禁煙物語
わし人をやっつけるってこっちゃないんだけどなアッハッハ。でもさ仏は曲げられんで、たとい世間どんなことし出かしたって、
「自分はどうか。」
ということあって、答えが出ていなけりゃ、なにやってもそりゃ、おつりが来るってこと、なにさ自分が自分に向き合う、てまひまはいらんです、おまけにたったの一通り。しょうがない、また説教の練習でもやろうか、こいつが苦手で、一つには何云ったってどうもならんて気がしてるってこったか。では禁煙について。
むかしは酒を飲み煙草吸わんけりゃ、そりゃ男として一丁前じゃなかった、煙にむせんでえれえめして煙草を吸ったです。わしも高校のでもしか先生やって、どっちが生徒か先生かわからん、アッハッハのうてんぱあにできてたです、うんじゃ煙草吸おうってことになって吸った。ピース両切り買ってぱかっとやったら、それがうまかった。一服からぞっこん気に入って、灰皿を山盛りにする、生徒らわしの真似は、煙草くわえてへまって歩く格好、つまりもうどっぷりはまった。
そいつを出家するときに止めた、坊主の修行に耐えられるかというと、まるっきり自信がない、とにかく煙草だけ止めた。寺へ入って四時に起こされて、ぐわーってなもんで、鉈でぶった切られるような、学校は止めて、午前さまみたい暮らししてたし、たいていだらしがなく、だがせっかく止めた煙草を、僧堂へ行って、その年の十二月には吸っていた。
なんで吸い出したか、覚えのないのが困る。
一服めは馬糞でも食ってるような、げえってぐらいまずい、ところが二服めがうまい、天国てなもんで、そうしたらもう止まらない。
次はお寺の資格を取るために本山へ行った、本山じゃ吸えなかろうって止めた、四六時中自分のひまってない本山の、すっかり止まっていたら、
「おっほう、がんばっとるなあ。」
と役寮がいう、わしの部屋へ来い、ゆっくり休め、けつから煙出るほど吸わしてやっからといって、そりゃもう親切、断るわけにはいかん、とうとうまた吸った。
そのあと二度ばかり止めた、たんびに止めるのがきつくなる、吸うのが強くなるのだ、ヘビースモーカーからチェーンスモーカーへ、初めは一週間でふっ切れたが、次第一カ月三月もやもや、一年たってまた吸うっていうので、なんともこりゃどうもならん。
とうとう止めて七年になるが、アッハッハふらっと吸いたくもなるが止めとこう、煙草吸いは今は肩身が狭い、市民権が得られんような。みんな税金の、第一えらく高価になった。
なんで止めたかというと、振り出しはモサドの教官という、殺人空手の羽賀のおっさんがいて、けっこう有名人なが、ニュージイランドへ連れて行ってくれる、
「ぽい捨て罰金30万円、野糞垂れてもだ、いいかホームステイするんだ、煙草吸いのいた家は高く売れねえ、レンタカーだってそりゃいい車借りられん。」
その他十把一からげ云って脅された。止めた。旅のあいだはさほどでなかったが、あと半年ももやもやしていた。
わしは止めるったら止めた、苦労もするんだけど、だもんでまた吸い出す。いやもう年だで止めたっきりが、わしの禁煙法は、煙草を止めるには、
「止める。」
とそれっきり、ほかの理由は一切付けないんです。いや健康のためとか、ゼニがねえとか、衣穴だらけとか、世のため人のため、子供にどうのとかやらないんです。
ちらとも理屈つけるとたいていそれでおしまいです。
そりゃ止める理由には吸ってもいい理由が必ずくっつく。裏腹なんです。
アッハッハ人間の理屈ってまあそうできてるです。いかようにも理由くっつけて、戦争だ平和だ、たといなにするったって、おれはいいんだいいことしいのです、みっともないですよ。ブッシュの馬鹿もっての外だ反対行進など、キムジョンイルど阿呆め、人間ならだれしも座り込みって思うけれども、それちょっと違うんですよ、どうかなぜちがうかってこと考えて下さい。
ある人煙草を止めるのに、さまざま起こって来る自分の感情、考えを観察する、そうして成功した、うまい方法だと老師が云っていた。
わかりますかこれ、たしかうまい方法なんですよ。
アッハッハこれ仏の話だと思いますか。
仏の話にあらざるなしってね。
彼岸説法
むかしたってつい十年ほど前までは、彼岸のお墓参りなど第一物理的にできなかった、雪の辺にひょこっとお墓が頭のぞけるほど、時には猛吹雪になって、彼岸のお参りたった三人、これじゃどうもならんといって、ついでにやる護持会総会会計報告なと日延べしたこともあった。
