞いたのがいる、お経があるからさと答えた、読むのが楽しいからと、ほんとうに無上楽、楽しく読んだ人は小浜の雪渓さんだった、あとさきなく鶯の鳴くようにも、そうこれがわしのとこの初関です。趙州因みに僧問う、狗子に仏性有りやまた無しや。州云く無。むーと趙州消えてまるっきりむーだけです。これができないとお経にならない。曹洞宗門は行事綿密威儀即仏法といって、いじめ修行で判子捺印みたいな人格破壊ですか、お経というより裏声だみ声張り上げて、むごたらしくむきつけの我欲日常をさらけ出す。すべてが嘘です。たとい人間です、だれだっていやになる。田んぼの蛙のほうがよっぽどまし。威儀即仏法とはおのれを省みないんです、省みるにおのれなし、無心無身にして始めて行事綿密です、でなけりゃどんなに習おうが鋳型に嵌めようがだらしなくみっともないんです。法要という歩歩清風起こる、ほんとうに清風が目に見えるようです、盤珪さん隠元禅師を迎えに行って踝を返して帰る、なぜにと問うと、あれは不生の人にあらずと云った。一目瞭然なんです、どんなにうまいこと云ったって云う前から破れ法界、仏が一挙手一投足これが法要です、お経は間違いもなくある、間違いもなくあるのを確かめる喜び、娑婆流の確かめるとは断然別ですか、無上楽これです、また日々に新たなり。
以無所得故 菩提薩た(土に垂)
無所得を以っての故にボージイサットバ修菩薩行、心経にあるこれを知る人はほんとうに稀です、かならず得るだからおれはとやる、自我を離れる一箇半箇仏となる四、五人もいりゃあと思うんですが、悟り終わって悟りなし、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよきと、これようやく修行が始まるんです。今の世心意識の低劣ごきぶりみたいがさごそ恥知らずが、おれは悟ったのオーム真理教の、まあさ掃いて捨てるほどいる、色の道というより色餓鬼ですか。一人で成仏するのは難しいんです、自分が自分にかかわるからです。お釈迦さまのように満足は得られない未だしと知る大力量です、道元禅師が印可を受けられるときに、なんで外国人がという、あいつもさんざうたれたからなあと師。じきにてめえの頭なでて○するんでしょう、たんびにぶったたかれて去る、これなくばどうしてどうして。無所得を以っての故にはそう簡単には手に入らぬです、この簡単が手に入らぬ理由は、人間てのはどうもそういうふうに出来ているとしか云いようがなく。趙州六十歳再行脚、日々に新たなりとはこれ、日々にまったく生まれ変わるほどに、ようやく修行ですボーディサットバです、ゆめ思い違えぬようにたって、思いそれ自体の問題だから手に負えないんです。
錯を以って錯に著く
錯とはあやまち、間違いです。真実不虚という無上といい無等等というこれがなぜ。あるとき無と云いあるとき有という、是と云い不是と云う、いずれも用い得て妙です、麻三斤といい、蛤が内臓をさらけ出す如くといい、かんしけつという、春は花秋は紅葉という、一転語まさにこれによって転ずればよし、でなきゃ矢新羅を過ぐですか。教外別伝不立文字、直指人身見性成仏。もとこれをもって示す以外にないんです。仏になること、すなわち仏あって他なし。これが真実である、仏教はこうあるべしと云うものがない。常識の夢をぶち破ることから始める、破壊的革命的なんていう生易しいものじゃないんです。達磨さんが毒を盛られ、一休がぶんなぐられる命がけですか。今の宗門の現れて欲しくないのは御開山禅師で、ごんずいかたまりして排斥する、俗人一般も坊主ほどではないにしろ、仏という自分本来を忌み嫌うんですか。自分失せりゃあ為人の所、どうにもこうにもさんざんな目に会うきりです。真実という絵に描いた餅は転がってないんです、さあどうしますか、はい思いのままにするっきゃないです、間髪を入れずです。でもってさんざくたです。薫風自南来、殿閣生微涼。一休のレプリカが床の間にぶら下がると、部屋を圧するんです、通るだに呼吸もせず。錯を以って錯に著く、よくまあ一休さん生きていられたもんです。
夢
一年365日夢という、現実であればあるほどに夢なんです、自分を省みることなければないほどに、ものごと100%いや200%ですか。アルタミラ洞窟壁画のように、命のやりとりを通して忘我の瞬間ですか、涙のしずくのような野牛の絵です、力強いことは後の芸術等の比較を絶するんです、これもし宗教というならこんなにいいものはないですか、神様仏様善いの悪いのだからどうなと、お為ごかしタブーだのヒエラルヒーだのとはまったく無縁です、ましてや一神教のがんじがらめうさんくさいのとは別天地です。エトルリアの絵のように極楽浄土ですか、夢を見るのに難波のことは夢のまた夢、人が現実といっているまじめだの誠実や正直などないんです、それは嘘なんです、歴史という教科書思い込み不完全文章はないんです、ホメーロスや平家物語のほうが真実ですか、夢とはなんであるか、今様の人もちらとも考えてみりゃいいです、夢にも見ぬことこれ夢。悟出し悟入する、自分というお仕着せのたがのはずれた真相です、無上楽といい歓喜という、寒山拾得摩尼宝珠は如来親しく収攬すと、これ仏の実際です、なんだかんだ言い草したってこれなけりゃただのかす。
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五うん(薀のさんずいをいとへん)皆空、度一切苦厄。
心経の冒頭の一節です、これにて仏教終わりというふうです。自在に観る菩薩とは赤ん坊のようにまっさらです、なんのとらわれもなくです、観世音というでしょう、世界のはてに一音起こったとしてもみそなわす、もとこれ人間本来の生まれつきです、悟るとはお仕着せのフィルターをとって見る、そのものずばりです、無防備都市ですか、だからおれはという言い訳がない、根拠もなく信仰や神様主義主張の隠れ蓑もないんです、仏教だといういわれもない、こんなんじゃとってもやりきれない、無残に死ぬよりないですか、大死一番大活現成、無心です、心無い故にまさにこうあるんです、心無いとは心はたった一つ、たった一つになるときに省みる不可能です、ゆえにゼロですか、無心の所以です。無心とは赤ん坊以前に立ち返ることです。般若波羅蜜多ぱーらみーたー彼岸に渡るという梵語です。此岸といってもとあるはずもない自我によって泳ぎ出す、それをもとに返して下さいというんです、仏はほどけ、ほどき終わればもと仏。五うん皆空とは自縄自縛の縄をほどくんです、なに一本切れればさらりほどけます、自縄自縛の縄のはしくれを自分と思いたがえている、哀れ情けなやの七転八倒、これ免れること畢生の大事。自分を救い得るすなわち人も救うんです、蟷螂の斧の仏説を振り回して、公案がどうの悟りがどうのという、そりゃ此岸のこと、自縄自縛の縄を付け加えるだけです、お笑いにもならんですか。
