霏々たる連夜の雨、
桃李其の紅を舒ぶ、
幽蘭階除に秀で、
芳馨簾櫳を覆ふ。
此の夕何の夕ぞ、
戚々無従に苦しむ、
吾が堂上の琴を移し、
絃歌して時に衷を写す。
上弦別鶴を弾じ、
下弦松風を操る、
五音和して且つ清く、
中曲逈に同じからず。
雲に入って遙空に散り、
風に随って万方に充つ、
氤氳たり青陽の曙、
響きは徹す天帝の宮。
天帝大いに驚動し、
詔を伝へて相推攻す、
吾が朝昔より未だ聴かず、
音響何ぞ工なる。
誰れ人か此の曲を為す、
借問す何れの邦よりせる、
吾れ我が有衆を厳しめ、
声を尋ねて蹤を極めんと欲す。
薄言(いささ)か吉晨を択び、
時候和中を得たり、
望舒其の始を警ましめ、
豊隆終りに備ふ。
左に繁霜の剣を帯び、
右に彩虹の弓を攬る、
雲の如き旆霞の如き瓔、
蜿として其れ六龍に駕す。
朝たに咸池の南を発し、
夕に若木の叢に息ふ、
瑶台何ぞ偃蹇たる、
閬風蒼穹に沖す。
倏忽として電光を競ひ、
飄颻として徐ろに升降す、
律呂風に従って変じ、
低昇良に窮まらず。
継くが如く断ゆるが如く、
西に在るかとすれば東よりす、
来ること有って其れ綿々たり、
之れに就けば還た空し。
中心紛として極まりなく、
怳驚たり汨忄蜀たり、
逡巡相顧みて云ふ、
帰らんかな吾が旧邦と。
霏々たる連夜の雨、 桃李其の紅を舒ぶ、幽蘭階除に秀で、芳馨簾櫳を覆ふ。
ひひとして降るけっこう激しく降ったりするんですか、雨続きに桃も李も花に咲く、春蘭はきざはしの下に花をつけ、えもいわれぬ香りに覆われるというんです、春浅い越後の風物を実によく表しています、身にしみて味わう姿ですか、食い足り満ちたりの人にはかえって疎いです。
此の夕何の夕ぞ、戚々無従に苦しむ、吾が堂上の琴を移し、絃歌して時に衷を写す。
戚戚うれい苦しむさま、つらい思い逼迫の時がある、そういうことをおれは悟ったから仏だからといって、押さえ込むことをしない、坐禅のこれが本来です、かすっともかすらずのおろか丸出しです、どうしようもないときがある、天井から琴を下ろして爪弾きながら歌う、こころを写すありさま。
上弦別鶴を弾じ、下弦松風を操る、五音和して且つ清く、中曲逈に同じからず。
別鶴というのは子がないために離別された妻の悲しみを歌った牧子の詩、鶴と松との舞い踊るさまを琴弾く、五音宮商角微羽だそうです、中曲ってのはわからない、だれかくわしい人教えて下さい、はるかに同じからず、詩歌も曲もまったく新しいんです、毎日同じに坐ってもまったく新しいんです、でなくってなんの楽しみなんの人生ぞ。
雲に入って遙空に散り、風に随って万方に充つ、いんわんたり青陽の曙、響きは徹す天帝の宮。
雲に響いて遙かな空に散ずるさま、一声かくの如く一息一吸かくの如し、風にしたがって万方に満つと、まさにこのように体感できる人になって下さい、もとよりこのとうりに生まれついているのに、こそっとごみあくたして暮らしている、老若男女ビールの泡のような生活とも云えず、ただもう世の中胡散臭いだけです。いんわん盛んなるさまですか、青陽とは春です、春を歌って天帝の宮に届く。
天帝大いに驚動し、詔を伝へて相推攻す、吾が朝昔より未だ聴かず、音響何ぞ工なる。
天帝がぶったまげて、詔して鑑み調べさせる、わが朝始まって以来の代物だという、なんというすばらしい趣向であろうかと、いやはやたいへんな騒ぎ、痛快この上なしですか。
誰れ人か此の曲を為す、借問す何れの邦よりせる、吾れ我が有衆を厳しめ、声を尋ねて蹤を極めんと欲す。
いったいだれが奏でる曲か、借問しゃもんすと読む禅門の常套句、どこの国のものか聞いてみよう、わしの家来どもを総動員して、声を尋ねあとをつまびらかにしようと思う。こりゃ豪儀な話でもってさすがに良寛天上天下唯我独尊です、ドライブしてモーツアルトに酔い痴れているのとはうっふっふ、だいぶ違いますか。
薄言(いささ)か吉晨を択び、時候和中を得たり、望舒其の始を警ましめ、豊隆終りに備ふ。
吉辰を択ぶ、日を択んで和中というなにしろもっともよい時候であった、望じょは月で豊隆は雷神また雨の神です、わしは無学でようも知らんですが、吉凶を占うのになにかこんなふうなのがあるんですか、良寛の勝手にするわけには行かない、作詞作法あるいは故事来歴ですか。
左に繁霜の剣を帯び、右に彩虹の弓を攬る、雲の如き旆霞の如き瓔、蜿として其れ六龍に駕す。
繁霜霜のはげしい繁しいさまです、霜の剣そりゃもう切れそうです、虹の弓をつがえる、こりゃまあ万能の矢を放つふうです、はいは将軍の旗です、瓔は首飾り馬にかけるんですか、えんとは龍の飛ぶ姿、天子の面を龍顔と云いますか、六龍は天子の車を牽く六頭の馬、はあてさて大騒ぎの鳴り物入りは、詩人のよく作るところですか、李白もすばらしいんですがわしのようなぼんくらには思い及ばぬ、面白いってことがなによりも是。
朝たに咸池の南を発し、夕に若木の叢に息ふ、瑶台何ぞ偃蹇たる、閬風蒼穹に沖す。
かん池は日の浴する池、若木は日の入るところ、えんけんは高いありさま、ろうふうは仙人の住む山、まあさこんな具合にやってきて、こんなふうです、良寛の周りの風景そっくりですかあっはっは。
倏忽として電光を競ひ、飄颻として徐ろに升降す、律呂風に従って変じ、低昇良に窮まらず。
ひょうようはひるがえりあがる、しょうこうは上下する、しゅくこつは一瞬より短いんですか、律呂は六律六呂ある韻律リズムですか、低昇は下ったり上ったり、春の気運のありさままったくそのとうり。
継くが如く断ゆるが如く、西に在るかとすれば東よりす、来ること有って其れ綿々たり、之れに就けば還た空し。
続くが如く絶ゆるが如くはまさにものみなのありようです、我れから慮って続ちし断とする、すなわちこれを完全しうる器ですか、西にあるかと思えば東より来る、風景これ自由自在です、美しいといい清々はてなしという、詩も音楽ももとよりこれによる、取捨選択の洗練とは何か、もっともとらわれなきこと、来ることあって綿々とは五言絶句ですか歌ですか、小説物語ですか、こえにつけばかえって空しいという、小説ではなくって大説です。自然を我が物にして、第二の自然をこれ芸術という、まったくそんな狭苦しい了見じゃないんです。ふっふっふ良寛の芸術論これ。
中心紛として極まりなく、怳驚たり汨忄蜀たり、逡巡相顧みて云ふ、帰らんかな吾が旧邦と。
中心はこれとたいていの人が云うんでしょう、肝心要が紛々たりとわっはっは自然ものみなこれです、取り付く島もないんです、きょうきょう驚いて自失する、こつだくたり乱れて安からず、自信転ばぬ先の杖が折れる、わけがわからんのです、茫然自失も混乱忘我もこれを観察しなければかえって理路整然です、底なしの清々ですか、六竜に駕して鳴り物入りでやってきた天帝も、逡巡顧みて、あかん早くおうちへ帰ろうって云うんです、わっはっはこりゃ面白い。良寛の面目躍如ですか。
