寿量品偈
妙法蓮華經如來壽量品第十六(法華経)
(みょうほうれんげきょう にょらいじゅりょうほんだいじゅうろく ほけきょう)
自我得佛來 所經諸劫數 無量百千萬 憶載阿僧祇
(じがとくぶつらい しょうきょうしょうこつしゅ むりょうひゃくせんまん おくさいあそぎ)
常説法教化 無數億衆生 令入於佛道 爾來無量劫
(じょうせつぽうきょうけ むしゅおくしゅじょう りょうにゅうおぶつどう にらいむりょうこう)
爲度衆生故 方便現涅槃 而實不滅度 常住此説法
(いどしゅじょうこ ほうべんげんねはん にじつふめつど じょうじゅうしせっぽう)
我常住於此 以諸神通力 令?倒衆生 雖近而不見
(がじょうじゅうおし いしょじんつうりき りょうてんどうしゅじょう すいごんにふけん)
衆見我滅度 廣供養舎利 咸皆懷戀慕 而生渇仰心
(しゅけんがめつど こうくようしゃり げんかいえれんぼ にしょうかつごうしん)
衆生既信伏 質直意柔? 一心欲見佛 不自惜身命
(しゅじょうきしんぶく しちじきいにゅうなん いっしんよくけんぶつ ふじしゃくしんみょう)
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
(じがぎゅうしゅそう くしゅつりょうじゅせん がじごしゅじょう じょうざいしふめつ)
以方便力故 現有滅不滅 餘國有衆生 恭敬信樂者
(いほうべんりきこ げんうめつふめつ よこくうしゅじょう くぎょうしんぎょうしゃ)
我復於彼中 爲説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
(がぶおひちゅう いせつむじょうほう にょとうふもんし たんにがめつど)
我見諸衆生 没在於苦海 故不爲現身 令其生渇仰
(がけんしょしゅじょう もつざいおくかい こふいげんしん りょうごしょうかつごう)
因其心戀慕 乃出爲説法 神通力如是 於阿僧祇劫
(いんごしんれんぼ ないしゅついせっぽう じんつうりきにょぜ おあそうぎこう)
常在靈鷲山 及餘諸住處 衆生見劫盡 大火所燒時
(じょうざいりょうじゅせん ぎゅうよしょじゅうしょ しゅじょうけんこうじん だいかしょしょうじ)
我此土安穩 天人常充滿 園林諸堂閣 種種寶莊嚴
(がしどあんのん てんにんじょうじゅうまん おんりんしょどうかく しゅじゅほうしょうごん)
寶樹多華果 衆生所遊樂 諸天?天鼓 常作衆伎樂
(ほうじゅたけか しゅじょうしょゆうらく しょてんきゃくてんく じょうさしゅぎがく)
雨曼陀羅華 散佛及大衆 我淨土不毀 而衆見燒盡
(うまんだらけ さんぶつぎゅうだいしゅ がじょうどふき にしゅけんしょうじん)
憂怖諸苦惱 如是悉充滿 是諸罪衆生 以惡業因縁
(うふしょくのう にょぜしつじゅうまん ぜしょざいしゅじょう いあくごういんねん)
過阿僧祇劫 不聞三寶名 諸有修功德 柔和質直者
(かあそうぎこう ふもんさんぽうみょう しょうしゅくどく にゅうわしちじきしゃ)
則皆見我身 在此而説法 或時爲此衆 説佛壽無量
(そくかいけんがしん ざいしにせっぽう わくじいししゅ せつぶつじゅむりょう)
久乃見佛者 爲説佛難値 我智力如是 慧光照無量
(くないけんぶつしゃ いせつふつなんち がちりきにょぜ えこうしょうむりょう)
壽命無數劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑
(じゅみょうむしゅこう くしゅごうしょとく にょとううちしゃ もっとししょうぎ)
當斷令永盡 佛語實不虚 如醫善方便 爲治狂子故
(とうだんりょうようじん ぶつごじつぷこ にょいぜんほうべん いじおうしこ)
實在而言死 無能説虚妄 我亦爲世父 救諸苦患者
(じつざいにごんし むのうせっこもう がやくいせぶ くしょくげんしゃ)
爲凡夫転倒 實在而言滅 以常見我故 而生?恣心
(いぼんぶてんどう じつざいにごんめつ いじょうけんがこ にしょうきょうししん)
放逸著五欲 堕於惡道中 我常知衆生 行道不行道
(ほういつじゃくごよく だあくどうちゅう がじょうちしゅじょう ぎょうどうふぎょうどう)
隨應所可度 爲説種種法 毎自作是念 以何令衆生
(ずいおうしょかど いせつしゅじゅほう まいじさぜねん いがりょうしゅじょう)
得入無上道 速成就佛身
(とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん)
我れ仏を得て自り来た、経たる所の諸の劫数は、無量百千万、億載阿僧祇。
劫も阿僧祇も数え切れないほどの、一0の五六乗などいう、四国くらいの岩に百年にいっぺん天人が降り立って、その衣にこすって岩が消滅するまでを一劫などと、落語にある五劫のすりきれですか。我れ仏を得てより、ここに来たる、現前するというんですか、現れ来て無量の時を経る、百千万億阿僧祇劫というんです。それでも時を経過するという感慨があるから面白いです、如来来たる如しの仏です、仏を得るとはどういうことですか。自分というわたくしという架空、面の皮を破り去る。もと自分のものではないのにわたくしする、そのよこしまを返上するんです、するともと仏です。気が付いたら如来であった、無量阿僧祇劫行なわれていた仏如来であったというんです。たまたまなんの因果か、須臾のひまを、人間といい、なんのだれがしという仮の姿をしておった、たった今元に立ち返ったというのです。如来があって他なんにもない世界です、はいこれが仏教の根幹です。
常に説法して無数億の衆生を教化して、仏道に入ら令しむ、爾しより来た無量劫なり。
如来わたくしなし、来たる如し花のようにぽっかりと開くんです。自分が自分に首を突っ込む無様をしない、省みるに我れなし、すなわち省みるなし、すべては為人の所、常に説法して無数億の衆生を教化して、仏の道に入らしむ、無量劫行なわれるんです。雪月花常説法教化です、無数億の衆生仏道に入る他にはなし、これを尽大地といい日月といい宇宙といい地球というんです、我らがありようこれ、存在といい生き甲斐という、まさに他にはなし。
衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず。而かも実には滅度せず、常に此に住して法を説く。
衆生済度の法は、涅槃に入るをもってす、涅槃といって別に特別なものではないのです、妄想我欲の故に、本来に帰ることを知らず、自我というよこしまの故に、仏の姿を見ず、無心という、もと心のないありようを夢にだも見ず、この故に方便をもって涅槃を示す、涅槃を現ずるんです。如来来たる如しの実際です、他にはこれっぱかしもないんです、他の思想宗教等の言い訳申し訳の余計、いたずらが微塵もないんです、実にこれを如来というんです。花は花に似て、花のようにあるんです、ものみなかくの如く、だれあって如来を現ずることは、いたずらをなくす、もとあるがようの赤裸々の故にです、付け足すことのない本来心です。無心、心がないんです、知る能わず、無覚の覚です。それ故に如来滅後という、たといお釈迦さまが遷化する、涅槃という浮き世を去るに及んでも、実には滅度せず、常にここに住して法を説くんです、渓声山色わが釈迦牟尼仏の声と姿と、まさに宗門の示すところこれです。
我れ常に此に住すれども、諸の神通力を以て、顛倒の衆生をして、近しと雖も見えざる衆、我が滅度を見て、広く舎利を供養して、咸く皆恋慕を懐きて、而かも渇仰の心を生ず。
我れ常に此に住すれどもとは、如来現前しているんです、宇宙ものみな森羅万象、獅子吼して、我れと有情と同時成道は、常に正に起こっています。己れだけが外れてわずかに異論を呈す、せっかく無心であり涅槃でありする平和に齟齬を来す。諸の神通力をもってという、人間ものみなの機用、神変不可思議です。固定化し滞るなければ、怠慢でありふしだらであり思想の酒に囚われ、宗教の独り善がりに振り回されることなければ、己れ本来人に帰る他なく、神通力とはすなわち本当に復帰する力を示す。顛倒の衆生とは、主客転倒事です、軒を貸して母家を取られる、思想妄想という見たふう聞いたふうの客に、ひっかきまわされて、実の思いがお留守になるんです。近き悟りを現わす、これを無作の功徳とす、無為の功徳とすと、十方法界の土地草木牆壁瓦礫みな仏事を為す以外にないというのに、見れども見えず、会えども会えず、すなわち顛倒夢想の故にです。かつて方便により如来滅す、如来滅度を見て、広く舎利を供養しと、仏舎利お釈迦さまのお骨を、塔を立てて祀り、これを供養し、たとい再来を願う。末世に再来して一花五葉の春を現ずと、どんげ再び花開くことを念ず。咸く皆恋慕を懐きて、しかも渇仰の心を生ず。如来現ずれば、まさにここにあり、如来滅すれば恋慕し渇仰す、はいこれをのみ世間であり人生です、日月星辰であり自然です。いえあなた一箇の問題でよろしいんです、如来を自覚し実にこれに住す、如来失せれば帰心矢の如しです、いても立ってもいられんです。本来人、他に別にあるはずがないんです、なによりも己れ自身が痛切にこれを知る。
衆生既に信伏し、質直にして意柔軟に、一心に仏を見奉らんと欲して、自ら身命を惜しまざれば、時に我れ及び衆僧、倶に霊鷲山を出ず。
そうですねえ、今の人どうにもこうにもっていう所があります、自分というなにがなしかを眺め暮らすんでしょう、悟ることがあった、修行した、よくなった云々、アチャチャさんという人の言い草にまったくよく出ています。眺められている自分の是非善悪じゃない、眺めているほうの自分の問題です。二分裂ですか、もうないはずのものを見ているんです、実は世間一般たいていそうやってます、これ仏の道じゃないです。自分をなにがしかに見立てて立派にしようという、醜悪というより架空現象です、いくらいじりまわしたとて幼稚園自堕落を、仏法という知ったか振りによって弁護しようという、こりゃまあ罰当たり。もと仏法も仏教もないんです、彼岸に渡るパ-ラミ-タ-、自分というよこしまを去る、自分という此岸から、自分のない彼岸へ、心経にあるこれだけが仏の希求です。それを履き違えて、仏らしいものを形作る、いかにも無心だといい、如来来たる如しという、猿の月影を追うほどに、だんだんよくなる法華の太鼓ですか、自他ともにこれ手前味噌。本当を云えば目くじら立てて怒るばかり。ながらく模造と習って真龍を怪しむことなかれと、求める心が違うんです。あるいはいいかげんな師に就いて妄想そのまんま可としたんですか、尾ひれを振るのもどうしようもないんです。渇仰の心が希薄なんですか。他にひけらかすものあればそれでよしとする、ふしだらどうしようもなさ。中高年というこういう連中には見飽きるほどに、転ばぬ先の杖を仏法だと思い込む、安楽椅子に座ってふんぞり返っている、取り去ろう、ひっぺがそうとすると大騒ぎだ、おろかな。足なえになる、自分で自分の首を締めていることに気がつかない。成長点の止まった葦です。そうじゃない仏なんにもなしは、赤貧洗うが如くというも百歩遅いんです、いてもたってもいられないというほうが正しい。赤ん坊の成長点を露はにするのが仏法です。三世の諸仏知らず、狸奴白虎却って是を知ると、仏はなんにも知らないです、ゆえに一目瞭然なんです、どんなに言い繕おうと無駄です、よくよくこのことを知って下さい。若い人はまた、おむつを取り替えられながら文句百万だらですか、思想概念を徘徊して思想概念の何たるかも弁えず、否定も肯定もまったくの無意味。てめえの足で歩いたためしもない。渇仰心もなけりゃ、信伏する智慧もなし。質直なんていう言葉我が辞書にないんですか、すなわち意柔軟とはそりゃもう遠くて遠いんです、こりゃ仏教以前の問題です。仏教を云う人初心も、二三十年の古参も、異口同音におれはいいんだ、だからと云うのが聞こえてくる、此岸の服装を塩梅するだけの、ただもうあほらしさ。一心に仏を見奉らんと欲して、身命を惜しまず、ただこれだけが仏の道なんです、仏教も仏法ももとそんなものはないんです、ないものを身に就けてひけらかす、まったくのナンセンスです、身命をなげうって下さい、かつがつに仏が見え、実に如来現ずるにあい会う。
