従容録
第一則 世尊一日陞座
衆に示して云く、門を閉じて打睡して上上の機を接し、顧鑑頻申曲げて中下の為にす、那んぞ曲碌木上に鬼眼晴を弄するに堪えん、箇の傍らに肯わざる底あらば出で来たれ、也た伊を怪しむことを得ず。
挙す世尊一日陞座、文殊白槌して云く、諦観法王法法王法如是。世尊便ち下座。
頌に云く、一段の真風見るや也た麼しや。(特地に眼を飄入せしむること莫れ、出ること還って難し。)綿々として化母機梭を理む(参差蹉了るを交う。)織り成す古錦春象を含む(大巧は拙の如し。)東君の漏洩を奈何んともすること無し。
陞のぼる、世尊お釈迦さまが一日座に上る、文殊白槌して、カンと槌を打って大衆に告げるんです、諦観法王の法である、法王法かくの如しと示す、用事が終わった、世尊座を下るというのです。
挙す、さあどうですかというんです、さあどうですか、お釈迦さんのようになって下さい、他なしです、第一則一番難しいです、通身もって、
「どうですか。」
という、これができるかできないか。山川草木空の雲も天空の星もぴいと鳴く鳥も、まさにこうあって長口舌、法王法如是と示す、だれあって、人間の如来は人間に同ぜるが如し。
いったんまず自分を去る、坐っても坐っても自分という従前の我を反芻し、嘗めくりまわして、どうして行かないんだとか、だいぶよくなったとか云っている、あるいはもうすぐという、百年河清を待つです、そうではない諦観です、自分といういらないものを捨てるんです、すると体もなければ心もない、生まれる以前死んだ後です、おぎゃあとこの世に生まれるとは、実にこのように生まれるんです、物心つく以前の赤ん坊は、恐ろしいほどの目をしています、宇宙の一欠片です、これを如来来たる如しといいます、七歩歩んで、六道輪廻を一歩抜け出でて、天上天下唯我独尊事です、文殊白槌して日く、諦観法王法如是、一枚自分というお仕着せですか、着たきり雀を脱げというんです、元の木阿弥はもとこのように現じている真箇です。
たしかに自分がまったく失せる、たとえば映画を見ると画面が自分です、すると見終ってなんの印象もない、覚えていることは思い出せばちゃんとある、哲学文学出身の人が、あれはああでこうでどちらかと云えば駄作でと批評する、このばかったれめがと喝す、あれはああなんだという以外になく、すなわち彼が批評の寸足らずを示す、届かないよというんです。
はたしてわしが世尊陞坐しんぞと読むんですがね、これ可か不可か、あるときは可あるときは不可、いいえ自覚症状なんかないです、多少ともこれが一則に参ずること一生をもてするんです。
門を閉じて、法らしいことのなんにもなし居眠りして上機を接し、機とは機峰だの禅機だのいう、なにそんな特別ないんです、どっかつまってるのが外れているだけです、目から鼻へじゃなく目鼻なし、一から十じゃなくもとぜんたいです、それ故中下も下下もいつか必ず上機です、如来あって如来に同じゆうする他なく。顧鑑頻申は振り返り身ぶりする、つまりだから理屈、間髪を置かずです、渇したり押し出したり、手段するんです、たまたま効くこともある、なかんずくそうは行かんですか、曲碌は今でも坊主が葬式法要に坐す、中国風真っ赤な椅子です、もと自然木を曲げてこさえた、鬼眼晴は、なんしろぶっ殺す以外に方法はないんです、貧乏人からゼニをふんだくる手段です、従前の自分というぬくぬくそこへ収まりついて、悪臭ふんぷんたるパンツをさ、脱いでみないとどっ汚さに気がつかん、どうしようもこうしようもないんです、しばらく匙を投げ。
さあ文句あるやつは出て来い、他のこっちゃない、なでたりさすったりのしゃば一匁じゃないってこってす、取り付く島もないんです、取り付く島もないとわかったら、半分卒業です、アッハッハ取り付く島もないのほかに、仏も仏教もないんですよ。
真風見るや、一段とはこの一則です、他にないんです、一般の人は妄想を除き真実を求めするんでしょう、そいつの裏腹破れかぶれです、つまらない人生、豚箱に入らなけりゃ自分で自分を豚箱に入れとか、アッハッハすっちゃかめっちゃかですか。だれかれ心身症の世の中、みなどっかおかしいんです。信仰がないからだという、たしかにそういうこったが、夢より出でてまた夢じゃしょうがない、真風見るや、いろんな着ているものあっさり脱げばそれでいいんです。
もとこのとおりあり除くも求めるもないことを、身をもって示す。
特別を云えばかえって狭き門です、抜けられない一神教、狂信をもってすじゃ、あほらしんです、100%信ずることは忘れるってこってす。忘れ去って、綿々機俊おのずから造化の神です、そのようにもと作られているんですか、なすことすべて是、良寛さんの書のようです、春象を含む人間本来のありようです、他の説得どうかしてこれをという、二の次三の次ですか、しかも東君の漏洩、東君春の神さまこれは文殊菩薩、いかんともしがたしです。
るは糸へんに咎と書いて糸のこと、しんしさりょうは機を織る梭ひがあっちへ行ったりこっちへ来たり、糸を含むはあたりまえ、どうもせっかく第一則の頌は面白うにもなくと云ったら叱られるか、でも綿々として今に至る、ただじゃあただが得られないんです。
大巧は拙の如し、よくあと絶えはてて下さい、あれ一句忘れたかまあいいか、面倒くさ。
第二則 達磨廓然
衆に示して云く、卞和三献未だ刑に遭うことを免れず、夜光人に投ず、剣を按ぜざる鮮なし、卒客に卒主無し。假に宜しゅう真に宜しからず。羞珍異宝用不著。死猫児頭拈出す見よ。
挙す梁の武帝達磨太子に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。帝契はず。遂に江を渡って少林に至って、面壁九年。
卞和三献は、卞和という人が玉を得て、楚の霊王に献ず、偽物を献じたといって足を切られ、武王即位してこれに献じ、また足を切られ、文王立つに至って玉を抱いて泣く、足を切られるは恨まず、真石を凡石となし忠義を欺瞞とされしことを恨むと、文王石を見るに即ち真玉なりとある。
夜光投人は、鄒陽の詞、明月の珠、夜光の璧、暗を以て人に道路に投ずれば、剣を按じて相眄りみざるなし、何となれば因無うして前に至ればなり。眄ベンはながしめ横目に見る、鮮すくなしと読む。
死猫児頭、僧曹山に問う、世間何物かもっとも貴き、山云く、死猫児頭もっとも貴し。なんとしてか死猫児頭もっとも貴き、師云く、人価を著くるなし。
まあこれは本則の説明予防措置です、卞和三献は漢文の教科書にあった、足をあしきるという、あしきるという漢字があったな、ひでえこったと魂消た思いがある、とかく従容録は故事来歴が多い、衰微の兆候だつまらんといってないでアッハッハ勉強すっか、本来をお留守に注釈ばっかりという、有害無実ですか。
梁の武帝は実在の人物で一代にして国を興し、とかく仏教に入れ揚げて、仏塔を建て坊主を供養し、自らも放光般若経なるお経を講義し、天花乱墜して地黄金に変ずるを見たという心境です。これをもって活仏仏心太子なる達磨さんに会う。如何なるか是れ聖諦第一義、仏教のエッセンスは何かと問う、磨云く、廓然無聖、エッセンスなんてないよ、個々別々ですか、がらんとこうあるっきり。なんだと、ろくでもないことこきゃがって、祖師西来鳴物入りでやって来た、わしの前に立っているおまえさんは何者だってんです。朕に対するは誰ぞ。磨云く、不識。知らないっていうんです。
「知らない。」
この則の、どうですかというのはこれです。知らないって云えますか、なにかちらともらしいものあれば不可です。ちらともあるみんな嘘です、自分という嘘によって、知っているという偽によって世の中騒然です、戦争あり平和あり宗教あり思想ありする、地球をないがしろにする不幸そのものです、いらんことばっかりしている、歴史というがらくたの堆積です。
花は知らないという、空の雲も水もいえけものも鳥もたいてい知らないの仲間です。
「早く人間も、知っている分を卒業して下さい。」
そうしたら本当の大人になる、よって地球ものみなのお仲間入りですよ、お釈迦さまはそう云ったんです、これ仏、これ仏教の威儀です。
如何なるかと問うときに馬鹿なやつほど、答えを知っている、そいつをなぞくってくれりゃそれでいいってんです、まるでなってない。天花乱墜地変黄金と云って欲しかった、要するに思想観念上のことです、奇跡といいパプテスマというもそれですよ、気違いの道です、結局は収拾が着かないんです、三つ巴にあい争うっきゃない。
そうじゃない、からんとなんにもないとはぜんたいです、個々別々です、まさにかくのごとくならば印下、ほんとうにやってごらんなさい、他のとやこうまるっきりかすっともせんですよ。
せっかく卞和三献も三たび足切られですか、一般常識妄想ひっかきまわすっきり、仏の言はそりゃ通らないです。アッハッハ宗門が一番不通だったり、へたすりゃ殺されます。とかく知っている分かったことに終始する、夜光投人かくねんむしょうも不識も、卒客に卒主、ふわふわいいかげんは是、真実不虚には剣を按ずるんです、みなさん梁の武帝かしからずんば達磨さんかのどっちかですよ、そうです中間はないです。
したがい江、揚子江をわたって少林寺に面壁九年。
頌に云く、廓然無聖、来機逕庭。得は鼻を犯すに非ずして斤を揮い、失は頭を廻らさずして甑を堕す。寥寥として少林に冷坐し、黙々として正令を全提す。秋清うして月霜林を転じ、河淡うして斗夜柄を垂る。縄縄として衣鉢児孫に付す。此より人天薬病と成る。
せっかく廓然無聖も、仏という知らんものが挨拶、たとい痛棒一喝も届かず、ぶち破ることができなかった、逕庭は距離のあること。得は以下荘子にある、匠石という達人が斤、斧を揮って風を起こし、鼻を傷つけず、たかった蝿をことごとく追っ払ったという。武帝の武帝たるを破らずたかった妄想だけを払う、そりゃだれあってそうしたいところだが、せっかく親切もたいてい破り傷つける。人はいらんことに意を用いる、自分のよしあしじゃないんです、それがそのまんま転ずる外なく。失はという、孟敏という人、担っていた瓶が地に落ちてこわれたのを顧みずに行く、どうしてかと聞いたら、すでにこわれたものを、顧みたってなんにもならんと云った。故事なくたってまあそういうこったが、帝契わずさっさと去るわけです、参禅にはこれ是非善悪顧みぬこと、ものはやりっぱなしです、これができると直きですよ。一瞬前の自分はないんです、しかり今の自分もないです。
寥寥冷坐黙々として正令を全提して下さい、まったく手つかずのただ。他入る余地がないんです。河は天の川斗は北斗七星、綿々としてが縄縄になって、織りなす古錦春象を含むが、此より人天薬病と成るですよ。そうです病に効く薬はこれっきゃないです。
第三則 東印請祖
衆に示して云く、劫前未兆の機、烏亀火に向かふ。教外別伝の一句、碓嘴花を生ず。且らく道へ、還って受持読誦の分ありや也た無しや。
挙す東印度の国王二十七祖般若多羅を請して斎す。王問ふて日く、何ぞ看経せざる。
祖云く貧道入息陰界に居せず。出息衆縁に渉らず。常に如是の経を転ずること百千万億巻。
情識の至るに非ずむしろ思慮を容れんや、木人まさに歌い石女立って舞う、とあるように、劫前未だ兆さずの機、もと我らがありようです、兆してもってこうありああありだからと行く、なに思想機用はそりゃそういうこったですが、それを人格と思い自己と思い込むから間違う。そりゃどっちかというとお客のほうです、これを情識という、情実常識ですか。別にだからってことないんですが、いったんはこれを離れるんです、烏亀火に向かう、功巧によらんことを知るんです。
仏教はだから自分という常識の交通整理じゃない、仏教という能書きト書きじゃないんです、それらを容れる器なんです。どうもまずもってこれを知らんけりゃどうにもならんです。
INなどすると10人のうち一人そうかと思い当たる、あとは他山の石ですか、とやこうああでもないこうでもないする、ちょこっとぶち破ろうとすると、アッハッハどっか行っちまう。
だがこうと知っていざやり出すとなかなかなんです、死ぬことはだれでも出来る、老若男女貧富の差能のあるなしによらぬ、一瞬死にゃいいんです。それができない。
常識情実に固執して、捨てるはずが獲得し、死ぬための修行が生きるに化ける、なんともかあともなんです。
「坐るしかないのはたしかだ、だが坐ったらいいっての違う、どんなに坐ったってそりゃなんにもならない。」
叩こうが喝しようが届かぬ。一転するんですよ、
「自分がなくなって寒さ、辛さばっかりになる、とたんに寒さも辛さも失せ。」
という、逆境こそ親切。
斎はおとき、供養のご馳走です、どうしてお経を読まないんだというのは、おときに着く前にお経を上げる習わしです、届かぬやつ相手に、届かぬやつが考えた便利お粗末、飯ありゃ食えばいいそれっきり、いいですかそれっきりができんのです。入息陰界とは体のこと、息を吸い込んでも体に入らない、実感なんです、まったくこの通りです、出息衆縁にわたらず、息吐いたって外へ出ない、ぜんたい我ならざるはなしとは、ついに我なしをどうか手に入れて下さい、たとい国王のぶつくさもどこ吹く風ですよ、したいやつにはそうさしとけってだけの、愚の如く魯の如し、臣は君に奉し子は父に順ずるんです、お経を読んだら賢いという、有用しゃば世界じゃないです、常に恒に、転ずること百千万億巻、そう云えばまったくの実感、云わずばそんなもんないです。
直指人身見性成仏、不立文字教外別伝という、そりゃ他まったく役に立たんのを知って下さい、食い物の説明描いた餅みたって、腹いっぱいにならんです。碓嘴これ口なかったっけ、石臼のへりにも花が咲くっていうんです、作り物は壊れ物ばっかりの世の中、ついには心身症どっ気違いを、一枚ひっぺがして本当。
頌に云く、雲犀月を玩んで燦として輝を含む。木馬春に遊んで駿として羈されず。眉底一双碧眼寒し。看経那んぞ牛皮を透るに到らん。明白の心曠劫を超へ、英雄の力重囲を破る。妙円の枢口霊機を転ず。寒山来時の路を忘却すれば、拾得相将って手を携えて帰る。
犀は月をもてあそぶと云われている、まあそんなんに坐って下さい、木馬、すぐれた馬というより人知衆縁によらんところがいいです、注釈じゃないそっくりそのまんまに味わって下さい、アッハッハ文人才子の届く能わずってね。牛皮に透るは、えーとだれであったか、弟子どもにはお経にかかずらわるなと云っておいて、自分は声明など口ずさむ、なぜかと問うたら、おまえらは眼光紙背に徹するからいかんと云った。世間のいう理解など中途半端、よこしまにするだけなんです。お経とうぐいすのホーホケキョ烏のかあと同断は、無意味雑っぱじゃないんです、完全に理解する=忘れるからです。良寛さん正法眼蔵の提唱中に大悟したという、はたして如何、忘れ去るときお経いかん、面白いんですよこれが、ちらとこの世に残っていると、わかるとはこういうことかと実に納得するんです、でもってそいつを忘れ。
碧眼は達磨さんと同じインド人です、明白英雄曠劫を超え重囲を破る底、まさに碧眼一双寒しです、はいやってみて下さい、ふっと笑うと百花開くんです、これなに赤ん坊そっくり。霊とは幽霊と、ものみなのありよう、衆縁陰界という内外がないんです、そういう思い込みが失せてもって説教です、でなきゃどう説いたって嘘になる、近似値ほど害はなはだってこと。寒山拾得はどうもやっぱり実在の人物ですよ、山中の岩に落書きしたのが残って、寒山詩と伝わるんです。わっはっはなんてえ大騒ぎの偈頌ですか。
第四則 世尊指地
衆に示して云く、一塵纔かに挙ぐれば大地全く収まる。疋馬単槍、彊を開き土を展ぶることは、処に随って主と作り、縁に遇うて宗に即する底なるべし、是れ甚麼人ぞ。
挙す、世尊衆と行く次いで、手を以て地を指して云く、此の処宜しく梵刹を建つべし。帝釈一茎草を将って地上に挿して云く、梵刹を建つること已に竟んぬ。世尊微笑す。
一塵わずかに挙って大地まったく収まるとは、実に仏道修行のありさまです、ついでこの則の事跡を云ったんですが、我と我が身心を如何せん、どうしたらいいか、このまんまでは、にっちもさっちも行かんていうことあって、仏門を叩くんです。たいていは七転八倒の末にです。わずか一微塵がなかなかどうして、でもついに悟り終わる。大地全く収まると元の木阿弥です。意あれば三つのがき意なければ父母未生前です。これたしかに得るものなしもとっこですが、彊つよい大変な勢力を云うんですが、従前の妄想自分=自分という面の皮=世間の重囲をぶち破って、土を展ぶる平らかに収まるとは、未だかつて知らず、見たことも聞いたこともない世界なんです。処に随って主となり縁にあうて宗となる、自由自在ものみな我です、坐っていてあれこれ手続きなく、ものみなまったく失せて済々は、なんともこれ形容のしようがないです。たといどんな苦労も厭わんです、生涯わしのようなおしまいだっても、一瞬かけがえがないんです。是れ何人ぞ、はい答えはないんです。
お釈迦さまは四十年間托鉢行脚して一処不定住です、どうにも及びもつかぬ、頭の下がる所以です、あるときはどんなに梵刹、修行道場みなの拠る処が欲しかったでしょう、祇園精舎という、寄進を受けた道場があったですが、東奔西走の年月が長かった、そういう時の一節と思って下さい。ここに梵刹を建てようという、帝釈天が、あるいは帝釈という一弟子でいいです、一茎の草をとってそこへ挿し、はい建て終わりましたというんです、世尊微笑す。涙溢れるっきりでコメントのしようがありません。
これ仏弟子の本来、ものみなの本来です。
頌に云く、百草頭上無辺の春、手に信せ拈じ来て用ひ得て親し、丈六の金身功徳聚、等閑りに手を携へて紅塵に入る、塵中能く主と作る、化外自ら来賓す、触処生涯分に随ひて足る、未だ嫌はず伎倆の人に如かざることを。
百草頭上草ぼうぼうの春ですか、手にまかせ拈じ来て、ひょいととって用いえて親しいんです、一茎草あるときは丈六の金身、如来大仏となり、丈六の金身あるときは一木一草です、そんなことわかっちゃいるたって、たいていいつだって固執したぶらかされ、つまずき転んでひどいめに会うんです、葦の髄から天井を覗き七転八倒ですか、だからといって、仏の示すところをもって、かくの如しと習わしの、なおざりに紅塵に入り、みんな仲良くとか、しかも主中の主という思い込みは、そりゃ噴飯ものですが、思い込みでない本来といって、どこまで行ったって油断は禁物。わしについて云えばこれ生涯の駄作、どこまで行ったってめちゃんこどうしようもないです。仏だのいって化外自ずから来賓す、いい子ちゃんしてられんです、どうしようもこうしようもないもこれ形容です、ふん死ぬまで、いやさ死んでも同じく、触処生涯分に随うつもりなんかない、技量不足なら喧嘩、アッハッハはいお粗末。
第五則 青原米価
衆に示して云く、闍提肉を割きて親に供ずるも、孝子の伝に入らず、調達山を推して仏を圧するも、豈に忽雷鳴るを怕れんや。荊棘林を過得し、栴檀林を斫倒して、直きに年窮歳尽を待て、旧きに依って孟春猶ほ寒し、仏の法身甚麼の処にか在る。
挙す、僧清源に問う、如何なるか是れ仏法の大意。源云く、盧陵の米作麼の価ぞ。
闍提、須闍太子は賊に追われて逃亡し、食い物がなくなって、自分の肉を裂いて父母に供したという、大恩経にあり、孝子の伝に入らずと。そりゃまあ身体八腑これを父母に受くが、別段のことは思わず、坐中のこととしてみるがいい。自分というもとないものをとやこうとやるでしょう、是非善悪思想分別ぎりぎり、ついに尽きるまでとかいって、十人が十人要でもないことをする。ついにぶち抜くという、これを肉を割きて親に供ずるもといったんです。なるほどと思います。まったくん何の役にも立たん、孝子の伝に入らんです。ということはあとから知るんですがね。荊棘林を通過する、自縄自縛の縄目です、しばるのがいなきゃないってやつです。
調達、提婆達多は増阿含経にあり、悪心を起こし山を押し仏を圧す、金剛力士、金剛杵をもって遙にこれを払う、砕石がふって仏の足を傷つける、仏身血を出だすは五逆罪の一、忽ち雷うってその身を引き裂くと。ついに身心ともになし、陰界衆縁を免れると、仏という標準です、もと仏が仏の標準を仮るという不都合、よって仏を殺し祖を忘れるんです。雷ごとき恐れておったらいかん、恐れわななくのを面と向かいあう、なんによれです。栴檀林という仏の集団です、その住人たるやってないんですよってわけです、もとそんな架空はないです。すると取り付く島もないです、年窮歳尽、首くくる縄もなし年の暮れです、ようやく解きはなたれるんです、仏教のぶの字もないです、帰依心これに勝れるはなし、菩提の心与麼に長ず。やたら宗門人が仏教のぶの字もないとは違う。
清源は原本が間違ったらしい青原行思和尚、一宿覚と云われる、六祖の法を継ぐ、因に僧問う、如何なるか是れ仏法の大意、どうですか虎の威を仮る狐、でもって何をなすという。青原云く、盧陵の米の値段は幾らだ、と聞く。米は主食だからとか、たまたま話題になったとかじゃないんです、腹蔵露呈取り付く島もないんですよ、宗門坊主の語呂会わせでもなく、いわんや世間でたらめじゃないんです、人を救うんですよけつの穴まで。
頌に云く、太平の治業に象無し、野老の家風至淳なり、只管村歌社飲、那んぞ舜徳堯仁を知らん。
五皇賢帝の時代という、中国理想の帝王はだれもそのあるを知らず、人民鼓腹撃壌して酒を飲み村歌す、それほどに舜の徳堯の仁が行き渡っておったという、まさにそりゃそうあるべきなんですが、かつてそんな世が存在したためしはなく、世界中のニュースを目の当たりする今日、まったく人間どものなすことどうしようもなし、練炭火鉢抱えるほうが正解かと思うほどに。アッハッハ自殺志願者に告ぐ、われに生きながら死ぬ方法あり、大死一番して鼓腹撃壌は、歓喜無我夢中ですよ。だってさ死んだやつは二度と死なんです、ないものは傷つかぬ、これを無心という。花のように平和を如来です。太平の治業にかたち無し、青原米価をそりゃどうしても手に入れて下さい。野老の家風、わっはっはそのろくでもないことは、けちで貪欲滑稽長いものには巻かれろ、田舎坊主やってりゃ毎日付き合って、はーい実に楽しくやっております、時に怒鳴るけんどもさ。只管打坐ただうち坐る、ウフッ村歌がモーツアルトだったり、そりゃ朝に晩に坐っておりますよ、ほとんどこの世に用無しってぐらいにさ。
どうしてここに救いがあるのにって、そりゃ思うには思います。
第六則 馬祖白黒
衆に示して云く、口を開き得ざる時、無舌の人語ることを解す。脚を擡げ起さざる処、無足の人行くことを解す。若し也た他の殻中に落ちて、句下に死在せば、豈に自由の分有らんや。四山相逼る時、如何が透達せん。
挙す、僧馬大師に問う、四句を離れ百非を絶して、請ふ師某甲に西来意を直指せよ。
大師云く、我今日労倦す、汝が為に説くこと能はず、智蔵に問取し去れ。僧蔵に問ふ。蔵云く、何ぞ和尚に問はざる。僧云く、和尚来たって問はしむ。蔵云く、我今日頭痛す、汝が為に説くこと能はず、海兄に問取し去れ。僧海に問ふ。海云く我這裏に到りて却って不会。僧大師に挙示す。大師云く、蔵頭白、海兄黒。
どうして口を開かない、どうして足をもたげないって、これもっとも親切、手を添え足を添えして損なう現実、四山あい迫るとき、ようやく一句を用いることを得、これたいてい人間世の常ですか、四山生老病死苦というが、別段なんであってもいい、切羽詰まると開けるんです。参禅に来る人、坐禅というものをなんとか手に入れたいというほどの人、やたら手間暇かかるです、事業上も心身症でも、藁にもすがる思いの必死が、半日もすればぽっかり開ける。それっきりになったりは残念ですが、無足の人無舌の人これなんぞ、いいですか手段あっては手段倒れ。殻はルじゃなく弓で、弓を引く備えだそうで、敵の計略にかかって自由を失う意、句下に死在す、せっかく時熟してもう一押しが、そうかって納得しちゃったらまったくの無駄、如何が透達せん、です。
僧馬大師に問う、馬大師馬祖同一南嶽懐譲の嗣、容貌奇異にして牛行虎視舌を引きて鼻をすぐとある、どういうこったか中国人には大人気の人、そりゃ仏祖師として申し分なし。海兄は百丈懐海、西堂智蔵の法兄であるから海兄と呼んだ。四句百非は外道論争の形式、一、異、有、無を四句、四句おのおのに四句あり、更に三世に約し、已起未起の二に約し九十六に、もとの四句を加えて百句だとさ、すなわち云うことはすべて尽くしたんです、その上で祖師西来意、達磨さんはなぜやって来たかと問う。
馬大師今日はくたびれた、答えられんで智蔵に問えという、智蔵に聞いたら、和尚に問えばいいじゃないか、いえ和尚はこっちへ来いって云った、そうかあ、わしちょっと頭痛がするで、海兄に問えという。海兄に問えば、おれはそんなたいへんなこたわからんと云った。仕方ない馬大師に挙似、もってくと和尚、智蔵の頭は白、海兄の頭は黒だってさ。
なんだ同じこと解説しちまった、これ三人親切、これしか方法がないって思って下さい、ぶんなぐり喝するも手段、払子をふるおうがとっつきはっつきする、どうしようもないとはアッハッハあなたそのもの。もとっこ達磨さんです、達磨さんは達磨さんを知らんのですよ、黒と白とどっちがどうって、老師に初相見のころ、そう云われて、はてなあこのじっさもうろくしたんかと思った、茶碗と急須どっちが大きい、そりゃ急須に決まってる、はてな。
頌に云く、薬の病と作る、前聖に鑑がむ。病の医と作る、必ずや其れ誰そ。白頭黒頭、克家の子、有句無句、裁流の機、堂々として坐断す舌頭の路、応さに笑ふべし毘耶の老古錐。
これより人天薬病となって、薬が病のもととなるのは、前聖にかんがみるから、というのは参禅者みな思い当たるところです、相応の悟があって鑑覚の病に苦しむ、病がかえって医となるとき、これ何人ぞです、苦しみ徒労する自分がそっくり失せて行くんです、まあ死ぬるは一瞬ですが、一瞬の死がなおもとっつく、アッハッハなかなかなもんです、まさに自分の取り分ないんですよ、わかってもわかってもですか、まあまあおやんなさい。克家の子とは、家をよく興す程の孝子と、百丈智蔵を示す、裁は衣ではなく隹です、祖師西来意の、いえ答えを知るとは如何、よくよく真正面して下さい、まさに笑うべしは、そりゃこの一段笑っちまうんですが、毘耶は維摩居士のこと、毘耶離城に住む、老古錐は、使いふるして錐の先が丸くなっている、文学でいえば徒然草ですか、一番よく切れるんですがね、まずは馬大師のこってす。
第七則 薬山陞坐
衆に示して云く、眼耳鼻舌各一能有って、眉毛は上に在り。士農工商各一務に帰して、拙者常に閑なり。本分の宗旨如何が施設せん。
挙す、薬山久しく陞坐せず。院主白して云く、大衆久しく示誨を思ふ、請ふ和尚、衆の為に説法し玉へ。山、鐘を打たしむ。、衆方に集まる。山陞坐、良久、便ち下座して方丈に帰る。主後へに随って問ふ。和尚適来、衆の為に説法せんことを許す、云何(いかん)ぞ一言を垂れざる。山云く、経に経師あり、論に論師あり、争でか老僧を怪しみ得ん。
こりゃまあなんともすばらしいです、正月に薬山仏に相見す、珍重この上なし、云うことなしです。われら末派どもの思い上がりを打つこと三千、謹んでこれを受く。
薬山惟儼、石頭希遷の嗣、絳州の人姓は韓氏、十七歳出家し、ついで、大丈夫まさに法を離れて自浄なるべし、あに屑々の事をよくして布巾に細行せんや、行事綿密布きれに文字を書く、そんなことで一生を終わる、なんたる情けないっていうんです、大丈夫まさに自ずから。経に経師あり論に論師あり云々と見て下さい、石頭希遷の室に入って大法を継ぐことまさにしかり。無無明亦無無明尽、実にかくのごとく、眼耳鼻舌各一能あって、眉毛は上にあり、どうですか経師論師の類は、そんなもの不要ですか、だいたいどうしようもない不都合、サリン撒いてぶっ殺したほうが世のためですか、就中仏祖師方、これを継ぐは経師論師の何百生をも卒業するんです、とやこうひっかかりとっかかりを免れる、他の夢にもみない広大無辺です、なおかつこの言あり、しかもいかでか老僧を怪しみ得んと、良久下座。八十有余、法堂倒れると叫んで、大衆出てて、柱を支え壁を押さえるを見て、子、我が意を得せずと云って、示寂すとあります。また太守来たり法を問うに、
「面を見るよりは、名を聞いておった方がよかった。」
と云った、見ると聞くじゃ大違いってわけです、師、
「太守。」
と呼ぶ、太守応諾すれば、
「なんぞ耳を貴とんで、目を賤しむことを。」
と。太守謝して法を問う、
「如何なるか是れ道。」
師手を以て上下を指して云く、
「会すや。」
「不会。」
「雲は天に在り、水は瓶にあり。」
太守欣恢作礼して、偈を以て云く、
「身形を練り得て鶴形に似たり、千株の松下両函の経、我来て法を問えば余説無し、雲は青天に在り、水は瓶に在り。」
頌に云く、癡児意を刻む止啼銭、良駟追風、影鞭を顧みる、雲、長空を払ふて月に巣くふ鶴、寒清骨に入って眠りを成さず。
癡児は痴児に同じですか、わきまえのない幼児、止啼銭、啼は泣くに同じ、子供が泣くのをだまして止めるための木の葉の銭、ねはん経にありと。どうですか仏=止啼銭ですか、お経ほか布巾細行が止啼銭ですか、殺し文句の世界を脱して、無為の真人面門に現ずるもなを止啼銭ですか、そうですよまさに気がつく、自ずから以外にないです。
なにか云って貰いたいって、うっふっふ。
良駟良馬と同じ、良馬の鞭影を見て走る、鈍馬は骨に届くまでぶっ叩かれてようやくという、参禅のこれありよう、各々思い当たるところです。どうにもこうにも自分が自分と相撲を取っている、そんな馬鹿なことできっこない、あれほんにそうだといって良駟追風、坐禅が坐禅になります。すると言も不言も、まさに行くんです、仏向上事、アッハッハようやくさまになる、昨日の自分は今日の自分じゃないんです、これただの人。すなわち雲長空を払うとき月に巣食う鶴ですか、わずかにこれと知れるあり、これ寒清骨に入って眠りを成さず、身心ともになしがなんでとか、雲も鶴もないじゃないかなど、わかったふうなこと云わない、詩人の詞として見りゃいいです、取り付く島もない本来本当という、世間どのような取扱にもよらんです、捨てて捨てて捨てきって行くだけです。
第八則 百丈野狐
衆に示して云く、箇の元字脚を記して心に在けば、地獄に入ること箭の射るが如し。一点の野狐涎、嚥下すれば三十年吐不出。是れ西天の令厳なるにあらず、只だガイ郎の業重きが為なり。曾て忤犯の者有りや。
挙す、百丈上堂常に一老人有って法を聴き、衆に随って散じ去る。一日去らず。丈乃ち問う、立つ者は何人ぞ。老人云く、某甲過去迦葉仏の時に於て、曾て此の山に住す。学人有っりて問ふ、大修行底の人還って因果に落つるや也た無しや。佗に対して道く不落因果と。野狐身に堕すること五百生、今請う和尚一転語を代れ。丈云く不昧因果。老人言下に於て大悟す。
元の字の脚は乙であるという、乙は一に通ずるゆえに一点心、むねに置きという、ややこしいやつ。一点、座右の銘などいって世間の人珍重のところですか、地獄に入ること矢の如しに気がつかない、すなわち傍迷惑、あるいは自分を損こねて、ただもう馬鹿ったいだけです。これ、だからの人ですか、虎の威を仮る狐ですか、はいあなたも例外なく。
一つでなく三つ四つの曖昧のほうが罪なく、だがしかし一つの方が悟りに到る道。
一転の野狐涎嚥下すれば三十年吐不出は、だれあって省みるにいいです、なくて七癖と同じように、人には丸見え、自分にだけ見えないなにかしら、たとい欠陥も三十年五百生やるんですよ。
ガイは豈に犬、がい郎馬鹿もの。痴人すなわち自業自得。さあ思い当たって下さいよ。
いえさ、仏祖の教えをなぞらえて、少しはましにらしくなったといっている、たいしたことないです、そいつを一枚も二枚もぶち破って、しかもなを、どうしようもないという人は、はてどうしてかと省みるんです。そうかおれはと、思い当たる分をもって、一片でも二片でも免れるんです。坐ってりゃなんとかなるなんて思ってりゃ、そりゃ待百年河清ですよ。しかもなをかつ坐に聞くよりないんです。
不落因果不昧因果古来この則は失敗作だの云々、不落も不昧もだからどうだと云うんですが、ここはこの通りに確かめて下さい。大修行底の人因果に落ちずは、そりゃ五百生野狐身に落ちるんです。俗に野狐禅と云われる。我田引水です。どうしても修行悟りを勘定に入れる、一人で坐っている人でこれを免れる人皆無といっていいです、必ずどっかでてめえの取り分する、頭なでなでです。するとやることがおおざっぱになる、世間事ないがしろにするんです、オームのようにサリン撒き散らすんです、しかもそれに気がつかない、よくないです。これをぜに儲けの道、アッハッハ不落因果ですか。そうじゃないんです、金持ちになる道じゃないです、首くくる縄もなし年の暮れの道です。いよいよものごとずばりそのまんまです。因果を昧まさず、因果に昧まされず、あるがあるようにしかない、いいですか大修行底これ、百丈にあらずんばこれを知らずです。生半可じゃ耐えられんのです、たいていどっか自分に甘いんです。
なに身も蓋もない、自分ちらともありゃそれをなでなで、こりゃどうしようもないです、実に不昧因果というほどにはっきりしている、さあこれに参じて下さい。
頌に云く、一尺の水一丈の波、五百生前奈何ともせず、不落不昧商量せり。依然として撞入す葛藤窟。阿呵呵。会すや。若し是れ汝、灑灑落落たらば、妨げず我がたた和和。神歌社舞自ら曲を成す。手をその間に拍して哩羅を唱ふ。
因果歴然ということはこれ寸分も違わないんです、だからといって因果必然を云い因果のありようを我がもの顔にする、そりゃできぬ相談です、因果という、だからという俗流はうさんくさいです、まずもってこれを離れて下さい。因果に任せようとも否と云うとも因果の中。これを一尺の水一丈の波とぶち破ったのです。
五百生前いかんが知る、だからどうだと商量すること、不落不昧なをかつかくの如し、阿呵呵というわけです、葛藤か、かは屈の代わりに巣、阿呵呵はかか大笑ですか、アッハッハどっか浮かれている、あんまり感心せんですかな。どのみち葛藤そのもの、会すやという、会せずという、不落不昧も虫が木をかじっているしゃしゃらくらく、さまたげず我がたたわわと断ってる辺りがかわいいですか。
たは多に口、舌頭定まらず、たたわわという、赤ん坊みたいに云うこと、哩らのらは羅に口、歌にそえる口拍子を云う、神歌社舞という、村人よったくって卑猥からなつかしいのからやったわけです。歌ったり踊ったり、そりゃ楽しいですな、でもってそればっかりってわけには行かない。
でも今の人歌も歌えない、ただもうだらしない、あいまいすけべ面して泣くも笑うもない。情けないです、因果必然からやりなおさんといかん。仏教以前ですが、まず坐ることから始めりゃいいです、世間=自分を離れることから。
第九則 南泉斬猫
衆に示して云く、滄海をテキ翻すれば、大地塵の如くに飛び、白雲を喝散すれば、虚空粉のごとくに砕く、厳に正令を行ずるも猶ほ是れ半提、大用全く彰らはる如何が設説せん。
挙す、南泉一日東西の両堂猫児を争う。南泉見て遂に提起して云く、道ひ得ば即ち斬らじ。衆無対。泉猫児を斬却して両断と為す。泉復た前話を挙して趙州に問ふ。州便ち草鞋を脱して頭上に戴いて出ず。泉云く、子若し在らば恰かも猫児を救い得ん。
テキは足に易てきほん足で蹴ってひっくり返す、まあこのとおりに大地微塵虚空粉砕ですか、ついの今まで自縄自縛のがんじがらめを、ぶった切りぶち抜いて清々の虚空なんですが、虚空といってなをおっかぶさっているものを粉砕する、これ大言壮語みたいですが、実感としてこんなふうです。でもまだ半提、半分だと云うんです。全提正令の時如何。大用はだいゆうと読む、用ようとゆうと読みがあって、ゆうと作動するふうです。大用現前軌則を存せずなど。南泉普願、馬祖道一の嗣、趙州真際大師禅宗門ナンバー一といわれるそのお師匠さん。
東西両堂は、今でも東序西序と別れて、法堂に並びます、そうしたほうが便がよかったというだけのこと。まあこれは禅堂でしょう、猫が迷い込んで来た、猫に仏性ありやまたなしやですか、東西に別れて喧々がくがくやっておった。だれあって悟りたい、仏たるを覚したいんです、その辺のあひ争うです。南泉これを見て、提起猫をとっつかまえてもって、道いえば即ち斬らず、云ってみろっていうんです。
一応機は熟したと思ったんでしょう、だのになんにも云わん、仕方なし猫ぶった斬った。夕方他出から帰って来た趙州にこれを挙す、再来半文銭というやつが、残念であったんです。趙州ぞうりを脱いで頭にのっけて出て行く。ああおまえさへいりゃ猫切らずにすんだものを、というわけです。
どうですか半分を望んで猫を切り、大用現前、なんで頭の上に草履をってわかりますかこれ。わかったら三十棒わからんも三十棒、ああわかった頭上に頭を按ず、世の中どろんまみれの草履を云々、アッハッハこいつもついでに三十棒。猫を斬る。
なんていう野蛮なという、うっふっふ、てめえの腕ぶった斬って差し出したやつもいたんです、云えと云われて云えるか、くだくだ能書きしてないで、大用現前如何が施設せん、さあ思い切って捨身施虎です。物まねじゃないんです。
頌に云く、両堂の雲水尽く紛弩す、王老師能く正邪を験む。利刀斬断して倶に像を亡ず。千古人をして作家を愛せしむ。此の道未だ喪びず。知音嘉みす可し。山を鑿って海に透すことは唯り大禹を尊とす。石を錬って天を補ふことは独り女カを賢とす。趙州老生涯有り、草鞋頭に戴いて些些に較れり。異中来や還って明鑑。只だ箇の真金沙に混ぜず。
なんとまあ長い頌ですな、紛は糸の乱れる、弩は弓ではなく手、手を引っ張りあうこと、この事主義主張に堕すありさま。見りゃわかるってのをさ、群盲象を撫でるんです。王老師は南泉の俗姓が王氏です、正邪を験むとは、どうですか、おまえがいいおまえは悪いじゃないんでしょう、利刀裁断、ともに失うんです、これできなくっちゃそりゃ仏と云はれんです、いたずらに紛糾するっきりです。
幸いにこの道未だ滅びず、はい今もなを確固たるもんですよ、まったく納まるんです。これを愛す千古の知音よみすべしです、一箇半箇妄を開くことは、多数決民主主義じゃないです、もとはじめっからのありよう、帰家穏坐。
中国は大河を収める=王という伝えあって、禹は黄河の氾濫を治めて大功があった、南泉に比する、なにさまた大仰な。じょかカは女に過のつくりです、戦禍によって折れた天柱を補って、天の四極を立てた賢人ですとさ。趙州に当てます。猫斬った不始末をおさめたわけです。
生涯あり、はいこの則はこれに参じて下さい。俗流生涯座右の銘とは関係ないですよ。生涯ありなんのあとかたもなし。異中来や却って明鑑、正中来や却って明鑑、真金沙に混ずという、成句になっていてよく使います。でもこれ沙に混ぜず。
頭の上に草鞋のっけてなど、だれあってできるこっちゃない、救い得て妙。趙州のあとくっついて行ったって、些些にもあたらんですよ、些細というたいしたもんだ、舌を巻くと使う、禅門常套句ですか。
第十則 台山婆子
衆に示して云く、収有り放有り、干木身に随ふ。能殺能活権衡手に在り。塵労魔外尽く指呼に付す。大地山河皆戯具と成る。且らく道へ是れ甚麼の境界ぞ。
挙す、台山路上一婆子有り。凡そ僧有り台山の路什麼の処に向かって去ると問えば、婆云く驀直去。僧わずかに行く。婆云く、好箇の阿師又恁麼にし去れり。僧趙州に挙示す。州云く、待て与めに勘過せん。州亦た前の如く問う。来日に至って上堂云く、我汝が為に婆子を勘破し了れり。
収あり放ありと云えば、二あり四ありインド式弁証法やるよりも、人心のありようはもとそんなふうです、即ち観察したって始まらんです。でもってまったく手放すと、干木身にしたがう、干木とは人形使いが人形をあやつる糸をくっつけた竿です、もと活殺自在、権衡むかしあった分銅計りの目盛り棹です、自ずからに配慮あるんです、アッハッハ塵労魔外指呼の間としつこいね。もう一つくっついて、大地山河皆おもちゃになってしまう、でもここに到ってなみの人間にはできないことがわかるでしょう、台山婆子ただのばあさんに引っかかるのは、並みの人間じゃないんです。
台山は五台山という文殊菩薩出現の霊山だそうです。台山へ行くにはどう行ったらいいと聞く、まっすぐ行け、わずかに行くと、おうおういい坊さんじゃな、まっすぐ行くぜえてなもんです。俗人もぎりぎり修行底も、このばあさんにぶった切られる、さあどう切られる、真っ二つですか、切られたのもわからんですか。
切られる身心なければ、切られようがないっていっているうちはそりゃだめですよ、僧趙州に挙示す、あの婆子はたしてどうだ、眼があるのか、どうだというわけです。すっきりただのばばあかそうでないか、こりゃ大問題です。問題にもならんじゃそりゃなんもならんです、他山の石です。よしわしが勘破して来てやろう、趙州行って、五台山の路を尋ねると、同じく好箇の僧をやられちまう、でもって来日上堂汝が為にかんぱし了れりです。
さあどうですか、ちったあなんか云ってくれると思ったのに、ですか。アッハッハこれ物の見事に正解なんですよ。
頌に云く、年老いて精と成る、謬って伝へず。趙州古仏南泉に嗣ぐ。枯亀命を喪ふことは図象に因る。良駟追風も纏索に累はさる。勘破了老婆禅、人前に説向すれば銭に直たらず。
年老いて精となるはなんか俗流ですが、趙州の形容となるとどっかぴったり、実に謬たずは大趙州の為にありと。精とは人間の形骸まったく落ちてしかも仏ありですか、行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ、云うは易く行なうは難しです。
大道通長安、馬を渡し驢を渡す、あやまって伝えず、うっふう他に言い種なし。十八歳出家してしばらく悟があった、しかも南泉に聞く、どうにもこうにも行かないんです、どうしたらよいか、泉答えて云く、知にもあらず無知にもあらず、太虚の洞然としてこのとおりかくの如しと示す。由来六十歳再行脚、我より勝れる者には、たとい三歳の童子と雖もこれに師事し、我より劣れる者には、たとい百歳の老翁と雖もこれに示すといって、百二十歳まで生きた。
枯亀は吉凶を占う図象が現れていたので殺されたという、荘子外物篇の故事、そうなんですよ、ちらともある分でしてやられる、相見という面白いんです、なんにもなけりゃ相手になっちまう、そうでなけりゃ自分倒れなんです。ばあさにもしてやられる。良駟追風もそりゃ、馬走れてなもんで鞭の影がある、この従容録の解説も、とかく悟り仏の上には上なんてやってるから、変なこと云っている、平等差別などいう貧相ほかです。
そうではないんですよ、勘破了老婆は、無印象なんです、しかもあれはああいうやつとそっくりしている、映画を見る、画面が自分になっちゃう、なんにもないんですけれど、人の批評とやこうを喝するんです、そりゃおまえだよというが如くに。銭になるほどは信用できんです、ただですよ、早く出世間して下さい、でないと話も出来んです。
第十一則 雲門両病
衆に示して云く、無身の人疾病を患ひ、無手の人薬を合す。無口の人服食し、無受の人安楽なり、且らく道へ膏盲の疾、如何が調理せん。
挙す、雲門大師云く、光透脱せざれば、両般の病有り。一切処明ならず、面前物有る是れ一つ。一切の法空を透得するも、隠隠地に箇の物有るに似て相似たり。亦是れ光透脱せざるなり。又た法身にも亦両般の病有り。法身に到ることを得るも、法執忘ぜず己見猶を存するが為に、法身辺に堕在す是れ一つ。直饒ひ透得するも放過せば即ち不可なり。子細に点検し将ち来たれば、甚麼の気息か有らんと云ふ、是れ亦病なり。
雲門大師雲門文偃、青原下六世雪峰義存の嗣、大趙州と並び禅門の双璧、などいうと舌引っこ抜かれそうです。雲門一語するに常に三あり、痛烈もって比類なき、雲門禅などいう別誂えする人あるがほどに、もって天下太平を図る、たといお釈迦さんも倒退三千。それがこの則はまことにもって懇切丁寧、そうか雲門も足を圧折していっぺんに悟ったというとは別、苦労しているなどいうのは我田引水か。
こりゃしかしこういうことあるんです、まずもって無眼耳鼻舌身意を知る、もとかくの如くあるを知る。門扉に足をつぶして忍苦の声を発し、痛みいずれの処にかあると、自分というものがまったく失せてしまう、いっぺんに悟ることは、そりゃお釈迦さんの示す、仏法仏教一目瞭然なんです。
さっぱりちんぷんかんぷんだったものが、ただあるがようです。不思議、思議にあずからず。でもって納まり切るはずが、そうはいかなかったりする。
彼岸に渡ったものが此岸に舞い戻る、そんなことあるはずもないのに、たとい云々するんです、天下取ったとか仏教かくの如しとやる。これ彼岸かこっちの岸か、あほんだれ死ぬまでやっとれってやつです。
雲門大師懇切に示す、面前物あるとは、俗人みなそうです、有ると無いとが表裏を別つんです、物心つく子が掌を見る、指と指の間のどっちがどっちだ、動くのは自分だからというふうです、死ぬ時に手鏡といって同じことをやる。
有ると無いという作り物を習うんです。でもって物あるにしたがい迷う、自分という架空によって七転八倒、無明すなわち光透脱しないんです。これ一つ。もう一つせっかく透脱しながら、はたしてどうかと省みずにはいられない、自分という無心を標準にせず、仏教仏法なるものを標準にする、うまく行くはずがない。
なぜか、しゃばっけが捨てられないんです、大苦労して得た仏教を売らんかなですか、そんなんと引き換えに本来心を得て下さい、これ大力量、たとい雲門の法もいらんてえばそりゃいらんのですよ。