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花無心にして蝶を招き、
蝶無心にして花を尋ぬ、
花開く時蝶来たる、
蝶来たる時花開く。
吾も亦人を知らず、
人も亦吾を知らず、
知らず帝の則に従ふ。 老師がこれの提唱をしたので、良寛の詩をこれたった一つ知っていたです、知らず知らず帝の則に契うと覚えて、蝶に会い花に会いしてきたです、帝とは天帝ですか造化の神ですか、たといそんなものはいらんです、ものみなあるようにあり、人と人との付き合いも知らないもっとも親切です、あいつはあーゆーやつだほどでいい、せんさくしてなにがどうだからどうという、もっとも忌むべきことですか、一億総評論家になるに従い世の中面白くもなんともないです、つまらんことで切れたり殺人事件です、しかもかってな理屈をつけたりするあほらしさ。無心とは心がないんです、心は心を知らないんです、いいのわるいのと顧みることの不可能を知る、まさにこれ坐禅のことはじめです、仏の入り口です、たとい今の世だってまったく同じです、銀椀に雪を盛り、名月に鷺を蔵す、混ずる時んば所を知る、類して等しからず、良寛さんの生涯これ。
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少々筆硯を擲って、
竊に出世を慕ふ、
一瓶と一鉢と、
遊方知りぬ幾春ぞ。
帰来絶巘の下、
静かにトす草堂の貧、
鳥を聴いて絃歌に充て、
雲を胆て四隣と為す。
巌下に清泉有り、
以て衣巾を洗ぐに可く、
嶺上松柏有り、
以て柴薪を給す可し。
優遊亦優遊、
薄か言に今晨を永くせん。
少々筆硯を擲って、ひそかに出世を慕ふ、一瓶と一鉢と、遊方知りぬ幾春ぞ。
幼いから筆硯の人であり読書人であった、それがもののはずみで頭を剃って世の中で外れてふらつき歩く、淨瓶と鉢の子一つに遊び歩いて幾春ぞ。命を捨てる修行に命を捨てちまってあっけらかん、風とともに行き雲とともに流れる、わっはっは夢も希望もない生活です、死んじまってのちに突然詩歌が復活する、そりゃまた面白いんです。
帰来絶けんの下、静かにトす草堂の貧、鳥を聴いて絃歌に充て、雲を胆て四隣と為す。
享和元年四十四歳にして五合庵に住む、ぜっけんけわしく寒い山ですか、静かに草堂の貧しさをトす、日々新たにするんですか、鳥が音楽雲が隣人のまったくまさにその通り。五言絶句を作って嘘いつわりなしとは良寛のみ、仏を云い猿芝居して悟りをあげつらい嘘とはったり大威張りは今の世の坊主も同じ。
巌下に清泉有り、以て衣巾を洗ぐに可く、嶺上松柏有り、以て柴薪を給す可し。優遊亦優遊、薄か言に今しんを永くせん。
巌の下に清い泉があって、衣や手拭など洗うによく、嶺の上には松や柏があって、ぼやや薪を集めるのによく、優雅に遊んでまた遊んで、わっはっはでもって今朝はそいつをちいっと長びかせとさ。冬中ぶるぶる震えていたくせに、喉元過ぎないうちのみーんな忘れて、どうにもしようのないこってす。
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富貴吾事に非ず、
神仙期す可からず、
腹を満たせば志願足る、
虚名用ひて何為るものぞ。
一鉢到る処に携へ、
布嚢也た相宜しく、
時に寺門の側に来たりて、
会またま児童と期す、
生涯何の似る所ぞ、
騰騰として且らく時を過ごす。 富貴吾事に非ず、神仙期す可からず、腹を満たせば志願足る、虚名用ひて何為るものぞ。
どうですかこの通りに絶句してこの通りにする人良寛のほかにだーれもいないです、富貴わがことにあらず、神仙期すべからず、はいただの人これ、只管打坐を標榜しながらただの人にならない、くわせものごまかし嘘とはったりですか、腹を満たせば志願足る、坐禅とはまさのこれです、真正直にまさにこれです、ほかになんにもない、なーんにもない人です。虚名用いて何するものぞ。かくの如くかくの如くあるんです。
一鉢到る処に携へ、布嚢也た相宜しく、時に寺門の側に来たりて、会またま児童と期す、生涯何の似る所ぞ、騰騰として且らく時を過ごす。
鉢の子ひとつ持して到るところに行き、布嚢という頭陀袋ですか胴鉢ですか、米を入れる袋です、これらが暮らしのすべてです、そうして門前に子らと遊ぶ、ただかくの如くあって、だれの真似もしないという、独創などいう糸の付いたたこじゃないです、まるっきり良寛そのものです、追随する者もなし、良寛を云う人もっとも良寛に遠いんです、見るも汚らわしいやからですか、騰騰任運にまかす、なにをどうしなきゃならんという、あるいはそういうものまで任せきりです、できますか。
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一たび出家してより、
幾箇の春なるかを知らず、
一納と一鉢と、
騰騰此身を送る、
昨日は山林に住み、
今日は城闉に遊ぶ、
人生一百年、
汎として秋水の蘋の如し。
祇だ口腹の為の故に、
日夜精神を費やす、
奔走して積聚に苦しみ、
固く閉ざして隣に分つ無し。
其の冡間に埋もれるに方っては、
一箇も身に随はず、
他人快楽を受けて、
姓名杳として聞こえず。
此れを念へば実に哀れむべし、
勉めん哉三界の人。 一たび出家してより、幾箇の春なるかを知らず、一納と一鉢と、騰騰此身を送る、
出家して幾春秋ですか、数えることもせずの着たきり雀の墨染めと鉢の子と、足の向くままにまかせて行雲流水です、はいこれ雲水って云います、悟り終わって弟子にそういうのいた、行方知れずの開聞岳から年頭の挨拶と粋がって電話してきたので、とっつかまって用事あるから帰ってこいったらしぶすぶ帰ってきた、沖縄まで行くつもりだったらしい、この弟子帰ってきてからも時に托鉢して、そうしたらどっかのばあさんにとっつかまって説教された、おまえさんもそういうことしてないで正業につけとさ、托鉢行はにせ坊主の商売になって久しく、宗門は仏教のぶの字もなく、しばらくは在家仏教しかないですか、どうにかかつかつつないで行くこったですか。
昨日は山林に住み、今日は城いんに遊ぶ、人生一百年、汎として秋水のひんの如し。
山や草木があるとがきのように若返って、城いん賑やかな町へ出るとうろちょろきょろきょろ、じきにゼニ使ってしまう、生まれ着いてのドアほうはこりゃもうどうしようもなく、いえさ良寛は生活万端実にきしんとしてたです、わいはぐーたらすけべでもとっこ元の木阿弥、汎として秋水の浮き草の如しと、はーはいそりゃもう取り付く島もないです、でもやっぱり死ぬまでは生きなきゃなんねーか、せいぜい身の不始末はしねえよ-に。
祇だ口腹の為の故に、日夜精神を費やす、奔走して積聚に苦しみ、固く閉ざして隣に分つ無し。