地球温暖化で新潟の雪は札幌あたりに行っちゃった、それにともないというか、東京辺りの彼岸お墓参りがぼつぼつ、今日あたりも若いおねえちゃんの一隊が、車雪のなでに突っ込んでお墓へ行った。
そうは流行らない。
秋の彼岸は稲刈り頃でむかしから流行らない。
どっちもお斎を出して観音経を上げて、つまり何百年来やってるわけだが、お参りする人はたいていかかさずお参りする、来ない人はたいていかかさず来ないてもんの、人口も減るし、嫁なし一家増えるし、だんだん先細り。
なんせ子供が減ったな。
彼岸とは向こう岸です、こっちの岸を此岸という語もあります。あっちの岸は仏、こっちの岸は迷い、とまあそれでよい、なんで迷うかというには、仏さまのものを、自分のものだと思い込んで、得手勝手するからです。
お天道さまにおれさまの云う通りになれといって、ひおうぎふるって熱病になって死んだのは平ら清盛、とまで行かなくとも、大小だれかれやっています。正義をふりかざす大国の、開放だといって他国を蹂躙する、禍殃累世にわたるです、1000年後まで恨みつらみってことありますよ。
思い込みというか、ものをよこしまにするのいかんです。
一神教自体が思い込みってことありますな。
人間に似せた神様作って、人間だけってのよくないです。
はては利潤の追求なといって地球を滅ぼす。
照顧脚下です。
自分ははたしてどうかっていうことです。
どうですか、アメリカやっていませんか、おれはいいおまえは悪い、人を苦しめ自然をないがしろにし、大騒ぎして、結局は自分が苦しむんです。
いえね、くよくよ人の意見を伺うたって、そりゃ同じこってすよ。
自分=よこしまと知る、さあどうですか、我と我が身心に問うこれ仏教ことはじめです。
「いや、おれはよこしまなことしていない、人にも悪いことはしてないし、ものは大切にしている、だから。」
という人かえって始末におえんです、しばらく反省ですか、なんというみにくい、なんといううそだと知ってはじめて、いわんや悪人をやです。
仏教入門=自分入門です。
「だからおれはどうだ。」
という、これこっちの岸なんです、どこまでいっても、
「そういっているおまえさんは。」
というんです。
仏教修行のことはじめです。
身心わがものにあらず。
これを知って修行が修行になります。
般若波蜜多心経というでしょう、はんにゃはらみったパーラミーターという梵語を三蔵法師がそのまんまに使ったんです、ぱあらみいたあ彼岸に渡るという意です。
彼岸に渡る心のお経、彼岸に渡るノウハウです、これ心経これ仏教です。
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
とらわれない、赤ん坊のようにまっさらにです、もとなんの持ち物もないんです、すべてを手放す、そうです、すべては思い込みであったと知って、一切の苦しみ厄介ごとを離れるんです。
仏教百般これにて終わり。
他にはないんですよ。
ほどけば仏、此岸妄想です、よこしまもほどきおわればもと仏、おれがという自縄自縛の縄をほどくんです。
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
実に人の一生とはそのためにあるんです、祖先をお参りするのは、祖先がそれを教えてくれるからです。
彼岸という、
「たった一つ生きている間に仏。」
仏はほどけと云っているんです、天に唾したって自分に返る、いえたったそれだけのこったよっていうんです。
どっか間違っていやしませんか、アメリカやったってろくなことはないよってね。
手を合せてお参りするのは、
「裏も表もない。」
といったらいいか、彼岸そのものです、身も蓋もないご先祖さま。
孤独ということ
ほんとうに一人きりになる、ということが孤独をかこつ人も、集団に食み出した人も、淋しい女も、一人きり老人も、練炭自殺する人も、引き籠もりさんも、ストーカーも、自閉症の人もです、だれもできていません、実はこれが今様人間の根本問題です。
ほんとうに一人きりになる、だれも振り返ってくれない、自然だけがある、たよりなくあてなくです、もうどうにもこうにもならん、雨降り風が吹くきりです。
人間神がいないと生活ができない、心というは人と人との関わりという、そんなこと云う必要はないんです、神という約束ごとにはよらない、ものみな個々別々自在無心です、神さまアメリカ金成日も目くそ鼻くそ、独り善がりの集団は、結果ろくでもないことしか起こさない。