我れ時に衆生に語らん、常に此に在りて不滅なれども、方便力を以ての故に、滅と不滅と有ることを現ず。
如来の声を聞く、自分というよこしま知ったか振りが消えるんです、自己を謀って仏らしいものを作る、若しや幸福で実りあるものにみえる、奪い取られ消えることは、不幸で淋しいんですか、だからアチャチャさんのように、積み重ねしまいにはゴ-ルがあると夢見る。現状弁護から一歩も出ない、それじゃ仏もへったくれもない、多数決の世界ですか。常に此に在りて不滅なり、ものみな不変です、自我の思慮りによらんです、心理学や思想宗教の延長上にはない、衆生に語らんと、そういうものをまったく離れるときに、実に如来の声を聞く、我れ語るか、草木が呼ぶか、実の声を聞く驚天動地、我でないものが語るんです、方便力によりて滅と不滅と有ることを示すと。何が故に、ただただ心意識、おのれもて心を運ぶが故に滅あり、心の失せる、おのれというよこしまの消えるに従い不滅ありを知る、実にはっきりしています。個人に於ても集団に於ても同じです、わずかに坐って涅槃に入る、涅槃に入るとき無我です、心意識なければ、涅槃を知ることはできないんです。悟入し悟出し、我と有情と同時成道を見る、直に滅と不滅とあることを知るんです。如来現ずるとき如来を知らず、如来滅するとき如来を見ず、三千世界というんですか、この世浮き世も人生も、その意味とは如来滅し如来不滅というこれ以外にない、これを知る仏教です。知るとは第三者を介さないんです、自分はこうなった、こうだからという言い草は嘘です。仏教を学問したといノウハウも不可能です、滅と不滅を知る、ただこれ以外にないことをよくよく知って下さい、でなけりゃ世界まったくナンセンスです、無知蒙昧これ。匙を投げるっきゃないです。
余国に衆生の恭敬し信楽する者あらば、我復た彼の中に於て、為に無上の法を説く。
たといどこにあったとて、恭敬し信楽、そうです無理矢理信ずるのでなく、信じる者は救われるというお為ごかしじゃないんです、無上楽です、本来人のありよう楽しく、歓喜に満ちて、独立独歩すなわちそのもの自身です、如来を敬い恭うするもの、来たる如しのこれは森羅万象です、宇宙世界全体がまさしく、我が辺に現ずるんです。彼の中に於て無上の法を説くと、見よ見よものみなかくの如く、他にはまったくなしと見る、自ずからに知る他はなく、如来たとい滅と不滅とありといえども、常に此に住すと、常にこの中にあって、たとい気が付かずとも大海の波なお証せずんば現れずと、一心欲見仏です。仏だからそれでいいという俗流ではまったく不可、ただちに真正面する唯一心です。これは無心です、これなくんば右往左往、ただいたずらに騒がしく付和雷同です、自分のありようを主張するだけです、人間というたとい戦争の原因にしかならんです。無上の法とはなにか、よこしまにしないんです、自ら規矩を律することなかれと、おのれの取り柄がまったくないんです。以無所得の故にボウジサットバ修菩薩行です、パ-ラミ-タ-彼岸にわたる実智慧です。証拠することをのみ、如来の意志です、仏の本来です。おのれなければ現ずる、為に無上の法を説く。
汝等これを聞かずして、但だ我滅度すと謂えり、我諸の衆生を見るに、没みて苦海に在るが故に、為に身を現さず、其をして渇仰を生ぜしむ。
いくら云ってもさっぱり聞こえぬ、自分というなにがなしを持って頭がいっぱいなんです、さっぱり入って行かない、却って如来を説き伏せようとする、まったく滑稽です。おれはこうだからこうあるべきという、ただこれもって突っ走る、そりゃどうしようもないです、意識の退廃ですか、多数決をもって一般となし、心理となす、見るべきものもない、一般に外れることが恐ろしいんですか。渇仰の心を生ずるよりも、自分という最大多数を敷延する、ただそうするっきりなのに、これを求道心と履き違え、仏教らしい知識に振り回されて、知ったか振りを仏智慧と勘違いし、却ってもって踏ん反り返る、それがまた異口同音にそうです。如来の出る幕はないです、引っ込むよりない、如来の声を聞く一人二人、ただ一人二人のみこれを習うより仕方がないんですか、だったらそうします。如来は為に身を現わさず、苦海になげうったままにして、渇仰を生ぜしむ、時は未だ。空前の坐禅ブ-ムだと云いながら、真実を求める人皆無、らしいようなあるいは健康など、心意識思想の整頓など、心をまたおのれを物とみて、いいアクセサリ-を求め、またはブランド品なんですか。坐禅を指導する人がいない、知る者がいない、でたらめどめくらです。とつぜん真龍ですか。如来を見ては猛然拒絶する、もっての他だ、常識の平和安穏に反する、罪悪だと云う、だって方寸に会わないではないか。いえさ、おれはえらいんだから云うことを聞け、あっはっはまったくそんなふうの、こりゃ説得不可能。掲示板の始めのころはまだなんとかなったですか、今はどん底です、では時が来たか、はあてね。
其の心恋慕するに因り、乃ち出て為に法を説く、神通の力是の如し。