こりゃ世人みなのことを云ってるんですが、良寛托鉢行も同じです、ただ口腹の為の故になんです、世界平和のためにとかユニセフとかいいことしいなんて微塵もないです、強いて云えば焚くほどは風がもてくる落ち葉かなですか、貪ることがない、自分にもなし他人のにもなし、布施であり貪りをひっこぬく。でもこれ只管打坐です、ただ行う無所得無心の行です。ある二宮金次郎ばりの謹厳実直家が、うちは額に汗しないものにはびた一文やらぬといって、良寛も門前払いです、それをばんたびぬうっと鉢の子を差し出す、うっふっふ避けて通るなんてこともなかったらしい、共産党のように思想思い込みは残酷です、結果ろくなことにはならんのは現実を無視するからです。ぬうっと鉢の子、これに応ずるすべがありますか、あのうちは創価学会ですのでといっては門前払い食らったことがあったな、多いときは十軒に一軒とかあっはっは、そりゃ引き下がるほかないです。日夜精神を費やすことなしと、奔走して積聚に苦しむ愚かしさから解放されている、人の暮らしの本来に帰る如くです、隣はなにをする人ぞと、まずは秋風にでも聞きますか。
其のちょう間に埋もれるに方っては、一箇も身に随はず、他人快楽を受けて、姓名杳として聞こえず。此れを念へば実に哀れむべし、勉めん哉三界の人。
ちょう間はお墓ですか、なんにも持って行くことはできないよ、たといピラミッドを築いたとて墓荒しの手中に入るばかり、どうにか埋もれていても今度は学者という新手の盗人に洗いざらいやられる、あほくさミイラになってからになおさら恥晒し。皮肉といえば良寛なんにも持たずはなんにも残さずは、書いたものが残ったんですか、いえさいよいよ有名人です、日本はおろか世界中に知られています、ゲーテは消えても良寛は残ります。でもまあそれもせいぜい一万年ほど。
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一たび出家してより、
任運日子を消す、
昨日は青山に住し、
今朝は城市に遊ぶ。
衲衣百余結、
一鉢知りぬ幾載ぞ、
錫に倚って清夜に吟じ、
席を舗ひて日裡に眠る、
誰か道ふ数に入らずと、
伊れ余が身即ち是れ。
一たび出家してより、任運日子を消す、昨日は青山に住し、今朝は城市に遊ぶ。
任運日子を消す、まるっきりその日暮らしです、一日一日跡なしの暮らし、青山お墓のことを云うんですがこれはただの山間、城市という対句になって賑やかな人間ですか、どこをどう選り好みってこっちゃないです、必要あればおもむくあるいは不必要に現れたりする。
のう衣百余結、一鉢知りぬ幾載ぞ、錫によって清夜に吟じ、席を舗ひて日裡に眠る、誰か道ふ数に入らずと、伊れ余が身即ち是れ。
墨染め破れて繕うこと百余箇所うっはっはおんぼろです、臨済などひところこれを衒って大修行底など云ったですが、良寛にそんな贅沢はないです、鉢の子たった一つに幾載ですか、わしの出家したころは法具をこさえる職人もまだ生きていて、衣もしっかりしていた、よっぽど着てもすっとすりゃちゃんと畳む、鉢の子も頑丈でよく使えたし、またよくできていた。今になって宗門仏教のぶの字もなけりゃ、坊主堕地獄でしたがい職人も消え、どうしようもない衣に一年も使えばぶっこわれる応量器です。駄目になりゃまたすべて駄目ですか。肝心要が腐れりゃ日本人よって立つなし。錫杖をついて吟じ、むしろを敷いて寝る。だれか云う数に入らずと、説法もなし立派な門構えもなし門弟もなし、乞食坊主がそりゃまったく数に入らんです、今だってそりゃまったく同じなんみもならんです。かれ余が身即ちこれ=仏教の真髄です、他にはまったくないんです、仏一箇の露堂々です。お釈迦さま道元禅師、他宗では一遍上人ですか、ほんとうにこれを体現した人いくらもないんです。
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一たび出家してより、
蹤跡雲烟に寄す、
或は樵漁と混じ、
又児童と共に歓しむ。
王侯何ぞ栄とするに足らん、
神仙亦願ふところに非ず、
偶ふ所便なれば即ち休す、
何ぞ必ずしも丘山を嵩とばん。
波に乗じて日に新に化し、
優遊年を窮む可し。 一たび出家してより、しょう跡雲えんに寄す、或は樵漁と混じ、又児童と共に歓しむ。
出家して親兄弟娑婆世間を捨てるんです、浮世との荒波に揉まれずあるというには、どうしても悟ることが必要だ、悟ったからといって開き直る世間人ではなく、我と有情と同時成道です、いったん人間をまぬがれる、元の木阿弥です、でなけりゃ出家の蓑笠付けた化けの皮です。なにをやったっててめえのためでしかない、けちでどすぐろい死出虫稼業の嘘八百です。ましてや行雲流水雲煙に寄せる清々自在には遠くて遠い。樵の仲間に入っていたのは六祖禅師ですか、漁師をしていたというのはでれであったか忘れた、魚籠観音の化身というのもある、不殺生戒を云々するなら真正面に対決して下さい、いたずらに擲たないんです、あるいは鯨食うなの具、あるいは草食主義というもっとも悟りに疎い連中ですか、不可は行う自分が不可なんです、本末転倒しちゃだめです、いいのわるいのでは子供がそっぽ向くです、たいてい女の子も総好かんしますがなあっはっは。
王侯何ぞ栄とするに足らん、神仙亦願ふところに非ず、偶ふ所便なれば即ち休す、何ぞ必ずしも丘山を嵩とばん。波に乗じて日に新に化し、優遊年を窮む可し。
坐るには王侯なんぞ栄とするに足らんと坐って下さい、中途半端にどっかつながっていりゃ坐にならんです、いわんや全体はるかに塵埃を絶す、自分なくなってすべてです、事は単純まっぱじめっから答えのど真ん中なのに、なぜか本当にやった人皆無なんです、なぜですかよくよく顧みて下さい。あるいは超能力だの仏教だのなんだの企む、彼岸にわたることをせんでいちゃついている、大小無数の悟ったさん困ったさんなど。会うところ便なればすなわち休すと、なんぞ必ずしも丘山を尊ばず、はいなあこれ人間以外みんあこんなふうで幸せに生きてますよ、わたしは貝になりたいと云って宿借りしないんです。波に乗じて日に新たに化し、はいこれ坐禅そのものですよ、滞ったら命おしまい、日に新たに化すとはだからおれどうなったよくなったごとしないんです、昨日のおのれはまったくない、今日という開き直らない、年を極まりなし、優遊わっはっはまったくの不細工、楽しいっていうこと無窮なんともかんとも筆舌によらんです。
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人生一百年、
汎として水上の蘋の若し、
波に随って虚しく東西し、
浪を逐ふて休辰無し。
牟尼の高貴を辞せしは、
他の沈淪を度せんが為なり、
在世八十年、