頌に云く、森羅万象崢榮に許す、透脱無方なるも眼晴を礙ふ。彼の門庭を掃って誰か力有る。人の胸次に隠れて自ずから情を成す。船は野渡の秋を涵して碧なるに横たへ、棹は蘆花の雪を照らして明なるに入る。串錦の老漁市に就かんことを懐ひ、飄飄として一葉浪頭に行く。
崢えい山に栄は山の高く聳える、峨峨たるさま。許すはまかす、ものみなあるがまんまというと、妄想色眼がねのまんまと思い違えて、平家なり太平記には月も見ずという、次第情堕を省みぬ、それじゃしょうがない。月は月花はむかしの花なれど見るもののものになりにけるかな。透脱無方を知ってされども法は忘れざりけれと、眼晴を礙ふるんです。
生死まったく変わらぬ、死んだあともこのとおり永遠にこうあるという、兀地に礙へらるとはこれ。彼の門庭をはらってですか、いいかげんにしとけってじゃなくアッハッハ、彼が自分のよこしまであったりして、ではとっぱらったら彼岸ですか。
いえそんなこんなないんです、たしかに身心失せてものみなの様子、なをかつ釈然としないということがあります、これをどうかしようとする、すったもんだの失せる時節、どこまで行ったって、いいですかそいつを投げ与える、捨てるしかないんです。
よく死んだあとどうなると聞いてみる、とやこう答える、なにさ、おまえ死んだら三日で忘れられるよ、なをかつものみなこのとおり、はいそれを悟りという、と云えばきょとんとしている。自分という情実=世間または仏教だったりします、それを去るんです、生死同じを愛といったら、仏の顰蹙を買いますか、なに微妙幽玄と云ったって、くそくらえです。
あるいはどんな情実も一瞬続かないんです、アッハッハかくして万松老人水墨画ですか、けっこうよく出来なんですが、これ風景に描いては駄目ですよ、取り付く島もないんです。
第十二則 地蔵種田
衆に示して云く、才子は筆耕し弁士は舌耕す。我が衲僧家、露地の白牛を看るに慵うし、無根の瑞草を顧みず、如何が日を度らん。
挙す、地蔵脩山主に問ふ、甚れの処より来る。脩云く、南方より来る。蔵云く、南方近日仏法如何。脩云く、商量浩浩地。蔵云く、争でか如かん我が這裏田を種へ飯を摶めて喫せんには。脩云く、三界を争奈んせん。蔵云く、汝甚麼を喚んでか三界と作す。
地蔵はお地蔵さんではなく、地蔵桂シン深のサンズイではなく王、玄沙師備の嗣、門下に法眼ほか。才子は筆耕し弁士は舌耕すと、世間一般は血の汗流せ涙を拭くなといった按配に奮闘努力によって、やっと人並みななり人を抜きんでていっぱしというわけです。だがこれは違う、わずかに悩を除き自分一個を救えばいいんです、ほかのこたいらんです。 露地の白牛無根瑞草は、洞山大師玄中銘という、アッハッハなんだかんだいう人で、というと叱られますがたとえばまあこういった風で、「霊苗瑞草、野父芸ることを愁ふ、露地の白牛、牧人放つに懶うし。」懶うし慵うし同じです、根無草、妄想というこれいいわるいもない、どだい妄想かくという自分がかいているようですが、自分のものなぞないんです、すなわち自分の自由にできない、そいつを我が物に、自由にしようとするから妄想なんです。
霊とは心の問題あるいは自然の微妙です、もとかくの如くあるによって瑞草ですか、念起念滅、ぽっと出ぽっと消えるんです、そのまんまにしておきゃそれっきりなのに、そいつに栄養を与える、野父芸ることを愁う、アッハッハ自分でやっといて自分で愁うる世の常ですか、思想妄想にしてやられる手前倒れを=人間と云うんですか。
これ妄想を出す人もこれを芸術する人も同じ一人です、それゆえぴったり一つになると、まるっきりないんです、霊苗瑞草念起念滅のまんままったくない、これを無心心が無いというんです、妄想、想念がないんじゃないんんです、ないんじゃそりゃ脳死ですよ、さかんに活躍したろうがまったくない、はいこれをまず得て下さい、真正面ということです。ちょっと苦労しますか、でもこれ知らんきゃそりゃ問題にならんです。
露地の白牛貴重品ですか、ほかはみんな厩の中のべた牛ってなもんで、仏の示す処比類を絶するんですが、そのものになりきったらそのものないんです、貴重品へえ何がさって聞く感じです。
新年宴会に上野のお山へ行ったら、ホームレスの大会などやっていたけど、なんかあっちこっち坊主どもに出会った、ぱかっと目が合うと、目なんか合わせやせんのにさ、向こうががっさり萎縮する、今時坊主ども仏教のぶの字もないんだけど、そりゃだれあって、なんか来し方みじめうさんくさみたいな顔してそっぽ向く、みじめどうしようもなしアッハッハ、問題にならんはこっちだが、わしはぽかっとそれっきりだのに、相手が萎縮するのは、てめえ一人相撲なんです。
あほっくさいてえかまあそういったこったな。蛇足ながら意識の外なんですよ、鼻持ちならぬ自意識じゃないんです、アッハッハうだうだいっちゃった。まあそういったことで懶うしは、ものうしと云ってたんじゃあ痛棒食らわせにゃいかんのです。
この則は脩山主、撫州龍済山主紹脩禅師とあります、地蔵の法を嗣ぐんですが、このとき南方から来た、南方の仏教如何と問はれて、いやもう大いに盛んでありますと答えた、そうかいやこっちは、田を植えて実ったら摶(あつ)めて飯にして食っとるがという、いえそんなんじゃどうして三界を脱すると聞く、三界の枠を着せなきゃ三界なしですが、脩山主これを一心に求め来た様子です、兄弟子法眼に、万象の中独露身と是れ万象を撥うか万象を撥はざるかと問われて、万象を撥はずと答えている、見事にひっかかるんです、どうしても問題にせずにはいられない、なんの撥不撥とか説かんと云われて、地蔵のもとにかえり、大悟するんです。わかりますか、ただ坐ってりゃいいたってそうは行かんです、まずは脩山主に見習うがいいです、何かあるから求めるんです、求めなきゃどうもならん、ついに求め来たって皮っつら一枚になる、三界はと聞く、三界なしを知る、三界なんてものないんだからどうのじゃないんです、うすっ皮一枚はがれるのに、人の百生分も費やす覚悟ですよ、でなきゃ法なんて嗣げやせんです、なにたったいっぺん捨身施虎ですか、三界万象わがものになって消える、そりゃもうこれ初めて本来。
頌に云く、宗説般般尽く強いて為す。耳口に流伝すれば便ち支離す。田を種へ飯を摶む家常の事。是れ飽参の人にあらずんば知らず。参じ飽いて明らかに知る所求無きことを。子房終に封侯を貴とばず。機を忘じ帰り去って魚鳥に同じうす。足を濯ふ滄浪煙水の秋。
どうしても仏を求め仏教に習う、就中激しいものがあります、これなくば結局ものにならんでしょう、でもいったい何を求めているのか、自分というこの身心のほかにないんです、耳口より入るもの、耳口より出ずるもの、どうですかこれ、まさにもっともそんな必要のないことを知る、これ仏教ことじめ。西欧文物あるいは哲学に志した人が、一転してこの事を求めるのに、いくら坐ってもどこまで行こうが、対人関係ですかコンセンサスという便ち支離するよりない、なんというかおのれご本尊で坐っている、あるいはその醜悪に気がつかないんです。田を植え飯を喫すること日常事に、なんの求める事もないんです、これを知るに従い、参禅という跡形もないんです、いったい何を求めて来たというに、求め来たったそこにあるんです、因果無人です、だれに自分を証明して見せることも、いったんは要らないんです、記述なしを知ること、科学ほか一神教派生哲学宗教の、まったく知らない自然なんです、のこっと入って消えちまうんです。これ即ち参じ飽きてはじめて知るところ、子房という人大功あって漢の高帝これに報いんとしたが断ったという故事、わかりますか、せっかく大法を得て、森羅万象と同じ、魚や鳥や花や雲の大宇宙、いえようやく地球のお仲間入りなんです、人にひけらかすごときけちなもんじゃないんです、滄浪の水清めば吾纓を濯ふべく、滄浪の水濁れば吾が足を洗ふべし、漁父の賦というにあるそうです、雪降れば雪晴るれば空と、どうですかほかの暮らしようがないんですよ、涙流れ放題鼻水万般てね。
第十三則 臨済瞎驢
衆に示して云く、一向に人の為に示して己れ有ることを知らず。直に須らく法を尽くして民無きことを管せざれ。須らく是れ木枕を拗折する悪手脚なるべし。行に臨むの際合に作麼生。
挙す、臨済将に滅を示さんとして三聖に囑す。吾が遷化の後、吾が正法眼蔵を滅却することを得ざれ。聖云く、争でか敢えて和尚の正法眼蔵を滅却せん。済云く、忽ち人有って汝に問はば作麼生か対へん。聖便ち喝す。済云く、誰か知らん、吾が正法眼蔵這の瞎驢辺に向かって滅却することを。
臨済院の義玄禅師は黄檗の嗣、門下に三聖慧然ほか十余の神足を出し、臨済宗の祖。行に臨むの際、臨終の時です、死ぬまぎわまで為人のところこれ仏祖世の常、一向に人の為に尽くして己れ有ることを知らずです、自分の中に首を突っ込んで窒息死、自殺志願というよりただもう情けないんですが、そんな現代人に、本来こういう生き方のあるのを知らせたいです、自殺するんならアフガンに地雷撤去に行くとか、自爆テロでキムジョンイルをやっつけるとかさ、一生にたったいっぺん他の為にする、でなかったら生きた覚えもないことは、自殺したいというそいつが証です。
為人のところ広大無辺、自分という袋小路、アッハッハ単純明解な理由ですよ。法を尽くすとは大死一番です、大活現成は民というコンセンサスから飛び出しちまうんです、我と有情と同事成道です、だからといって人間なんです、為人の所と帰り来るんです、臨済の大悟と滞るなしですよ。三聖に囑す、おれの死んだあとおれの正法眼蔵をぱあにしないでくれとは、世間流という悟りの悪い我妄に聞こえ、なんでえ臨済ともあろうもんがというわけです、ところがまったく違うんです。三聖に一掌を与える、のうのうとお寝んねしてるんなら、枕けっぽる悪手却、自分の死ぬなんてことこれっぽっちも考えてないんです。
どうしてぱあにしましょうや、ふーんなら忽ち人問えば汝なんて答える。喝する。
ちえせっかくわしの正法眼蔵は、この瞎驢めくらのろばです、唐変木がぱあにしちまいやがる、わっはっは臨済安心して死ねるんです。
そうですよこれ人間本来、一器の水が一器に余すところなくなど、そんなけちなこと云ってないんです、左右を見回してごらんなさい、臨済まさにかくの如しです。
頌に云く、信衣半夜蘆能に付す、攪攪たり黄梅七百の僧。臨済一枝の正法眼、瞎驢滅却して人の憎しみを得たり。心心相印し祖祖灯を伝ふ。海嶽を夷平し、鯤鵬を変化す。只だ箇の名言比擬し難し、大都そ手段飜倒を解す。
蘆能は蘆行者六祖大鑑慧能禅師、黄梅山大満弘忍祖の法を嗣ぎ、お釈迦さまから伝わったという衣を持して夜半密かに忍び出る、これを知って七百の僧右往左往、臨済正法眼蔵、阿呆のろばにつないで他の憎しみを買うと、まあまさに鳴り物入りですか。仏とはもとだれしもちゃーんと備わりながら、夢にも見ぬ思いも及ばぬものです。夢に見る思い及ぶものを、一枚でも二枚でもひっぺがして行かにゃならん。手段悪辣臨済棒喝も為にあるんです、こっちとしちゃあ噛んで含める如くするのに、なんでたんびにそっぽ向くんだ、匙を投げたってのが毎回の感想です。夷えびすはまたたいらぐと読む、大海から山嶽までも平らげ、こんは昆に魚、北冥に大魚あり変じて鵬となるとさ、鵬は鳳と同じくおおとり、変化へんげす、ああでもないこうでもないをまったくに収める、アッハッハ轟沈させるんですな、だからって海嶽も鯤鵬もちゃー
んとあるところが面白い。箇の名言というたった一回きりの手段です、花の綻びるのを見て悟った、だからってことない、門扉に足を挟まれて知った、だからおれもってことないんです。そりゃ通常のこっちゃ駄目だといって、通常もて徹底する、そりゃ臨済ならずともです、人の思惑判断じゃないんです。
第十四則 廊侍過茶
衆に示して云く、探竿手に在り、影草身に随ふ。有る時は鉄に綿団を裏み、有る時は綿に特石を包む。剛を以て柔を決することは、即ち故さらに是、強に逢ふては即ち弱なる事如何。
挙す、廊侍者徳山に問ふ、従上の諸聖什麼の処に向かって去るや。山云く、作麼作麼。廊云く、飛龍馬を勅点すれば跛鼈出頭し来る。山便ち休し去る。来日山浴より出ず、廊茶を過して山に与ふ。山、廊が背を撫すること一下。廊云く、這の老漢方に始めて瞥地。山又休し去る。
深竿影草盗人の用いる道具、転じて師家の手段です、どうだと云うんでしょう、持ってるやつは自ずから現れ、草の影にも飛びつく、だからこうせにゃってこっちゃない、心身もてです。ないものはあるものを滅却ですか、あるときは鉄に綿を包み、あるときは綿に石を包みする、ノウハウがあるわけじゃないです。最良手段じゃない、それっきゃないんです。
徳山宣鑑禅師は、青原下四世龍潭祟信の嗣、金剛経を背負ってやって来て、ばあさんに三心不可得いずれの心もて団子食うかと問われて、龍潭和尚を訪ねる、灯を吹き消されて忽然大悟。そりゃもうしっかりしてるんです。廊侍者、従上の諸聖、お釈迦さまはじめ仏祖方です、いずれの処に向かってか去る、悟り切った人はどうなると云うんです。困ったねえ、答えがわかってる人をアッハッハそもそも、云ってみろよってわけです、云うはしから倒壊すりゃいいんですがね、廊侍者云うも云いえたり、勅点は天子が勅命をもって点呼とある、飛龍馬西遊記の馬みたいなんですか、を呼び出したら、びっこの亀が出て来たという、けっこういいとこ行ってんですがね。
これを落とすには便ち休し去るんですか、誉めてもけなしても、うなずいても増長慢という、無記ですか。見よというんですか。すでにして答えが出ているんですか。
他日風呂から上がった徳山に廊侍者お茶をさし出す、その背中を撫でた、這の老漢まさにはじめて瞥地を得る、なんとまあまた休し去らんきゃならん、さて三回目はどうしますか、忘れたっても相手来りゃ思い出す。
頌に云はく、覿面に来たる時作者知る、可の中石花電光遅し。機を輸く謀主に深意有り。敵を欺く兵家に遠思無し。発すれば必ず中る。更に誰をか謾ぜん。脳後に腮を見て、人触犯し難し。眉底に眼を著けて渠れ便宜を得たり。
覿面に来るとは真っ正面です、ただということ、人の喧嘩はおれがいいおまえがわるいだからとやる、鳥獣の喧嘩はそんなことせんです、縄張り争いはあっても喧嘩はないですか。虎の威を仮る狐じゃなくって、作者になって下さい、自ずからです、何万回しようが一回きりです。生きているってだけです、機というただこうあるっきりですよ、禅機なぞいうものないです。
作り物は壊れもの、水は方円の器、機を以てすれば一歩遅いんです、そうではない他なしです。輸は負ける、廊侍者機峰鋭くですか、飛龍馬を勅点すれば跛瞥出頭とやる、ぶんなぐったら化けて出る、根本を切らねばだめです、おだてあげてさっと手を引くってのもあり、でもまあもう一枚切れ味のいい徳山輸機ですか。
深意有りも遠思無しも、徒労に終わるんです、発すれば必ず中る底は、たとい坐禅只管打坐ですよ。どんなふうなめちゃくちゃだろうが、必ずそれ、当たり前だその他ないんです。とたんにふっ消えて百発百中は、なんにもないんですよ。
脳後に腮は、えらのあるやつは悪者、油断がならんという、師家についてどうもそんなこと感じちゃだめです、眉底に眼なんか著けないんですよ、そんな持って回るこたいらんです、いつたい百発百中の他ないんです、いいですか最後に残った仏法です、勅点するそいつを失う、すなわち命失うんです、この世の存在を払拭です。飛龍馬も跛瞥もないんです、はじめて瞥地を得るという、無意味なんですよ。いやさ、だからといって無気力投げやりとは別個です。
第十五則 仰山挿鍬
衆に示して云く、未だ語らざるに先ず知る、之を黙論と謂ふ。明かさざれども自ずから顕はる、之を暗機と謂ふ。三門前に合唱すれば両廊下に行道す。箇の意度あり、中庭上に舞ひを作せば、後門下に頭を揺かす、又作麼生。
挙す、い(さんずいに為)山仰山に問ふ、甚麼の処よりか来たる。仰云く、田中より来たる。山云く、田中多少の人ぞ。仰山鍬子を挿下して叉手して立つ。山云く、南山に大いに人有って茆を刈る。仰鍬子を拈じて便ち行く。
黙論暗機ですか、風物ものみなぜんたいならざるはなし、山川草木鳥もけものもそうでしょう、人間だけがなぜか中途半端ということがあります。思想といい論文と云い宗教といい哲学というんでしょう、いずれ届かない、どうにも不満足です。信ずるものは救われるという、空の雲も花もそんなこと云わんです。信不信に依らずと云えば少しは当る、心して狭き門より入れという、では狭いきりだ、ついには100%信じろという、信じ切るとは忘れることだ。ここに至って黙論暗機です。
黙論暗機を卒業すると、平和な地球のお仲間入りです。三門山門に同じ、空夢相無作の三解脱という、なんにもないんです、自分に首を突っ込まない。つうといえばかあというのは、言語上ですか、お経も行道もそりゃ日常茶飯です、舞いを舞えば頭をゆりうごかす、アッハッハがきだね、腮を取っちまって下さいよ。仏教のありよう個々別々。
個人という根本です、囲わないんです、まさに手続き不要なんです。本則はこのまんまに見ておけばいい。い山霊祐禅師は百丈懐海の嗣、仰山慧寂禅師はその嗣、併せてい仰宗の祖、い山仰山と茶を摘むついで、山云く、終日茶を摘む、ただ子の声を聞いて子の形を見ず。仰、茶樹を撼がす。山云く、子ただ用を得てその体を得ず、仰云く、いぶかし和尚如何。山良久す。仰云く、和尚はその体を得てその用を得ず。山云く、子に三十棒を放つ。仰云く、和尚の三十棒はそれがし喫す、それがしの棒は誰をして喫せしめん、日く子に三十棒を放つ。これい山摘茶の公案というんだそうです。
公案とは実際にあったことです、はーいまったく一回切りです。独創などいうインディビデュアルを超えています。
頌に云く、老覚情多くして子孫を念ふ、而今慚愧して家門を起こす、是れ須らく南山の語を記取べし。骨に鏤ばめ肌へに銘じて共に恩を報ぜよ。
南山は天子の尊位、茆はかや、茆を刈るは百姓の卑位、田中より来たる乃至鍬を挿して叉手すより、天地宇宙まさに他なしの、師弟のみあって平らかなさまを頌すんです、そいつをまあ、お涙頂戴、こっぱずかしいやとは云いえて妙、頭ぶん殴ってやろうずの思い。骨にちりばめ肌へに銘ずというこれ、百歩遅い言い種もなんかびったりっていう、そっぽ向きたくなるところがよろしい。
第十六則 麻谷振錫
衆に示して云く、鹿を指して馬と為し土を握って金と為す。舌上に風雷を起こし、眉間に血刃を蔵す。坐ながらに成敗を観、立ちどころに死生を験む。且く道へ是れ何の三味ぞ。
挙す、麻谷錫を持して章敬に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振るうこと一下、卓然として立つ。敬云く、是是。谷又南泉に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振るうこと一下、卓然として立つ。泉云く、不是不是。谷云く、敬は是と道ふ、和尚什麼としてか不是と道ふ。泉云く、章敬は即ち是是、汝は不是。此れは是れ風力の所転、終に敗壊を成す。
鹿を指して馬となし、なんか馬鹿なこと(故事はすなわち馬鹿の始まり。)を云ってんですが、これ平常もののありようと、人みなの持って回る落差ですか、情識界に溺れるのへ手を差し伸ばす。どうしたってそういうこってす。土と思い込む金だという、金と思い込む土だという、ちっとは眼晴ですか。二人の弟子がいて一は坐るに坐ってさっぱりです、一は適当にさぼってらちあかん、二人ともお払い箱にしたい、舌上風雷眉間血刃、アッハッハ匙を投げてなんにも云わんですか。親切この上なしは、是是よしよしといっちゃ春風駘蕩ですか、さあこれなんの三味ぞ、師はこれ三味わしらはしからずと、一向にそんなこたない、たといお経読んだろうが、同じいに三味ですよ。
麻谷まよく麻谷山宝徹禅師、馬祖道一の嗣、章敬懐輝、百丈ともに馬祖の弟子、ちょっとばかり麻谷の悟るのが遅かったんですか、章敬のもとに行き、禅床をめぐること三匝、匝は三回でいいです、ぐるっと回るんです、そうして錫しゃくは杖の頭に鈴が付いて、托鉢行脚の持ち物、鈴をふるって突っ立った。章敬是是、よしよしと云ったんです。ぶん殴られるの覚悟で命がけでやったんですか、清水の舞台から飛び降りた。捨身施虎は一回切り、食われちまえば跡形も残らない、いえ骨は残ったってそりゃ残骸です、命消える。ところが消えなかった、しめしめってなもんで百丈のもとへ行き、禅床を遶ること三匝、錫を振るい卓然として立つんです、百丈不是。
章敬は是といったのになんで不是だと聞く、百丈云く、章敬は是汝は不是と。こりゃこれでおしまいなんです、これはこれ風力の所転アッハッハところてん押し出すのは蛇足ですよ。なんの為の仏道修行ですか、禅坊主のありよう、見せるためじゃないんでしょう、わずかに一箇の本来性、満足大安心の故にです、自由の分なければ、馬鹿の薬です。がらくたこさえるだけです。
成句があるんですな、維摩経方便品に、是の身は作無し、風力の所転なり。楞厳経瑠璃光章に、この世界及び衆生の身を観ずるに皆是れ妄縁風力の所転なり。
だからといって、この世ははかないというのは俗説です、すなわち200%生死同じなんですよ。
頌に云く、是と不是と、好し椦きを看るに。抑するに似たり揚するに似たり。兄たり難く弟たり難し。従也彼れ既に時に臨む、奪也我れ何ぞ特地ならん。金錫一たび振るうて太はだ孤標。縄牀三たび遶って閑ざりに遊戯す。叢林擾擾として是非生ず。想ひ像る髑髏前に鬼を見ることを。
是と不是とよし椦き、きは衣へんに貴、糸のことけんきで罠、罠を設けたというわけではないんですが、ひっかかる間は使い物にならんです。抑揚上げたり下げたり、是と云われれば嬉しく、不是と云われればどうしてだと聞く。是非善悪に関わらずという、自分=知らないという、達磨さんの本来に落着しないかぎり、おれはいいおまえは悪いやるんです、悟っているか悟ってないかやるんです。わかりますかこれ。
難兄難弟、東漢の陳元方が子長文と、季方が子孝光と、各その父の功徳を論ずるに決せず、太丘にはかる、太丘云く、元方兄たること難く、季方は弟たること難しと。
これまあ参禅にこういうことしている間は、そりゃどうにもならんです、よくよく顧みて下さい、奪おうが従う、ほしいままにしようが、そうやっているそのものなんです、死ぬとはそうやっているものが死ぬんです、でなかったらそりゃ楽ちんです。いえほんとうの安楽に入って下さい、とやこうの自分を脱する、身心ともに解脱する=是非善悪に管しないんです、そうして錫を一下卓然として立って下さい、天地そのものになって遊戯三味です。
擾は騒がしい、そりゃどこの叢林、僧堂も是非善悪騒がしいですか、良寛さんの叢林は子供たちだったです、これはこれまたどえらい対大古法だったです。いやわしなんぞにはとうていできない、たとい髑髏前に鬼を見る底去って春風駘蕩も、世にいう良寛さんの絵に描いた餅はないです。
第十七則 法眼毫釐
衆に示して云く、一双の孤鴈地を搏ちて高く飛び、一対の鴛鴦池辺に独立す。箭鋒相柱ふことは即ち且らく致く、鋸解秤錘の時如何。
挙す、法眼脩山主に問う、毫釐も差有れば天地懸かに隔たる、汝作麼生か会す。脩云く、毫釐も差有れば天地懸かに隔たる。眼云く恁麼ならば又争でか得ん。脩云く、某甲只だ此の如し和尚又如何。眼云く毫釐も差有れば天地懸かに隔たる。脩便ち礼拝す。
一双なら孤鴈じゃないではないかという、なに孤鴈が一双です、これを知れるは出世間の出来事です、なみの考えじゃ届かんです、コンセンサス情識を免れる、たった一人になること色即是空です、地をうって高く飛ぶ孤鴈が、本則じゃなんせ二羽いるから一双。おしどりは鴛が雄で鴦が雌繁殖期しかいっしょにならんそうですが、仲睦まじい、池辺に独立です。師弟これ五百羅漢これ、たとい一千も他にありようはないんです。
箭鋒あいささうは、弓の名人同士が争って、百歩離れて弓を射たら、矢尻と矢尻がうっつかって尽く落ちたという、列子陽問篇の故事、宝鏡三味にあります、そんなめんどうこといらん、いつだってぴったり、木人まさに歌い石女立って舞う、虚空の中の虚空です、過りっこない。
鋸の山と谷みたい議論は、仏と外道の問答なんぞに出て来ます、こう云えばああ云う、たとい鸚鵡返しでも、そりゃ仏はまったく違うんですが、本則はさにあらず。毫釐も差あれば天地懸かに隔たる、坐っていて実にこれなんです、坐って坐って坐り抜いて、仏教辺のことはなにもってつうかあです、しかも本来のものではない。ほんとうの自由が得られない、あるいは得られていないことに気がつかない。どうしようもない、人間正直なもので釈然としないあとかたがあります。坐は楽うになるんですが、楽な上にも大安楽、かすっともかすらない上にもかすらないんです。
思想人生観上毫釐も差あれば天地懸絶します、思想人生観なぞいうと笑われますが、結局は他にないんです、戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、はいわしの人生観です、なるほどなあと思ったら忘れる。これ毫釐も差あれば天地懸絶と、なるほどなあということあったんでしょう、しかもおまえは非という、じゃあどうなんだと聞く。毫釐も差あれば天地懸絶といわれて、礼拝して去るんです、まずもって云うことないですな。
頌に云く、秤頭蝿坐すれば便ち欹傾す。万世の権衡不平を照らす。斤両錙銖端的を見るも、終いに帰して我が定盤星に輸く。
天秤は蝿が一匹止まっても傾く道理で、ここには中国というか、むかしの棹秤の熟語が並んでます、秤は準衡権よりなる、準はつな衡はさお権はおもり。おもり重量の単位を、八銖で錙、三錙を両、十六両を斤ですとさ。定盤星は遊びというか無駄めもり、人間=はかりということあるでしょう、省みて下さい、たいていの人銭勘定ですか、これを何に標準をおくかというのが坐禅という、違いますか。
他に標準をおく間はさまにならんです。万世の権衡不平を照らす、四苦八苦ということを知るには、まさに標準のうしてです、標準失せると自分自身が標準とは、斤両錙銖端的、ぴったり実にそのものです。もと蝿一匹とまってもというこれがありよう、さびっかす、妄想執念を免れてこうなるってわけです、でもって仏法という定盤星に負ける、無駄めもりにお手上げ万歳ってわかりますか、アッハッハなーんかぴったりです。
第十八則 趙州狗子
衆に示して云く、水上の葫蘆按著すれば便ち転ず。日中の宝石、色に定まれる形無し。無心を以ても得るべからず、有心を以ても知るべからず。没量の大人語脉裏に転却せらる、還って免れ得る底有りや。
挙す、僧趙州に問ふ、狗子に還って仏性有りや也た無しや。州云く、有。僧云く、既に有れば、甚麼としてか却って這箇の皮袋に撞入するや。州云く、佗の知って故さらに犯すが為なり。又僧有り問ふ、狗子に還って仏性有りや也た無しや。州云く、無。
僧云く、一切衆生皆仏性有り、狗子什麼としてか却って無なる。州云く、伊に業識の有る在るが為なり。
葫蘆ひょうたんのこと、巌頭の示衆に、「若し是れ得る底の人は只だ閑閑地を守って、水上に葫蘆を按ずるが如くにあい似たり。触著すれば即ち転じ、按著すれば即ち動く。」 と、まあこりゃこういうこってすが、人にうちまじって、あいつは奇妙なやつだなあと云われる所以です、アッハッハ混ずるときんば所を知ると、しょうがないこってすか。日中の宝石形定まらずです。あるとき無と云いあるとき有と云う。これなんぞ。
矛盾しているのはそりゃあなたの方です、人間ものみな没量なんでしょう、自然数を立てる数学ができる、そんなものもってるのは人間だけ、だから人間は万物の霊長ですか、うさんくさい面倒ことってね。
数学あろうが物理学だろうが、出入り自由、もとっこ免れてあることを知る、それがなかなかです、大統一理論だのこのごろ流行らんですが、ついに不毛を知るのになんというもって回った、アッハッハ科学もようやく十二歳ですか。観念不毛ですったらさ。はいひょうたんに学んで下さい。
趙州狗子は右禅問答代表ですか、泣く子も黙るってには、みんなそっぽを向きっぱなし良寛さんという誤解の集積回路や、達磨さんという七転び八起き、どうもこりゃ本式に門を叩こうという人にとっては、じゃまになるっきりの、アッハッハ宗門威張儀即仏法よりいいか。
「むー」とやってごらんなさい「うー」とやってごらんなさい、どう違いますか、通身消えてうーむーですよ、うぐいすでさえホーホケキョ、かわずでさえかーんと鳴くのに、自分に首をつっこみ、やれ世の中どうだ、キリストさまだなぞだーれもやってない。
花は花月は月花は花とも云わず月は月とも云わず、大安心大歓喜天地宇宙かくの如くありって、一生にいっぺんでいい、生まれ本来に立ち返って下さい、一切衆生悉く仏性あり、煩悩覆うが故に知らず、見ずと、ねはん経にある如く、水の中にあって渇と求めるが故に、趙州あるときは無、あるときは有と接するんです。
有と応じて、なんで仏を皮袋に入れているんだと聞く、はいおまえさんの皮袋脱いで下さい、ほうら仏。知るという省みるという、世間=皮袋の故にですか、狗子のことなんぞ云ってないですよ、知=犯すおまえという覿面に来るんです。有と応ずる、なにゆえにという、そうさ業識にとらわれているおまえさんだというんです、これが蛇足たいして足しにゃならんけどさ。
ちなみにわしとこ一応卒業は、かあでもホーホケキョでも云い出でたら是、アッハッハさあやって下さい。
頌に云く、狗子仏性有狗子仏性無。直鈎元命に負むく魚を求む。気を遂ひ香を尋ぬ雲水の客。そうそう雑雑として分疎を作す。平らかに展演し大いに舗舒す。怪しむこと莫れ儂が家初めを慎しまざることを。瑕疵を指点して還って璧を奪ふ。秦王は識らず藺相如。
狗子は申し遅れました犬です、犬に仏性質有りやまた無しや、そうそう(口に曹)ぞうぞう騒がしいんですよ、落着のところなし、気を遂い香を尋ねる雲水です、答えを得てはたしてどうなるんですか。疑問の延長上に予測したなにがしかという、世間一般回答じゃそりゃなんにもならんです。よって云く無、無字の公案です。直鈎まっすぐの針で命令にそむく魚を釣るんです。これ周の文王猟に出て姜子牙という人に会う、水を去ること三尺、直鈎にして魚を釣る、あやしみて問えば、ただ命に背くの魚を求むと。直鈎でなけりゃ釣られん人ってわけです。アッハッハ釣れんのですよ。
平らかに展演は大手を広げたって狭いとほどに、仏にあらざるはなし無です。まっぱじめっから無と行く、有と来るんです、能書きなしもっとも親切、取り付く島もなし=仏教を知って入門です。はいどこまで行っても取り付く島もないです。史記にあるという、趙の恵王楚の和氏より璧、玉です、を得たという、秦の昭王十五城をもって之に易う、姜相如璧を奉じて秦にいたる、璧をもってきたら美女を侍らしみなして万歳とやった、姜相如これは城をくれる意志なしと見て、玉にきずがあるちょっと見せてくれといって、取り返す云々です。これはまあ無といい、有といってのちの、佗の知るが故に犯す、伊に業識のあるがためなりの蛇足を頌すんです、きずを指摘して玉を奪う、美食飽人底の喫する能はず、首くくる縄もなしに失せて玉露宙に浮かぶんです、これを摩尼宝珠。
第十九則 雲門須弥
衆に示して云く、我は愛す韶陽新定の機、一生人の与めに釘楔を抜く。甚としてか有る時は也た門を開いて膠盆を綴出し、当路に陥穽を鑿成す。試みに揀弁して看よ。
挙す、僧雲門に問ふ、不起一念還って過有り也また無しや。門云く、須弥山。
我は愛す韶陽新定の機というのは、ここから発したのか、いや違う碧巌録の方が先か、韶陽は、雲門大師が韶州雲門山に住するによる、まさに我は愛すとしかいいようにない、わしは趙州真際大師の方が好きだが、なんせまあ手も足も付け難し、ひええったらぶっ魂消。順次出て来ると思うから、アッハッハ申し訳ない従容録を見るのは初めてです、挙げませんが、この則もどっかんずばというやつです、まったく蛇足の付けようがないんです。
須弥山にのっかられては、あとかたも残らない、虚空になり終わって、電長空に激しと、至りえ帰り来たるんです。不起一念とは、一念も起こらずというんです。一念起こらなければ、それを観察しうる自分=念がないんです、するとかえって過ありやと聞き得ないといったほうが正解です、ではどうなるかというと、須弥山です、はあっと一念起こったときに、宇宙いっぱい大です。我と有情と同時成道です。たとい平らかに、一微塵なくたって、すべてがおらあがんと、そのまっしんにあります。よく保護せよと、ここに住し長長出するんです、これ仏、釘を抜き楔を抜いて他が為にする、我という囲うものがない。落とし穴だろうがにかわのお盆だろうが、もしや、我は愛すというからには、そう見えるんです、ただの大法他なしなんです。
頌に云く、不起一念須弥山。韶陽の法施意志慳しむに非ず。肯ひ来たれば両手に相ひ分布せん。擬し去れば千尋攀ず可からず。滄海濶く白雲閑たり。毫髪を将って其の間に著くこと莫れ。假鶏の声韻我を謾じ難し。未だ肯へて模胡として関を放過せず。
こりゃまあこの頌の如くでなにを云うこともありません、ほんに一毫髪も挟めばそりゃ得ることできんです、須弥山とまさにこうある以外にないんです、夜をこめて鶏のそらねをはかるとも世に逢坂の関は許さじ、これは清少納言の歌ですが、もしやそんなふうに坐禅をやっていませんか、ああでもないこうでもないこうあるべき、自らすすみてこれを証するを迷いとなす、そうやっている自分を思い切って捨てる、明け渡すんです、未だ肯へて模胡として関を放過せず、ああまことにおのれのありさまと知って、たとい手段を選ばず、手段なしのむちゃくちゃ、むちゃくちゃかえりみるなし、もとなんにもなし、なんにもないから捨てられるんです、死ぬとはどういうこと
か、平らかに思い当たって下さい、須弥山もくそもないったら、まっしんに坐れば須弥山そのものです、アッハッハこりゃいうだけ遅い、どうしようもないな、はいどうしようもないを両手もって差しだします。
第二十則 地蔵親切
衆に示して云く、入理の深談は三を嘲り四をさく。長安の大道七縦八横、忽然として口を開いて説破し、歩を挙げて蹈著せば、便ち高く鉢嚢を掛け柱杖を拗折すべし。
且らく道へ誰か是れ其の人。
挙す、地蔵法眼に問ふ、上座何くにか往くや。眼云く、いりとして行脚す。蔵云く、行脚の事作麼生。眼云く、知らず。蔵云く、知らず最も親切。眼豁然として大悟す。
入理の深談とはただ、こりゃ本来事を知らん人が云うんですか、三を嘲りという、人みな放あり奪あり集あり、三種の神器鏡に玉に剣とかやってるでしょう、世の中こうすべき、こうあるべき一ありゃ三あるのを、そりゃ嘲るんです、間違いなんです、さく、らという手へんに羅ですが、これラと拍子をとる音韻です、別の意あるんですか、ようも知らんけどアッハッハのし付けるってふうです。金沢の人、新聞記者であったか、あるとき忘我ということがあった、すると世間常識が、あほらしいというか、なんであんなことをと思うほどになったという、そりゃそういうことあるんです。長安の大道七縦八横です。如何なるか是れ道、道は籬の外なあり、わが問うは大道なり、大道長安に通ず。弟子であった祐慈和尚、悟を得てのち托鉢に行く、千葉へ出て東海道を下って、四国へはいり、年賀葉書のお古をもっていて逐一知らせて来るのが、まことにおもしろかった、糸の切れた凧でどこへふっ飛んで行くかわからない、首座をしてくれというお寺があって、連絡しようもなしと思っていたら、元旦に電話があって、開門岳から新年のご挨拶だって、えー帰るんですか、沖縄まで行こうと思っていたのにだってさ。こういうのを用いる宗門ではないから、苦労している、なに六十まで口をつぐんでおれ。
地蔵は玄沙師備の法嗣、地蔵院に住す、法眼文益はその門下。これはいいですねえ、上座、一定の期限をへた雲衲をいうんですが、おまえどこへ行く、イリはしんにゅうに施のつくりと麗と、ぶらぶらとです、ぶらぶら行脚してます、行脚の事そもさん、知らず、知らぬもっとも親切、法眼忽然として大悟。
知らぬもっとも親切、さあこれに参じて下さい。
今の人心身症だのいう、物拾うとか、カメラぶらさげ、デイトに集団に、そうぞうしくって、一人散歩することもできない、女のお一人さまなんてわっはっは物笑いだ、さあどうします、知らぬもっとも親切。
頌に云く、而今参じ飽いて当時に似たり。簾繊を脱塵して不知に到る。短に任せ長に任せて剪綴することを休めよ。高きに随ひ下きに随って自ずから平治す。家門の豊倹時に臨んで用ゆ。田地優遊歩みに信せて移る。三十年前行脚の事、分明に辜負す一双の眉。
参じ来たり参じ去りという、たんびに元の木阿弥です、なんにも得られない、参禅以前のなんにもなしです、いくたびこんなふうです、いったいおれは何をやってたんだ、無駄ことばっかり、そうかもとっこなんにもないんだ、老師はあるあると云った、だからあると思い込んだ、ないのが当たり前。
ないところへ自分を捨てるんですよ。簾繊という、坐禅悟り仏という標準に照らし合わせて、微に入り細を穿ちする、どこまで行ってもきりがないです。捨身施虎は、即ちそうやっている自分を捨てる。
単純な理屈ができない、法眼ようやったというわけです。参じ尽くして参じ飽きるんです、これが他になんの方法もないです、寒暖自知という、時に臨んで用う、田地優遊です、百花開くんです。まったく与え任せてしまう、糸の切れた凧です、三十年前の行脚もしかり、目の辺に眉がある、そいつに気がつかず他に向かって求めていたという感慨があります、もとっこおぎゃあと生まれてそのまんまなんですよ。
毫釐も差あれば天地はるかに隔たる。仏向上事なに遅すぎたっていうことないですから、ましてや早すぎたなんてことない。
第二十一則 雲巌掃地
衆に示して云く、迷悟を脱し聖凡を絶すれば多事無しと雖も、主賓を立て貴賎を分つことは別に是れ一家、材を量り職を授くることは即ち無きにあらず、同気連枝、作麼生んか会せん。
挙す、雲巌掃地の次いで、道吾云く、太区区生。巌云く、須らく知るべし、区区たらざる者有ることを。吾云く、恁麼ならば則ち第二月有りや。巌掃菷を提起して云く、這箇は是れ第幾月ぞ。吾便ち休し去る。玄沙云く正に是れ第二月。雲門云く、奴は婢を見て慇懃。
雲巌曇晟禅師、薬山惟儼の嗣、道吾円智は兄弟弟子。本当には知らん人を迷悟中の人という、迷いあれば悟りありです、君見ずや絶対学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず、一般の人これができんのです、いいわるいを云い妄想を除こうとし、真実を求めようとする、実はそうしているそのものなんです。主賓を立て貴賎を分かつ、なぜにそうするか、時に応じて必要間に合えば、完全すればということです、ゼニが欲しいときはゼニ、飯が食いたいときは飯で、まるっきり後先なしです。だってすべてがそう成り立っている、のしつけりゃ面倒臭い、かったるいだけなんです。ただの日送りの、簡単明瞭ができない、でもってそれに苦しんでいる、アッハッハそりゃ笑っちまうです。
焚くほどは風がもてくる落ち葉かな、裏を見せ表を見せて散る落ち葉。良寛さんの真似しろってんではないです、地震来たれば地震がよろしく、うわあ恐怖の地震と、はいこれっきりないんです。同気連枝、千字文にあり、孔だ懐ふ兄弟あり、気を同じゆうし枝を連らぬ。奴は婢をみて慇懃ですか。
雲巌庭を掃いていた、道吾それを見て太区区生、ごくろうさんですと云った。
巌云く、いいか、ごろうさんじゃない者の有ることを知れ。それっこっきりにやっているんですよ、ごくろうさんじゃない坐禅して下さい、まるっきり後先なし、忘我でも忘我でなくってもいいです、太区区生ではない日常があります。吾云く、そうであったら第二の月ありやなしや、円覚経にあるという、彼の病、目の空中の華と、および第二の月を見ると。空華眼華という、坐っていて惑わされるのはこれ、是非善悪そっくり風景になってうつろうほどに、実際ではない世間体です、もうないものを空想裏に描く、夢という流行語すなわちこれ、目を失い去ればよし、月という想像する月を見る、月を仰いで遠来の客を忘れる良寛さんに、第二の月ありや、即ち第二の月有りやと、成句になって聞いたんでしょう、雲巌ほうきをかかげて、これは第幾つの月だという。うっふどうです、奴は婢を見て慇懃ですか。玄沙道吾の休し去るを見て、まさにこれ第二月といった。自分の抱え込んだ仏という月にしてやられるんです、雲門云く、即ち同病あい哀れむっていうんですか、はてなするとこっちも同病。
頌に云く、借り来たって聊爾として門頭を了ず。用ひ得て宜しきに随って便ち休す。
象骨巌前、蛇を弄するの手、児の時做ふ処老いて羞を知るや。
聊爾かりそめ、掃地ということを借りて門頭、無眼耳鼻舌身意を六根門というそうで、かりそめにも了ず、つまり雲巌ほうきを提示してもって、道吾これを知る、用いえて宜しきに随い、無眼耳鼻舌身意なんにもなくなってしまう、本来のありようを見て休し去る、別段なんの事件も起こらんわけです。玄沙まさに第二月と云う、ことを起こしたかったわけです、象骨巌とは、雪峰山下にある岩、すなわち雪峰会下の玄沙と雲門です、南山に鼈鼻蛇ありのいきさつは、二十四則にあります、蛇を弄するの手、做さと読む、ならうんです、あのときは若かったというわけが、老いて恥を知るや、まあしかしなんにも起こらんけりゃこの則はなかったわけです。休し去るというからには、担いで帰るものあるように見える、雲云く奴は婢を見て慇懃ですか、でもってかつての騒々しい例を引く。
まあそんなこたいいです、無眼耳鼻舌意をたしかめて下さい、眼華をなんとかして下さい、
月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな
必ずこういうことあるんです。でもこれを認めておっては第二月。
第二十二則 巌頭拝喝
衆に示して云く、人は語を将って探り、水は杖を将って探る。撥草瞻風は、尋常用いる底なり。忽然として箇の焦尾の大虫を跳出せば又作麼生。
挙す、巌頭徳山に到り門に股がって便ち問ふ。是れ凡か是れ聖か。山便ち喝す。
頭礼拝す。洞山聞きて云く、若し是れ豁公にあらずんば大いに承当し難し。頭云く、洞山老漢好悪を識らず。我れ当時一手擡一手捺。
撥草瞻風という雲水修行をすべからく云うんですが、煩悩の草を撥ね菩提の風を瞻仰すとある、尋常用いる底とは、寝ても覚めてもです、何をしていたろうがこの事です、何をしてはいかんこうあるべきというより、かえって目茶苦茶の方がいい、煩悩を助長するもせんも、そんなふうでは届かない、転んでもただでは起きないふうの参禅ですか、人間いつだって未だしという、いつだって100%是という、ゆえに語をもって探り、杖をもって探るんです、叩かれ払拳棒喝とあって、はあてようやくですか、箇の焦尾の大虫とは虎です、虎は尾っぽを焼いて人間に化けると、こいつを忽然失うには、またまったく別です。
巌頭禅豁禅師、徳山の嗣、我今初めて鰲山成道の雪峰の兄弟子、くぐつまわしなど云われるんですが、そりゃなかなかしっかりしてます。徳山へやって来て門にまたがり、是れ凡か聖かと問う、虎の前にやって来た、かーつとこれはらわたさらけ出し、どん底からというんですが、虎という自分の形骸なんにもないやつがかつとやるんです、老師の喝で生臭雲水が単から跳び上がったな、障子がふるえる。これ聖か凡か、探竿影草かしゃらくさいか、さすがに巌頭礼拝し去る。洞山は洞山良价和尚でしょう、こりゃまた大物です、豁公は巌頭です、おまえさんでなけりゃとうてい肯がえんという、一喝あるべしといったんですか、超凡越聖の機、襟首とっつかまえて同病あい憐れむですか、いやあのときそんな余裕なぞなかった、一手擡はもたげる一手捺はおさえるです、是れ凡か聖かともたげ、礼拝しておさえ、徳山の喝とどうですか、そうです、もうこれっきりっていうところがいいんですが、どっかくぐつまわし。
頌に云く、来機を挫しぎ、権柄を総ぶ。事に必行の威あり。国に不犯の令あり。
賓、奉を尚んで主驕り、君、諫めを忌んで臣佞ず。底んの意ぞ巌頭、徳山に問ふ。一擡一捺、心行を看よ。
意言に在ざれば来機亦おもむく、宝鏡三味にあります、その続きは、動ずればか臼をなし、差がえば顧佇に落つ、背触ともに非なり、大火聚の如し。とあります。
自分というものに首を突っ込むとこうなる、手を触れると大火傷ですか、どうしようああしようの参禅を終わりにせんけりゃ、来機またおもむくとは就中いかんです。せっかくのおのれ=来機に蓋をする、いちゃもんつけてしまっては、徳山虎口の門にまたがって、凡聖を問うも無理です。無理をそのまんまむうっとやってごらんなさい、徳山大喝もそよ風とほどに。必行の威もほうほけきょ、不犯の令も風力の所転。賓は洞山そりゃまあお客ですか、主は巌頭。君は徳山、臣は巌頭。どうですか巌頭親切、だれもが一目置く兄貴というわけで、是れ凡か是れ聖か、師は末期の一句を得たりとか、よくやるよってアッハッハおもしろいんです。洞山の、もし豁公にあらずん
ば承当し難しという、よく表われています。徳山渇して巌頭の立場失せたりって、もと立場のないのが仏です、学者仏教私は達磨実在の立場をとってという、すでに敗壊、仏教のぶの字もないんです。一擡一捺心行をみよと、蛇足するのもわかるような気がします、でもってわしは巌頭が大好きです、なぜかって好きなもんに理屈なし。