恋慕するによりという、平面蛙の常識まっ平らから、一歩抜け出ようとする心ですか、これではどうにもならないと知る、安穏に暮らして一朝事あるとめちゃんこになるのが常識人です、めちゃんこになるなどしごく一般的です、そういう人が来てなんとかしてくれという、一日半日するとたいてい解決します。そうかといって満面に喜びを浮かべ、ぶち抜いて笑う、もっとも自分の問題かぎりのそれっきりということあります。これに反して知識を持ち、仏はこうあってだからどうのという人はなかなか行かない、十年二十年なんにもならずに、修行が進んだなど云っている。今の人仏教らしいなにがなしもって、それで自分自堕落を弁護しひけらかす、いいかげんだらしなさです。やっぱり臨済ふうの公案がいいですか、無字を得て来い、隻手妙音ですか、手に持った茶碗の中にころっと入ってみよという。入ったってなんにもならんというのは、そういう自分を見ている、つまり本当に入ってないんです、しかりなんにもならぬこれ本来、雨滴声あり、汝これ彼にあらず彼まさにこれ汝。理解ではどうにもならぬ、破家散宅をもって初めて見るんです、非思量底思いの他の事実です。たった一通りしかない如来の声です、汝聞かんと要すやと、これ卒啄同時学人と師家の問題です、師家も本当のことを知らなけりゃ学人も学人ならず、百方まさに恋慕の心届かず、渇仰心という夢にだも見ず、如来未だ現れずですか。いえ渇仰心あれば常に現ず、恋慕の心あれば必ず声を聞く。云い訳申し訳から離れて、必然まっしぐらです、即成就仏身、もと仏を知るとは成仏しなけりゃ知られんです。今の人理屈をもってして、成仏なというは絵空事です。如来の神通も遠くて遠し。
阿僧祇劫に於て、常に霊鷲山及び余の諸の住処にあり、衆生は劫尽きて大火に焼かるると見る時も、我此の地は安穏にして、天人常に充満せり。
如来不滅は、自然という人間に対して用いるのではなく、ものみなのありようです、もっとも我らもその中にあり、免れず。物理学の法則は、観察者を用いて、たとい正確無比といえども、真相じゃないんです。真相はもとこのように行なわれて、因果歴然です、寸毫もゆるがせにできんです。如来の一言覆するべからずという、大それたとんでもないことを想像すんでしょう、それは如来という噂です、仏という知ったかぶりです。知識の糞詰まりを起こして、にっちもさっちも行かぬ世代を、智慧ある人は脱け出そうとする、こうではないはずと知る、智慧の見えぬ人はなおさら知識をもってする、多数決ことなかれ主義、試験にいい成績を取る以外に方法がない、如来仏をそしるものこれ。仏とは何か、ほどけば仏です、自分=世間体ですか、自縄自縛するがんじがらめの縄を解く、ほどき終わればもと仏。如来来たる如し、花も草も月も水も如来です、人間以外みな如来。人間も如来としてこの世に現ずるのに、どういうわけか遠ざかる、思想分別というそれなければ社会生活が不可能にしろ、思想分別という不完全をもって如来を損なう、不幸の原因です。赤ん坊は王様ですか、にっこり笑うと百花開くんでしょう、もう一度そこに立ち返ることが就中出来ないでいる。今如来の方便力によってこれを示す、智慧のりんごのたとえやプシケ-のような、西欧文明にも同じたとえがあります、でも本来の解決を欠く。信仰に導いたとて、アラブとユダヤとキリストの兄弟喧嘩ですか、ついには共産主義の横着千万です、現実を見ない、そうではないんです。花や草木や鳥やけものや、山川瓦礫やものみなと、我らほんとうに一つことになる。他には帰る処がないと知る、単純を示すこれ禅です、人の宗教や思想によらぬたった一つです、狭義も広義もない、そんなややこしいこっちゃないんです。もう一度生まれ本来に戻って下さい、生まれる以前に、形あるものは必ず滅す、如来無心、衆生は劫尽きて大火に焼かれるとも、有史以来もさまざまなことがあった、でも如来同じ、安穏にして天人常充満、それゆえに誰彼手を伸ばせば届く、必ず救いがあったです。なにただあるがようにもどればよい、為には思想観念の我田引水、よこしまを去ること、思いの他の事実です。非思量底如何が思量せん、人を苦しめるものは思想分別なんです。主客転倒です、もと母屋ですよ、こっちが主です、思想観念は出入り自由、自縄自縛の不可能なおのれを知って下さい。
園林諸の堂閣は、種々の宝をもって荘厳し、宝樹には花果多くして、衆生の遊楽する所なり、諸天天鼓を撃ちて、常に諸の伎楽を作し、曼陀羅華を雨ふらして、仏及び大衆に散ず。
これは如来たとえば霊鷲山の住所の様子ですが、いまこの南閻浮台ですか、浮き世娑婆のの如来は如何、はい同じです。大死一番大活現成という、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありというんでしょう、わずかに個の頸梏がんじがらめを離れて、すなわち個、自分というものを解き放たれるんです、身心脱落です、元の木阿弥脱落せる身心底です。空じきるという無心、心のないありようです、すると見るもの聞くもの、まさにこのように美しく筆舌に尽くせぬふうです。水を掬すれば月掌に有り、花を拈ずれば香衣に満つ、なんの変哲もないただの風景です、月を仰いで忘我の良寛さんのように、ただの風景に100%いいえ200%暮らし尽くすんです。ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば。君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじをや。本当本来人の夢にも見ないところです。これさまざまに境地を云い、悟りを云い、仏教を百まんだらする人、かつてまったく届かないんです。坐って坐って坐り抜く、悟入し悟出する、涅槃ニ-ルバ-ナという、無覚の覚です、忘我してまた気がつく、どちらも箇のありようなんですが、自分を眺めていて二分裂しながら、どのみち仏だからという言い訳はなんにもならんです、不惜身命してそれを去るが修行です。そんな人だらけなんですが、そりゃ仏教以前です、しかも仏教というもとありっこないものを振り回す、はなはだ傍迷惑です、なにあったとて俗人俗物の自己弁護だけです、それじゃさっぱり面白くないんです。忘我あり忘我より出ずるありして、天人常充満です、園林諸堂閣を知る、すばらしいという脇見運転なんかないんです、まことにもって世界宇宙他にはなし、人類史も平和博愛もただの嘘っぱちです。宝樹多花果、衆生諸遊楽、以無所得の故にボ-ディサットバ修菩薩行はまさにこの道を行くんです。わしらは強制的に座禅しないです、なにあったとて坐だけは忘れない、たとい旅にあろうがです。それは坐のみが生活の本来だからです、喜びのこれに尽きるはなし、三百代言らしいことを云ってひけらかし知ったかぶりの人は、これが一目瞭然事を得て下さい、つまらんこってすよ。他人の思惑なんか二の次三の次です、如来仏のまわりには宝樹多花果、衆生諸遊楽、人みな寄って来ます、鳥もけものもですよ。諸天の天鼓を撃つ、曼陀羅花を雨降らす、とやこうは云わんです、実にこれを味わって下さい。三つの子供の智慧さえあれば存分に足ります、思想宗教などなんにもいらんです、資格を得るには勉強すりゃいい、ゼニを得るんならノウハウを知ればいい、用いるべきは用いりゃいい、でもたいていなんもかもうるさったいだけですか、ましてやありもしない仏教の噂など。
