伝光録1

首章~第二十八章


首章
釈迦牟尼仏、明星を見て悟道して日はく、我と大地有情と同時に成道す。

お釈迦さまはシッタ-ルタ太子、王子として生まれて、深夜王舎城を出でて、檀特山に於て断髪す、出家求道です、苦行六年、ついに金剛座上に坐して蛛網を眉間に入れ、鵲巣を頂上に安じて、葦、坐をとほしとあります、金剛座結跏趺坐ですよ、がっしりと坐ってというぐらい、眉間にくもの巣が張った、頭上にかささぎが巣を作った、あしが坐を通しという、そうして三十歳臘月十二月八日未明、明星の出でしとき、忽ち悟道、最初獅子吼するにこの言あり。
我と大地有情と同時成道。
お城の東西南北の門に、生まれた子、死んで行く人、病気の人、老いた人、生老病死苦を見る、人はなぜ苦しまねばならぬか、苦しみから解放される方法はないのかという、これが出家の原因であった。諸方を訪ねる、AがAと云えばじきにAになる、よし卒業じゃ、これからは二人でAをやって行こうという、だがなぜ苦しまねばならぬか、これをどうしたらいいという、最初の疑問に答えが出なかった。Bを訪ねる、また云うとおりにBに成る、だが答えが出ない、参ずる処を参じ尽くし、断食等難行苦行も、いっときの安楽があるだけだ、ついに刀折れ矢尽きて、ガンジス河の辺り、菩提樹下に坐す。
仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり。仏教を知らなかったお釈迦さまは、自己を習う他になく、これが大力量、他を卒業するのに莫直去、なをかつこれは違うという、ついに求めるものの得られぬのを知る。
これ後の達磨さんから、我らに至るまでまったく同じです、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなりと、これ。ついに刀折れ矢尽きるんです、ようやく坐になるんです、只管打坐まったくの手つかず。
すると自己を忘れる、忘我ということが起こる。忘我する自分に気がつかない、たまたま明星一見です。はあっと一念起こる。
我と有情と悉皆成仏。
自分という身心無くものみなです、すべての問題が解決済みです、もとこの通りであったという安心落着です。
仏教の創始です。しかしより以来、四十九年、一日も独居することなく、暫時も衆の為に、説法せざることなし、一衣一鉢欠くることなし。三百六十会、時々に説法す、終に正法眼蔵を摩訶迦葉に付嘱す。流転して今に至る。はい、まことに実にこのとおりです。

一枝秀出す老梅樹、荊棘時と与に築著し来たる

一枝秀出す老梅樹、まことに釈尊のほかに人の本来のありようを示した人はなかったです、苦を云い終末を云い、現実の悲惨や矛盾をついて、だからこうすべきだ、だから神を信ぜよ、すれば救われる底の、新興宗教も他の一神教も五十歩百歩です、迷妄から出て迷妄へ入る、実になんにもならないことは百害あって一利なし。ただひとり釈尊のみ開示して今に至る。
荊棘時とともに築著し来たる、世情流布達磨さんを毒殺しようとする仏教ではなく、これは求道の人にとって、だれはどうしたかれの因縁はという、無字の公案臨済と曹洞の別などいう、あるいは微妙の周辺にあっても、とやこうするそれです、捨て去るのに大苦労します、この時釈尊の、なをかつ初発心を満足せぬという、自己を習う真正直を思い出して下さい。



第一章

第一祖、摩訶迦葉尊者、因に世尊拈華瞬目し、迦葉破顔微少す。世尊日はく、吾に正法眼蔵ねはん妙心有り、摩訶迦葉に付嘱す。

尊者生まれる時、金光室に満ちて、光ことごとく尊者の口に入る、よりて飲光と名付く。多子塔(ヴエ-シャ-リ西北三里に在り)前にして、初めて世尊に値う、世尊善来比丘と呼びたまふに、鬚髪すみやかに落ち、袈裟体に掛かる。すなわち正法眼蔵をもって付し、十二頭陀を行ずという、十二の規範となる修行禁欲の法です、十二時中空しく過ごさず、これより釈尊坐を分かつ、以来今に至るまで、衆会の上座たり。釈迦牟尼仏一会の上座たるのみにあらず、過去諸仏の一会にも不退の上座たり。霊山会上八万衆前にして、世尊拈華瞬目す、花をとって、目をぱちっとやったんです、皆心を知らず、黙然右往左往する中に、摩訶迦葉独り破顔微少す、ふっと笑ったんです。世尊日く、吾に正法眼蔵ねはん妙心、円明無相の法門あり、悉く大迦葉に付嘱すと。
いいですかこれ、花をとって瞬目、どうして八万大衆右往左往ですか、黙然なんですか、なぜに迦葉独り破顔微少なんですか、なぜによって正法眼蔵ねはん妙心悉く付嘱するんですか。まずもって初心に帰ってこれを思い、これを知って下さい、他にはまったくないんです、すると急転直下します、多子塔前においても、たった今のあなたにも、正法眼蔵ねはん妙心が付嘱します。はいこのとおりかくの如く。なぜに十二頭陀を行じ、十二時中身を横たえることもせず、形憔悴し衣は破れして、初めてこれを得るんですか。よくよく見てとって下さい。ただに他なくまっしぐらに得る、大迦葉の右に出るものなく、末孫おんぼろけのわしに至るまで、跪拝してちりっぱ一つ挟むことないんです。
大衆右往左往いったい何のためにというんですか、あるいは仏といい、座禅と見性といい、たとい何かあると思っているんですか、修行という世のため人のためなんですか。ちらともあれば破顔微少しないんです。ちらともなけりゃ、なんにもならんですか、いいえある分役に立たないんです。そんなの人間ではないという、もと人間であるのに、その上の人間なぞいらんです。一器の水が一器に漏れなく移るようにという、そんな姑息な一子相伝ではないこと、よくよく見て下さい。釈尊がなにをもって、迦葉に付嘱したんですか。なあんだもとなんにもない、そんじゃそりゃ当然、いえ付嘱することも不要じゃないかという、はいそのとおりです、それであなた満足できますか。たとい二千年を金剛不壊ですか。はい、ないものは壊れんですよ。

知るべし、雲谷幽深の処、更に霊松の歳寒を歴る有り。
こりゃまったくこの通りと他いいようがなく、拈提から抜粋します、ただ霊山会上のみ所住処というに非ず、あに梵漢本朝も亦漏れるることあらんや。如来の正法流転して一毫髪も欠くることなし。若ししかればこの会は、これ霊山会たるべし。ただ諸人の精進と不精進とに依りて、諸仏、頭出頭没せるのみなり。今日もしきりに弁道し、子細に通徹せば、釈尊直きに出世なり。ただ汝ら自己不明に依りて釈尊そのかみ入滅す、汝らすでに仏子たり、何ぞ仏を殺すべけんや。故に速やかに弁道して慈父と相見すべし、よのつね釈迦老漢、汝らとともに行住坐臥し、汝らとともに言語伺候して、一時もあい離るることなし。ゆえに仏子という。



第二章

阿難陀尊者、迦葉尊者に問ふて日く、師兄、世尊金襴の袈裟を伝ふる外、別に箇の什麼をか伝ふる。迦葉、阿難と召す。阿難応諾す。迦葉日く、門前の刹竿を倒却著せよ。阿難大悟す。

阿難尊者は王舎城の人なり、世尊の従兄弟にあたる、阿難陀、慶喜または歓喜という、如来成道の夜に生まれる、容顔端正にして見る人ごとに歓喜す、故にその名ありと。多聞第一にして聡明博識なり。仏の侍者として二十年、仏の説法として宣説せざるはなく、仏の行儀として学し来たらざることなし。さらに迦葉に随うこと二十年、あらゆる正法眼蔵悉く通達せずということなし。
そうしてこの因縁があります。師兄、師であり兄弟子です、すひんと読む、世尊お釈迦さまは、伝法の印の金襴のお袈裟の他に、何を伝えたんだろうという、かつて金襴のお袈裟など二の次三の次であったです、我に正法眼蔵ねはん妙心あり、あげて迦葉に付嘱すという、その畢生の大事、はあてなあというんです。ついにその時が来たんです、迦葉、阿難と呼ぶ、はいと応諾するのへ、
倒却刹竿著、
門前の旗竿を倒してこいという、阿難大悟す。
赤い旗を立てて、ここに大法ありのしるしです、もしだれあって法戦一場して、これをうち負かすと、竿を倒して行った。また次に譲る時はおのれの旗を倒したんです。阿難三日耳を聾すとあります、わずかに残ったうす皮一枚剥がれたんですか、正法眼蔵悉く身に就いて、すなわち行住坐臥行なわれるとは、忘れ切る他になく、仏とは何かという、いったいそいつがどこへ行った、大切この上もないものがという、ちらともあったんでしょう、俗人修行とちがうんです、ノウハウ=自分です、自分がなを残った、倒却刹竿著その糸がふっきれる。ついに摩訶迦葉から阿難に付嘱して、大法がつながったんです、今日に至る。
もし金襴のお袈裟の他に箇の何をかあったら、それでもう跡絶えるんです、じゃ仏法なんか、はじめっからなんにもないではないかという、しかり、これがなんにもないを他のだれも知らないんです、自分という架空請求、妄想に右往左往して、そこから抜けられないでいる、いわんや仏あり悟りあり、凡あり聖ありのしんどさ、醜さ。
たった一箇これを免れる、これが重大さをよくよく鑑みて下さい、そうです、あなたの出番ですよ、たとい二、三十年だろうが、倒却門前刹竿著。

藤枯れ樹倒れ山崩れ去り、渓水瀑漲して石火流る。
ほどけば仏の糸が完全にふっきれて、本来の自由を取り戻す、三日耳を聾すという、だれあっていまだかつて夢にだも見ぬもの。阿難尊者は、如来の遺経結集、第一回仏典結集のそれに、未証果の故に招かれなかった。阿難速やかに羅漢果を現じて、鍵穴から室に入るとあります、そうして阿難の宣説、如来生前の説法と寸分も変わりがなかったといいます、如是我聞一時仏在と、お経はことごとく阿難尊者から伝わったんです、南無経経阿難尊者。
それがなをかつ二十年をへて、はじめて葛藤妄想も枯れ、そいつの本体も倒れ、本体のあった山が崩壊する、渓水瀑漲して石火流れるんです、よくよくこの事思い取って、いえ見てとって下さい、いったいどういうことか、お釈迦さまより、あるいは仏教辺に詳しい人がなぜに、さらになぜに二、三十年の余計ものをと。



第三章

第三祖、商那和修尊者、阿難陀尊者に問ふ、何物か諸法本不生の性なる。阿難、和修の袈裟角を指す。また問ふ、何物か諸仏菩提の本性なる。阿難、また和修の袈裟角を取って引く。時に和修大悟す。

その名を商諾迦、自然服という、生まれたとき、衣を着て生まれる、それより以来、夏は涼しく、冬は暖かい衣となる。すなわち発心出家したとき、俗服おのずから袈裟となる。仏在世の蓮華式比丘尼は、たわぶれに袈裟をつけ、生まれかわって阿羅漢となる。尊者かつて商人であったとき、百仏に毛織物百丈を奉る、それ以来生生世世中有においても、自然服を著す。なにものか諸法不生の性なる、前代未聞の問いです、聞いたふうなこと、見たふうなことではない、是れ何物か恁麼来と、まったく疑問になり終わって問う、袈裟角を示す、他なしを知るんです、如何なるか聖諦第一義と、梁の武帝問うのに、達磨太子廓然無聖は、からりとして別段のものなし、なんにもないよ、個々別々だという。帝かなわず、自分の思想妄想辺に答えを出して貰えなかった、俗人一般まさに梁の武帝です、尊者はそうじゃなかったです、別段のものなしこれと示すのに、袈裟角を指す、そうかというんです、わが求め来たったものこれ。何物か諸仏菩提の本性なる、袈裟というそれ如何というのでしょう、朕に対する者は誰そ、知らないという、阿難袈裟角を引く、和修大悟す。
いいですか、大悟すとは認識の牙城、知っている自分を明け渡すんですよ、もって正法眼蔵ねはん妙心を付嘱す。