第二十三則 魯祖面壁
衆に示して云く、達磨九年、呼んで壁観と為す。神光三拝、天機を漏泄す。如何が蹤を掃ひ、跡を滅し去ることを得ん。
挙す、魯祖凡そ僧の来たるを見れば便ち面壁す。南泉聞きて云く、我れ尋常他に向かって、空劫以前に承当せよ、仏未だ出世せざる時に会取せよと道ふすら、尚ほ一箇半箇を得ず。他恁麼ならば驢年にし去らん。
菩提達磨大和尚壁観婆羅門という面壁九年、神光慧可腕を切って差し出して、天機を漏泄す、ようやくこの法が伝わった。如何が蹤をはらい、跡を滅し去ることをえん、天機です、もと備わったものが完全に現れる、個性とか信仰などいう都合便利の品ではない。祖師西来意これを伝えるに、命幾つあっても足りんほどの鳴物入りですか、とうてい忘れることはできんというのです。そうです、まったく忘れ去って初めて庭前の柏樹子です、真似して坐ったってどうにもほど遠いんです。だがこやつ平成のわしが辺までちゃーんと伝わっている、如何が跡を滅し去ることを得ん、人間失せたろうが地球分解しようが、大法はちゃーんとあるんです、すでに中にある無門関。
ついには仏法のぶの字を払拭しないことには、これが見えんです。
魯祖実雲禅師、馬祖道一の嗣、おうよそ僧の来るのを見れば面壁す、南泉これを聞いて、わしは世の常他に向かって、空劫以前に参ぜよ、ビッグバンなぞ汚い手つける以前に承当です、仏未だ出世せざる時に会取せよといって、なを一人半分も仏にゃならん、もしそんなふうなら驢年にも、ろばの年なんてないです、得ること能はずと云った。わかりますかこれ、どう説こうがなにしようが、とっつきはっつきする、匙投げたろうが諦めない、さあこやつをどうする。
香巌一を聞けば十を知る明敏です、何を云ったろうが答えがある、これなんにもならん、師匠が、父母未生以前のおまえさんの眉毛如何と聞いた、さあわからなくなった。空劫以前です、香巌これしきわからんでは、とうてい坊主になってはおれんといって、じいごです、寺男になって庭を掃いておった。毎日毎日掃いていた、あるとき掃いた石が竹に当たってかんと音を立てた、これによって省悟するんです。大丈夫畢生事と選んだ僧を捨てる、命を捨てると同じです、腕一本切って差し出すとほどに。そうして庭を掃く、掃くきりになって忘我です、爆竹の機縁によって、はあっと一念起こる、父母未生以前の眉毛があるんです。
何をもってこれを示す、実に単純な理屈をどうにもこうにもです、師弟同じく刀折れ矢尽きるんです、空劫以前承当と魯祖面壁とどう違いますか、誉めてるんですか、けなしてるんですか、取り付く島もないのはどっちですか、えい人のことなど云ってられんは、一箇半箇なんとかならんか。
頌に云く、淡中に味有り、妙に情謂を超ゆ。綿綿として存するが如くにして、象の先なり。兀兀として愚の如くにして、道貴とし。玉は文を雕って以て淳を喪し、珠は淵に在って自ずから媚ぶ。十分の爽気、清く暑秋を磨し、一片の閑雲、遠く天水を分つ。
坐って得られるところのものです、虚空に捨て去る自分です、失われ淋しい、なんにもなくなってしまうじゃないかという、それを一歩も二歩も推し進めるんです、ついに失せる、淡中に味ありです、情識を超えて微妙です。大死一番大活現成とはいったん死んだら蘇らないんです、宇宙ものみなとこうある、喜びは自ずから、親切他なし、かくの如く相続して、象かたちの先です。兀兀として愚の如く、道を専一です。
文選第十七陸機の賦に日く、石、玉を蘊んで以て山輝きあり、水、珠を懐いて川媚ぶ、とあり、まあそのとおり味わっておきゃいいです、そりゃ自ずから現れます。たとい魯祖面壁も世間一般とは断然違うです。美しいというと思い出すのは、老師の真っ白いひげでした、すぐ剃ってしまわれるんですが、清々この上なし、見る人洗われるようであったです。十分の爽気清く暑秋を磨し、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵すとある、一片の閑雲遠く天水を分つ、混ずる時んば所を知るんです。なんだかんだ云ってないんですよ、早くぶち抜いて、人々みな本地風光です。
第二十四則 雪峰看蛇
衆に示して云く、東海の鯉魚、南山の鼈鼻、普化の驢鳴、子湖の犬吠、常塗に堕せず異類に行かず、且らく道へ是れ什麼人の行履の処ぞ。
挙す、雪峰衆に示して云く、南山に一条の鼈鼻蛇有り、汝等諸人切に須らく好く看すべし。長慶云く、今日堂中大いに人有りて喪身失命す。僧玄沙に挙似す。沙云く、是れ我が稜兄にして始めて得べし、是の如くと雖も我は即ち不恁麼。僧云く、和尚作麼生。沙云く、南山を用いて作麼かせん。雲門、柱杖を以って峰の面前に竄向して怕るる勢いを作す。
雪峰義存禅師は青原下第五世徳山宣鑑の嗣、長慶玄沙雲門はその会下、東海の鯉魚打つこと一棒すれば、雨、盆の如くに似たり、雲門の語、六十一則にあり。普化驢鳴は、臨済会下、普化飯を喫するに、臨済云く、這の漢大いに一頭の驢に似たり。
普化即ち驢鳴をなす。この則南山鼈鼻とよく似ています。子湖犬吠は、子湖利蹤禅師門下に示すのに、子湖に一双の狗あり、上、人の頭を取り、中、人の心を取り、下、人の足を取り、擬議すれば、喪身失命すと。いずれも仏法がなんのという、常識情堕をぶちやぶって、さあどうだというんです、応じてもって本来事を知る、あるいは安閑としているそいつをさらけ出す、ものはみな一目瞭然です。でたらめじゃないんです、異類、人類にあらざる驢犬、蛇足ながら、世にいう禅問答など、そんな別格あるわけもないんです、あるとすりゃぎりぎり親切です。
雪峰衆に示して云く、南山に鼈鼻蛇あり、赤い斑点のある猛烈な毒蛇です、南山というて特定のもんじゃない、南宗南無阿弥陀仏の南ですかアッハッハ、どっかあったかいんでしょう、すべてをもってする大乗のあかしですか、そうですあなたです。鼈鼻蛇があったらどうしますか、長慶云く、そんなもんどうってこたないっていうんです、とっくにみんな喪身失命、はい仰せの通りっていうんですか、今更云はんかなっていうんですか、とにかく響きのあるのを味わって下さい、それをまた聞きして玄沙、南山を用いて何かせんという、喪身失命という、まだそいつを眺めているやつがいた、それをぶち破ったんです、死体のかけらもないよってわけです。でもまだ
どっか残ってますか、雲門杖をそこへ投げ出して、うわあこわいやる。異類と同じなんて云ってはいけない、なんせ人間さまのやるこってす、どれほどの卒業、坐り抜いてのちのこってす、まずは坐るということを知って下さい、喪身失命もいい、南山失せるもいい、そうしてまったくの自由を得て下さい、どうですか、これをしも若気の至りっていう、オッホ微笑ましいってこってす。
頌に云く、玄沙は大剛、長慶は勇少なし。南山の鼈鼻死して用無し、風雲際会頭角生ず。果して見る韶陽手を下して弄することを。手を下して弄す、激電光中変動を見よ。我れに在るや能く遺り能く呼ぶ。彼に於けるや擒あり縱あり。底事ぞ如今阿誰にか付するや。冷口人を傷れども痛みを知らず。
これはまた韶陽大師、雲門のことです、柄にもなく誉めちぎっています、よく出来したてなもんですか。玄沙は大剛という、独立独歩の気構えです、だれしもどこかに残っている、自分を撫でる可愛がることを辞めるんです、けっこうこれ難しいんですよ。今の世おんば日傘とむかしいった、猫可愛がり=人格ですか、まずもってそりゃ、これを抜け切らんけりゃ仏法じゃないです。砂糖漬け人格なんてもな、世の中破壊する方向にしか向かわない。早晩日本は滅びるですか、人類滅びたろうが、蚊食うほどもないってほどの大剛、始めてこれに当たるんです。長慶勇少なしとは、自ずから知れるところですが、いま一歩も二歩も捨て去る、死ぬ思いせにゃだめです。南山の鼈鼻蛇死して用無し、自我という獰猛が死に絶えるんです、死に絶えたといって見つめているんじゃないんです。参ずるにはこれに参ずる、キイポイントですよ。そうですどこまで行ってもです、ようやく自由の分を得て、風雲再会頭骨を生ず、そりゃよかろうが悪かろうがです。就中雲門の如きは、電光石花、云い分じゃない、通身もて投げ出す、よくやるよって、かーつなんてもんじゃない。学人、相手にとっちゃ揺さぶられ突き放され、なんにも残らんて、わっはっは本文のまんまにしときゃよかった。百歩遅いのはそりゃ万松老人も同じですか。底事如今阿誰に付するや、くわーっと感嘆の声を上げるんです、冷口人をやぶれども痛みを知らず、ぜんたい持って行かれた。どうですか、たとい現代人というあなた、どっこかでこういうの聞いたことありますか、情けない淋しい、傷つけるほか毒にも薬にもならんのでしょう。つまらんです。
第二十五則 塩官犀扇
衆に示して云く、刹海涯無きも当処を離れず、塵劫前の事、尽く而今にあり。
試みに伊をして覿面に相呈せしむれば、便ち風に当たって拈出することを解せず。且らく
道へ過什麼の処にか在る。
挙す、塩官一日侍者を喚ぶ、我が為に犀牛の扇子を過ごし来たれ。者云く、扇子破れぬ。官云く、扇子既に破れなば我れに犀牛児を還し来たれ。者対無し。資福一円相を描きて、中に於て一の牛の字を書く。
塩官斎安禅師、馬祖道一の嗣、資福如宝禅師は仰山二世の嗣、刹はお寺に使ったりしますが、もとは国土の意の梵語、塵劫塵点久遠劫永遠の時、世間一般ものみなを含む、はてもないんですけれど、いつだってこの事の他なしです。塵劫前だろうがたった今。なに禅問答だ仏教のこっちゃないです、私どもの一挙手一投足もとっからそうできているってこってす。塩官和尚一日、侍者に犀牛の扇子を持って来いと云った、水牛の骨でできた扇子ですか、そいつは破れちまったと侍者がいった、じゃその骨持って来い、犀牛児は骨をいうらしいんですが、風に当たって、もとっから風ですか、むうとばかり黙っちまう、資福が出て、円を描いて中に牛の字を書いたというんです。こんなの臨済門下大好きで、所作とかなんとかやるんですが、自分どうもなら
ん、自救不了ではなんにもならんです。塩官ぶんなぐるか、払子を使うには、幸い資福はそんな玉じゃなかった。過いずれにかある、大切なことを忘れちまってはだめです、禅を習う、あっちもこっちも、毒にも薬にもならんの多いですが、この侍者の爪の垢でも煎じて呑めばいいです、どこまで行ったって覿面です、まっすぐ真正面の他ないです、世間にひけらかすんではない、ひけらかす世間を失う。死ぬとは自分を失う、淋しく切なく、まったくなんにもならんのへ、参じて下さい。許すのは自分が許すんじゃないんです、なんにもないものが許すっていえば許すんですよ、こっちからじゃない。
頌に云く、扇子破るれば犀牛を索む。捲攣中の来由あり。誰れか知らん桂穀千年の魄、妙に通明一点の秋と作らんとは。
捲は木の丸盆、攣は手足の曲がること、円相にあてる、桂穀は円かな月、魄は月の輪郭光なきところを魄と名ずくと、月の朔。扇子破れて犀牛を求めるという、自分ぺっちゃんこになったら、残っているものがありますか、たいていあるんです、ではそれをどうする、手を付けなけりゃそれっきり。人間生涯玉に疵みたいとこあります、これを救うという、糊塗するんじゃない、さらけ出して牢獄に入るか、だったら疵失せるか、あるいはこれが大問題です、人いつの世だって同じです、いいかげんにしたらいいかげんにしかならん、対決して真正面です、罪を求めるに罪なし、空っけつになったら外と同じです。我というものを去る以外にない、実に我というかつては鼈鼻蛇であったこれなんぞ。円相を描いて牛の字を書きますか、そんなおまじないじゃどうもこうもならんていう、さらに全提のあるあり、正令全提牛ですか、うっふ牛であってもいい忘れ去るんですか。すると月のまわりは千年魄、あるいは却来して看ずるに、通明一点の秋ですか。さあ各正に以ておのれの円相を描いて下さい、どっか臨済坊主の掛け軸じゃない、そんなふざけたもんじゃないのです。
第二十六則 仰山指雪
衆に示して云く、冰霜色を一にして雪月光を交ふ、法身を凍殺し漁夫を清損す、還って賞玩に堪ゆるや也た無しや。
挙す、仰山、雪獅子を指して云く、還って此の色を過ぎ得る者有りや。雲門云く、当時便ち与めに推倒せん。雪竇云く、只だ推倒を解して扶起を解せず。
清廉の屈原を法身とすれば、清濁時に応ずる漁夫は応身の立場という。屈原は唐の詩人、冰は氷です霜と一色、雪と月光という、どうですか、風景のごとくに心事ありですか、思想観念を絶したさまですか。たしかに自分という一切を空ずる、そりゃ色あり形ありするんですが、大小色彩を絶したものがあります。どっちが大きいどっちが小さい、黒いか白いかと問われて、答えが出ない、知らないというんです。法身という目標もなく清濁という種々雑多もないんです。かえって賞玩に堪えるや否やというところが面白いんです、世間とは観念思想をもってするんですか、雪舟の水墨画も紙と墨を必要とする。とらわれないということあってこれを用いる。色即是空か
ら空即是色です。だからどうだといってつっぱらかるんですか、いえ時によってどうだとやり得るんです。
仰山きょうさん慧寂禅師はい山霊祐の嗣、雪獅子は雪達磨です、指さしてこの色に過ぎるものありやと示す、これによって悟るものもあれば迷うものもあります。
でも平地に乱を起こすという、一波乱起こさなければそりゃあだめです。でたらめ思いつきじゃない、実にこれに過ぎたる色ありやです。白が明白っていうんじゃないんですよ、知識思想の及ばぬところです、人々看よという。これを聞いて雲門がそん時いりゃ雪達磨蹴倒したものをと云った。雪竇せっちょう重顯禅師は雲門三世智門光祚の嗣、碧巌録百則を著わす。云く、ただ推し倒すことを解して、扶け起こすことを知らんと云った、アッハッハまあそういうこってすか。これがちんぷんかんぷんの人は無縁の人、舌を巻く人は向上の人、雪竇をぶんなぐる底は、さて何人。
頌に云く、一倒一起雪庭の獅子。犯すことを慎んで仁を懐き、為すに勇んで義を見る。清光眼を照らすも家に迷ふに似たり、明白、身を転ずるも還って位に堕す。
衲僧家了いに寄ること無し。同死同生何れをか此とし何れをか彼とせん。暖信梅を破って、春、寒枝に到り、涼飃葉を脱して、秋、潦水を澄ましむ。
これしきのことにずいぶんご丁寧な頌は恐れ入る、犯すことを慎むとは、雪竇扶け起こすを云い、為すに勇んでは雲門推し倒すを云う、別段仁義のこっちゃないんですが、大死一番して大活現成の伝家の宝刀に譬えた。清光眼を照らすも家に迷うに似たり、坐っていて思い当たることないですか、すべてを尽くして肉は悲しというのは西欧の詩人ですが、どっかお釣りが来る、垢取りせんけりゃならんという感想です。明白身を転ずるもかえって位に堕すの、虚々実々です。どっちがどうこうすべきだの問題ではない、問題ありながら卒業するんですか。完全とは何か、すでに始めっからこのとおり、生まれるから変わらないんです、坐禅をする前と終わった今と同じ、坐禅遍歴もまた同じ、さっぱり進歩も取り柄もなし、さてどうしますか。同死同生いずれ
を此としいずれを彼とす、うっふうこれに参ずるにいいですよ、事は簡単明瞭。
暖信せっかく梅が咲いたのに、寒気襲い、紅葉をひるがえして、寒風潦水水たまりを澄ましむる、はーいどっからどこまで繰り返して下さい、とほほうんざりってのいいですよ、彼岸にわたる法のかい、かいは同じことの繰り返し、アッハッハ吐く息吸う息。
去って下さい。
第二十七則 法眼指簾
衆に示して云く、師多ければ脈乱れ、法出でて姦生ず。無病に病を医やすは以て傷慈なりと雖も、条有れば条を攀ず、何ぞ挙話を妨げん。
挙す、法眼手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼云く、一得一失。
師とは医師のこと、医者多くして脈乱れとは世の中まずはそういうこと、法出でて姦生じ、法律です、法無ければ姦なしという、どうですか姦とは姦通罪外みなです、法無ければ姦ないんでしょう、かえりみて下さい。これはまあ法眼指簾について、とやこう云いたくなるところを喝したんですか。法眼宗の祖清涼文益禅師は地蔵桂しんの嗣、不知もっとも親切と云われて大悟する因縁は前出。簾すだれを指さした、二人の僧が立って行って、すだれを巻く、これを見て一得一失と云った、無病に病をいやすは傷慈、老婆親切ですか、なんで一得一失なんだ、それはA坊主ができていて、B坊主がいまだしだからだ、あるいはせっかく涼風を入れようとしたのに、一得一失があった、まがきの外を示すのに、条令条あれば条をよずんですか、かれこれ云い分があるのを、一得一失、まるっきり取っ払うんですよ。しゃば世界ひっかかりふわっと消えて、そうかあというんです、うわっと世界ぜんたいです、無所得です、自分という取りえ失せるのを体現して下さい、でなければ法眼せっかくの親切が、なんにもならんです、ハイ。
頌に云く、松は直く棘は曲がれり、鶴は長く鳩は短し。羲皇世の人倶に治乱を忘る。
其の安きや潜龍淵に在り、其の逸するや翔鳥絆を脱す。祖ねい西来して、何んともすること無し。裏許得失相ひ半ばす。蓬は風に随って空に転じ、紅は流れを裁って岸に到る。箇の中霊利の衲僧、清涼の手段を看取せよ。
松直棘曲鶴長鳩短、一長一短これはこの通りなんですが、楞厳経にこうあるそうです、松は直く棘は曲がり、鶴は白く烏は玄し、荘子にまたあり、長者は余り有りとせず、短者は足らずとせず、是故に鳩の脛は短しと雖も之を続ぐときは即ち憂ふ、鶴の脛は長しと雖も之を断つときは即ち悲しむと、なんだかちんぷんかんぷんです。
羲皇は中国伝説の理想王三皇五帝です、人みな治乱を忘れるとほどに、治世が行き渡っておった、うっふっふ常この目の当たりの世の中ですよ。これをなんとかしよう、我と我が身を如何せんといって、仏門を叩く、生老病死苦を如何せんという、その逸するや翔鳥群れを脱するんですか、なんにもせなけりゃ潜龍淵にあるんですか、祖ねいのねいは示すへんに爾、親廟のこと、即ち祖師西来意と同じ、せっかく達磨さんがやって来たって、如何んともすること無し。どうですか、世間しゃばとして考えて、二通りありますか。なにも変わらんという、無老死亦無老死尽、無無明亦無無明尽、却来して世間を看ずれば、なを夢中の事の如しですか。よもぎというか草の穂は風にしたがって空に転じ、紅は流れに落ちても鮮明に岸に到る、一得一失まさにこれ。裏許は中国のこと、なんせ中国以外ないんだからさ、得失あい半ばすとはだれのこれ感
慨ですか。霊は幽霊というどっちも形容詞で、微妙幽玄というのは、自分失せてものみな現ずるありさまです、そうなった人はさあどうしますというんです。どうか答えを出して下さい。
第二十八則 護国三麼
衆に示して云く、寸糸を挂けざる底の人、正に是れ裸形外道。粒米を嚼まざる底の漢、断めて焦面の鬼王に帰す。直饒い、聖処に生を受くるも未だ竿頭の険堕を免れず、還って羞を掩ふ処有りや。
挙す、僧、護国に問ふ、鶴枯松に立つ時如何。国云く、地下底一場の麼羅。僧云く、滴水滴凍の時如何。国云く、日出て後一場の麼羅。僧云く、会昌沙汰の時護法善神甚麼れの処に去るや。国云く、山門頭の両箇一場の麼羅。
雲門云く、終日著衣喫飯して未だ嘗て一粒に触れず一縷の糸を挂けず。とあってこれを取る。一糸もまとわずじゃそりゃすっ裸の外道、一粒も噛むことなければ、焦面の鬼王は餓鬼道の王のこと、そりゃ餓鬼道に墜ちるというんです。じゃなぜ雲門大師ともあろうものがって、アッハッハ一糸もつけず一粒も嚼まず、清々この上なしの不染那ですか、なにだれあって日常正にこれ是の如くなんですよ。顧みて下さい。
でもってこう云ったとたんに一場の麼羅ですか。麼はりっしんがつく、梵語そのまんまの恥という、麼羅恥さらしです。 たとい聖人君子というより、聖処とは実に仏です、自分というよこしまを与う限りに去るが故にです、たといそうあったとて、百尺竿頭にあって、墜落の危険を免れぬ。高い木に登って、手を放せ足を放せ、しまい口でかじりついているところへ、下に人が通って大法を問ふ、さあどうするという公案があります、アッハッハこれ仏、いえ平地に乱を起こすんですか、どうやったら恥を蔽うことができるかとは、こりゃご挨拶。
護国院守澄浄果禅師は洞山下疎山光仁の嗣、僧云く、枯松に鶴の立つとき如何、世法を去って仏法に就く、すべてを尽くし終わって枯松龍吟、そりゃそういうときがあるんです。どうだというんです。護国云く、地下底一場の麼羅、カリカチュアで云えば共産主義のキムジョンイルですか、アッハッハ笑われちまうか、なに人間のやるこたみな同じです、人間機械別様には動かん。そりゃ無理だよっていうんです、つまりいまだ去ってはいない。世法の延長、恥さらしがあるんでしょう。
僧云く、滴水滴凍の時如何、一滴すりゃ凍るっていうんです、他なしと云いたかったんでしょう、そりゃここまで尽くすは大変です。護国云く、日出でて後一場の麼羅、こいつが一番よくできてます。目に浮かぶようなのがいいってほどに、感嘆させられる。
会昌沙汰というのは、唐の会昌五年武宗が僧尼二十六万五百人に沙汰して、還俗せしめたという法難です。そのとき護法善神、仏法をまもる神様、一ならず何種もあって、お経にも読んでいるっていうのにどうしたってわけです。護国云く、山門頭の両箇、仁王さんです、一場の麼羅、こいつは冗談口みたいで笑っちゃうんですが、仁王そのものが麼羅、ユーモアなんぞでないところを如実に味わって下さい。
はあてこう云うさへに一場の麼羅。禅坊主口はばったいんですか、いえだれよりも恥を知るんです、鍛えるってことないんですよ、一般は間違ってます。
頌に云く、壮士稜稜として鬢未だ秋ならず、男児憤せざれば侯に封ぜられず。翻って思ふ清白伝家の客、耳を洗ふ渓頭牛に飲はず。
清白伝家の客、耳を洗う云々、ともに清廉潔白この上なしという、中国古代のいいつたえ。なにがし九州の長に登用されるのを断って、汚れだといって川で耳を洗っていた。牛をひく男が聞いて、やたいしたもんだといったら、そんなんじゃつまらん
もっと名を馳せてという、男は川の上流に行って牛に水を飼う。壮士は青年男子、稜は勢い鋭きさま、鬢がまだ白くならない、不惜身命、時には死に物狂いにこれを求める。そりゃそうです、仏の示すどうしてもこれが欲しいと思う、口当たりも悪ければ、取っ付きにくいなんてもんじゃない、流行りすたりの殺し文句や、いいことしいの信仰の類じゃないんです。本当本来を知る、就中もってのほか。思量分別の他です。壮士稜稜として、ついにかくのごとくの無心、無眼耳鼻舌身意ですか、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
枯松に立つ鶴ですか、思いのままになりそうで、地下一場の麼羅、君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず、本来本当のまっただなかに気がつく、これがどうしようもこうしようも、滴水滴凍の時如何、日出でて一場の麼羅。アッハッハ男児
奮発、憤ぜざれば侯に列せずですよ、さあもう一歩、百尺竿頭しがみつくところを放して下さい。死ぬよりないんです、そうですよすべて同じ方向です、捨てて捨てて捨て切るほかない、それたとい清廉潔白も遊んでるようなものなんです、どんともう一発。
第二十九則 風穴鉄牛
衆に示して云く、遅基鈍行は斧柄を爛却す。眼転じ頭迷ひ、杓柄を奪ひ将ゆ。
若し也た鬼窟裏に打在し、死蛇頭を把定せば、還って変貌の分あらんや也た無しや。
挙す、風穴郢州の衙内に在って上堂に云く、祖師の心印状ち鉄牛の機に似たり。
去れば即ち印住し、住すれば即ち印破す。只だ去らず住せざるが如きは即ち印するが是か印せざるが即ち是か。時に盧陂長老有り出でて問ふて云く、某甲鉄牛の機有り、請ふ和尚印を塔せざれ。穴云く、鯨鯢を釣って巨浸を澄ましむるに慣れて、却って嗟す蛙歩の泥砂に輾することを。陂佇思す。穴喝して云く、長老何ぞ進語せざる。陂擬議す。穴打つこと一払子して云く、還って話頭を記得するや試みに挙せよ看ん。陂口を開かんと擬す。穴又打つこと一払子。牧主云く、仏法と王法と一般。穴云く、箇の什麼をか見る。牧云く、当に断ずべきに断ぜざれば返って其の乱を招く。穴便ち下坐。
遅基鈍行、なめくじの頭もたげ行く意志久し、まあどっちかというとわしもその類ですが、斧柄を爛却すとは、中国故事にある碁を打っていたら斧の柄が腐ったという、百年もたっていたなと。頭迷うとはえんにゃだったが自分はどこへ行った、頭がないといって騒ぐ、お釈迦さまがぽんとその頭を打って落着。えんにゃだったは女人です、わしの弟子みなで野球をしていたら、バットを持ったまま、ない、おれはどこへ行ったと歩き回るのがいた、印するに近いんですよ、身心失せてまるっきりないのを承認できないでいる、ぽんと落着すればよし。どうですかこれ、去れば即ち印住し、住すれば即ち印破す。放れるとあり、ましんに行けば破れるとは、そりゃつまら
んです、去らず住せざるが如きは印するが是か、印せざるが是かという、こりゃ人が悪いんですよ。はてなあと思わせ振りアッハッハ、それをしも印下欲しいと云い出で、盧陂長老なかなかのもんです。三拝してハイヨって手出せばいいんですよ、ぶん殴られようがかすっともかすらない。
風穴延沼禅師は臨済下四世、南印の宝応慧順に継ぐ、郢州は楚の都があった、衙は役所、牧主は長官です、それがし鉄牛の機あり、請う師印を塔せざれ。印下してくれという、鉄牛の機なんてわしは知らんです、うっふぶっくり沈んじゃうよ。風穴云く鯨を釣って大海を澄ましむるに慣れて、かえって蛙の歩く水たまりにずっこけるを嗟す、気にかけているぞというんです。長老佇思す、穴渇してなんぞ進語せん、待っているんですよ、長老再び思いまどう、払子にうって、さあ云ってみろ見ようという、口を開こうとして打たれ。牧主云く、仏法と王法と同じだ、ほうなんでかな、断ずるとき断ぜざればその乱を招くと。すなわち穴下座。
どうですか鬼窟裏に、そんでもいやとかやるんですよ、死蛇頭、理屈はこうだからやるんです、そのどっちかです、どんと一歩出てください。かえりみるに我なしです。重々わかっているのになぜ、断ずるとき断ぜねば乱を招くんです。心配ですか、アッハッハ乱なぞ百万回も招いてください、どうにもこうにもそんなのなくなっちゃうんですよ、風穴くだらんこと云ったら、頭ぶんなぐっちまうです。
頌に云く、鉄牛之機、印住印破。毘盧頂ねいを透出して行き、化仏舌頭に却来して坐す。風穴衡に当たって、盧陂負堕す。棒頭喝下、電光石火、歴歴分明珠盤に在り、眉毛を貶起すれば還って磋過す。
毘盧頂ねい、毘盧舎那仏の頭の上、大仏さまの頭上ですか、ねい寧に頁、法身応身というんですが、化仏舌頭に却来きゃらいするという、年回回向にあります、却来して世間を観ずれば、猶夢中の事の如し。どうですか、いったん死んでしまって世間を振り返るんです、するとどうなる、自分という夢中の喜び、毀誉褒貶に預からぬ、いえたとい預かろうともさらりさらりとこうあるんです。向上向下他なしです。鉄牛の機という人の動かしがたいものがあります、印住印破という、噂にはよらんのです。
さあみなさん、事は単純です、早くもって本来の自由を得てください。
いえさ健康にもいいですよ、十も二十も若返って長生きすること請け合い。人におもねるようなことやっていて、うさんくさい人生送らんのです、実際であり平らかに本来です。
衡は権衡ではかりだま、自ら秤定の任に当たる風穴、負堕は、首を斬り臂を切って不敏を謝すことだそうです、くわーっと来たら、電光石火棒喝と行ずりゃいい、歴歴分明なんの隠れもないんです、眉毛をさっきするだにかえって過まつ。
第三十則 大随劫火
衆に示して云く、諸の対待を絶し両頭を坐断す。疑団を打破するに那んぞ一句を消いん。長安寸歩を離れず。太山只重さ三斤。且らく道へ甚麼の令に拠ってか敢えて恁麼に道ふや。
挙す、僧侶大随に問ふ、劫火洞然として大千倶に壊す、未審かし這箇壊か不壊か。随云く、壊。僧云く、恁麼ならば則ち他に随ひ去るや。随云く、他に随い去る。僧龍済に問ふ、劫火洞然として大千倶に壊す、未審し這箇壊か不壊か。済云く、不壊。
僧云く、甚んとしてか不壊なる。済云く、大千に同じきが為なり。
大随法真禅師、長慶大安の嗣、龍済紹脩禅師、脩山主と同じ、青原下八世地蔵桂しんの嗣、劫火、壊劫の時大火災が起こって三千大千世界が焼尽するという、そりゃ必ずそういう時は来る、あなたの浮き世が壊滅するんです、さあどうしますかってわけです。答えは二通りあって、大随云く随い去るんですし、龍済云く、壊せずです、でもって解決済み。そりゃ頭へ来るというのへ、大千と同じゆえにほうらそっくりっていうんです。頭とってみろってわけです。ものは自然じねんに落着せにゃならんです。そうかというときまったく大千です、地球が滅びようが仏法がどうだろうが、おっほう万歳てなもんです。そりゃ気違いだという、他の信心一神教なら気違いで
す、これはまったくさにあらず。
諸の対峙を絶しという、まずこれをせんけりゃだめです。只管打坐の俎板の上に載せて、仏教も自分も世界ぜんたいも、四苦八苦過現未も一切合財です、答えを出して下さい。無門関いろはのい、アッハッハ従容録でした、両頭失せりゃ従うきりないですよ。疑団を起こし真正面に見据える、でなきゃ坐禅見習い仏らしいのうさんくさ。
そういうのは葬式稼業にわんさといる、人の死に立ち会うこともできぬ坊主ども、不愉快というより心理学の対象にしかならない。
長安という悟る前も悟ったあともなんら変わらない、なにがどうなるってはなく日々是好日です、あらゆる一切にまるっきり他愛なく太山比類なき。
逃げると追いかける、向かうと失せる、どうですか、真っ正面に見据えるとないんです。
頌に云はく、壊と不壊と、他に随ひ去るや大千世界、句裏了ひに鈎鎖の機無し。
脚頭多く葛藤に礙へらく。会か不会か、分明底の事丁寧はなはだし。知心は拈出して商量すること勿れ。我が当行に相売買するに輸く。
鈎鎖機械、物をひっかける機械、知心、知音同士、当行は当店、壊と不壊と他に随い去るや大千世界、どうですか、たったこれだけに参ずるにいいです、何をか云わんただこれ、従うたって従わぬたって大千世界、ひっかっかるところなんにもなし、無に参ずるとはそういうことですよ。答えを出す必要がない=おまえはもう死んでいる、はいまっ始めからこれです。それ故脚頭多く葛藤に礙えらる、会か不会かという蛇足です、坐りながらこれやるんでしょう、はいご苦労さんと、やりながら糠に釘です、すなわち分明底の丁寧はなはだしアッハッハ。ちっとは知っているやつは=知らんやつは知音同士ですか、なにさとやこう云うんじゃないよ、当店の売買にゃ及びもつかんで、という当店とは天童山の我が店。
第三十一則 雲門露柱
衆に示して云く、向上の一機、鶴霄漢に沖る。当陽の一路、鷂新羅を過ぐ。直饒ひ眼流星に似たるも、未だ口扁擔の如くなるを免れず。且く道へ是れ何の宗旨ぞ。
挙す、雲門垂語して云く、古仏と露柱と相交はる。是れ第幾機ぞ。衆無語。自ら代って云く、南山に雲を起こし、北山に雨を下す。
向上の一機という、ようやく坐が坐になるんです、自分というものみな失せてまったくにこうある、そうしてもって坐っても坐ってもということがある、これ結果を求める、こうなるべきという修禅じゃないんです、故に一機ぜんたいです。たしかに第幾機と問う、まさしく昨日のおのれ今日のおのれじゃないです。しかもそうですねえまったくの無反省、省みることないんですよ。霄漢は大空、天に沖するというと、お寺のおおやまざくらがそんなふうに咲いたですが、ようやく盛りを過ぎましたか、余談でした。鷂ははやぶさです、大陸の外れ半島の新羅を過ぎたんですか。扁擔への字です、口への字に結んで物もいえぬさま。直に得たり口扁擔に似たるを、などよく用
います、衆無語です。当陽の一路はまあ陽が当たるんですか、アッハッハこれ風景を見ておけばいいです。
露柱俗語で大黒柱というんですが、そんなんでなく露はだかの柱です、どうにもぶち抜けなくて、柱を見て悟ったという人いました。露柱明道尼という庵主さんがいました。古くから仏の友人ですか、さあやってごらんなさい。露柱と相交わること、第幾機ぞと、自分失せて柱ばっかりになっても、つなげる駒ですか。それとも南山に雲を起こし、北山に雨降らせですか。向上の一機千聖不伝大いに楽しんで下さい。
というのもこれが生活だからです、一寸坐れば一寸の仏という、お寺に生まれりゃ説教じゃないんですよ、まずもってぶち抜いてからです。葛藤是れ好日あって、さながらに人生です。どこへ行き倒れかわからん托鉢行脚ですよ。
頌に云く、一道の神光、初めより覆蔵せず。見縁を超ゆるや是にして是なし、情量を出ずるや当たって当たることなし。巌華の粉たるや蜂房蜜を成し、野草の慈たるや麝臍香を作す。随類三尺一丈六、明明として触処露堂堂。
一道の神光、だれあってそうですねえ、神光慧可大師以下まったく変わらぬ一道です、人間斟酌の預かり知らぬ神光です、初めより露堂々です。露柱丸柱がいいですな、まさにかくの如くにあるんです、見るという目がない、見縁という観念妄想を離れるんです、無眼耳鼻舌身意は、これ就中うまく行かんですよ、どうしても見る自分と見られるものという、架空から離れられんです。あるがようではない、情状で見てしまう。どうにかしようとしている間は駄目です、あるときそいつが失せている、露柱が手に入るんです、すると天地有情悉皆成仏、匂いといい声といい万物いっせいに蘇るんです。信不信の域を超えるんですよ。仏も神も一切預かり知らぬところで
す、しかもこのようにありこのように生まれている、なんたる幸せ200%かくの如くです。はいこれを如来、来たる如しといいます。だれあって如来です、ちらともこれを見ずに死ぬ、なんという情けないことですか。
随類三尺一丈六とは、便利を云えば千万異化身釈迦牟尼仏ですか、あるときは一茎草あるときは丈六の金身、南山に雲を起こし、北山に雨降らせ、坐りながらどこへも赴くってことあるでしょう、あるいはトンボになったり、酒飲んでるやつの徳利になったり、わずかにこれ露柱。
第三十二則 仰山心境
衆に示して云く、海は龍の世界たり、隠顯優游、天は是れ鶴の家郷、飛鳴自在。甚んとしてか困魚は櫟に止まり、鈍鳥は盧に棲む。還って利害を計る処ありや。
挙す、仰山僧に問ふ、甚れの処の人ぞ。僧云く、幽州人。山云く、汝彼の中を思ふや。僧云く、常に思ふ。山云く、能思は是れ心、所思は是れ境。彼の中には山河大地楼台殿閣人畜等の物あり、思底の心を反思せよ。還って許多般ありや。僧云く、某甲這裏に到って総に有ることを見ず。山云く、信位は即ち是、人位は未だ是ならず。僧云く、和尚別に指示すること莫しやまた否や。山云く、別に有り別に無しというは即ち中らず、汝が見処に拠らば只一玄を得たり、得坐披衣向後自ずから見よ。
水たまりの雑魚やってないで、龍と化して自在に大海を泳げ、蘆中の鈍鳥してないで、鶴になって天を家郷とせよという、困魚は小魚、櫟は木でなくさんずいで水たまり。これ言句上、あるいは仏教思想という二次元平面です。実際ではない。どうしても漆桶底を打破してこれを得にゃ役立たんです。そこをまずもって見て下さい。
かえって利害を計るところたりや、まさにこれです、どうしようもこうしようもなくているんです。弟子が本山へ行くその日、父親がなくなって急遽実家へ帰った、わしに葬式してくれという、行くと、父親は安楽に死にあれこれ幸せであったという、ばかったれ、そいつは沙婆の人間のいうこった、なんぼ坐っても悟りの悪いやつ。
仰山きょうさん慧寂禅師、い山霊祐の嗣、僧に問う、どこの人かと聞く、僧は幽州人ですと云う。汝彼の地を思うか、常に思う、このばかったれとわしはやっちまう、出家して何が故郷だ、たといどこほっつき歩こうが、到るところ即ちこれ、即ち得坐披衣向後自ら看よ、坐ったり衣を着てものをなす、他にはなんにもない、親しく万万歳を知る。それが仰山慧寂禅師ともなると、これが親切、彼中山あり河あり楼閣ありするだろうが、よく思うはこれ心、かれこれ思い浮かべるは境、その思う我を省みよという、思うというは如何と問う。あれこれあるもんじゃない、いいかと云うんです。僧云く、いえ、そのとおりだと思います、たしかに他にはないんですと云う。そいつは信位、あるべきことは知っている、だが仁位、おのれのものになってはいない。僧云く、和尚他に指示すること莫しやまた否や。別にあるなしのこっちゃない、汝が見処只一玄を得たり、かくあるべしと知って、ちらとも悟るんです、たしかに雑魚とは違う、存分の力量なんでしょう、でもどっかつながっている、生活になってないんです、彼岸を見ながら此岸にいる、一喝するに得坐披衣向後自ずからです。
頌に云く、外るること無うして容れ、礙ゆること無うして沖る。門牆岸岸、関鎖重重、酒常に酣なはにして客を伏せしめ、飯飽くと雖も農を頽す。虚空に突出して、風妙翅を搏たしめ、滄海を踏翻して、雷游龍を送る。
法華経にあるという、親友の家に行き酒に酔うて伏す、親友官事に赴くにあたって宝珠をその衣に繋ぐ、酔い伏してかえって覚えぬ如くと、思想の酒に酔うという、世間では哲学宗教理想主義という、かえってその中に宝珠のあるのさへ気がつかぬのです、門牆しょうは垣根ですか、岸岸がんがんと読むとぴったり、関鎖重重です、一個人とはまさにこれ、おのれなにものであるかという、皮袋厳重にして、はっは糞袋てなもんで、食い飽きて農をたおす、頽は頁ではなくて貴です、頭の禿げたるさまですとさ、人の一生はかくの如し。いや人類史もさ。ではこれをぶち破って下さい。
自分という内も外もないんです、自縄自縛のがんがんじゅうじゅうを解いて下さい、礙ゆることのうして沖る、玉露宙に浮かぶんです、そうしてもって風力の所転ですか、金翅鳥は翼を開けば三十六万里という、龍を食う鳳凰ですか、いやいかん龍も出て来る、とにかく鳳凰と龍で決まり、たしかに自分に首を突っ込んで、ついには練炭火鉢じゃあんまり情けないです、色即是空却り見るに我なし、虚空に突出して、本来人の自由を味わって下さい。
第三十三則 三聖金鱗
衆に示して云く、強に逢ふては即ち弱、柔に遇ふては即ち剛。両硬相撃てば必ず一傷有り。且らく道へ如何が廻互いし去らん。
挙す、三聖雪峰に問ふ、網を透る金鱗、未審し、何を以ってか食と為す。峰云く、汝が網を出来たらんことを待って汝に向かって道はん。聖云く、一千五百人の善知識話頭も也た識らず。峰云く、老僧住持事繁し。
雪峰義存禅師、青原下五世徳山宣鑑の嗣、三聖慧然禅師は臨済の嗣です、強に逢うては弱、柔に遇うては剛という、世の常のありよう、女と百姓は同じという長いものには巻かれろ式じゃない、卑怯護身でなく、両硬あいうてば一傷ありを知る、これ就中うまく行かんですよ、かーつというとかーつやる、がんがんと打つとがんと鳴る鐘の如く。三聖問うて云く、網を透る金鱗、これは成句になっていて、迷悟凡聖の羅網すなわち、師家のかける網ですか、いいや自分で勝手にかけているんですか、これを透らにゃそりゃ問題にならんです、迷悟中の人という、凡人ありゃ聖人ありです、そいつを抜け出た金鱗大魚はいったい何を食っているんだという、どうだ云ってみろってわけです、なんにも食っておらんと云えば、そりゃ死んじまうってわけの、尽大千口中にありといえば、このばかったれとも、でもまたこれも常套手段ですか、わしも雪峰に同じい、汝が網を出で来たるを待って汝に云をうという。わかっていることをなんで聞くんだ、わからんことをなんで聞くんだ、迷悟凡聖時と今と雲泥の相違か、廻互まったく同じか、さあ道へと、一千五百人の学人雲衲を抱えた大善知識ともあろうものが、なんだ話頭も知らず、云うことも知らんじゃないか。これに対して老僧住持こと繁し、忙しくってなという、蛇足ながらアッハッハ老僧っての利いてます。
頌に云く、浪級初めて昇る時雲雷相送る。騰躍稜稜として大用を見る。尾を焼いて分明に禹門を度る。華鱗未だ肯て韲甕に淹されず、老成の人、衆を驚かさず。大敵に臨むに慣れて初めより恐るることなし。泛泛として端に五両の軽きが如く、堆堆として何ぞ啻千鈞の重きのみならんや。高名四海復た誰か同じぅせん、介り立って八風吹けども動ぜず。
浪級は中国ほう(糸に峰のつくり)州龍門山にある放水路、その水が三段になったところを云う。焼尾は、鯉が浪級を登って龍と化すとき、雷鳴ってその尾を焼く、登竜門科挙の試験を及第して必ず歓宴を延ぶ、これを焼尾宴という。登竜門は日本に今でも使うんですが、ぶち抜いて仏となるたとえ、古くからに用いる、妄想迷悟中の鯉では、そりゃ問題にならない、騰躍おどり出て稜稜として、卒業しつくすさまですか、実感として味わって下さい、大用現前です。華鱗、鯉の鱗は食用になるが、龍の鱗はいまだかって韲甕鮨の器だそうです、鮨にゃならんよってわけです。老成の人は雪峰、大敵に臨むは三聖ですか、なにせいおどり出なきゃ問題にならん、この則どうなんですか、まだ尻尾焼かれってとこですか、アッハッハことはそんなこっちゃないよ、もとかくのごとく、泛泛として羽毛の軽き、堆堆として山の如くある、これ日常茶飯、意を起こし、くちばしを突っ込む七面六臂じゃないんです、われこそはいの一番という無意味、老僧事繁し、介護いらんっていうんですよ、介立独立に同じ、八風吹けども動ぜず、まさにこれ一箇のありようです、仏という何かあれば、虎の威を仮る狐です、よくせき看て取って下さい。
第三十四則 風穴一塵
衆に示して云く、赤手空拳にして千変万化す、是れ無を将って有と作すと雖も、奈何せん仮を弄して真に像ることを。且らく道へ還って基本有りや無しや。
挙す、風穴垂語して云く、若し一塵を立すれば家国興盛す。一塵を立せざれば家国喪亡す。雪竇柱杖を拈じて云く、還って同死同生底の衲僧有りや。
風穴延沼禅師、南院の宝応慧順に継ぐ、臨済下四世、雪竇重顯禅師は青原下九世知門光さの嗣、赤手空拳にして千変万化す、千万異化身釈迦牟尼仏、なんにもないからなんにでもなれる、そりゃまったく物の道理で、ちらともあれば、それによって制限されるんです、いえちらともあれば、既に自由が利かないんです。参禅とは正にこの間の問題ですか、たんびにがらっと変り、ついにはまったく起こらず、しかもどういうものか、一塵立って家国興隆し、一塵立たずは家国衰亡す。たしかに平らかに他なしですが、どこまで行ってもということあります。雪竇柱杖を拈じて、かえって同死同生底の衲僧ありやという、どうですか、あい呼応しておもしろいでしょう。
作者はという、まったく無から生ずる興亡戦、人類史も地球宇宙もないんです、一箇自足する凄ましさ。アッハッハ毎日命がけですか。あるときは降ってくる雪にしてやられ、あるときはびいと鳴く鳥にもって行かれ、天空を樹立しあるいは春風を吹き起こす。かつてあったものなんぞないです、たとい世間繰り返しだろうが、生まれてはじめてのたった今、どかんと真っ二つくわーっと甦ったり。そうねえこれ自殺志願者とか、世の絶望とか、なにしろ日本は滅びの道ですか、もう滅んでしまっているんですか、そういうときに、実にこの則はいいです。転んでもただでは起きないどころか、たといどうなったろうがほうら元の木阿弥、無に帰すること正にこれ、たとい百万も他に云うこたないんです。
基本なしといえば是、基本ありといえば不是、なしといえば不是、ありといえば是。
頌に云はく、ほ(白に番)然として渭水に垂綸より起つ、首陽清餓の人に何似ぞ。只一塵い在って変態を分つ、高名勲業両つながら泯じ難し。
ほ然は白髪の形容、太公望が釣り糸を垂れていて、西伯に起用されて周の国を興した、首陽清餓は、伯夷叔斎が周の栗を食わずに首陽山に餓死した、一塵立って興隆し、一塵立たず衰亡するを頌す、ともに大事件ですか。一塵あって変態を分かつ、これがありよう日常茶飯も、普通の人にはちょっと及びもつかぬ、逐一にこれ100%は同死同生底、でもこれでなくば、さっぱりおもしろうもないんです。泯は水のおもかげ、ほろぶ、高名は太公望ですか、勲業は餓死したほうですか、いやさそんなこた一瞬忘れちまうです。100%し尽くしたことはあとに残らない、太公望も伯夷叔斉も10%も現れはせんというのです。高名なり勲章なり、ゆえにもってこの世に
残る、歴史とはまさにかくの如くのがらくた。泯じ難し、残りあるものろくなものなし。歴史に学べなんて、百害あって一利なし、まそういうこってす。
第三十五則 洛浦伏膺
衆に示して云く、迅機捷弁外道天魔を折衝し、逸格超宗曲げて上根利智の為にす。
忽ち箇の一棒に打てども頭を廻らだざる底の漢に遇ふ時如何。
挙す、洛浦夾山に参ず、礼拝せずして面に当って立つ。山云く、鶏鳳巣に棲む、其の同類に非ず出で去れ。浦云く、遠きより風に趨る、乞ふ師一接。山云く、目前に闍梨無く此間に老僧無し。浦便ち喝す。山云く、住みね住みね且らく草草怱怱たること莫れ。雲月是れ同じく溪山各異なり、天下人の舌頭を裁断することは即ち無きにあらず、争か無舌人をして解語せしめん。浦無語。山便ち打つ。浦此より伏膺す。
洛浦山元安禅師、夾山善会の嗣、かっさんと読む薬山下二世、礼拝して聞法のありようは接心の独参、小参など今にそっくり残るんですが、形式あっておよそ仏法のぶの字もないのは、うるさったいだけでマンガにもならんですか、世間一般も形式だけの、精進料理に史跡廻りなど、だれも真面目に考えぬのは、応えられる僧がいないのと、真面目真っ正面に問うことを忘れた日本人ですか、人間の面していないのばっかりじゃ、そりゃこっちもという理屈で、もって騒々しいかぎりは、犬や猫に入れ揚げるしかない、なんといういじましさ。