いいですか、まったく一人きりです。むきになっておれは一人だからじゃない、ただもう見捨てられてでいい、一人きり頼りないんです。
ではそれに参ずればいいんです。
あてもない一人きりが涼しく、とつぜん無我夢中の楽しさです。
「一人きりの自分がない。」
ということに気がつくんです。
花だって空の雲だって一人きり。
ものみなみんな一人きり。
わかりますかこれ。
明日死んでもいいんですが、永遠に生きたってもいいんです。
どうかこれを得て下さい。
わしのような年寄りには、老後と死がわがものになります。
若い人にははた迷惑騒々しいがいらぬ、壮年には一騎当千です、たとい四面楚歌も平然、よけいこと無駄ことなしに一人きりです。
この事です。
時代環境能力のあるなし、老若男女に関わらんです。
生死同じ。
どうやって得るかというと、今の自分をもう一歩押し進めりゃいいんです、清水の舞台から飛び降りるんですか、
「にっちもさっちも行かん。」
のをもう一歩、アッハッハなんにも起こらんのですよ、飛び降りて平地。
一人きりはまったく一人きり。
アッハッハ天上天下唯我独尊。
歯医者へ行く
歯医者のやつめ風を食らって行方不明だ、したがい今日は執行猶予、めちゃんこ歯っかけの上に口内炎が出て死ぬ思い、これ弱り目に祟り目に出る持病かな、こないだ口内炎もう飽きたって云ったらすっと治ったけど、その後出そうになるといらんて云ったらどっか行ったけど、今度は弱り目に宿酔いやって、すっかり居着いた。
「うそばっかついてるから口こうなった。」
といったら、
「そうだ。」
という檀家いた、なんたるこった。
どっちみち歯が原因らしい。
わしの歯はがきんころからほっぽりっぱなしで、歯医者なんか行ったこともなく磨いたこともなく、いのししみたいまっ黄色の歯していた。
四十過ぎてビールの王冠抜いてみせたり、くるみ、かしぐるみじゃないよ日本古来のやつを、歯でかいてみせて、どうだとかいっていた。
そうしたらいっぺんにがたが来た。
虫歯歯槽膿漏あっちこっち痛む、そういえば奥歯二本本山で痛み出して、夜中寝られずぐるぐる歩いていたが、とうとうてめえで引っこ抜いた。今度は檀家に歯医者いた。
「わたしにできることは歯の治療です。」
殊勝なこと云うと思ったら、人の口開けといて、
「どうです、みんな来て見て下さい、こんなにひどい症例ってめったにないです。」
あっちがどうのこっちがどうの、心穏やかな人は歯も健康です、よっぽどぎりぎり歯ぎしりしたか、ストレスのこれが証拠のなと、てやんでえいいように扱き下ろされたって、開いた口は塞がらぬ。
おまけにチュイーンぎりぎり一発かすめたらギャー死ぬ。
でもってまあ我慢して、保険にしますかそれともって聞くから保険て云っちまった、歯医者についての常識がまったくなかった、乃至は窓口で70万円とか払ってるのに恐れをなした。
歯医者ぐらいいいかげんな商売なくって、へたなとこ行くとどえれえめみる、歯医者行ったことない人それがわからん、どこも同じと思っていた、その後えれえめにあった人の話よっぽど聞かされた、最新治療でもって台なしにされたとか、インプラントがどうのとか、檀家の歯医者新潟でも一二の優秀な腕をさ、なんせ治療の長いのにしびれ切れた。
でもって入れ歯作ってもらった、
「ちええあっちもこっちも引っこ抜きやがって。」
ほんに抜かんですむ方法とかまた生えて来る薬発明しろってんだ、ぶつぶついって入れ歯はめたら、そのまあ轡虫、
「くわー人間に対する冒涜である。」
どっかへ置いたら、それっきりなくなった。 でもって歯は悪くなる一方、もう一度行って逃げ出して、また行って葬式あって飲んでそれっきりとかさ。
だんだん敷居が高くなって、いい歯医者なんだけどさすが愛想尽かす。
こっち医者歯医者選ぶことできるけど、医者歯医者っていやな客いやだって云えねえのかな、とか勝手な気炎上げていたら、やっぱ檀家巻の医者の妹で歯医者いた。
若い美人だ、なぬ旦那女こさえて逃げて今空家だって、ようし乗った。
通って行って刺し歯駄目かって聞いたら、あたしんとこ入れ歯だけ、二種類あってマグネットついたの24万円、なんせ動機が不純だもんで24万円、もったいなあっていい歯削ってマグネットつけて、できあがったと思ったらじきぽっこりかけた、ついでもらってまたかけた。
「噛む力が普通の人の何倍もあるんです。」
きーでもってそれっきり行かない、とうとうどうもこうもならなくなった。