我浄土は毀れざれども、而かも衆生は焼け尽きて、有怖と苦悩是の如く、悉く充満せりと見る、是の諸の罪の衆生は、悪業の因縁を以て、阿僧祇劫を過ぎれども、三宝の名を聞かず。
我が浄土は毀れざれども、衆生は焼け落ちてという、末法の世だからというご都合主義曖昧じゃないんです、如来なければ焼け落ちる如くどん底です、仏なければ無明黒闇です、救いがまったくないんです、心してこれを知るべきです。キリスト教は邪教だというと百人が百人ブ-イングです、なぜかというと多数が信じて、二千年来続き、文化を持ち云々という、ではエジプト四千年の宗教を信ずるか、ミイラになるか、長かろうが多数決だろうが間違いは間違い、無明は無明なんです。まあそんなこと云えば切りがないんですが、要するに自分で確かめりゃいいんです、クリシュナムルティがいかに聖者に見えようが、ろくなことはない。オペラ歌手のようなインドの聖者ども、いかにも修行したらしいとんだ食わせものです、無心ではない有心だ。人の噂歴史の右往左往によらぬ、たった一つ自分自身の心です、おのれの目、いえおのれの通身もって確かめること、他になんの方法もないです。仏なければ無明の闇、なにをしてもなんにもならないんです。目に一丁字もない男があった、百姓であったが、お釈迦さまの我れと有情と同時成道ということを聞き、なんとしてもこれを得たかった。ついに中国にわたって正師を得る、正師これまっすぐな人には見えるんです、父に出会うが如くです、他にはないと知る。師は彼の手をとって掌に丁の字を書いて、これと示した、四年後についに丁の字に成り切るんです、ついに大法を得て帰る、仙台にある大きなお寺の開祖さんの話です。いいですか、仏教でなければこんなことはないです、必ず手続きいわく因縁がある、一器の水が一器に余す所なくなどいう、ややこしいいきさつが必要です。如来仏の法は拈花微笑です。なにを余計なことをと、大迦葉はくすっと笑ったんでしょう、これをご覧になってお釈迦さまが、八万四千の大衆右往左往を、我れに正法眼蔵涅槃妙心の術あり、挙げて迦葉に付囑すといって、仏法が今に伝わったんです。なぜか、人の作り物じゃないからです。だれであっても自分というわがままよこしまを忘れ去れば、本来を本当に継ぐことができます。今この法が絶えた、わがままひとりよがりだけです、憂怖と諸の苦悩かくの如く、ことごとくこれ充満するんです、無明とは寸毫の明かりも見えない。明かりと見えるのはすべてまやかしです、殺し文句とお為ごかしの、妄念の盥回しです、無為の徒のあげつらいする、騒々しく淋しく、なにものをも生まぬ。どうですか今の世はこれ、三宝の名を聞かずと、いいえ正師に出会うています。
諸の有ゆる功徳を修し、柔和質直なる者は、則ち皆我身、此に在りて而も法を説くと見る。
ものごとを別け隔てなく見るということは、あるいは次第に難しくなっているのかも知れぬ、かたくなで偏って見る、思考力の欠如乃至は停止、文章が書けないなど、0×式知識とかなにかそんなふうです。そりゃ教育の欠陥もある、とても柔和質直とはいかぬ、国語教育など明治以来間違いっぱなし、大学教授という文学方面はどうも素人目にも、嘘ばっかりのてんぷら知識。どうなっているのか、地位に付くことが困難過ぎるのか、むかしから大学というろくでもないものなのか、なにしろさっぱり信用ができない。常識というにも浅薄で、みんな仲良く平和式の、そうねえ火中の栗を拾うような人がいないんですか、学芸員風の文化なんですか、ものみな命を賭けなければ得られぬという、重要さ、抜き差しならぬということが失われ、自分を棚の上に置いて、なにしろ字面だけはらしく立派なことを云う、つまらないビ-ルの泡のような。デジタル社会ですか、すると仏如来の説は遠くて遠いんですか、ですが空前の坐禅ブ-ムだという、ほんとうかどうかよくわからない、なにかしら今様の欠陥に気がつくのか、あるいは坐禅という今様欠陥なのか、はあてそんなことを云うつもりはなかったんだが、質直柔軟ということを、へそ下に手を置いてよくよく考えてみるのにいいです。ちょっと世の中から離れて見るゆとりですか、モ-ツアルトもバッハもベ-ト-
ベンもしばらく聞いて、はてそうだったんかと思うほどに、なにか本当には演奏されなくなっている、時代の推移というには淋しいかぎりの。ヘルマンヘッセのフェユトン時代三百年ですか、するとますます頼りなく、ガラス玉演技のバックボ-ンは禅僧ですが、たといお話にしてももう三百年待つんですか、あっはっはわしはあと十年ほどか、とうてい待っちゃいられんです。坐禅は人為によらぬ、時代にも文明にもよらぬ、ただ一箇実にこれをなせばよい、他なし、風の谷のナウシカだって、ミイラではない禅僧に出会うはず。
或いは時に此の衆の為に、仏寿は無量なりと説き、久しくして乃ち仏を見る者は、為に仏に値ひ難しと説く。