外道とは仏教以外を云うんですが、そりゃ仏教の独善かというと、他の一神教と同断じゃないです、仏教以外は外道なんです。本来本当じゃない、人をたぶらかし迷わせるんです。禅天魔といったのは日蓮ですか、おもしろいんですよ、だれも自分ありゃ自分のことしか云えない、他を誹謗する=自分を誹謗です。たとい仏祖の道であっても、ちらとも自分あれば、たしかに外道天魔、云うことは同じあるいな本来本当の人より、弁舌達者喝すれば古今未曾有の風景です、こいつを蚊食うほどもなく、夾山の如きは、住、やめねやみね、止せ止せっていうんです、しばらく草草怱怱たることなかれ、実にこれです、天下人の舌頭を切断することはなきにしもあらず、
そりゃ云うことは云いうる、これね、礼拝して問うところを、突っ立つ、一目瞭然というより、弱ったねこの人という、なんとかしてやろうと思う、そいつがなかなか、なんせ自信満々、云うことは心得ている、ところが常識なし、ものをぴったりということができない。「だからおれはいいんだ」というしかない、エガちゃんという人がこうだったし、トウテツさんという人が、なんにもないを「なんにもしない」と履き違える。自覚を待つ以外にないんですが、自覚のチャンスは目の当たりチャンスならざるはなしなんですが、就中夾山のようには行かない、月は同じぞ山あいへなれという
歌の文句も、無舌人の解語も、ついに伏膺、身に体して忘れえぬという、急転直下させるには、ちらとも自分あっちゃそりゃだめです。
頌に云く、頭を揺かし尾をふるう赤梢の鱗、徹底無依転身を解す、舌頭を裁断して饒ひ術有るも、鼻孔を曳廻して妙に神に通ぜしむ。夜明簾外風月昼の如し、枯木巌前花卉常に春なり。無舌人無舌人、正令全提一句親し。寰中に独歩して明了了。任従天下楽しんで欣欣ることを。
赤梢の鱗しっぽの赤い鯉ですってさ、洛浦騒々しく一物不将来の時如何です、ないと云いながらあるぞ、あるぞやるんです、どうしてもこういうことあって、ついに転身の時を迎える。劇的といえばまさにこの則、いえあるいはたいていの則これです。
なんていうおれはと通身もってす、坐布を抛って三尺穴を穿つ。いえ我が物底無しですか。ようやく仏教の緒に就くんです。自ずからに知る以外にないですが、なんのかんの云ってるやつを、妙をもって、神をもって接するただの人、無舌人ですか山水長口舌、絶学無為の閑道人です。大ひまの開いた人が欲しいんです。楽しんで坐りなさいと老師はいった、そりゃまっぱじめからそういうわけですが、本来ほんとうの楽しさをを、何十年ようやくこれが緒に就くということあります。夜明簾外風月昼の如く、枯木巌前花卉常に春、卉は草に同じ、春風駘蕩も妄想迷いの延長じゃ、そりゃさっぱりおもしろくもない、いったん切って楽しいんです。いったん切る、自分
を観察しない、即ち正令全提です、いいですか、一生正令全提一句親しですよ、間違っちゃいかんです、沙婆流には推し量れんです、寰中は天子の幾内、直轄の地を云う、外れることないんです、大手を振って歩いて下さい、明了了、任せ従い天下欣欣アッハッハまさにかくの如く、ちっと頌が長いですが、文句云わんとこ。
第三十六則 馬師不安
衆に示して云く、心意識を離れて参ずるも這箇の在るあり、凡聖の路を出でて学するも已に太高生。紅炉併出す鉄しつり、舌剣唇槍口を下し難し。鋒鋩を犯さず試みに乞ふ、挙す看よ。
挙す、馬大師不安、院主問ふ、和尚近日尊位如何。大師云く、日面仏月面仏。
馬大師、馬祖道一禅師は南嶽懐譲の嗣、容貌奇異にして牛行虎視舌を引いて鼻を過ぐとある、人気があった。すでに天寿を悟って病の床に伏す。院主お寺の事務を司る役目ですか、不安、四大不安病のことです、近日ちかごろどうですかとお見舞いです。馬大師云く、日面仏月面仏。馬大師は仏祖の最大級ですか、わしがこんなこというと顰蹙ですが、ばあさんがナムと名付けたどえらい猫がいた。半分山猫でうさぎややまどりなど取って食っていたが、甘えん坊のくせに山門を出ると知らん顔する、四キロ四方の雌猫を孕ませた。死ぬ三日前にわしがもとへ来て、水を含ませると飲み、それも取らなくなって終わる。荘厳であった。仏になっている、日面仏月面仏というと、申し訳ないこってすが、ナムの目を思い出す。
空華なし第二月なし、生縁既に尽きてというんですが、もとわれらは浮き世南閻浮提に四大もてこうある、本当は如来とてきわなく時空を超えるんです、自覚乃至無自覚とはこれ、元に帰るんです。きれいさっぱり化縁すでに尽きるんです。それゆえに、心意識をはなれて参ずるも這箇ありと、凡聖の路を学するも太高生高尚なこったと、振り返り見るんです、アッハッハがんばって下さいってね。てつしりとは実に三角のとげのあるハマビシ人を刺す、鉄で作り紅炉に焼いて用いる武器、手も足も出ないってことです。
此岸のあくせくですか、だれか仏教などやるより自殺すりゃいいといった、今の人の考えそうなこったが、あほらしいってより、たとい大死一番大活現成も、生きた人間のするこってす、生死を明きらむるは200%生きです。自殺したら生まれ変わってまた選仏場です。どうもならんこと云ってないで、剣槍鋒鋩ひとしきり、なにをこれ200%とやって初めて得べし。でなくば沙婆というビールの泡。
頌に云く、日面月面、星流れ電巻く。鏡は像に対して私無し、珠は盤に在りて自ら転ず。君見ずや 鎚の前百練の金。刀尺の下一機の絹。
日面月面と云って、電光石火星流れ電巻くだけ余計のようなんですが、どの道人間には届かぬスピードです、感知できない。宝鏡三味とあるように、悟ったという人間本来のありようです。身心まったく失せてものみなです。すると像に対して私なし、形影あい見るんです。汝これかれに非ず。どうしてもこうならんきゃそりゃ仏教とは云われんです、坊主の説教、呆れてだれもまともに扱わんですか、学者にしろ世間一般にしろ、自分という迷悟中をもって迷悟中をさらけ出すだけで、たといなんにもならんです。光前絶後の事、玉露宙に浮く、ものみな尽くし切ってののちです、玉は盤上自ずから転ず、自分というなにかしら影のあるうちは駄目です。でんは金に占
でかなばさみ、てんかん押さえる方で、鎚は打つ方です、百戦錬磨の馬大師ですか。
すなわちそいつの彼岸です。刀一尺の下一機の絹という、もとなんにもないんです、大衆一万五千もふっ消えて清風。
第三十七則 い山業識
衆に示して云く、耕夫の牛を駆って鼻孔を曳廻し、飢人の食を奪って咽喉を把定す。還って毒手を下し得る者ありや。
挙す、い(さんずいに為)山仰山に問ふ、忽ち人有りて、一切衆生但だ業識茫茫として本の拠るべき無きありやと問はば、作麼生か験みん。仰云く、若し僧の来たることあらば即ち召して云はん、某甲と。僧首を廻らさば乃ち云はん、是れ甚麼ぞと。
彼が擬議せんを待って向かって云はん、唯業識茫茫たるのみに非ず亦乃ち本の拠るべきなしと。い云く善い哉。
い山霊祐禅師は百丈懐海の嗣、仰山慧寂禅師はその嗣、い仰要路というものあり、まことにこの則も善き哉で、寒山拾得のつうかあですか、他なくにこうあるところ見事です。即ちい山不要の衆に示して云くです。耕夫の牛を駆って、鼻かんに綱つけて引っ張り回す、でないと手におえんらしいです、業識茫茫のとらわれ人間、無明煩悩どうしようもないんです、それがしと云って操縦するんですか、首を廻らせば是れなんぞ。アッハッハ今様人間の心理分析だの、めったくさとまるっきり違うんです、本当に効く薬はどうありゃいいんです。彼が擬議する、はてええとおれはやるんです、応えがない、応えようのない、飢人の食を奪って咽喉を押さえこんじまう、死ぬよりないっていう猛毒薬、ころあいはよしってんで、さよう業識茫茫たるのみに非ず、本のよるべきなし、根拠なし、まったくに奪う、いえ救い得るんですよ。如何なるか仏法の真髄、真髄でなくって皮袋だろうという。
富士テレビとライブドアの一騎討ちですか、他山の石ですが、みにくいったらじじいども、嘘と裏腹ですか、いきなり屋の若い方がよほどすっきりする。たしかにテレビは面白くない、マスメディアという早晩滅びるんですか、云はば拠って立つところがない、視聴率に溺れて茫茫ですか、それじゃINはどうかというと、面のないなんでもありあり、未だ水準下。どうしたもんだといって弟子らが論ずる、あんなものは結局駄目か。人格なけりゃなんにもならんのは、人間社会です。いえ人間たといなにしようが人格です、必ずしっぺ返しを食うよりない。犯罪という糠に釘です、旧陋裁判の反省会じゃおっつかんです、司法は心に関わらぬと知ればいい。目には目をですか。
業識茫茫もそれがしと、その意識なけりゃ首も廻らさず、擬議もなしはアッハッハ世も末、いや末法じゃという、おもしろうもないんですよ、末法だろうが一回きりの人生です、ついには本よるべきなしを知って、清々露堂堂です。
頌に云く、一たび喚べば頭を廻らす我を知るや否や、依きとして蘿月又鈎となる。千金の子纔かに流落して、漠漠たる窮途に許の愁いあり。
一たび喚べば、おいと呼びなにがしと呼ぶ、頭を廻らすんですが、その我を知るやというんです、朕に対するは誰そ、磨云く不識。あなたはだあれと花に問う、花は知らないと応えるんです。人間だけが知っている、そうです知っている分がみな嘘です。醜く騒々しいんです。平和といっては戦争です、信仰といい思想といいろくでもないんです。でもこれ自分の辺に具現せねばしょうがないです、他山の石じゃないんですよ。依きのきはにんべんに希どうもよくわからんです。生まれついてより従いつく他ない生活ですか、反抗といい革命といったって首繋がっている、免れえないんです。満月たる自分が、オッホッホ自分という蘿つたかずらを通して、欠けて鈎となる鎌の月ですよ。あるいはそんじゃあといって釣針になるんですか。
法華経にある長者窮子のたとえのように、長者として生まれて流落するんです。坐りなさい、なんでもありありでたらめめっちゃくちゃでいいですという、あなたの100%いえ200%マルですという。それがなかなかそうはならん、おれはだめだかすだやっているにつけ、坐禅はこうあるべき、仏教を見習えだからどうのです。
これを貧乏人困窮の子です。漠漠たるという、そうですよもとっから自分なんかないんです、自分なけりゃ満月という、実も蓋もない、おれの外は空虚、ばくばくたる云ってないで、ぽかっと捨てるんです、拠りどころがない、自分という根拠なし身心なし、空虚になったら空虚なし、単純な数学ですかわっはっは。
第三十八則 臨済真人
衆に示して云く、賊を以て子と為し、奴を認めて郎と作す。破木杓は豈に是れ先祖の髑髏ならんや。驢鞍驕は又阿爺の下頷に非ず。土を裂き茅を分つ時如何が主を弁ぜん。
挙す臨済衆に示して云く、一無位の真人有り、常に汝等が面門に向かって出入す、初心未証拠の者は看よ看よ。時に僧有りて問ふ、如何なるか是れ無位の真人。済禅牀を下って檎住す。這の僧擬議す。済托開して云く、無位の真人甚んの乾屎ぞ。
無位の真人面門に現ず、知慧愚痴般若に通ずという、すると一僧出でて、無位の真人何れに在りやと問う、その胸倉つかんでこらってんです、檎はてへんです、きん住生け捕りです、まごまごしてるやつを突き放して、無位の真人是れなんのかんしけつ、くそかきべらというのと、でかかった糞が出切らずに乾いて固まったというのとあるんですが、どちらもぴったり。人間思想分別、未消化うんち他人の食いかすをです、ひりだしたのを引っ掻き回すんですか、出切らずに固まったやつくっつけて歩いているんですか。正法眼蔵だなと本を書いてとやこう、どっ汚く醜いのは、まさにこれ乾屎厥、臭いしまあなんとかして下さいよって思うです。身心脱落、自分というどうもならんの、賊を子となし奴隷を主人となしですか、こいつを正に免れるよりないんです、ぶっこわれひしゃくを以て祖先のどくろとなす、アッハッハ云いえて妙です、どっちも役立たずを後生大事する、世間一般これ、驢あんきょうろばの鞍、いっぱしの男が股がるにはです、そこらじっさのしゃべり中気の顎ですか、まあいいとこです。土を裂き茅を分かつは封土を安堵するたとえのようです、無位の真人たるを知る、もとっこ無舌人の弁、臨済一掌を与える、ぶんなぐるかつきっころばす、托開です、この僧うわってなもんで呆然、するとわきにいたのが、裾引っ張って、なんで礼拝せざる、お拝せんかという、僧拝する途中ではあっと気がつくんです、無位の真人面門に現ずる、かんしけつ雲散霧消です。もとっからそうです、取り付く島もないんです。
頌に云く、迷悟相ひ反し、妙に伝えて簡なり。春百花を拆かしめて一吹し、力九牛を廻らして一挽す。奈かんともするなし泥沙撥らへども開けざることを、分明に塞断す甘泉の眼、忽然として突出せば、ほしいままに横流せん。師復た云く、険。
迷いあれば悟りありです、あい反するところを一掃するにはどうしたらよいか、迷悟。念起念滅のまんまに面門に現ずるんです、無位の真人という、おれがというなにがしかを去って下さい、去るほどに全体なんです、アッハッハどこまで行ってもそれだけ、これを妙に伝えて簡なりです。大死一番でしょう、自分という取り柄がなんにもなくなるんです、死ぬとは正に死ぬ、すると百花花開いて春を現ずるんです、拆は土へんでたくと読む、ひらくの意です。これどんともう一発驚天動地という、どえらいこったには違いぬが、しみじみといったら情堕ですが、なんという淡いというか、しかも歓喜これに過ぎたるはなし。おれにはまだそんなものない、だからといって別もの求めないで下さい、死ぬはずが生きようとする、とやこうのそのおのれを托開、突き放すんです。向こうからやって来るんです、向こうにある。力九牛を廻らして一挽する、迷悟そのまんま一掌ですよ。だからおれはしないんです、かんしけつのまんま、分明に塞断する蛇口です、忽然突出よりないんです、なにしろここに気がつくことです。臨済棒喝もなーるほどってわけです、趙州説得は能書きじゃないんです、いってみりゃどんでん返しですか、転法輪、だからどうの世間一般じゃらちあかん、険。
第三十九則 趙州洗鉢
衆に示して云く、飯来たれば口を張り、睡来たれば眼を合す。面を洗ふ処に鼻孔を拾得し、鞋をとる時脚跟に模著す。那時話頭を磋却せば、火を把って夜深けて別に覓めよ。如何が相応し去ることを得ん。
挙す、僧趙州に問ふ、学人作入叢林乞ふ師指示せよ。州云く、喫粥し了るや未だしや。僧云く、喫し了る。州云く、鉢盂を洗ひ去れ。
趙州喫茶去と同じく知れわたって、飯食ったか、なら茶碗洗っておけという、右禅問答代表といったふうです。でもこれ本当に知る人皆無といっていいんでしょう。たいてい茶碗洗ったって、なんの足しにもならんです。
九このまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば良寛辞世の歌といわれるこれ、君なくばちたびももたびつけりとも十ずつ十を百と知らじおやとつけて、はじめてそのなんたるかを、わずかにかいま見るんです。まり一つつけないんですよ、いいかげんであり、ことをなすにお留守、すなわちなってないんです。
趙州無字と同じく、むうとなりおわる、どうしてなかなか一苦労です。わしんとこは鶯のホーホケキョ蛙のげこでもいい、鳴いてみろ鳴けたら卒業という、就中できないです、それじゃ地球のお仲間入りできないよって、地球の困ったさん人間です。
作入叢林修行道場僧堂そうりんに入るんです、学人修行僧のわたしに乞う師指示、しいじと読みます、わしも老師にどうしたらいいと聞いた。「ただ。」というんです。まるっきりただと。由来今日にいたるアッハッハ万年落第生ですか。ただの垂語、飯には口を張り、睡眠には目を合わせですか、なんせいつだって大仰なんだから、面洗うとき鼻孔を拾得しが面白いです、わらじには脚跟下模著、もしそれをもって本来人、仏教にならんというんです、一句を用いえんようじゃ、飯食っても美食飽人底、あいまいな面して蘊蓄の、うす汚いのそりゃ五万といますな、今の人ほんとうに味わいうる不可、ソムリエよりゃ赤ん坊の方がたしかですか。すなわち徳山手燭吹滅を味わって下さいというんです。ふわっとごったくさてめえを吹き消しゃいいんです。
頌に云く、粥罷は鉢盂を洗はしむ、豁然として心地自ずから相ひ符す。而今参じ飽く叢林の客、且らく道へ其の間に悟有りや無しや。
粥罷おかゆの終わったあと、しゅくは、今も叢林僧堂で使っています。一生不離叢林はわしらが基本です、他になんの生活もないんです。文人墨客の一人暮らしなんてものないんですし、隠居隠遁なおさらないです。良寛さんの対大古法、つまり先輩古参は子供たちだった。こんなすざまじい叢林はないです、わしなんぞにはとってもできない。アッハッハまったくなにするかわからん子供です、とうとう一生をともに過ごす。鉢の子洗っておけという、一般のまったくうけがい知らざるところです。
参じ飽いてとはふしだら放逸の反対です。大趙州われより勝れる者は三歳童子もこれを師と仰ぎ、われより劣れる者は百歳老翁もこれに教示しという、六十歳再行脚、かくあってしてはじめて喫茶去です。只管打坐、ただという他にはないんです。鉢盂を洗い去れ、豁然心地の、そうです跡形もなくあい符すんです、この間悟りありやなしや、はいよろしくよく参じて下さい。
第四十則 雲門白黒
衆に示して云く、機輪転ずる処智眼猶ほ迷ふ、宝鑑開く時繊塵度らず。拳を開いて地に落ちず、物に応じて善く時を知る、両刃相ひ逢ふ時如何が廻互せん。
挙す、雲門乾峰に問ふ、師の応話を請ふ。峰云く、老僧に到るや也た未だしや。
門云く、恁麼ならば即ち某甲遅きに在りや。峰云く、恁麼那恁麼那。門云く、将に謂へり侯白と、更に侯黒有り。
こりゃ公案の中でももっとも噛み難く飲み下し難しっていうんでしょう、雲門文偃禅師は青原下六世雪峰義存の嗣、沙婆流にいうならこれまた不出世の大家です、越州乾峰禅師は洞山良价の嗣、上堂に云く、法身に三種の病二種の光あり、須べからく是れ一一に透過して始めて得べし、須べからく知るべし、更に照用同時向上の一竅あることを。雲門衆を出でて云く、庵内の人甚麼としてか、庵外の事を見ざる。師呵呵大笑す。門云く、猶ほ是れ学人の疑処。師云く、子是れ甚麼の心行ぞ。門云く、也た和尚相任せんことを要す。師云く、直に須べからく与麼に始めて解して穏坐すべし。門応諾す。すなわちこれあってののちの経緯でしょう、三種の病二種の光はどうぞ適当にお考え下さい、思い当たるというのは坐っていてです、通身思い当たって次にはないんです、次いで通身失せるんです。庵内の人なんとしてか庵外を見ざる。どうですかこれ、大問題たらざるを得ない、自分というどう逆立ちしたってその中の問題です、実に仏教はその外にある。漆桶底を打破して、坐が坐になりおわるふうで坐っていて、さらにこれです。ちらとも自負するあれば庵内です。学者禅師どもきらきらしい禅境という、そんなものないです、ただの日送りです、一般の見る風景しかない。
そいつにむかって捨身施虎です。なんというつまらん四苦八苦の末にという、しゃあないどうもならんわと捨てる、ほんとうに他なし、浮き世もなんも200%自足するんですよ。呵呵大笑を強いて云えば内外なしですか。これなんの心行ぞ、もう一発ぶんなぐる、吹っ飛んで行けばよし、直きにすべからく「始めて解して」穏坐すべしです。さあでもって本則です。師の答話を請ふと云う、どうか云って下さいという、さすがにひっかからんですか。老僧に到るやいまだしや、これ思想分別上のこっちゃない、どうだおれっくらいになったかは世間一般、そうではない、おれに会ったらおれになっているんだろう、他なんかあるかって云ってるんです。宝鑑宝鏡三味です、形影あい見るがごとく、向こうがこっち、汝これかれに非ずです。恁麼ならば云々、はてわしは遅きに失したか、アッハッハ問うだけ野暮ってね、恁麼那恁麼那そうかそうかってんです。ちえ白だと思ったら黒だってさ、侯白という男すりが、地下鉄サムですか、これも名人が、侯黒という女すりにしてやられる故事です、どうもこうもならんわってこれ、アッハッハ人と人が親しく付き合う常道です。
頌に云く、弦筈相ひ銜み、網珠相対す。百中を発って箭箭虚しからず。衆景を摂っして光光礙ゆるなし。言句の総持を得、遊戯の三味に住す。其の間に妙なるや宛転偏円、必ず是くの如くなるや縦横自在。
網珠というのは一の明珠内に万象倶に現ずという、ほか複雑怪奇な説なんですが単純にこれ帝釈天の網珠、天網快快粗にして漏らさずなどいう、講談師の語もこれによる。弓の弦と矢筈が銜はくつわ、ぎょうにんべんに卸とあって同じです、あいはむんです。明珠と明珠が相対すんですな、するとなにをどうしようが、当たらずということなし。一般ぼんくらと同じにして光通達です、銀椀に雪を盛りです、おりゃそうでなけりゃ意味ないです。われらが箇のありよう、まったく他なし。言句の総持を得る、語未だ正しからざるが故に、重離六交遍正回互と算木六十通り分いっぺんに見える、もと人間のやることなんぞ決まってるんです、場合の数があるだけそっくりです。ゆえに遊戯三味、だれがなにしてどうだって云われると、へえっていってだまされているっきり、嘘いおうがなに云おうがよしよしの老師は、すなわち相手が転ぶ、申し訳なかったなといったってよしよし。これなんぞ、妙なるかなは坐って下さい、坐にまさるものなし、たといどんなものにも代え難いんです、宛転偏円世の常もって縦横無尽。
第四十一則 洛浦臨終
衆に示して云く、有時は忠誠己れを叩いて苦屈申べ難く、有時は殃及んで人に向かって承当不下なり。行に臨んで賤しく折倒し、末期最も慇懃。泪は痛腸より出ず、更に隠諱し難し、還って冷眼の者有りや。
挙す、洛浦臨終衆に示して云く、今一事有りって爾諸人に問ふ、這箇若し是と云はば即ち頭上に頭を安ず、若し不是ならば即ち頭を斬って活を覓む。時に首座云く、青山常に足を挙げて白日灯を挑げず。浦云く是れ甚麼の時節ぞ這箇の説話を作す。彦従上座有って出でて云く、此の二途を去って請ふ師問はざれ。浦云く、未在更に道へ。従云く、某甲道ひ尽くさず。浦云く、我爾が道ひ尽くすと道ひ尽くさざるに管せず。従云く、某甲侍者の和尚に祇対する無し。晩に至って従上座を喚ぶ、爾今日の祇対甚だ来由有り、合さに先師の道ふことを体得すべし、目前に法無く意目前に有り、他は是れ目前の法にあらず、耳目の到る所に非ずと、那句かこれ賓、那句かこれ主、若し揀得出せば鉢袋子を分付せん。従云く、不会。浦云く、爾会すべし。従云く、実に不会。浦喝して云く、苦なる哉苦なる哉。僧問ふ、和尚の尊意如何。浦云く、慈舟清波の上に棹ささず、劒峡徒らに木鵝を放つに労す。
洛浦元安禅師は夾山善会の嗣、せっかく臨終にのぞんでついに法嗣を得ずですか、そんなことはあるまいと思ったのに、千五百の雲衲、とりわけ首座あり従上座あり、忠誠おのれを叩いて苦屈述べ難くですか、殃病わざわいという、眉間に我あり、自分というそいつがひっかかっていると、承当不下手も足も出ないんです、わずかにおのれを囲う、まさにもうそれっきり。爾にんべんがついてましたが汝と同じです、一事を問ふ、まったくに一事の他なく。是と云はば頭上に頭を按じ、いいですかこれが仏教です、一般の思惟とちがうんです、できたといえば回答がある、できたというやつも回答も自分なんです。不是なれば頭を切って活と求む、不是というのはあるんです、あるから許せない、そいつをぶった切れってこと。元の木阿弥はぜんたい手つかず、おぎゃあと生まれたとき、風景だけがあった=自分だったです。取り戻すとなあるほどなあっていうより、当前です、他ありっこないんです。なにをとやこう云うことない。
首座云く、青山常に足をあげて白日灯をかかげず、青山お墓なんですが、云いえたりっていう絵に描いた餅です、浦云く、これなんの時節ぞ、住んでいない作り話をするなって云うんです。彦従上出て、この二途を去って請ふ師問はざれ、仏と仏を見る自分の二途です。どこまで行ってもこれを、そうですいっぺんに去る、問はざれという、どうです、問はざれとこうありますか。浦云く、ようもわからん更に道へという、それがし道ひ尽くさず、どんなに道をうが尽くし切れずという。阿呆め、わしはおまえの云い尽くす云い尽くさぬに管せず。いいですなあ、これに参じて下さい。それをまあ侍者だからもう云わんですといって引き下がる。常ならほっといて機会を待つんですが、今はそうはいっとられん。 晩に至って、先師夾山禅師の語を用ふ、目前に法なく意目前にあり、自分という皮袋破れてぜんたい我の、ぜんたいと我を引いて下さい、まさに目前法なく、意目前にありです、切々たるあり、那句かこれ賓那句かこれ主、従上座ついに不会、会すれば印下しようというのに。
苦なるかな、慈舟棹させども棹ささず、木鵝は浮木、杭州五雲和尚座禅箴にあり、流に剣閣に沿ふて木鵝に滞ることなし、仏を得る急流です、取り付く島もないのに取り付こうとする、浮木をやっている、そいつをまず粉砕する。行に臨んでかるがるしく折倒し、末期もっとも慇懃、わっはっはどうしようもないです、苦なるかな徒らに木鵝を放つ。
頌に云く、雲を餌とし月を鈎として清津に釣る。年老ひ心孤にして未だ鱗を得ず。一曲の離騒帰り去りて後、汨羅江上独醒の人。
詩人屈原、官を辞して離騒経を書いてのち、汨羅江に沈んで卒すという故事を踏まえて。孤独という世間一般、あるいは詩人のそれとは、たった一つ違いは、孤独を云々しない、一個即ち唯我独尊です。雲を餌にし月を鈎にして、そりゃ清津、仏教仏のみなと、彼岸に大魚を釣り上げるんですが、たとい心孤にして未だ一鱗を得ずとも、縦横無尽太平に遊戯するんです、年老いついに一箇も得ず、苦なるかな徒らに木鵝を放つ。そりゃまあそういうこってす。良寛さんに跡継ぎがあったか、地球宇宙みな跡継ぎ、焚くほどは風がもてくる落ち葉かなですか、裏を見せ表を見せて散る落ち葉ですか。わっはっはわしはもうちょっとがんばってみます、年老いてなんにも
ならずは、無老死亦無老死尽。
第四十二則 南陽浄瓶
衆に示して云く、鉢を洗ひ瓶を添ふ、尽く是れ法門仏事、柴を般ひ水を運ぶ、妙用の神通に非ざることなし。甚麼としてか放光動地を解せざる。
挙す、僧南陽の忠国師に問ふ、如何なるか是れ本身の盧舎那。国師云く、我が与めに浄瓶を過し来たれ。僧浄瓶を将って到る。国師云く、却って旧処に安ぜよ。僧復た問ふ、如何なるか是れ本身の盧舎那。国師云く、古仏過去すること久し。
南陽慧忠国師、六祖大鑑慧能の嗣、鉢は鉢の子鉄鉢応量器、お釈迦さんの頭蓋をかたどったと云われ、地に落とせば即刻下山と、飯を喫する器。浄瓶は水を容れる、インドのむかしからの持物であった、水の国日本には馴染まない。趙州鉢盂を洗い去れ、瓶に残月を汲んで帰れという、とくに喚起せずとも、ものみな、行ない起居すべてが仏教です、一一にこうあって他なし。外道のわからんのは、なにかしら別にあると思っている、共産党が、アッハッハまだ共産党ってのもアホらしいんですか、無だ、ないなんて云ってないで、もっと大切なものをという。大切なものほかになしを知る、これが大変なんですか、たとい学人もまたこれです。神様仏様形而上学、虎の威を仮る狐。よりよいこと、頼りがいっていうのは仏教にはないです。ただの現実です。実にこれを知る、また大変です。死んだら戒名はいらん、なんにもつけないでくれと共産党が云う、いいようで、そうではないんです、一神教のなれのはて、キムジョンルを生むしかない、浅薄の故にですが。
思想観念のかんしけつ、哀れ本来事を知らずに死ぬ、この僧五十歩百歩です。
如何なるか是れ、本身の盧舎那、毘盧舎那仏大仏さんですか、盧舎那遍一切処、光明遍照という、即ちその中にありながらこれを問う、忠国師知らしめる為に、浄瓶をもってこいと云った、もって来てまだ気づかない、ではもとの処へ返しておけという、ほかになんにもないことを知らん。無とはこれです、宇宙万物のよって立つところです。
花無心にしてという、思想分別の根拠じゃないです、主義という愚問ではなく、平和だ戦争という空騒ぎじゃないです。僧また問う本身の盧舎那如何、古仏過去すること久し、花も鳥も達磨さんもお釈迦さんも説くこと久しく、おまえの問ふに会って我もまたかくの如し。
頌に云く、鳥の空を行く、魚の水に在る、江湖相ひ忘れ、雲天に志を得たり。疑心一糸、対面千里、恩を知り恩を報ず、人間幾幾ぞ。
鳥の空を行く魚の水にあり江湖あい忘れと、ものみなまたかくの如し、これ一般の人自然に親しむ、酒はうまいというのと違うんです、魚行いて魚の如し水自ずから澄む、これを得るのに全生涯抛つんです、自分というちらともあれば疑心暗鬼です、対面千里自他の区別になってしまうです。無という即ち架空の我なしを知る、就中どこまで行ってもということあります。ほんとうになくなって坐って下さい、心意識のあるなしに関わらず、まさにもって他なし、筆舌に尽くせぬ正令全提、たとい百歳の中一瞬たりとも償って余りあるんです。恩を知り恩を報ずることは、せっかくこれを知る、正師に会へるは浜の真砂の一握にも及かぬという、大恩これを報ずるに、ま
たいくばくぞ。どうかこれを得て下さい。人類破れ惚けようが絶滅もこれあれば是。
第四十三則 羅山起滅
衆に示して云く、還丹の一粒鉄を点じて金と成し、至理の一言凡を転じて聖と成す。若し金鉄二なく凡聖本同じきことを知らば、果然として一点も用不著。
挙す、羅山巌頭に問ふ、起滅不停の時如何。頭咄して云く、是れ誰か起滅す。
羅山道閑禅師は巌頭全豁の嗣、巌頭は徳山宣鑑の嗣、還丹は神仙秘密の霊薬という、一粒用いて鉄を金に変え、至理の一言凡を聖にかえという、世の中一般の希求です。なぜにそうなるかというと、どっかに不満があるからです、不満なく遊び惚けている三つの子は、たいていそんなこと云わんです。不満のよって来る所を何かと問えば、たいていいろんなこと云います、でもそれ念起念滅する、それを観察するという、これがたった一事によるんです。まずもってこれを知って下さい、知ってもって念起念滅を観察しない工夫です。起滅のまんまにある、ぽっと出ぽっと消えるそのまんまなのに、どうして返り見る、うるさったいだけです。もとないものに煩わされる、これが大問題なんです。いえ人の問題他になし、歴史も宗教も哲学思想も、もとこれの問題なんです。よって還丹の霊薬なにをもってという、処方箋なんかない、まっすぐです。真正面に向き合うとない、だって心が心を観察すること不可能事です。巌頭云く、是れ誰か起滅す。わたくしごとでいえば、かつて摂心に妄想煩瑣に悩まされ、なんとかしようと思った、なんとかしようと思うほどにいよいよです、もう真っ黒になってやってたです、四日めであったか精魂尽き果てて、もうどうにでもなれといったとたん、ふわあっとなんにもなくなった。からんとしちまって脳死みたいです。なんのことはない起滅する念を観察しないだけです。無心心なしとはこれ、自然のありようなんです。念を念が見るというのが不自然なんです。よって悩み苦しむんです、アッハッハそれを妄想というんです。即ち歴史の始まりですか。
頌に云く、老葛藤を斫断し、狐か窟を打破す。豹は霧を披して文を変じ、竜は雷に乗じて骨を換ふ。咄。起滅紛紛是れ何物ぞ。
か穴に巣やっぱり穴です、老葛藤を斫断し狐か窟を打破すとは、まさにこれ坐禅そのものです、なにしろいつだって老葛藤、どこまでいっても、いいのわるいのさあどうだです、これをどうにかできれば、きれいさっぱりしたいと踏ん張るわけです。さあどうしたらいいですか、坐るっきゃないです、アッハッハ換骨奪胎ですか、豹は霧によって模様を替え、竜は雷によってという、機縁に触れてがらっと変わる、転ずるんですか、はい坐って下さい、要は自分をもて運んで得ようとしないんです、自分明け渡して行くんです。換骨脱体もがらっと変わろうが観察しないんです。昨日の我はもうないんです、念起念滅をそのまんま。どうしてもそれができないったって、はい坐って下さい。坐るしか解決の方法ないですよ。他人はこれを知らないんです、知っているあなたこそ幸いです、まっしぐらに坐って下さい、坐が坐を知る、風景が風景を坐る、虚空が虚空を息づくんです、この間まったくあなたの取り柄なし、もと起滅紛紛もはいどうぞごかってにというぐらい、まずはあるいは目を向けるとないんです。
第四十四則 興陽妙翅
衆に示して云く、獅子象を撃ち、妙翅龍を博つ、飛走すら尚ほ君臣を分つ、衲僧合さに賓主を存すべし。且らく天威を冒犯する底の人の如きは如何が裁断せん。
挙す、僧興陽剖和尚に問ふ、娑 海を出でて乾坤静かなり、覿面相呈すること如何。
師云く、妙翅鳥王宇宙に当たる、箇の中誰か是れ出頭の人。僧云く、忽ち出頭に遇ふ時又作麼生。陽云く、鶻の鳩を取るに似たり。君覚らずんば御楼前に験して始めて真を知れ。僧云く、恁麼ならば叉手当胸退身三歩せん。陽云く、須弥座下の烏龜子、重ねて額を点じて痕せしむることを待つこと莫れ。
興陽山の清剖禅師は大陽警玄の嗣、妙翅鳥金翅鳥ともいい、龍を食う鳥、鳳凰ですか、天空の王さまです。娑かつは立に曷しゃから龍王、龍の大王ですか、海中に暴れているやつが飛び出した、さあてまったく納まって覿面に相呈するとき如何、どうだおれはかくの如し、和尚さあ道え、というわけです。そりゃあもうやったあどんなもんだいです。陽和尚、妙翅鳥王まさに宇宙にあたる、はいよってなもんです、でどこに出頭人がいるんだ。忽ち出頭にあうとき如何、おれだおれだっていうんです、アッハッハ笑っちまうんですか、鶻はくまたかです、くまたかが鳩を取るようなもんだ、君覚らずんばは、平原君趙勝という人の御楼前に、美人の首を斬ってかかげる故事です、とやこういってないで斬るもの斬ってそれから道えっていうんですか。もし本当にそうだってんなら、胸に叉手、手を組んで退身三歩せん、ならそうすりゃいいのにまだおれはという、須弥壇、蓮華座の床足に烏亀子を用いる、盲の亀を踏んづけているんです、ばかったれえめが、もう一度額に点す、おまえは未だし、駄目だなんとかせえって云われたいのかってこと。飛走、鳥やけものでさえ君を分つ、ましてや衲僧賓主を存す、彼我雲泥の相違が見えないんです。どうしても得ようとする、ついに得たという、天下取っただからどうだの世界です、これが根底くつがえって始めて仏教ですか。発露白仏、うわあなんつうこったおれはという、通身上げての、百年なんにもならずはの大反省です、するとようやく坐禅になりますよ。以無所得故、菩提薩たです。かつての大力量が点と線ぐらいにしか思えんです、われ無うしてものみな、ものみなが坐禅する、わかりますかこれ。
頌に云く、糸綸降り、号令分る、寰中は天子、塞外は将軍、雷驚いて蟄を出だすことを待たず、那んぞ知らん風行雲を遏むることを。機底聯綿として自ずから金針玉線あり、印前恢廓として、元鳥てん虫文なし。
糸綸、綸旨みことのり天子の言葉、寰中幾内天子の直轄です、塞外は関所の外、将軍が天子の勅を受けて布令する諸国をいう。糸綸下りとはどういうことですか、だから抜きの言です、物まねでない自ずからなんです、仏教という別誂えを仮りないんです、世間一般のまた自然とは、雲泥の相違のあることを見て下さい。良寛さんの記を見ると、独創なんてものないといっていい。人まねだれでもできることであったり、万葉から一歩も出ぬ歌であったりします。しかもなをだれにも真似できんです、真似したらひっくりかえるっきりです。さあどういうことです。寰中天子他にはないです。蟄は虫土にひそんでいる龍ですか、一喝驚いて飛び出すという、飛び去ってなくなりゃいい。風行雲をとどむることを知るんですか、不可能ですか。織りなす古錦春象を含むという、仏教開始の合図ですか、自ずから金針は、かくあるべしという捺印はんこ要らないんです、ゆえにもって廓然無聖まさに快廓です。てんはてん字などいう中国の古字虫文も同じどっか複雑怪奇です、そういうことやってないでからり本快事。
第四十五則 覚経四節
衆に示して云く、現成の公案只だ現今に拠る、本分の家風分外を図らず。若し也た強ひて節目を生じ、枉げて工夫を費やさば、尽く是れ混沌のために眉を描き、鉢盂に柄を安ずるなり、如何が平穏を得去らん。
挙す、円覚経に云く、一切時に居して妄念を起こさず、諸の妄心に於て亦息滅せず、妄想の境に住して了知を加えず、了知無きに於て真実を弁ぜず。
これおもしろいんです、著語があって不と各節に付く、ノーノーっていうんです、わしもまったくそういって読んでたですが、これもっとも基本の坐の工夫かくのごとくなんです。円覚経清浄慧菩薩の章、非思量底を知らしむとあります。非思量底いかんが思量せん、一切時にあって妄念を起こさずという、身心ものみなを、念起念滅する一般解、というともののたとえですが、そやつをよこしまにする、特殊解するんです、アッハどうもこのたとえあんまりよくないな。孫悟空の頭の鉢ですか、よこしまわがものにすると痛むんです、おれがやったらもうどっかうまく行かない、解放する明け渡すんです、すると虚空が虚空を坐禅するふうです。一応こんな目安でやって下さい。人間、いえわしのこってすか、どうしようもこうしようもないとこあってじきにおれがやっちまうです、なんの取り柄もない、かすにもならんとこをもって、挙げてお手上げです。すると仏の世界に現ずる無自覚ですよ。公式としちゃあまったく二二んが四です。しかもこれ世の人あるいは一神教主義主張の知らないところは、妄想なけりゃないがマル、妄想を除いて真実を求めよう、あるいはそんなことできっこないから、なあなあコンセンサスやるんです。この世を線型に支配しょうという無理無態ですか。君見ずや絶学無位の閑道人、妄を除かず真をもとめず、手つかずの工夫です。まったくただの只管打坐です。そうして工夫がうまく行っているときに、円覚経とねえふーんてなもんですよ、本分の家風強いて節目にあたらず、混沌に目鼻を付けると死んでしまう、そりゃ端にわがことかくの如しだからです、はい手放し。
頌に云く、巍巍堂々、磊磊落落、閙処に頭を刺し、穏処に足を下す。脚下線絶えて我自由、鼻端泥尽く君けずることを休めよ。動著すること莫れ、千年故紙中の合薬。
巍高いありさま、巍巍たる金相、堂々たる覚王と、如来お釈迦様の形容です。
ものみな失せて内外同じ、周囲になり終わるんです、自分というよこしまの分がないんです。巍巍堂々とも言葉足らず、磊落もなをけい礙ありですか、威儀これ仏法と云われる所以です。でもそれ宗門人みたいに無内容の猿真似じゃみっともないきりです、心理学の対象にしかならんです。閙はさわがしい、穏はその反対ですか、とかく手を付けたがる、そりゃ騒がしいっぱなしじゃ困る、穏やかに眠っちまってもしょうがない、なんとかしようというんです。なんとかぴったり行くってんですが、脚下線絶えて自由、手を付けない正解なんですよ。鼻の頭の泥ってこれ精妙剣のたとえだったですか、どんな手練れもあるだけ余計なんですよ、これ坐の辺に証明して下さい。
楽になった、なんという広大無辺もまたその皮一枚むけてってことあります。ついにはまったくの手付かず、大海三味箇の大海に埋没するがごとく、どっちどう転んだっていいってことがあって、始めて動著する莫れの仏教入門です。はい今ではもう二千年来の円覚経合薬、なに変わらずの珍重。
第四十六則 徳山学畢
衆に示し云く、万里寸草無きも浄地人を迷わす、八方片雲無きも晴空汝を賺す。是れ楔を以て楔を去ると雖も、空を拈じて空を柱ふることを妨げず。脳後の一槌別に方便を見よ。
挙す、徳山円明大師衆に示して云く、及尽し去るや、直に得たり三世諸仏口壁上に掛くることを。猶ほ一人有って呵呵大笑す、若し此の人を知らば参学の事畢んぬ。
徳山円明大師は雲門の嗣、これは三心不可得いずれの心にか団子食らうと云われて、龍潭和尚を訪ねる徳山とは違う、徳山九世です、しかもまあ痛快至極の説得ですか。及尽し去るや、参禅はこれすべてを尽くして後なんです、学者余外の人とやこういう、口幅ったい連中のアッハッハ、百生ほどはあっさり卒業するんです。なにとやこう云おうが先刻承知という、いえ尽くし終わって忘れ去るんです。すると二度と迷わない、いえなんにも云うことない、云わない、云いえないんですよ。口壁上にかかる、なを一人あって呵呵大笑、見ずやというんです。この人を知らば参学の事畢わんぬ。はーいこの人を知って下さい、まさにもって他には方法がないです。万里寸草なしにきれさっぱりする楔です、くさびになる風景ですか、片雲なき晴空賺はだます、そんなもんにだまされちゃだめですよっていうんです。自分でもって掃き清める、楔を以て楔を抜こうとする、そうしている自分如何の問題です、すべてを尽くそうが、尽くしているそいつがあっちゃ、空を拈じ空を柱えるんです。よって脳後の思いももうけぬ一撃です。いえさ棚からぼた餅じゃない、やっぱり自ずからなんです、そうしてどうあったろうが坐るよりないです。わかりますかこれ、そうねえ全生涯捨てるっきりないです。仏もなにも一切です、捨てるも捨ておわって呵呵大笑。
頌に云く、収。襟喉を把断す。風磨し雲拭ひ、水冷ややかに天秋なり、錦鱗謂ふこと莫れ慈味無しと、釣り尽くす滄浪の月一鈎。
収、まあ一巻の終わりってなもんです、もうまるっきり先なし、もとこの通りあったということを知る。天地宇宙歴史人生ビッグバンもさ一場の漏羅と云った具合で、無始無終こうあるという。そりゃ人が見るなら、風磨雲拭水冷ややかに天秋、いやもう空っけつ、どうにも取り付く島もないんですが、花あり月あり楼台あり、わっはっは我が青春てなもんで、ものみなぜんたいです。慈味というたとい錦鱗の、鳳凰だろうが龍だろうが、これを知れるなしです。蛇足ながらかつて寸分の苦労があったんですか、釣り尽くす滄浪の月一鈎、別に問題はないよ、まったくの余計ごと。
第四十七則 趙州柏樹
衆に示して云く、庭前の柏樹、竿上の風幡、一華無辺の春を説くが如く、一滴大海の水を説くが如し。間生の古仏迴かに常流を出ず。言思に落ちず若為んが話会せん。
挙す、僧趙州に問ふ、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。
祖師西来意とは達磨さんがインドからやって来た意とは、ということです、柏は日本のかしわと違って松に近い常緑樹だそうです。如何なるか是れ祖師西来意、庭前の柏樹子と、禅問答代表みたいになって、型にはまって目前の露柱だの、卓子だのやってます。猿芝居の晋山式や小参問答など、それを見た県会議員が、さすが坊さんはえらいもんだ、師の尊答を拝謝し奉るたって、わしら議会納得させるのには命がけだと皮肉った。自浄作用のない若い坊主ども、云う甲斐もないんですが、庭前の柏樹子という破天荒なんです。仏という悟ったらという、なにかしら思い込みがいっぺんに吹っ飛ぶ。飛び板の辺に乗っていたやつが、飛び板ないんです、真っ逆様に墜落して七分八裂する、いえあとかたないんです。アッハッハこりゃ話堕に落ちたですか、大趙州なんたってとやこうの余地ないです。とうやこうがとやこうと回向する、一華無辺の春、一滴大海水です。間生古仏、五百生の大善知識といわれる、六祖また大趙州です。ちなみに竿上の風幡は、六祖風動幡動の則です、風も動かず幡も動かず汝が心動くなり、はいこれ体現して下さい、ほんに木の葉揺れずこっちがこう揺れ動くんですよ。
頌に云く、岸眉雪を横たへ、河目秋を含む。海口浪を鼓し、航舌流れに駕す。撥乱の手、太平の籌。老趙州老趙州、叢林を攪攪して卒に未だ休せず。徒らに工夫を費やして、車を造って轍に合す。本技倆無うして壑に塞がり溝に填つ。
面白いですね、岸が眉で河が目で河口ではなくて海の口、航跡が舌、これ文人ならでかしたというんでしょうが、実に五体あっちがわというんでは百歩遅いんです、庭前の柏樹子と、なり終わって毫髪も残らんのです。だからこの頌は、風景だけがある、面白いのはそこなんです。なんとも譬えようにないんですよ、そこからして言語する、我という架空に陣取ってとやこうを、まずはぶっ食らわせ撥乱の手です。
籌ははかりごと、太平という人情沙汰ではない所をもってす。老趙州老趙州です、まさに右に出るものはいないんです。六十歳再行脚、我より勝れる者はたとい三歳の童子と雖もこれに師事し、我より劣れる者は、たとい百歳の老翁と雖もこれに教示すという、齢百二十までも叢林僧堂です、帰依僧和合尊の拠るところ、祇園精舎です、よどんでるやつひっかきまわして、未だ休せず、よどんでいるというのは、転法輪仏教の車かくあるべしと、工夫してもって轍に合わせること。そうではないもと技倆なくして、だからとか頭の鉢通さないんです、壑は谷、太平まったいらをとやこうってのどかんとやるんです。どうにもこれが籬の外大道長安。
第四十八則 摩経不二
衆に示して云く、妙用無方なるも手を下し得ざる処有り。弁才無礙なるも口を開き得ざる時有り。龍牙は無手の人の拳を行なうが如く、夾山は無舌人をして解語せしむ。半路に身を抽んずる底是れ甚麼人ぞ。
挙す、維摩詰、文殊師利に問ふ、何等か是れ菩薩入不入の法門。文殊師利日く、我意の如くんば一切法に於て無言無説、無示無識にして諸の問答を離る、是れを入不入の法門となす。是に於て、文殊師利維摩詰に問ふて云く、我等各自に説き已る、仁者常に説くべし、何等か是れ菩薩入不入の法門。維摩黙然。