万仭巌上、無源水、石を穿ち雲を払って湧沸し来たる。雪を散じ花を飛ばして縱い乱乱たるも、一条の白練塵埃を絶す。

仏教についても座禅と見性だろうが、勉強しようがちょっとかじろうが、知識もノウハウもわんさか手に入る、それがなんにもならぬことを知る、百人あるいは千人に一人ですか、思想辺こうだからこうあるべきの横滑りじゃ、どうにもならんです。商那和修尊者は、すなわちこれを卒業したんです、万仭巌上です、自ずからなるを無源水、だからとかゆえにが失せた。築著荊棘を払い、世間常識仏はかくあるべきを、ぶち破って湧沸するんです、でなくば説得の価値もないんです、たいてい匙を投げて、かってにさらせと云いたくなる。そうして大悟するに、あるいはまったく元の木阿弥です、是非善悪によらぬただの人です、人間200%ですよ、そりゃもう押さえが利かぬ、というんとは違うが、なんでもありです、雪を散じ花を飛ばして乱乱です、しかも一条の白練、まっしろい練り絹です、塵埃を絶す、いずれのところにか塵埃をしかん、さっぱりとっつかんのですよ、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけり、世間一般とちがうのはまったく忘れ去って、法そのものなんです。



第四章

第四祖、優婆毬多尊者、和修尊者に執事すること三載、遂に為に落髪して比丘と作る。尊者因みに問ひて日く、汝身の出家なるや、心の出家なるや。師日く、実に是れ身の出家なり。尊者日く、諸仏の妙法豈身心に拘はらんや。師乃ち大悟す。

師は優婆崛多と名ずく、姓は首陀、バラモン、クシャトリア、バイシャ、ス-トラの四姓のうち雑役農耕なとの第四位、十五歳にして和修尊者に参ず、十七歳出家二十二歳にして証果とある。行化して到るに、得度の者はなはだ多し、証果の人を得るごとに、籌を石室に投げ、10mx7mほどの室にいっぱいになった、あたかも如来在世の如しと。世を挙げて無相好仏と呼ぶ。波旬、悪魔ですか、憤りを感じて、魔力を尽して正法を害せんとす、尊者三昧に入ってその所由を観ず。波旬は尊者のうなじに瓔珞、首飾りをかけた。尊者彼を伏せんと思い、人狗蛇の三屍を取りて、華鬘、花輪となして、珍なる瓔珞をもらった、お返しに華鬘を上げようといって、波旬の首にかけた。たちまち変じて三種の臭屍となる。腐れ蛆たかるんです、魔力神力を尽しても、どうしても外れぬ。泣きわめいて、六欲天に上り、梵天に参ってその解脱と求む。皆告げて云く、十力の弟子の為す所は、十力の弟子に頼る他なしと。十力とは如来十号という如く、波旬尊者の足を礼して哀露懺悔す、仏に帰依するをもって解脱すと。
どうですかこれ、あなた方も波旬と同じことをしてないですか、美しいすばらしい、愛だの平和だのインツ-イッションだのいう花環を首にかけて、仏に示される、すなわち気がつくと、そいつが三種の臭屍です、腐れうんちの蛆たかれ腐乱死体、わかりますかこれ、たといわかったろうが外れない、七転八倒するんです、ついに至心帰依をもって、解脱するんです。
波旬とはなにか、まずもってこれを省みて下さい。

家破れ人亡じて内外に非ず、身心何れの処にか形を隠し来たる。

拈提より、いわゆる身出家すといふは、恩愛を棄て家郷を離れて、髪を剃り衣を染め、奴卑を蓄へず、比丘となり比丘尼となり、十二時中弁道し来る。故に時として虚しく過ぐることなふして、外か所願なし。故に生をも喜ばず、死をもおそれず、心は秋月の皓潔たるが如く、眼は明鏡の翳なきが如し。心を求めず、性を望まず、聖諦なほ作さず、況んや世執をや。是くの如くし来りて、凡夫地にも住まらず、賢聖位にも拘はらず、転た無心道人たり。是れすなはち身出家人なり。
いわゆる心出家すとは、髪を剃らず衣を染めず、設ひ在家に住み、塵労に在りと雖も、蓮の泥に染まず、玉の塵を受けざるが如し。設ひ因縁ありて、妻子ありとも、芥の如く塵の如く覚して、一念も愛心なく、一切貪著することなく、月の空裡に掛かるが如く、玉の盤上に走るに似て、饒市中にして閑者を見、三界の中にして劫外を明きらめ、煩悩を断除するも病なりと知り、真如に趣向するも邪なりと明きらむ。ねはん生死是れ空華なり、菩提煩悩ともに管せず、是れすなはち心出家人なり。
このこと今もまったく変わりはないです。



第五章

第五祖、提多迦尊者日く、出家は我我無きが故に、我我所無きが故に、即ち心不生滅の故に、即ち是れ常道なり。諸仏も亦常なり。心に形相無く、其の体も亦然なり。毬多日く、汝当に大悟して、自心に通達すべし。師乃ち大悟す。

生まれた時、父の夢に、日屋より出でて天地を照らし、一の大山あって諸宝厳飾す、山頂に泉が湧いて、滂だとして四方に流れる。初めて参ずるときに、これを云えば、毬多尊者日く、日屋より出るは、汝今入道の相なり、天地を照らすは智慧の超越なりと、師もと香象と名ずく、ここに提多迦、通真量と名をかえ、もって偈を説く、巍巍七宝山、常出知慧泉、回為真法味、能度諸有縁。尊者また偈をもって日く、我法伝於汝、当現大知慧、金日従屋出、照耀於大地。師礼拝してついに出家を求む。尊者問いて日く、汝出家を求む、身の出家か、心の出家かと。師日く、我来たりて出家を求む、身心の為に非ず。尊者日く、身心の為にせず、復た誰か出家する。師日く、出家は我我無きが故に、ないし大悟す。
これはまったくすばらしいともなんとも云いようがないです。父の瑞兆あればまさに夢を信じ全うする、すでにこれ、仏説として過ちなく手に入っています、摩訶般若波羅蜜多心経と、毎日読みながら一言半句も、解しえぬとは、そっちのほうが珍現象ですが、我我無きが故にとは、ががと続けて読むんではなしに、するととらわれのある自我というような、曖昧解釈になってしまうです、自分というものがないんです、あなたはだれと聞かれて知らないと答える、仏教学者どものまったく知らぬこってす、自分という架空請求、砂上楼閣です。我我所無うして、応無所住而生其心の六祖禅師ですか、自分の所有のものがないんじゃない、わが所がないんです、するとまさに心経の説くように無です、不生不滅不垢不浄不増不減です、三世諸仏、無上正等菩提です、かってな解釈してお布施を稼ぐことなければ、心経まさに他になし。きくた尊者日く、まさに大悟して自心に通達すべし、ではそのとおりやってごらんと云う、師すなわち大悟す。仏教がわかったという、それだけじゃなんにもならんと知る、一00人が一00人こうであれば、世の中まことにすっきりします。

髄を得て須らく得処の明を知るべし、輪扁猶を不伝の妙有り。

如何なるかこれ仏法の真髄というんでしょう、おまえの云うのは真髄ではなく、皮袋であろうと大趙州が云う、仏教について習う、つに真髄を問う、ここらあたりを提多迦尊者は、いっぺんに通り越しているんですか、飯袋子この糞袋めという、とやこう人の言説知識の受売り交通整理ですか、仏教という未消化うんこですか、まあさ一つすすめて、その皮袋一枚はぎゃどうなる、血いだら真っ赤のお肉ですか、そんな無粋なこと云わない、もとなんにもなしの虚空です、わずか皮一枚に、心あり身ありだったんですよ、内蔵もお肉も感知しない=人間です、アッハッハ髄を得て得処の妙を知るべしとはこれ。転法輪というをもって、車を造る名人輪扁などを引っ張り出す、我我無我我所無とは、転法輪そのものなんです、ちらとも軸だのわだちだの云うたら、ちらともわけあり、てめえありじゃそりゃ転法輪にならんです、ために猶を不伝の妙あり、こうだからこうあるというんじゃ、大悟できんよ、魚変じて龍と化す妙、すなわち自分でやるっきゃないです。



第六章

第六祖、弥遮迦尊者、五祖因みに示して日く、仏云はく、仙を修し小を学するは、縄の牽挽するに似たりと。汝自ら知るべし。若し小流を棄てて頓に大海に帰せば、当に無生を証すべし。師聞きて契悟す。

師は八千の仙人の長であった、一日衆を率いて提多迦尊者を礼して日く、我むかし師と同じく梵天に生まれ、我は阿私陀仙人に仙法を受け、師は十力の弟子となって、禅を修す。すでに六劫を経たりと。尊者日く、支離として劫を累ぬ、まことなるかな、虚ならず、汝今邪を捨てて正に帰して、仏乗に入るべし、むかし阿私陀仙人、我に記を授けて、六劫ののち同学に遇いて無漏果を証すべしと、尊者時に出家授具す、乃至大神通を示して、余の仙衆八千もまた出家す。尊者示して日く、仙を修し小を学するは、乃至師聞きて契悟す。人を説得するには大物を相手にしろとは、老師がよく云った、というのは大物は自分の至らぬことを知ると、尽くさぬもの、見習い中はまだなにかあると思っている、たいてい説いても無駄だ。仙を修するとは、インドの遠いむかしではない、今もって大小の仙術です、あやしげな思想分別、あるいは無知のわざもですが、科学哲学文学歴史という一切合財、仙であり小なんです、縄のひきまとうに似たり、尽くしてのち隙間風、支離として劫を累ぬ、まことなるかな、虚ならずと云ってくれる人が欲しいんです。無漏果が欲しい、もはやそれしかない、大安心です、頓に大海に帰する、でなけりゃ死んでも死に切れんです。無門関はいここにありますと示されて、乃至契悟す。

縱い連天秋水の潔き有るも、何ぞ春夜の月の朦朧たるに如かん、人家多くは是れ清白を要す、掃い去り掃い来たるとも心未だ空ならず。

仙を修し小を学するとは、人みな葦の髄から天井を覗くようなことするんでしょう、ついに得たり、みな人の得がてにすとふ、うずめ子ですか、そら楽しいたって、はたして辺りをへいげいしてもって、さてどうでしょう。たとい連天秋水の潔さあるも、歌の道に秀でさあて何を歌う、そっぽ向いた風景ですか、ノ-ベル賞博士の世界平和ですか、がきみたい妄想中のあんちょこ、そういうのいったんかなぐり捨てて、宇宙風呂ひと風呂どうですか、なんぞ春夜の月の朦朧たるにしかん、自分という箇の形骸うせて、ものみな成仏、平和を願うふりするんじゃなく、和という花に咲き開く。人家多くはこれ清白を要すと、しゃばのことみんなそうです、時時につとめて払拭せよ、でなくばという、人間失格だ、勤倹貯蓄、いえさ遊びほうけるんだって、計算ずくですか、死ぬまでそんなことやってて、老いさらばえて棺桶に入るんですか、妄想に吸い尽くされた、骨皮筋右衛門、心未だ空ならず、いたらずと知ったら潔く頓に無生の法です。



第七章

第七祖、婆須密多尊者、酒器を弥遮迦尊者の前に置き、礼を作して立つ、尊者、問いて日く、是れ我が器となさんか、是れ汝が器となさんか。師思惟す。尊者日く、是れを我が器となさば、汝の本有の性なり、若し復た汝が器ならば、我が法、汝当さに受くべし。師聞きて大いに無生の本性を悟る。

師、姓は頬羅堕、常に浄衣を服す、手に酒器を持って遊行し、吟じうそぶき歩く。人は狂人と云う。弥遮迦尊者、遊化するに、城の辺に金色の祥雲起こる、これ道人の気なり、必ず大士ありて我が法嗣たらんと、云いおわらざるに、師来たりて問う、我が手中の物を知るや否や。尊者日く、是れ触器(不浄の器、触汚)にして浄者に背く。師すなわち酒器を尊者の前に置く。乃至大いに無生の本性を悟る。
酒器をもってうそぶき歩く、世を捨て遊行して歩くんですか、いいえ世のことあらゆる一切が、酒器の中に失せる、そういった塩梅です、はらだというのはばらもんの名だそうです。額に汗して稼ぐというのじゃなかったんでしょうが、共産党の忌み嫌う、西行や人に狂と呼ばれる、こういう人なつかしいです、どうにもこうにも本来本法性、自分という周辺に徘徊する以外なかったんです、ただこれの処置を知らなかった。まさに弥遮迦尊者に出会う、我が手中のものを知るや否や。満腔の思いを籠めるんでしょう、不浄のものは浄衣に似合わんぞという、これ尊者の掌中にあり、はたして酒器をその前に置く、尊者問う、これはおまえの器か、わしの器かと。さあどうであろうか、俗人のやりとりに似て、果然器が虚空に浮く、人の所有でもなく、ために他一切世界が消える。これをわしのものといえば、おまえの本来これ、もしまたおまえのものといえば、わしの法はおまえにあり。師大悟す。