説法五十春。
経を留めて永世に遺し、
今に到って梁津たり。
人生一百年、汎として水上のひんの若し、波に随って虚しく東西し、浪を逐ふて休辰無し。
人生百年ですか、たいていたしかにそんなふうになりました、汎として茫洋だだっぴろくって水上のみずくさの如しと、波にしたがって右往左往し、波を追うて一日として休むひまなし。どうですか60、70までも生きりゃまずはこれそう思うでしょう、成功者だ東大出っでいっち頭がいいんだ、第一人者はおれだなど云って、ふと気が付くと汎として空しく東西するみずくさです。するとなーるほどと気がつけばいいです、大ひまが開いて虚空に浮かぶ露の玉の如し、たったの一日100%いいや200%暮らし尽くしたという無上楽ですよ。
牟尼の高貴を辞せしは、他の沈りんを度せんが為なり、在世八十年、説法五十春。経を留めて永世に遺し、今に到って梁津たり。
牟尼釈迦牟尼仏です、王であるべき生涯を擲つ、高貴を捨てて他の沈りん浮きぬ沈みぬの六道輪廻を免れさせる、他を救うにはまずもって自分を救うこと、自救不了ならばそりゃなんにもならんです、たとい他の為にしたろうが自分の為だけなんです。経というお経とは自分を救い他を救う姿です、坊主みたいお経を読めばもういいんなお布施だ偉いんだなど空威張りとは関係がないです。世の中に坊主と学校の先生にはろくなものがいないとは、すべてが嘘だからです、嘘ばっかりが嘘と気が付かない、最低最悪です。人格の不成立ですか、しかも次第に偉くなるというおまけつき。良寛にしてはじめて仏恩に報いるんですか、是。梁津は渡し場のこと。
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青陽二月の初、
物色稍新鮮、
此の時鉢盂を持し、
得々として市廛に遊ぶ。
児童忽ち我を見、
欣然相将ひて来る、
我を要す寺門の前、
我を携へて歩み遅遅たり。
う(干に皿)を白石上に放ち、
嚢を緑樹の枝に掛け、
此に百草を闘はし、
此に毬子を打つ。
我打てば渠且つ歌ひ、
我歌へば彼之を打つ、
打ち去り又打ち来り、
時刻の移るを知らず。
行人我れを顧みて咲ひ、
何に因ってか其れ斯くの如きと、
頭を低れて伊に応へず、
道ひ得ても也た何ぞ似ん。
箇中の意を知らんと要むるも、
元来祇だ這這のみ。 青陽二月の初、物色稍新鮮、此の時鉢盂を持し、得々として市廛に遊ぶ。
二月やや物が色ずいて、鉢の子をかかげて、とくとくとして市てん街中に遊ぶんです。
児童忽ち我を見、欣然相将ひて来る、我を要す寺門の前、我を携へて歩み遅遅たり。
わっと子供らに取り囲まれて、お寺の門前にのそのそやって来る、
盂を白石上に放ち、嚢を緑樹の枝に掛け、此に百草を闘はし、此に毬子を打つ。
石の上に鉢の子を置き、頭陀袋は木の枝に掛け、草相撲を取り、まりをつく。
我打てば渠且つ歌ひ、我歌へば彼之を打つ、打ち去り又打ち来り、時刻の移るを知らず。
おれが毬つきゃ、だれか歌い、でれかつきゃおれが歌う、まりつき歌い、時の移るのを知らず。
行人我れを顧みて咲ひ、何に因ってか其れ斯くの如きと、頭を低れて伊に応へず、道ひ得ても也た何ぞ似ん。
行きかかる人が笑って、なんでまあこんなあほうなことをするんだ、大の大人がってわけです、頭をたれて答えず、たとい云いえてもまた何に似ると、鯨取るなの十字軍に人は笑わない、或いはその理由を聞けば明確に答えるんですか、でも子供と遊ぶ良寛と、空騒ぎの十字軍となんという差異ですか、同じ人間のやってうことですか、人生さんざんな目に会ってきて、わしはそりゃすべて身から出たさびですが、良寛のこれを見るにつけ涙滂沱です、世の中にこういうことがあったんだと絶句します。みんな仲良く平和にという校長が坊主やっていて、わしは顰蹙を買ったですが、ことなかれ主義の、中学のよたもんのせいで新任の声楽の先生が声を駄目にした、この校長連中が卒業するまでじっと我慢の子。先生と坊主にはろくなものがいないの二乗ですか、しかもしだいにえらくなっちまう、なんでかなあまったく、あんちょこな理由ずけがあるからです、シーシェパードと同じひとりよがり。
箇中の意を知らんと要むるも、元来祇だ這這のみ。
理由とは箸でつまんで捨てるが如き、共産主義も差別問題も天皇陛下万歳も十字軍も魔女裁判もです、みんな人をやっつけやすい簡単明瞭らしい看板です、どうしようもないです、サイレントマジョリティがごく少数でも、とかく身心の痛むやつはだまっちまう、するとまあ世の中不都合です。良寛だと労働もしねーやつが、なに漢詩だとむかしことば使ってなんだと、あっはっは西行はくずだっていう国語の先生いたっけな。
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陽春二月の時、
桃李花参差たり、
高き者は館閣を覆ひ、
卑き者は庭幃に当たる。
色は初春の艶を奪ひ、
香は暮雲に入りて飛ぶ、
輦を駐めて公子酔ひ、
袂を連ねて佳人之く。
一夕狂風発し、
満城雪となって飛ぶ。
陽春二月の時、桃李花参差たり、高き者は館閣を覆ひ、卑き者は庭幃に当たる。
二月陽春、桃や李の花ですか、高いものは館や仏閣を覆ひ、低いものは庭やとばりにかかる。すももはあんまり聞かない、桃李という中国の成句によった。
色は初春の艶を奪ひ、香は暮雲に入りて飛ぶ、輦を駐めて公子酔ひ、袂を連ねて佳人之く。
春の艶をみんな奪ういきおい、香りは夕暮れの雲に飛ぶ、れんは人の牽く車ですとさ、公子小公子ってのあったけどこれは百姓じゃない官吏というより、さまちゃんですか、佳人は美しい女、桃の香りの春はかくの如し、はーいはい。
一夕狂風発し、満城雪となって飛ぶ。
狂い風が吹いて雪が降る、そりゃそういうことがあったんです。別に文無し坊主のひがみじゃないです、あっはっは。
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八月涼気至る、
鴻雁正に南に飛ぶ、
我も亦衣鉢を理めて、
得々として翆微を下る。
野菊清香を発し、
山川秀奇多し、
人生金石に非ず、
物に随って意自ら移る。
誰か能く一隅を守らん、
丌々として鬢糸を垂る。
八月涼気至る、鴻雁正に南に飛ぶ、我も亦衣鉢を理めて、得々として翆微を下る。
八月は旧暦ですか秋になって清爽の気です、鴻雁まあさかりがねが南に飛ぶ、われもまた得々として衣鉢をおさめて、翆微山ん中を下る、葉あていきさつようもわからんけど、五合庵を下るってわけでもないんだが。
野菊清香を発し、山川秀奇多し、人生金石に非ず、物に随って意自ら移る。
野菊という菊はもっとも種類が多いらしい、菊の香や奈良には古き仏達と芭蕉にもある、山川秀逸ですかなかなかどうして、人の生きるは金石にあらず、だのに金石にしてオリンピックで金メダルですか、自分の能力を発揮することは、ただもうこれこれ秋には秋春には春のみずみずしさです、うっふっふいい訳梨の気用なし人生です。
