尾瀬の花旅

尾瀬の花旅


 アルバイトのお金が入ってどっかへ行こう。あとのことはいい、山歩きがいい、さあ行こうといって、詩人は行方不明、小説家は不在、論敵も、取り巻きも現れず、風月堂の大ガラス、柳かげの待ち合わせは、弟と腰巾着の英也しか来なかった。
 しょうがねえなあ、まあいい行こう、尾瀬がいいと弟がいった。電発でダムになっちまう、今のうちだと云う。なんでもいい、そこへ行こうといって、夜行列車に乗った。
 弟はフル装備の、登山靴を履いてどでかいのを背負い、たいしたもんだと云って、腰巾着の英也と、わけのわからん格好して、どうだといってポケット瓶を取り出す、二人してたいして飲めない酒を飲む。

青春の何を苦しみ酔ひつつに夜行列車はカザルスの鳥

 (だれ彼ひどい目にあったが、腰巾着と弟はさんざくた、借金は踏み倒し、青春をひっかき回し。)

 夜中に沼田の駅について、明けを待って山行のバスに乗る。満席であった列車が空になる、みんな尾瀬へ、
 「ちええなんてえこった、せっかくなけなしゼニはたいて― 」
  東京と同じだといって弟がぼやく。とにかく下りよう。一歩踏み出すと、沼田の濃厚な夜気にくうらり。

いにしへの月を知らじや上毛の武尊の嶺はなほなほ見えじ

 寝静まる夜を総勢砂塵を巻いて突っ走る、蛍光灯の明かりがはすっぱに、
 「こりゃなんだ。」
 「バスの順番取りだな。」
 にひーと英也が笑う、いつもそんなふうに笑う、
 「そうかそんじゃこっちも。」
 といってのっそり歩く。頭上は満天の星、絹の布にちりばめるという、古代ギリシャ人の形容に似て、たとえようもなく美しく。
 とつぜんその一片が墜落。

上毛の天夜星むら張り裂けて妹をかも思ふ置きてし来れば

 帰ったら必ず会おう、言葉も掛けようと云って身を立て直す、背骨がぎりっと音を立ててきしむ。
 バスの八百何番という札を取った、しまいかと思ったら、夜行はもう一列車来た。
 なにしろ大騒ぎ、いざこざがあったり、だれも人っことは考えず。なんだあこいつは、明け方を待って、駅のベンチに眠る。

ぶっこはれタイムマシーンに乗りて来ていついつこれを恐竜の世ぞ

 二人はまだ寝ていた。山清水にわななきふれて目が覚める。一面の星空であった、そいつが闇に食われる。
 山がせり上がる、
 「どうなっているんだ。」
 雨雲だった、すっぽり覆う、雷が鳴ってはらつく。
 ふうっと晴れた。

一千の宿れる辺り明け行けば上毛の野に鳴る神わたる

 まだ寝ていたり、宿を取ったり、一晩中起きている者。女だけのパーティがあった、とりわけ美しい子を中心にする、
 「オリンピック代表はあなた、でもなんで代表。」
 失敗したらぱっくり食おうか、といったような危うい。
 木造トイレは穴が開いている。
 見たこともない背ろ姿。
 けだるい。
 やるせない。
 (カタストローフを待つような。)
 なぜか「女の密室を描くドガ」という言葉が浮かぶ。
 入れ代わりまた入って来て、外に二人示し会わせて待ちもうけ。
 えい、どうでもしろと出て行く。
 リーダー格がえっと叫んでそっぽを向いた。手を洗う。

乙女らが清やけき月と伏し仰ぎ何におのれがカタストローフぞ

 透明な夜が一瞬かきくもって朝が来た、柳が姿を現わす。十何台めか、満員バスに荷物を叩き込んで出発。

鶏の鳴く何もなふして沼田夜の柳影とぞ明け行きにけり

 みなまた寝入る、明け方はすばらしかった。くず屋根の家がぬっと現れる、桑畠に光の矢が届いて、上毛の山てんに朝日が射す、モーツアルトもバッハも顔負けの大奏楽。そうさたしかにこやつは日本の夜明け。

十七年かくの如くに明け行くか我が敗戦の藁屋根の家
ちはやぶる神の戦と知るや君桑の畑に日はも射しこも

 林には栗の花が咲き、川辺には藤が咲き、幾つ村々を、片品川に遡ってバスは行く。
 尾瀬は花の田代と云い、神の田代と古くから知られ、なぜか牛と云うと荒れるだそうの。

栗の花の咲き満ちつつに梅雨に入る言はな云はじ神の田代ぞ
人はいさ恋ふらむあれば片品の藤江の浦を過ぎて廻らへ

 バスを下りて、ぶなの林に別け入る、さしてのこともないのに息切れして、日々の生活を反省、とつぜん涼しい風が吹いて、夏をなをあら芽吹く木々。

未だ見ぬ妻に恋ほつつあら芽吹く小瀬の田代の風の清やけさ

 ひばの大木が真っ黒に茂って、ぶ厚い万年雪。三人てんでに寝ころがって、歓声を上げる、太古の息吹のような、なんなんだこれは。

うつせみの身を伏しまろびあららぎの万ず代かけて思ほゆるかも

 金色のみずきんばいに雪とみずばしょう。

万代を神さびおはせあらびふる雪の田代に人は踏み入れ
百伝ふ磐れはあれど降りしける雪の辺べの花にしあらむ

 残雪とみずばしょうとひばの大森林、湖には燧の峰がさかしまに。
 夢や現つや、その足で燧に登るはずが、ここで一泊しようと、東電小屋に泊る。
 浮島があり、白骨化したひばの巨木、鮒のようなもっと大きな魚がじっと動かぬ。