これは維摩経入不入法門品第九の文だそうです、維摩詰イマラキールテ無垢称と訳す、釈尊と同時代の人維摩居士。文殊菩薩は智恵第一の、普賢菩薩は行ない清ますこと第一の、お釈迦さまの両脇侍です。菩薩入不入の法門とは、無漏余すところなしです、説いても説かずとももとこの通り、自覚するも無自覚も同じです。これを得るにはまさにこれに住すしかなく、文殊菩薩、我が意の如くなればと、各自まさにもって示して下さい。唯物論がどうの唯識だ空論がどうのと、たわけたことをいう人、たといなんの為にし、たとい得てなんになるかという、まっぱじめの問題に答えを出して下さい。でないと長柄を北に向けて南を求める、マンガにもならんのです。外道の云うかいなくではなく、一切法の疵あるなく、無言無説無示無識、一輪の花のように諸の問答というも塵埃です。さあ道うてみろと云われて、黙然ですか、そんな花ないですよ、すみれ一輪百千万億です、しかもなんというけれんのなさ。人間も人間の如来に同ぜるが如し、なんの過不足もないはずです、だのになんの言説。
頌に云く、曼殊疾を問ふ、老毘耶、不二門開けて作家を看る。 表粋中誰か賞鑑せん、忘前失後咨嗟すること莫れ、区区として璞を投ず楚庭のひん士、燦燦として珠を報ず隋城の断蛇、点破することを休めよ、
瑕を絶す、俗気渾べて無うして却って些に当たれり。
曼殊は文殊に同じ、毘耶は毘耶城に住んでいた惟摩居士のこと、入不入の不二の門開けて、かつて見たこともなかった、思想観念によらぬ世界です。思い込みによらぬ作家を見るんですこれあって初めて仏教帰依です。らしいにせのキリスト教じゃないんです、信じたって迷妄、みんなでもって神のみもとへ、選良だろくでもないことしてないで、人間も脳味噌にしてやられ卒業して、新人類ですか。アッハッハどうにもこうにもの今世紀、生まれ変わって下さいよ、こんなふうじゃやってられんです。この項中国人垂涎の玉について、漢和辞典で捜す玉ばっかり出て来ます、玉に民は燕みん玉に次ぐものとあります、みん中玉表、表は石で中に玉、せっかく玉なのにそれに気がつかない。惟摩黙然呆然自失も、咨嗟ため息して嘆くんです、なにさそんなこといらんよっていうんです。楚庭ひん月に賓です士、卞和三献の故事です、両足切られてなをも献じて玉なりとす、いいからまっしぐらにやれってこってす。隋城断蛇は、大蛇の疵を治してやったら玉を吐いて報いた、明なること月の照らすが如く、明月の珠と名付くとある。まあ蛇だって珠を報ずるってわけです、点破するたいていの人これです、せっかく坐りながら点検です、いいのわるいのやっている、入不入の法門思い切って点破、点検するから破れるんです、これをなげうつんです。疵を絶することもと疵なし、手つかずの法門安楽の法です、すなわち手を付ければ手を付けたがあるんです、付けなければもとない、只管打坐、俗気さらになけれぼそれを瑕疵です。惟摩居士ならずはたといこれを得ずですか、人人大いに真正面。
第四十九則 洞山供真
衆に示して云く、描不成、画不就、普化は便ち斤斗を翻し、龍牙は只半身を露はす。畢竟那んの人ぞ。是れ何の体段ぞ。
挙す、洞山雲巌の真を供養するの次いで、遂に前の真を貌する話を挙す。僧あり問ふ、雲巌祇だ這れ是れと道ふ意旨如何。山云く、我当時幾んど過って先師の意を会す。僧云く、未審し雲巌還って有ることを知るや也た無しや。山云く、若し有ることを知らずんば争でか恁麼に道ふことを解せん、若し有ることを知かば争でか肯へて恁麼に道はん。
普化盤山宝積の嗣、「明頭来也明頭打、暗頭来也暗頭打、四方八面来也旋風打、虚空来也連架打。」という普化宗の祖。臨済にろばと云われて驢鳴をなす、普化驢馬という。盤山順世に当たり、衆に告げて云く、我が真を貌し得るや否や、衆写すところの真をもってす、山肯ぜず、普化出でて斤斗とんぼがえりを打つとある。貌はしんにゅうがついているんですが、同じく顔をかたどるの意、真今でいうなら写真です、むかしから葬式に位牌と真を持つ。描不成、画不就はつまりそのまんまでいいんですが、鳥を描いても鳴き声はかけぬ、花を描いてもにおいはかけぬとあります。龍牙は洞山良价の嗣、龍牙山居遁禅師、徳山に問うて、学人ばくや(吹毛剣)によって師匠の頭を取る時如何と。山首をつん出してカという、師云く、頭落ちぬ、山呵呵大笑す。これをもって洞山に挙して初めて省す。ほんにばくやの剣の自信があったんでしょう、しかもなお半身。本則の学人も、いぶかし雲巌かえって有ることを知るやと、問うときに相当の自信があるんです、自信のある分が駄目ってこと知らない、おそらく有ると云えばあやまち、無いといえばあやまちアッハッハさあどうするってわけです、洞山あるいはその通りに答えて、学人の自信を根底から奪い去る、さしのべた手を引く如く、はあっと墜落なんにもない、そうですよ恐怖の一撃。
頌に云く、争でか恁麼に道ふことを解せん、五更鶏唱ふ家林の暁、争でか肯えて恁麼に道はん、千年の鶴は雲松と与に老ふ。宝鑑澄明にして正偏を験す、玉機転側して兼倒を看よ、門風大いに振るって規歩綿々たり。父子変通して声光浩浩たり。
洞山雲巌を辞す、山問ふ、和尚百年の後人、還って師の真を貌得するや否やと問はば如何が祇対せん。巌良久して日く、祇だ這れ這れと。この則はこれを踏まえてもって挙す。いかでか恁麼に道うことを解せん、ただこれこれと、五更夜明けを待ってにわとりが時を告げる、そりゃ日本でもずっと家林の暁だったです。そのかみただこれと示されて、なんという衲はと省す。千年の鶴はという洞山大師です、仏向上事昨日の我は今日のおのれに非ず、巌良久してただ這れという、そっくり手に入ったという一瞬の夢です。宝鑑澄明という宝鏡三味に拠る、正偏兼倒という洞山五位から来る、いずれ本来事玉機転転人々門風大いにふるって下さい。得た得ないじゃない毎日命がけといったふうですよ。命がけが悪かったらなめくじのなんにもならんでいいです、あるいはわがもの底無し、あるいはかすっともなく、日々葛藤を日々是好日です、人の日送り如何、父子変通して声光浩浩たり、手前味噌の孤独独創みたいうさんくさいものないんです、逐一において天上天下。
第五十則 雪峰甚麼
衆に示して云く、末後の一句始めて牢関に到る。巌頭自負して上親師を肯はず、下法弟に譲らず、為復是れ強いて節目を生ずるや。為復別に機関ありや。
挙す、雪峰住庵の時、両僧あり、来って礼拝す。峰、来たるを見て、手を以て庵門を托して、放身して出でて云く、是れ甚麼ぞ。僧亦云う、是れ甚麼ぞ。峰、低頭して庵に帰る。僧、後に巌頭に到る。頭問ふ、甚麼の処より来たるや。僧云く、嶺南。
頭云く、曾て雪峰に到るや。僧云く、曾て到る。頭云く、何の言句か有らん。僧前話を挙す。頭云く、他は甚麼とか道ひし。僧云く、他、語無ふして低頭して庵に帰る。
頭云く、噫当時他に向かって末後の句を道はざりき。若し伊に向かって道はば、天下の人、雪老を奈何ともせじ。僧夏末に至って、再び前話を挙して請益す。頭云く、何ぞ早く問はざる。僧云く、未だ敢えて容易にせず。頭云く、雪峰我と同条に生ずと雖も、我と同条に死せず、末後の句を知らんと要せば、只だ這れ這れ。
雪峰巌頭ともに徳山門下、巌頭が兄弟子です、人も知る雪峰の、我今始めて鰲山成道は、兄弟子巌頭と鰲山というところに、雪に閉ざされて、雪峰は坐し巌頭は足つん出して寝ている、乃至は門より入るものは家珍にあらずという言下にこれを得るんです。この則どうですか、雪峰悟をえたあとですか前ですか、うっふっふどっちでもいいから面白い。もっとも放身して出でてという、並みの人には出来ないですよ、我ごとに投げ与える、これできりゃもうそれ十二分なんです、痛快この上なし。巌頭は、五十五則にあるんですが、師匠の徳山をとっつかまえて、末後の一句やるんです、こんな老婆親切男いないです。そこがぞっこん好きなんですが、しっかりしていることは、他仏祖師方と引けは取らんです。末後の一句さえ道い出でたら、せっかく雪峰も、天下の人如何ともし難し。大丈夫万々歳になったというのに、惜しいことをした。こう云われちゃこの僧忘れることできんです、せっかく雪峰と同死同生底だっていうのに、そいつに気がつかない、すなわちお釣りが出た。どっちみち低頭して帰るも、これなんぞも、寸分の別途ないんです。手つかずならもとかくの如し、どうですか急転直下しませんか。おれのやってること余計事、いったいなんでっていうんです、はいこれ末後の一句。
末期が終わったら死ぬばかり、アッハッハ死人に口なしですか。
頌に云く、切磋し琢磨し、変態しこう訛す。葛陂化龍の杖、陶家居蟄の梭。同条に生ずるは数あり、同条に死するは多無し。末後の一句只這れ是れ、風舟月を載せて秋水に浮かぶ。
切磋琢磨は今に残った成句ですか、玉を磨いて光りを放つ、せっかく切磋琢磨したやつを、変態こう訛です、変態は今は別様に使うようですが、昆虫の変態など、要するに様変わるんです、こう訛、訛は方言なまり、ごうかという成句があったはずですが、こうは肴に几又です、末後の一句という正論仏教にはあんまりない語ですか、もっとも禅門そこばくの手段、正統仏教とは且喜没交渉ってとこあります。仏教学者も行ない清ましたって、自救不了、まったくなんにもならんのに説教だの、うるさったいばかりです。そんなふうで他の一神教となると恐ろしいです、人類迷妄の歴史は、二千年の落とし前をいったいどう付けりゃいいって、もはや地球を滅ぼすばかりですか。葛陂化龍は、むかしばなしみたいなので、薬売りが壺の薬を売って、売り終わると壺の中に入っている、長房という人が見ていぶかしんで問う、ついで杖をもらって飛んで行き龍に化した云々。陶家居蟄も、蟄龍といってもぐっている龍ですか、雷鳴って龍と化す話、まあ適当に解釈して下さい。生きるは同条数あり、解釈の分にはさなざまあったって、現実はただ這れ、ただもうこうあるっきりです。死ぬるはたった一個。これがどうしても外道にはわからない。せっかく正法眼蔵を外道のまんまじゃ、そりゃ死んでも死に切れない。魚変じて龍と化す那一著如何がです、なにをどうあったってやって下さい、末後の一句アッハッハ死んだらなんにも残らないのですよ、風流の外から面と向かって下さい、枯れ木にも花とともに春風いたる。
第五十一則 法眼航陸
衆に示して云く、世法の裏に多少の人を悟却し、仏法の裏に多少の人を迷却す。忽然として打成一片ならば、還って迷悟を著得せんや也た無しや。
挙す、法眼覚上座に問ふ、航来か陸来か。覚云く、航来。眼云く、航は甚麼の処にか在る。覚云く、航は河裏に在り。覚退いて後、眼却って傍僧に問ひて云く、汝道へ適来の這の僧、眼を具するや眼を具せざるや。
法眼宗の祖清涼文益禅師は地蔵桂しんの嗣、覚上座という人に、舟で来たか歩いて来たかと聞く、舟で来ました。舟はどこにあった、河ん中にあった。覚上座退ってのち、かたわらの僧に、どうだあいつは悟ってるんか、悟っておらんのかと聞く。
つまりこれだけのこってす。悟ってたんですか、悟ってないんですか。首をかしげたらはあてどうなんです。正解不正解は自分の辺にOX付けてください、Xを付けてもOをつけてもかすっともかすらんようだと、はあてお話にならんですか、お話にならん人大正解ですか。
どこから来たか、南から来ましたという、世法ですか。
答えに響きありという、問うより先に答え、東西南北の風をいとわずですか、庭前の柏樹子と道おうが関といおうが、急転直下するものはする、迷う者はかえって迷うんです、世法を用いるに世法に堕しじゃ、そりゃ生臭坊主の説教みたいに、お布施稼ぎ以外なんにもならんですが、かつてそうではなかった。大道長安忽然大悟は、まがきの外にありと知っても就中とやこうするんです。どこまで行っても迷悟中という、法眼云く、迷悟中と=もとこのとおりの他はなんにもないというのに、どうしてこんなに苦労するのかという、わずかに自分という寸分なんです。そいつがとっつこうはっつこうするんです。正師にも迷わされ邪師にも迷わされというは、迷わされる自分があるからです。単純な問題。
頌に云く、水水を洗わず、金金に博へず、毛色に昧うして馬を得、糸弦靡うして琴を楽しむ。縄を結び卦を描いて這の事あり、喪尽す真淳盤古の心。
水は水を洗わず、金は金と交換しない、博は貿易なりとあります、まあそういうこって、仏について仏を説くは下の下ですか、仏教について仏教云々は最低ですか、この事少しでも身につけばそこを以て当たるんです。生臭坊主のわしは女の子大好きの、仕方ない身の上相談引き受けようというと、いえこうして目前するだけでいいという、どっか開けるらしい、わしとて未だしだろうが、誰彼しばらくすると元気になる。檀家なぞとくに無駄話しかしないのです。老師に会うと会うだけでがっさり外れるという、先師古仏たしかにそうであったな。それにしちゃアッハッハオウムやなんとか教みたい、人も寄らんきゃぜにも集まらんな。世法とは違うんです、良馬を選ぶのに毛色に拠らないという、同じ羽根の鳥を呼ぶ一神教じゃないんです、ふりとらしいの嘘八コンクラーベなどいう、どうしてキリスト教の牧師やら、ああいう複雑怪奇な面してるんだろ、そりゃまあわからんこともないけどさ、本当を知らないってだけのこと。真実なけりゃ多数決ですか、民主主義という信仰ですか。琴中の趣を知らば何ぞ弦上の声を労せんという、これも中国の故事ですが、音楽を知るは音楽家であることを要せぬ、むしろ音楽家とはつきあいたくないんです。大人しかこの事に能るなし、ものごとの本来しかないんです。縄を結んで言葉とし八卦を描くもまだなつかしいですか、盤古とは中国開闢の祖ですとさ、即ちそれ以前に向かって求めるがよく。
第五十二則 曹山法身
衆に示して云く、諸の有智の者は譬喩を以て解することを得、若し、比することを得ず、類して齊うし難き処に到らば如何ぞ他に説向せん。
挙す、曹山、徳尚座に問ふ、仏の真法身は猶ほ虚空の如し、物に応じて形を現ずることは水中の月の如し、作麼生か箇の応ずる底の道理を説かん。徳云く、驢の井を覩るが如し。道うことは即ちはなはだ道ふ、只だ八成を道ひ得たり。徳云く、和尚又如何。山云く、井の驢を覩るが如し。
曹山本寂禅師、洞山良价の嗣、ともに曹洞宗の祖、諸の有智のものは比喩たとえをもって理解することができる、日常一般です、認識というたとえばこのようなものです、それで理解できたかというと、理解できたという思い込みですか、知識の交通整理、だからどうのの道です、これに疑問をもってはじめて、本当はという仏の世界です。そうして本当は何かというと、実に本則のごとく、仏の真法身は猶ほ虚空の如し、物に応じて形を現ずる以外にないんです。得る理解するという手応えがない、手応えをいえばものみな全体ですか=ナッシングですか、求め尽くして、終に求める自分を離れる、ぜんたいはるかに塵埃を出ず、ほおっと入ってしまっているのへ、入ったという、入っているという実感がない、これおもしろいんですよ。清々とか生き甲斐のはんちゅうを遙に超えるんです、だからおもしろいんです。その面白いことは、徳上座驢ろばの井戸を見るごとくという、そりゃまったく云い得ているんです、そいつを井の驢を見る如くという、がっさり落ちるんです、うわーっ全体、アッハッハまあそんなこってす。類して等しからず、混ずる時んば処を知る、意言に非ざれば、来機また趣むくと、洞山大師宝鏡三味にあるように、汝これ彼にあらず、彼まさにこれ汝と、このお経どこ取ったって別段のことはないんです、汝今これを得たりと、よろしくよく保護して下さい。
頌に云く、驢井を覩、井驢を覩る。智容れて外くる無く、浄涵して余りあり。肘後誰か印を分たん。家中書を蓄へず、機糸掛けじ梭頭の事、文彩縦横意自ら殊なり。
ろばという愚鈍代表でしょう、無形容なんです、たしかに日常坐臥こうある、黒漆のこんろん夜に走るというより、暗室移らずですか、これを驢と云ったんです。
そうしてぜんたい井戸のようなのは、その真ん中にあるまっしんです。碧水層山玉を削りて円かなり、あるいは深い井戸の底という。なに開けていりゃいいんです、すべからく目は見開くべし、自閉症の坐禅やってるんじゃないんです、春風いたってあるいはしくしく雨が降る、まさにそれを呼吸しそれが呼吸する、わしみたいひなむくれ老人だろうが、青春であり父母未生前です。井驢を見る如く済々無窮を味わって下さい。
はあて誰が味わうんですか。そうですよこれなくんば仏教もへちまもないです。
家中に書を貯えずはまさにわしがこと、本棚なし、いつもどっか行っちまって、必要になると大変、たいていだれかの借りてほったらかし。本なんか読まないよという、だってつまらない、へたくそせせこましい、いやまあそういうこったが、智容れて外れるなく、浄涵して余りありは、まったくもってその通りです、そうねえ地球宇宙人間以外まさにそのように生きているんですか。記述したりだれかに伝えってこと、別段いらんのです。機梭糸をかけずとも文彩縦横無尽、勉強しないかってそんなことないです、でもまあさっさと忘れちまうほう早いか。うんいい文章つくってやろうか。
これはこれ風力の所転、感動を与えってアッハッハ餓鬼どものふりせにゃいかんぜ。
第五十三則 黄檗とう糟
衆に示して云く、機に臨んで仏を見ず、大悟師を存せず。乾坤を定むる剣、人情を没し、虎児を擒ふる機、聖解を忘ず。且らく道へ是れ何人の作略ぞ。
挙す、黄檗衆に示して云く、汝等諸人尽く是れとう(口に童)酒糟の漢、与麼に行脚せば何の処にか今日あらんや、還って大唐国裏に禅師無きことを知るや。時に僧あり出でて云く、衆を領ずるが如きは又作麼生。檗云く、禅無しとは道はず只是れ師無し。
黄檗希運禅師は百丈懐海の嗣、臨済の師です。身の丈豊かにして一掌を与えるを以てす、生得の禅なりと、なんともずっぱり頼もしい感じです、とう酒糟の漢は酒かす食らう男、古人の糟粕たる言句葛藤に纏縛せらるをいうと、くそかきべらと同じですか、人のひりだしたものを、ああでもないこうでもないです、世間一般ならともかく学人出家がというわけです。せっかく生まれて生きた覚えもないではないか。100%生きるにはいったん死なねばならん道理です。思い込み観念の死=肉体の死、わがものにしようとする欲望をひっぱがされる。知識学問にしがみつくんですか、死にたくないというやつですよ、これが奪い去られる、肉体の死以前に真実のといったらいいか、ほんとうの死なんですよ。でもって100%生きとは比較に拠らないんです、仏を希求してついにそれっきりになった人が、まるっきり仏を知らないんです。
大悟した人が師を知らず。
生まれたまんまの赤ん坊にして、世間あらゆる常識を貯えているんです、一切事を卒業して、乾坤天地宇宙です。人情というしがらみに拠らない、うっふっふ死にゃそうなる、もっともたいへんなこってすよ、わずかに自由を得る。肉親兄弟あるいは来し方無惨を免れる、いいえ免れるなんてことないです。黄檗の母何変わらずや、一箇のありようただこれ。他なしにこうあるっきりです。虎児を擒はとらえる、虎児を得るおたからを得るんです、たった一回きり取る、アッハッハ単純明解他なしですよ。
聖凡かまっちゃいられんですか。おまえらみんな人のかすばか食っている、そんなんで行脚したっても、昨日ばっかり、今日にならんていうんです。かえって大唐国に禅師なきを知るや。一僧出て、でもあなただって、こうして大衆を領しているではないかってわけです、檗云く、禅なしとは云わず、ただこれ師なし。どうですか見事にこれは一則です。
頌に云く、岐分かれ糸染んで太はだ労労、葉綴り花聨なって祖曹を敗す。妙に司南造化の柄を握って、水雲の器具しん陶に在り、繁砕を屏割しじゅう毛を剪除す。星衡藻鑑、玉尺金刀、黄檗老秋毫を察す。春風を坐断して高きことを放さず。
曹はつかさ、獄官裁判官の意、祖曹でもって祖師方、せっかくお釈迦さまが単純を以て示し、天地有情と同時成道の、綿々他なしに伝わってきたのに、仏教思想だの宗宗門ノウハウだの、枝分かれ花連なりついには敗壊、ただすのにもって黄檗ほどふさわしい人はなく、司南造化というまっしんもってどうだとやるんです、しん陶はろくろ、雲水用具をこさえるはろくろにあり、行脚というからですが、まずはもってそういうこってす。繁砕じゅう毛は鳥のうぶ毛ですが、あっちこっち枝葉末節は、即ち我欲妄想に流れるによってです。そうではないはたしておのれはどうかという、それっこっきり、これが就中できないんです。世法は捨てても仏法は捨て切れぬ、おれはどうなった、道が進んだやれどうだという、結局は世法なんです。身心挙げて仏の家です、ちらとも悟れば仏に返す、帰依というこれ。いいですか、人という他に生き様はないんですよ、捨てるという捨てたという、なにかしら残ったらそりゃなんにもならんです、無料奉仕以外ないんですよ。するとものみな法界が応じてくれます。星衡藻鑑はかりの目が正確なことは、因果応報微塵もごまかしが利かんです、玉尺金刀たとい黄檗なくとも、おろそかにならぬばくやの剣です、ちらともありゃばっさり切られを知る、ようやく参禅の戸口です。高きことを許さず、そうですよ差し当たって先ずはこれに見習う。
第五十四則 雲巌大悲
衆に示して云く、八面玲瓏十方通暢、一切処放光動地、一切時妙用神通、妙用神通且らく道へ如何が発現せん。
挙す、雲巌道吾に問ふ、大悲菩薩、許多の手眼を用いて作麼かせん。吾云く、人の夜間に背手して枕子を模ぐるが如し。巌云く、我会せり。汝作麼生か会す。巌云く、偏身是れ手眼。吾云く、道ふことははなはだ道ふ即ち八成を得たり。巌云く、師兄作麼生。通身是れ手眼。
雲巌曇晟禅師は薬山惟儼の嗣、道吾円智は兄弟子、大悲菩薩という千手観音、千の手に眼がくっつく、偏はぎょうにんべんあまねく、通身と同じです、真夜中まっくらがりに背中に手を回して枕を探る如し、わかりました、偏身これ手眼。なを八成を得たりというんです。じゃどうなんですか、通身これ手眼。どっかちがうですか、ちがうんです、自分という会すという、なにかしらある、驢の井を見る影法師、わかりますかこれ、どこまで行ってもという気がします。あるいは日々背反、どうあっても葛藤です、しかもなおかつ、暗夜に枕頭をさぐるが如し。たとい葛藤も背反もです、すると自分という主中の主がこっちがわにないんです。彼岸というあっちがわばっかりですか、ふうっと失せて井の驢を見るという。師兄作麼生と云われて、通見是れ手眼云うことはまったく同じ。どうですか、葛藤が終わったかという、背反が納まったかという、納まることはまったく納まっている、しかも背反あり葛藤です、アッハッハ八面玲瓏も南天北斗も、呼吸のごとく千変万化ですか、しかも一瞬一瞬です、一切事処放光動地、一切時妙用神通、わしのようなぼんくらあほんだれは、なんせ毎日坐っています、坐るほかにないことを知っています。九十までは生きると占い師が云ったけど、いったん終わった生涯なんというかご苦労さん。もっとも報恩底未だ終わっちゃいない、安閑とはしておられんです、そうして昨日の我は今日にあらず、いやさまだまだまだです。
頌に云く、一竅処通、八面玲瓏、象無く私無うして春律に入る。留せず礙せず月空を行く、清浄の宝目功徳臂。偏身は通身の是に何似れぞ。現前の手眼全機を顕はす。大用縦横何ぞ忌諱せん。
竅は穴一竅処通とは人間の存在そのものなんです、早くこれを知って下さい、妄想法界じゃどうもならんです、自分という架空の思い込みが、世間一般を形成するんです、それは千差万別というよりただの雑多です、人みな自閉症をまげて世間一般となす、中国人はかつてまさにこうある仏祖師方であった、わしのような半端が尊敬も、なを遠く及ばぬほどです、それが今の日本排斥運動の如きは、雑というも愚かとも云いようにないです。共産党という理想の為には何してもいいという、一神教のカリカチュアですか、そのなすこと真実の欠片もなく、しかもそれを世間一般と思い込むんでしょう、物笑いです。これをだが誰彼やってないですか、思い込むようにしか見えない、騒々しい淋しい、喧嘩の原因宗教のよってたつところです。ばっさり脱ぎ捨てて八面玲瓏、象なく私のうして春至って下さい。井の驢を見る、世間一般というあとかたもないんです、このとき初めて人間であり、平和を云い思想を持し得るんです、理想だの神さまだのいう雑っぱはた迷惑じゃない、微妙幽玄ですか。留せず礙せず月空を行く、清浄の宝眼功徳臂、なにものにも替えがたいんです。大悲千手観音あるいは稚拙にしてこのように象ると、いいですか、万億手眼通身あまねくこれあなたなんですよ、あなたという無自覚なんです。どこへ行こうが何しようが大用縦横です、もとこのように行なわれている、何ぞ忌諱せん、早くこれを知って下さい、でないと今生終わってしまいますよ。
第五十五則 雪峰飯頭
衆に示して云く、氷は水よりも寒く、青は藍より出ず。見、師に過ぎて方に伝授するに堪えたり。子を養うて父に及ばざれば家門一世に衰ふ。且らく道へ父の機を奪ふ者は是れ甚麼人ぞ。
挙す、雪峰徳山に在りて飯頭となる。一日飯遅し、徳山鉢を托げて法堂に至る。
峰云く、這の老漢鐘未だ鳴らず、鼓未だ響かざるに、鉢を托げて甚麼の処に向かって去るや。山便ち方丈に帰る。峰巌頭に挙似す。頭云く、大小の徳山末後の句を会せず。山聞きて侍者をして巌頭を喚ばしめて問ふ、汝老僧を肯はざるか。巌遂に其の意を啓す。山乃ち休し去る。明日に至って陛堂、果たして尋常と同じからず。巌掌を撫して笑って云く、且喜すらくは老漢末後の句を会せり、他後天下の人、伊を奈何ともせず。
飯頭はんじゅという典座の下にあって大衆の喫飯にあたる、徳山宣鑑禅師は青原下四世龍潭祟信の嗣、三心不可得いずれの心をもってその団子食うかと婆子に云われ、ぐっとつまって龍潭和尚を訪ねる、もと大学者であった、手燭の火を吹き消されて忽然大悟、担って来た金剛経を焼く。これも有名なら雪峰飯頭も人のよく知るところ、徳山は結果が出たが、こっちは一場の漏羅ともいうべき。どうも知られているわりにはすっきりしない。末後の一句という巌頭の得意技であって、転ずるまた幾多ということらしいが、せっかく師匠の頭かっぱじいてまで、どうやらなんにもならなかった。どうしてもあるあると思っている、わしがちらとも気がついたとき、老師に食ってかかった。あるあるっていうから参じて来たのに、なんにもありゃしないじゃないかと、老師苦笑して、そりゃ仕方なかろうがという、こんな簡単明瞭をなんでといえば、そうさなちった仏教を説かねばと云った。由来わしのほうも四苦八苦して、ないものがいつまでもあったりしたです、でも渠は後の大雄峰です、雪峰がありと参ずる、得たりと参ずるんです。どうだという、鐘も鳴らん、鼓も打たんのにのこのこ出て来おってと、親分だろうが向こう敵なしの力量です。徳山何いうかと思ったらくるっと引き返す。この大力量、なんにもないっていう、ただそれだけのこってすが、なんにもないとは宇宙そのものです。宇宙っていうの語弊があるですが、もしや山の如くですか。蚊の食うほどもかすらんやつを、というより徳山の無心、雪峰の有心でしょう、そいつがのれんに腕押し。自分に返るー返らなかった、兄弟子の巌頭に挙す。巌頭伝家の宝刀末期の一句をもってす、徳山、肯わざるといえばぶん殴っても看板は維持せにゃならんところです。大力量またもはいといって休し去る、就中明日上堂、果たして尋常とはまったく違ったというんです。アッハッハ巌頭ならずとも大笑い、どうですか末期の一句三千里外に吹っ飛ばして下さい、そこらにひっかかって飯頭やってんじゃないんです。
頌に云く、末後の一句会すや也た無しや。徳山父子太はだ含胡す。座中亦江南の客あり、人前に向かって鷓鴣を唱ふること莫れ。
含胡中国のスラングではっきり物云わぬこと、胡という漢に対する外国人ほどの意で、ここはどうもやっぱり含胡で、末後の一句などたわけたことを云って、なあなあずくで仕出かそうという感じです。末期の一句、ついに自分城を明け渡すんですか、これ坐っても坐ってもの処あって、道元禅師大法を得られる。なんで外国人如きがと侍者の云うのへ、如浄禅師が、あいつもずいぶん叩かれたでなと答える。どこまで行っても自分という、おれはというそやつが抜けないんです、末期とは死ぬる時、おまえ死んだらどうなると聞く、いえそのとかはか行かぬ答え、おまえ死んで三日もすりゃ完全に忘れられるよ、なに人の記憶にあろうがないと同じ、でもってものみな世間同じく、はいこれを大悟徹底というんだというと、きょとんとしている。そうなんですよ、禅といい参禅坐禅という、なにかあるものを求める、内面といい真髄というんでしょう、そうじゃない、虚空という別にあるもんじゃないです。外に向かって明け渡してゆく、ついに外なしです、みなさん方法が間違ってますよ、アッハッハ風景しかないんです、捨てる=死ぬとはこれ。
詩経国風にあり、また祖録にも出て来ます、江南三月、鷓鴣鳴くところ百花開くという、あるいは江国の春風吹き立たず、鷓鴣鳴いて深花裏にありと、二千年来心の故郷ですか、江南はいいところなんでしょう、江南の客悟った人、悟ったといって歌い浮かれるのは、真であればそれっきり、ふりしたって騒々しい淋しいんですよ。
第五十六則 密師白兎
衆に示して云く、寧ろ永劫に沈淪すべくとも、諸聖の解脱を求めず。提婆達多は無間獄中に三禅の楽しみを受け、鬱頭藍弗は有頂天上に飛狸身に堕す。且らく道へ利害甚麼れの処に在りや。
挙す、密師伯、洞山と行く次いで、白兎子の面前に走過するを見て、密云く、俊なる哉。山云く、作麼生。密云く、白衣の相を拝せらるが如し。山云く、老老大大として這箇の語話をなす。密云く、爾又作麼生。山云く、積代の簪纓暫時落薄す。
だいばだったは無間地獄に三禅という、色界の大三天だそうです、有心の禅ですか、まああんまり楽しくはないんですが、夢中の楽しみのようにも思える、うまく行ったよかった済々だのいって坐っている連中ですか、でもって妄想我欲界です、仏の行ないという、善行には届かないんです。だいばだったはお釈迦さまの従兄弟です、仏を謗り五逆罪を犯して生きながら無間地獄に落ちる。阿難をして伝問せしめるに、汝地獄にあって安きや否やと。我地獄にありといえども三禅天の楽の如しと。だからどうってことないんですよ、もう一つ抜けりゃほんとうの楽を知るんです、無間地獄がふっ消えます。
うずらぼん仙人という、仙人五通を得て空を飛んで王宮に食し、王妃の手に触れて通力を失い云々、以後さまざまあって失敗して、定に入るには定に入れずなど、死んで飛狸となって三悪道に落ちるとある、これもよくよく自分の坐に省みりゃいいです、通力を得たい、たいしたものになりたいなどいって坐っていませんか。すんでに情欲に囚われて、元の木阿弥の積木遊びです。おれがなにをどうするという、その根本を切らねば、ただそいつにしてやられるんです。
神山僧密禅師は、雲巌曇成の嗣、洞山良价の法友にして常に行をともにす、どうもこれ白兎が面前を走過する、うわっ俊なるかなというんです、すばやいな。山そもさん一句道へという。進士に及第して天子にお使えする官吏ですか、白衣という、なにしろこの上なしのまあ、破天荒という文字も、これに及第しない天荒というからに起こったという、たいへんなものであったんです。そやつを拝む如くという、白い兎と俊敏に過るからに云ったんですか、老老大大としてまあ世間ご老体みたいに云うなといった。じゃおまえそもさん、洞山云く、簪纓首飾りと冠のひも、そいつをつけた積代の貴顯がしばらく落ちぶれて乞食になる、といった。さあどういうこったか人々よく見てとって下さい。飛んで行く鳥を見て、はとだからすだいっているところへ、あれはわしだよと老師、一箇うけがうものなし、俊なるかなといって、暫時落薄ですか。
頌に云く、力を霜雪に抗べ、歩みを雲霄に平しゅうす。下恵は国を出で、相如は橋を過ぐ。蕭曹が謀略能く漢を成す、巣許が身心堯を避けんと欲す。寵辱には若かも驚く、深く自ら信ぜよ、真情跡を参へて漁樵に混ず。
下恵出国、柳下恵という人出国しようとするのへ、どこへ行こうが同じだ、道を直にせば三たびしりぞけられる、まげて人に使えて父母の郷を去る如何と論語にある。
相如過橋は、司馬相如少にして書を好み剣を学んで云々、蜀城の北に昇仙橋ありと、題して日く、大丈夫駟馬の車に乗らずんば、またこの橋を過ぎずと。蕭曹、蕭何曹参ともに漢の帝業を助けた人物。巣許、堯帝の召すを聞いて耳をそそいだ許由、その水を汚れだといって牛に飲ませなかった巣父。なんたってまあこの則、本来載すべきにあらずの処があって、故事来歴もややこしく。密師伯という人はこれで見るかぎり、悟もなんにもない人で、なにしろ曹洞宗の開祖さんたる、洞山良价とともに旅をする、高位高官であったか、詩人であったかいい人だったんでしょう。力を霜雪にくらべ、歩みを雲霄に平らす、美しい女であろうが貴人であろうが、いえただの人であろうが、伝家の宝刀をふるうのに、目くじら立てるこたないというんです。あと省略、深く自ら信ぜよというのは余計事です、平らかでありゃいい、漁師も樵夫もないんです、でもまあ宗門人と混ずるのは健康に悪いです、なるたけ面見ないようにしてます、すっきりしないってえか、うすら気味悪いですアッハッハ。
第五十七則 厳陽一物
衆に示して云く、影を弄んで形を労す、形は影の本たることを識らず。声を揚げて響きを止む、声は是れ響きの根たることを知らず。若し牛に騎って牛を覓むるに非んば、便ち是れ楔を以て楔を去るならん。如何が此の過ちを免れ得ん。
挙す、厳陽尊者趙州に問ふ、一物不将来の時如何。州云く、放下著。厳云く、一物不将来箇の甚麼をか放下せん。州云く、恁麼ならば即ち担取し去れ。
厳陽善信、趙州の嗣とあるのでついにこれが基本技をぶち抜いたんでしょう、なんにももっていないと云う、放下著捨てろという、なんにもないものをどうやって捨てるんだ、そんなら担いで帰れ。まず十人中十人がこれです。なんにもない自分を見ているんです、見ている自分があることに気がつかない。空といい無心といいする、ちっとも空でなく有心です。ないんじゃなく騒々しいんです、楔をもって楔を抜くことの自己満足ですか、さっぱり仏教にならんのです、学者説教師のたぐいこれ、まったくマンガにもならんです、醜悪というより世間一般路線です、それじゃさっぱりおもしろくない。清々比するなき箇のありようという、絵に描いた餅じゃそりゃ、せっかくの人生台無しです、アッハッハ人生台無しにして初めて得るんですか。影を弄んで形を弄すること、いつまでたっても糠に釘です、はいまったくの糠に釘になって下さい。ついにはかすっともしない、声に出してもはやおしまいを知らない、知らないんで是ですか、人に感動を与える歌手というには、自己満足自己陶酔のこれっから先も無きがよく、音痴は音痴を気にするから音痴という根も葉もないんです、なにしろこの基本技をマスターして下さい、担いで帰れと云われてちらとも反省して下さい、たいていまったく気がつかない。すなわちどうしようもこうしようもない自分です、そいつをひっ担いでああでもないこうでもないが、免れない、せいぜい妄想が出なくなったとかすっきりしたとかやっている、すると別時元の木阿弥です、実になんにもなっていないということに、いやというほど気ずかされる。ちらとも反省しますか、学者だのとかてんから気も付かずに行く。人とはほんとうに切羽詰まるということなければ、担いで帰れの一言身にしみぬものなのか、本来真面目の比較を絶する一物不将来にでっ食わさぬのか、まそういうこったですが、ちらとも知ることあれば、他雲散霧消。
頌に云く、細行を防がず先手に輸く、自ら覚ふ心麁にして恥ずらくは撞頭することを。局破れて腰間斧柯爛る、凡骨を洗清して仙と共に遊ぶ。
これは碁の話から来る、王質という人が斧を持ち山へ行くと、碁を囲む四人の童がいた、棗の実をもらって食べると飢えず年取らず、一局終わってみると、斧が錆び腐っていたという、聊斎志異にあったな。細行を防がず先手に輸は負けるんです、一石おくのをうっかりしていて取られちまうこと、これはせっかくなんにもないまで行って、もう一歩押すところを手抜きですか、実はこの一歩こそが坐禅であり仏教です。唯識がどうのあらや識がどうのお釈迦さんのころはああだこうだいう、学者仏教をまずもって捨てる、でなきゃ始まらんですが、ついには一物不将来です、もとなんにもないことを知る。生まれたまんまの本来人でこと足りるんです、他一切いらないという、出家とはそういうことです。世間事一切を尽くす、免れ出てということあって、すっぱだかです。自ら思う心麁は鹿が三つで荒っぽいんです、世間事=学者仏教がなんという恥ずべき荒っぽさかを知る、撞頭死ぬべくしてようやく仏入門です。一局尽くし終わって、腰間斧柯あらゆる手段は腐れ落ちるんです、もはや世間には帰れないんですか、アッハッハそりゃそうですが、却来する世間おもしろいんですよ、もっとも仙と遊ぶ以外ないとこありますがね。世の中に伍して行くんではなく、そうですねえ、こんなにおもしろいことかつてなかったんです。
第五十八則 剛経軽賤
衆に示して云く、経に依って義を解するは三世仏の冤、経の一字を離るれば返って魔説に同じ。因に収めず果に入れざる底の人、還って業報を受くるや也た無しや。
挙す、金剛経に云く、若し人の為に軽賤せられんに、是の人先世の罪業ありて応に悪道に堕すべきに、今世の人に軽賤せらるるが故に、先世の罪業即ち為に消滅す。
金剛経、大般若経題五百三十四金剛能断分の別訳だそうです、金剛経を背負ってやって来て、ばあさんに三心不可得とそのお経にあるが、いずれの心にて団子食うかと問われた徳山和尚など、けだし仏教の真髄ともいうべきものでしょう、六祖応無所住而生其心の因縁もこれに依る、よく出て来ます、どうもわし読んだことないです。
お経から仏教を求めるのは、三世仏の冤あだと読むごとく、ろくでもないことになるっきりです。アンチ仏教の坊主学者をこさえるっきり、もと仏があってお経です、ではお経なんかいらないといって、そりゃそのとおりなんです、まず仏である自分に行き合う、無自覚の自覚をえて七通八達です、言句上に求めて、経によって義を解するは、ただそういう三百代言を作るだけです、まったくつまらんのです。人を救うどころかその説、人に聞いてもらわねば収まりきらん、仏教を云々しながら仏教とは無関係。駒沢を出て雲洞庵に坐って、今の坊主どもはけしからんなどいって、不聊をかこつ変なのがいて、いじましいったらげじげじみたいのが、仏教だなぞやってたり、こないだ覗いたら、もうだれも坐らなくなって久しい僧堂があった、涙流れたです、越後一の寺なる修行道場がなんたること。
それでもこの項面白いです、まさに人を救うんです、たしかに達磨さんも他にないがしろにされ軽んぜられ賤しまれという、アンチ仏教坊主の中に、わしらたいてい異端阿呆扱いされて、でもそいつを顔に現わす、文句のたねにするなど愚の骨丁です。
法要にあって法要してりゃいい、蛙やうぐいすよりもちっとはましにお経あげてますよ、木石に等しいんです。せめてそれできなければ、先世の罪業の即ち為に消滅すと知ればいいです、そりゃもっともそういうこってす、いえ世の中軽んじられようが、自分卑屈卑小になってはつまらんです。今に見ていろ僕だってというも騒々しいです。只管に打ち坐るのに、そりゃまずもって一物不将来がいいです、百般糠に釘ですか、いいえ単にただ正令全提です、わきめもふらずです。たといお経もこれが助けになりゃいいです。
頌に云く、綴綴たり功と過と、膠膠たり因と果と。鏡外狂奔す演若多、杖頭撃著す破竈堕。竈堕破す。却って道ふ従前我に辜負すと。
綴綴たり功と過という、そりゃあ功と過を勘定すりゃどうでもそうなるんです、功や全機元過や全機元というと、なんか大げさですが、功過人間さまの勝手です、いつだってそのものそれっきり。人間さまに二つないんです、膠膠たり因果もこれを云えばきりもなくとっつきはっつきするんです、たいてい気違いになっちまうというのも、気違いは犀利にできています、綿密というのか雑多じゃない、気違いと常人の区別がないのは、だからといいゆえにといって生きているんです。お経を読んでだから故にやるも同じです、犀利に尽くすと狂うんです、放下著投げうつともとものはそのとおり行なわれているんです。坐禅の方法これです、手つかずです。万法からすすみて我を証拠するんです、えんにゃだったは鏡に映る自分の姿を見て、それを愛するんですか、いつか気に食わない、わあわあいうて狂い出すんです、他に標準を求めることかくの如し、近似値ほどひどいんです、ただあるがまんまのぴったりとは、我からすすみて万法を求めては気違いです。えんにゃだったは自分がないといって走り回る、お釈迦さまがぽんとその頭を叩いて落着です、実にこれ修行の人です、自分がない、おれはどこへ行ったという人いましたよ、宝鏡三昧影形あい見るが如くに、ついに失せる、自分というものなけりゃいられないという思い込み、実はそれによって苦しんでいたのにです。なくっていいんですよはいぽん。破竈堕和尚という人、かまどをぶち割って、この竈泥瓦合成す、聖何れよりか来たり、霊何れより来たりて恁麼に物命を辜負するやと、竈の神が現れて、おかげをもって本来本性を知るといった。まあそういうこってす。いつまで煮炊きの竈やってないんです、辜負とは背くこと、人生最大の罪は自分に背くこと、自分というちらともありゃ背くんですよ。
第五十九則 青林死蛇
衆に示して云く、去れば即ち留住し、住すれば即ち遺去す。不去不住渠に国土無し、何れの処にか渠に逢はむ。且らく道へ是れ甚麼か恁麼に奇特なることを得るや。
挙す、僧青林に問ふ、学人径に往く時如何。林云く、死蛇大路に当る、子に勧む当頭すること莫れ。僧云く、当頭する時如何。林云く、子が命根を喪す。僧云く、当頭せざる時如何。林云く、亦回避するに処無し。僧云く、正に恁麼の時如何。林云く、却って失せり。僧云く、未審し甚麼れの処に向かって去るや。林云く、草深うして覓むるに処無し。僧云く、和尚も也た須べからく堤防して始めて得べし。林掌をうちて云く、一等に是れ箇の毒気。
青林師虔禅師は洞山良价の嗣、学人径に行くとき如何、道を歩いて行くんですよ、如何なるか是れ道、道はまがきの外にあり、わが問うは大道なり、大道通長安です、ただの道ですよ、さあどうなんですかというに、死んだ蛇が大路にあたる、死んじまったやつが大道もくそもねえがというのは、半分脇見運転ですか、子にすすむ当頭することなかれ、だからどうだって云わない、まあ頭もげというも別ことですか。この僧へっこまない、師の尊答を拝謝し奉るってふうにゆかぬ、そんで当頭せざるとき如何、回避するに処なし、頭どこへもってたって処なし、頭なしでいいです、坐っていて当面いや頭あるような気がしている、どこへどうしようがない、恁麼の時如何です。是なんです、坐が坐になって行く様子、でどうなんですという、林云く、却って失せり、跡づけること不可能を知って、いぶかし甚麼れの処に向かって去るや、草ぼうぼう煙べきべき、求むるに処なしと云って、突っ込まれた、和尚もまたすべからく堤防して始めて得べし、こいつはただものでないんです、よくなんたるかを知っている、仏という無辺大に甘えるんじゃない和尚は和尚をやれ、アッハッハこれ以外にないんです、さすが林和尚、屁とも思わずは、でかした一等の毒気と。
頌に云く、三老暗に柁を転じ、孤舟夜頭を廻らす。蘆花両岸の雪、煙水一江の秋。風力帆を扶けて行いて棹ささず。笛声月を喚んで滄州に下る。
三老謝三老ですか、舟の柁取りですってさ、柁とってるひまあったら急転直下すりゃいいって、たしかに暗夜に枕頭をさぐるといった塩梅に、命根を喪し、回避するに処なしなんですが、アッハッハ蘆花両岸の雪、蘆花って真っ白い花らしいんですが、語の響きとあいまって絶景ですか、煙水一江の秋と、まさにもって風景を楽しむが如くあるのは、この僧手応え風力の所転ですか、滞るなきをもって、林云く、草深うして覓むるに処なし、僧云く、和尚もまたすべからく堤防して始めて得べし、絶妙絶景を以て、滄州中国を去ること数万里という理想郷ですか、棹ささずして、一等是れこの毒気ウッフ笛声まさに月を喚んで下るんですか、はいご退屈さま。
第六十則 鉄磨し牛
衆に示して云く、鼻孔昴蔵各丈夫の相を具す。脚跟牢実、肯へて老婆禅を学ばんや。無巴鼻を透得せば、始めて正作家の手段を見ん。且らく道へ誰か是れ其の人。
挙す、劉鉄磨い山に到る。山云く、老し牛汝来るや。磨云く、来日台山に大会斎あり和尚還って去らんや。山身を放して臥す。磨便ち出で去る。
劉鉄磨はい山霊祐の嗣、自らを水こ(牛に古)牛となし劉尼をし(牛に字ーめうし)牛と呼んだ。鉄磨は鉄の臼生仏凡聖をすりつぶしちまうをもっての仇名、とにかく機峰鋭いことはそこらへん坊主の比じゃなかった。女というのはなにやらしても、喧嘩碁っていうか情け容赦もないとこあって、アッハッハさすがい(さんずいに為河の名)山も、身を投げ出してがばっと臥すほかないのがおかしい、おう来たか老し牛、牛というのはむかしから山のようにのっそり、雲衲の姿そのまんまです、牛と牛の挨拶ですか。すると五台山に大会斎があるが行くかという、文殊菩薩出現の霊山ですか、そりゃえらい人方いっぱい、お釈迦さんも来なさるんですか、おい行くかという、うん行くといってすましこんでいると、鉄磨の痛棒食らいますか、おまえどうすると聞いても、拳骨が飛ぶ、うっふっふ面白いですね、磨すなわち出で去る、用事おわったんでもう用なしです、老婆禅はたしていずれにありや、孤俊他に比べるなく、万万歳なることは始めて作家を見ると。無巴鼻とはどことっつかまえてこうじゃない、目鼻なしです、生死の中に仏あれば生死なし、自分といううやむや葛藤に如来あれば自分なしです、どうか早くこれを得て下さい、これが師弟の葛藤うやむやですか、物そのものですか、あるいはこれなんの事件ですか、よくよく見て取って下さい。多少は得るとこあるんですか。