誰か能く一隅を守らん、丌々として鬢糸を垂る。
片隅を照らすものこれ国宝なりとは最澄の言葉、秀才が得々として仏を語るんでなしに、どんぐりの背比べのいちばん馬鹿でめちゃくちゃでまるでなっていないのがいちばん偉いがよし。自分というものかくあるべしではない、これ坐禅しかないんです、坐らずにいると必ず三百代言偉くなるばっかりです、ごつごつとして箇の坐状を守る、ただこれ日々に新たにして鬢糸を垂れとは白髪になることです、金石でない人生をまっとうして下さい。一人光明なれば四方を照らす、みんな仲良く平和にというてめえ弁護のお題目じゃないんです、いてもたってもいられぬほどが正解。安楽の法門に安楽椅子なし。
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孟冬是れ十月、
夙に起きて翆岑を下る、
奔木咸摧残し、
渓潤闃として音無し。
首を回らして南山を望めば、
松柏正に森森たり、
此の揺落の時に方って、
独り歳寒の心を保つ。
嗟吾れ胡為する者ぞ、
之に対して一に長吟するのみ。 孟冬是れ十月、夙に起きて翆岑を下る、奔木咸摧残し、渓潤闃として音無し。
孟冬初冬ですか、冬になって山を下りて行くと、雑木が折れしだえ、水枯れの谷間にまったく音がしない。音楽や絵画の秀逸と同じように詩を作る、これは生き生きとして面白いんです、伝統の成句を踏まえて発明する、ただもうやみくも勝手放題の現代詩、俳句や歌のでたらめとは違うんです。
首を回らして南山を望めば、松柏正に森森たり、此の揺落の時に方って、独り歳寒の心を保つ。嗟吾れ胡為する者ぞ、之に対して一に長吟するのみ。
こうべを回らして南山を見れば、松杉ですか常緑樹がしんしん、落ち葉のゆれおちるときです、たった一人歳寒の心を保つ、ただもう年の暮れですか、いったいおれはなんなんだい、一言もなしああと長吟です、あっはっは正直真正面。
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仲冬十一月、
清暁雲霧収まる、
旭日青嶂に上り、
輝光高楼を射る。
稚子門閫に戯むれ、
烏鵲柦頭に騒ぐ、
炉には安息香を焼き、
端座して好仇を思ふ。
杖を持していずくにか行かんと欲す、
首を回らして思ひ悠々。 仲冬十一月、清暁雲霧収まる、旭日青嶂に上り、輝光高楼を射る。
冬のど真ん中、こっちは大雪だけど海岸沿いは強風、雪が吹っ飛んで行ってあんまり積もらない、佐渡があるから降らないってこったか、暁が澄み切って雲も霧もなし、青しょうとは青い山並みですか、向こうは西山こっちは東山、高楼というあのころそんなんあったか、やっぱり高楼と云わんとさまにならないか。
稚子門閫に戯むれ、烏鵲柦頭に騒ぐ、炉には安息香を焼き、端座して好仇を思ふ。
門こんは門のしきいたって雲門の故事でもあるまいし五合庵は引き戸しかない、子供がやっぱりたわむれていたのか、烏雀、かささぎってのもしゃこ鳴いてと禅語にある如し、えん頭は軒です、安息香えーとやすものの杉でできた線香だなきっと、香炉に焚いて一炷です、好仇とは妄想ですか、出たまんまにするこれがふつうの人にはできない、ただの仇になっちまうから涅槃に入れない。
杖を持していずくにか行かんと欲す、首を回らして思ひ悠々。
さあてどこへ行こうかな、あっちにしようかこっちかのんびり。
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憶ふ円通に在りし時、
恒に吾が道の孤なるを嘆ぜしを、
柴を運んでは龐)公を懐ひ、
碓を踏んでは老廬を思ふ。
入室敢えて後るるに非ず、
朝参常にと徒に先んず、
一たび席を散じてより、
悠々たり三十年。
山海中州を隔て、
消息人の伝ふるなし、
恩に感じて竟ひに涙あり、
之を寄す水潺湲。 憶ふ円通に在りし時、恒に吾が道の孤なるを嘆ぜしを、柴を運んでは龐公を懐ひ、碓を踏んでは老廬を思ふ。
玉島の円通寺僧堂にあって良寛はまったくの孤独であった、なれあいなくらしいことをせずただこれ道を求める、たきぎを運んでは馬祖道一の弟子ほう公を思い、臼を踏んでは六祖禅師を思う、そりゃ人真似したって二束三文なんですが、古人かくの如くしてと鷲みたいにさぼったりふしだらすることがなかったんです。この道どんなに智慧犀利だろうが通身をもってする以外にないんです、ただもうこれまっしぐらのほかにないんです、余禄とかうまくいっただからなんてことないです。
入室敢えて後るるに非ず、朝参常にと徒に先んず、一たび席を散じてより、悠々たり三十年。
入室は独参です師家に直談判です、独参と提唱これが接心の手段の二つですか、ただ坐ってりゃ行くはずがあれこれ取り扱う、どうしたっても自分をもってする、師家はそれを取り外す、尋常の手段じゃないんですか、邪師は付け足し正師は奪い去る、もとこれ仏自縄自縛の縄をほどきおわれば仏です、でなきゃいくら印可底だろうが三日天下です。朝参は師家が挙し、学人が応ずる形ながらくそんなふうにやってたです、一たび席を散じてより、大ひまが開いたんです、用なしになったとは、師家にも自分にも用なしになったんです、全宇宙まったくわがものにして悠々たり三十年。
山海中州を隔て、消息人の伝ふるなし、恩に感じて竟ひに涙あり、之を寄す水潺湲。
一所不定住で托鉢して歩く、まーるで糸の切れたたこです、この事の特徴は西欧流と違って記述する用がないんです、ほんものそのものが歩く、常に答えのまっただなか、どっか外れりゃ外れのまんま真、背けばぶったくてめえ痛い目見るっきゃないんですかあっはっは、正法眼蔵に涙を流す、恩に感じてついに涙を流す、人とのつながりはこれっきりです、僧道の対大古法はわんさかよったくるがきどもです、しかもついに生涯をまっとうする、ものすごいやっちゃな良寛は、一休も舌を巻く。之を寄すせんかんたり、水のゆくりなきさまをせんかんという、坐ってごらんなさい機せい電の如く眼流星に似たりという人間本来、水せんかんという大宇宙にぽっかりは比類なき醍醐味です。
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我が生何処より来たり、
去って何処にか之く、
独り蓬窓の下に坐して、
兀々静に尋思す。
尋思するも始めを知らず、
焉能く其の終を知らん、
現在亦復た然り、
展転総て是れ空。
空中且らく我れ有り、
況や是と非と有らんや、
些子を容るるを知らず、
縁に随って且に収容。 我が生何処より来たり、去って何処にか之く、独り蓬窓の下に坐して、兀々静に尋思す。