無心
無心心が無い、如来来たる如く。心はたった一つです、たった一つがたった一つを観察することは不可能なんです、にもかかわらずきれいな心だ汚い心だやっている、おれが心はという、坐禅じながら妄想を追い回す、あるいは追い回される。なぜかという問題です。あるときの摂心に妄想煩瑣、ようしこやつにけりつけようとて、やればやるほど妄想です、真っ黒けになって四日間、ついに体力の限界ってんでもうどうにでもなれ、ほったらかした。とたんにぱあっとなんにもなくなる、押しても引いてもなんにも出ない。脳死とは違うんです、念起念滅のまんまです、それを観察するものがないんです、無心とはこういうことと知ったです。たった一つがたった一つになるとゼロです。人間以外みんなこれですか。ホーホケキョと鳴くとき満腔のホーホケキョです、それっこっきり。無心の美しさすがすがしさによって自然界は成り立っています、進化のエアーポケット人間ですか、知らないの達磨さんは花のようにぽっかり咲くんです、その風景は妄想人には思いもよらないんですか、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな。雪舟の絵があるいは如実にこれを表しています、ビジュアルな坐禅ですよ。
謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏といふは誰といふぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。
だれあってお釈迦さまになる以外にないというんです、参禅はただこれです、到らずは七転八倒して下さい、七転八倒お釈迦さまの腹の内と知って直に解消します。即心是仏という、心は宇宙一切ものみなと同じです、渓声山色我が釈迦牟尼仏の声と姿と、ただこれあってほかにはまったくないんです、さあそのように坐って下さい、まっぱじめからものみなです、知らないというぽっかり咲いた花です、自分というけちな是非善悪は用なしです、お釈迦さまという無覚の覚、正にふりかえって世尊大慈大悲、ちらっともおれはとあったら損なうこと、正に仏恩を報ずるにてあらんと、永しなへに坐って下さい。
無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法
まさにこれが行われていることを知る、鼻あり耳ありするのは後から教えられて知っているんです、感覚器官として知ることはできない。意という心はあるではないかという、あるということを知らない、一つ心が一つ心を省みること不可能。これを確かめるのに別段悟りのどうのこうのないんですが、本当に知るには、たとい生き埋めにされちゃかなわんといって、夢中に走って生爪をはがす、痛いことは激痛ですか、ですがどこが痛いのかわからない、激痛を激痛とも云わないんです、身心失せきって、ただこうあるんです。向こうとこっちの区別がつかない。なんだか変だよう、柱がおれなんだかおれが柱なんだかとやっている。おれはどこへ行ったんだ、おれがいないと歩き回った弟子もいたな。するとまあこれがありようが手に入るんですか。手に入ったらもう一度手放して下さい。形影相見るが如くと、向こうが自分なんです、そうしてこっちを見ている感じですか、坐禅は向こうがやるんです、坐禅は坐禅がやるんですか、たといいてもたってもいられなかったり、あるいはまったくの無形容です、箇の無体験とでも云っておきますか。彼岸に渡り切ること先決。此岸でとやこう云ったってそりゃうるさったいだけです。一目瞭然事。
迷故十方城、悟故十方空
迷い思い込みの中に沈倫して、常識を這いずり回っていやこれでいいんだだってといって、言い訳申し訳ばかりにのたうち回る。人まさにかくの如くで例外はないんですか、愚者も賢者も哲学家も思想家も、悟った悟らぬという人も、ローマ法王もそうです、まったく同じ穴のむじなです。自縄自縛の縄のはしくれを自分だと思って、一盲群盲を引くんですか、世の中真っ暗闇の右往左往、こりゃもうどうにもならんといったって、たった一人十二分です、一人光明ならば四方あまねく照らす。東門西門北門南門。自分というよこしまがないんです。悟ったという、正法眼蔵だからどうだとまあさ、今の世心意識の堕落2チャンネルヤフー掲示板時代ですか、人格形成以前の問題です、そんなのがよったくって悟った悟らぬという、まんがにもならんですか。たとい迷故十方城、悟故十方空と痛切に思い当たって下さい、わらをもつかむ気持ちあって、はじめて参禅です。これなくんば生きている覚えもないと知って、ようやく自分という姿であり、捨てるべきものを見出すんです。そうしてついにほんとうに捨てて下さい。仏が待ち望んでいます。仏の世界これ夢にだも見ず。
帰家穏座
坐る以外にまったく方法がないと知ること先決、ほかに言い訳申し訳があったらそりゃ言い訳申し訳の人です。自分が自分になったと知ることあって、じきにこれをなげうつ。捨てて捨てて捨てきって行く。頼りなく自信なくただもうへんてこでなにがどうなっているのかわからない、するとややいいんですか、自信なく頼りないところへ向かって身心を捨てる。原ぬるにそれ道本円通いかでか修証を仮らんという、宗乗自在なんぞ工夫を費やさん。況や全はるかに塵埃を出ず、誰か払拭の手段を信ぜんと、まさに実にかくの如くあるんです。如来来たる如しと現前する、自分という何十年かの生涯が雲散霧消するんです、今の世歴史科学だの社会だの常識の埒外です、そうかおのれとはこの世界の百個分がほどは掌する、出入り自由ですか、帰家穏座とはまさにそんなふうです、朝に夕に坐って去来おもむくままです。しかれども毫りも差あれば天地懸絶と、自分というなにがなしの推理あったんでは、そりゃなんにもならんです、ぎぎたる金相、堂々たる覚王、三界の独尊万霊みな仰ぐと、わずかに自分というなければ現前します。
観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音暮念観世音 念念従心起 念念不離心