見るに見兼ねて、親切なやっぱりお医者さんが、同僚にあっさりしたのいるから紹介するといった。
「ふんじゃ彼岸終わってから。」
「そんなこといってちゃだめです、今度の月曜日。」
とうとう年貢の納め時ってなもんが、
「あいつどっか云って連絡つかねえ。」
と云って来た。
「ふーん変だぞ、天はやっぱりわしを見捨てるのか。」
うひひっ今日一日自由だぞ、どっかドライブ行ってこよ。
「そろそろ座禅しようかな、戦争反対、みなさんそうですわたしも大通りへ坐り込み。」というアジメールへの返事。
戦争反対
たわけたことを抜かすな。といってもわからんか、他山の石だな。イラク戦争だろうが馬鹿のブッシュだろうが、たとい人類絶滅も一坐の功の大には及ばず。これを知らねばそりゃしょうがないです。
らしい思い込みの付和雷同、真剣になるほどに嘘ということに気がつかない。
言を左右するだけのさ、そりゃ糠に釘だろうが、みな自分に返る他はない。
嘘という結局はブッシュのフセインの仲間。心のひだまでにせものは、瀬戸内晴美先生のテレビ演説ですかな。
「ブッシュの戦争も歴史に記すだろうが反対する平和運動も歴史に残る。」
という、これは仏教ではない、仏教のぶの字も知らぬ人の言だ、さっさと衣を脱げといったら世の中葬式坊主みんな脱ぐべしだが、だからといって多数決がすべてを制すでは、みんなで渡って赤信号、金成日と目くそ鼻くそです。
瀬戸内女史右代表式の結果が、そうなあオウムだの自殺系サイトですとは云わないまでも、たいていどっかがおかしい。
まあ百歩を譲っても、阿呆のアメリカ一局支配戦争と平和だという、たった今の風景という、いいかな、これにまったく関わらぬといったら違う、絶望的な世界だ、お先真っ暗になる、或いは心の根拠さへ失う、これを一瞬も免れてあることの出来る、というのが人の救いだ。いいことはいいからという世界から脱する。
これなくてはどうもこうもです。
仏教がなんの為にあるか。
出世間の方法です。
汚い手でさわらんで下さい。因にお釈迦さんは人類史という劫火に燃ゆるが如きを知って出家したです、戦争反対平和運動如き生温い手段ではない。
魔笛を聞いた
魔笛を聞いた、モーツアルト生誕250年祭ニューイヤーコンサートのぽんこつビデオ、あっちこっちすり切れてる、演奏も歌も中の下ってとこかな。パパゲーノはなんたってエーリッヒクンツ、あのカラヤン初演がよかったな。うふっイラク戦争もなんのその、人類悲惨も絶滅も、いいから勝手にやってたらって気になるぜ。
(魔笛で身を滅ぼした坊主)敬白ってとこか、とうとう頭剃ってまで生き長らえて、かつて十八歳で聞いた魔笛を、同じ死にそうに涙流す。ほんにだれかいたら小っ恥ずかしいって、別にもう恥ずかしいってもないか、泣いて涙のくわあって聞いているから笑っちまう。
人類これありゃ他なくっていいって思うのは、そりゃ仏道に反するよ、アッハッハ反したって屁の河童、なにさあ魔笛なけりゃあそこらへんの風景さ、現つを抜かしているって、別段どっちがどうってこたねえわさ。
魔笛のハイライトというとアリアかせいぜいがヂュエットでもって、しょっぱなの三重奏やパパゲーノの口の鍵外して歌う五重奏はない、とつぜん聞きたくなったりするのは第一番にこの二つなのにさ、そりゃアインメーツヘンオデルはなんたって白眉だけど、あいつパパゲーノが、わし歌ったほうがよっぽどいいや、もっとも千回聞いたって未だに歌詞覚えないというものすごさ。みんな踊り出す鈴の歌も絶品だし、シューベルトの野薔薇そっくりのもいい、あれ中学校の教材になってるっていった、そりゃ百害あって一利なしだってのにさ、こいつは人間を破壊する、これから勉強努力っていう若い心を骨抜きにする、ほんに文部省だの、まして芸術家に至るまで今様の人、ものがてんでわかっていない。
そうさなあこんな世の中ついぞなかった。
あやしげな宗教が流行るわけだ、そういえば魔笛の筋書きもオウムみたいろくでもない台本だ、モーツアルトはそいつを骨抜きにする。そうさなあ人間を骨抜きにしたんだ。
するとモーツアルトで人類史終わったんかな。
もっともすべての傑出した作品が、
「もうこれで終わり。」
と云ってるな、ものはそういうこったな、魔笛はきっとそやつにのしをつけた。
聞いてるほうものしを付けられ。
そうさなあ、そろっと人類が終わって別の世界が現出してもいいんな。
アメリカ人のブッシュ賛成派なと、近頃あんないやなもの見たこたねえな、選良主義という最低最悪の連中、キリスト教の産物かあな、トゥザハッピフューってあいつらも魔笛を聞くんか、