霜暁の鐘扣くに随いて響くが如く、斯の中元より空盞を要せず。

姓を表さずと、師は尊者の前に初めて名告る、我無量劫より、この国に生まるるに至るまで、姓は頬羅堕、名は婆須密と。尊者日く、世尊阿難に語りて日さく、吾が滅後三百年にして、一聖人あり、姓は頬羅堕、名は婆須密、しかも禅祖に於て第七を得べしと。師日く、我れ往劫を思うに、かつて旦那となりて如来に一の宝座を献ず、彼記して日く、賢劫釈迦牟尼仏の法中に於て、位を継ぐべしと。霜暁の鐘扣くにしたがい響くが如くという、打てば響く、空じきった人の本来です、渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風をいとわず、おれは見性した、公案百発などいう、あるいは学者解説の類、こういえばああいうが、さっぱり打てば響くじゃない、どっか変なさかずき隠していて、ぼわんどこんとやるわけです、たとい2チャンだろうが一目瞭然これ。今婆須密多尊者、かくの如くの因縁ありて、打てば響くと、すなわち第七祖に列す、ではかくの如くの因縁という、空盞を忘れ去るに及くはなく、そのたった一つ持し来たった酒器を、尊者の前に置き、またそれを受ける、すなわち用がすんだら、投げうつによし。盞はさかずき。



第八章

第八祖、仏陀難提尊者、七祖婆須密多尊者に値ひて日く、今来たりて師と議論せん。尊者日く、仁者論ぜば即ち義ならず、義は即ち論ならず。若し論義せんと擬せば、終に義の論に非ず。師、尊者の義勝れたるを知りて、無生の理を悟る。

師は姓瞿曇氏、頂上に肉髻あり、弁捷無礙なりとあります、師宝座前に於て自ら謂えらく、我を仏陀難提と名ずく、今師と議論せんと、頭のてっぺんが髻=もとどりのように盛り上がっている、かつて論義に負けたことがなかったんでしょう、すると一体にこれを尽くすんです、勝つか負けるかではない、この他にはないという、はたして本当か、あるいは論の義とは、端的にものみなを指すのか、自分という他なしの形か、我我無きが故に、我我所無きが故に、すなわち心不生滅の故に、ものみなと、第五祖出家の弁の如くですか、事を尽くすとは、世間事に通暁するんではなかったら、一つことに帰るんです、でなくば論に倒れる、つまり負けるんです、おそらくこれ論の空しいこと、不必要を知る周辺にあったんです、いえいつだって急転直下、そうして通身もってぶっつけた、答えを出そうではないか、今来たりて師と論義せん。尊者日く、仁者論ぜば即ち義ならず、仁者、真正面ですよ、正直に嘘云わないってこってす、義は即ち論にあらず、どうですかと聞くんです、おまえさんの内外、いえおまえさんは論に拠らず、義などいうものがあるわけはないんです。若し論義せんと擬せば、終いに義の論に非ず、どうですかと、再度聞くんです、損なうだけであろうが。すなわちここに於て無生を悟る。
善吉維摩談じて未だ到らず、目連鷲子見て盲の如し、若し人親しく這の意を会せんと欲せば、塩味何れの時か適当ならざらん。

善吉須菩提、解空第一と云われる釈尊十大弟子の一人、維摩居士、二人談じて未だいたらず、鷲子舎利弗、知慧第一と云われる同じく十大弟子のうち、目連は目健連神通第一と云われる、見て盲の如し、見れども見えずですか、どうもお釈迦さんの十大弟子もこりゃ形無しですか、でも老師会下には悟った人悟らぬ人、大小いたですが、説法するに当たっては、なんといっても老師だけということあったです、義の論という論の義というを出ない、「老師は違うもんなあ、行き合っただけでがっさり落ちる。」という感想があった、相手そっくりを転ずるんです、おまえの云うことは間違ってる、だからどうのの問題ではない、若し人親しくこの意を会せんと欲せば、そうですよ、一枚も二枚も捨ててかからにゃならんです、昨日の我は今日の我にはあらずと、これただの人の日送り、日々是好日ですか、塩味何れの時か適当ならざらん、はいこれそのまんまぶっつけます。




第九章

第九祖、伏駄密多尊者、仏陀難提の、汝が言心と親し、父母も比すべきに非ず。汝が行道と合す。諸仏の心即ち是れなり、他に有相仏を求めば、汝と相似ず。汝の本心を識らんと欲せば、合に非ず亦離に非ずと説くを聞く。師乃ち大悟す。

師姓は毘舎羅、仏陀難提行化して、毘舎羅が家に到る、舎上に白光ありて上る、この家に聖人あるべしと。口に言説なし、真に大乗の器なり、足地を踏まず、ただ穢れに触れることを知る、これ我が嗣ならんと、云い終わるに長者出でて礼す、我に一子あり、口未だかつて聞かず、足未だかつて踏まず、年すでに五十と云う。尊者これを見まさに我が弟子なりと云う、師にわかに起ちて礼拝し、偈をもって問う、父母我が親にあらず、誰かこれ最も親しき者ぞ、諸仏我が道にあらず、誰かこれ最も道なる者ぞ。尊者偈をもって答え、汝が言心と親し、乃至合に非ず離に非ず。師妙偈を聞きて歩むこと七歩。尊者日く、この子、むかしかつて仏にあひ会うて悲願広大あり、父母の愛情捨てがたきをもって、云わず踏まざるのみと。
わしはこういうことのあったのを鵜呑みにします、涙流れるほどに信じますよ、今の世にだって大小の毘舎羅子、伏駄密多尊者がいます、たとい職につき大学を卒業しようとも、云わず踏まず、父母わが親にあらず、世間また世間にあらず、だれかこれ最も親しきものぞ。諸仏我が道にあらず、諸の学問歴史等我が道にあらず、だれかこれ最も道なる者ぞと。これに答える人がいなかった、五十年して、初めて仏陀難提尊者、汝が言汝が心と親し、父母も世間も比すべきにあらず、行道と合す、諸仏の心ものみな即ちこれなりと。他に有相仏を求めば、汝とあい似ず、まさしくこう云うんです。心を知らんと要せば、合に非ず、離にあらず、自分からこうすべきとやらない、批判しない、しゃば流の科学心理学しないんです、近似値ほど害はなわだ、わかりますかこれ、参禅しなさいということですよ、単純を示す、無に帰るんです、師すなわち大悟す。

言うこと莫れ語黙離微に渉ると、豈根塵の自性を染むる有らんや。

あに根塵の自性を染むるあらんや、もとまっさらのおのれなんです、五十年不染那もあながち驚くにあたらぬ、いつこの事を初めようが、急転直下落着するのは、生まれ本来に、いえ父母未生前に返るからです、心身脱落という、染那するところを払う、染那=自分という身心ですか、いいえ染那などとっつくところなかったんです、いずれのところにか塵芥を惹かん、時時に務めて払拭をこれ、語黙離微に渉ると、なんせ饒舌です、ふだんからてめえうるさったいんでしょう、だからどうの故にといっては、答えが出ない、もと答えのど真ん中です、他に云うことない、いえ云おうと思ったら、聾唖者が手足ふりもがくほどの、却って四苦八苦あります、実際を言葉にする、たいへんなこってす、ゆえに仏を作家というんです、小説物書きの類は、あっちのものをこっちに並べ替えるきりです、そうではない無から有を生ずるんですか、どかん爆弾ですか、有は無にならんですか、あっはっはまあやって下さい。



第十章

第十祖脇尊者、伏駄密多尊者の左右に執侍すること三年、未だ嘗て睡眠せず。一日尊者、修多羅を誦し、及び無生を演び。師聞きて悟道す。

師本命は難生、生まれんとする時、父夢に、一の白象背に宝座あり、座上に一明珠を安ず、その光四衆を照らす、すでに覚めてついに生まる。伏駄密多尊者行化のついで、長者香蓋という者、一子を連れて礼拝し、この子所胎六十歳、よって難生と名づく。仙人の云うには、この子非凡なり、法器となるべしと、今尊者に遭う、まさに出家せしむべしと云う。尊剃髪授戒す。所胎六十年、生後八十年、計百四十年初めて発心す。人みな諫めて、汝すでに老耄す、いたずらに清流にあとして是れ何かせん、出家に二種あり、一に習禅二には誦経、汝が堪ゆべきにあらずと。師自ら誓いて日く、若し三蔵を学し三明を得ることなくんば云々、昼は参学誦経し、夜は安禅思惟してついに睡眠せず。初め出家せんとして、祥光座を照らす、舎利三七粒現前す、よって精進して疲れを忘れ、遂に三蔵、仏典の総称ですか、三明という自己を明きらめ、忘れ去り、ついに無自覚ですか、一日修多羅ス-トラです、お経そのものが全ったい手に入ること、これあるんですよ、良寛さんは、正法眼蔵の提唱を聞いて大悟したという、そういうことあるんです、一般の理解わかったというのと、まずはまるっきり違うと思って下さい、そうねえ二次元のものが三次元になるっていう、いえ夢にだも見ない現象です、因みに第十祖に列す。

転じ来り転じ去る幾経巻、此に死し彼に生じて章句区ちまちなり。

お経の文句を知る、三百代言の始まりです、なにはなんたってろくなことはない、三世の諸仏知らず、狸奴白狐かえってこれを知る、ではなんでお経がある、もと我らのありようこの通りと示す、この通りだから身心の辺に証明して下さいというんです、般若波羅密多彼岸に渡れと云われたら、彼岸に渡ればいいんです、すると他何百いっぺんに通達します。一句通ずることこれ、摩訶まは-と云えば大、それにて終わるんです、永平正法眼蔵をそのように読む-見るんです、我と我が身心の上に底抜けです、でなくって眼蔵家だのしゃば流禅家提唱だの、嘘八のいたずらにかき濁すばっかりです、そうねえ大悟してから、読んで下さい、およそ人間の残した財産の中でこれほどのものはなく、良寛さんのように涙流すんですか、書を頂点とする、絵画芸術詩歌彫刻、これらのうち至上最高って、あっはっは俗人みたいですか、いえね、ノ-ベル文学賞という、では飯田木党陰老師の、無門関碧巌祿提唱など、まったくあんなにすばらしいものないです、縦横無尽七通八達、他の文学詩歌など足もとにも及ばんです。区まちまちと読む、意旨如何。



第十一章

第十一祖、富那夜奢尊者、合唱して脇尊者の前に立つ。尊者問いて日く、汝何れより来たる。師日く、我が心往に非ず。尊者日く、汝何れの処に住す。師日く、我が心止に非ず。尊者日す、汝は不定なるや。師日く、諸仏も亦然り。尊者日くう、汝は諸仏に非ず、諸仏も亦非なり。師此の言を聞いて、三七日の修行を経て無生法忍を得たり。尊者に告げて日く、諸仏も亦非なり、尊者に非ず。尊者聴許して正法を付す。

脇尊者到りて一樹の下に憩ふ、右手に地を指して衆に告げて日く、この地金色と変ぜば、まさに聖人ありて入会すべしと、云い終わりて地金色に変ず、時に長者の子富那夜奢というものあり、合唱して立つ。尊者偈を説く、此地金色に変ず、預め聖の至る有る得を知る、当に菩提樹に坐し、覚華して成り已るべし。夜奢また偈をもって答え、師金色の地に坐し、常に真実の義を説く、回光して我を照らし、三摩諦に入らしむ。三摩諦とは三昧無心に入ること、すなわち得度出家、仏戒を授ける。
どこから来た、心は往来のものではない、どこに住んでいる、心は止まるものではない、では定まらないのか。そうだ、諸仏もこのようにある。どうですかこれ、実にこのように云う一般人て、そうはいないです、無心という、応無所住而生其心という、かつてまさに箇のありようこれ。ですが、尊者これを聞いて、汝は諸仏にあらず、諸仏もまた非なり、たといそうではないという。三世の諸仏知らず、我がありようこれ、仏これという、知っている分が嘘です、未だ本来に住んでいない、忘れ去っていないんです。よって三七二十一日の間、修行してついに忘我、本来まっただ中です、諸仏もまた非なり、標準が失せるんです、尊者にあらず、ついに独立人です。尊者聴許して正法を付す。