十句観音経です、いちばん短いお経ですか、これを唱えて朝に番に鐘を撞く。朝は四時、六時、昼は十一時、夕の六時と九時です。鐘子当番は新到のつとめだったな、夏はけっこう爽快だったけど、冬もまあけっこう爽快過ぎて一声撞いては鐘楼下にちじこまっていたっけかな。鐘というものは撞く人によってぜんぜん音色がちがう、さすが堂頭さんの撞く鐘は鐘音尾を引いてすべるように軽やかに雪の辺に消える。渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風を厭わずは、風鈴のじゅだが、身心消えて虚空にんりおわる、ようやく信ずるんですか、常楽我浄ですか、人間というものはどこまで行こうが中途半端です、深入禅定、見十方仏と、一寸坐れば一寸の仏と知る、大自然のお仲間入りと実感する、無覚の覚ただただまったくにこれをのみ。
o 生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり
どこまで行こうがただこれです、公案百般透過しようとも、たとい会に誇り悟に豊かにして、瞥地の智通を得、道を得、心を明きらめて衝天の志気を挙しも、一朝ことあれば二束三文ではなんにもならんです。ましてや禅家という禅師師家といいい、大小の物真似どもがああだこうだいいのわるいのの戯れごとは、およそ仏教とは縁がないんですか。すべては生死たった一つのおのれの生死、ただこの辺にあります。ですからたとい些少爪から先のことも、不遇であり失い奪われることをもって真正面する、悟りを得たといっておのれ別格のエアーポケットはもっとも唾棄すべきです、無理無体の無神経は仏に悖ることです、坊主と先生にはろくなものがいないと云われる、人格破壊人を育てることのできないがらくた。そうではないんです、生死を知ること死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき、たとい思いのままにするわざも坐下三尺を穿つ。
仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖なり、我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん(目に真)ち(やまいだれに疑)、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是くの如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をしてしょう(金に肖)いん(一にタに員)せしむるなり。
とても今の世悟れるなんてもんじゃない、生生世世を尽くして生まれ変わり死に変わりして云々といわれて、そんじゃわしのようなどうしようもないのはそれっこそどうしようもない、仏教止めようかと思った、そうではない念起念滅するただそれに捉われなければいいと知って、ようやくやる気になった。たしかに念起念滅ぽっと出ぽっと消えに任せて、とらわれ観察し追いかけることなければ無心、心としてまったくないんです。でもこれを知って何十年ようやく少しはさまになったかというと、まだまだまだです。心念身儀発露白仏、まさにこれ仏の本来です、たとい朝打三千暮打八百かつがつに仏法僧宝として現前するにはあるいは現前するんですか、自分というちらともあればそりゃもうどうしようもなく。
邪師にも惑はされ、正師にも惑はされ。
自分あるかぎり惑はされるんです、その自分なるものを正師は奪い叩きこわす、破家散宅ぶっこわれ破れほうけるまで。邪師は付け加え妄想のピラミッドをこさえるんですか。一盲群盲を引くという、世界平和を説き隣人愛を説く、すなわち喧嘩と他をないがしろにする、法王という妄想百般、二千年来の不作ですか。無明の文明どん底です、なんとかしなけりゃにっちもさっちも行かん。北朝鮮とアメリカがつるんで日本を牽制する、そんな姑息な手段をとって、そりゃろくなことはない。単純に真正面が自然です。みんな仲良く平和教盲者の日本も、因果必然どうもこうもならんです。一人光明なれば四維を照らす、生死を明らめ得て却って一言ありやなしや、まさにこれ一盲群盲を引く、政党のスローガン君子豹変ですか、だったらちったあ役に立ちますか、照顧脚下。有るあるというからそのつもりになってやってきたのに、なーんだなんにもなかったと老師に食ってかかったことがあった、老師苦笑。
菩薩清涼の月畢竟空に遊ぶ 衆生の心水浄ければ菩提の影中に現ず。
捨てて捨てて捨て切って行く、そうしている自分を捨てる、開いて開いて開き切って虚空そのものです、虚空は虚空を知らぬ、虚空が虚空を坐禅する、奇妙なわけのわからん体験ですか、自分をまったく観察しないんです、そういう人をわしはあんまり見ないです、必ず自分という我利我利亡者ですか、虚空といい色即是空といい五薀皆空が却って薀蓄です、うるさったいかぎりだ、聞いてくれる人がいないと成り立たない。一人遊びぞ我は勝れると、たった一人地球宇宙からはみ出すほどです。無情の説法誰これを聞く、あるときは現成公案、あるときは存在そのものが失せるんです、活仏観音大師という、朕に対するものは誰そ、磨云く不識、知らないという花のようにぽっかり咲くんです。衆生のこれを知るごくごく稀です、しかもこれのほかにはなく。
宝鏡にのぞんで、形影あひ見るが如し。
問答しあげつらい四の五のいう人、たいていは自分のことを云ってるだけです、なんにもないところへ自分の姿形が映るだけだということを知らない、自分で自分を罵倒するんですか。ややこれを知って礼拝し一言一句するも、まだ自分と一人相撲です、刀折れ矢尽きて、こりゃどうにもならん手も付けられんとなって、なんにも見えなくなる、するとわずかに親しいんですか。身心脱落来る、身心脱落して来ました、やったあやりましたという、これに答えて脱落身心底、脱落せる身心底、なにさもとっからこの通りだよと示す、はあっと見りゃ、宝鏡に臨んで、形影あひ見るが如しです、わずかなひっかかり失せて、ぴったりするんです、水に映った影が自分でこうこっちを見ているんですか、天地宇宙が天地宇宙とこうあるっきり、あるときは浮世という来し方行く末まったくないんです、あっはっはほんにこの世とおさらばですか、あるときは必死になって施設し法を説くんです。なるほど他にはなんにもないわけです。
顛倒相滅すれば、肯心みずから許す