もとあるものに出会うのに難値難偶という、そりゃそういうことなんです、もと仏です、なんにもせずとも仏、だからおれはいいんだと、いくら決め込んでみても傍迷惑、淋しくうるさったいだけです、それをしも知識で塗固する、まあなにしろそういうのから脱して下さい。難値難偶はみな自分勝手よこしまのせいです、悟ったといっては、だからなにしてもいいんだという、ほんとうに困ります。あるとき接心に妄想煩瑣、これをなんとかしようとて闇雲に坐ったです、なんとかしよう、納めようなくそうとすればするほどに、妄想煩瑣です、そりゃ当然です、やってるやつが妄想です。なにしろ真っ黒けになってやっていた、四日間ぶっとうしてにっちもさっちも行かぬ、体力の限界、もうどうにでもなれと抛った。とたんにふわ-っとなんにもなくなる、すか-んとないんです、こりゃどうしたって、わずかに念を取り扱う念がなくなったんです。妄想が失せたんじゃない、心意識、念というものが失せればそりゃ脳死です、ぽっと出ぽっと消える所をそのまんまにしておく、雑草は引き抜いたら石の上にという、只管打坐の法が身に付いたんですか。実に妄想観念という、妄想観念もと我がものにあらず、ほっと浮かぶさえ我がことじゃない、こっちの責任じゃない、妄想という世間=自分ですか、心という器に去来する客です。もてなし終わったらさよならすりゃいい、不要なら手を付けなければいい。どうですか、これが出来たら、正しく救いでしょう、悩みとは何か、幽霊に取り付かれるんです。ぽっと出てもはやないものにしがみつく、だからどうだとやる、一日中やっているような気がしたりすると立派な心身症です。人はあるものには悩まない、ないもの、あるかないかわからないものにしてやられるんです、実の手応えがないからです。無心これ如来です、心は一つこと、真正面に向かい合うんですか、するとないんです、森羅万象鳥もけものも雪月花も無心でしょう、如来来たる如しです。あなただけがなぜ食み出して右往左往、まったくの余計ごとではないかと、はいまったくそういうことなんです。
我が智力是くの如し、慧光照らすこと無量にして、寿命無数劫なり、久しく業を修して得る所なり、汝等智有らん者、此に於て疑を生ずること勿れ。
業という、人また人類のなすことこれです、最後の審判というそりゃご都合主義です、神というしばらく人間に似せたようなものはないです、これあればかれあり、因果歴然の他になし、取り付く島もなし、標準というもとおのれの他になし、よこしまにするか否かです。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。従身口意所生です、われというもとないものを私するによる、自分という痛い痒い、怒る貪る大馬鹿です、囘互と不囘互と会して更にあいわたるんですか、どうしようもこうしようもない、五蘊こんぐらがりコングロマリットですか。それも自分という一個というよりは先祖累代、あるいは周囲村社会など複雑怪奇です。善根山上一微塵も積むべし、生生世世を尽くして清々たるべし、成仏に向かって無駄な時を過ごすな、やっと今始まったばかりだ、さあしっかり坐れ、不惜身命だと云われて、どうもこうも悪がきたれの、生まれ卑しいいいかげんです、わしみたいなもの、いくら善根をほどこそうが、たとい百年坐ろうが、悟りはおろか仏の道は遠くて遠い、ほんにそう思ったことあったです。こんなのが救われるのか、なにぽっと出ぽっと消える、ほんのこれっから先と、老師は爪の先を示す、そうかとわしはまったく重石が取れたです。たといほんとうに仏にならずとも、こりゃなんとかなる、気が付くことさえ出来たらと。いえ因業ですか、性悪餓鬼のなかなか気がつかぬ、兄弟子の施設するのを聞いて、いったん開けてもじき閉じる。いくたび見性底あってもどうも落着せんです、坐りゃじき妄想ですか、ようしというんで、習い覚え持てる知識のすべてを只管打坐の俎板の上に載せた。逐一に抹殺して行った、そんなことをせずともと老師は云った、抹殺というんではなく透過ですか、なんの影響も受けなくなる。二年間やっていた、すると押しても引いてもなんにも出なくなった、ゲ-テだカフカだリルケなど文学、ピカソやセザンヌの近代絵画ですか、青春時代命を賭けたものがみんな邪魔です、破れ惚けて透明人間になりたかった、死ぬよりは出家ということだった。それは人間だというスフィンクスの謎について、老師に聞いたことがある、未だなんの謎も解いてはいないという答えだった。救いであった。これは個人的ないきさつです。わしは高校を中退した兄弟子と二人で住んでいた、彼に議論をふっかける、ことごとく負けた、如来の久しく業を修することかくの如し、学生やくざのはるかに及ぶ所ではなく、そうしていくぶんか智を取り戻す、参禅という、単純に間に合う。でも一番後にまで残ったのは、モ-ツアルトだった、彼が影響を脱する、出入り自由になるまでに二十年かかった、人をたぶらかす為の悪魔の発明、彼は人を虜にし、お釈迦さまは解き放つ、モ-ツアルトは就中心の友です。
当に断じて永く尽くさしむべし、仏語は実にして虚ならず、
仏の教えしか真実はなく、仏の導きしか救いはないということを、修すれば修するほどに見る、証すれば証するほどに知るんです。見るとは固定観念じゃない、見るほどに開けるんですか、たいていの知識観念は、知るほどに滞り、見るほどに蓋をするんです、知識の切り売りという思考停止、威張ってふんぞりかえるよりない。俗物狸奴白虎の類を生む、自然破壊し無駄遣いし、優雅さを欠く、まったくおもしろくないです。安心立命という転ばぬ先の杖、自分だけが得をしようという、どこまで行っても幼稚園です。そうじゃないんです、修すれば修する程に無一物、首くくる縄もなし年の暮れというほどに、そりゃなんにもない空っけつです=人間またものみなです、なんにもないから知識も優雅も美しさも喜びも完全するんです。たいてい何を説いたって聞く耳持たぬ連中、じっと我慢していて、てめえの番が来たらとくとくとして説きまくる、卑しい大人というよりただの老化現象ですか。仏教のぶの字も知らんくせに仏教の権威という、いえ仏教のみならず万端にわたってそういうことをしている。生きてないんです、かさぶたですか、臭い膿ぐらいしかてめえの取り柄がない、どうしようもこうしようもないです、恥知らずのみっともなさ、そんな人にはならんことです。仏とはなにか、赤ん坊のまっさらですよ、尽くすとはこれを長長出させることです、仏を説いて人に嫌われる人、そんなばかなことないです。花のよに開き、雲のように浮んで下さい、如来来たる如し、これを現ずる他になし、わかりますか。