我が心仏に非ず亦汝に非ず、来往従来此の中にあり。

自分とは何かというんでしょう、知らないんです、ちらとも知っている部分は、ただ日常便宜の故にです、それも絶え間ない変わって、しかも何不自由しないです、達磨の不識花のように知らないという、天地宇宙これにおって成り立っています、早く成仏して下さい、無自覚の覚ですよ、心仏にあらず、亦汝にあらず、住む所無うしてその心を生ずという、これがありよう、云われてみりゃあまさしくその通りってわけです、往来従来この中にあり、行くも帰るも跡絶えて、されども法は忘れざりけり、はいでは法ってなんですか。



第十二章

第十二祖馬鳴尊者、夜奢尊者に問ふて日く、我れ仏を識らんと欲す、何物か即ち是なる。尊者日く、汝仏を識らんと欲す、識らざる者是なり。師日く、仏既に識らず、焉ぞ是を知らんや。尊者日く、既に仏を識らず、焉ぞ不是を知らん。師日く、此は是れ鋸の義。尊者日く、彼は是れ木の義。復た問ふ、鋸の義とは何ぞ。師日く、師と平出せり。又問う、木の義とは何ぞ。尊者日く、汝我に解せらる。師豁然として省悟す。

師はまた功勝と名づく、有作無作、諸の功徳をもって最も殊勝となすを以て名づく。夜奢尊者に参じて、初めにこの問いがあった。仏を知ろうとする、何ものか是れ仏、これはだれしも問うところです、仏とは何か、ほどけば仏、だれに頼まれもしないのに自縄自縛の、その縄をほどく、ほどき終わればもと仏、自縄自縛の縄=自分という、ほどき終わればもとなんにもないんです。知らざるものこれです。知るという自縛の縄ですか、これたとえ話じゃないんです、識らざるもの是れ、まさにこうなんです、他なしの実際、本体です、それを仏とは何か、仏教とはという観念知識です、五蘊こんぐろまりっとの交通整理として求める、それしかできない、世間教育の不実です、だからどうしてもその延長上に求める、仏すでに知らず、知らないものをどうして知ることができる、尊者日く、なんぞ不是を知らん、そんなこと必要がないんです。観念知識としては、のこぎり談義だというんです、山と谷ああいえばこういうんですか、見た目たしかにそうです。尊者日く、そうじゃない木の義だ、おまえの本来ありようの上にという。鋸の義とは何か、師と平出するが故に、そうとしか映らない不都合です、でもって木の義とは何ぞと聞く、のこぎりの延長です、汝我に解せらる、一目瞭然事のあることを云うんです、さすがに並みの凡くらと違う、豁然大悟するんです、すばらしいです、たしかにこういうことがあったんです、今でも起こります。鋸談義はすたれもしようが、木の義は元の木阿弥。

野村の紅は桃華の識るにあらず、更に霊雲をして不疑に到らしむ。

野村の紅は桃華の知るにあらず、自然というものの実体です、それを心行く味わうのは私どもです、いいなあすばらしいなあという、人生の活力であり慰めです、でもそれを汚してはならんです、本来そのもの、100%200%こうあるべきです、100%200%こうあるのに、就中味わい切れない、まずもって自分という、自縄自縛の縄をほどいて下さい、ほどき終わって自性霊明です、なんのフィルタ-もなしに見て下さい、更に霊雲をして不疑にいたらしむ、はいそうです、これが仏教です、仏という元の木阿弥、あらゆる一切が去来する、無限の楽しみをもって生涯して下さい、正に馬鳴尊者、まっぱじめっからこれです。頼もしいですね。



第十三章

第十三祖迦毘摩羅尊者、因みに馬鳴尊者、仏性海を説いて日く、山河大地皆依りて建立す、三明六通茲に由りて発現す。師聞きて信悟す。

師初め外道たりし時、徒三千あり、諸の異論に通ず。馬鳴尊者、法輪を転ずるに、一老人あり、座前に仆れる、これ並みのものにあらず、異相あるべしというと、消え、俄に金色の人を湧出す、化して女人になりて、右手に尊者を指して偈を説く、稽首す長老尊、当に如来の記を受くべし、今此地上において、第一義を宣通せよ、と聞こえて見えず。尊者日く、魔来り吾と力を比べんとすと。じきに風雨起こり天地晦冥す。大金龍を現じ、威神を奮発して山岳振動す。尊者厳然たり、魔事したがい滅す。七日をへて一小虫あり、座下に潜む。尊者これを取りて、これ魔物の変化なり、吾が法を盗聴すといって放つ、魔物正体を現わして、至心に懺悔す、乃至尊者仏性海を説く、山河大地みな依りて建立す、三明六通ここによって発現す。師聞きて信悟す。
どうですかこれ、山河大地が無記です、でたらめにあると思っている、もとからあり手をつけるものにあらずとして、却って手をつけているんです、他山の石をこっちの勝手にいじくる。今の人もまったく同じです、たとい科学の精妙も宗教のよこしまもです。根本不信なんです、すなわち様にならんのです。人はこれを知らない、迦毘摩羅尊者は、これをもって山岳振動し、おのれの形をかえするほどに、自在に操る、しかも根本他山の石です、解決がつかないんです。さすがに三千の長、解決のつかぬことを知って、尊者の前に姿を現わすんです。至心帰依しかない、いいですか、座禅と見性という、ついに至心帰依しかないんです。すると山河大地、皆依りて建立するんです、三明六通ここによって発現するんです、ようやく一箇となる、わかりますかこれ、でなくば一箇と呼べぬ、他愛ない拡散ですか、なんにもならぬの一生です、信悟して下さい、通身反省して下さい、自然というでしょう、そんなものありっこない、自分があるだけです、はいこれ入門編です。

浩渺たる波濤縱ひ天に滔ぎるも、清浄の海水何ぞ曾て変ぜん。

そうです、この響きをよく味わって下さい、魔界変化もパロディ悪ふざけも、どうにもならん現代風解釈の不行き届きも、もしや波浪滔天です、もとまったく法性海中、不幸にしてこれに気がつかない、ものごとでたらめに拡散するっきり、なんとしてもこれに気がついて下さい、でないと人生の喜びもなく、せっかく生を受けて無意味です、人もこうなりゃおれもこう、流行に押し流されて、わけもわからん、たとい物まねも、語の響きなし、浩渺たる波濤たとひ天によぎるも、清浄の海水なんぞかつて変ぜん、10ぺん20ぺん繰り返して云ってごらんなさい、一箇かくの如くありがわかります、なんという自分は曖昧、ビ-ルの泡かすにもならんこと、それを知りこれを知って、始めて事に当たって下さい、でなくばなにしたって、そりゃうるさったいばかりのごみあくた。



第十四章

第十四祖、龍樹尊者、因みに十三祖龍王の請に赴き、如意珠を受く。師問ひて日く、此珠は世中の至宝なり、是れ有相なるや無相なるや。祖日く、汝只有相無相を知りて、此珠の有相にも非ず無相にも非ざるうを知らず。亦未だ此珠の珠に非ざるを知らず。師聞きて深悟す。

十三祖受度伝法して、西インドに至る、彼に太子あり、雲自在と名ずく、尊者を仰いで宮中に請して供養す。尊者日く、如来に教えあり、沙門は国王大臣権勢の家に親近することを得ざれと、太子よって山中に一の石窟あるを示す。尊者おもむくに大蛇あり、その身を盤繞す、尊者為に三帰依を説く、盤繞終わりて去る。石窟に到り一老人あり、素服にして出でて合唱問訊す。尊者日く、汝何れの所にか止どまる。答えて日く、我れむかしかつて比丘たりし時、多く寂静を楽しみて山林に隠居す。初学の比丘来たり、益を請ふ、我れ応答に煩ひて嗔恨の思いをなす。命終わりて蛇身に堕す、すでに千歳なり、今戒法を聞くを得たり、故に来たりて謝するのみ。尊者問いて日く、この山に更に何人かある。日く、北へ十里にして大樹あり、五百の大龍を隠す、その王を龍樹と名ずく。常に龍衆のために説法す、我れも亦聴受するのみ。尊者ついに徒衆とともに彼に至る。龍樹、尊者を迎えて日く、深山孤寂にして龍蠎の居する所なり、大聖至尊なんぞ神足をまげる。尊者日く、我れ至尊に非ず、来たりて賢者を訪ふ。龍樹黙然して日く、此師決定性を得て道眼を明きらむるや否や、是れ大聖にして真乗を継ぐや否や。尊者日く、汝心に語るといえども我れすでに知る、ただ出家を弁ぜよ、なんぞ我が聖不聖を慮んばかるや。龍樹聞き終わりて悔謝出家す。及び五百の龍衆ともに具を受く、随い四年をへるに、尊者龍王の請に赴むき如意珠を奉られる、これ世中の至宝なり、乃至師聞きて深悟す。
龍樹は異道を学し神通を具す、常に竜宮に行き七仏の経書を見るという、過去七仏といわれるこれ、すなわち経の心を知り、五百の龍衆を化す、龍衆という大権威なんでしょう、これみな等学の菩薩なりという、前仏の委嘱を受け諸経を安置す、もしお釈迦さまの化縁尽きても、竜宮に蔵まるべしと。かくのごとくの大人、しかも外道なりという、見られる通りの因縁、これはまさに外道という、思想言語上の発展です、たとい大発展も、深山孤独に住まわねば、はた迷惑害はなはだ。納りつくはずが、際限もなく広がるんです、無心という、五蘊皆空のこれが、うるさったく大発展する。山林の寂静に隠居して、初学を煩わしく嗔をもって遠ざける、なぜか、仏という寂静という別ものを持つからです、担いで帰れという、そいつの煩わしさに、自ら隠居するんです、では龍樹も五百の龍衆も同じです、外道あって仏道あってじゃないんです、仏道しかない、これをたいていの人知らない、もっての外のこってすよ、なぜ外道というか、周辺をうろつくからです、いたずらに騒がしい、世を騒がせて悦に入っているほどは、人畜無害です、さすがに龍樹はその害はなはだを知る、ゆえに隠れ住んで龍蠎なんです。
尊者は決定性を得て道眼を明むるや否や、これ大聖にして真乗を継ぐや否や、いいですかこの一目瞭然事、たといいかに碩学神通もこうした塩梅です、ただ出家を弁ぜよ、なんぞ我が聖不聖をおもんばかるやと云われて、省する、ここがさすが龍樹、まさに一家の主です。
大般若理趣分あんなもなさっぱり感心せんなあ、もし龍樹の作であったら、わしは軽蔑します。

孤光霊廓常に昧ます無し、如意摩尼分照し来たる。

如意珠これ有相なりや無相なりやと問う、未だ分別理解の域を超えぬこと一目瞭然なんです、有相と応ずればこう答え、無相と応ずればこう答えるという、いったいそれは何か、それによって世中の至宝も得ず、身心の摩尼宝珠をも得ず、ただ単に解釈の際限もない発展があるだけだ、見れども見えずを、彼が際限もなしを破って、尊者汝有相無相を知って、この珠有相にもあらず無相にもあらずを知らず、未だ此の珠の珠に非ざることを知らずと、かつて見えていたはおのれが妄念のみであったのを知る、摩尼宝珠如来蔵裏に親しく収攬す。百千万の経巻露とふっ消えるんです。



第十五章

第十五祖、迦那提婆尊者、龍樹大士に謁せんとし、将に門に及ばんとす。龍樹是れ智人なりと知りて、先ず侍者を遣はし、満鉢の水を以て、座前に置かしむ。尊者之を覩て、即ち一針を以て投じて、之を進めて相見し、欣然として契会す。