「ほんとうに聞けるんか。」
てめえ棚に上げる手段とて、仏教を利用する葬式坊主とか、醜いっちゃそいつも論外だが、アメリカハイソサイアティというの、これっくれいきっとみっともねえ代物ねえんだな。
うわっなんで魔笛がこんな話になるんだ。
ふん墓掃除でもしてこよ。
有心と無心
有心と無心の違い、これを本当に知るには無心を得ることが必要です、無心は得られないという、だから手放しでという、ありのまんまという、それじゃどうしたって有心から抜け出られないんです、だから、
「無心を得る。」
というんです。
大死一番というぶち抜くという、ただじゃあただが得られない、独特の工夫就中苦労があります、どうしたってこうしたってどうにもならんということあって、初めてハードルを超える、手放しとはそうしたものです。どうしたってこうしたって手放しにならん、むかしのたとえにあります、高い木に上って、足を放せという次には手を放せという、口で噛みついていると、下に人が通って仏を問う、さあどうするというんです。
「そんなとてつもない。」
むかしのたとえだからという、そうではないんです、これを通らないと得られないです、そりゃもう絶対得られんです。
座禅という一通りしかないんですよ。
だから座禅なんです。
1に座禅をしてみたいという人が来る、座禅をしてみたといって帰って行く、なにかいいことがあったかというと、あったよかったというより、なんにもないほうがいい。
2に座禅をしたら精神統一とか心が強くなるとか云ってやって来る、なんにもならなかったでしょうという、はいってね、なんにもならないのを知ったら、それが事始め。
3座禅をしてみたけれど、なにがなんだかわからないという、なにがなんだかわからない正解、と聞いたとたんにふわーっとなんにもなくなる。
なんにもなくならなくってもしばらく落ち着く。
世界宇宙ものみな一切わかろうとしなければもと解決済み。なんでこれをわかろうとするのか、あるいは人類の理解というどこまで行っても中途半端です。
4坐っていると妄想が出る、それを納めて妄想を少なくして行くという、かたくなな年よりを作るだけです、自分と妄想との二人三脚ですか、もとありえぬことをしようとする、あるいは満足しようとする、これを有心といいます、ついには戦争、いえ無理矢理の平和。
5うまく坐れたという、清々というこれを有心です。うまく行くもまずく行くも同じ、清々もでたらめも同じ、つまりそういって観察している自分があります、どこかで折り合いをつけよう、つけたいというそれは座禅でなく二分裂です。そうです、有心とは心の分裂状態なんです、それをなんとかしようとて、神あり正義あり道徳云々は、たといアメリカのようにオウムのようにまったくはた迷惑です。
6自分がまったくないのにものみなあるという、そうですよ、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、自分というものを感ずることができない、感ずるだけになってしまうと、無心なんですよ、でそれっきりです、透明人間は自分を透明人間と感ずる、それがないんです、ものみなだけ。こうなると座禅が座禅になるんですが、未だなをそういう自分を観察していたら、それは不可です、まだ有心なんです。心は心を知らない、一つきりなんですよ。
7なんとしても無心になってください、無心とは心がないんです、一つきり=観察不可能。如来とは来たる如し。
8花にあなたはだれですと聞いたら、知らないと答える、達磨の不識これ万物の基。
春は花
春は花夏ほととぎす秋紅葉冬雪降りて涼しかりける
という道元禅師傘松道詠と呼ばれる御歌があります、良寛さんがそっくりに作って、
「おらあがん。」
と云っているのが面白い、だれの作だっていいんです、たいてい詩歌の傑作は没個性というんですか、だれの作というより、こういうときにこう作ったという、たいてい他いらんです、だれかれみんなおらあがんというのが本筋です。
就中仏の歌はとやこう妄想を超える。だから面白いかというと、時にはどこが面白いんだといいたくなる、そうですねえ、でもほんとうの面白さがあるんです。
言行一致というんですか。二二が四というほど他なし、
よしあしの中を流るる清水かな
しゃば流を逸脱しています。
自殺してしまった川端康成がノーベル賞受賞講演に日本の心と題して、春は花のこの歌を引き合いにした。その内容を知らずともむべなるかなと思うんです。