仏道を成ずるになんなんとして十劫樹を観ずという、どこまで行っても仏はこうあるべき、だからの物差しをあてがうんですそうではない、自分真っ先にあって、次もその次もなんにもないんです。だから手を放してやればいい、参禅とはこれなんです。思い切って捨てる、自分というどうにもこうにもわけわからんちんのまま、飢えた虎に食わせれば終わりなんです。たとい何をどうするとて、自分の手には負えないまずこれを知る、さんざくた苦労の末にようやく手付かずですか。人間はこうあるべきという標準以前に人間です、だったらそのまんま使えという到って単純です、ただとはこれ、ただうち坐る只管打坐です、始めも終わりも同じです、途中段階なんてないんです。仏これ。
父母未生前
香巌という一を聞けば十を知る、目から鼻へ抜ける男がいて、何を云っても弁じ立てる、師が困って、おまえさんの父母の生まれる以前のおまえさんの鼻如何と聞いた。さあわからなくなった。これしきわからんようじゃ坊主失格だといって、寺男になって毎日庭を掃く、あるとき掃いた石が竹に当たって音をたてた、香巌爆竹というこれによって悟った。参禅はすべからく父母未生前に参ずべき、つまり生まれる以前死んだあとです。公案も無事禅もなんの役にも立たない、おためごかしも仏教も同じ、社会正義も道徳も不都合、死んだらなんにもないんです、こんな簡単なこたないです。上下なく多種なく、ただこれという百歩遅いんです。智慧という一番大切なものを捨てて下さい。一を聞けば十を知るんではなく、はじめっからすべてです、なんにもない200%です。目から鼻への手続き不要、自分用無し、自分という種も仕掛けもなしに返る、でなけりゃこれ仏教のぶの字もないんです。これを知る人皆無。
心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
これは有名な西行の歌です、心なきという、原始野蛮人西行が、道理は弁えていようがどうしてもこうしても赴くままにする、それをまた断じて許せなかった、心のない人間だと決めつけながら、美しい鮮烈な風景です。無心という、ではまったく心を省みない人は、絶唱です、風景の美しさは比類なきものがある。自分を許せない、ちらとも省みるあれば不可。人の額に汗したところの上前を撥ねて、お経を読みうそぶき歩く、殺人強盗よりも悪し、なんとなれば彼はなを自らの悪を知ればなりとは、至道無難の語です。頭を剃ってうそぶき歩くぶんなぐってやろうずと云った僧が、西行を丁重にもてなして返す、弟子がなぜにと聞くと、このどあほうがこっちのほうがぶんなぐられそうであったという。徒禅草に出ていた。西行といい兼好法師といい、超ど級の人物だ。そんじょそこらの詩人学者なんぞと桁が違う。生きておったなあと思う、血まみれ傷だらけになってさ。道元禅師も一休さんもまた同じく。悟ったなどいう安楽椅子はどこにもなかった。始めて人間に出会う、まさにようやく生きた甲斐ありと思うべき。
年ふりてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
禅師
他の人は何かをなし立派なこともし、持ってまわり推論しする、自分をなにがしかに見做し、あるいは比較による。禅師はなんにもないんです。歴史上何人もいないと云っていいです。知らないという花のようにぽっかり咲くだけです。大唐国に禅師なし、禅なしとは言わずと黄檗が云うのは、禅師という相手があり、我がある問題ではないからです。知らないとはオールマイティです、汝これかれにあらず、かれまさにこれなんじ。宇宙を云い同根底を説く、思想として物言うこれまったく禅師にあらず、世界平和を説く是非善悪を示すという、複雑怪奇じゃないんです。単純をもって師となす、ただこれ大正解。嘘をつかない真面目、一人二人あればよし、まったくないときはものみな自然そのものです。渇仰するなにものか、どこまで行っても我未だ見ずを知る。
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義
この法の無上甚深微妙は、坐ってみて始めてわかるんです、自分という邪をすべて去って始めて掌する、ちらともあれば損なうんです。実に百千万劫にも会いがたし、たった今出会っています、我今見聞得受持さあ受け継いで下さい、片手間にするこっちゃないです、たとい全身全霊を挙げようともなを届かんです。ですがもとっから真っ只中です、行く行く修行の末にという、そりゃ修行の末にだけがある、生死を明きらめというには、生死を明きらめがある、そうではない如来真実の義は面門に現ず、自分というすべてを明け渡すんです、如来如去かくの如しというにはなを届かず、捕らえようにもつかみようにもないこれ。ついに知るものだけが知るんです。
流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者。
出家剃髪のゲです、流転三界とはわれらすべてです、浮きぬ沈みぬほんの一瞬を安楽に思い、六道輪廻のたらいまわしを免れえずに、たとい何かあれば藁をも掴む思いです。七歩歩んで天上天下唯我独尊と、お釈迦さまだけではなくだれしもがこう生まれついている、だのにいつもまにやら盲滅法の悪足掻きですか。恩愛を去るとき、はじめて本来の見性がある、夢から覚める如くです。国王大臣親じつ従僕妻子珍宝助けるなし、ただ一人黄泉に赴くのみなり、おのれに従い行くはただこれ善悪業等のみなり、今の世に因果を知らず、善悪を弁まえざる邪見のともがらには群すべからずと、ものみな因果歴然があるばかりです。邪見のともがらばかりの現代人ですか、六十近くなってもまだ餓鬼です、未成年のたわむれほうけですか。わずかに恩愛を離れる、すると離れた分だけ如実があります。なにゆえに出家なにゆえに仏か、あらためて鮮烈に知る、日々新たに知って下さい。悟り終わってのちの毎日が悟りです、昨日のおのれはないんです、なにをやっておったばかめがと、棄恩入無為の道、即今真実報恩者です。仏仏に単伝し行くもの。
至り得帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。