師姓は毘舎羅、善行を求め弁論を楽しむ、善行また福業という、尊者の妙法を説くを聞き、人互いに云うには、人に福業あるは世間の第一なり、いたずらに仏性を云う、だれかよく之を見んと。龍樹日く、汝仏性を見んと欲せば、先ずすべからく我慢を除くべし、人日く、仏性は大か小か。龍樹日く、仏性は大にあらず小にあらず、広にあらず狭にあらず、福なく報なく、不死不生なり。人その理の勝れるを知りて、初心を廻らす。その中の大智慧、迦那提婆、龍樹大士に謁す、乃至欣然として契会す。即ち半座を分かつ。あたかも霊山の迦葉の如し。龍樹説法す、座を起たずして月輪の相を現ず。師衆会に云いて日く、これはこれ尊者仏性の体相を現じて、以て我らに示す。何をもって之を知る。けだし以んみれば、無相三昧は形満月の如し。仏性の義廓然虚明なりと。また偈を説いて日く、身円月の相を現じ、以て諸仏の体を表す、法を説きて其形無し、用いて声色に非ざることを弁ず。かくの如く師資分かちがたし。
弁論大知慧満鉢の水に一針を投ず、乃至欣然として契会すと、かつてこういうことがあり、今後また必ずあると、福業をもっぱらにすること、世間の為であり、報いてまた福を招くはずと、行ないがたく、たとい一心に行ずるとて、汝仏性を見んと欲せば、先ずすべからく我慢を除くべしという、たといこれがたがを外す、人間本来いいことしいでは納まらんです、共産主義の嘘ばっかり
も、キリスト教の最後の審判も、自縄自縛の縄ですか、目的のためには手段を択ばぬ不都合、ついには悲惨無惨です。福業果報も罪少なしといえどもまた同じ轍。仏性は大か小かと問う、大にもあらず小にもあらず、広くもなく狭くもなし、福なく報なく、不死不生です、これ大安心です、もとあるがようの大海に帰る、しかも満水の鉢には一針を投ずる知慧、いいですかもとのありようといい、ただ坐ってりゃいいという、2チャンネルも学者坊主も同じこってす、知識の羅列してないで、どうか一針を投げ入れて下さい。でないとあっはっはどうみたって様にならんですよ。

一針釣り尽くす滄溟の水、獰龍到る処身を蔵し難し。

一針釣り尽くす滄溟の水とは、これ只管打坐です、あらゆる一切を尽くすよりないんです、この肝心を怠って伝光録もくそもないんです、祖録を解説して、むさくるしい阿呆面さらすよりは、そりゃ立ちん棒して炎天下銭稼いだほうが、百倍も清潔ですか、ほんに腹立つなあまったく。まあいいか仏教のぶの字もない宗門、どこへ向かって腹立てたって、せいぜい逆恨み食らうだけだ。獰龍という、これ煩悩ですか、煩悩に真っ正面する獰龍ですか、さあどっちでしょう、そりゃあ語の響きで云えば、なんて云わずに、答えを出して下さい。ついに得る月輪=さあ自分を観察しないゆえに満月ですよ、学者坊主も2チャンネルも夢にも知らんやつ、四智円明の月冴えん、たとい龍樹には見えず、半坐を分かつ弟子これを示す。



第十六章

第十六祖、羅篌羅多尊者、迦那提婆に執侍し、宿因を聞きて感悟す。

宿因というは、迦那提婆尊者行化のついで、長者あり、梵摩浄徳という。一日園樹に大耳を生ず、大きなきのこで甚だ美味であった、長者と二子の羅篌羅多のみ食す、他は見ること能はず。尊者日く、汝が家かつて一比丘を供養す、かの比丘道眼未だ明きらめず、空しく信施に霑うを以て、報ゆるに木菌となる。汝と子の精誠によりこれを受くと、乃至その子出家す。かつて如来この子を記す、すなわち十六祖に列す。今はすでに比丘、僧を供養するなどはなくなった、お経を読んだぜに、葬式の給料でしかない、二、三百年来お布施、信施をいいことに、道眼を明きらめず、手前勝手の猿芝居、威儀即仏法だの、坊主は偉いんだから坊主だなど、集団自閉症の末に、托鉢行も失せ、日本人のいい加減さと、せいぜいが観光業によって、なんとなく面目を保つ。人はそっぽ向いて、いわば賤業だ。この項すでに説くほどのことはない。だが道眼を明きらめずは、大罪を犯すに似たり、仏の名を騙り、人の額に汗した所のものをかすめ取って、経を誦んでうそぶき歩く、盗人殺人よりも悪し、なんとなれば彼は己れの悪を知れればなりと、至道無難禅師のこれを思い知ること、出家ですか、お寺の子じゃ無理だ、死ぬだけがたった一つの道と知って、死体は罪を免れると知って、大死一番大活現成です、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき、あるいは、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかなと。出家の根幹をなすこれ、ついにすたれて久しいか、いえちゃんと伝わるものは伝わっておりますよ。

惜しいかな道眼清白ならず、自らに惑ひ他に酬ひて報未だ休せず。

まったく死んでのちまで大耳だなど有心のわざというのです、それじゃ流転三界中恩愛不能断危恩入無為真実報恩者という、出家剃髪の偈はどうなるんだ、たとい良寛坊主、勤倹貯蓄の家門にぬうっと手を出す、うちは額に汗して働かんやつに、一文の施しもせんといって、ぴっしゃりおっぱらう、そいつを良寛忘れ惚けて、番たびぬうっと手を。あっはっは共産主義が聞いたら目を回すやつ。人間なんの為に生きるか、そりゃ無条件生きにきまってます、病来たら病がよろしく、地震来たら地震がよろしく、その良寛さん、十兵衛という性悪のやつがいて、がなって水ぶっかける、ひやあたまげて逃げ出す、人が面白がって、十兵衛だやる、ひやあ逃げ出す、何度でもやってたそうです、地震来たれば地震がよろしくと、大言壮語していったいこりゃなんだと、世間の人はたいてい云う、とにかく口開けば八方のお偉いさんが、さまざまに教えてくれる、わっはっはしんどいこった、とんぼ一匹そんなんで、御託でもって、空を飛んでいるわけじゃないってのにさ。



第十七章

第十七祖、僧伽難提尊者、因に羅篌羅多、偈を以て示して日く、我已に我無きが故に、汝須らく我我を見るべし。汝既に我を師となすが故に、我の我我に非ざることを知る。師聞きて心意豁然たり。即ち度脱を求む。

師は宝荘厳王の子なり、生まれながらにして能く言う。常に仏を讃す、七歳にして即ち世楽を厭い、偈を以て父母に告げて日く、稽首す大慈父、和南す骨肉の母、我れ今出家せんと欲す、幸いに願はくは哀愍の故に。父母固く止む、終に終日食せず、乃ち其家に在りて出家を許す。僧伽難提と号す。十九歳王宮を出て、行方をくらまし石窟に坐す。十年をへて羅篌羅多尊者、行化して到り、金水という河の辺りに、五仏の影を見る。この河の源およそ五百里、僧伽難提という聖人あり、仏記したまう、一千年後聖位を継ぐべしと。まさに会う、僧伽難提入定より立つ、尊者問いて日く、汝身の定か心の定か。師日く、身心倶に定なり。尊者日く、身心倶に定ならば、何ぞ出入りあらんと。若し身心に向かって定を修せば、是れなほ真定にあらずと、入定という、仏という、座禅見性という、若し他にみて、すばらしいといい、かくあるべしという、ではもはやただそれっきり。せっかく僧伽難提の破天荒な出家、行ない清らかも、らごら尊者という、正師に出会うまでは、花開くこっとがなかったです。身心脱落という、本来人の元の木阿弥を、夢にだも見なかったです、どうしても得たいという、水の中にあって渇と求める、求めるものこれと、お釈迦さまには仏教がなかったです、たとい仏教があったとて、たやすくは手に入らんですか。さあどうです。我すでに我なきがゆえに、無心の者がここにある、よく見よというんです、無心不生、汝すべからくわしの我を見よ、そうやって入定も、それ自縄自縛の縄=自分と思い込んでいる、ほどけば仏。ほどき終わってもとなんにもなしのわしを師とする、我の我、我に非ざることを知れ。師聞いて豁然たり、即ち度脱を求む。

心機宛転して心相に称ふ、我我幾ばくか面目を分ち来たる。

心というこれを知る不可能、なぜなら心は一つ、一つが一つを見る、観察することはできない、にもかかわらず、脱し来り脱し去りとおれはこうなったとやるんです、それがいけないたってどうしようもない、だから宛転です、ひょうたんなまずの、ころっと転ずる、ついには得るなし、では無所得のそやつ、いくばくか面目ありや、なしといいたいところですが、どうですか、自信のまったくない人、仏は仏を知らずの大自信、あっはっははたしてどうですか。自信のある人粗暴、分からず屋、無宗教の人無色無臭ですか、まったくそんなことないのは、無宗教の人なぞ出会ったことないです、みんな仲良く平和に教とか、坊主はらしく教とか、学歴教とかオバタリアン教とか、どやつもこやつもいいの悪いの、自信ありげの、さっぱり役立たずのかたくな。人というのは、なんでこうただ-ありのまんまじゃ生きられんのか、などいうとありのまんま教とかさ、五体満足が杖を引く、そりゃろくなこたあないです。


第十八祖、伽耶舎多尊者、僧伽難提尊者に執持す。有る時風殿の銅鈴を吹くを聞く。尊者師に問いて日く、鈴の鳴るや、風の鳴るや。師日く、風に非ず、鈴に非ず、我心の鳴るのみ。尊者日く、心とは復た誰ぞ。師日く、倶に寂静なる故に。尊者日く、善哉善哉。吾が道を継ぐ者は子に非ずして誰ぞ。即ち法蔵を付す。

師姓は鬱頭籃。父は天蓋母は方聖、大神あり鏡を持つを夢に見て娠む、七日にして生まる。肌体瑩として瑠璃の如し、未だかつて洗浴せず、自然に光潔たり。生まれる時より一円鑑あり、常に伴う、閑静を好み、世縁になじまず。僧伽難提尊者行化のついで、忽ち涼風あって衆を覆う、心身悦適すること常にあらず。これ道徳の風なり、聖人あり、出世して祖灯を継ぐべしと云って、諸方を徘徊して捜す。一童子あり、円鑑を持して尊者の前に至る。尊者問いて日く、汝幾歳ぞ。日く、百歳。尊者日く、汝なほ幼し、何ぞ百歳と云うや。日く、我れ理を会せず。正に百歳なるのみ。尊者日く、汝機を善くすや。日く、仏のたまはく、若し人生きて百歳なるも、諸仏の機を会せずんば、未だ生きて一日にして、之を得て決了することを得るにしかずと。尊者日く、汝が手中のもの、まさに何の所表ぞ。童子日く、諸仏大円鑑、内外に瑕翳無し、両人同じく得見し、心眼皆相似たり。父母この語を聞いて出家せしむ、尊者具戒して、伽耶舎多と名づく、有る時、風の銅鈴を吹くを見て、乃至法蔵を付す。彼の円鑑童子出家せしとき、忽然として見えず。
一円鑑という、あるいはこれを伴う者幾人か、諸仏大円鑑、内外に瑕翳なし、両人同じく得見し、心眼皆相似たり、神童の上を行くんですか、たとい目には見えねども、見ゆる如くにこうあるっていうのは、たしかにあります。童子のたとい仏知慧、諸仏の行事かくの如しと、大人が迷い右往左往の間、実に掌さすんです、すべての童子赤ん坊が、きっと多少ともそうなんでしょう。これを大円鑑と伴い行くのはまた別ですか。そうしてこれは風動幔動の則です、右往左往の凡俗には就中手に入らんです、風も鳴らず、鈴も鳴らず、心鳴るのみ、心という身心ですよ、こちいがこう鳴り動くんです、倶に寂静なる故に、自分というものまったくない故にです、これにて一件落着です、人生も世界も歴史もな-んもかもですよ。さあどうぞおやり下さい、たとい神童ならずとも同じこと。そうして出家するに従い、円鑑見えず、すなわち身につくんです、元の木阿弥ですよ。

寂莫たる心鳴響万様たり、僧伽と伽耶と及び風鈴と。

ふ-んなんかこれいいですねえ、羅漢さんの仲間になって、五百羅漢一千羅漢、毎日このように過ごしている、なんともいえん済々です、理想生活祇園精舎、彼は彼、我は我、風鈴と風と、意見思想に拠らない、だれどのようにあろうとも寂莫ぴったりぴったりです、林の中に入ると、みなまたそのようですし、草もまた花もです、みな心です、響き万様が、頓に完結していて、他云うなしの、一体に風であり風鈴であり我が心です、たとえは悪いけれども初めて三次元、あるいは四次元世界ですか、到らずは二次元を這いずり回る、べったりですよ。