春は花、花といえばさくらです、鳥はうぐいす時鳥、秋にはかりがねという、また紅葉という、雪降りて涼しいというところがわずかに禅味があるというんですか、では禅味なんかいらない、涼しいというこれわが人生です。
いいですか、これ写生の句じゃないんです、花はさくら、秋は紅葉という日本の心なんです、いわば一神教の能書きや哲学のト書きがないんです、
理想を追う共産主義がついには金正日の愚を侵さない。ただのありようです、写生の句の得手勝手じゃないです。
「花。」
といえば、いくつかの歌の傑作があり、加えて芭蕉の俳句があるんでしょう、
月は月花はむしの花ながら見るもののものになりにけるかな
松にあらず花にあらずということなし、その風景と心情が日本人そのものなんです。
日本人=日本の心です。
他にないんです、というのが極めてユニークです。
あれこれ花のありようや個人的いきさつではない、花のありよう個人的いきさつが一般化してはじめて日本の心なんです。
よく見れば薺花咲く垣根かな
といい出でて、はじめて薺が定着する、思いつきや哲学観念、神さまの前で平等だの選良意識の、今に見ていろの、ちらともあったらすでにして負けです、
つまらんです、卑小なんです。
短詩形の重層性、てにおはの命。
近頃英文俳句などやっている、いくら流行ったってただのでたらめです。ごみあくたにしかならない。
そうではないんです。
これを和というんです。厳然たる事実です。黄金の延べ板という叙情は、一般にふえんして初めて得られる。
ひとりよがりのたがを外れるんです。
一神教の独善にはないと云ってもいい。
良寛歌の植物群といって地元の高校生が図鑑を作ろうという、止めとけとわしは云った、「あっはっは決まりきった植物しかないよ。」 というわけです。
心を現わすのは思いつきでひょこっと拾って来たってなんにもならない。
最近歌の大会とかいってぶなの歌を作ったなにがしが一等になった、たしかにぶなの水を吸い上げる大河のようなという、そうです、たしかに力強くもあり写生句としては傑作に見える。
いかんせん歌になっていない。
力強く見えて、よく見れば薺花咲くのささやき声さへ聞こえない。
そこになにより気がつかねばならぬ。
「未だ心にあらず。」
ということをです。
たといぶなを使える大力量とは何か、ということです。
人みな心を忘れています。
どのように作ろうがまったくの閉塞社会。
歌はうったえる、見ず知らずの人さへ交歓、無上の心にうったえる、天皇家に献上の歌とは、古来天皇に身も心も一族あげて捧げつくす意だったです。どうだこうだおれあっちかれあっちじゃ歌にならんです。
春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける
天皇も人も消えて大自然だけがあるんでしょう、そうして涼しかりけるといって仏の足跡を見ようとすれば見られる。
宝鏡に臨んで形影相見るが如くです、汝これかれにあらず彼まさにこれ汝です。
他になんの真実もないことに気がついて下さい。
他にまったくないんですよ。
ここへ戻って一から出直したらいいです、 歌は万葉に完成しています、すると歌を読むとは同じものを作ってみるといい、なるほどこれが歌かと納得する。
人の感情とはこういうものかというんです。
しばらく見習うべきです。
ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば
やることやるっきりです、良寛さんのこの歌まさしく日本人の心なんです。
続妙好人
雨降って新緑さくらが散る、ちいっと冷た雨だけどぞっこんいいでえって、そのうちでっかい山桜咲く、今年の雪粘着して、だいぶあっちこっち痛んだけど、お寺はそうさ、おおむかしからそれが見もの。
温泉津温泉の妙好人続。
なんまんだぶつ才市という人、ついに葛藤これ仏を知る、今の人はただもう無常の河に浮かびっぱなし、流され漂うきりの、葛藤も鬼の角も、ぎゃあすかわめいて行き当たりばったり、てめえこっきりの、これじゃいったい人生じゃないよ。
角のあるのは私の心、
合掌させるは仏さま、
鬼が仏に抱かれて、
心柔き角も折れ、
火の車の因作っても、
咸消されてその上に、
歓喜心にみちみちる、
嬉し愧し今ここに、
蓮の台が待っている、
