良寛さんと貞心尼の相聞歌
良寛さんと貞心尼の相聞歌ですか、そういえばず-っと先どっかで見たような気もしますが、目の当りお初にって感じです。
・これぞこのほとけのみちにあそびつつつくやつきせぬみのりなりける
貞心尼には仏の道がある、良寛さんにはない、まりつきっきりになれない、子らと遊んでいる良寛さん、ただ遊んでいる、まったくただをそりゃ教えてやりたい、だってこ-んなに広大無辺、
・つきてみよ一二三四五六七ここの十を十おさめつくしてまたはじまるを
こうなんですよって、ついて見せる。坐禅の数息観もひとつふたつと忘れ去れば、すなわち100%一つを一つおさっめつくすってことあるんです。
・君なくば千たび百たびつけりとも十づつ十を百と知らじおや
貞心尼の庵跡が見附から長岡へ向かうじきそこにあります。大きな欅の木があって、村としちゃそれで売り出したいところだが、五合庵と同じで見るとこな-んもない。ここから歩いて良寛さんを訪ねるのに、三時間あるいは半日かかるかも知れない。
はじめてあひ見奉りて、
・君にかくあひ見ることのうれしさもまだ覚めやらぬ夢かとぞ思ふ
どこを向いたってろくな坊主のいないのは今も昔も同じだ、世の中騒然さぶざぶしいのもあたかもどっかのINわっはっは-ジュラシックパ-クどうもこいつら人間じゃね-ぜって、なんしろ逃げるっきゃなかったりさ、そういうわけのわかんない、無理押し我欲の世界、どめくら真っ暗闇なんでしょう、それを良寛さんがいたんです。そうして今目前にある、涙ぼうだです。夢かとぞ思うんです、でもねえ良寛さんは、自動的にそういっている相手を救うんです。
・夢の世にかつまどろみて夢をまた語るも夢もそれがまにまに
苦しみの世の中っていうけれど、過ぎりゃもうないんです、だから現実であればあるほど夢なんです、ほうらね、今こうしてあるこれっきりでしょう、楽しいたってうれしいたって、それっこっきり踊り踊ってるってふうの。いとねもごろなる道のものがたりして夜も更けぬれば、どこまで行っても道なんですか、それは淋しい、道を取ればなれあいっきりの、今の世とはそりゃ違うんです。
・白妙の衣手寒し秋の夜の月中空に清みわたるかも
道の貞心尼は中空にすみわたる月を見る、清いとはあるいは心の高揚これに尽きるはなく、現代っこの及びもつかぬ激しさ、ゆくりなさ、だけれども良寛さんはこういうんです。
・向かひいて千代も八千代も見てしがな空行く月のこと問はずともよし
そうなんですよ、コ-といえばカ-と笑って、真向かいすりゃいい、仏男女の間世間てい、そんな枠組みどっこにもないっていうのにさ。
・心さへ変はらざりせば這ふ蔦の絶えず向かはむ千代も八千代も
そりゃ女だよ、はいそうですってわけにはちいとそのう、心変りなんてあたしがするもんですか、千代も八千代もっていうんです、でも良寛さんには変わるべき心なんかなかった。
また来ます-必ずまたやって来いな、玉鉾の道のしば草たどり、若い貞心尼と、すすき尾花の露を別け、いいかげん年の良寛さん。
ほどへてみ消息給はりける中に、
・君や忘る道や隠るるこの頃は待てど暮らせど音ずれもなき
三つの子どものような良寛さん、
・ことしげき葎の庵に閉じられて身をば心に任せざりけり
そりゃ女の方がいつだって大人-かな。
貞心尼が道を問うのに、
・山のはの月はさやかに照らせどもまだ晴れやらぬ峰のうすぐも
たしかにこのとおりだとわかってはいるのですけど、どうもはっきりしません。あるいは、
・身を捨てて世を救う人もますものを草の庵にひま求むとは
せっかくの仏の教えだというのに、そんなにして草庵に独居していいものでしょうか、と聞く。
良寛さんの答えは、
・ひさかたの月の光の清ければ照らし抜きけり唐も大和も
なにをいってなさる、月の光ってもとっこ唐も大和も照らしつくしているっていうのに、まだ晴れやらぬとか、うすら曇りな-んていっている、身勝手な自分があるっきり、うっふっふう、そう思い込んでいるってだけのいらんこと。
・昔も今も嘘も真も晴れやらぬ峰のうすぐも立ち去りて後の光と思はずや君
だからむかしもいまも、うそもまこともってもうないものをくだくだいってるうすぐもでしょう、ほっと目を開ければ光通達。ほらな-んもないんでしょう、どうですってね。
春の初かたしょうそこ給はるとて、良寛さんのからの便り、
・おのずから冬の日数のくれ行けば待つともなきに春は来にけり
どうですか、冬の日数が過ぎれば待ってなくったって春が来ますよ、おいでなさいっていうんです、どうですか仏道の自縄自縛の縄はほどけましたか、自然に氷解して満こうの春。
貞心尼がほんとにそうでしたって答えるんです、見事なものです、だれだって触れるもの自ずから、
・われも人もうそもまこともへだてなく照らし抜きける月のさやけさ
・さめぬれば闇も光もなかりけり夢路を照らす有明の月
良寛さんは大喜び、
・天が下にみつる玉よりこがねより春のはじめの君がおとづれ
有明の月とどうしても頼り見るところがあって、良寛さんに大法とは何、仏とは何と確かめるんです、確かめずにはいられない、そういう自分が残る、もとそんなものないよと、良寛さんが示す、