第十九章

第十九祖、鳩摩羅多尊者、因に伽耶舎多尊者示して日く、昔世尊記して日く、吾が滅後一千年に大士有り、月支国に出現し、玄化を紹隆せんと。今汝吾れに値ひて斯の嘉運に応ず。師聞きて宿命智を発す。

師姓は婆羅門、むかし自在天人たりし時、菩薩の瓔珞を見て愛心を起こす、堕してとうり天に生じ、帝釈天の般若波羅蜜多を説くを聞き、法の勝れたるを知り、梵天に昇ってよく法要を説く、諸天悦んで導師となす、祖位を継ぐ時至って、ついに月支に降る。十八祖行化のついで、婆羅門の舎に異相あるを見て、まさに入らんとす。師問いて日く、是れ何の徒衆ぞ。尊者日く、是れ仏弟子なり。師仏号を聞きて、心神竦然として門戸を閉ず。尊者良久してその門を叩く。師日く、こ
の舎に人なし。尊者日く、無と答える者は誰そ。師門を開けて接す。尊者日く、むかし世尊記して日く、乃至宿命智を発す。世尊記して日く、まさに大法を継いで、玄化を紹隆せんと云われて、すなわち大悟す、宿命智を発すとは、おれは如来の生まれ変わりだからなぞ、他が思い込み一人合点とは違う、まさに急転直下するんです、たしかにこういうことがあったんです。たとい前生に於てかくは因縁熟すといえども、いったんこの世に生を受けて、観念認識の生活です、どうしたって自己という架空請求の切れっぱしです。般若波羅蜜多ぱ-らみ-た-彼岸に渡らなければ、宿命智を発するわけには行かんです。玄化の法身、実にこれが重大を、予め承知していたんでしょう、身心竦然として門戸を閉ざす、いないよと云うんです、いないものは誰と云われて、ついに迎えが来たことを知る。世の中他にはないんです、仏道という多種のうちの一種じゃないんです、婦人は結婚せずとも生きていかれる、だがこれは別だ。たとえ悪いですか、まあそういったこってす。

宿生隔歴の身を推倒して、而今相見す旧時の漢。

お釈迦さまは七歩歩んで上下四維指さして、天上天下宇井が唯我独尊といって、お生まれになった。実はすべての赤ん坊がこう生まれているんです、人間世界欲界ですか、知識観念による、砂上楼閣の自己をもってする、主客転倒事、声色の奴卑と馳走する、これ六道輪廻たらい回しです、地獄餓鬼修羅畜生人間天上、たった今も生まれ変わり死に変わりもです。それを一歩抜きんでる、脱するんです、如来来たる如し、赤ん坊の目は宇宙の一かけらのようです、こわいほどです、それを物心つくといってはまた欲界に引き入れる、これが繰り返しです。願はくは生きている今生の間に脱して下さい、宿命智を発して下さい、でなかったらたとい何十生たらい回し、まったく同じことの繰り返し、うんざりするばかり、仏教がなんのためにあるか、今生脱し去る価値を知って下さい、そうですよ、赤ん坊のまんまじゃ役に立たんです。



第二十章

第二十祖闍夜多尊者、因に十九祖示して日く、汝已に三業を信ずと雖も、未だ業は惑従り生じ、惑は識に因りて有り、識は不覚に依り、不覚は心に依るを明きらめず。心本清浄にして、生滅無く、造作無く、勝負無くして、寂寂然たり、霊霊然たり。汝若し此の法門に入らば、諸仏と同じかるべし。一切の善悪、有為無為皆夢幻の如し。師聞きて言を承け旨を領して、即ち宿慧を発す。

師は北天竺の人なり、智慧淵沖にして化導無量なり、十九世に逢いて問うて日く、我が家の父母素とより三宝を信ずれども、疾病にまつわる、凡そ営作する所不如意なり、しかるに隣家久しくせんだらの行をなす、身常に勇健にして、所作和合す。彼何の幸いありて、我何の辜かある。尊者日く、何ぞ疑うに足らんや、且つ善悪の報に三時あり、凡そ人つねに、仁は夭に、暴は寿に、逆は吉に、義は凶なるを見て、因果無く罪福虚しと。知らず、影響のあい随うこと毫釐も惑うことなく、たとい千万劫をふるも摩滅せず。因縁必ずあい値うことを。師頓に所疑を釈く。尊者日く、汝すでに三業を信ずといえども、乃至師宿慧を発す。
三業とは順現報受、順次生受、順後次受ですか、たとい千万劫を経るも摩滅せず、因縁必ずあい値うというこれ、まさに仏の示すところです、恨みつらみ最後の審判じゃない、十字架を背負うなどの滑稽じゃない、ただ因果必然です、毫釐もたがうなし、人為のものなどないです、まさにこれを知って下さい、邪教というのは、これを免れようとする、信ずれば救われるという短絡です。業は惑より生ず、もとこうあるものに惑う、観念知識によるからです、観念知識は不覚による
、ほんとうに知ると終わるんです、悟りおわればもとないんです、不覚は不覚とするからによる、さあこれを明きらめて下さい。心もと清浄です、清浄とは無心、心がないんです、これを思い違えて清らかであり、穢れないとするのは、生滅なく造作なく勝負なくではなく、神あり仏ありたこ足回線の諸宗ですよ。よく施設するには、それは世間一般、下ねたはいかん、政治に口を出すなとか云い、そうだそれが仏教だという、同じわしの言葉をそのように分ける、これ空という無心という絵に描いた餅です、無心じゃなく有心です、知識観念上にあるから、語に響きがない、使えないんです、打てば響く、これ唯一の反応ですよ、なんにもないとは、なんでもありです、空とは自分を空じ切るんです、宿慧を発する、まさにこれ、習い覚えたなにものも通用しない、たった一つです。寂然霊然という、そういうふうに見ている風景じゃないんです、百尺竿頭進ただこの一種。

予章従来空裏に生ず、枝葉根茎雲外に栄える。

まあそういうこってす、元来根なし草、自己という架空請求なんです、雲外に煩瑣、まったくもって手が付けられんです、それをしも自分と思い込む、自分が自分を顧みるという、どうあったって結果のない仕事です、自縄自縛の縄です、でもこいつ一本切れば万事終わる、ほどけば仏です、たとい複雑怪奇も、わずかに切れば解脱、不思議にこれそうなってるです。顧みる自分と顧みられる自分と、真正面に行き合ってごらんなさい、一つことだった=なんにもないんです、見ることができないからです、なんにもないものには悩まない、無心は傷つかない、一件落着です。幽霊という、もとはこのなんにもない、無心をいう幽すか霊たかという、いっしょになって幽霊ですか、人はあるものには悩まない、ないものに苦しまされる、はいどうですか、さっき云ったことと正反対ですが。



第二十一章

第二十一祖、婆修盤頭尊者、因みに二十祖日く、我れ道んを求めず、亦た顛倒せず。我れ仏を礼せず、亦た軽慢せず。我れ長坐せず、亦た懈怠せず。我れ一食せず、亦た雑食せず。我れ足るを知らず、亦貪欲せず、心に希う所なし、之を名づけて道と日う。時に師、聞き已りて無漏智を発す。

師姓は毘舎羅、父は光蓋母は厳一、家富みて子なし。父母仏塔に祈り嗣を求む、一夕母明暗二珠を呑むと、夢に見て孕む。一羅漢あり賢衆という者、礼を受け珠を納めて福して日く、母二子を孕む、一は聖人なり、婆修盤頭と名づく、まさに世灯慧日となるべし、一は芻尼、野鵲子と名づく、如来修行するとき、芻尼頂上に巣食う。仏既に成道して、芻尼報を受けて、那提国王となる、次の五百年に於て聖と同胞ならん、今たがうことなしと。尊者婆修盤頭十五歳出家す。二十祖行化して至る、かしこに学衆あり、ただ弁論を尊ぶ、首たるを婆修盤頭と云う、常に一食不臥、六時に礼仏し、清浄無欲にして衆の帰する所となる、尊者度せんと欲して、彼の衆に問いて日く、この頭陀よく梵行を修す、仏道を得べけんや。衆日く、我師精進たり、何が故ぞ不可なる。尊者日く、汝が師は道と遠し、たとい苦行して塵劫を経るとも、皆虚妄の本なり。衆日く、尊者何の徳行をもって我師をそしる。尊者日く、我は道を求めず、乃至、無漏智を発し、歓喜讃嘆す。尊者また彼衆に示して日く、我が語を会すや否や。我がしかる所以は、それ求道心の切なるが為なり。それ弦急なれば即ち断つ。故にわれ讃せずして、安楽地に住せしめ、諸仏智に入らしむと。
これまったく他云うことなしです、まさにかくの如くです、我道を求めず、また顛倒せず、我れ仏を礼せず、また軽慢せず、我れ長坐せず、また懈怠せず、我れ一食せず、また雑食せず、我れ足るを知らず、また貪欲せず、心に希う所なし、之を名つけて道という。はいこれまったくに我が日送りです、これに反するときは、必ずお釣りが来る、うまく行かない、不幸ですよ。

風大虚を過ぎ雲岬より出ず、道情世事都べて管する無し。

道は知にも非ず不知にもあらず、若し本来事を得ば、大虚の洞然として明白なるが如しと、どうしてもこれが欲しいと、四苦八苦するんです、行ない清ますあり、知慧を尽くすあり、坐り抜くあり、不眠不休ありです、弦急なればこれを断ちと、安楽に入り歓喜讃嘆するのは、求める心を手放す、元の木阿弥を知る、風大虚を過ぎです、洞然明白を絵に描いた餅じゃないんです、空という思い込みが失せる、そう云っているものを空じ切るんです、雲岬を出るに任すんです、なんでもありはもとなんでもありなんです、仏といい仏教といって、制限して良い悪いじゃしょうがない、三世の諸仏知らず、すなわち、道情という手を付けないんです、世事ものみな元の木阿弥にあって、まったく我管せずなんです、管するに我なし、只管打坐これ、日々是好日は、我れ足ることを知らずです、これ仏でなけりゃ云い得んですよ、自ずから懈怠しないんです、あっはっは総じて見習うこと不可能、無漏智を発して下さい。



第二十二章

第二十二祖、摩奴羅尊者、婆修盤頭に問いて日く、何物か是れ諸仏菩提なる。
尊者日く、心の本性即ち是れなり。師また日く、如何なるか是れ心の本性。尊者日く、十八界空是れなり。師聞いて開悟す。

師は那提国常自在王の子なり、年三十にして婆修盤頭に遇う。常自在王に二子あり、一を摩訶羅、次を摩奴羅と名づく。王、尊者の仏記したまう、第二の五百年に一の神力の大士あり、出家して聖を継ぐと、即ち次子摩奴羅これなりと云うを聞いて、この子を捨てて沙門とす。善哉善哉大王よく仏旨に従う、即ちために授具す、これより婆修盤頭に給仕す、あるとき問うて日く、何物か是れ諸仏菩提なる、乃至開悟す。何物か是れ諸仏菩提なる、だれしも一度は必ずこう聞きます、ほんとうのことはなにか、自分はどうあったらいいか、仏とはなにか、それに答える人がいない、あるいはせっかく問いながら、なおざりにする、人もそうなら自分もといって、じきに忘れてしまう。仏記して聖を継ぐべしという、大士大人物が必要なんですか、いいやおぎゃあと生まれて、だれしも七歩歩んで天上天下唯我独尊です、だれあって本当を問う、何物か是れ諸仏菩提なる、というとき無位の大人です、尊者答えて日く、心の本性即ち是れなり。はいこれここにありますよ、本性もと究尽菩提、まったく他にはないと示す、これあってはじめて種々雑多、世の中一般があるんですよ、そうかと云うんです、でもその心の本性とはいったい何か、十八界六根六識六境の十八という、ものみな空です、見えるものないんです、これとさし示すなし、頼りの杖=200%ものみなですか、頓に無生を知る、これを聞いて開悟するんです。
仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘れるなり。はいまったくに単純なただこれ。