頌に云く、百戦功成って太平に老ふ、優柔誰か肯へて苦(ね)んごろに衡を争はん。
玉鞭金馬、閑に日を終ふ、明月清風一生を富む。
百戦功なって太平に老ふ、というのはい山鉄磨の間柄ですか、世間事に就いては一将功なって万骨枯るですか、禅問答機峰鋭くをひょっとして、そんなふうに思っていませんか、つまらんです。自分というのを天地宇宙に返還してしまって下さい、穏やかにして優柔誰かあえて衡を争わん、三国史にある合従連衡の策を挙げるんですが、どうもそんなことではなく、大法にかなっているか、おれが勝ったおまえ負けたってことではないというんです、木の芽吹くように春である、緑影さわやかに五月という、ここをもって何をあげつらい、何を切磋琢磨かというんです、苦はねんごろと読むらしい、自分というはみだしものを、叩き伏せる、あるいは絶えずそういうことあって、箇の大海三味です、自分という法海一切です、他になんにもありゃしない、玉鞭金馬い山劉鉄磨丁々発止ではないところを見て下さい。用事終わったら帰るんです、まったくそれっこっきりにする、これすばらしいんですよ、閑に日を終わるんです。だれかこれできるものありますか、明月清風一生を富むと、一人こうあり二人あり、十人あって祇園精舎、あるいは一所不定住もすなわち一生不離叢林です、劉鉄磨という伝説をまずもって拭い去るによし。まあそういうこってす。
第六十一則 乾峰一画
衆に示して云く、曲説は会し易し一手に分布す。直説は会し難し十字に打開す。君に勧む分明に語ることを用いざれ。語り得て分明なれば出ずること転た難し、信ぜずんば試みに挙す看よ。
挙す、僧乾峰に問ふ、十方薄伽梵一路ねはん門、未審し路頭甚麼の処に在るや。
峰、柱杖を以て一画して云く、這裏に在り。僧挙して雲門に問ふ。門云く、扇子勃跳して三十三天に上り、帝釈の鼻孔に築著す。東海の鯉魚打つこと一棒すれば、雨盆の傾くに似たり、会すや会すや。
越州乾峰和尚は洞山良价の嗣、ばぎゃぼん世尊と訳す、十方法界我が釈迦牟尼仏の声と姿と、ものみなあまねく仏如来というのに、いぶかし路頭いずれの処にありや、どこに現れているのかという、これ学人だれしもの疑問でしょう、すなわち自ら仏ならば十方仏、自ら知らざれば十方現れずです、どうかしてこれを知りたい、すでに機熟せりと問うには答えるんです、峰云く、杖に一画してここにありという、一画のここになり終わっておればいいんです。急転直下這裏にありです、就中そうは行かなかった、却って雲門に問う、雲門云く、扇子が躍り上がって三十三天に至り、帝釈天の鼻の孔にとっついた、今度は東海に巨大魚があってそいつぶんなぐれば盆をくつがえしたような雨が降るっていうんです、会すや会すや。自分という天地宇宙の異物として、架空の囲いをしている、なんせそいつをぶち破ってやろうという親切です、アッハッハ曲説ですか、委細に説くことはためにならぬといって、どっちみち身も蓋もない事実です。無眼耳鼻舌身意、身もなく心もないところへ帰家穏坐すればいい、直説は十字に打開、ぶった切って架空を粉砕する力、そりゃなんたってそいつが欲しい、たった一通りあるっきりの、こうして解説してなにが親切という、もとなんにもなりゃしない、むちゃくちゃめったらしてぶち抜いて下さい、いぶかし十方薄伽梵と当たって砕ける以外ないんです。師家としては会すや会すや、という他なく。何が分明語りえて分明というその外にあるんです。捨身施虎。
頌に云く、手に入って還って死馬を将って医す。返魂香君が危ふきを起こさんと欲す。一期通身の汗を拶出せば、方に信ぜん儂が家眉を惜しまざることを。
混沌に目鼻をつけたら死んでしまったという、仏説を説くに当たって手に入るには手に入るんですか、いえそんなこたないです。説くといったって説く物がなく、一画してこれと示す以外になく、次に一画を外してそれと云うんですか、わしは他に接するに当たって、何をどうしたらいいかさっぱり不安です、自信なんかあったもんじゃない、でも相対すると、駄目だ、こうだとか予想外のことやってます。ちっとは外れたか、ええもうちょっとうまく云えりゃいいんだがと。わしに接するだけで幾分かはと、そりゃ思うには思ってます。か細い線みたい、板っぺらみたいの、せっかく三十三天築著大鯉の頭ぶんなぐって雨降らせも屁の河童、だのにってわけです。返魂香ですか、死んだら蘇るんです。いえ死んだらもっと死ぬってことないかって、あるんですよ。死ぬっきり自分の外が蘇るんですか、いえ外はもと外っきり、自分死ねば外=全体ってだけです、魂が返って来るんです、そのためにはちった汗流して下さい、でもって仏説なあるほどなあってことあります、たしかにこりゃ他なしだって感心します、いえ感嘆賛嘆威なるかな大慈大悲。なにしろとっ外して下さい。
第六十二則 米胡悟不
衆に示して云く、達磨の第一義諦、梁武頭迷ふ。浄名の不二法門、文殊口過まる。
還って入作の分有りや也た無しや。
挙す、米胡、僧をして仰山に問はしむ。今時の人還って悟を仮るや否や。山云く、悟は即ち無きにはあらず、第二頭に落つること争奈何せん。僧廻って米胡に挙似す。胡深く之を肯ふ。
米胡、雪峰に継ぐといいい山に継ぐともいう、なんで自分で行って問うことをしないのかというと、まあそういうこともあるわけです。仰山一刀に両断す、今時の人還って悟を仮るや否や、悟りを得たといいそれ故にという、居直り禅に、悟りなんかないという尻をまくるのや、いえここはずっとまともなんです。悟り終われば悟りなし、全身全霊もて悟りを得るんです、それは驚天動地、ユーレイカというより、手の舞い足の踏むところを知らずです。それがどういうものか消えてしまう、はたしてあれはなんであったかというには、却って距離を置く、そうではないんです、今時のおのれはというだけ余計です、今のおのれしかないんです。でもって悟を仮るや否や、悟りを得てはじめて知る、もとかくのごとくあるをと、そりゃどういってみたってそういうこってす。しかもなを悟り有りや無しやと聞かれれば、まるっきりそんなもな無いんです。故に山云く、悟りは即ち無きにはあらず、第二頭に落つることいかんせん。あのときこう悟ったという鑑覚の病ですか、不都合ですか、たしかに第二頭ヘビの双頭ですか、そりゃうまく行かんです。悟りを諦めることです、悟り以外仏教とてないんです、悟りを捨てる仏教を捨てる、すなわち自分の生涯自分をなげうつんです、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ、法の他にまったくないんです。ここにおいて達磨廓然です、不識をもって花開く、人間の如来は人間に同ぜるが如し、維摩の真面目も文殊の知恵もそりゃはるかに届かんですかアッハッハ。
頌に云く、第二頭悟を分って迷を破る、快に須べからく手を撒して筌ていを捨つべし。功未だ尽きざれば駢拇となる、智や知り難し噬臍を覚ゆ。兎老いて氷盤秋露泣く、鳥寒うして玉樹暁風凄たり。持し来たって大仰真仮を弁ず、痕点全く無うして白珪を貴ぶ。
筌てい(四の下に弟)うけという魚を取る道具に兎わなです、第二頭悟りをもって見るんですか、仏教という標準が今度は筌ていとなって、悟りというかくあるべきです、どうもやっぱり誰彼これを免れるに四苦八苦ですか、どこまで行ってもということあって、ついには手を撒っす手放しです、捨身施虎身心なげうつんです、そりゃ悟りを得る前と同じだという、就中したたかであったりします、でもこれ道が進んでいるんですよ、絶え間なしの退歩ってことあります、悟りを得ぬまえはこうはいかんです。俗にもういっぺんやれば納まるという、まあこれです、面白うなければ面白うなるまでという、その裏かわから来たりの、なんともこれ筌ていを外れるんですか、まあやって下さい、どっちみちおまえさんなんかこの世に用なしってなもんですアッハッハ。駢拇足の指肉の連なった不具です、なんとしても、おれがというそれあったらただの人にならんです、以無所得故です、なんともまあ元の木阿弥、どうしようもないんです、噬は噛むへそを噛むんです、これまあ悟後の修行の苦心惨憺をだれしも知る、米胡に乾杯ってわけですか、兎老いて氷盤は晩秋の月ですか、玉樹暁風凄はなかなか、そりゃまあ人情世間から云えばそうなりますか、わしのようなぐうたらでさえ世の中人間のはるかに取り付く島もないです、でもって坐るごとにしょうもないやつが顔を覗ける、はいおさらばってやってますよ。この事二二んが四、別段なにもありゃせんですがかくの如し。
第六十三則 趙州問死
衆に示して云く、三聖と雪峰とは春蘭秋菊なり。趙州と投子とは卞璧燕金なり。無星秤上両頭平らかなり。没底航中一処に渡る。二人相見の時如何。
挙す、趙州投子に問ふ、大死底の人却って活する時如何。子云く、夜行と許さず明に投じて須からく到るべし。
三聖雪峰第三十三則三聖金鱗にあります、三聖慧然臨済の嗣、雪峰は徳山の嗣、大趙州は南泉普願の嗣、投子義青は太陽警玄の嗣、ともにこれ並ぶなき大宗旨と、春蘭に比するに秋菊、卞璧燕金軽重亡きこと双方比類なき宝、星のない秤世間の秤ではなくという、計るに計れないんでしょう、底なしの航海ですか、航は舟にエです、二人相見の時如何という、そりゃ行深般若波羅蜜多、彼岸にわたるに深浅ありと、ここに至って切磋琢磨、油断なき日々という、ちらともあればそれによって倒れるんです、転んでもただでは起きない日々ですか、大趙州でさえ投子に問うんです、大死底の人却って活するとき如何、死にゃ生き返るんですか、いいえ自分死ぬ分回りが生きるといえばいいか、あるとき有頂天あるときなんでもなくです、つまらないといってはその分面白かったりする、それはまた風力の所転、ですがそいつをよこしまにするなという、間文人などの孤独ではない、ひとりよがりじゃないってことです。ここが仏教の断然仏教たるゆえんです、一生不離叢林、良寛対大古法にがきどもを以てする所以です、わかりますかこれ。りゃ我無ければ他が為以外にはなく、あるいは自未得度先度他の故にですが、だからかくの如しじゃない、もってこれを回転です、でなくば臍を噛む思いですか。明に投じてすべからく到るべし、夜行を許さずの一点ゆるがせにせぬ覚悟です。なんでもありの悟ればマルというのは終わったんです、ただの人の200%日々是好日これ。
頌に云く、芥城劫石妙に初めを窮む、活眼環中廓虚を照らす。夜行を許さず暁に投じて到る。家音未だ肯へて鴻魚に付せず。
劫という長い時間を論ずるのに、一大城東西千里南北四千里、これに芥子を満たして、百歳に諸天来たって一を取る、芥子尽きるまでと、一大石あり方四十里百歳に諸天来たって衣に払う、石のすりきれて尽きるまでという、こっちのほうが一般的です、芥城劫石長い時間ですか、趙州六十歳再行脚という、我より勝れる者は三歳の童子といえどもこれに師事し、我より劣れる者は百歳の老翁といえどもこれに教示すと為人の所です、まさにこれより始まる、廓虚自分というものの失せきって行くありさまです、これなおざりにしちゃいかんです、できたと思ってもますますです、どこまで行ってもの感がありますよ、アッハッハ活眼環中上には上があるんですか、なにさ一生この事の他ないんです。夜行を許さず暁に投じて行く他ない道中、なんていうんだろこれ、裏を見せ表を見せて散る落ち葉、焚くほどは風がもてくる落ち葉かなでもいいです、たいていの人の持つ裏表、家庭の事情がないんです、鴻魚手紙で通信することです、うっふっふそういったこといらんのですよ。至道無難唯嫌揀択ただ憎愛なければ洞然として明白なり、余は明白裏にあらずという、すでに明白裏にあらずんばなんとしてか唯嫌揀択、云うことは云いえたり礼拝し去れという、趙州大趙州です。
そりゃまっしぐら脇目も振らずの他ないんです。そうですよどんなに年食おうが遅いってことないんです、得られたことだけがあるんです、しからずんばまた生まれ変わって得て下さいってね。
第六十四則 子昭承嗣
衆に示して云く、韶陽親しく睦州に見えて香を雪老に拈ず、投子面のあたり円鑒に承けて法を大陽に嗣ぐ。珊瑚枝上に玉花開き、せん葡林中に金果熟す。且らく道へ如何が造化し来たらん。
挙す、子昭首座法眼に問ふ、和尚開堂何人に承嗣するや。眼云く、地蔵。昭云く、太はだ長慶先師に辜負す。眼云く、某甲長慶の一転語を会せず。昭云く、何ぞ問はざる。眼云く、万象之中獨露身。意作麼生。昭乃ち払子を竪起す。眼云く、此は是れ長慶の処に学する底なり、首座分乗作麼生。昭無語。眼云く、只だ万象之中獨露身というが如きんば是れ万象を撥らふか万象を撥らはざるか。昭云く、撥はず。眼云く両箇。参随の左右皆撥ふと云ふ。眼云く、万象之中獨露身、にい。
韶陽雲門大師は睦州(陳尊、黄檗の嗣)に始め参学す、雪老雪峰の法を嗣ぐ、投子義青は円鑒臨済七世の孫、大陽警玄の法を受けて投子を嗣続せりとある、すなわち珊瑚樹上に玉花開き、せんぷくは香花と訳すそうです、金果熟すをもって、大法の伝わる様子。そりゃ因縁熟す、順熟という、熟した柿がほろりと落ちるようにという、法眼托鉢行脚のついで地蔵に会う、なんのため行脚すると云われて、知らん行脚してるんだという、知らぬもっとも親切といわれて大悟、ほんとうに他なし無所得の風景が一転するんです。たとい長慶に参じて久しいとはいえ、某甲一転語を会せずということがあった。子昭も共に久参です、だのに地蔵に嗣ぐと、なんでだと問う、師匠に背くではないか。万象の中獨露身意そもさんと却って問われる、昭すなわち払子を竪起す、あるいはこれあってかくの如しとやってたんでしょう、是とするには未だし。首座分乗そもさん、おまえの云い分はどうなんだと問はれて、ついに無語。法眼探棹影草ですか、ひっかきまわす、撥か撥にあらざるか、撥わずと案の定ひっかかって来た、こいつを撥わにゃならんです、百尺竿頭いま一歩です、万象のうち獨露身と示す、箇の無縫塔です、にいは斬に耳、かつとかろというやつ、法眼常套手段かつて知るや否や。
頌に云く、念を離れて仏を見、塵を破って経を出だす。現成の家法、誰か門庭を立せん。月は舟を逐ふて江練の浄に行き、春は草に随って焼痕の青きに上る。撥と不撥と、聴くこと丁寧にせよ。三径荒に就いて帰ることは便ち得たり、旧時の松菊尚芳馨。
念を離れて仏を見ることは、もとまさにこのとおりなんですが、就中困難です、臨済も曹洞は死出虫稼業の他見る陰もないんですが、今様坊主、念を離れて仏という人を知らんです、お経にしがみついてだみ声上げるばっかり、唾棄すべきです。鶯のように蛙のように鳴いてみろってアッハッハわしとこの一応目安ですが、自分というものまったく失せてお経は、そうねえ人みな感激します、生まれてはじめてお経を聞いた、どうしてこんなに気分がいいんだろという。説法なくばせめて身を以て示して下さい。現成の家風だれか門庭を立せん、わしと他さまざま宗旨と違うのは、みな宗旨といい門徒という、仏教悟りの中にあっての云々です。わしはそうではないもとものみななんです、世間出世間まっ平らです、しかもわし以上に仏を信ずる者なしと思ってます。家法門庭をいう、虎の威をかる狐ですか、わしにはそんな大それたものはない、自分というどうしようもないものを、断じて許せぬものをついに免れた、というんですか、自分無ければ可と、それだけです。するとある時如来と現ずるんです、月はかつての自分という舟を追うんですか、いえ月もなく舟もないんです、それをしも江練、練り絹のような水というたですか、ビジュアルには雪舟の絵があります、参照して下さい。これは春野焼きのあとの青草ですか、初々しく生い伸びる、いっぺん撥と不撥と旧によって塵芥を払拭するんですか、三径という色不異空のしきいを跨いで、色即是空を知る、ついには元の木阿弥です、しかも自分というわだかまりが全く失せるんです、暫く七転八倒ありますか、そりゃただではただが得られない、でも一生を棒に振る価値はあります。
第六十五則 首山新帰
衆に示して云く、咤咤沙沙、剥剥落落、丁丁蹶蹶、漫漫汗汗、咬嚼す可きこと没く、近傍を為し難し。且らく道へ是れ甚麼の話ぞ。
挙す、僧首山に問ふ、如何なるか是れ仏。山云く、新婦驢に騎れば阿家牽く。
たたささ、はくはくらくらく、如何なるか是れ仏と問われて、まさにこう答えたかどうか、取り付く島もないんですが、ぜんたい箇に帰る、自分=取り付く島もなしと知るにいいんです。咬みがたく咀嚼しがたし、手をつければ大火傷を負うを知って、ついに手つかずになる、これを参禅という、単純を示すんです。でもなんにもないかというと、なんにもないものを得るのに、新婦ろばに乗れば姑これを引くと、どうあっても一言あるわけです。まあだからどうの云ってないで、なんでもありありです、登竜門です、全霊もっての跳躍ですか、諦めて下さい。急転直下は、アッハッハまったくこの世から去ればいいんですか、私というものなくものみなが呼吸し、座禅しているんですよ、そうしてどうやら真相他にはないんです。首山の宝応省念禅師は風穴延昭の嗣。
頌に云く、新婦驢に騎れば阿家牽く、體段の風流自然を得たり。笑うに堪えたり顰に学ふ隣舎の女、人に向かって醜を添えて妍を成さず。
西施心を病む、心を捧げて顰すれば更に美を益す、隣家の醜女醜に習って更にその醜を増す。という故事をひく、象潟や雨に西施が合歓の花と、芭蕉の句にある中国美人代表、まあこれ意味を云々したい人には、仏を学ぶを新婦、ようやく生涯落処定まって、いよいよもって師家に手を引かれて行く、といった処ですか。姑だでアッハッハそりゃどえらい目に会うぞよってのは蛇足、うまくその風流自然を得たりというからには、頌に云く一段の新風ですか。あんまりそうも行かず、あとつけるには、しかめ面の新婦のまねしていよいよ醜くという、そりゃ人まね横滑りの修行はしかめ面残るだけです、まあたいてい坊主だの学者それやってるですがね、驢に騎ろうがなにしようが、大乗自ずからです、もう他なしということあって、そりゃ美醜も分つ、洞然明白おのれ無うしてだのに、なんとしてかおのれを用いる、アッハッハ実にこれ不可思議千万てね。
第六十六則 九峰頭尾
衆に示して云く、神通妙用底も脚を放ち下さず、忘縁絶慮底も脚を抬げ起こさず。
謂つべし有時は走殺し、有時は坐殺すと。如何が格好し去ることを得ん。
挙す、僧九峰に問ふ、如何なるか是れ頭。
峰云く、眼を開けて暁を覚えず。僧云く、如何なるか是れ尾。峰云く、万年の牀に坐せず。僧云く、頭有りて尾無き時如何。峰云く、終に是れ貴とからず。僧云く、尾有りて頭無き時如何。飽くと雖も力なし。僧云く、直きに頭尾相ひ称ふことを得る時如何。峰云く、児孫力を得て室内知らず。
九峰の道虔大覚禅師は石霜慶諸の嗣、頭尾という、頭は入得の最初初心の修行を云う、尾は末後の牢関究竟のねはんを云うとある、初発心と終に得るところとですか。
終に得るとはどういうことか、況んや元の木阿弥、虎を描いて猫にもならず、終にこれ鼻たれの栄造生、良寛さんの幼名ですが、なんかたいへんなことをしたんだというのが失せる、いったいおれはなにをやっていたんだというしばしばあって、それも失せてなにかこう、引っ込んでないんです、どういってみようもないんですが、他と接すると圧力の違いみたいな、万年の牀に坐せずは、云いえて妙です。九峰なんて聞いたこともねえがなんだと思ったら、はーいっていって納得。眼を開けて暁を覚えず、それっこっきりに入れ揚げるのと、暁が見えない、暁になってこっちを見ているんです、不思議な光景があって初発心の満足を知る。これだという、これだという大まさかり振り回しては、ついに是れ貴とからず。また初発心のみという、まさにこれそういうことなんですが、悟りという一札なければ、尾あって飽くとも力なし、なんにもなりはしないんです。有耶無耶の世界に終わる、頭尾あいかなうことを得るとき如何、アッハッハそれがし有耶無耶と云いたいところですが、児孫力を得て、ようやく作家ですが、することなすこと別段ないんです、ぴったりとさへ思わずのものみな標準。うれしくもなんともないですか、うっふまあそう云っておけ、室内秘伝なんてあるわけがない、出ずっぱりになっちまう。朝に天台に行き夕に南岳に帰るといえば一蒲団上の入息出息と坐殺、どうもそういうけちなこと云わんです。
頌に云く、規には円に矩には方なり。用ゆれば行ない舎つれば蔵る。鈍躓蘆に棲むの鳥、進退籬に触るるの羊。人家の飯を喫して自家の牀に臥す。雲騰って雨を致し、露結んで霜と為る。玉線相投じて針鼻を透り、錦糸絶えず梭腸より吐く。石女機停んで夜色午に向かう、木人路転じて月影央ばを移す。
規はぶんまわし、つまり円を描く、矩は定規、規矩といってまた僧堂規則をいう、老師会下に、規矩なしをもって規矩となすとしたのは、板橋興宗禅師であった。
宗門にはついに老師会下が起こる、そりゃ他には仏教のぶもなかったんでしょう。威儀即仏法行事綿密という猿芝居に葬式稼業の、云う甲斐もなさ、大法あるというても本当の法とは遠かった。用いれば行ない、捨てれば蔵るという、そりゃまあそういうこって、蘆に棲む鳥のどったばった、まがきに触れる羊の滑稽、人の家の飯を喫しててめえんとこの牀に坐す、どうですかまったくそういうことやっていませんか。西に向かって東を求める、百年河清を待つは、こっちの岸でパーラミーター彼岸へ渡ろう、渡ったやってるんですよ。反省すべきはまさにこの一点なんです、さあ坐ってごらんなさい、まったく違うんです。針鼻は針のめど、梭腸は梭の糸口、いったん緒に就くということあって、ついにはそれを忘れるんです。多少の苦労はあります、雲おこって雨降らし、露むすんで霜となるなーんてわけには行かんか、でもものみな自分がして自分が苦しんでいる、まったくの天然現象ですよ、因果歴然と坐ってるようなもんです、知らぬは自分ばかりなりってね。従い木人まさに歌い石女舞う、はーい万事お手上げ、勝手にしてくれってなもんで、しばらく落ち着くんです、なにさどうせ棺桶に入るっきりだっていうなら、ミイラになって活仏。
第六十七則 厳経知慧
衆に示して云く、一塵万象を含み、一念三千を具す。何かに況んや天を頂き地に立つ丈夫児、頭を道へば尾を知る霊利の漢、自ら巨霊に辜負し家宝を埋没すること莫しや。
挙す、華厳経に云く、我今普く一切衆生を見るに、如来の知慧徳相を具有す、但だ妄想執着を以て証得せず。
華厳経は釈尊成道の直後、自内証の法門をそのまま説かれたものとある、華巌経も法華経も一言半句しか読んだことがないので、とやこういうわけにゃ行かぬが、安芸の宮島へ行って平家納経を見たとき、長年普門品第二十五というのを一巻だけ読んでいたら、展示の三巻が読める、感動した。今ではもう日本人には書けぬ、美しいすばらしい真面目の字であった。たとい平家滅んでもこれは残る、日本人滅び去っても残る。いえ平家納経雲散霧消しても、仏も仏法もちゃーんとあるんですか。人はその中に生まれ、大法のこれあるがまんまに生きる、ただ転倒妄想の故にないがしろにし、あきめくらをやっていて、しっぺ返しを食うのは自分と傍迷惑ですか、そりゃしょうがないたって、しょうのないことに気がついたら、元へ帰ればいいです。一箇光明なれば四維を照らすんです、世の中よくしようには他の方法はないんです。宮沢賢治は、世界中が幸せにならなければ個人の幸せはないといった、それは西欧流の思考です、美しい詩人の魂ですか、賢さは大好きですが、これは間違っています。一塵大千世界です、一念宇宙そのものです、どうか一個でも半分でも光明になって下さい、次の一個が光明になります、そうして一個半分光明ならば、世界現ずるんです、なにけちなこと云わない、まさに妄想執着の故を以てです、もと明白もと洞然、如来の徳相知慧愚痴のまんまです、実にこれお釈迦さんがはじめて気がついたんです、よくよく見て取って下さい。巨霊という、そのあるがまんまに辜負、とってもそんな大それたものはとやるんです、でもってせっかくの宝蔵が台なし。
頌に云く、天の如くに蓋ひ地の如くに載す。団を成し塊を作す。法界に周うして辺なく、隣虚を折ひて内無し。玄微を及尽す、誰か向背を分たん。仏祖来って口業の債を償ふ。南泉の王老師に問取して、人々只だ一茎菜を喫せよ。
天王の思清禅師上堂、払子を竪起して云く、只這箇天も蓋ふこと能はず、地も載すること能はず、遍界遍空団と成し塊と作す。というによる、法界に周ねく隣虚を砕くことは、まずもって参禅の人これを得て下さい。地なく天なく清々としてあまねくこれ、玄微を及び尽くすんですか、無心という無身という、自分という口実のまったく参加しないんですか、たとい坐中向背あろうともまったくかすっともかすらないんです、わしのような猫背姿勢のかたくな、どうにも気にすること長かったですが、そんな必要はまったくないんです、もとこの通りあって手つかず、仏祖だけが、人類百万だらの申し訳をしようっていう、アッハッハまさに坐禅とはこれ、でなくば間違いだらけの、いっそ救われん、実にそういうこってす。如来これ、だから仏像おったてることはないよって、南泉と杉山とも、菜っぱをそろえておったんでしょう、一茎草をとって威なるかな、大いに供養するによしとやったんです、百味珍羞もまた省みずと、あるときは丈六の金身あるときは一茎草、私するなんにもなければ正解、仏というそりゃ供養に足るんですよ、ええ、あなたもです。
第六十八則 夾山揮剣
衆に示して云く、寰中は天使の勅、こん外は将軍の令、有る時は門頭に力を得、有る時は室内に尊と称す。且らく道へ是れ甚麼人ぞ。
挙す、僧夾山に問ふ、塵を撥って仏を見る時如何。山云く、直に須らく剣を揮うべし。若し剣を揮はずんば漁父巣に棲まん。僧挙して石霜に問ふ、塵を撥って仏を見る時如何。霜云く、渠に国土なし、何れの処にか渠に逢はん。僧廻って夾山に挙似す。山上堂して云く、門庭の施設は老僧に如かず、入理の深談は猶石霜の百歩に較れり。
夾山善会禅師は船子和尚の嗣、石霜慶諸禅師は道吾円智の嗣。夾山は道吾に云われて船子和尚に参ずる、船子徳誠、薬山惟儼の嗣、華亭にあって小舟を浮かべて往来の人を度す、法を夾山に伝えて、自ら舟をくつがえして煙波に没すとある。寰中畿内ですか、天子の勅が行き渡る、こんは門に困、塞外というか門外は将軍の威令による、まあこれ一応坐になる、坐禅として定に入るということですか、渠に国土なし、いずれの処にか渠を見んとこう坐ってるんです、塵塵三味ですか、捉えようたって捉えようがないです、寰中は天子の勅、勅は行きっぱなし、出たらそれっきりの絶え間なし出ようが、そいつに乗っ取ろうがなにしようが、首切られてまで文句いうやついないんですよ、正しいか間違っているかアッハッハそんなこた知らん、ていうより正邪もと根無草ですか、因果をくらまさず、どうもさっぱりわからんまんま。ですが妄想煩瑣というか、なにしろ右往左往、とっつきひっつきの時分は、将軍の直に須からく剣を揮うべしです。ばっさりばっさりやりゃいい、頭一つふるうとふっ消える、前念消ゆれば後念断つ、切ることはふっ切ればいい。悟ったらどうかといって、いずれ同じ迷い出す、なんとかせにゃならん、どうにも外れんところ、捕われるところを、あるとき本当に取り除くんです。一切無礙一切自由、如来となってしばらくこの世に現ずる実感ですか、でもそんな取り決めはないんです、歴史だの世界だの諸思想宗教を圧するんですか。なに出入り自由といったほどの、かすっともかすらないんです、仏を見るに仏を見ず、自分というもののない、なけりゃどうしてないを知るんだという、はいとやこう云わずにやって下さい、他なしってことを自覚します、これを無自覚というアッハッハ。
頌に云く、牛を払ふ剣気、兵を洗う威。乱を定むる帰功更に是れ誰ぞ。一旦の氛埃四海に清し、衣を垂れて皇化自ずから無為。
氛は気、妖気凶事に使う、牛を払う剣という、牛は牽牛の星、観察するに異気ありといってとやこう、石の箱に二振りの剣があって云々の故事。武王紂を撃つ、大雨が降ってこれ天が兵を洗うといった。まあ中国四千年故事だらけで、もってするのが詩人というものだが、どっちみち木石山河を用いるのとアッハッハ目糞鼻くそですか、なんていうと怒られますか。人の知る処を利用するは禅家の日常茶飯、大げさにしたって百害あって一利なし。まあいいいか坐っていて妄想百般、あるいは念起念滅、乱を定める帰功更に誰ぞと、まあとにかくそういうこってす。不思議に収まり不思議にまた起こる、これをどうこうしようという念の納まる、対峙を双眠するという、常坐ってはこの繰り返しですか。一旦の氛埃納りかえって四海清しと、そこに自分というものあっちゃ届かないんです。自分という自分以外ですか、たしかに知ることは知るんです、でも言語に絶するんです、これを皇化衣を垂れて自ずからという、なかなかむかしの中国人は無為を云うにも、これだけの大袈裟、いやさ繊細があった。今の中国人は別人かな、エレガンスとか教養のかけらもない、ぶたに眼がねみたい為政者どもの、万ず屁理屈聞いていると、腹立つ前に呆れ返る。共産主義すなわち思考停止の成れの果て。
第六十九則 南泉白こ
衆に示して云く、仏と成り祖と作るをば汚名を帯ぶと嫌い、角を戴き毛を被るをば推して上位に居く、所似に真光は輝かず、大智は愚の若し、更に箇の聾に便宜とし、不采を佯はる底あり。知んぬ是れ阿誰ぞ。
挙す、南泉衆に示して云く、三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白こ却って有ることを知る。
南泉普願禅師は馬祖道一の嗣、道元禅師が栄西禅師に如何なるか是れ仏と問うて、三世の諸仏知らず、狸奴白こ却って是を知ると、云われて、ようもわからんです、万里の波頭を越えて入宋沙門となる。りぬびゃっこは狐狸の類だと思っていたら、狸奴で猫白こ(牛へんに古と書く)は牛という、ひっくりかえして狸奴白こ知らず、三世の諸仏却ってこれを知るといったら、この世に仏祖がいなくなる、でも世間おおかたの意見これ、仏仏を知らずということを知らない。別段仏となり祖となるを、汚名を帯びるといって嫌い、なとややっこしいこといらぬ、朕に対するは誰ぞといわれて、不識知らないという、それそのまんまです。坐っているでしょう、坐っているあなたは誰と自問自答するに、直きに知らないと答えが返るんです、知っている分がみな嘘です、あるいはどのような自負も私も一瞬のちにはついえさる、糠に釘ですか、そうなると如来の相を現ずるも間近いんです。如来、あなたはだあれ、知らないという花のように咲く、人間の如来は人間に同ぜるが如しです。きつねたぬきと、あるいは猫牛という、もしやよっぽど人間よりも知らない類、けだものという時に人間のほうがずっとけだものだ、なぜか、観念に捕われて野卑です、たとい強姦殺人もなにかしらの智恵考えによる、それに捕われぬ工夫あって免れるんです。
よくよく見て取って下さい、自救不了の如何なる原因か、我をなにかしらと見做す、まずもってこれの根本を糾して下さい。俄か坊主が思想だの、らしくだの大威張りかいている、滑稽だが本人は気がつかない、世間人の延長なんです、どうしてもこれ、如何なるか是れ仏と問いなおす必要がある、三世の諸仏知らずと示すには、たとい南泉もおうむ返しでは、そりゃ効き目ないです。効き目ないことを知るが先決、とは情けない。
頌に云く、跛跛挈挈、繿繿纉纉、百取るべからず、一も堪ゆる所なし。黙々自ずから知る田地の穏やかなることを。騰騰誰か肘皮敢心なりと謂はん。普周法界渾て食卞と成す。鼻孔塁垂えおして飽参に信す。
跛はちんば挈はてんぼ、繿は監に毛で髪の乱れて整わぬさま、纉は参に毛でおんぼろけ、そうですねえ寒山拾得の図でも思い浮かべますか、なりふりかまわぬありさまです。百取るべからず、一も堪ゆるなし、これ就中出来ないですよ、坐っていてどうしても運転するでしょう、どこまで行っても物差しです、ああだこうだやっている。まして況んやしゃば人間をやです。そいつがまったく手放しになる、すると三世諸仏ですか。つまらんわしというしかないんです、ほんとにどうもこうもです、しかもそいつを観察しないでいられる、ほったらかしに忘れ去る。黙々自ずから知る田地の穏やかなることを、実に云いえて妙です、なんでもありありのどうもこうもないんです。たとい転んでもただでは起きないんですか、いいですか、もう終わってしまったんですよ、ふたたび鍛え直してという、頭にたがはめないんです。文句のつけようにないものみな法界です、文句をつける自分が失せる、食卞は飯に同じだってさ、敢心はばかですってさ、肘皮つっぱらかったって、虚空そのものなんです、騰騰しようが、わけもわからん曖昧しようが、たとい呑却し終わってどうもこうもならんです、鼻孔塁垂として飽参に任す、はいそうですねえ、このように坐って下さい。
第七十則 進山問性
衆に示して云く、香象の河を渡るを聞く底も已に流れに随って去る。生は不生の性なるを知る底も生の為に留めらる。更に定前定後、笋となり蔑となることを論ぜば、剣去って久しゅうして爾方に舟を刻むなり。機輪を踏転して作麼生か別に一路を行ぜん。試みに請ふ挙す看よ。
挙す、進山主、脩山主に問うて云く、明らかに生は不生の性なることを知らば、甚麼としてか生の為に留めらるるや。脩云く、筍畢竟竹となり去る、如今蔑と作して使ふこと還って得てんや。進云く、汝向後自ら悟り去ること在らん。脩云く、某甲只此の如し上座の意志如何。進云く、這箇は是れ監院房、那箇は是れ典座房。脩便ち礼拝す。
進山主、清溪洪進禅師、脩山主、龍済紹脩禅師、ともに青原下八世地蔵桂しんの嗣、つまり進山主は監院、住職に代ってお寺の行事など一切を司る役、脩山主は典座、会計から食事など一切を司る、ともに重職である、今も僧堂で同じに続いています、ともに法を得ることなければそりゃ無理です。雑っぱ一からげの無理無体じゃしょうがない。生は不生の性なることを知って、不生不滅、不垢不浄、不増不減と心経にある、このとおりものみなのありようです、だからどうのの理屈ではなく、不生の生なんです、しかも生きるという、生死というこの中にあってとやこうするんです、生の為に留めらる、大問題です。
本当には悟っていないんではないか、法とは別個やっているんではないかという、あるときは是あるときは不是やるんです。すると是非やっている自分ごと持って行かれるんですか、気がつくとなんの問題にもならんです、そっくり自分というものなしにある。死ぬあるいは生老病死、あるいは四苦八苦そのままに行くんです。たけのこはひっきょう竹になる、こっちのとやこう斟酌の他なんです、とやこう斟酌のアッハッハそのまんまにですか。蔑は竹かんむりで、竹の皮で作った縄ですとさ、襪という靴のような指なし足袋のこったと思ったら違った、どっちでもまあ終に皮を残すってやつ、わが大法には用いることが出来るかというんですか、まだたけのこだっていうんですか、筍も笋も同じです、なあにそのうち自ら悟り去ることあらんと。それがしただかくの如し、就中正解なんです。使うべき皮など考えないんです、いや人は知らず後輩のわしなんてまったくただこれ、日毎にただこれってしかないです。上座の意志如何と聞きうる人幸い、一人つんぼ桟敷やってるわけじゃさらさらないんです。こっちは監院寮そっちは典座寮、はいといって礼拝し去る、よきかな。
頌に云く、豁落として依を忘じ、高閑にして覊されず。家邦平帖到る人稀なり。些些の力量階級を分つ。蕩蕩たる身心是非を絶す、介り大方に立って軌轍なし。
豁落がらりからりというんですが、なんにもないさまなんですよ、依存を忘れることは、就中困難なんです、ついにかくの如くあれば如来、わがことまったく終わるんです、さあどうにかして得て下さい、高閑にして覊されずといって、依存症やっていませんか、仏あり外道ありする四分五烈ですか、ただこれ家国あるによる、守るべき自分、従うべきなにかしらあって、上には上がありしている、それじゃ囚われ人です。おれは悟れない人間だからといって、安穏に座し、、おれは俗人だからといって、他を汚す。なぜかというに、そのまあうんこ小便のむじな穴から一歩も出たくない、いじましいったらしかも、人をあげつらって生きています。共産主義みたいに無知という無恥をもっての故にものごとありですか。傍迷惑というだけが、誰彼極端に疲弊するかに見えて、一人二人箇の真面目ということあって、宇宙三界形をなすんです。蕩々任運にまかせるんですか、ものみな200%ということです、映画を見てとやこう批評より、映画になっちまって無感想です、介、ひとり大方に立って軌轍なし、完全なんですよ、いいからたったいっぺんやってごらんなさい。
第七十一則 翠巌眉毛
衆に示して云く、血を含んで人に噴く自らその口を汚す。杯を貪って一世人の債を償う。紙を売ること三年鬼銭を欠く。万松諸人の為に請益す、還って担干計の処ありや也た無しや。
挙す、翠巌夏末衆に示して云く、一夏以来兄弟の為に説話す。看よ翠巌が眉毛ありや。保福云く、賊と作る人心虚なり。長慶云く、生ぜり。雲門云く、関。
祟覚禅師野狐禅を頌す、血を含んで人に吹く、先ずその口を汚すと、杯を貪っては特別の故事はなく、世の中貪嗔痴の故にですか、さかずきを貪って一生人の債を償うこと、鬼銭は紙銭といって棺桶に入れるやつ。翠巌、瑞巌師彦禅師は巌頭の嗣、一生常に坐して毎に自ら喚んで云く、主人公、また自ら応諾す、ないし云く、、惺惺著、他時人の瞞を受けることなかれと。夏はげと読み、制中といって修行期間、夏安居、冬安居とある、一夏おわって兄弟ひんでいと読む、為に説法して来た、みろわしの眉毛があるか、という。嘘をつくと眉毛が落ちるという。さあどうですか、しゃく金昔をもってしゃくにつく、あやまちをもってあやまちにつく、将しゃくが仏祖お釈迦さま、就しゃくが弟子ですか、アッハッハちいとも感心せんですかまったく。保福云く、賊となる人心虚なり、賊とはまさにしゃくをもってですか、人の妄想になりおわって、強盗です、ごっそり抜き取る、そりゃ有心じゃ不可能です。眉毛があるか、達磨にひげがあるかってやつ、あれば見ている自分がある。不可という根も葉もないんです、両重の公案ですか、長慶云く、生ぜり、生えているっていうんです、気にしているやつがいるらしいぞ、わっはっはてなもんです。雲門云く、
関。はいこの関透過して下さい、他に瞞ぜられずですか、ちらとも思ったら、おでこ床にぶっつけてお拝しては、主人公、はい、しっかりせえ、だれにもたぶらかされるなとやって下さい、これを関というんです、たとい命がけですよ。鬼銭など貯めこんでるんじゃないです。
頌に云く、賊と作る心、人に過ぎたる胆。歴歴縦横機感に対す。保福雲門垂鼻唇を欺く。翠巌長慶脩眉眼に映ず。杜禅和何の限りかあらん、剛ひて道ふ意句一斉に剞ると。自己を埋没して気を飲み声を呑む、先宗を帯累して牆に面ひ板を担ふ。
保福従展禅師は雪峰の嗣、長慶慧稜、雲門文偃禅師ともにまた雪峰義存の嗣、垂鼻唇を欺くというのは、鼻が長く垂れて唇を隠す、脩眉眼映は、眉毛が長く伸びて眼に映る、ともに大人の相ですとさ。賊となる心、人に過ぎたる胆は、すなわち杜撰禅和の預かり知らぬところ、でたらめやってるんじゃないです、強いて云う意句、人のとやこう仏教周辺を一刀両断ですか。口辺に鼻がおっかぶさるによって、いやさ自己を埋没して気を飲み声を呑む、眉毛が長くなって眼に映るほどにと、詩人の言語徒労に終わる、アッハッハそうではなくって云いえて妙ですか。先宗を帯累して、巻き添えにして牆に角ひっかけ、担板漢やるんですか、あなたもわたしもだれでもやっている、まあこいつを免れぬとって、況んや雲門翠巌四大をおいておやと、そんなふうに読めますが、アッハッハ関。
第七十二則 中邑み猴
衆に示して云く、江を隔てて智を闘はしめ、甲を遯ぞけ兵を埋ずむ。覿面すれば真鎗実剣を相持す、衲僧の全機大用を貴とぶ所以なり。慢より緊に入る。
試みに吐露す看よ。
挙す、仰山中邑に問ふ、如何なるか是れ仏性の義。邑云く、我汝が与めに箇の譬喩を説かん、室に六窓あり中に一み猴を安く、外に人ありて喚んで猩猩といえばみ猴即ち応ず。是の如く六窓ともに喚べばともに応ずるが如し。仰云く、只だみ猴眠る時の如きは又作麼生。邑、即ち禅牀を下って把住して云く。猩猩我汝と相見せり。
智を闘はす、項羽劉邦に云うて日く、徒に天下を騒がして数歳に及ぶ、願はくは雌雄を決せんに民を苦しめることなければよしと、劉邦笑って云く、我むしろ智を闘はしめて力を闘はしむること能ず。というまあ故事来歴、甲胄を退け兵を埋めは、秦卒何万人を穴埋めにしたのを思い出すが、漢の歴史に項羽は頭の悪い粗暴な男にされてしまった、由来中国は歴史を歪める民族らしい、共産党というのが粗悪品で、ものみな労働時間で見るというあんちょく、人間のデカタンスのまあどんじり、あとは暴発、収拾のつかない社会ですか、でもそんなことはさておき、一個人常に一個人の債務を背負い、これをどうにかしようとするただこれ。覿面すれば真鎗実剣です。痛いかゆい切れば血が出ること同じ、ゆえにもって衲僧の全機大用をとうとぶ所以です、傷つけ分析など、人の救いにはならんです、ものみなデカタンスぶっこわれとは無縁です、たとい自然破壊も、なに草っぱ一枚ありゃ完全無欠。中邑洪恩禅師は馬祖道一の嗣、仰山はい山の霊祐の嗣、み猴のみはけものへんに爾で、大猿のこと。六窓そうは別の字書くんですが窓と同じ、六根眼鼻耳舌身意、色声香味触法の六根門をいう、いえ別に六つの窓でいいです、これ云えば大猿は全機大用の心ですか、でもまあそんなん面倒です、いざとなったらどんと出て把住、ひっとらえてこれこれってやって下さい。たしかに仏はほどけ、自縄自縛の縄を解くにしろ、見えぬものこれ仏にしろ、三世の諸仏知らずにしろ、大用全機を損なう、あるいはかすっともかすらない、六根清浄といって修行して滝に打たれするんですか、そりゃどうもあんまりつまらんですよ。あるのはどんなに磨いても、なきに如かずってね。
頌に云く、雪屋に凍眠して歳摧頽。窈窕たる羅門夜開かず。寒槁せる園林変態を看る、春風吹き起こす律筒の灰。
どうもあんまりこの頌のように見えんのだが、すんばらしい言語のわざですか、詩は情景に従って読むによし、雪屋に凍眠して歳摧頽くだけつかれる、せっかく大猿も斉天大聖ってわけに行かんのは、凡人とかまえて凡人付き合いだからですか、窈窕たるあれは桃だったですか、その家室によろしからんと、詩経国風にあるのしか知らんですが、幽深閑静なる様だそうです、羅門とばりですか夜開かず、眠っているんですな、仰山若し眠っていたらどうなるんだと聞く、アッハッハさすが仰山、中邑の六根清浄どうもあんまりぱっとせんです、一矢報いたとたんに禅牀を下ってどかんひっとらえる、いやさすがってわけで、寒槁せる、冬枯れの木です園林変態がらっと変わるんですか、目覚めにゃそりゃいかんです、役には立たん、春風吹き起こすところは、律筒は竹ですってさ、松には古今の風、竹には長幼の節、まあそういったわけで竹の灰をばらまくんです、どうもお粗末ってんですか、ざんばら髪おんぼろ衣の拾得が、にかあと笑って大地指さす。
第七十三則 曹山孝満
衆に示して云く、草に依り木に付き去って精霊となり、屈を負び冤を銜んで来たって鬼祟となる。之を呼ぶ時は、銭を焼き馬を奉む。之を遣る時は水を呪し符を書す。如何が家門平安なることを得去らん。
挙す、僧曹山に問ふ。霊衣掛けざる時如何。山云く、曹山今日孝満。僧云く、孝満の後如何。山云く、曹山顛酒を愛す。
依草付木の精霊というまあたいていみなさんのことです、酒を飲んで風月に親しみ、自然はいいだの地球を愛するだのいうこれです、清らかに見えて汚れです、無心にみえてまったくの独善です。したがい屈をおび、欝屈するんですか、冤罪です。おれはいいんだけど世の中が悪いとかやる、アッハッハそうねえその他の人あんまりいない。人間仏と生まれてお化けですか、幽霊みたいな鬼になって祟る、でもって紙銭を焼き絵馬を供えして、あるいはお呪いして護符をもって水に流ししている、テレビとか公共のなにがしみなこれ、実はただもうつまらんだけだったり。家門の平安ということを本質知らないのです。
曹山本寂禅師は洞山良价の嗣、洞山の宗師に至って最も隆なり、故に曹洞の称ありと、曹洞わが宗の祖です。僧問う、霊衣喪服ですか、着ていないどういうわけだ、掛けざる時如何、僧服着るのと同じですか、なにかしら霊力とかいう、世間一般そんなふうに考えていたんでしょう、今日真っ黒い作務衣きて頭つるっつるに剃って歩いている兄ちゃん、アッハッハこれやっぱりまだそういう尾ひれ引いているんですか。タブ-なしのなんでもありになると、やたらアホ臭くなったり、どこまでいってもどうもならんのは、依草付木の精霊を免れんからですか。山云く、曹山今日孝満、三年の喪も明けたで孝養存分だといった、うっふどうだってなもんです。馬鹿坊主まだ聞いている、孝満の後如何、山云く、顛酒、酒に酔いつぶれているってわけです。せっかく世の中生きているんですよ、自縄自縛の縄ふっきって思う存分やって下さい、たった一日でいい、他の百生をも救うんですよこれ。なぜかっていうんです、市長の演説成人式にやってないでさ。