角を角と見る七転八倒があってこそ鬼あり仏あり合掌です、そこんところが欠如しちまってる、それじゃ心が成立しない、火の車の苦界に溺れて、たとい叫ぼうが叫びの声さへ、自分にさへ聞こえない、おっちでつんぼのおうおう呻いて永劫沈む、身の痛みさへ覚えぬこれなんの地獄ぞって、地獄にも入れて貰えない番外の無間。
自殺系サイトへどうぞ。
もっとも練炭火鉢抱えてこっそりじゃなく、カンボジアアフリカへ地雷撤去に行けばいい、三つぐらい退けりゃ確実に死ねる。
みんな消されてその上に、歓喜心に満ち満ちる、再生ともいうべき、苦悩塗炭の淵から蘇る、夢中の喜び、いいや生まれ本来の風を受けることができない。
それじゃ人間といえぬ、いいやこの地球上の生命とはいえぬ、壊死したかさぶただ、万物のお荷物、ウイルスに取っ付かれて死ね。
大慈大悲愍衆生たといお釈迦さん現れてもどうにもならんか。
絵に描いた餅の悟りだ仏歓喜だなと、そりゃ有心のオウムはた迷惑に持って行かれる、どうしようもねえったら、坊主どもどうしようもねえけど、
「へえ座禅流行るか、そんじゃ座禅。」
なんていう、葬式稼業別誂え作って、坊主の格好止めたらどうだって、世の中だいぶすっきりする。
恥もなんもなけりゃ嬉し愧しがわからない。近頃オバタリアンなんてものすごいね。
ただの物質に我欲って、ふうそんなもんありかよ。
テレビだデジタルなぞ糞食らえ自然=嬉し愧しなんだ。
草も木もそっぽ向きっぱなしの自然保護だ、タマちゃんだってさアホじゃねえか。
衆等至心帰命礼まさにこれ以外ないことを知る、これこと始め、これに至るまでをそう呼ぶならヒューマンといえ、北朝鮮帰国したのなでさすってなーんもならん日本人、やれ国連だってさ、そうゆうの人の面付しとらん。鏡見てみりゃいい。
そんなんアメリカから水爆拝借してキムイルソン居場所確かめて一発やれ、水爆なんか空母にいつだって積んでるさ、でもって、
「誤爆やった、申し訳ないあとの保障はする。」
といって米100俵でも送っとけ。
あらまあなんて話になった。
上げ法事説法
上げ法事といってお寺の本堂で年会回向をして、説法がある、たまには本尊さまと差し向かい、真っ正面です、よろしくよくご覧下さい、というわけです。
このお寺は戊申の役に丸焼けになりました、河合継之介と縁があり、官軍側が火を付けたという話です、どっちにしても相手方が盾篭ったら厄介だったです。そこの向こうの戸に銃弾の跡があります、なに穴が開いて、そこへ朱字で書き記すきりですがね。
また山門だけは焼けずに残りました。日本一の大きさという四天王は鎌倉時代の作ですが、今も山門にあります、五百羅漢はここ、須弥壇わきの、達磨さん大現さんといっしょにあります。もと山門にあったのを、村の子供らが遊び相手にもって行って、親に叱られて慌てて返す、返さなかったりなど、数が欠けたのを二度にわたってつぎたすようです。
本尊さまは、むかしのものが一基だけあって、本尊さまであったかどうか、他にまつってあったものか、平安時代まで遡れるということですが、立派なものです、そこにあります。けっかふざするお釈迦さまです。
本尊さまはお釈迦さん、両脇侍文殊普賢菩薩、向かって右獅子ですライオンに乗っているのが知恵第一等の文殊菩薩、左の白象に乗ってお るのが、行ない清ますこと第一等の普賢菩薩です。雨漏りがあって屋根の修復が間に合わず金箔が剥げました、塗り替えになって見てみましたら、小出の仏師の名がありました。明治の初めに有名な人だったらしいです、ちょっと越後人風のお釈迦さんですか、釈迦三尊といいます、禅宗のお寺では標準的です。
その前、下の段には羅漢さんが二つ、山門にあったものの代表のようです、あるいは作り替えたんです、修行の高僧という感じです。 兵隊の位でいうととは貼り絵の清君がいったんですが、羅漢さん菩薩さん観音さん如来さんの順ですか。
観音菩薩というんですから、およそ人間向上心あればみな菩薩ですか、自分を無にして他がため、人或いは宇宙ものみなの為という時菩薩です。でもそうですねえ、羅漢寺というのがあって、だれでも石を刻んで羅漢さんをこさえて、安置することができるという、それちょっと無理なんですよ。
普通の人どう逆立ちしたって羅漢さんにならんです。
ただの妄想まるけです、嘘なんです、自分というその嘘を石に刻むってそりゃみっともないんです。
そこに坐布と単蒲団があるでしょう、毎朝坐っています、坐りたいとき坐っています。なぜ坐るかというと、本当ということがある、偽りの自分を免れることができる。
たいてい坐ったって坐ったにならない。