何処より来たり、去って何処へ行く、ほんとうにこれそう思うです、あるいは奇妙奇天烈な思いを馳せるんですか、あっはっはなんだったんだろうなあおれはって、なんで大騒ぎをしてなんにもならずは、もとっこ浮世に生まれるいわれなく、さっぱり生まれてなんかいないというへんてこ、若しこれ坐として習うあればこういう思いも起こらないです、見習い士官を止めて戦艦の提督になるんですか、いいえ蓬窓の下に坐って、独り尋ねるってだけです、全宇宙これに従うんですか。
尋思するも始めを知らず焉能く其の終を知らん、現在亦復た然り、展転総て是れ空。
坐ってまさしくこうなんです、坐禅教科書みたいに無始無終、三心不可得というこったです、観念知識として知ることは二束三文です、なんの足しにもならん邪魔です、実際に追尋ることはただもうまったくの展転ですか、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけりと、ただこうあるっきりのかすっともかすらず、昨日の我と今日の我とまるっきり別。
空中且らく我れ有り、況や是と非と有らんや、些子を容るるを知らず、縁に随って且に収容。
悟出し悟入する、たんびにまるっきり別をかえって知らず、面白いんですよ得失是非の埒外です、坐らなけりゃそりゃ三百代言ただもういたずらに偉くなるっきりです、馬鹿に付ける薬ですか、坐ると内容です満足不満足の際がないんです、縁に従って収容という、もとまったくに無用の長物です。
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記得す壮年の時、
資生太はだ艱難、
唯衣食の為の故に、
貧里空しく往還す。
路に有識の人に逢ふ、
我が為に委悉に説く、
却ひて衣内の宝を見るに、
今に現に前に在り。
是より自ら貿易して、
到る処恣に周旋す。 記得す壮年の時、資生太はだ艱難、唯衣食の為の故に、貧里空しく往還す。
壮年の時を覚えている、資生持って生まれた資質ですか、良寛の担うものですかもとなーんにもないというこりゃどうにもこうにもです、長い間浮世をさまよう思いがあります、大資あんちょこには売れないんですか、あっはっはましてやこの道庄屋の馬鹿息子が昼行灯にのしをつけた、なにやったってとっぱずれもいいとこのうっふっふ、でもってただもう暮らしのために貧里往還です、わしは坊主お寺にしがみついて、こりゃまた敵視と侮蔑と四面楚歌ってなもんののうのうとその日暮らし、好き勝手しちゃあったら三宝を毀損する、どーしよーもねえだめ男、今良寛に出会ってなさら駄目男わっはっは。
路に有識の人に逢ふ、我が為に委悉に説く、却ひて衣内の宝を見るに、今に現に前に在り。
路に有識の人に会えば、ぶんなぐってえらひっぱがせってのが無門関にあったな、有識じゃなくって達道の人だった、こりゃほんに有識者テレビとかに出るやつ、良寛さんおまえはなにしてるんだ早く正業に就けってなもんの、云われてふりかえりみるとなんとまあ、宝はもとっこうちにそとに溢れ却っていた、ばかなこったなにをいまさらってんです。ただ使えばいい、けっこうこれ何十年もかかるんです、不思議なこったです、すっかり垣根が取れてより雌伏何十年、そうさなあいよいよっていう弟子もいるぞーがんばれ。
是より自ら貿易して、到る処恣に周旋す。
そうそうまるっきりそれなんです、満ち欠けなし満ち欠けそれそのもの、ようやく箇の自由を得るんです、すると良寛のほかに良寛なく、お釈迦さま道元禅師を継ぐ唯一人、自分をなにものかと見做す必要がないんです、悟ったさん困ったさんとはちがうんですよ、そういうくず芥じゃないんです。
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夫れ人の世に在るは、
草木の参差たるが如し、
共に一種の見に執して、
到る所に是非す。
我れに似れば非も是となし、
我れに異なれば是も非となす、
唯己の是とする所を是とし、
何ぞ他の非とする所なるを知らん。
是非は始めより己に因る、
道は固より斯くの如くならず、
篙を以って海底を極めんとす、
祇だ悟る一場の癡なることを。 夫れ人の世に在るは、草木の参差たるが如し、共に一種の見に執して、到る所に是非す。
人がこの世にあるのは、参差高低不同なるを云うと、大小無数の草ですか、見解の相違てめえの考えに終始して、いたるところ是非す、あっはっは淋しく騒々しくなんともこりゃどうしようもないです。宗教だの思想だの国だのとなるとこりゃもうみなさまご存知の通りのはずが~もっともみんな不都合を知ってどうにもならないでいる、仏がこれの処理の方法を示したのです、思想分別にはよらん、思想分別を容れる器の問題ですか、みんな仲良く平和にではない、元の木阿弥和の問題です。
我れに似れば非も是となし、我れに異なれば是も非となす、唯己の是とする所を是とし、何ぞ他の非とする所なるを知らん。
中国共産党とか金正日とか、わっはっは一神教の成れの果てですか、十字軍にシーシェパードを見れば、もしやてめえのやってることがどっかそんなふうではないのかって、しばらく反省するにいいです、人間ほっときゃたいてこうなるってことですよ、なぜか。
是非は始めより己に因る、道は固より斯くの如くならず、篙を以って海底を極めんとす、祇だ悟る一場の癡なることを。
おのれイコール是非ですか、おろかなやつほど偉くなっちまうのは坊主組合見てるとほんにそう思うな、てめえはえらいんだってのがアプリオリにあるんですかわっはっは人間のくずだ。頭のいいほどにてめえ弁護という、ただもうだらしのない事なかれ主義、ほっときゃ人みなお役人先生ですか、ふわー欠伸。道はもとよりかくのごとくあらず。大反省ですよ、我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意所生、一切我今皆懺悔、道を知るとはまさにこれを以てする、なにをしていたんだおれはという痛恨の反省です、腹かっさいて死なにゃ追いつかんほどのです、参禅の入り口これ。篙とは船に棹差すの棹です。自分という思い込みのたが外れてそりゃもう底なしです。
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人心各同じからず、
面の相違有るが如し、
倶に一般の見に執して、
到る処是非を逞しゅうす。
我れに似れば非も是となし、
我れに異なれば是も非となす、
唯己れの是とする所を是とし、
何の他の非とする所なるを知らん。
是非は始めより己れに在り、
道は固より斯くの如くならず、
竿を以て海底を極めんとす、
祇だ覚る一場の癡たることを。 人心各同じからず、面の相違有るが如し、倶に一般の見に執して、到る処是非を逞しゅうす。