医の善き方便を以て、狂子を治せんが為の故に、実に在れども而かも死すと言うに、能く虚妄なりと説くもの無きが如し。
狂子を医やす方便という、自らことを運んで万物を証せんとする、これを狂子という、万物進みて自らを証するを平静という、健康というんです、ここをよくよく考えて下さい。天才だの独創だのいう、実は本当を知る、もとのありように至るか否かということです、手前勝手のいたずらじゃないんです。悟りに入ることはたった一つです、自己という余計ものを去る、よこしま独り善がりを免れるんです、パ-ラミ-タ-彼岸にわたる道です。それ故に正師は奪い、邪師は付け加えるという、正師はこれと云い、邪師はあれと云う、あれという嘘です、自分という思い上がりに住んでいるだれかれ、端的にその非を知る、打ち砕く以外にないです。道元禅師がついに大法を得る、侍者が云うんです、なんで外国人が大法を得ると、あいつもずいぶん叩かれたからなあと如浄禅師の答えです。朝打三千暮打八百というこれ参禅の方法です、ちらとも如来を見る、かくあるべしこの方向というんでしょう、しかも如来は見えず、ありとも思えぬのです。悟ったといえば却って遠く、悟らずといえばなおさら遠く、あるいは十年二十年して、どうにも未だしということがある、しかも如来実に在りと示す、あるいは而かも死すと言う、能く虚妄なりと説くもの無きが如くとは、まさにこれ七転八倒する求道者の実感です。狂子のまんまに右往左往する連中とは無縁です、いつのまにやら仏教のなにがなし、狐たぬきの類になって、世の中かき濁して、省みるさえなしに棺桶に入る、何度生まれ変わってもそれしきでは、そりゃまったくに情けないかぎりです。叩き甲斐もないんですか。
我も亦世の父と為り、諸の苦患を救う者なり、凡夫の顛倒せるを為て、実には在れども而かも滅すると言う。
父に出会うとはこれ正師を得た実感です、求め求めてついに会う、たとい仏の何たるか、如来のありようを知らず、狂子の如くして妄想の中に呻吟していても、おのれこれではどうもならんと知る、たとい万が一の救いを求めるんです。すると正師に出会えば正師と知る、不思議です、父に会う、長年にわたる遍歴ついに終わる。わしは老師に出会うたとき、二、三質問するのに、答え問いの終わるより先にあった、しかも壁の如く虚空の如く、田舎じっさのやけに恰幅のいいちんちくりん、云うことさっぱりちんぷんかんぷんが、まるでカフカのようだなど思う。どうせ狐狸の類がと思っていたものが吹っ飛ぶ、草鞋を脱いで安居するより、何十年老師遷化して今に至るまで参禅しています、死んでも死んだ後までもまったく変わらないです。常にこれ改変しておのれ未だし、如来現ずるというのになんていうこったと、日々また日々思います。どうしようもない生まれ卑しのろくでなしがと、また真実の法を知る以前の、親不孝傍迷惑、省みようもない仕出かしごとを思います。どうしてもと人みな如来でありながら、それに気がつかず来たか、長い年月にわたって取り返しようもない、過ぎたるは及ばざるが如しと、あるいは坐すにより、まるっきりまっさらに消える。たとい一瞬もこれ我れを証し、許されるも許されぬもない、水を掬すれば月手に在り、花を拈ずれば香衣に満つと、あるがようにある雪月花。地球あるいは宇宙万物のお仲間入りですか、如来無心、なんでさまようて歩みを進むれば近遠にあらず、どうもこうもならなかったのか、臍を噛んでも追いつかぬ歳月であったのか、父となり諸の苦患を救う者なりと、如来正師に出会うこと、浜砂の一握にも及かず、いかなる幸運の生まれであったか、なんというろくでなしのこの我れが、涙なしには語れぬなどいう生易しいものではないです。そういうことであった、ただこれそういうことであった、凡夫の顛倒せるを為して、実には在れども而かも滅すと説く、求道の心またまたあるにより、ついに求めてやまず。
凡夫の顛倒せるを為て、実には在れども而かも滅すと言う、常に我を見るを以ての故に、而かも驕恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん。
顛倒妄想という、思想考え方はお客さんなのに、それが主人になって、却って追い使う、声色の奴卑と馳走すという、凡俗という我れらはこれなんです。仏道を云うのに、仏道という思想あるいは哲学と思い込む、思い込みの他に実あるを知らないんです、如来に会うても如来を思い込み思想の人と見做す、こりゃどうしようもないです、門前払いを食わすより他に手段はないですか。自分というものがまったく見えていない、困るのはあなたというに、なんにも困っていないという、自分という架空に住み、思想観念に右往左往し、多数決付和雷同の、戦争には戦争に走り、人間の命は地球より重いというには、みんな仲良く平和にと、その害はなはだに気がつくことなく、害悪を八方に振りまいている、一朝事あると支離滅裂です。はじめて顛倒妄想のなんたるかを知る、いいえ知る機会を得る。しかも気がつかずに、顛倒夢想を縫い繕って出直すんですか、生まれ変わって来るより仕方ないんですか、如来在世せねばそりゃそういうことです。この間薬師寺展に行って来ました、その善男善女人九0分待ちというがほどに、猛烈混雑して、人の隙間からようやく垣間見るほどでした。ふと思ったです、ここに若しお釈迦さまが現われて説法したらどうなるか、みんな平伏して聞法するかと、まったく否だと思ったです。百人中百人そっぽを向くんではないか、十人が十人十色の仏教を説き、あるいは科学だの平和だの宗教哲学をふりかざして、如来をあげつらう。たとい如来逐一しても、曲解しないがしろにすると思います、現代とはまさにこれ。自己というものなしに、なんというか同じ穴の狢、臭いものには蓋きりの世の中ですか、ではなんで薬師寺展も木像仏像展も立錐の余地のないほど流行るのか、飢えていえるには飢えているんです、あんまりに飢えてたとい温とに触れても、渇き切ってかさかさなんですか。それともみな仏陀よりもおのれ仏陀と自信満々、自分という砦に立て籠るきりですか、ようもわかりません。而かも驕恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん、如来滅すと知る、すなわちおのれ律するの地なし、いても立ってもいられぬと知る、助けてくれえという絶叫を聞く、まさに他なし。