舜若多神は内外に非ず、見聞声色倶に虚空なり。

しゅんにゃたとは虚空を司る神、まあ空ですか、空というと空という固定観念、そういうらしいものがあると思うんです、そうではあい、そのように思う自分を空じ去るんです、自分という架空請求を免れる、ほんとうに自由になるんです、あれはいけない、これは悪い、仏はこうある、仏教の物差しは、ものみな空だからという、だから故にのかすがいを外す、先ず自分という内外が失
せる、妄想が悪い、声聞縁覚がどうのという、どうのというこうのという、そのもの200%、ないものには悩まない、あるいは五蘊皆空という、かすっともかすらないんです、いったん忘れるということあって、長長出させる、坐禅という、どこまで行っても退歩の術ですか、いいえ十八界空、自分という問題にならんのですよ。



第二十三章

第二十三祖、鶴勒那尊者、因みに摩奴羅尊者示して日く、我れ無上の大法宝有り、汝当さに聴受して未来際を化すべし。師聞きて契悟す。

師月支国の人なり、姓は婆羅門、父は千勝母は金光、子なきをもって、仏金ん幢に祈る、須弥山上に一の神童あり、金環を持して我れ来たれりと云うと夢に見えて、孕む。七歳にして、民間の淫祀するを見て、廟に入り、汝妄りに禍福を起こし人を幻惑すと叱す、云いおわりて廟忽然として壊す。郷党これを聖子とす。二十二歳出家、三十にして摩奴羅尊者に遇う。鶴の類師に従う、よって梵漢引き合わせて鶴勒那という。師尊者に問いて日く、我れ何の縁ありてか鶴衆を感ず。尊者日く、汝かつて比丘となる、五百の衆あり、徳薄きをもって、汝生を受けるとき、羽族となりて従うと。師聞きて、何の方便をもってか、彼をして解脱せしめんと云う、尊者日く、我に無上の大法宝あり、乃至契悟す。金環を持して生まれるという、神童という頭がいいんでしょう、世の中頭脳明敏は多種あります、けれども無節操で、自分儲かるだけにこれを用いる、今の世とくに一般的です、でもよくみると、諸方面にそうでない人がいます、政治家にだって何人もいます、七歳にして淫祀を破壊するほどに、まっすぐというと伝説の域ですが、正義また人のためには、自らを顧みないほどの人がいます、しかもマスコミ一般大衆はかえってそれを信じない、福徳薄い羽族に生まれるしかあいですか、でもこれせっかく正法眼蔵ありながら、たとい不信であり、行なうにはそっぽ向く人ですか、中下は多聞なれども、多く信ぜずですか、たいていこれ自分にとって不幸です、よって他を不幸にする。サイレントマジョリティを信じてよい国と、そうでない国と、これはまったく重大問題です。ともあれ、現代であっても正法は行なわれ、たとい不信の人であっても、二、三すれば信じる、初めて信の大なることを知る、そうかというんです、ではやってみよう、今生あるかぎり、仏の道という、わしはそういう例を数多く見る、無上の幸せです、いいやわしみたいな者が、申し訳ないと思うほどに。
粉雪雲に挿しはさむ巨岳の雪、純清絶点青天に異れり。

鶴勒那大和尚を頌するに、まさにもってかくの如くですが、自然の風景にこれあれば、人間の風景にもまさにあるべきです、もしこういう人に遭遇すれば、ああだこうだとやこうにこと雲散霧消です、これというこの事を知らず、この人というその心を知らず、一生をニヒルの狸右往左往の犬にて暮らす、なんというみっともない、傍迷惑、そりゃ次の世とうてい人間には生まれんですか、だっても今の世、姿形人間に似ているだけの、蚤の睾丸ほどの赤い血もなく、知らずにする情けないたら残酷無惨です、はい、ただちにこれを免れて下さい、そういう自分を観察しない方法です、見ている自分なければゼロです、もとゼロです、急転直下仏です、救われるということ、座禅と見性という、科学理論なんかありっこないです、帰依であり救われるという、ただこれ一つこと、感動のない冷静などないんです、あっはっははい真人間に返って下さい。




第二十四章

第二十四祖、師子尊者二十三祖に問いて日く、我れ道を求めんと欲す、当に何の用心かあるべきや。祖日く、汝若し道を求めば、用心する所無からん。師日く、既に用心無し、誰か仏事を作さん。祖日く、汝若し用うること有らば、即ち功徳に非ず、汝若し作すこと無くんば、即ち是れ仏事なり。経に日く、我が作す所の功徳、而かも我所無きが故にと。師是の言を聞き已りて、即ち仏慧に入る。

師、姓は婆羅門、もと異道を学して博達強記なり、後に二十三祖に参じて、今の問答あり、直に無所用心によって、頓に仏慧に入る。二十三祖日く、我が滅後五十年、まさに難の起こることあり、汝が身の上にあらん、しかりと雖ど、汝我が法宝を伝持して、未来際を化すべしと。師行化のついで、婆舎斯多を接して、難あり我が身に起こらん、おやしくも免るべからず、汝我が道を持すべしといって、衣法ともに授く。国王あり、仏に帰依す。外道乱を起こして、罪を仏子に帰す。国王、伽藍を破棄し、僧を追い、剣をとって師子尊者に至る。問いて日く、師蘊空を得るや否や。師日く、已に得たり。王日く、生死を離れるや否や。師日く、已に生死を離。王日く、已に生死を離るれば、我れに頭を施すべし。師日く、身は我が有に非ず、何ぞ頭を惜しまん。即ち刃を揮いて師の頭を断る。法難という、ようやくインドの仏教は衰退するんですか、仏教の不備ではないです、一般多数の趣むく所です、流行り廃りですか。以後のヒンズ-教が、仏教のデカタンス、インドの聖者というオペラ歌手のような、他に示すための人格です、無心を説きながら有心です、完成を云い現世利益です、そうではない、捨身施虎です、たとい怒り心頭の国王だろうが、その身くれてやる、ために別に立派な人格も、オペラ歌手もいらんです、これ参学の秘訣、坐然のありようです。我れ道を求めんと欲す、なんの用心かあるべき、どうしたらいいか、心の用いようを聞く、これに対して、若し道を求めば、用心する所無からん。心を用いるんではない、あるいは用心しっようとするそのもの。用心なしでは、だれか仏事をなさん。さあこれが普通の人の問いです、有心の問いなんです、学者説教師という、まさにこれを出るなし、そりゃどうしようもないです、オペラ歌手するしかない、汝若し用うること有れば、即ち功徳にあらず。若し作すこと無くんば、即ち是れ仏事なり。はいこれが仏のありよう、捨身施虎です、百尺竿頭歩一歩です、経に日く、我がなす所の功徳、しかも我所無きが故に。

若し空を顕はさんと欲せば須らく覆ふこと莫るべし、沖虚浄泊本来明らかなり。

密教だの秘伝だのいうことなし、一器の水が一滴漏らさず一器になどいう、それは世間事です、免許皆伝という資格技術の問題ではない、先師室内もだが、明けっぴろげで、だれかれどうした、坐談におまえはどうとやる、人のことは我がことなんです、それを師家だのおれはだのいう輩は、必ず秘伝めかす、よくわからないのと、人に盗まれたら商売上がったりという、宗門の薄汚い我田引水、自閉症ですか、税金のかからないパイ、なるたけ他に食われぬよう、苦労の末の坊主だのと、ほんに出家希望者を扱う、宗門人のむごたらしいほどの扱いに、あっけにとられたことがあります、その弟子助けを求めて来たが、お寺さんになりたいって他なく、わしらには関わりなく。可哀想なこってす。仏教のぶの字もない宗門、もはやこれを出るより方法はないか。いえ宗門にあろうが、ホ-ムレスだろうが、沖虚浄泊隠れるところないんです、どこへ行って何云おうが、じきに賛成大賛成の集団になっちまう、うるさったいってわけでもないが、悪食ばさら、助平坊主やってます、本音だろうが、嘘八だろうが、そりゃまた同じこってすよ、そうねえ人間嘘は付けない。



第二十五章

第二十五祖、婆舎斯多尊者、二十四祖示して日く、如来の正法眼蔵、今汝に転付す、汝応に保護して普く来際を潤すべし。師、宿因を顯発して、密かに心印を伝ふ。

師姓は婆羅門、父は寂行はは常安楽、母神剣を得ると夢見て孕む、師子尊者遊方のついで、一の長者あり、その子を引きて尊者に問う、子斯多と名づく、生まれるに当たって左手を拳る、終に未だのぶることあたわず、願わくは尊者、その宿因を示せと。尊者即ち、手をもって接して日く、我れに珠を還すべし。童子俄に手を開きて珠を奉る。衆みな驚愕す。尊者日く、我れ前報に僧となれり、童子あり、婆舎という、我れかつて西海の斎に赴いて、珠を受けて之に付す。今我れに返す理まことに然り。長者終にこの子を出家せしむ、即ちために授具して、前縁をもって婆舎斯多と名づく。ついに嗣続して日く、如来の正法眼蔵、今汝に授く、よろしくおく保護すべしと。
人みなかくの如しと、われもまたかくの如しと、どこかに手を握りしめていませんか、尊者来たりて、珠を返しなさいという、すなわち手を開いて奉ずる。どうですか、如来の正法眼蔵このようにして、伝わり、ついに嗣続して、汝今これを得たり、よろしくよく保護すべし、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、類して等しからず、混ずる時んば所を知ると。先師が云っていたな、小僧修行の仲間が、まったく悟ったように宝鏡三昧を読むと、ほんとうにそういうことあります、赤ん坊が字を読み経を誦すことを知ったら、きっとかくあるべしと。しかれども毫釐も差あれば、天地はるかに隔たり、違順わずかに起これば粉然として心を失すと、これ人の一生しゃば世界です、すなわちわずかにこういうことあって、もとは元の木阿弥、如来の正法眼蔵そのものなんです、さあどうですか、その手に握った珠を返すことあって、無心に帰依して下さい、夢から覚めるんですよ、はっと気が付くんです、もとそうであったこと。

開華落葉直ちに顯はるる時、薬樹王終に別味無し。

だからこのせっかくの大事無味乾燥なんです、無心というもとあるを知らないんです、でもって摩尼宝珠如来蔵裏親しく収鑑すといっても、目に見える玉じゃないです、有心のものには取り付く島もないです、世界には幾多の宗教があり、大小無数ですか、同じ羽根の鳥を寄せ集めて、勢力をほこり戦争の道具ですか、これ人類という欠陥そのものです、人類以外そんな余計こと、阿呆するものいない、みんな平和に暮らしています、無心の故にです、あなたはだあれ、知らないと答える、花も雲も水も、そうです達磨さんもです、やれキリスト教天理教だのブ-ズ-教だの、そりゃ理論としても間違いですし、荒唐無稽なることは、虫けら一匹救えないんです、こんなものがまかり通ること、まずもって反省すべきです、薬樹王ついに別味なし、色じゃないよ、色を入れる器だおというほどに、そりゃ過ちは糾すこと、色をもって色を制すんじゃない、殺し文句の是非善悪じゃないんです、これを知る、まったく別味なし=人間以外みな生活。



第二十六章

第二十六祖、不如蜜多尊者、太子たりし時、二十五祖問いて日く、汝出家せんと欲す、当に何事をか為す。師日く、我れ若し出家せば別事を為さず。祖日く、何事をか為さず。師日く、俗事を為さず。祖日く、当に何事をか為す。師日く、当に仏事を為す。祖日く、太子の智慧天至なり、必ずや諸聖の降迹ならん。祖即ち出家を許す。