これがすなわちまったく世の中です、せっかく良寛が指摘してもなんら変わらんですか、お釈迦さまが2000年もまえに人のありよう、仏かくの如しと示しても、さっぱりなんもようならんですか、いいえ一人二人自覚することができたです、今も本当本来を見ることができます、正法に値う今日の我らを願うべしという、わずかにたったこれだけです、自然大地宇宙200%是です、よきかなよきかな一箇半分寒山拾得です、まさに四ゆい蘇るんです、これは先の詩の不足分ですか、うっふ付け足したんです。以下同じ。
我れに似れば非も是となし、我れに異なれば是も非となす、唯己れの是とする所を是とし、何の他の非とする所なるを知らん。
是非は始めより己れに在り、道は固より斯くの如くならず、竿を以て海底を極めんとす、祇だ覚る一場の癡たることを。
自分を用なしにすること、これ参禅です、死んで死んで死に切って思いのままにするわざぞよき。ようやく地球ものみなのお仲間入りです、どこにてめえに首突っ込んで歩く無様がありますか、捨身施虎これ仏教の枢要。
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此の生何に似たる所ぞ、
騰騰且らく縁に任す、
笑ふに堪へたり嘆くに堪へたり、
俗に非ず沙門にも非ず。
䔥々たる春雨の裡、
庭梅未だ筵を照らさず、
終朝炉を囲んで坐し、
相対して也言無し。
手を背にして法帖を探り、
薄さか云に幽間に供す。 此の生何に似たる所ぞ、騰騰且らく縁に任す、笑ふに堪へたり嘆くに堪へたり、俗に非ず沙門にも非ず。
自分とはいったい何かまるっきりなーんにもないとはないというものもないんです、これ実感です、生なんに似たるかと先入観念をすべて離れて見ることができますか、知らぬもっとも親切というなんらの答えもなく、とうとうしばらく縁に任すすなわちご名答ですか、あっはっは笑うにたえたり嘆くにたえたり、坊主にもあらず俗にもあらず、まあこりゃ云うこたねーわな。
䔥々たる春雨の裡、庭梅未だ筵を照らさず、終朝炉を囲んで坐し、相対して也言無し。
手を背にして法帖を探り、薄さか云に幽間に供す。
しくしく春の雨ですか、梅はまだほんのちらほら、炉辺に坐って、妄想にも明白にも無対ですか、なんかとりとめがないんですかね、背なに手をやってお経の本を取り出す、かき開いていーえただそれっきり。
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善を作す者は升進し、
悪を造す者は沈淪す、
升沈早に待つあり、
因循辰を過ごす莫れ。
苦しいかな後来子、
愚は富み賢は貧なるを見よ、
善悪の報い無しと謂ふは、
箇は是れ極癡の人のみ。
因果に三世有り、
影の其身に随ふが如し、
但だ業の軽重を趁ふて、
遅速の報均しからず。
君に勧む能く信受して、
外道の倫を学ぶ勿れ。 善を作す者は升進し、悪を造す者は沈淪す、升沈早に待つあり、因循辰を過ごす莫れ。
いいことをすれば浮かび、わるいことをすれば沈む、浮世はつまりそうできている、善悪は人みな知る、あるいは思い込みであったり、みんな仲良く平和にが善で一億玉砕が悪で、はてないいことしいのわしとしては何をどうすべきか、ふわーい欠伸、いえさ升沈つとに待つあり、つまり手続あり忍耐あり、頭なでたり胸をなでおろしたりするんですか、因循時を過ごすなかれ、しきたりにとらわれてとやこうするなってわけです、はーい。
苦しいかな後来子、愚は富み賢は貧なるを見よ、善悪の報い無しと謂ふは、箇は是れ極癡の人のみ。
頭のいいやつがゼニをもうけ、わしみたいうすらばかはなけなし使うしかなくってこったかな、善悪の報いはどうもこれ痛いほど知って、たってもどうしようもないです、すなわちこれ極癡の人、ほんにさあやんぬるかな。あっちこっちぶつかるだけが能で、世の中逆さにやってきたかなえっへっへ。
因果に三世有り、影の其身に随ふが如し、但だ業の軽重を趁ふて、遅速の報均しからず。
善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次報受、三者順後次受と因果の道理を示すんですか、因果忘じて空しからんが如きは諸仏の出生あるべからず、祖師の西来あるべからずと、今の人法を得るのに難きは因果忘じてぬかにくぎだからですか、付和雷同の多数決じゃたいていどうもなんにもならんです、わしはよっぽど前世のいて徳を積んだとみえて今生のでたらめはた迷惑もなぜか大目に見て貰えた、でも次の世さんざくたーってな、そうさなあわしに許されているのはあるいはこの世のものすべて返上ですか、死んで死んで死にきって行くよりないです。
君に勧む能く信受して、外道の倫を学ぶ勿れ。
仏教とは何かというと強いて云えば因果必然ということですか、それ以外にはまったくないんです、因果必然を知る、手つかずで行くだけです、真正面真面目これ。
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我れ世間の人を見るに、
総て愛欲の為に籌る、
之を求めて得ざる有れば、
心身更に憂愁す。
縦ひ其の欲する所を恣にするも、
終に是れ幾春秋ぞ、
一たび天堂の楽を受けて、
十たび地獄の囚となる。
苦を以て苦を捨てんと欲す、
之に因って長く綢繆す、
譬へば清秋の夜、
月華中流に浮かぶ。
獮猴之れを探らんと欲して、
相率いて水中に投ずるが如し、
苦しい哉三界の子、
知らず何れの日にか休せん。
遥夜つらつら思惟すれば、
涙下りて収まること能はず。 我れ世間の人を見るに、総て愛欲の為に籌る、之を求めて得ざる有れば、心身更に憂愁す。
世間愛欲のためにすと、そのほかのことがまるっきりない、つまりこれ閉塞社会です、自殺の多いのはこのためですか、以前は少なくとも愛欲あるいは自我のためのほかになにかるはずという常識があった、歌も俳句も妄想我欲のまんま突っ走るバジリスク、どこにもほうっと息つくところがない、なんたら情けなさ。
縦ひ其の欲する所を恣にするも、終に是れ幾春秋ぞ、一たび天堂の楽を受けて、十たび地獄の囚となる。
いいこともわるいことも永続きはしないですか、得意絶頂の次には奈落の底、もって六道輪廻たらいまわしです、おぎゃあと生まれて七歩歩いて天上天下唯我独尊、これ如来仏です。坐って天堂の楽を受けってこと十二分にありますよ、および七転八倒地獄極楽餓鬼畜生、なーにさかすっともかすらないこと請け合い。
苦を以て苦を捨てんと欲す、之に因って長く綢繆す、譬へば清秋の夜、月華中流に浮かぶ。
苦しいから苦しみをなんとかしようとする、よってもってすったもんだ七転八倒です、ちゅりゅうもつれあうこと長くなるだけ、人の心をなんとかしようとするのは他にないんです、処理の仕方を知らない、秋夜空のまんなかに月が輝く、