我常に衆生の行道と、不行道とを知り、応に度すべき所に随って、為に種々の法を説く。
たといどのように仏を説き、くわしく理に契いあるいは適切不適切をもってす、学者教授をもってし、説教坊主行ない清ますをもってしても、一目瞭然なんです。如来をたぶらかすわけには行かんです、お釈迦さまが万人に解かるような立派な姿をし、クリシュナムルティやラディニ-シのような光明隠れもなきというとまったくそうではないんです。お釈迦さまは別格としたって、如来はあなたにそっくりです、彼出れば彼に同じ、彼女出れば彼女と同じく、これ如来の現実です。しかも接化に当たって、彼乃至は彼女の思い通りにはまったく行かんです、その思い込みを是とし不是とし、その願いをあるいはまったくに素通りします。行道には痛棒し不行道には座蒲団を百枚敷きますか、ひっかかりとっかかりを外す、悪辣この上ない手段です、赤ん坊のにっこり百花開くんですか。どっちだってなあなあ馴れ合いなんかないです。如来にとっつこうたってそうはいかない、触れなば真っ二つです、修行しているから仲間だなんてないんです。世間娑婆の世にあって世間娑婆のしきたりを忘れたら、つまらんだけです。同じ羽根の鳥の集団じゃない。けんもほろろです、一箇宗教ですか、意見を同じくする甘えん坊ではなく、そうかわかっただと、そんじゃかってにしくされという程に、たといわしの兄弟弟子法友という、たいてい二十年まったく会わなかったりします。浮き世この世にオアシスあるんならオアシスの大小は問はぬ、他にはまったく見当たらぬ、これ孤立無援です。遷化するになんなんとして、会いに行こうと思います、それもかなわずば仕方ないです。一人でも多くおのれ如来であることに気がつく、ただこれだけです。如来となって浮き世にぽっかり花開いて下さい、ただもうその他にはないです、無心金剛不壊、天地宇宙森羅万象彼によって花開く、もとあるがようにあるんです、為には手段を選ばんです。たとい自分というエア-ポケットに居座って、民主主義多数決している分には、叩いて粉砕するよりない、理解したわかっただからおれはと云う自堕落無様は、断崖絶壁に追う。仏門を叩くにあたっては三たび追いやるんですか、もと求める必要もないものをと知る、蚊子鉄牛を咬むのたとえ。なあなあ手を取り合って、みんな仲良くじゃ、百たび生まれ変わったとて届かんです。
毎に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして、無上道に入り速かに仏身を成就することを得せしめんことを。
種々の法を説く毎にと、どうすれば無上道を得、速やかに仏身を成就させられるかと腐心する、ただそれのみです。如来為人のところ、何をどう云おうがおのれ無きが故に、他が為にするんです、これが他の諸宗一神教等とはまったく違うところです、どんな道徳宗教も自分を介するんです、この人を見よというが如くにです。仏教はそれがない、なんじこれ彼にあらず、彼まさにこれ汝、一には布施二には愛語三には利行四つには同時と、たといこれ菩薩の行願、ただこれ自他を同じくす、森羅万象万物宇宙、もと我とともにある一つことなんです、これを知る畢生の大事、他にはまったくないんです。他に種々あると思うを一般というのは、妄想癡人に夢を説く、夢見るとは現実を知らぬが故に、現実であればあるほどに夢とは、現実100%はなんのお釣りも来ないからです、満足不満足さへ知らぬ、もとっこそのようにできあがっているんです。これを天地宇宙と云い、あるいは地球と云ったです。種々無駄っことですか、ひいては理想ですか、現実すなわちもとのありように満足できなけば、そもそも我らの存在はないんです。それ故に羅漢さん菩薩観音さまという、双六の上がりを如来というんです、如来来たる如し、まるっきり他なしです。花のようにぽっかり咲き、月のようにうたた照らす、御名御璽ですか、はいだれあって唯我独尊まったくに他なしです。わしの弟子におかしな男がいたです、幼い時に高熱を発して後遺症が残った、のちけろっと治ったですが、しばらく癲癇症があった。おれは病気があるから陰日向なく生きようと思ってと云った。老師に就いて、これがこのまんまだからこのまんま坐れと云われて、このまんま坐る、あれは不思議な男だと老師が云った。日ならずして、あたかも雪下ろしの時節、屋根に上がったと思ったら下りて来る、なんだかへんだよう、雪がこっちだかおれが向こうだかわかんなくなったという。自他の垣根が外れている、おまえの病気はなんだと聞くと、かつて切なく思っていたものが、あれは付録だからなあと云う。このように悟って縁あってお寺に入った。いい世話人もいたのに早死にして、えげつない性悪だけが残った、教区寺院、坊主組合は就中仏にもっとも遠いもの、まったくのいじめ社会であった。それはひどいめであった、すべてはわしのせいだ、いたたまれぬ思いがどうすることもできなかった。三十年たった、檀家が一戸あたり百万円あて出して本堂を修復し、晋山式をするという。報われたんだ、ほんとうにただこの道のみであった、わしも弟子ども知れる人みな涙した。たとい馬鹿の一つ覚えも、お釈迦さまの法はあったんだ、わしはなんにもしてやれなかった、却って彼がわしを救った。そりゃあとのことはわからぬが、わしらの僧堂あっちこっちに散らばるだけが、たとい如実に僧堂であることを知る。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。