師は南インド得勝王の太子なり、王祖に問いて日く、師が伝ふる所の者、まさに是れ何の宗なるや。祖日く、我が伝うるもの即ち是れ仏の宗なり。王日く、仏滅してすでに二千百載なり、師は誰より得たるや。祖日く、摩訶迦葉親しく仏印を受け、展転して二十四祖師子尊者に至る。我れ彼より得たり。王日く、余聞く、師子比丘は刑戮を免れること能はずと、何ぞよく法を後人に伝えん。祖日く、我が師難未だ起こらざる時、密かに我れに信衣法偈を授けて、もって師承を顯はす。王日く、その衣何くにか在る。祖即ち嚢中より衣を出して王に示す。王命じて之を焚かしむ。五色相鮮やかにして、薪尽きてももとの如し。王即ち追悔して礼を致す。師子の真嗣なる、太子ついに出家を求む。祖日く、汝出家せんと欲す。まさに何事をか為すべき、乃至祖出家を許す。燃しても燃えない、石の辺から取ろうにも取れない、そんな便利明確な信衣があればいいですか、信衣という、形として印すことあったとて、嗣法しなけりゃ意味がない、仏仏に単伝する、永遠不変です、これを受けるかと云われて、受け得るものは受けるんです、紙ぺらの嗣法など、たとい千拝遙拝も血脈だろうが、一文の価値もないです、そんな阿呆なこと、長年やって来てとうとうぼろくずです、宗門というなんの取り柄もないです、かったるいっきりだ。たとい燃しても燃えず、五相鮮明、宗門坊主ども右往左往も、歴然として、大法は受け継がれております、たとい人類滅亡しようが、仏の道は続くんです。このころインドでは、ようやく外道に乗っ取られようとする、法難相次ぐんでしょう、いずれ身から出た錆で、仏教という徒党を組み、利権争い、いえさ世俗の垢がたまるんです、それに一般が反発する、うんざりするんです、明治の廃仏棄釈もそうですか、今の仏教離れは、坊主自身による、これどうしようもないです。もっとも仏教の、噛み難く嚼し難いことは、じきに信ずれば救われる底の、安易さ人はこうあるべきの猿真似に取って代わります、結果毒にも薬にもならんですか、百害あって一利なしですか。何事かなす、俗事をなさずという、俗と仏と如何と問うまえに、これが貴重品を尊重するんですか、まさに仏事をなすと、その智慧天の至るなり、必ずや諸聖の降迹なりと、はいそのようにこの事顯現して下さい、一騎当千も日常茶飯事ですよ、無心なればはいかくの如し。

本地平常寸草無し、宗風何れの処にか按排を作さん。

大学院をやめて出家した弟子が、いいことをしたいというかぎりは、仏教にならんというのを、どうしてもいいことをしたい、仏教を学んで世のため人のため、いいえ行ない清まして、この我が身心をという、生きたいという、いえ立派に生きたいという、もしくはそれを取ったら、自分はどうしたらよいかわからないと云う、いいことしいに自分がない、行処がない、淋しいし不安だしという、そりゃちっとは坐った効果あったか、はい、いいことするんならどっか他へ行ってくれ、しゃばへ舞い戻るか、うちじゃそんなんいらんで、というと、他たって行く処がない、しゃばだろうが同じだという。ここにして経を説く、無心という無眼耳鼻舌身意という、自分がまったくないことを説く、そのお経を学びながら、生きたい、いっぱしになりたい学者が、仏教に至るはずはない、無所得故という、元の木阿弥なんにもないに帰る、ニイルバ-ナは、生きようじゃない捨てる、大死一番する外に方法がないこと。いいことしいという爪から先じゃない、ぜんたいだ、寸草じゃないこれが平地と。何れのところにか按配をなさん、いいか捨てなきゃ得られん、淋しいどうもならん、それが入り口。



第二十七章

第二十七祖、般若多羅尊者、因みに二十六祖日く、汝往事を憶うや否や。師日く、我れ遠劫中を念ずるに、師と同居す。師は摩訶般若を演べ、我れは甚深修多羅を転ず。今日の事、蓋し昔因に契えり。

師は東インドの人なり。時に不如密多、東インドに至る、かの王を堅固という、外道を奉じ、長爪梵志を師とす。尊者至らんとして、王と梵志と同じく白気の上下貫くを見る。王日く、これ何の瑞ぞや。梵志予じめ尊者の境に入るを見て、王の善に遷らんことを恐れ、すなわち日く、これは是れ魔来たると。不如密多まさに都城に入らんとす、弟子とも鳩首して日く、我れら各呪術あり、天地をも動かし水火にも入るべし、何を患えんやと。尊者宮墻に黒気あるを見て、すなわち日く、小難のみ、王処に至る。王日く、師来たりて何をか為さんとす。尊者日く、衆生を度さんとす。日く、何の法をもって度せん。尊者日く、各その類をもって度せん。梵志怒りに耐えず、幻法をもって大山を尊者の頂上に化す。尊者これを指さす、たちまち彼の衆の頭上に在り。梵志ら恐れおののいて尊者に投ず、尊者愚或を哀れんでこれを指さす、化山したがい滅す。すなわち王の為に法要を説いて、真乗に趣かしむ。また王に云う、この国まさに聖人ありて、我れに継ぐべし。時に婆羅門あり、幼時に父母を失いて名氏を知らず、あるいは自ら瓔珞という。人呼んで瓔珞童子という、市井に遊行し乞食して日を渡る。人、汝行くこと何ぞ急なると問えば、汝行くこと何ぞ慢なると答え、何の姓ぞと問えば、汝と同姓という。王尊者と同車して行く、瓔珞童子稽首す。尊者日く、汝往事を憶ふや否や。乃至けだし昔因に契へり。尊者王に云いて日く、この童子は他に非ず、大勢至菩薩これなり、この聖の後に二人を出さん、一は南インドを度し、一は震旦、中国に縁ありと。ついに昔因をもっての故に、般若多羅と名づく。
各その類をもって度せんという、これ仏教の常套手段というより、仏教として別に何かあるもんじゃないんです、仏教=ダイアロ-グと云っていい、こうあるべきどうせにゃならんの問題じゃない、しゃくを以てしゃく(金に昔)に就くという、相手の愚或の、行き届かぬところを示す、大山をもってすれば、それを彼におっかぶせりゃいい、その衆に乗せりゃもっと効果的でしょう、戦争は悪い平和はいいという、はいそのとおりですよという、現実はどうなります、戦争は悪い平和がいいが、大山になってのしかかって、ちっとやそっとじゃ動きが取れん日本でしょう、愚或を指さして、したがい消滅です、ほかそんなことばっかりというのは、世間世迷いごとです、自分という架空請求の上に成り立っている、いえそうと思い込むんです、父母幼にして失われ、名も知らぬ、かえって自分という立脚点を免れる、家なく遊行の自在ですか、ですが尊者、往事を思うや否やと問う、来し方行く末として問うんでしょう、もしちらともあればこれ業障です、むかしのことなんて思わないよという、如来まさに追憶なしです、ところがそやつを通り越して、師と同居す、同安居ですか、今の下士官修行新兵さんはつらいよねの、僧堂安居、同じ釜の飯食ってじゃない、そりゃ追憶倒れ、そうじゃない、師は魔訶般若を説き、我れは甚深修多羅を転ずと、ただこうしてこのとおりあるんです、山水長口舌と敢えていう、たった一つことです、塵未来済こうしているというんです、ゆたらス-トラ、学者が論じ坊主ぜにもうけとは無関係です。

潭底の蟾光空裏に明きらかに、連天の水勢徹昭して清し。再三撈漉して縱ひ有ることを知るも、寛廓旁分虚白にして成る。

潭は深い水蟾は龍です、この一連瓔珞童子がまさに答える、師と同居す以下です、情識妄想の取り付く島もない、もとのありよう七通発達です、撈漉は水中に入ってものを取ること、学者徒労は猿の月影を追うという、水に映った月を取ろうとして再三するわけです、たとい本来の月、あるいは両箇たるを知るも、これを用いる、廓然無聖です、がらりこうあって個々別々、旁分は事物を明きらかにする、科学の追求真理という、一神教成れの果てとは違うんです、虚白自分というものなくしてものみな、ぱ-らみ-た-摩訶般若波羅蜜多彼岸にわたる=知慧なんです、仏知慧として別にあると思っている間は、そりゃ届かんです。



第二十八章

第二十八祖、菩提達磨尊者、因みに二十七祖、般若多羅尊者問う、諸物の中において、何物か無相なる。師日く、不起無相なり。祖日く、諸物の中において、何物か最大なる。師日く、法性最大なり。

師は刹利種、クシャトリアなり、もとは菩提多羅と名づく。南インド香至王の第三子なり、王仏法を尊重して並びなき、あるとき無価値の宝珠をもって般若多羅に施す。王に三子あり、一は月浄多羅、二は功徳多羅、三は菩提多羅、尊者、施すところの宝珠を以て三王子に示して日く、よくこの宝珠に及ぶもの有りや否や。第一第二日く、この珠は七宝の中の尊なり、まことに超ゆるものなし。尊者の道力に非ずんば、よくこれを受けん。第三王子日く、これはこれ世宝なり、未だ上とするに足らず。諸宝の中においては法宝を上とす、これはこれ世光なり、未だ上とするには足らず。諸光の中においては智光を上なりとす、これはこれ世明なり、未だ上とするに足らず。諸明の中に於ては心明を上なりとす。この珠の光明は自ずから照らすこと能はず、必ず智光を借りてこれを光弁す。すでにこれを弁じ終われば、即ちこれ珠なる事を知る。必ず智珠を仮りて世珠を弁ずればなり。宝自ら宝に非ざることは、必ず智宝を仮りて法宝を明きらむればなり。師の道智宝なるが故に今世宝を感ず。しかれば即ち師に道あればその宝を現じ、衆生に道あればその宝を現ず。衆生に道あれば心宝また然かなり。祖その弁舌を聞きて、聖なることを知る、即ち問いて日く、諸仏の中において何物か無相なる。師日く、不起無相なる。祖日く、諸物の中において何物か最も高き。師日く、人我最も高し。祖日く、諸物の中において何物か最も大なる。師日く、法性最大なり。かくの如く問答して、師資心通ずと雖も、機の純熟するを待つ。父王崩御す、衆みな号絶するに、菩提多羅独り柩の前にして入定、七日をへて出ず。乃ち般若多羅の処に往いて出家す。後に師般若多羅の室にして七日坐禅す、般若多羅広く坐禅の妙理を指説す。師聞きて無上智を発す。般若多羅示して日く、汝諸法に於てすでに通量を得たり、それ達磨は通大の義なり、よろしく達磨と名付くべし。六十余載、震旦の縁熟するをもって、一葦に身を浮かべてという、梁の大通元年九月二十一日、よって最初梁の武帝に相見す。
梁の武帝、達磨太子に問ふ、如何なるか是れ聖諦第一義、磨日く、廓禅無聖。帝日く、朕に対する者は誰そ。磨日く、不識。帝契はず。終に江を渡って、小林に至り面壁九年。
梁の武帝という、実在の人物です、一代にして国を興し次代にはもう滅んだという、その因の多くは仏教に入れ揚げたせいだと、そりゃ発明の人だったんでしょう、でも仏宝僧を供養し、塔を建て、自らも放光般若経を講義し、終には天花乱墜し、地黄金に変ずるを見たという、これこそ仏教のエッセンス、如何なるか聖諦第一義と問う、答えは解かっている、頭なでてくれという、これ一般の問いです、どういうものか、知らないからというより、知っているから答えろという、これに対して、磨云く、廓然無聖、からんとしてなんにもないよと云う、すばらしいもの、これぞというものなんかないんです、金ぴか聖人いらない、個々別々だというんでしょう、帝呆然です、なんだと、そんじゃ仏心太子という、観音大師という、鳴りもの入りでやって来た、おまえは何物だ、朕に対する者は誰そと聞く、磨云く、不識。知らないというんです。達磨の不識というこれ、いいですか、花にあなたはだあれと聞く、知らないと答えるんでしょう、その他の答えはないんです。私は菊で管巻という種類で、なんのたれ兵衛が植えて、肥やしはどうで日照時間はどうで、弥彦の品評会で三位を取った、上を見れば切りもし、下を見れば切りもなし、まあこのへんでなど云い出したら、それっきり花なんぞ見る気もしなくなります。
知っている分みな嘘、見れども飽きぬ花です、人間だけが見るもいやな面付き、嘘ばっかりに枯渇しています、これはどういうこと、お釈迦さまが二千数百年前に気がついたことこれ、毛なし猿が、進化のいびつから発して、ついにその脳味噌を卒業しえずという、主客転倒事、客である観念知識にしてやられっぱなしです、これをどうにかせんけりゃ、人類も地球の未来もないんです。
仏教とはまさにこれ、花のように知らない人になって下さい、廓然無聖個々別々と地球のお仲間入りをして下さい、人間に似せたあっちの神さまこっちの独善じゃないんです、大人になって下さい、水や空の雲と一如にある、父母未生以前です、元の木阿弥という、帰家穏坐ですよ、ことはまるっきり単純です。
人間という砂上楼閣、自分という架空請求を断じて下さいという、たったそれだけ。
よこしまを去って、あるがまんまに帰る。
ぱ-らみ-た-彼岸に渡るお示しです。

更に方所無く辺表無し、豈秋毫よりも大なる者有りらんや

はい手付かずの工夫です。