至り得るとは忘我です、こりゃたいへんなこってす、我を忘れて熱中するが如きの比じゃないんです。その間の記憶がまったく欠如します。一念起こってはあっと気がつく、帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅です、でも自分というものがないんです、向こうが自分でこっちをこう見ているふう、不思議なものです。おれはどこへ行っちまったんだと捜す弟子がいた、頭こんと叩いて元に返る、もとっからこうだったんだと仏に成るんです。これを悟ったあの時はといって、ひっかつぐのは、そりゃせっかく仏に入りながら、もとの娑婆世界に帰って、柳は緑花は紅だ云々とひけらかす、100人が100人これが類ですか、我利我利亡者が云うことを聞けおれはという、オウムや創加学会やその他新興宗教とまったく同じです、銭金数を増やして自閉症ですか。俳句は行きて帰る心の味なりという、形という世間浮世がある、個人はおぎゃあと生まれて花にうそぶき風に浮かれするんでしょう、そうしてまた生活に返る、だから言葉になるんです、膨大な俳句歳時記の中にふっとささやき声が聞こえる、きまって芭蕉です、あとのものは無駄ですか、自閉症てんでかってです、構造的に違ってます、毒にも薬にもならぬというより悪の温床ですか。仏たるものそんなんじゃ失格です、自らを開ききって下さい、至り得ては帰ってこないんです。行きて帰らぬ無心、彼岸にわたっているんです、死んだものは二度と生き返らない、仏として浮世をかえりみて柳は緑花は紅なんです、その云うところみなまた為人の所、自分がないんですよ、打てば響く。
十重禁戒第一不殺生戒
得度式に仏戒を授けられて乃至十重禁戒、殺すなかれ、犯すなかれ、盗むなかれ~です、汝よく保つや否やと云われて、さて他はやってやれんことはない、でも 不殺生戒殺すなかれは、そんなもん守っていたら一瞬も生きていかれん、どうしようかと思った。保てない否といえば得度式は終わりだ、鳴り物入りで出家した手前、なんしろ保つといって式はすませた。のち寺を持って参禅に駒澤の学生が来た。じき卒業だが四年間疑問に思うことがある、十重禁戒だ、教授に聞くとみだりに殺すなかれ、みだりに犯すなかれだという、おれはそんなこっちゃ納得できない、人にやれんことを押し付けてお釈迦さまは嘘をついたのかと云う。わしは云った、よくこれを見てみろ、いいか十重禁戒は人の作ったものじゃないんだ。そうかといって彼の体倍に膨れ上がる、ちらとも見るものは見て帰って行った。戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、他の山上の垂訓とは字面似ているようでまったく違うんです。よくよくこれを見てとって下さい。これを透過せんけりゃ仏弟子とは云われんです、僧たるもの通身もてあたって下さい。
葬式
坊主どもの集まりに、魚屋は魚食ってみてから魚売る、坊主は死んでみてから葬式やれといって、えらい顰蹙を買った。坊主どもは生死の問題どころか、仏教を食い物にして葬式家業に精を出す以外になく、達磨さんに毒を盛り道元禅師を足蹴にするごんずいかたまりの、自閉症集団だ。葬儀屋に言わせると人間最後のセレモニーだ、厳粛に優雅に云々という、どう云い繕おうがしようが、それは有為のものだ、死んだやつに届くはずがない、独りよがりのつまりはゼニ儲けですか、坊主は無為のものであった、幽冥境を異にする、あるいはその中継ぎであったはず、それを忘れ去ったら土台意味がなく、商売繁盛の葬儀屋に勝てるはずがない、すでにして坊主というセレモニーの道具立て、もって葬儀屋に使われている。無心のものたよいバッハもモーツアルトも及ぶべくもない、汚れを知らぬ清涼の月、畢竟空に遊ぶ、衆生の心水浄ければ菩提の影中に現ずと、菩薩如来になって血脈であり引導を渡すんです、でなきゃ嘘八百、ただの紙切れをもって後生大事じゃ、そりゃもういい加減ばればれです。面倒くさいほっちゃおけぬから坊主を雇うという無残、もし未だ到らざるともこれあるを知り、絶学無為の人を尊貴し、仏仏の菩提に合踏する志あって、始めて葬式も成り立つんです、でなきゃ詐欺だ。
知らぬが仏
赤ん坊がそっくり仏、生まれる前が仏、死んだ人も仏。美人局にひっかかって田んぼは売る、なにやらかしてもいい加減、はた迷惑だけのじっさが死んだ、その写真見るもおぞましいのに死に顔は厳然として仏であった。よく弔ってやれという他なく。花は知らないという、達磨さんも知らないという、もし花がおれは管巻きの菊といい、なんのたれ兵衛が植え育てて、品評会で三位になった、日照はどうの肥やしはどうの、上を見ればきりもなし、下を見ればきりもなし、まあこのへんでとやりだしたらそれっきり見る気もしなくなる。なぜか、知っている分がみな嘘だからだ。人間だけ地球の余計物、知る分をかき汚す、進化の途中段階毛なし猿です。生きている間に仏になって下さい、単純この上ない元の木阿弥がどんなに困難か、よくよくかんがみるにいいです。
孤俊
孤独と云うことないんです、忍耐と云わず忍俊ですか、おそらく大法を得たものまったくの孤独です、右を向いても左を向いても、仏教というもとないものを振り回して、世の中かき汚すっきりのでたらめ、おれがの我利我利亡者です。これ一目瞭然です、ないものには丸見えの原理ですが、悲しく騒々しいだけの、なるたけ避けて通るんですか。だれかれ観念思い込みの手も付けられんです、ほっておくより仕方がない。孤俊忍俊とはこれ。まるっきりの一人ぼっちで、淋しくはないかというと、そりゃ淋しいんでしょうがさ、無一物中無尽蔵花あい月あり楼台あり、自然というものみな釈迦牟尼仏の声と緑と。土台だれかれいけない世間が悪いなんてこと云わないです、前三三後三三鼓腹撃壌ですか、にっこり笑うと百花開く、世の中赤ん坊と同じです。人をやっつける利剣なんていうもの持たぬです、利剣を振るう前にばっさり切ってます、服と不服とは医の科にあらず、死なないのはしばらく生きてるからですか、うっふっふしんどういたってもさ。
応無所住 而生其心
六祖禅師がたきぎを背負うて往還を行き、金剛経のこの語を聞いて悟ったという、住むところ無うして、その心を生ず、目に一丁字もない人が、そうだよまったくにその通りだよと知る、神変不思議です。老師に参じてある時応無所住而生其心とはどういうことかと聞いた、老師はおうむしょじゅうにいしょうごうしんと云った。さっぱりわからなかった。わかるとはどういうことか、正法眼蔵の提唱中に悟ったという良寛さん、言葉が消えて現成公案ですか、実際がただこうあるときりしか云いようがないです、娑婆人の理解とはまるっきり関係がないんですか、でもほんとうに分るんです=まるっきり知らないんです。面白いですよ。坐るたんびに悟出し悟入して下さい、いくぶんか取り得があります。天涯孤独というまろやかに身に就くんです、あっはっは一巻の終わりと大ひまの開いてのちの生活です、はーいいよいよ厳しくなるんですか、大麦小麦二升五合。