坐になるまでの苦労があります。
羅漢果というのがあるんです。羅漢果を証してはじめて仏入門ですか、座禅が座禅になる、それまではどんなに坐たって、真似事嘘っことなんです。
ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば
という良寛さんの歌があります。これに付けて貞心尼が、
君なくば千たび万たびつけりとも十ずつ十を百と知らじおや
激しい口調で云っています、良寛さんが死んだらもうだれもいないというんです、たったまり一つがつけない、どんなについても他所っことばかりだというんです。
ものごと一つこと本当にできればまさにそれにて終わりです、ほんとうにできないからやれ戦争だ平和だいうんです、不満騒々しいそれを歴史といい世の中と云っています。
あるいは文化とも芸術とも云うんかも知れません。
羅漢果がわかりますか、人知を超えるんです、いったん自分を忘れ去るんです、もと生まれついての本当に帰る。ものごと一切お釣りのない生活のあることを知るんです。
だから五百羅漢一千大羅漢という、和そのものです、たといなにどうしようが、個々別々だろうが、目くそ半端も200%です、まさにこのようにあるっきりない、主義主張や理想だの信念だのによらんのです。
地球一切実にそういう世界なんですよ。
人間だけがとやこう理屈を付ける、理屈にしてやられている、その脳味噌をまだ卒業できてない。うそと無駄ばっかり。そう思いませんか。地球を平和にする=人間消滅という、たしかにそういうこってす、それじゃ人間たるもの、どうもこうもならんでしょう。
仏教の必要性です。
これを道としていそしむことを、まずもって菩薩行といい、観世音菩薩、観音さまは、一音ものみなみそなわすということです。音と一つことになってごらんなさい、世界まさにこのとおりあります、たとい世界のはての一音も掌するんです。暴れん坊の猿が、宇宙のはての五本柱にせいてんだいせいそんごくうと書いたら、これかといって観音さまが手を開く、その指に孫悟空と書いてあったんです。
どんな卑小も悪ったれもなに悩んだろうが観音さまのてのひらの辺、なに心配いらんです、通身帰依があるだけです、いっさい救われるんです。たとえようもないんです。
一番上の位は如来さん、釈迦如来阿弥陀如来という、むずかしいこたないです、如来に返り点を打ってごらんなさい、来たる如しです。他なーんにもないんです、おまえはだれだという、たいていの人、くわしくはCD一個分ほどの履歴云々もって、だからどうなんだと云えば、その回答はっきりしないんです。下らんですよ。達磨さんにおまえはだれだと聞いたら不識、知らんわいって答えたそうです、知らないんです、来たる如しなんです。
花のように知らないんです。
どうですか雀もたぬきも草木も空の雲も、たいていこの、知らない部類に入るんでしょう、人だけが知っているんです、知っている分嘘なんですよ、騒々しいは淋しいんです、いいですか仏教が何を云っているのかわかりますか、仏教という騒々しいものじゃない、「人間も人間をそろそろ卒業して。」
と云っているんです、脳味噌にしてやらてない、おれはとよこしまやってない、ただでいい、ありのまま本来です。文殊の知恵とはそうです卒業です、普賢さんの行ない清ます、かえりみないまりの一つき。
「地球ものみなのお仲間入り。」
しなさいってね。でないと地球が滅ぶ、もう遅いってことなかったはずだのにってね。
わかりますか、仏教というただ我と我が胸に手を当ててみりゃいいんです、ものみなに習うんです。
この世の真実は如来というこれっきゃないんです。
他まったくないことを知る、アッハッハこれを如来というんです。
蛇足しましょう、本尊さん須弥壇に至る丸柱があるでしょう、東序西序という、その柱の上にあうんのこまいぬさんというより、獅子が向かいあいとっついてるでしょう。
これたしかに戦火に焼けなかった鎌倉の彫刻のようです、すばらしいものです、法戦問答というすっかり猿芝居になった、獅子吼万歳、お釈迦さま成道の獅子吼です、帰依僧和合尊のこれが本来姿です。
自分という思い上がり、カス失せるとこうなるんです。
如来ライオンですよ宇宙ぜんたいです。うっふっふ住職というのは、この拝敷に坐ってもう一頭の獅子です。でないとさまにならんですな。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。