・手にさはるものこそなけれ法の道それがさながらそれにありせば
ほうらたった今こうやっている、これっきり、仏といって、自分はどうだといって、振り返り見る必要はないんでしょう、ものはまったくこれっこっきり、来たるが如しの如来の道なんです、後先ない。
そうなんです、ようくわかっていますのに、どうしてもなにかしらひっかかってしまうんです、貞心尼ならずとも、そりゃそういうことあるんです、実は自分でそうしている、手放せばなんにもないっていうたった今の自分。
・春風にみ山の雪はとけぬれど岩まによどむ谷川の水
ああせっかく春風(良寛さんに出会って)に氷(自分という思い込み)は溶けたっていうのに、なんでまたわたしは-
・み山辺のみ雪とけなば谷川によどめる水はあらじとぞ思う
そんなことないってばさ、ほうら見てごらん天上天下唯我独尊、あっはっは、花が咲けばうぐいすが鳴く。
・いずこより春はこしとぞたずぬればこたえぬ花にうぐいすの鳴く
わかるかい、こたえがなきゃだめなんてことない、そうさ、だれがそんな答え注文してるんだ。
師常に手毬をもてあそひ玉ふと聞きて、
・これぞこのほとけのみちにあそびつつつくやつきせぬのりなるらむ-貞心尼
御かえし、
・つきて見よひふみよいむなここのとをとをとをさめて又始まるを-師
手毬をついている法界光荘厳、さだめしきっとつきやつきせぬ法という。面白いんでしょう、まさにそうには違いないんですが、法といいつきせぬという、仏の幻影を見るんです。宝鏡三味-鏡に映った姿です、なんにもないものは映らない-はいと云えばおうと答え。蓮の露というこの一連、実にこれより何人の葛藤裏、だれしも自分のおもかげという、ないはずのものを写す、それに気がつくと、自ずから救われてある道理。さても良寛和尚の手腕いかに、アッハッハひとまずそういうことです。単なる相聞じゃない、自然に殺活自在のところをごらん下さい。
手毬をつくという、人まねうわさ話じゃない、ついて見りゃいいっていうんです、一二三四五六七八九十とついて、一二三四とまた始まる、他にないんでしょう。仏をいうなら仏100%。法とは強いていうなら一二三四です。どうですか。
はじめてあひ見たてまつりて、
・君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ-貞心尼
御かへし
・夢の世にかつまどろみて夢を又かたるも夢もそれがまにまに-師
伝え聞いた良寛さんに出会って夢見心地、うわさ半分上の空っていうことあるんです。実際に会っているのにたいていそうなんです。良寛さんはそれを咎めようっていうんじゃない、そっくり。
大法如是という、現実であればあるほど夢、このことたいていの人知らないんです。たいていの人、省み観察する自分があるから現実という、そういう残像が残るんです。一二三四つきっぱなすと、手毬をついたことも夢のまた夢なんです。幼いころの記憶がないのは、実はそのためです。夢の世にかつまどろみて夢をみて、夢の又夢だろうが、二人いて他になにあろうってわけです。間に仏だの他人行儀、世間なく、別になれ合いってこっちゃないです。
・いともねごろなる道のものがたりに夜もふけぬれば、
・白たへのころもでさむし秋の夜の月なかぞらにすみわたるかも-師
夜も更けた、月は中空。
されどなほあかぬ心地して、
・向ひいて千代も八千代も見てしがな空行く月のこと問はずとも-貞心尼
アッハッハこりゃ貞心尼のほうが正解。
御かへし、
・心さへかはらざりせばはふつたのたえず向かはむ千代に八千代に-師
なんだあ、良寛さんともあろうものが、年のせいって、もしわしなら千代に八千代になんて、君が代みたいこといっとらんわい、これ師と貞心尼と歌ひっくりかえして、多少の取りえ。
いざかへりなんとて、
・立ちかへりまたもとひこむ玉ほこの道のしば草たどりたどりに-貞心尼
玉鉾の=道にかかる枕詞、天子の通う道の両脇に鉾を立てたことから。つゆぬれる青芝を踏んで。
・又もこよ山のいほりをいとはずは薄尾花のつゆをわけわけ-師
薄=すすき。枯れ尾花のつゆ道。ちええむかし栄養不足か、どっすけべの良寛坊主がちょっと戸惑う、もっとも男と女の時は違うってことあって。
ほどへてみせうそこ給はりけるなかに、
せうそこ=消息。
・君やわする道やかくるるこのごろはまてどくらせど音づれもなき-師
ぐわあ毎日首を長くして待っているぞ。わしの寺から見附抜けて長岡へ行く旧道沿いに、大きなけやきの木があって、貞心庵跡とあります。五合庵よりこじんまり。でもここから九上山下まで歩いたら、半日一日かかる。
正法眼形影あひ見るが如し、別にほかにあるものじゃないんです。けれども「正法眼なのだあ」といって不是、「仏は何か」と問うとき、仏は何かと答える。
まるっきりこれになり終わるといったらいいんですか、餅は食ってうまかったら餅、議論百発は絵に描いた餅。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。