島二つ月に浮かれて梓弓春たけなはの行方知らずも
白骨と化すらんものは青春の巨木にあらむあららぎの木よ
ふりしのふ雪はも如何に湖の底なる魚と眺めやりつつ
春さらば流転三界人白鳥のしのびわたらへ田代の空を

 ホッキョカケタカ時鳥に目覚め、深山を明け行く。よう晴れた。
 みずばしょうの咲く浮島の前に、女二人、声をかけて、無理矢理とっつく、
 「ちいっとあれ、まあいいか。」

神からか花の田代は杖を引き丈の白髪にわたらひ行かな

 杖をこさえてやろう、いらない。
 ひばの森を抜け、息が上がって、突っ走ってはおい休もう、そんなんじゃ着かないよと弟。
 これは女たちをがっしりエスコートして、残雪を踏み分行く。群鳥が鳴行く。一所開けて湖が見える。

見よやこれ萌ゆる浮島うたかたのたが客人か舟に棹さす

 燧は雪、昼飯を食って登って行く、ガスがかかる、晴れて真っ青な空。くわーい死んでもいいやといって、雪に見上げ。
 長い雪渓があった。足スキーして一気に下る。英也が真似して滑って来て崖へ、そいつをすんでに受けとめる。さんざくたの目に会わせて、為にしたのはこれっきり。

廻らへるひうちの山を雪霧らひ晴るる間をさへ命なりけれ
廻らへるひうちの山を雪霧らひいにしへごとはな思ひそね

 登りはあはあ息せいて、下りはほうと走って行く、ぶなの林の新緑。
 弟は女たちと慎重に下る。
 長蔵小屋であった。もうたいてい満員の、まだ山小屋と呼ぶにふさわしく、てんや銀狐の毛皮を何枚か売っていた。

長蔵の新萌え出る満つ満つし尾瀬の田代に人の住むとふ

 女の子の一人はすっかり弟が気に入って、どうだいいっしょ泊まろうぜ、兄が無責任にいったら、とろけそうな笑顔の、もう一方が慌てる、弟はまともだって、あとの二人へーんな人、もうどうでも次の小屋まで行くといって、連れを引っ立てて歩き出す。
 悪いことしたたって、夕日を仰いで、ひえー嘆息。見りゃ健脚のようだし、ほっとしたのが弟だったり。
 風呂へ入って飯を食って、酒も飲まずに歌う。荒城の月に菜の花畑にって、隣パーティーの女たちが笑ってのぞく。

長蔵の芽吹かひ行くも花にしや手を振り歌へ鳥刺しアリア

 三丈の滝を見てから、尾瀬ケ原を歩く。
 滝まで三十分、豊かな水量が常舐の滝というまっしぐらに流れて行って、大落下三丈の滝。
 ものすごいったら。
 鎖をと取って滝壷へ下りた。昨夜の女たちが、
 「きーわー。」
 見守る中、さっそうと下りるはずを、手がふるえる。
 ただしぶきに濡れて。

ふるへつつ鎖を取れば萌え出ずる若葉青を三丈の滝

 花の田代といわれる尾瀬が原を、人っ子一人出会わさず。たった一人釣りをしていた。さまざまな花を見た。名を知るのは、ながばのもうせんごけというのだけ。満喫するといっそ記憶が失せる。夕方川をわたる。楊の並木があった、大小のいわなが行く。

達磨さへ忘れ田代の花にしや思ひ起こさば魚の行くらむ
いついつか夏にしあらむやなぎ影しばしとてこそ立ち止まりつれ
千秋の枯れし思ひをつゆ霜の花の田代を見れど飽かぬかも
万雪に押し照る月のしのひ屋のもがり吹くらむ神の田代を

 至仏小屋に一泊して、一日もう余計に過ごしたから、明日は山を下りる他になく。全天またたかぬ星、手を伸ばすと届きそうだ。

至仏には流転三界人みなのなほ天降らはぬ星の如くに

 花は至仏のほうが有名だという。ざぜんそうやえんれいそう、ちんぐるま、みやまおだまき、世の中にこんなものがあるんだなと云っていたら、女子大生の四人組が行く。
 花より団子、大慌てに呼びかけたら、返事がない。
 リーダーは美人で、姿も申し分がないのに、うっすら口髭が生える、むらさきにおう処女のひげ。

おだまきはみやまおだまき繰り返し長日乙女とあひ見てしがな

 あとになり先になり、菖蒲平らを過ぎ、ぶなの林を行き、あとの三人話したくってむずむず。美人はかたくなに沈黙、ひげをまじまじ見ちまった。
 かってにからかい笑わせ。夢中に楽しく。

恋ほしくは菖蒲に追はむ女らのむかしを今になすよしもがな

 一生忘れられぬむらさきの。

年老ひてくしくも思へ咲く花の神さびおはせぶなの田代を