ある人大乗を問ふ、予いはく、身をただしくして、守る事なきを、大乗といふ。最上乗をとふ。予いはく、身をほしひままにして、守る事なきをいふ。ゆえに大事なsり。かるかゆえに世にまれなるもの也。
至道無難禅師のこれ、まことに実にこのとおりです、わしはまだこういう人を今の世見たことがないです、どうかこうなって下さい、守るべきものなきは自堕落という、自堕落の寸分もないんです、最上無為の法はおおむかしからまったく不変です、身をほしいままにしてなをかつ則に従う、実にこれを実感して下さい、世の中からはみ出して十二分です、はた迷惑ですか、いえ触れるものみな救う以外にないんです、かつかつ息通うほどに、朝打三千暮打八百、たった一人に雪月花です、人ごとをいとうにはあらじ、一人遊びぞ我は勝れると良寛さんの、飯が食えれば生きていられます、食えなくなったら死ねばいいんです、あっはっは無上楽。
焚くほどは風が持てくる落ち葉かな
良寛さんの俳句には、裏を見せ表を見せて散る落ち葉、というのもある、一生不離叢林はたった一人托鉢暮らしの良寛さんの根本であった、自堕落な一人暮らしじゃないんです、きしんとしていた。しかも対大古法の相手ががきどもです、いったいなにするかわからん、それをまったくに従いつく、一休命がけよりもどえらい姿です。焚くほどは風が持てくる落ち葉かな、よろずものみなこのとおりにある、たとい詩歌の道も向こうからぽこんときてぽこんと去る、たといあくせく四苦八苦もそりゃ同じです、裏を見せ表を見せて散る落ち葉です、たとい隠し立ても嘘ばっかりも同じことです。坊主と付き合うと嘘ばっかり、なるたけ合わぬよう口利かぬようして、あっはっはつまはじきのわしは坊主組合ですが、托鉢暮らしはできなかった、だからまあ因果応報。歌やとんとむかしをこれも対大古法と精出して、今の世さっぱり受け入れられぬのを知ったとは間抜けな話、するとようやくに良寛さんが見えて来たですか、一人遊びぞわれは勝れる、なつかしい故郷とはこれ、雀にからすにばっさまにおねーちゃんにおやじ、お寺ってのはなんとか食えるから助かる、能無しのどうにもこうにも。
薫風自南来 殿閣生微涼
一休のこの書レプリカ買って掛けておいたら、部屋いっぱいに広がって宇宙と同じ、うわすげえとこりゃもう絶句。薫風南より来たる、六祖禅師南宗の風です、仏のありよう頓に無生です、一休命がけでやっていた、仏像の開眼頼まれてすそめくって小便ひっかけて、婆にぶんなぐられたり、どくろの杖ついて門付けしたりと、今に伝わる一休頓知、常識の夢をぶち破って実際。七転八倒してもってわずかに涼しさをもたらす。これ仏の行です、仏教だの公案だの屁でもないこと持って回っている、今の世豚ども見習うべきです。一休の真似して寺を追い出され。大灯十八年間乞食、うっかり瓜に呼び出され。大灯の梅渓のレプリカも買わされた、なんてえいい書なんだろう、いいなあいいなあと見て、宇宙ぜんたいすっぽり忘れ、これ無事禅やってらんないこと、だれも知らず。今日はまた雪の山を快晴、おうほう鷲が行く。
念仏
念仏は利剣なり、身の業去るによし。かならず仏になると思ふべからず。仏にはならぬが仏なり。車座になって大きな数珠をまさぐり回しながらする百万回念仏は、今でもなを残る。念仏を唱えて法悦にひたり忘我に赴く。なにが喜びか、本来のおのれであることこれ。自分というよこしまを去る、歓喜して無上楽を知る。知るおのれもはやなし。一遍上人は念仏をとなえ、野に臥し山に臥しして行く、従う大勢みな歓喜して無上道を得る。ついには念仏もなく自然ものみなと同時同体です。生まれついての本来事です、生まれる以前からこれ、死んだのちもこれ。身の業のつきはてぬれば何もなし、かりに仏といふはかりなり。念仏という是非善悪の辺の徘徊じゃないです、ついにはエログロナンセンスの門徒ですか、どうしようもないのは曹洞宗門も同じ、言い訳はた迷惑おためごかしは、ただもう人間失格ですか、新興宗教も創価学会も天理教もこりゃ悪という以外になく、数を増やす以外のなんにもないんです、右の頬をうたれりゃ左を出せのあっかましさですか、人間宗教を卒業すりゃ、ようやく地球のお仲間入り。
o 仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。
これが仏教のいろはのいです。ただこれの底をぶち抜けば事は足りるんです。仏教学とは絶学無為です。仏教というものがもとないんです、仏を習うとはもと仏である自分を知る、他にはさらにないことを知る、なかんずく大力量です、必ず泳ぎ出して公案だ無事禅だ、行い済ますのだからどうだのやり出す、気がついたら自分というなんの解決もついてないんです。気がつかないんですか、ぶんなぐったら逆恨みするが落ち。痴人に夢を説くなかれと、痴人とは自分というものを認めてそれをもって云々する人です。ウイトゲンシュタインがいくら無心を説いても有心です、哲学しようがなにしようが哲学する自分はという問題が未解決です、ただの俗物です。自分を知る=自分を忘れる、という二二んが四の明白をないがしろにする。法王の演説みたいに妄想まるけを如何ともしがたい、
Ichという理由がどうしてもわからない、西欧無明の文明ですか。自分を知る自分はという無限の合わせ鏡じゃないんです。未だにヨーロッパ、アメリカに仏教のわたっていないこと、これはただこの問題です、今後ともにきわめて困難です。キリスト教がなけりゃもっといいラファエルやダンテができたといって失笑を買った、でもこれ本当です放てば掌に満てり。
難波のことは夢のまた夢
人生五十年難波のことは夢のまた夢と、信長が死ぬ間際に云ったという、真剣真正面のなりふりかまわず生き抜いたってことですか、記憶追憶のわがまま三昧じゃない、あとさきないんです、いいのわるいのの間尺に逢わない。一年365日夢、真剣に生きれば生きるほど夢です。現を抜かすというが、現と知る不可、かえりみるなく現の我を見ている目がないんです。坐ってもあっというまに時間が過ぎる、早く終われ痛いかゆい云ってると、十倍も時間のたつ気がする。無我夢中というはやや近いんですか。投擲の選手が投げ終わったあとに、投げたんだと気がついた、つまり記憶が欠落しているんです、真剣真正面100%ですか、新記録を作った、どういうことかと思い、図書館で調べたら東洋の禅のことを記す、日本までやってきた人がいた。あっちこっちろくでもないのばっかりいてついに老師を捜しあてる、一応の目安はついて帰って行った。この単純得がたく見つけがたし、正師に会う僥倖を思って下さい。三つまでの子に記憶がないのはなぜか。夢のまた夢とは何か。夢だの愛だのいうかき汚れとは関係ないです。