頌に云く、清白の門庭四に隣を絶す、長年関し掃って塵を容れず。光明転ずる処傾いて月を残す。爻象分るる時却って寅に建す。新たに孝を満ず、便ち春に逢ふ、酔歩狂歌堕巾に任す。散髪夷猶誰か管係せん、太平無事酒顛の人。
清白の門庭とまた故事来歴があるんですが、要するに先祖が清廉潔白な人物で代々これを継ぐとある、仏という四隣を絶する潔白ですか、そりゃまあそういうこって濁りにしまぬ露の玉、心は汚れずこぼたれずという、なぜかというに無心です、ないものは損なわれない、ゆえに金剛不壊たるを知って仏教です、人の救いなんです。ゆえに長年とざし来たって塵を容れずは不都合、そんな荷厄介なこたいらんです、百害あって一利なしですか、即ちもと汚れない一微塵もつかず、不染那です。無生を知る、頓に自覚する無自覚、光明転ずるところ傾いて月を残す、ほうら気がついたらたった一箇の月、交象分時とは陰と陽が変じて春来たる、寅は東の方、春は北斗七星の柄が東をさす、枯木巌前花草常春、死んで死んで死にきって思いのままにするんです、とらわれのお人形さんじゃない、操りの縄んふっ切れるんです、すなわち春に逢う、酔歩狂歌頭巾が落ちたらそのまんま、ざんばら髪夷猶千鳥足もそいつを観察する人がいないんです、衒いや物まねじゃない、太平無事の酒顛です、別に酒飲まんたっていい、一生に一度こうあって、アッハッハこの世をおさらばして下さい。
第七十四則 法眼質名
衆に示して云く、富満徳を有って蕩として繊塵無し。一切の相を離れて一切の相に即す。百尺竿頭に歩を進めて、十方世界に身を全うす。且らく道へ甚麼の処より得来るや。
挙す、僧法眼に問ふ、承まはる教に言へること有り、無住の本より一切の法を立っすと、如何なるか是れ無住の本。眼云く、形は未質より興り、名は未名より起こる。
法眼宗の祖清涼文益禅師、これはまことに平らかに説く、他の禅師大善知識というお騒がせとはだいぶ違う、さすがに法眼、そうですよ、応無所住而生其心、まさにこうあるこれを、なにか特別のことだと思ううちはこうはいかない。承まわる教えというのは維摩経なんだそうが、そんなんどのお経だって同じに一切です。尽くしているというんですか、一言半句で足りるんです。足りないのは自分が足りない、もと長者窮子が、富満徳をたもって蕩として繊塵なしです、ゼニカネ女などの手段を必要としないんです。放蕩息子のどけちじゃない、一切の相を離れて一切相に即す、もとどっぷり浸けです。他にないんです、それを他に求めようとするから、法あり空あり一切ありするんです、手放しても手放さなくとも同じたって、手放さなきゃそりゃわからんです、わからんけりゃおもしろくもなんともない、高い木の上に上って、手を離し足を離し、口でもって噛みついているやつに、下に人あって仏を求めている、さあどうするという公案、答えはたった一つ、口を開いて説教しろというんです。捨身施虎は仏教の根幹、他のヒンズー教やら修行者らとまったく違うんです、人格高潔や神仏のらしい様子じゃない、端にこれ、十方世界に身を全とうするんです。ものみなこうあるという、この事実に住する、死んじまったらもうない理屈、すると平らに出るんです、形は未質よりおこり、名は未名っより起こる、どうですか並み大抵でしょう、かくの如くあるしかない、アッハッハあなただって云い得て妙ですよ。
頌に云く、没蹤跡、断消息。白雲根無し、清風何の色ぞ。乾蓋を散じて心あるに非ず。坤与を持して力有り。千古の淵源を洞らかにし、万象の模則を造る。
刹塵の道会するや処処普賢。楼閣開くるや頭頭弥勒。
没蹤跡断消息、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけりと、まずもってこれを得て下さい、坐っても坐ってもどこか繋駒伏鼠、どうしても糸のふっきれぬ凧をやっている、就中この期間が長いんですか、七転八倒し地獄とはこれ仏のありようを知って仏ならざる時と、なんで外きりないのに内動くかと、先師仏祖の蹤跡なにも特別はないんです。必ずこれあってこれを得る他はない、ついに得て落着は、乾蓋散ずるんです。心という用いてどうこうしない、たとい一切妄想も出るに任せ消えるに任せです、だからどうのまったくしない、すると我という失せて、坤与ここにこうして大盤若なんです、千古の淵源という、他の発祥源はないんです。乾坤宇宙歴史も哲学もなにがどうあろうと、自ずからあるよりないんです、あっはっは万象の模則を造ると、まあ荷厄介なこといわない、ただです、物まねするんならこれ以上はないってやつ、さあ刹塵の道ぶっこわれ破家散宅の道です。会するや否や、処処普賢行ない清ますこと第一等、大行普賢菩薩、あまねくということですよ、楼閣そりゃまあ世界全体ですか、開くこと頭頭弥勒、智恵一等文殊菩薩としたいところをさ、とにかく弥勒も文殊もあなたの内にしかないんです、あなた=内なしってね。
第七十五則 瑞巌常理
衆に示して云く、喚んで如如となす、早く是れ変ぜり。智不到の処、切に忌む道著することを。這裏還って参究の分ありや也た無しや。
挙す、瑞巌、巌頭に問ふ、如何なるか是れ本常の理。頭云く、動ぜり。巌云く、動の時如何。頭云く、本常の理を見ず。巌佇思す。頭云く、肯ふ時は即ち未だ根塵を脱せず、肯はざる時は永く生死に沈む。
巌頭全豁禅師は徳山宣鑑の嗣、瑞巌師彦はその嗣、如何なるか是れ本常の理と、どうしても仏を願い仏道を求めるからに、たしかなものすばらしいもの、金剛不壊ダイヤモンドの高価頼り甲斐を思うんです、実はそういっている自分自身が、まさにそのものこれ、永遠不滅と云えば即ちまっただなかです。まっただなかにあって却って見ることができないんです。千変万化するまっただなかです、本常という他に見る、あるいは物差しをあてがえば、滞るよけいことです。禅問答のちんぷんかんぷんではない、平らかにこれを知って下さい。喚んで如如となす、坐っていてこうだというんでしょう、実に得たりとやったとて、ついに一物も得ずとしたっても、次にはもう別ことに追われている、なにやかや捉まっているかぎり、ひょうたんなまずです、ころんころんと糠に釘。
智不到の処、切に忌む道著することをという、だからと顧みるにそりゃ同じこったです。アッハッハさあどうすればいい、かえって参究の分ありや無しや、それだから頭云く、動。動の時如何、なんとしても答えを出したいんです、自分=答え、三世の諸仏知らずに安住しないんです、だからといって、まさにこれ肯う時は未だ根塵を脱せず、肯はざる時は永く生死に浮沈すと、かく真っ正面に云っても、言下に大悟すとはなかなかもって行かんです。さあどうですか、こやつぶち抜いて下さいよ、手もつけられんと知って、即ちこれほど楽なこたないんです、坐=安楽の法門。
頌に云く、円珠穴あらず、大璞は琢せず、道人の貴とぶ所稜角無し。肯路を拈却すれば根塵空ず、脱體無依活卓卓。
年上の弟子があって円珠と名付けその奥さんを明珠と名付けた、弁護士大学教授であったが、六十でスキ-を覚えて世界中のゲレンデを渡り歩いたり、限定解除をとって1500ccに乗って来たり、活発発が惜しいことに、ガンになって死んでしまった。穴あらずの円珠さんに、今はの際に行きあったんだと思っている。大璞白玉だそうです、この事をなす人なにものにもならん、なれんといったらいいのか、世の中の出世街道たといあくせくが身に就かんのです、アッハッハなにをやっても元の木阿弥。わしはまあ役立たずだが、たしかにそういう人がいるもんです。そうですよ、坐禅をやっても元の木阿弥、坐禅三段とか免許皆伝なんてにいかない、なんにも得ないんです。そうしてどうしようもないこやつを、惜しゅうもない、虚空という虎に食わせて一巻の終わりですか。うっふっふじくじくとさっぱり終わらなかったり。昨日の自分はもうないってことだけある、いやさ自分というから食み出して久しいんですか、まあやっとくれ死ぬかこれしかないという、そうさなあ年よりじっさ。でもっていろっけあったりなかったり、どうすればいいこうすればいいの道ではないんです。肯路を拈却するという、すべてをなげうって答えを待つんです、ついになんの答えもなし、さあどうするというんです、答えはないんです、ものみなと強いていう脱退無依活卓卓。
第七十六則 首山三句
衆に示して云く、一句に三句を明かし、三句に一句を明かす。三一相ひ渉らず、分明なり向上の路。且らく道へ那んの一句か先に在る。
挙す、首山衆に示して云く、第一句に薦得すれば仏祖の与めに師となる。第二句に薦得すれば人天の与めに師となる。第三句に薦得すれば自救不了。僧云く、和尚は是れ第幾句に薦得するや。山云く、月落ちて三更、市を穿って過ぐ。
首山の宝応省念禅師は風穴延昭の嗣、この則なんか都合にそう云っちゃ悪いんですが、わが意を得たりという気がします。後学の有耶無耶が、いえさよくぞ云ってくれたというんです。第一句という、これを得んがためにまっしぐらです、師普ねく叢席を歴り常に蜜に法華経を誦す、人呼んで念法華となす、晩に風穴の会中に於て知客にあたる、一日侍立のついで、風穴垂涕して告げて日く、不幸にして臨済の道吾にいたって地に墜ちんとす、師云く、一衆に人なきや乃至念法華を放下してついに得るんです。かくのごとくに古人大苦労の末に、超凡越聖ついに仏祖を超えるんですか、たしかにそういうことあるんですよ。たといお釈迦さまだろうが為に説く、これあって初めて仏、仏教です。そうしてこの中に住して普く知るんです。平らかの日々是れ好日という、そんなものあるわけがないです、坊主や学者の類実際には何も知らんで、かくあるべしをもってす、とんちんかんの罪科はなはだしいです。そうではない七転八倒あり、あるいは激烈な葛藤です。第二句という、ついにようやく人天の導師です、まさにこの人をおいてないんです、よくよく知るんです。依存症ゼロの人ってこれ、たいへんですよ、そうしてもって第三句自救不了オッホッホこれ実感ですよ、まさにまったく。かつては本来人掃いて捨てるほどいたんですか、いえいえ同世代三人もいりゃそれ、光明この上なしです。和尚は第幾句かと問われて、月落ちて三更という、よくよく味わって下さい、市、市井売り買いの場ですか、市を穿って過ぐ、本来性これの実感たることよくよく知って下さい。
頌に云く、仏祖の髑髏一串に穿つ、宮漏沈沈として密に箭を伝ふ。人天の機要千鈞を発す、雲陣輝輝として急に電を飛ばす。箇の中の人転変を看よ、賤に遇うては即ち貴、貴には即ち賤。珠を罔象に得て至道綿々たり、刃を亡牛に遊ばしめて赤心片片たり。
自分というものが失せて行く段階です、坐禅とはこれを楽しむんです、仏祖の髑髏一串です、もとないはずのものが、自分というよこしまに依って、これを私するんです、返却し返却しもって行く、ついになんもなしと思えたところから始まるんです、仏向上の事悟後の修行といいますが、天下取ったという、みな人の得がてにすとふうずめ子得たりという、まずそいつを手放して下さい、宮漏とはむかしの砂時計ですか、沈沈として密に箭を伝え、そうですよ坐るっきりないんです、時が解決すると一般は云うんですが、昨日の自分は今日ではないがあるっきり。千鈞の弩弓ですか、不思議でしょう、ただ自分がないっきりなんです、そいつが千軍万軍に当たる、そうですねえ無手勝流です。雲陣以下坐中にあって肯うところです。この中の人転変を見よ、電は発したらおしまい、なんの跡形も残らん、賤には賤、賤には貴と法界そのものになり終わるんです、無無明亦無無明尽ですか。刃を亡牛に遊ばしめてという、十牛の図ですか、牛いなくなってまるっきりただの人は、打てば響くなんてもんじゃないんです、触れるものみな真っ二つ、赤心洗うが如く、三句に薦得すれば自救不了です、首くくる縄もんあし年の暮れは、春風いたって百花開くんです。
第七十七則 仰山随分
衆に示して云く、人の空に描くが如き、筆を下せば即ちあやまる。那んぞ模を起こして様を作すに堪へん、甚麼を為すに堪へんやO万松已に是れ詮索を露はす、条あれば条を攀じ、条無ければ例を攀ず。
挙す、僧仰山に問ふ、和尚還って字を識るや否や。山云く、分に随ふ。僧乃ち右旋一匝して云く、是れ甚麼の字ぞ。山、地上に於て箇の十字を書す。僧左旋一匝して云く、是れ甚麼の字ぞ。山十の字を改めて卍の字となす。僧一円相を描いて両手を以て托げて修羅の日月を掌にする勢いの如くにして云く、是れ甚麼の字ぞ。山乃ち円相を描いて卍字を囲却す。僧乃ち楼至の勢いをなす。山云く、如是如是、汝善く護持せよ。
仰山キョウサン慧寂禅師はイ山霊祐の嗣、僧あり問う、和尚字を知っているかというんです、馬鹿にするな字ぐらい知ってらあといって、ふっと考えると知らない、むしろ知らん字のほうが多いじゃないか、山云く、分に随うですか、アッハッハ禅問答そんなレベルじゃないという、じゃどんなレベルですか、僧すなわち右にぐるっと回って、これなんの字ぞという、うっふっふ字を描くってどういうことですか、このへんで思い当たって下さい。哲は口を折るなどむだこといってないんです、山地面に十の字を描く。これおもしろいでしょう、虚空というなんにもなしを、画策する発明するっていうんですか、まどろっこしいですねえ言葉は、僧左へぐるっと回って、これなんの字ぞ、こうありゃこうって、強いて云えばそういうこってす。山十の字を卍にする、説法も煮詰まったんですか、いようって大向こうから声がかかりますか、僧一円相を描いて修羅八荒の大見栄です、これなんの字ぞ。卍を囲んでOを描いて、山如是如是、この事をよく保護せよという、いいですなあすらっとどこも凹凸なし、さあよく保護して下さい、人生まさに始まったんですよ、人もなく生死もなくっていうあっけらかんが。条令あれば条令による、なければ判例におるの、しゃば世界浪花節じゃないんです。
頌に云く、道環の虚盈ること靡し、空印の字未だ形れず。妙に天輪地軸を運らし、密に武緯文経を羅らぬ。放開捏聚、独立周行。玄枢を発して青天に電を激す。眼に紫光を含んで白日に星を見る。
道環という過去七仏からお釈迦さままた我に至る八十六代ぐるっと回って過去七仏へと、これもし同時的同じ空間内に見るとき、まさに仰山と門下のやりとりに似て、虚みつることなしと、あっけらかん世間云うには絶対空間ですか、廓然無聖不識という、空印の字未だあらわれずです、妙に天輪文武経緯はまあ大げさって、いえ箇の微妙玄用はふうっと消えてしまうんですよ、なにかある世界あるというそれがない、大活現成のアッハッハ原点ですか、坐ってはそうなりそうならずして、なにさあ如来とて、あるいはわしのようないびつ、なんの取りえなしにもこうある、この世のこと終わったら、また別の世に現ずるんです、弟子どもと掃除しおわって、自然林とあまり変わりもないお寺が清々する、如来ここにおわせりという記述です、わしというこう手を出すことは出したですか、それも一瞬には違いぬが、訪れた人には一瞬の無上上です。
放開捏聚独立周行、そうですよここに全世界三世現ずるんです、生きています呼吸しているんです、だからすばらしいんです、青天に電を激し白日に星を見るんです、さあ参じて下さい、仏教ですよ、一箇半箇あとを継いで下さい、これあるによって人類があるんですよ。
衆に示して云く、一句に三句を明かし、三句に一句を明かす。三一相ひ渉らず、分明なり向上の路。且らく道へ那んの一句か先に在る。
挙す、首山衆に示して云く、第一句に薦得すれば仏祖の与めに師となる。第二句に薦得すれば人天の与めに師となる。第三句に薦得すれば自救不了。僧云く、和尚は是れ第幾句に薦得するや。山云く、月落ちて三更、市を穿って過ぐ。
首山の宝応省念禅師は風穴延昭の嗣、この則なんか都合にそう云っちゃ悪いんですが、わが意を得たりという気がします。後学の有耶無耶が、いえさよくぞ云ってくれたというんです。第一句という、これを得んがためにまっしぐらです、師普ねく叢席を歴り常に蜜に法華経を誦す、人呼んで念法華となす、晩に風穴の会中に於て知客にあたる、一日侍立のついで、風穴垂涕して告げて日く、不幸にして臨済の道吾にいたって地に墜ちんとす、師云く、一衆に人なきや乃至念法華を放下してついに得るんです。かくのごとくに古人大苦労の末に、超凡越聖ついに仏祖を超えるんですか、たしかにそういうことあるんですよ。たといお釈迦さまだろうが為に説く、これあって初めて仏、仏教です。そうしてこの中に住して普く知るんです。平らかの日々是れ好日という、そんなものあるわけがないです、坊主や学者の類実際には何も知らんで、かくあるべしをもってす、とんちんかんの罪科はなはだしいです。そうではない七転八倒あり、あるいは激烈な葛藤です。第二句という、ついにようやく人天の導師です、まさにこの人をおいてないんです、よくよく知るんです。依存症ゼロの人ってこれ、たいへんですよ、そうしてもって第三句自救不了オッホッホこれ実感ですよ、まさにまったく。かつては本来人掃いて捨てるほどいたんですか、いえいえ同世代三人もいりゃそれ、光明この上なしです。和尚は第幾句かと問われて、月落ちて三更という、よくよく味わって下さい、市、市井売り買いの場ですか、市を穿って過ぐ、本来性これの実感たることよくよく知って下さい。
頌に云く、仏祖の髑髏一串に穿つ、宮漏沈沈として密に箭を伝ふ。人天の機要千鈞を発す、雲陣輝輝として急に電を飛ばす。箇の中の人転変を看よ、賤に遇うては即ち貴、貴には即ち賤。珠を罔象に得て至道綿々たり、刃を亡牛に遊ばしめて赤心片片たり。
自分というものが失せて行く段階です、坐禅とはこれを楽しむんです、仏祖の髑髏一串です、もとないはずのものが、自分というよこしまに依って、これを私するんです、返却し返却しもって行く、ついになんもなしと思えたところから始まるんです、仏向上の事悟後の修行といいますが、天下取ったという、みな人の得がてにすとふうずめ子得たりという、まずそいつを手放して下さい、宮漏とはむかしの砂時計ですか、沈沈として密に箭を伝え、そうですよ坐るっきりないんです、時が解決すると一般は云うんですが、昨日の自分は今日ではないがあるっきり。千鈞の弩弓ですか、不思議でしょう、ただ自分がないっきりなんです、そいつが千軍万軍に当たる、そうですねえ無手勝流です。雲陣以下坐中にあって肯うところです。この中の人転変を見よ、電は発したらおしまい、なんの跡形も残らん、賤には賤、賤には貴と法界そのものになり終わるんです、無無明亦無無明尽ですか。刃を亡牛に遊ばしめてという、十牛の図ですか、牛いなくなってまるっきりただの人は、打てば響くなんてもんじゃないんです、触れるものみな真っ二つ、赤心洗うが如く、三句に薦得すれば自救不了です、首くくる縄もんあし年の暮れは、春風いたって百花開くんです。
第七十八則 雲門餬餅
衆に示して云く、べん天に価を索むれば搏地に相報ふ、百計経求一場の麼羅、還って進退を知り、休咎を識る底ありや。
挙す、僧雲門に問ふ、如何なるか是れ超仏越祖の談。門云く、餬餅。
雲門文偃禅師、青原下六世雪峰義存の嗣、雲門餬餅という、多少かじるとじきに耳に入って来る、洞山麻三斤など、いわく噛み難く、嚼しがたしと。取り付く島もないんですか、すなわち完全、満天に価を求むれば満地にあいささうんですか。べんは糸に免で満と同じく、搏地即ち満地だそうです。百計千謀といい経歴馳求という、そうですよ、たいてい雲門餬餅、ごまの入った餅ですとさ、これに出食わすと百計千謀し経歴馳走するんです、いったいなんだといって答えを出したい。答えを出すとはどういうことか、餬餅こびょうと答えがあるのに、それをまた答えるとは、なにか持ち物総動員してかくあるべきやるんです、どっかの物差しに触れるという、納得という変なことをする。どうですか、餬餅とわかんなかったら、わかろうとする自分を捨てる、すなわち、自分という根拠、囲い込みを明け渡して下さい。餬餅と、まずは見るもの聞くものになり終わって下さい、オウと云えばまさにぜんたいオウと応えるんです。悟りといい超凡越聖という、そうしたいらん手続きが不要です。この世に納得すべきなんの必要もないんです。進退を知るとは自ずからです、ぴったり実にきしっとしているんです。これを野狐禅天下取ったふうにやると、乱暴で雑っぱです、こっちの岸です、一神教の独り善がりになります。休咎という、悟ったにしろ悟り終わって悟りなしにしろ、ちらともかくあるべしといえば、よって滞るんです。餬餅はたして薬弊、さあどうです、いえわしについていえば毎日坐して、かろうじて自救不了を知るんですか。はいお粗末。
頌に云く、餬餅を超仏祖の談と云ふ、句中に味はひ無し如何が参ぜん。衲僧一日如し飽くことを知らば、方に見ん雲門の面慙じざることを。
そりゃそうです、餬餅ごまの入った餅を超仏越祖の談義とする、いったいどういうことか。味わいなし如何が参ぜん。取り付く島もないただの人。世間一般ただの人とどう違うんですか。ことは同じ雲泥の相違ありとは、微塵もつくなし、ゆるがせにならんことは、何比較するといったって、蝶や花や鳥や雲と同じです。一点ゆるんだら滅びる、いえまったく様にならんのです、まあそんなふうにアッハッハ取り付いてみますか。たしかに超仏越祖といって、何別にあるものではない、うさんくさい一物もとっつかないです。坐っていてどうですか、自分というごつごととして箇の坐状がありますか、たといあったとてそれ自分のものですか、多々あろうがなんにもなかろうが、念起念滅、自分の持ち物ないんです、すると坐として成立するんです、これを万松老人は一日もし飽くことを知らばと云ったんです、まったく終わった人の、日々是好日、仏向上の事です、たしかに邵陽老人はでたらめ云わんというんですよ。
第七十九則 長沙進歩
衆に示して云く、金沙灘頭の馬郎婦、別に是れ精神、瑠璃瓶裏にじこうをつく。誰か敢えて転動せん。人を驚かす浪に入らずんば意に称ふ魚に逢ひ難し。寛行大歩の一句作麼生。
挙す、長沙、僧をして会和尚に問はしむ、未だ南泉に見みえざる時如何。会良久す。僧云く、見みえて後如何。会云く、別に有るべからず。僧、廻って沙に挙す。沙云く、百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も未だ真と為さず、百尺竿頭に須らく歩を進むべし、十方世界是れ全身。僧云く、百尺竿頭如何が歩を進めん。沙云く、郎州の山、れい州の水。僧云く、不会。沙云く、四海五湖王化の裏。
金沙灘頭の馬郎婦、僧問う如何なるか是れ清浄法身、師日く金沙灘頭の馬郎婦。金沙灘というところに美しい女がいた、魚籃観音の化身であったというんですか、よくお経を読む者に仕えんといって、ついにこれを娶る者あり、即ち門に入って女死すという、あとに黄金の鎖があったなど。観音の化導は他の説法の及ばぬところをもって、別の精神といった、じこうとい、じは滋のさんずいの代りに食、こうは食に恙、あわせて栗餅ですってさ、瑠璃の瓶に栗餅をつく、自家薬籠中の物ですか、世間一般はともかく仏教は別です。百尺竿頭に坐っていては、どうにもこうにもならんです。誰か敢えて転動せん、思い切って空中に身をなげうつ以外にないんです。観音菩薩かごから魚を取り出して売る、寛行大歩の一句ですか、仏教という仏という、なにか別にあるもんじゃないんです。さあ魚を売る如何。長沙は湖南長沙の景岑招賢禅師、南泉普願の嗣、南泉は馬祖道一の嗣、会和尚南泉下伝不詳、南泉に見みえざる時如何、会良久す、なんにも云わなかった、南泉に見みえて後如何、別に有るべからず。たしかになんたるかを弁える、もとこのとおりと云いたかったんですか、南泉とまったく同じですか、どうです。これを百尺竿頭に坐すと云った、一歩を進めよ、十法世界これ全身。この僧不会、さああなたはどうなんですか、郎州の山、れいはさんずいに豊れい州の水、山と川になりおわってごらんなさい、百尺竿頭から墜落すると命ないんです、自分失せてまわりばっかり、ですが死んで忘れられたんじゃない、四海五湖王化裏です。だから仏教なんですよ、ただでも世間のいうただじゃないんです。魚売りじゃなんにもならん。
頌に云く、玉人夢破る一声の鶏、転盻すれば生涯色色斉し。有信の風雷出蟄を催し、無言の桃李自ずから蹊を成す。時節に及んで耕犁を力む、誰か怕れん春脛を没する泥。
会和尚良久する、威なるかな大慈大悲外道賛嘆して云く、というわけには行かなかった、自分を顧みる、観察したらおしまい、特派布教師などやって来て、威儀をただしていかにもらしくやって来る、一目瞭然なんです、自分という二分裂の、そわそわがさごそ、どうにもしょうがない輩です。宗門に仏教のぶの字もないんですか、だったらいさぎよく葬式稼業観光業に徹すればいい、さっぱりします。玉人夢破る一声の鶏、らしくに徹するところあって、参ずるにはさっぱりやっても来んのでしょう、そこでちっとはいけそうな坊主を使いにやった。南泉は師匠です、未だ見えざるとき如何、仏教を知らなかったとき如何、押し黙るのを見て、仕掛け坊主ひとりでに動き出す、見えて後如何、何かあったかと聞くに、会和尚、別に有るべからずと示す。まさに他なしなんですが、死んでいる、百尺竿頭清水の舞台です、一声の鶏ですか、どかんと墜落木端微塵です、生涯色色斉しという、色無いんですよ、色即是空空即是色とはいいながら、ほんとうのこれを夢にだも見ないんです。有信の風雷、アッハッハ長沙の意ですか十方全身を促すんです、ついに自ずからを知る、たとい泥んこまみれになってです、手前ご本尊乙にすましこんでなんていうの、仏教に関するかぎりはないんですよ。
第八十則 龍牙過板
衆に示して云く、大音は声希れに、大器は晩成す。盛忙百門市の裏に向かって呆を佯り、化故千年の後を待って慢緩す、且らく道へ是れ如何なる底の人ぞ。
挙す、龍牙翠微に問ふ、如何なるか是れ祖師西来意。微云く、我が与めに禅板を過ごし来たれ。牙禅板を取って翠微に与ふ。微接得して便ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに任す要且つ祖師西来意無し。又臨済に問ふ、如何なるか是れ祖師西来意。済云く、我が与めに蒲団を将ち来たれ。牙蒲団を取って臨済に与ふ。済接得して便ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに任す要且つ祖師意無し。牙後に住院す。僧問ふ、和尚当時翠微と臨済とに祖意を問ふ、二尊宿明かすや也た未だしや。牙云く、明かすことは即ち明かす、要且つ祖師意無し。
龍牙山の居遁禅師は洞山良价の嗣、翠微無学禅師は丹霞天然の嗣、臨済義玄禅師は黄檗希運の嗣、如何なるか是れ祖師西来意、達磨さんが西インドから来た、さあどういうこったと聞く、仏とは何か仏教如何と問うと同じです。能書き説明はうそです、学者説法百万だらやったも届かぬというより、かえって遠くて遠いんです。まずこのことを知って、坐禅です。参ずるという、仏教について八万四千巻のお経がおっかぶさっていては、単を示すの坐禅にならない、学者布教師なんの為になす、立身出世のためにという、これが利己を捨てて仏の道です、われとわが身心を救えと願って仏なんです。如何なるか祖師西来意、庭前の柏樹子と、仏とこれ一心に取りすがっていたものを、頼りの杖をとっ払うんです。失墜して木端微塵ですか、死んだものは二度と死なぬ、では救う必要がない、アッハッハなんという清々まっ平ら。どう死ぬか死体じゃしょうがない。如何なるか是祖師西来意、禅板(坐禅に用いる椅板)を取ってくれ、取って来ると、そいつ受け取って打つ、打つだけよけいですかアッハッハ。打つはすなわち打つに任す要且つ祖師意無し、そうです再三にわたりやっている、担板漢じゃないかって、たといおうむ返しもです、首くくる縄もなし年の暮れ、どうですか、祖師西来意あったが正解ですか、なかったが正解ですか。学者坊主美食豊満底にはそりゃ無関係ですよ。ついには得るんですか、頓知とはこんなもんかな-んだっていう、そりゃ死ぬ思いもせん話。
頌に云く、蒲団禅板龍牙に対す、何事ぞ機に当たって作家とならざる。未だ成褫して目下に明なることを意はず、流落して天涯に在らんとすることを恐る。虚空那んぞ剣を掛けん、星漢却って機を浮かぶ。不萌の草に香象を蔵することを解し、無底の籃に能く活蛇を著く。今日江湖何の生礙かあらん、通方の津渡に航車あり。
蒲団禅板龍牙に対す、龍の牙を抜くんですか、そうしたらまるごと仏、アッハッハ打つことはすなわち打つに任す要且つ祖師意無しという、死人底ですか、大活現成ですか、機にあたって作家ですか。成褫という褫ははぐとか奪う、あるいは脱ぐ解くという、成就結果まあ解脱ですか。流落して天涯流れ星の天涯孤独ですか、貴人の流落ですか、ややこしいったら、どっち転んだって人間たった一人、虚空なんぞ剣を掛けんです。祖師西来意をひっかついで右往左往じゃない、星漢天の川です、織女牽牛だって年に一回は逢い引き、取り付く島もない、そうなあこの世から食み出しものだって、すんばらしいったらお宝かくの如く。底の抜けた籠に猛毒蛇ってね、ついに得てもって、打つことは便ち打つに任す要且つ祖師意無しと。どうですか今日まったくだれ一人とて仏教のぶの字もないんでしょう、でたらめ解説ばっかり、アッハッハさあわしんとこへおいで、一喝ぶっ食らわせてあげますよってね。まあそういうこった。
第八十一則 玄沙到県
衆に示して云く、動ずれば即ち影現じ、覚すれば即ち塵生ず。挙起すれば分明、放下すれば隠密。本色の道人の相見、如何んが説話せん。
挙す、玄沙蒲田県に到る、百戯して之を迎ふ。次日小塘長老に問ふ、昨日許多の喧にょう甚麼の処に向かって去るや。小塘袈裟角を提起す。沙云く、遼挑没交渉。
玄沙宗一大師、雪峰義存の嗣法名は師備、動ずれば即ち影現じ、覚すれば即ち塵生じと、これ参禅の様子です。すべてが自分でやっている、そいつを追いかけていては百年河清を待つです、挙起すれば分明、放下すれば隠密と、なにかあると思っている、そういうかぎり裏表なんです。もとまっさらだからという、でもってこうあるべきという、すると影現じ塵生ずです。いつまでたってもかくの如し、なあんてめえでやってるっきりっていう、ぼかっと一つ開けて下さい。勝手にやっとれでもいいですか、真っ正面向きますか、如来として現じ如来として空ず、自覚の外といったらいいですか。相見如何が説話せんと、あるとき道えばいい、ただそれっきり。玄沙が行くと百戯、いろんな芸事余興をもって出迎えた、次の日、喧にょうは門に市、あのにぎやかなのどうなったと聞く、長老袈裟角をとって示す、是は是なんでしょう、もしや百戯も仏法のうちなんて、そりゃ甘え根性です。沙云く、りょうは寮に頁です、りょう挑疎遠の意、没交渉もっきょうしょうと習わしに読む、関係がないっていうんです、昨日は昨日今日は今日、いいですか絵に描いた餅じゃないんです、一瞬まえの有耶無耶がもうない坐禅、有耶無耶が有耶無耶でないんですよ、だってさだれ観察しない、ただこうあるっきり、たとい千変万化もです。
頌に云く、夜壑に舟を蔵し、澄源に棹を著く。龍魚は未だ知らず水を命となすことを、折筋は妨げず聊か一攪すること。玄沙師、小塘老。函蓋箭鋒、深竿影草。潜縮や老亀蓮に巣くい、遊戯や華鱗藻を弄す。
壑は谷、夜壑に舟をかくし、まあ百戯終わって静まり返ったんですか、でも百戯の真っ最中も同じく静まり返っています。なに変わることなく楽しいには楽しいいんです。澄んだみなもとに棹を著く、どうであったなど余計こと云わずもがなです、わと盛り上がって翌朝もう坐っています。坐中昨夜のことなんか思い出さないです、思い出したって、龍魚は未だ知らずです、住むべき水これとやるから坐が乱れるんです。まあそうであってはならぬからに、函蓋箭鋒ぴったり行っているか、深竿影草どうだ問題はないかとやる。一日能登の祖院に修行中の弟子を見舞い、翌日金沢に遊びして来ました、能登総持寺は美しい壮大な伽藍で、環境は申し分なしです。思いのほかの歓待を受けて恐縮でしたが、暁天坐中大梵鐘を打つという、いつごろから行なわれ出したか、そりゃこの事を知らぬ人のあてずっぽ有心のものです、我と我が身心とどうでもいったんは対決せにゃ得られんです、たわけた儀式慇懃じゃそりゃ届かんです。わが心の大本山に仏のほの字もないかと、伏せっていたら監院老師と二人訪ねて来て、法の話でした、滞るところあってどうしたらよいかという、施設して開枕にいたる。ふっと涙が出たです、よかったと思ったです。葬式バッタの世の中でもないんだなと思う。金沢は北陸新聞の記者にけっこう行っている人がいて、蕎麦屋から料亭兼六公園と案内して貰ったです、彼を相見し、接客業仲居の二、三人顔の和むのを見る。そうかわしも役には立つんだという。潜縮や老亀蓮に巣食い、遊戯や華鱗藻を弄ぶ、退屈もせんですがまったく心動かぬのです。夢のように楽しいんですか、カラオケには眠ったふりするよりなく、心身症のまだ睡眠薬飲んでいる女の子が、昨夜盛り上がった代り朝はぼけえとして、並んでチェックアウトしたら、たいへんお疲れのご様子でと云われて笑っちまった。アッハッハそんなこってへっこまんですよ。
第八十二則 雲門声色
衆に示して云く、声色を断ぜざれば是れ随処堕、声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。路に就いて家に還る底あること莫しや。
挙す、雲門衆に示して云く、聞声悟道、見色明心、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う、手を放下すれば却って是れ饅頭。
声色の奴卑と馳走すという、声と色という、見聞覚知のたいていがそりゃまったくの思い込みということを知らない、夢から覚めてまた夢のとやっている。どうしてもいったん悟、解脱ということあって、声と色の奴隷を免れるんです。自分という形骸を脱し去る、就中困難です、随処堕というだれかれみなどうしようもないんです、年をとるにしたがい骸骨です、常識の色餓鬼ですか、そいつがひっからびて棺桶です、みっともないったら死にとうもないってアッハッハ、ついぞ生きた覚えもないのにさ。如来を見ずです、来たる如し、あるがまんまを夢にも知らずあの世行きです、生まれ変わって出ておいでというほかなし、地獄の世の中六道輪廻とはこれを云う。路について家に帰る人ありや。雲門大師は雪峰義存の嗣、聞声悟道、香厳爆竹の因縁ですか、自分という架空を失せきって庭を掃いていたんでしょう、掃子に撥ね飛んだ石が竹に当たった、これによってはあっと一念起こるんです、我というものまったくなくものみながある、爆竹の機縁です。見色明心は、霊雲は桃花の色を見て心を明きらめたとある、花の綻ぶを見て悟ったという我国盤桂禅師、そりゃまったく同じなんです、桃花について忘我です、我というものなしに花を、空の雲を見てごらんなさい。常識の奴隷という、悪臭紛々たるお仕着せを脱いで、生まれてこのかたの宇宙風呂ですか。うわあ清々なんてものじゃないってわけです。ついにはもとこうであったと知る。たまたま観世音菩薩が、銭もって餬餅あんころ餅みたいらしいです、を買いに来た如く、観音如来としてこうある自分に気がつく、しゃばという世の中にしばらくあったということですか。放下すれば饅頭で、これあんこが中ですか、アッハッハ色即是空が空即是色なんて、そんなんにひっかからないんですよ。
頌に云く、門を出でて馬を躍らしめて讒槍を掃ふ。万国の煙塵自ら粛清。十二処亡ず閑影響。三千界に浄光明を放つ。
門を出て馬を躍らしめてという、坐って坐って坐り抜いてという、求めるところを懸命に、不惜身命に求めるんですか、ではそいつを手放して行くんです。門の内から外へ、こうと取り込むんじゃなくて手放し、虚空というかすっともかすらない、なんにもないものに食われるんです。無茶苦茶です。百年万年無駄遣い、どうしようもこうしようも、とにかく捨てる。いいものほど役に立たない、アッハッハたいていこんなふうに坐って下さい、讒は手へんなんです、ざん槍で彗星ですとさ、即ち世の乱れる兆し、だれが乱す自分が乱す、あっはあそうかっていって止めればいい、無心無身なんにもないのを、なんにもないというんじゃそりゃしょうがないです。自ずから粛清はまったく手応えなしです。あるとき退屈あるとき退屈とはいわんのです、さあしっかり得て下さい。三千世界大光明、うっふ他にないんですよ、仏あって我なし、我あって仏なし、日々新たにという旧態依然という、一木一草まさにかくの如し。いいえすばらしいんです、愚の如く魯の如く、水自ずから澄む。
第八十三則 道吾看病
衆に示して云く、通身を病と做す摩詰癒え難し。是れ草医するに堪えたり。文殊善く用ゆ、争でか向上の人に参取して、箇の安楽の処を得るに如かん。
い山道吾に問ふ、甚麼の処より来たる。吾云く、看病し来たる。山云く、幾人有って病む。吾云く、病者と不病者とあり。山云く、不病者は是れ智頭陀なること莫しや。吾云く、病と不病と総に他の事に干らず、速やかに道へ速やかに道へ。山云く、道ひ得るも没交渉。
道吾山円智禅師は青原下三世薬山惟儼の嗣、頭陀は僧侶のこと、智頭陀=道吾。い(さんずいに為)山の霊祐禅師は百丈懐海の嗣。いずれのところより、どこから来たというんです。看病して来た。幾人あって病む、いえ病んでるのと病んでないのといる。自分の生み出した思想分別にしてやられる、そりゃ病気です、声色の奴卑と馳走すという、本末転倒事です。苦しいしめったやたらだし、なんとしても看病せにゃならん、楽にしてやりたい。へいそうかいというんです、不病者ってのは智頭陀おまえだというんじゃないんかい。えっへえそうだなんてにはひっかからん。なにを云う、病だろうが病でなかろうが、総に他事にはかかわらず、病に会えば病きり、おれがどうのなと余計なお世話ですか、病と健康と引き比べてってのは無駄こと、病来たれば病よろしく、まあそういったわけです。さあ云えすみやかに云え。うっふたまげたやつだ、わかったわかった云い得るも没交渉、そっちの参考にはなりそうもないよ、かってにやってくれ、のこっとてめえを丸ごと放り出したんですか、担いで行く必要のないのが味噌、たいていここに至っても奪うしかないんです。
頌に云く、妙薬何ぞ曾って口に過ごさん、神医も能く手を捉うること莫し。存するが如くにして渠本無に非ず。至虚にして渠本有に非ず。滅せずして生じ亡びずして寿し。全く威音の前に超え、独り劫空の後に歩す。成平や天蓋ひ地ささぐ、運転や烏飛び兎走る。
どんな妙薬も役立たず、神医も脈を取れず、どうですこれ糠に釘、言語によらずノウハウではないといいながら、坐る人必ずやるんです。どうあってはならぬ、どうあるべき、おれはだからという。殺し文句の世界ありお経あり色即是空だのです、ついに刀折れ矢尽きるんです、お釈迦さまと同じ菩提樹下に坐す以外になく。存するが如く渠本無にあらず、至虚にして渠本有にあらず、アッハッハ糠に釘これ、でもってそいつの皮一枚剥がれるんですか、なんて云うてみようもない、絶学無為身も蓋もなしにこうある。滅せず生ぜず云々これ、まさにかくの如しの千変万化、なにあろうが生活日常これ忘我です、他なんにもいらんを味わって下さい、たといどんなことあろうと、平成や天おおい地ささうです、これなんぞ。運転日月、金烏が太陽玉兎が月。
第八十四則 倶てい一指
衆に示して云く、一聞千悟、一解千従。上士は一決して一切了ず。中下は他聞なれども多く信ぜず。剋的簡当の処試みに拈出す看よ。
挙す、倶てい和尚凡そ所問あれば只一指を竪つ。
倶てい詆の言の代りに月、金華山倶てい禅師、天竜和尚の嗣、初め天台に庵す、尼あり実際と名ずく、到来して笠をいただき師をめぐること三匝し、道いえば即ち笠をとると、三たび問うに倶てい無対。際すなわち去る。日が暮れたで宿れと云ったが、道いえば宿ろうといって去る。我丈夫の形すれども丈夫の気なし、即ち庵を捨てて諸方に参学しさらんとするに、山神告げて云く、ここを去ることなけれ、まさに大菩薩来たって汝がために説法せんと、日ならずして天竜和尚来たると。天竜一指を竪てて示す、倶てい大悟。そうしてまたこういう話もあります、小僧があって和尚のまねをして、凡そ人問うあれば一指を竪つ、呼んで仏を問うに一指を竪つ、倶ていその指を切断す、小僧号泣して去る、また呼んで仏を問う、小僧指を竪すに無し、こつねん大悟と。これよくできの話と云わずに、まさにこれよく看るにいいです。一聞千悟一解千従、もとこのとおりあって、自分という架空請求じゃないんです、一指という別ものあれば、それによって逐一する、ほおっと見るになし、わがこと一切終わるんです、さあとやこう云わずとやって下さい、中下は他聞にして多く信ぜずとは、わしもさんざ云われたです、なんのかのいっちゃどうもならん、大悟十八ぺん小悟その数を知らずとアッハッハ、でもこの語にこんないい対があったですか、上士は一決して一切了ず、いいえこれは了ぜずって読むんです。下剋上の剋は、はい辞書を引いて調べて下さい。
頌に云く、倶てい老子指頭の禅、三十年来用不残、信に道人方外の術あり、了に俗物の眼前に見る無し、所得甚はだ簡に施設いよいよ寛し。大千刹海毛端に飲む。鱗龍限り無し誰が手に落つるや。珍重す任公釣竿を把ることを。師復た一指を頌起して云う、看よ。
これなるほどなあやってないで、自分で一指を竪起して下さい、大千世界これですか、端に破れほうけですか、ものの役に立つんですか、それとも物笑いですか、アッハッハものは味わわねばなんにもならんです、絵に描いた餅ではないのを仏教といいます。らしくの法要猿芝居の宗門は、達磨さんを殺害した仲間ですか、すでにそんな勢いはなく滅びに任せ。ほんにまあ自分を知らぬ、顧みぬ仏教なんてありえない、腐れ蛆たかれですか、でも一指頭の禅、自分を知らず顧みないんです。一指頭いずこにありや、これなんぞとおのれまったく隠れるんです、いっさい遅滞なし、手続きがいらんのです、ついに俗物の眼前に見るなし、所得簡に施設いよいよひろしというは、ハッハ俗物の側から見たんですか、端にこうあるっきりですよ。自覚いずこにありや、一指頭。しくじるときどうやってもしくじる、成功するときどうやったって成功です。任公は荘子にある、まあ中国流とてつもない大魚を釣ってなますにする話、そりゃまあそういうこってす、わしになにか特技はあるかという、なんにもできない、なにやらしてもさっぱりですか、ただこの事を知る。坐禅だけですと云います、人はまた知識あり器用あることを誇る、わしはそんなのぜんぜんいらんです、アッハッハただ一指頭。
第八十五則 国師塔様
衆に示して云く、虚空を打破する底のちん鎚、華嶽を擘開する底の手段あって始めて元、縫虍なき処、瑕痕を見ざる処に到髏。且らく誰か是れ恁麼の人ぞ。
挙す、粛宗帝、忠国師に問ふ、百年の後所須何物ぞ。国師云く、老僧が与めに箇の無縫塔を作れ。帝云く、請ふ師塔様。国師良久して云く、会すや。帝云く、不会。国師云く、吾に付法の弟子耽源といふものあり、却って此事を諳んず。後帝耽源に詔して此の意如何と問ふ。源云く、相の南、譚の北、中に黄金有って一国に充つ。無影樹下の合同船、瑠璃殿上に知識なし。
南陽の慧忠国師は六祖大鑑慧能の嗣、国師号を賜る、これはすばらしい時代であった、インドにもタイにも中国にも、また日本にもこういう時があった。歴史上の一瞬正義の行なわれうること、無量劫来この大宇宙に一頁を記すんですか、欲望がらくた、人間という賽の川原の際限もなしにです。でもまあ帝の問いに対して、良久して会すやという、わっはっはさすがは慧忠国師、そのころだって無明の大多数です、口を酸っぱくしたって会するものなしを、百年ののち所須、わが用い求めるところ如何と問う。あるいはせっかくの国業がどうなっているかという、老僧がために箇の無縫塔を作れ。縫い目のない塔です、ものみな手つかずの無縫塔、坊主の墓卵塔はまさにこいつを象ったんですか。塔様如何と問うに、自らと環境をもって示すのです。他まったくないんです。とやこう理屈したってそりゃ、はあそうですかという納得で終わり、これ政治の乱れ人心破綻の原因なんですよ。まったく他にはなし、思想イデオロギー諸の宗教という、無縫塔にあらざる、その国無影樹下の合同船にあらざる、よってもって歴史という無惨地獄絵を人類の資産とする他なく、なんという情けなさ。北条氏蒙古を迎えて滅びるんですか、実に時の執権これを用いて他なし、日本史の白眉であるとわしは思っています。帝かなわず、では弟子の耽源に聞けという、相の南譚の北形相譚論には拠らずというんです。無縫塔です黄金に充満しています、無影樹下影さす思想是非のない、無影樹下の合同船をもって彼岸に渡る法の櫂、瑠璃殿上に王の居城に知識なしです、花は知らないと答える、人間の如来は人間に同ぜるが如し、いつの日か進化して、毛なし猿の人間も地球のお仲間入り、花と昆虫の一億年戦争、はいたとい戦争ならそんなふうにさ。
頌に云く、孤迥迥、円陀陀。眼力尽くる処、高うして峨峨たり。月落ち潭空しうして夜色重し。雲収まり山痩せて秋容多し。八卦位正しく、五行気和す。身先ず裏に在り見来たるや。南陽父子却って有ることを知るに似たり。西竺の仏祖如奈何ともする無し。