人間の如来は人間に同ぜるが如し
和は花よりも美しいと老師が云った。和というなにかしらじゃないです、みんな仲良く平和にという事なかれ主義の裏返しじゃさらにないです。和というものみなの姿です、他にありようのないことを知る。会津八一が和楽互尊という酒の銘柄を書く、どうも百歩遅いんです。仏教があればすでにして和ではない、これは思想の酒じゃないです。人間であるからというには人間を損なう、必ず根拠を持ち立場を云う、和といいながら諍いの源ですか。花知らず蝶知らず、知らず知らずして帝の則にかなう、和という壁立万じんですか、取り付く島もないんです、ただ因果必然を見る。もと我らは如来です、物心ついてよりこのかた、人間という馴れ合いに組して、本当本来事を忘れる、しかもなをかつそれが不都合をかこつ、万が一にも正師に出会いもと如来であったことを知る、至り得帰り来たって別事なし、花は紅柳は緑と、たまたま人間の形をして暮らす、和とはこれ。
教は大きにあやまる、それを習は猶あやまる。只直に見、直に聞け。直に見るはみるものなし、直に聞くはきくものなし。
正師は奪い邪師はつけたす、もと仏であるはずのものに、思想宗教哲学歴史社会などこんぐらかりコングロマリットですか、五薀というもと空のものをがんじがらめにする、自縄自縛の縄のはしっくれを自分だと思い込む。どこまで行ってもこれしきです。なんとかならんのか、無為の真人面門に現ず、智慧愚痴般若に通ず、ぶんなぐり胸倉をひっとらえて突き放す、茫然自失するのへなんで礼拝しないのかという、礼拝中に気がつくんです。手つかずでいいってことに気がつく。手つかずでいいという言い訳能書きがないんですよ。接心とは自分用なし、すなわち七転八倒して下さい、人の百生分生き抜いて下さい、なんでもありありです、悪でも善でも底抜けにして下さい、なにほどか得ることあったらそやつをぶんなぐる、飽き飽きしてなげうってください、そうです自分をなげうつ、わずか五日間一瞬の間。直に見直に聞くことがなんでできない、どうしてかできない、なぜか。答えはおのずからにあるんです、言い訳能書きの記述不要。
仏祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん。
今の世なぜか無数の悟ったさん困ったさんがいる、心意識の低劣とあいまって靴でも履き替えるようなふう、一人じゃまず絶対に無理です。不立文字教別伝というには、正師を見つけ出しこれに就いて不惜身命も、そう簡単には得られないのは、自分が自分に関わるからです。なんで外国人に印可をと侍者が食ってかかる、あいつもさんざん叩かれたからなあと如浄禅師。道元禅師ほどの大才でさえ、身心脱落来、やったあやって来ましたと行けば、脱落せる身心底、そうじゃないよもとっからこの通りだよと示されて、落ち着くことは落ち着く。これを得るこれを脱却する、悟入し悟出す日んがな毎日です。いいですか人間も人間以外も生死のさかいになんの安楽椅子もないんです。無思想無性格という、自然という自己満足じゃない、ましてや仏教というけつの穴じゃないんです。触れりゃばっさり大火聚の如く、そりゃ大火傷です、はいわしがいうんだからたしかです、大小無数一箇としてお釈迦さまを継ぐものはいないです。さあ心してかかって下さい、無心これ取り付く島もなし。
色即是空
色不異空と知って修行ですか、自分という囲いの敷居を跨ぐ、すると広大目変の世界です、なるほどと知って省みる、空不異色という色がないんです、自分という囲いが消えている。これそういう思い込み能書きではなんの役にも立たんです、思想仏教云々の延長ではそりゃ無心じゃない有心です、空即是色にはならんからです。身心脱落来、脱落身心底と帰り来て、ほんとうにどうあったろうがこうあったろうがまったくないんです。坐だけがこれを知るんです。坐らずしてどうの云ったって云うている自分があるだけです。色即是空空即是色と悟入し悟出する生活があります。如来の現実です。自分という世間というあるいは出入り自由ですか、子は父に順じ、臣は君に奉すと、世の中のことは世の中に任せ切りということは、際限なしの自由があります。もと本来このとううりに生まれていたという自覚です。不生の人というべきですか、生死の底をぶち抜いて、生まれる以前死んだあととまったく変わらないんです、ああだこうだあっちこっち齟齬があるのは障りですか、見事に脱落して下さい。
汝今これを得たり、よろしくよく保護すべし。
洞山大師宝鏡三昧の冒頭です、このお経をまるで悟ったように読む新到がいたと老師が云っていた、そりゃそういう人いてもいいんですが、もとはじめからどっぷり漬けです、何をどうしなけりゃならんということなし、何をどうしようがこうしようがそのものこれ。ダライラマの生まれ変わりという、もしやこれ正解です。みなまた如来の生まれ変わりです。それがどういうものかそうは行かない。せっかく悟った様子がどこかでおかしくなってしまう、そこへ俺様は如来、生き仏だというとなおさらおかしくなる。なぜか、なんの理由もないはずが、新興宗教のように数を頼み、人の弱り目祟り目につけこむ、こりゃどうしようもないですか。悟るのはそう難しくない、これを保護するほうが難と云われる所以です。坐っていてなにかしらちらともあればうまく行かない、微妙とは女の子のごまかしじゃない、ほんとうに微妙なんです。ただということです。お釈迦さまでも達磨さんでも、そりゃ絵に書いた餅のようにはいかんです。あるとき本当に此れ、あるとき周辺ということあります。面壁九歳端座六年のしょう(足に従)跡見つべしとはこれ、頭にかささぎが巣を作った、あるいは慧可大師が肘を切って差し出すまで動かぬという、自分=世間をまったく縁切りする、どうも人間というのはそうでもしなけらさまにならんことあります。うっふっふ一生死ぬまでやってりゃいいんです。
ぼう(茹でる意)蟹の七足八足するが如し
茹でた蟹が自分の意思に関係なく足を動かしているさま。手足五体身も心も自分のものだと思っているんでしょう、ところがそうではなかった、観念思い込みをちらっとも離れるとこんな現象が起こる。初体験の人は右往左往する、なにごとだというわけです。もとからそういうことだったと知るとぴったり収まる。自分がなくなった俺はどこへ行ったと探し回る人もいる、はいこれぽんと叩くと落ち着く。古代インドから同じようにあります。無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。よくその実際をたしかめてみて下さい。ほんとうに悟るとはどういうことか、悟らないと同じことかも知れんです。六祖大鑑慧能禅師、慧能もと技量無し、おうむしょじゅうにいしょうごうしんとたったこれだけです。風も揺れず幡も揺れずこっちこう揺れ動くんです。はーい答えはたった一つ。