まあこりゃこういうこってす、詞華としてよく味わっておきゃいいです、眼力という世間珍重の役立たぬ世界です、え-とだれであったか雲に経文なぞ見るなといっておいて、自分は声明を口ずさむ、なんでと聞いたら、おまえらは眼光紙裏に徹するから駄目なんだと云った。高うして峨峨たりですか、自分失せてものみなは、そうですねえ如来として現ずるんです。するとたいてい他の清々著とは雲泥の相違、なんか取り付く島もないんです。月落ち潭空しうして夜色重し、雲収まり山痩せて秋容多し。これ対句でもってアッハッハ習字でもしようっと。八卦は周易で陰陽の爻を組み合わせ八つの形、これをもってものみなに当てる、転じてうらない。五行は木火土金水の五元素また菩薩行の布施持戒忍辱精進止観。ここはまあ前者人のやることものみなぴったりと行くというこってす、そりゃ自分という架空請求から免れた人間です、当然のこってすか。南陽父子南陽の慧忠国師と弟子と、西竺はお釈迦さんも達磨さんもです。
第八十六則 臨済大悟
衆に示して云く、銅頭鉄額天眼龍晴、雕嘴魚鰓熊心豹膽なるも、金剛剣下是れ計ること納れず。一籌すること得ず、甚麼と為てか此の如くなる。
挙す、臨済黄檗に問ふ、如何なるか仏法的的の大意。檗即ち打つ。是くの如きこと三度、乃ち檗を辞して大愚に見ゆ。愚問ふ、甚麼の処より来たる。黄檗より来たる。黄檗何の言句か有きし。済云く、某甲三たび仏法的的の大意を問ひ三度棒を喫す。知らず過ありや過なしや。愚云く、黄檗恁麼に老婆、爾が為に徹困なるを得たり、更に来たって有過無過を問ふ。済言下に大悟す。
臨済院の義玄禅師は黄檗希運の嗣、臨済宗の祖。高安大愚禅師は伝不詳。これはまあ世に喧伝された、臨済西来意を問うて三たび打たれる話、臨済もよくぶんなぐったが、打たれると痛いと見える、こりゃたまらんというんで、辞し去って大愚に問う。なんという黄檗老婆親切、それをまたのこのこやって来て、とがありやなしやを問うとは、言下に大悟す。大悟すという破家散宅して天地宇宙そのものになっちまう、痛棒の意味がまったくよくわかるんです。大意とは思想分別じゃない、これといって天地宇宙ぶんなぐるやつ、自分という殻をぶち破る大事件なんです。今の世の人下世話解釈とはそりゃ違うです。おそらくこれを知る、いったい幾人いるか、皆無といっていい心細い限りです。いたずらに払拳棒喝として、自分も無茶苦茶人の一生を台無しにする。坊主だの師家だのこりゃ警察沙汰なんです。民事訴訟で一億ぐらいふんだくりゃちっとは省るですか。ほんにしょうがない、らしいものまね坊主の害悪、そりゃ曹洞宗猿芝居ってだけじゃないです。いえさ臨済銅頭鉄額熊鷹のくちばしもって、そんなことないです、臨済も黄檗も優しい、人に倍して痛感、傷つきやすい心根の人であったです。ただぶんなぐってどうだ、無位の真人面門に現ず、知慧愚痴般若に通ずとやったんではないんです、それを証拠にちゃんと大悟してるんです。花のほころびる如く、露柱の現れる如くですよ、お祭り騒ぎの柏陰禅師だって、ついには本来人です、唯我独尊自然に脱落です。もって受容如意ならん、宝蔵自ずから開けるんです。
頌に云く、九包の雛、千里の駒。真風籥を度し、霊機枢を発す。劈面に来たる時飛電急なり。迷雲破る処太陽孤なり。虎鬚を埒ず、見るや也た無しや。箇は是れ雄雄たる大丈夫。
九包之雛九つの包み-やがて花開くんでしょう、を具えた鳳凰のひな、千里の駿馬ともに臨済を頌す。籥は風を送る管ですとさ、老子にある天地の間はそれ嚢籥の如し、ふいごで風を送るんですか、から取る。枢は門戸北斗の第一星、まあ天地の間にゆうらり突っ立つ勢い、でも言下に大悟すというこれ、一言の下に自分という殻ん中のごったくさふっ消えて、天地の間だけになっちまう、しかもそのあとなんのけれん味もないとは、さすがこれ臨済。迷雲破る太陽孤なり、さあ虎のひげをなでてみますかっていうんです、黄檗に三たび棒を喫しこれなんぞ、なんという老婆親切という、あっはっはどかん生まれちまったなあ、箇はこれ悠々たる大丈夫、そうですよ自分というそれ失せりゃいい、仏教だけは時代によらないんです。
第八十七則 疎山有無
衆に示して云く、門閉ざんと欲すれば一拶して便ち開く、船沈まんと欲すれば一蒿して便ち転ず。車箱谷に入って帰路なし、箭筈天に通じて一門あり、且らく道へ甚麼の処に向かって去るっや。
挙す、疎山い山に到って便ち問ふ、承たまはる師言へることあり、有句無句は藤の樹に倚るが如しと、忽然として樹倒るれば藤枯る、句何の処に帰するや。い山呵呵大笑す。疎山云く、某甲四千里に布単を売り来たる、和尚何ぞ相弄することを得たる。い、侍者を喚んで銭を取って這の上座に還せと、遂に囑して云く、向後独眼龍あって子が為に点破し去ることあらん。後に明昭に到りて前話を挙す。昭云く、い山をば頭正しく尾正しと謂ひつべし、只是れ知音に遇はず。疎復た問ふ、樹倒るれば藤枯る、句は何の処に帰するや。昭云く、更にい山をして笑い転たた新ならしむ。疎言下に於て省あり。乃ち云く、い山元来笑裏に刀あり。
疎山光仁禅師、洞山良价の嗣、い(さんずいに為)山の霊祐禅師、百丈懐海の嗣、明昭徳謙禅師、羅山道閑の嗣。疎山い山に到って問う、承れば師、聞いておりますがっていうんです、有句無句道うも道はざるも藤が木にからまりつく、樹によってのみです、樹倒れりゃ枯れる、そんじゃそのあとどうなると聞く。い山呵呵大笑す。どうですかこれ、いったい疎山は何を聞いたんです、因縁難癖つけたんですか、まったくそうじゃないんです、仏道を求めるにあたって、ああも云いこうも云う、どうだどうだとやるんでしょう、そりゃそいつが仏教そのものではないか、忽然大悟するとき如何と、なんにもなくなったらどうなるんだというんです。い山呵呵大笑、はいよこんなもんだよってわけです。疎山怒り出した、千里の道も遠しとせずに大法の為に訪ねて来たのに、愚弄するな、布単を売り来たるというから、い山侍者を呼んでお-いこいつに銭払ってやれと云った。向後火独眼龍あって、二つの目でもって比較検討、俗人情堕が、一隻眼真正面を向くんです、他日だれかに出会うだろうてと云った、はたして明昭に会って前話を挙す。更にい山をして笑いうたた新ならしむ、そっくりさらけだして示したっていうのにと、疎山言下に省あり、はあっとものみな失せる、思想の延長上にはなかったんです、ひっ担いだ重石が取れた、云く、い山笑裏に刀有り、うっふなんかもうちっとましなこと云え。
頌に云く、藤枯れ樹倒れてい山に問ふ。大笑呵呵豈に等閑ならんや。笑裏刀あり窺得破す、言思道まうして機関を絶す。
藤枯れ樹倒れてい山に問う、さあなんて云うて問いますか、今日はおはようですか、呵呵大笑、三千里外にぶっ飛ばされてしまいますよ、有耶無耶じゃどうもならんです、笑裏刀あり黙裏雷あり、自分ちらともありゃへっこむんです、なんにもなきゃ指一本で山を動かす、言語や思想じゃない、もと我らのありよう大虚の洞然、毛ほどの隙もないんです、かくありこうあり機関を絶す。なにしろこれを味わって下さい。
第八十八則 楞厳不見
衆に示して云く、見あり不見あり、日午灯を点ず。見なく不見なし、夜半墨を溌ぐ。若し見聞は幻翳の如くなることを信ぜば、方に声色空花の如くなることを知らん。且く道へ教中還って衲僧の説話ありや。
挙す、楞厳経に云く、吾が不見の時何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見るといはば自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば自然に物に非ず。如何ぞ汝に非ざらん。
楞厳呪は梵語のまま読むことになっていて、ナムサタンドウスギャト-ヤ-と新到泣かせの長いやつを、五月六月毎日読む、でもってなんとか覚えて僧堂を出ると忘れてしまう。宗門坊主にとって、お経はお布施を稼ぐ道具以外になく、ましてや内容などは、そりゃ説教のネタにすりゃまた別という。もっともお経を知って説話したって、自分がその示す通りにならなけりゃ、なんにもならぬ嘘八百。これはその例にいい、言葉ずら捉えたって就中わけもわからんようできている。見あり不見ありと、どういうこったかわかりますか。見る、見性という、どうでも一度は見んけりゃそりゃお話にならん、仏教として成り立たぬのです。学者とか坊主の類はそれを知らんです。でも見るとは見る人がいないんですよ、ものみなあって自分なし、自分という架空請求に拠らんから、我と有情と同時成道のかの獅子吼があるんです、でもこう気がつく以前、まったくの不見忘我があります。それゆえ楞厳呪のこの語があります、吾が不見の時なんぞ吾が不見の処を見ざる、大悟徹底悟るという、たといなんぞ吾がという、そっくりそれ答え、でも身心脱落、いえ脱落身心の日常まさにこうあるきりです。若し不見を見るといはばそりゃ嘘だという、でもこの不見の地がなけりゃそりゃ問題にならんという、はいとにかくこれを知って下さい。でなきゃいかんが汝に非ざらん、即ち四の五の云ったってそりゃどうにもならんです。
頌に云く、滄海を瀝乾し、大虚に充満す。衲僧鼻孔長く、古仏舌頭短し。珠糸九曲を度し、玉機わずかに一転す。直下相逢うて誰か渠を知らん、始めて信ず、斯人伴ふべからざることを。
大海の水を飲み干せとか、よく公案小道具にあります、大虚に充満す、手に持ったお椀の中にころっと入るとか、身心脱落はあるいはこの世から完全に姿を消すんですか、すると鼻孔長くアッハッハどっか仏の相というのは、大風にできてますか、そうして舌頭短し、能書き三百代言しないんです。わずかに一転語する、あるいは一に永えに接するんです。直下あいあうて誰か渠を知らん、そりゃまったくわからんです、他はついに変だなあというぐらい。知ったとて窺い知ること不可能、だってさ自分を知らない人を、どうして知ることができる。始めて信ず、この人伴うべからざることをとは、云いえて妙です。まあ自ずからこうなるしかないってことですな。
第八十九則 洞山無章
衆に示して云く、動ずるときは則ち身を千丈に埋ずむ。動ぜざるときは則ち当処に苗を生ず。直きに須らく両頭撒開し、中間放下するも、更に草鞋を買うて行脚して始めて得べし。
挙す、洞山衆に示して云く、秋初夏末兄弟或いは東し或いは西す。直に須らく万里無寸草の処に向かって去るべし。又云く、只万里無寸草の処の如き作麼生か去らん。石霜云く、門を出ずれば便ち是れ草。大陽云く、直に這はん門を出でざるも亦草漫漫地。
青原下五世洞山良价禅師、雲巌曇じょうの嗣、大陽警玄禅師、梁山縁観の嗣、石霜慶諸禅師は道吾円智の嗣、夏はげと読んで制中、三旬安居といって今もそのとおり行なわれるんですが、葬式坊主のお行儀見習いと、でたらめ仏教です、軍隊組織のいじめみたいなことしてます。もはや宗門は滅びたんですか。でもこのころは違います。仏を求め法を求めて、一夏終わるとあいかなう師を探して行脚して行く。そりゃあ師がいいかげんならどうしようもない、師がちゃんと法を継いでいて、しかもかなわぬということあります。臨済も黄檗のもとを去って得る、洞山大師も諸方に遍歴です。青原行思は一宿覚といって、六祖禅師のもとへ一泊して得るんです。動ずるときんば身を千丈に埋ずむ、どうであろうかこうであろうかする、まさにどうもならんです。動ぜざるときは当処に苗を生ず、ではこうだと決め込んだら、雑草生い伸びるんですか、君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずとあります、自分そのものを捨てる、突き放すんです。あるがまんまという、世間常識とはまったく別の世界があります。さあそれを得ようという、すべからく万里無寸草の処に向かって去るべし、万里雲なし万里の天、千江水あり千江の月、はて無寸草のところ、一木一草も生えんところにどうやって行くんだってわけです。アッハッハまあそういったわけです。石霜云く、なにさ門から一歩出れば草生えるってさ。大陽云く、いや門を出ずたって草ぼうぼう。どうですこれ。
頌に云く、草漫漫、門裏門外君自ずから看よ。荊棘林中脚を下すことは易く、夜明簾外身を転ずることは難し、看よ看よ。幾何般ぞ。且らく老木に随って寒瘠を同じうす。将に春風を逐うて焼瘢に入らんとす。
草ぼうぼうまあ生えるに任せるってことですか、無無明亦無無明尽、草を妄想とするでしょう、すると念起念滅神経シナップスのぽっと出ぽっと消えです、それをとっつかまってどうのこうのやるから際限もないんです、病因無始劫来貪瞋痴という、たった今の自分が引き起こすところを、自分といいどうしようもなさだという、アッハッハお笑い草なんです。たといどうしようもない自分だろうが手かず、念起念滅に任せる、これができたとたんぱあっとなんにもなくなって、坐が坐になります。妄想草たとい自分のものなに一つないです、独創悠々自分流という、どうはっつけ関係ずけってだけのこと。審細に見るには見ればいい、妄想草、はい責任の取りようがないんでしょう、どうですかあなたを救い得たですよ。門裏洞山会下にあって、荊棘林ものみないばらの林です、どうにかしようとて七転八倒も即ち荊棘林です。仏の大まさかり揮って孤軍奮闘ですか。たといどうにかなる、門を出る転身のところ、向下門など態のいいこといって、はたしてそれが役立つか。はらわたまで草ぼうぼうんなっちゃアッハッハ元の木阿弥、しばらく洞山大師老木にしたがって寒風に痩せ、でもってまさに春到って門内あれ七転八倒の焼けあと。万松老人も人が悪いちえ老人組合。
第九十則 仰山謹白
衆に示して云く、屈原独り醒む正に是れ燗酔。仰山夢を説く恰も覚時に似たり。且らく道へ万松恁麼に説き、諸人恁麼に聞く。且らく道へ是れ覚か是れ夢か。
挙す、仰山夢に弥勒の所に往いて第二座に居す。尊者白して云く、今日第二座の説法に当る。山乃ち起って白椎して云く、摩訶衍の法は四句を離れ百非を絶す、謹んで白す。
仰山慧寂禅師、い山霊祐の嗣、摩訶衍は大乗の法だそうです、四句百非とは外道論争の道具とある、一、異、有、無を四句とし、四句各四句あり更に三世に約し云々と百非、まあインド流の総てを網羅。まことに痛快な話で、夢に弥勒菩薩の第二座であった、今日第二座の説法に当ると、すなわち起って、大乗の法は四句を離れ百非を絶す、つつしんで白すと。まったく他ないんです。とやこうなんで弥勒だ、お釈迦さんじゃないのか、どうして第二座だとかいってないで、自分も夢だろうが現実だろうが、したがい第三座だっても、ばかっと起ってやってみりゃどうです、首すっとんだって他にゃないんです、字余りぐずって三千里の外、そんじゃ坐る坐ったらなんとかど、あほなこと云ってないんですよ。屈原は詩人じゃなかったのかな、楚王に仕えてあるときは賛せられあるときは貶せられ、世挙げて皆酔へりただ我独り覚めたり、世挙げてみな濁る我ひとり清たりといって、河に沈むとある。まさにこれ燗酔とある、世間正直が酔っ払い、まさにこの例を見よという。世間常識をかなぐり捨てなけりゃ、そりゃ物にならんですよ、キリスト教の狂信者みたいなんかって、信も不信もないまったく他なし、これを知らんけりゃそりゃ駄目です。四句を離れ百非を絶す、いいえものみなかくの如し。
頌に云く、夢中衲を擁して耆旧に参ず。列聖森森として其の右に坐す。仁に当たって譲らず健椎鳴る。説法無畏獅子吼す。心安きこと海の如く、胆の量斗の如し。鮫目涙流れ、蚌腸珠剖る。譫語誰か知かん我機を洩すことを。ほう眉応に笑ふべし家醜を揚ぐることを。四句を離れ百非を絶す。馬師父子病に医を休む。
衲は破れ衣、擁はかいつくろう、破れ衣を正して耆旧、耆は年寄る、つまり列聖です、森森として其の右に坐す、まさにまったくです、今様評論家脇見運転にはわからない、どうしようもないのばかり増えて、人間も国も滅びますか。仰山夢に見るところ、けん椎、健に牛へんです、鳴りもの、今も使っています、八角のつち、白槌するといいます、にせ坊主猿芝居とは、仏祖師になんと申し開き、ほんにまあ道具立てばかりって、近頃の諸道具、坊主のどうしようもなさを見て、ほんにずさんで値段ばかり高い、そりゃまあものはそうなるわな。説法無畏獅子吼するところ、仏教途端に蘇るんです、これが滅びてなるか、安心は大海の如く、胆嚢斗で量るってなもんの。蚌腸ははまぐり真珠を生むんですか、鮫の目に涙も同じく、ほう眉半白の太い眉、うっふっふすべからく家醜を揚げて下さい、馬大師月面仏、日面仏、百非を絶したありさま。いやまあたいした詩人ですな、よくもまあこんなに云いつくろって、しかもすっきりずば。
第九十一則 南泉牡丹
衆に示して云く、仰山は夢中を以って実となし、南泉は覚書を指して虚となす。若し覚夢元無なることを知らば、虚実待を絶することを信ぜん。且らく道へ斯の人甚麼の眼をか具す。
挙す、南泉因に陸亘大夫云く、肇法師也た甚だ奇特なり、道うことを解す、天地同根万物一体と。泉庭前の牡丹を指して云く、大夫時の人此の一株の花を見ること夢の如くに相似たり。
南泉普願禅師は馬祖道一の嗣、陸亘大夫は宣州刺史南泉の俗弟子、肇法師は羅什三蔵の門人、どうだというんでしょう、肇法師はたいしたもんだ、天地同根万物一体だと云っている、たしかにそりゃ理にかなっている、そのようにものみんああり、同根も一体もたとい自分という深い井戸の底ですか、同心円を行ずるんですか、深い井戸がこっちを見ているんですか、それともまるっきりそんなもなないんですか。仰山は夢中をもって実際です、打てば響くんです。南泉庭前の牡丹をゆびさして、時の人これを見るに夢の如くといった、夢や現つやほんとうには見ていないということですか、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな、だから俗人浮き足だって右往左往、見れども見えずの、そうねえ騒がしいことやってないでというんですか。いえ俗人も覚者もないです、現実であればあるほどに夢、一年365日夢、却来るして世間を観ずれば猶夢中の事の如し、いいえとやこう抜きに手を触れ耳目にして夢、まずもってこれを味わって下さい。この項どっか洒落ていて覚えやすくていいです。
頌に云く、離微造化の根に照徹し、紛紛たる出没其の門を見る。神を劫外に遊ばしめて問ふ何かあらん。眼を身前に著けて妙に存することを知る。虎嘯けば蕭蕭として巌吹作り、龍吟ずれば冉冉として洞雲昏し。南泉時人の夢を点破して、堂々たる補処の尊を知らんと要す。
どうもこれ大袈裟に紛紛しなくたってもいいです、ものは見たとおりこうあるっきりです。そりゃ四句を離れ百非を絶しなけりゃ、劫外に遊ぶ神なく、父母未生前の妙もないです。牡丹がほんとうに牡丹であるとき、我なく牡丹なく夢の如くに実際です。人の見る風景は妄想執念です、それを実存といいあるなしという。妄想執念という、そいつを起こすやつが失せて、虎うそぶけば巌吹おこり、龍吟ずれば洞雲くらしです、独立独歩はまさにかくの如くあるんです。他との比較がない、夢のように空に浮かぶんですか、もし為政者あるいは官吏であれば、なをさらに四句を離れ百非を絶する、まさにこれ正義。歴史だの政治というぶっこわれがらくたを作らない、如実夢幻、堂々たり補佐です。これの尊いことを知る皆無、いえそりゃいくたびか行なわれていますよ。かつて他に帰趨の処なしを知る、そうですねえ人間とは何かーですよ。
第九十二則 雲門一宝
衆に示して云く、遊戯神通の大三昧を得、衆生語言の陀羅尼を解し、睦州の秦時のたくらく鑚を曳転し、雪峰の南山の鼈鼻蛇を弄出す。還って此の人を識得すや。
挙す、雲門大師云く、乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す、灯籠を拈じて仏殿裏に向かう、三門を将って灯籠上に来す。
雲門文偃禅師は青原下六世雪峰義存の師、睦州陳尊宿、黄檗希運の師、秦時のたくらくさん、始皇帝が阿房宮を築くときに用いた、車仕掛けの大きり。無用の長物ですか、馬鹿で擦り切れているんですか、睦州がよく用いた例。雲門は睦州に就いて始めて大旨を得るとある。雪峰南山にべっぴ蛇ありという、雲門柱杖を投げ出して畏れる勢いをなす、とある、二十四則雪峰看蛇。雲門大師は大趙州と並び称される大物です、はたしてこの人を知るや、というわけです。乾坤のうち、天地宇宙の間に一宝あり、形山四大五蘊すなわち体のこと、正にここに秘在す、灯籠を拈じて仏殿に向かう、さあどうですか。天地宇宙の間ですか、ものみなこうあって就中親しいんですか、我という存在をいったいなんによって差し示す、無だの空だの絵空事いってないで、実際かくの如く、清々といい、底抜けといい、影形相見るが如しですか。いえさまだ納得せんていうなら、三門-山門ごと一伽藍おっかぶせますか、うわあ大変だあ。なんとしても免れ出る手段、はいかくの如くー
頌に云く、余懐を収巻して事華を厭う、帰り来たって何の処か是れ生涯、欄柯の樵子路なきかと疑い、桂樹の壺公妙に家あり。夜水金波桂影を浮かべ、秋風雪陳蘆花を擁す、寒魚底に著いて餌を呑まず、興尽きて清歌却って槎を転ず。
雲門は肇法師の余懐を宝蔵論中の四句に示すとある、法として経を延べ事は華やかに仏法を展開する、そりゃ余懐というより百害あって一利なしですか。だれしも言葉の花を拈じてもって、世に広めたいわけで、万松老人老骨に鞭打ってのまさに是れ、帰り来たってなんの処か是れ生涯、船子和尚のように用がすんだら水に没す。たまたまかくの如くの一言半句、樵が山へ入って仙人の碁を囲むのを見て、斧が腐る百年を経るという。灯籠を拈じて堂に到る、壺中の王侯まさに他無きが如く。たとい北朝鮮も中国強盗も日本滅びようがです、木の葉揺れず風揺れず、たったこうあるが如く、うっふうビッグバンのはても指乎の間、いえもとそのようにでき上がってるっけこってす。われらが一個と歴史人類とどっちがどうなんですか、とやこう激論、出雲の神さまだろうがいいことしいも、結局はこれ。槎は船、寒魚底について餌を食まず、そんなやつが時に清歌すると舟沈没ってわけです。
第九十三則 魯祖不会
衆に示して云く、荊珍鵲を抵ち、老鼠金を銜む。其の宝を識らず。其の用を得ず。還って頓に衣珠を省する底ありや。
挙す、魯祖南泉に問ふ、摩尼珠人識らず如来蔵裏に親しく収得す、如何なるか是れ蔵。泉云く、王老師汝と往来するもの是。祖云く、往来せざる者は。泉云く、亦是れ蔵。祖云く、如何なるか是れ珠。泉召して云く、師祖。祖応諾す。泉云く、去れ汝我語を会せず。
魯祖山宝雲禅師、馬祖道一の嗣、摩尼珠人知らず如来蔵裏に親しく収得すという、寒山詩にもあった、こうしてこれをもって問うところを見ると、どっかお経の文句でしょう、実知慧という般若の知慧という、そうですねえ鍛えに鍛えた打ち刃物と、水とどっちが切れる、そりゃ水なんです、もとあるものだけを扱う、これが仏教です。座禅と見性と云って、なにかしら獲得物質のようにする、それは世の中手に職であり学問履歴の社会です、これに伍して坊主はお経、葬式法要ですか、禅坊主は悟りという、そうねえこれやってたら残念ながら仏教は手に入らんです。世を捨て自分を捨ててはじめて仏です。仏という生まれたまんまの赤ん坊ですか、父母未生前の消息ですか、手つかずのありよう、これ摩尼宝珠、如来蔵裏に親しく収攬するんです、人知れずとは他の人には知られずではなくって、如来も知らんです、知る必要がない、山水長口舌の絶え間なし出放しですか、王老師南泉です、いまこうして汝と往来するものこれ、そいつを往来せざるものはと問う、これなっちゃないですか。亦蔵とでも云っておくしかない、如何なるか是れ収、師祖、はい、珠を取り出して見せたんです、しかも汝我語を会せず。
頌に云く、是非を別かち、得喪を明かし、之を心に応じ、諸を掌に指す。往来不往来、只這れ倶に是れ蔵。輪王之を有功に賞し、黄帝之を罔象に得たり、枢機を転じ技倆を能くす。明眼の衲僧鹵奔なること無かれ。
摩尼珠のありようを、是非を別ち云々とはらしくもない、得喪は得失、とにかくまあこういったこって、じゃなにが宝の珠だ、我らみんなかくの如くじゃないかという、うっふその通りだが、宝珠になるやつと、妄想めったらにするやつとあるってこと。往来不往来ともにこれ蔵、宇宙の中心主人公ですか、用いえて妙は、輪王とは転輪聖王まさにそれ、黄帝こっちは現実生え抜きの大王ですか、上有効に賞し、下あるがまんまそのまんま使ってる200%です。罔象は盲人、まあ以下かくの如し、さあ自分でちゃんと確かめてください、そうです、妄想無明と、摩尼宝珠の違いを知って下さい、即ちそれだけが仏教、鹵奔は軽率おおざっぱなこと=思想観念の物差しを振り回すんですよ。
第九十四則 洞山不安
衆に示して云く、下、上を論ぜず、卑尊を動ぜず。能く己を摂して他に従うと雖も、未だ軽を以て重を労すべからず。四大不調の時如何が持養せん。
挙す、洞山不安。僧問ふ、和尚病む、還って病まざるものありや。山云く、有り。僧云うく、病まざるものは還って和尚を看るや否や。山云く、老僧他を看るに分あり。僧云く、和尚他を看る時如何。山云く、即ち病あることを見ず。
青原下第五世洞山良价禅師、雲巌曇じょうの嗣、洞山不安四大不調ですから、病の床に伏す。下上を論ぜず、卑尊を動ぜずは、ものごとまさにかくあるべしの見本です。総理大臣を選んでおいて文句ばっかりの国民や、反対ばっかりの国会議員どもじゃ、そりゃ政治も国も不成立です、過ちは正すたって、たいていむかしは死を賭しての上のこってした、少しはこれを思えってね、軽輩の分際で重役を労するんじゃないよ、おまえさんの首ねっこに刃、そりゃ一言あるにはそういうこと。和尚病む還って病まざるものありや。答えがわかっていて聞くやつは万死に値する、頭の悪いやつはみなこれ、じゃ聞かなきゃいいんです。あっはっは学校の先生みなこれ、つまりろくなもな育たない、知識で人を殺す、殺人事件ですな、少なくとも教育=必要悪ぐらいの思想あってしかるべきです。どうですか病まざるものありや。山云く、あり。その病まざるものはかえって和尚を見るや否や。ちらともかじると答えがある、倒退三千、このばかったれぶっ飛ばすにいいです、山云く、老僧他を見るに分あり、見るものはよう見ているよ、ぶっとばしてるんですよ、病にあらざる。そいつに気がつかない、寒毛卓立だってのにさ。和尚他を見る時如何、間抜けな問い、うっふだれを見たって病あることを見ず、そうなんですよこれ、どんなしょ-もねえのでも仏、みな大悟徹底底なんです、とやこうするうち違ってるから、それ違うよという、これ仏の常道です、ここはおまえさんの病ももと不要という痛棒ですか。
頌に云く、臭皮袋を卸却し、赤肉団を拈転す。当頭鼻孔正しく、直下髑髏乾く。老医従来の癖を見ず、小子相看して向近すること難し。野水痩する時秋潦退き、白雲絶ゆる処旧山寒し。須らく剿絶すべし、蹣捍すること莫れ。無功を転尽して伊位に就く、孤標汝と盤を同じうせず。
臭皮袋という世間ものみなですか、赤肉団貪嗔痴ですか、まずもってこれに気がつく、ついでそいつを脱しようとする、でなきゃ仏教は始まらない、如何なるか是れ仏の真髄。汝の問うは真髄にはあらず皮袋なり。仏を問うそいつが臭皮袋じゃしょうがない、総じてこれを心病となす、これを正しこれを脱しして鼻孔正しくどくろ乾く、まあさ健康になって下さいってこと。せっかく老医は西欧流分析をもって、点滴だの注射だのしない、そうさおまえさん健康だよってね、伊=彼が云うならそっくり健康、小子向近すること難し。どうですこれ。秋遼秋の水たまり消え、白雲絶えて旧山寒し、仏法として要らん手をさしのべないんです、断崖絶壁です。さあ心地を巣滅して下さい、まんかん字違うんですが、馬鹿にするなってこと、病でぼけたんだなんてのはもっての外、実にもって無功を転じている。洞山不安、同じ盤上に碁をうってるんじゃないよってね。まあそういったとこ。そうですよ、なんのための仏教か根本に問い直して下さい。
第九十五則 臨済一画
衆に示して云く、仏来たるも也た打し、魔来たるも也た打す、理有るも三十、理無きも三十す。為復是れあやまって怨讐を認めるか、為復是れ良善を分たざるか、試みに道へ、看ん。
挙す、臨済、院主に問ふ、甚の処よりか来たる。主云く、州中に黄米を売り来たる。済云く、糶得し尽くすや。主云く、糶得し尽くす。済柱杖を以て一画して云く、還って這箇を糶得せんや。主便ち喝す。済便ち打つ。次に典座至る、前話を挙す。座云く、院主和尚の意を会せず。済云く、爾亦作麼生。座便ち礼拝す。済亦打つ。
臨済義玄禅師は黄檗希運の嗣臨済宗の祖、仏来たるも打ち、魔来たるも打ちですか、払拳棒喝の元祖みたいな人で、そいつがまた黄檗に打たれて、なんでまた一言半句すりゃ打たれにゃならんと文句を云う、打たれりゃ痛いと見える、でもって黄檗の親切がわからんのかと云われて忽然大悟、如何なるか是れ仏、求めるに成り切ってその上なんです、首くくる縄もなし年の暮れ、自分という架空請求が吹っ飛んでるんです、わかりますかこれ。わかったといっても三十棒、わからんと云っても三十棒、院主は寺院の事務など一切を引き受ける役、監院といって禅師の次の位ですか、能登の祖院へ行ったら、脱ぎ捨ての草履監院老師に揃えられて、はなはだ恐縮、恥ずかしくってもう祖院には行かれねえやって、弟子が云った。え-となんだっけ、典座は会計台所いっさいを預かる役、典座と雲衲を総括する維那とまあこりゃ三つ大役ですか。さすがに臨済んとこは、一隻眼ばかり出揃っている、そりゃかつて永平寺でもそうだったでしょう、活発発地をもって回っていたんんです。今様嘘で塗り固めて、どんみり淀んで息もできないのとは、うっふこりゃ云うも野暮か。糶=売るんです、すっかり売ったか、はい売り尽くした、臨済柱杖を以て一画してさあ売ってみろという、院主喝す、すなわち打つ。典座に挙せば、、院主意を会せずという、ならどうする。典座礼拝す、すなわち打つ。怨み残さんようにさと、万松老人老婆親切、はたして打つ用があったんですか、なかったんですか。
頌に云く、臨済の全機格調高し、棒頭に眼あり秋毫を弁ず。狐兎を掃除して家風俊なり、魚竜を変化して電火焼く、活人剣殺人刀、天に倚って雪を照らし吸毛を利し、一等に令行して慈味別なり、十分の痛処是れ誰か遇はん。
臨済の全機格調高し、まあそういうこってす、格調とは寸分もゆるがせにしないこと、雪上に霜を置くも、泥中に土塊を洗うもない、まさにこれ電火焼く、痛棒他なしですか、院主若しちらともこうすべきあれば、打って雲散霧消、典座若しちらともらしくするあれば打って倒退三千、活人剣殺人刀、そりゃせっかく父母未生前の200%を、てめえで蓋することはない、奪うには痛棒、すなわち蘇るんです、これを頌して天によって雪を照らし、令行して慈味別なりという、さても十分のところ誰あってこれを受けるか、そうですまあ永しなえに応答して下さいよ、いやはや大騒ぎの末にのこっと化けて出たり、てなことなきように。はい老婆親切。
第九十六則 九峰不肯
衆に示して云く、雲居は戒珠舎利を憑まず、九峰は坐脱立亡を愛せず。牛頭は百鳥花を衒むことを要さず、黄檗は杯を浮かべて水を渡ることを羨まず。且らく道へ何の長処かあるや。
挙す、九峰、石霜に在って侍者と作る、霜遷化の後、衆、堂中の首座を請して住持を接続せしめんと欲す。峰肯はず乃ち云く、某甲が問過せんを待て、若し先師の意を会せば先師の如くに侍奉せん、遂に問う、先師道はく、休し去り、喝し去り、一念万年にし去り、寒灰枯木にし去り、一条白練にし去ると、且らく道へ甚麼辺の事を明かすや。座云く、一色辺の事を明かす。峰云く、恁麼ならば未だ先師の意を会せざるあり。座云く、汝我を肯はざるや、香を装い来たれ。座乃ち香を焚いて云く、我れ若し先師の意を会せずんば、香煙起こる処脱し去ることを得じ、云い訖って便ち坐脱す。峰乃ち其の背を撫して云く、坐脱立亡は則ち無きにはあらず、先師の意は未だ夢にも見ざるなり。
雲居道膺禅師は洞山良价の嗣、戒珠舎利とは生前戒行正しい人の遺骨、九峰の道虔大覚禅師は石霜慶諸の嗣、牛頭法融禅師四祖大医道信の嗣、心銘あり、牛頭山の石室に入って、百鳥花をついばむ異相あり、のち四祖に見えて大法を得る。黄檗は行脚の途中、道連れが水上を歩みわたるのを見て、なんてえことをする、せっかく法の人と思ったのにといって、袂を分かつ。今ここに於て九峰、坐脱立忘の、これをまあなんていったって標にしての修行です、仏である証拠とばかりにするんでしょう、首座和尚は一香を焚く間に坐脱する、うっふお悟り機械みたいなん、そいつの背中撫でて、いい子だいい子だ、見事なもんだけどなをかつ、先師の意を未だ夢にだも見ずとやる。どうですかこれ、老師が静に入れる人はうらやましいですねえと云った、わしはだいぶ変な気がした、だって老師の悟は空前絶後と云われるほどのものであって、それがいったいなぜという。未だ夢にだも見ざるものあり、仏とはなにか、おれはかくの如くであるからという、まずはそいつを取れ、技術屋の技術じゃない、ではさしのべる手であるか、だったらそいつをアッハッハ、始末しちまってから出せ。
頌に云く、石霜の一宗親しく九峰に伝ふ、香煙に脱し去り、正脈通じ難し。月巣の鶴は千年の夢を作し、雪屋の人は一色の功に迷う。十方を坐断するも猶点額す、密に一歩を移さば飛竜を見ん。
点額は落第のこと、魚竜と変じ切れずひたいを打ちつけて落ちるにより、せっかく香煙に脱し去って、なおかつ正脈通じ難し。そりゃ仏教以前今に至るまで、さまざまに忘我の法はあって、一神教の他はたいていこれを用いるんです。どう違うかというとみなどっかに付け足す部分がある、禅定という資格試験みないにして、一手段ですか、密教がそうです、端にこれだけということを知らない。直指人身見性成仏もとこれっきりを知らないんです。ではこの首座の如きはまさにこれっきりじゃないかという、アッハッハこれっきりを一色の功です。袋小路のどんずまりみたい、座忘人間ですか、たとい千年の夢をなしたろうが、そんじゃ勝手にさらせってやつです。さすがに九峰はこれを見る、なに三歳の童子だろうがそりゃ不肯ですよ、坐忘なくば力失せとありますが、だれあってこれを得ること、魚の水にある如く、雲の空を行く如くの活発発地です、どうかすべからく手に入れて下さい。はい、ことはそれからです。
第九十七則 光帝ぼく頭
衆に示して云く、達磨梁武に朝す、本、心を伝えんが為なり。塩官大中を識る眼を具するを妨げず、天下太平国王長寿と云って天威を犯さず、日月景を停め四時和適すと云って風化を光らかにすることあり。人王と法王との相見には合に何事か談ずべき。
挙す、同光帝、興化に謂って日く、寡人中原の一宝を収め得たり、只是れ人の価を報ゆるなし。化云く、陛下の宝を借せよ看ん。帝、両手を以てぼく頭脚を引く。化云く、君王の宝誰か敢えて価を酬いん。
同光帝、唐の荘宗帝同光は年号、興化存奨禅師、臨済義玄の嗣、塩官斎安禅師は馬祖道一の嗣、大中、唐の宣宗帝の年号、大中天子というその即位に当たって力があった。達磨朝梁武帝は第二則にあり、時の国王に会うことは、他の諸宗はいざ知らず、まさにこれ正道をもって一般天下に示す、もっともたること、邪宗外道の支配には、人心惨憺たること自然もまた荒廃する。もっともそっちのほうが常に圧倒的だった。一神教の成れの果て共産支配など、人間カリカチュアともいうべき、最もアメリカ支配の日本だって目くそ鼻くそ、みんな仲良く平和教などただの弊害を、いっそぽい捨てもできないでいる。無宗教なんてまずはありえない、百人が百人雑念宗教です、とっつきはっつき身動きもできないでいる。情けないったら、梁の武帝のように大なり小なり本物、本心を追い出して知らん顔が、妄想醜悪のまんま棺桶に入る。因果必然てことあってそりゃ無明ばっかりの、ちらとも光明なけりゃ国は滅びます。たいていその真っ最中ですか、ここに光明があります、よろしくよく肯うて下さい。同光帝はたいしたもんです、ちゃんと開示している、しかもこれまずはまったく報いられることのないのを知って、どうしたらいいと聞く、いいえ自分淋しいなんてけちなこっちゃない、ぼくは僕のにんべんでなくて巾、かぶと頭巾というものだそうです、脚はその紐、両手に引いてみせる、これを見て長寿無窮を、天威を犯さずですか、君王の宝だれか敢えて価を報いん、そのまんま光さんぜんで万万歳です。即ちそういうこってす。
頌に云く、君王の底意知音に語る。天下誠を傾く葵霍の心。てい出す中原無価の宝。趙壁と燕金とに同じからず。中原の宝興化に呈す。一段の光明価を定め難し。帝業万世の師となるに堪えたり。金輪の景は四天下に輝く。
まあほんとに金ぴかの頌だことさ、そりゃまあ天子がかくの如くであったこと、史上まったく希に見るとしかいいようがなく、我国北条氏の治世の如くまったくめだたない、史家の記述の影に隠れる。ゆえに以て中原無価の宝、葵霍、かくはくさかんむりできかくひまわりのこと。趙の玉と燕の金はこれ珍宝、まあいずれ菖蒲かかきつばた、君王の宝法王の宝、大いに用いて一段の光明定め難しと。小泉の国会解散人みな右往左往、せっかく郵政民営化をひっかついで首相になったんだから、やらせてやりゃいいのに、大人げないっていうのは利権がらみ、亀井静がとって代わりたかったのと、角栄残党なんて日本の恥だな、国民の審判というまったくもってあてにゃならぬ、云々2チャンで云ったら、仏は政治に口出しするな、感情論だという、てやんでえわしゃ座禅お宅やってんじゃね-や、それに感情論の他に意見なぞない、中立だの冷静という嘘だ、学校教育の平静という、自分預からぬという、そりゃ阿呆をこさえるだけだ、おのれ関わって初めて政治であり、ものみなそうなあ、論文というずさん、歴史家の文章というこれ、文章にもなにもなってない、歴史は人麻呂、論文は芭蕉といったら大笑いか、そんなことはないさ、どっちらけで滅ぶだけの人間、人間失格はどこから来るか、ちっとはそりゃ反省したほうがいい、金ぴかの頌よりも照顧脚下とな、わっはっは。
第九十八則 洞山常切
衆に示して云く、九峰舌を截って石霜に追和し、曹山頭を斫って洞嶺に辜かず。古人三寸、恁麼に密なることを得たり。且らく為人の手段甚麼の処に在るや。
挙す、僧洞山に問ふ、三身の中那身か諸数に堕せざる。山云く、吾れ常に此に干ひて切なり。
九峰は道虔大覚禅師、石霜慶諸の嗣、曹山本寂禅嗣は洞山良价の嗣、舌を截る、思想分別人の舌を截るんです、でなきゃ仏教は始まらん、頭を斫る、よく首のもげたお地蔵さまのように坐れという、思い込み坐禅ではない、けつの穴まで虚空と遊ぶ、これ就中手間暇かかりますか、というのも思い込みのたが外れない、ぶったたかれぶったたかれして、まあわしら並みの人間は、そんなふうでようやくちったあ頭落ちるんです。洞山悟本大師は雲巌曇晟の嗣、曹山ともに曹洞宗の開祖。三身というのは、法身報身応化身に別ける、別段そんな必要はない、舌先三寸の辺のこったな、諸数というのも、仏身には三身四身とか三十二相八十種なと、いずれひま人の数え出した種々あるわけです、するとそれに捉えられて四苦八苦する、即ちこの僧それら数量に堕さぬ真法身を問う、洞山云く、吾常にここにおいて切なり、はいと応じたわけです、もと数量に堕せぬことを知ればいい、知ればいいただそれだけが、なかなかどうしてってことあります、常にただこれ。
頌に云く、世に入らず、未だ縁に従はず。劫壺空処に家伝有り。白蘋風は細やかなり秋江の暮れ、古岸舟は帰る一帯の煙。
世に入らず縁に従わず、肉食妻帯しようとも選挙に行こうともです、出家まさに他なく、一身因果必然の中にただこうあるだけ、愛するものたといあっても、手をさしのばすに千里の向こう、劫壺空所に家伝あり、これが七通発達を家伝に例えるわけですか、洞山云く、吾常にここにおいて切なりと、自分の母親が布施して徘徊して歩くのにも、敢えて会うことをしなかった洞山大師です、母親が死んでその貯えをもって雲衲に供養したという、ゆえにもって極楽浄土に行くと、まったく他なしのこと。むかしはさすがにというのではなく、わずか一柱坐るのが坐になるかならぬかということです。世に伍し縁に従うあれば、すでに済々坐から遠い、太虚の洞然たるとは行かないんです、わかりますかこれ。座禅と見性という、お悟り資格でもなければ、なんの技術でもないこと、白蘋まずは秋草です、細やかに秋江の暮れ、古岸に舟は帰る一帯の煙と、たとい風景もおのれのものにはならんのです。よくよく保任して下さい。
第九十九則 雲門鉢桶
衆に示して云く、棋に別智あり、酒に別腸あり。狡兎三穴、猾胥万倖。箇のこう頭底あり、且らく道へ是れ誰ぞ。
挙す、僧雲門に問ふ、如何なるか是れ塵塵三味。門云く、鉢裏飯、桶裏水。
雲門文偃禅師は雪峰義存の嗣、将棋ですか碁ですか、どっちでもいい別智あり、馬鹿みたいのにころっと負けたりします。酒は別腹ですか、飲めるやつと飲めないやつ、狡猾を兎と胥は猿ですとさ、二つに振り分けた、兎には三つの穴がある、万倖人間の仕損じをもののけの倖とするとある、まあそういったこってすか。そうしてもう一つは箇のこう、言に肴です、こみいった所というわけです。華厳の事事無礙三味というつまり塵塵三味のありようをあげつらったわけです。そりゃこれ、ちらとも脇見運転、こんなはずじゃなかったとか、おれは見性底こんなことは別口とかやれば、すなわちひっくりかえる、事に当たってただ真正面です。本当に行なえば、却来して観ずれば、振り返り見れば夢中の事なんです。人生夢のまた夢は、たとい仕損じたれども、全力を尽くしたということです、いえたった一回200%やり切れれば、あとの半生おむつ僕ちゃんやってたろうが、まさに夢中の事、「生きたよう。」という無限大があります、ほかなしですよ。如何なるか是れ塵塵三味、鉢裏飯桶裏水、鉢の子鉄鉢応量器に飯を食らい、桶に水を使えというんです。はいわかりますか、いえほんとうにわかって下さい。
頌に云く、鉢裏飯桶裏水、口を開き胆を見はして知己を求む。思はんと擬すれば便ち二三機に落つ。対面忽ち千万里と成る。音召陽師些子に較れり。断金の義、誰か与に相同じからん、匪石の心独り能く此くの如し。
口を開き胆をあらわして知己を求む、これ衲僧家世の常、たとい2チャンネル辻説法たっても、云うことこれしかないです。鉢裏飯桶裏水中国語の発音も知りたいと思ったりします、思ったりってあっはっは二機に落ち三機に堕すんですか。音召じょうの一字です、音召陽大師は雲門のおくり名です、なんせ万松老人特別扱いで、些子にあたれりというからには、断金の義誰かともに相同じからんです。たしかに、鉢裏飯桶裏水、雲門が云ったとわしら泡沫が云ったんでは、転ずるに格段の相違ですか。匪石の心、石の如く固い心ですってさ、撥ね返り方が違うですか、はいよったらちりっぱ一つ残らず、鉢裏飯桶裏水。
第百則 瑯や山河
衆に示して云く、一言以て邦を興すべく、一言以て邦を喪すべし。此の薬又能く人を殺し亦能く人を活かす。仁者は之を見て之を仁と謂ひ、智者は之を見て之を智という、且らく道へ利害甚麼の処にか在る。
挙す、僧瑯やの覚和尚に問ふ、清浄本然云何ぞ忽ち山河大地を生ず。覚云く、清浄本然云何が忽ち山河大地を生ず。
瑯や(王に邪)山の開化広照禅師、汾陽善昭の嗣、一言もって国を興し、一言もって国を滅ぼす、これ仏の尋常世の常ですか、たとえじゃなくて実際にこういう感覚ですよ。そうして活殺自在、象王行く処狐狸の類は姿を消すんです、もっとも聞く耳持たない右往左往がいっぱいですか、そりゃ別にかまわんです、服と不服とか医の科にあらず、まずもって転法輪あって、かなわずばまたの機会です、ほかどうしようもないし、匙投げるってことあって、こっちのとやこうじゃない、相手の大損です。せっかく出会っていながらそっぽを向く、なんたる不幸。仁者は之を見て之を仁といい、智者は智を見て之を智という、はいその通りこの通りすりゃいいです。北朝鮮みたいやつがいて、まあどけちのとんでもないことをする。損をするのは向こうなんです、どんなに怨みを買い不都合ですか、しかも会うべき人に会えず、智恵をも見ずとは、いかにも情けないです。もとより因果必然は、旧日本軍などのしでかしことですか、今に中国が同じことをしているってわけですよ、お笑いっちゃお笑い。清浄本然とはもとかくの如くにある、赤ん坊のまっさらに見る、いえ無眼耳鼻舌身意。われのうしてある世界です。妄想執念が風景になって見えるのですよ、そいつが落ちる、架空請求の自分というなしにある、これを清浄本然と云った。一切世間皆如来の顯現などいい、また山河大地を有為の諸相と云った。すればそれに捕らわれるんです。清浄本然忌という三十三回忌弔い納めとか、すなわち自分という形骸がすっからかんになったということですか。故に以て問ふ、清浄本然いかんが忽ち山河大地。これに応じて覚和尚、清浄本然いかんが忽ち山河大地。
頌に云く、有を見て有とせず、翻手覆手。瑯や山裏の人、ぐ曇の後へに落ちず。
有を見て有とせずとは、清浄本然としてどうしてもなにものかあると思うんでしょう、そのまんま扱っては、あると思うそいつが外れない、間髪を入れず清浄本然と返すんです、翻手覆手、掌を返すようなという、あれっと気がついて自分という架空請求が失せる、忽然大悟という、清浄本然のまっただなかです。ぐ(口二つにふるとり)お釈迦さまです、瑯やというのは地名ですが、両方とも玉なんでしょう、瑯や山裏の人、まさにこの手段あってお釈迦さまにもひけを取らずというわけです。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。