工夫してわが身の悪を如来にさらせよ。かくの如くつとむることたしかなれば、仏になること疑いなし。
裏を見せ表を見せて散る落ち葉かな。参禅というものみなすべてさらけ出すんです、善悪是非もなしすべては来る如しと知る、あるいはお釈迦さまに救っていただく、どうにもこうにもしようにない自分、お手上げ万歳です、わが身どうしようもない、仏だけがあるという、ちらとも他あればお粗末です、単純を示すにならない。やがて知るんでしょう、焚くほどは風がもてくる落ち葉かな。宇宙の果てを尽くしたろうが観音さまの五本の指、孫悟空だろうがわしのようなけしつぶだろうが、生涯なんの足しにもならず、やげて死ぬ景色も見えず夏の蝉。どっかに夏があったんです。
一切我今皆懺悔
今の世自分で自分が断じて許せない罪の一つや三つ誰でも抱えているか、あるいはたいてい人間失格ですか、一切我今皆懺悔とはただうち坐ることです、これ以外に方法はないです。許せるとは死ぬしかない、腹かっ裂いて果てるほかにはこれっきゃない。出家自体が断じて許されんことはわしがよくせき知っている。第一出家する世の中抜け駆けの功名は、世の中食いつくしはた迷惑破れ法界です。お経を読んで頭剃ったなんてもの爪の垢にもならんです。死ねば罪も罰もかすらない、ただかつかつこれあるのみ。たといどのような断腸の思いも、あるいはうれしいことも一瞬過ぎって跡形なしです。みずとりの行くも帰るも跡絶えてされど法は忘れざりけり。どっかに満腔の喜びのあるのを知る、なぜだ。親殺しも愛人ひっからびもとんだ恥かきも不染汚、これなんぞ。坐ることが救いでなければ人を救う道はない、ほんとうに救われて下さい。根本からです、どこにもお釣りは来ない。故に光明です、片隅を照らすもの国宝たって、宇宙のど真ん中ですよ。
浄法界の心元出没なし、大悲の願力古来を示現す。
身心脱落すれば身も心もなし、出没太虚の中と云われる所以です、太虚なんにもなしです。住む所無うして其心を生ず、心とは心が心を見ること不可能、風も揺れず木の葉も揺れずこっちこう揺れ動くんです。歴史といい哲学思想、あるいは文学という、もと出没太虚中が、いずれ形を取り影を宿すとろくなことにならんのですか。人間の歴史我欲と間違いのくんずれほんずれ、残虐になりだらしなくなる他に、おそらくはまったく同じことの繰り返しです。公案禅だの無事禅だのいうエアーポケットからはいずり出て、じかにこのどうにもならぬ現実に直面して下さい、仏教とは何か。如来とは無心とは何か。血まみれずたずたに引き裂かれて、浄法界の心元出没なしです、大悲の願力古来を示現す、仏として現れるんです、お遊びじゃない禅坊主じゃない、裸の一箇です、にってんすいしゅという無防備都市ですか、迷故三界城、悟故十方空。東西南北門です。未だ悟らぬ者はまず悟って下さい、身心脱落してよりほんらいの生活があります。いつの世もよくも悪くもないです、如来来たる如しをまっとうして下さい、これはこれ風力の所転と、なにさあ他になんにもないです。
九のまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば
君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや
良寛さんのまりつきの歌に貞心尼がつけた。一つが完全するということです、はじめて人の生活ですか、地球ものみなのお仲間入りといったらいい。雲や鳥や花と省みるなしにこうあるんです。悟りだの気がついたの、境地や状態をいう人には無関係ですか、公案禅だの無事禅だの、人にひけらかすための商売じゃないです。うたた悟ればうたた捨てよという、悟り終わって悟りなしと、では仏とはいったい何か、仏というがものなく、あるいは一生問い続けるによく、自分という浮世娑婆のものではないところから始めるによく、たった一人のルネッサンスですか、人間復興は人間を出外れるとあるいは完全です。箇の無縫塔をこれ、どこをさがしてもなんにも見えないんです、どうか本当の暮らしを得て下さい。いっそだれが為にでもないんです。
願はくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを。
普回向というこれは、たとい何をどうしたろうが普く一切に及ぶこと、まずもってこの事を知る、坐る以外に知りえないんです、仏とはこれあまねく一切に及ぼすこと、おむつを取り替えてもらっていながら、文句百万だらの未成年、だれかれそんなふうでは国が滅ぶ。我というなんの取り得もなし、雨滴水の辺に落ちて、波紋が広がってまったく収まる、一箇とはただこれ。我ら人みななんのために生きるかといって、ただこれ仏道を成ぜんがためです。たといどのような紆余曲折もみなまた同じ、虚空に山川大地日月星辰あるが如くです。ものみな間違いようがなく、間違いようのないことを知る、これ個人なり、仏なり、仏道の肝心要です。生生世世を尽くしてまさにもって完成する、まさにもって不惜身命です。幸せであり歓喜に満つ、知れるについてはまったくもって他に云うことなしです。
いまをしふる工夫弁道は、證上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらんや。
ただこうあるんです、他なしです、まるっきりぜんたいです、かすっともかすらない、脱落身心は各々の方面に知覚を残さず、各々の知覚に方面現れず、悟ったというときに始めて宇宙全体わがものです、生活が始まります、何をどう云ったって我田引水のやからどうにもこうにもならんですが、どこまで行こうが未だ夢にだも見ずです、仏仏に単伝してよこしまなきときは、自受用三昧その標準なり、自分印可なんてありえないんです、もし悟ったというなら持ってきて下さい。仏は一目瞭然です、手前味噌害はなはだ、石ころに説法して如何、自受用三昧これ、自分という袋小路の尽きるとき、この節目にかかわらんや。一人半分出路に一如を行ずるを待つ。さあどうぞ。舌足らずのはい五十問終わり。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。