獮猴之れを探らんと欲して、相率いて水中に投ずるが如し、苦しい哉三界の子、知らず何れの日にか休せん。
びこう猿がこれを探ろうとして、水中に映った月影をもてあそぶ、学者仏教を云う譬えですか、真実に触れることができない、水に映った影を追うだけです、心というたった一つきりは見えない、苦しいうまいのなんだのいう残像ですか、もはやないものを是非善悪する、おろかしいというよりそうやっている心は何かということです。苦には苦をいやますばかり、苦しいかな三界の子、どうやっても六道輪廻を抜け出すことができない、七歩歩んで天上天下唯我独尊と生まれついているのにです。いずれの日にか休せん。
遥夜つらつら思惟すれば、涙下りて収まること能はず。
お釈迦さまの思いはまさにこれです。
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我れ行脚の僧を見るに、
都べて是れ可怜生、
三刹地を踏まずんば、
衲僧の名を汚すと謂へり。
所以(ゆえ)に本師を辞し、
茫々策を杖いて行く、
一夏此の地に住し、
三冬彼の郷に到る。
徒に師の口頭を采り、
之を以て平生に充つ、
相逢ふて一問を裁せば、
旧に依って可怜生。 我れ行脚の僧を見るに、都べて是れ可怜生、三刹地を踏まずんば、衲僧の名を汚すと謂へり。
行脚僧を見るにかわいいもんだ、哀れだっていうわけです、かっこうつけて托鉢行脚して、一に師を求めというが、なにしろ三刹、永平寺能登の総持寺もうひとつ加賀の大乗寺ですか、これを問うことなければ一人前とはいえぬというわけで、どいつもこいつもぞろぞろ。今は曹洞宗門僧そのものが絶え果てて、そりゃ行脚も托鉢もないです。
所以(ゆえ)に本師を辞し、茫々策を杖いて行く、一夏此の地に住し、三冬彼の郷に到る。
とにかく名のある師を見つけて一夏、いちげという三ヶ月の修行期間です、そやつを曲がりなりにも過ごし、三冬てめえの寺へ帰っておっちゃんしている、かっこうつけはすでに良寛の時代からかくの如し、法を求めるんじゃなし、世間通用する坊主になるための、まあさなんだかわけがわからん。
徒に師の口頭を采り、之を以て平生に充つ、相逢ふて一問を裁せば、旧に依って可怜生。
師の口真似をして世間わたりをするわけです、大小無数の悟ったさん困ったさんはその上に我田引水ですか、今の意識の退廃とあいまって目くそ鼻くそどころじゃないんです、一問発するまえにそっぽむくよりないんですが、可怜生ってかわいいもんだというには、見るもおぞましく。旧によってと、どこ切っても死んで腐っている、悟ったと云っては生きるの止めるんですか、あほくさ。
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我れ多く求むる人を見るに、
蚕の自ら纏ふに異ならず、
渾べて銭財を愛しむが為に、
心身暫らくも間ならず。
年々性質を損し、
歳々魯玩を益す、
一朝黄泉に赴く時、
半箇も己れの分に非ず。
他人は快楽を受くるも、
姓名杳として聞こえず、
是れらの諸癡子、
太殺(はなはだ)哀憐すべし。 我れ多く求むる人を見るに、蚕の自ら纏ふに異ならず、渾べて銭財を愛しむが為に、心身暫らくも間ならず。
求める人求道の人100人中100人あるいは99人までがこれです、知識悟り仏らしさ仏教なるものを蚕のように身に纏いつける、銭金を愛するようにして一寸休まずに刻苦精励ですか、あっはっはそれじゃひまあかぬ、間すなわち仏の露われる、学者仏教はじめっから別物です、師家禅師店を開き出世のためのゆえにですか、これが世の中っちゃそれまでですが、一人風穴開ける良寛が大切です、でなきゃ真っ暗闇。
年々性質を損し、歳々魯玩を益す、一朝黄泉に赴く時、半箇も己れの分に非ず。
年取るにしたがいもって生まれたよさを損なうんですか、そうしてもっていよいよ馬鹿になる、何年か前に同寮会をやったらつくずくそう思ったです、エリートだおれはこの道に一番いっち頭がいいんだといってぼけている、どうにもこうにも取り返しのつかぬほどへんてこれんが笑ったり飯食ったりする、世の中の生贄だなあと思い哀れに見えたんですが、いっしょにいると疲れる、自分がらくたぽんこつだとちらとも気が付けば間があくんですか。黄泉に赴くとき半箇もおのれにあらず、そりゃあ哀れなこってす。
他人は快楽を受くるも、姓名杳として聞こえず、是れらの諸癡子、太殺(はなはだ)哀憐すべし。
他人の快楽ですか、比較検討のないおのれの楽しさというのを知らず、それじゃもとっかなんにもならない、たとい死んじまったらそれっきり、流行作家みたいに生きている間から忘れられたり、でもいったいこりゃ何を云っているんだかわっはっは、はなはだ哀れむべき、人生たとい百年一瞬でも本当本来を得る、でなきゃまるっきり無意味です。
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古仏の教法を留めしは、
人をして自ら知らしめんが為なり、
如し人自ら了知せば、
古仏何の施す所あらんや。
有智は迥に玄会して、
頓に象外の人と為れり、
愚者は故さらに拘束して、
文に因って疎親を分かつ。
徒に他の珍宝を数へて、
日夜精神を費やす、
真を取れば真は却って妄、
妄を了ずれば妄は即ち真たり。
真妄は両名の言のみ、
取捨いずれに因って存せん、
は(回のみぎなし)耐たり舷に刻する者、
千古空しく紛紜。 秋風鈴 古仏の教法を留めしは、人をして自ら知らしめんが為なり、如し人自ら了知せば、古仏何の施す所あらんや。
古仏仏祖師方が道を伝えたのは、人が自らに知るためなりと、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり、他宗邪教ではこれから間違うんです、自ら知るのではなく押し着せして余計物にしてしまう、一器の水を一滴余さず一器に移す底のやっかいごとです、大迦葉拈華微笑とは無縁です、しかもこれを知る、一人じゃとうてい不可能です、お釈迦さまが身をもって示さなければ、七転八倒ついに別物です。しかもお釈迦さまを見習うこととは違います。
有智は迥に玄会して、頓に象外の人と為れり、愚者は故さらに拘束して、文に因って疎親を分かつ。
実智慧ほんとうの智慧です、はたしてこれでいいのかと回向返照するんです、自分という問題以外にありえない、般若の智慧とはぱーらみーたー彼岸に渡っていることです、いたずらに思考認識しないんです、頓知という頓に無生を了ずるんです。学者猿の月影を追う、自分を棚の上にのせて仏教なんてありえないです、それにも気が付かぬ愚かしさ、あるいは禅師師家悟ったさんもたいていこの類です、仏教なんぞありえないんです、腰掛を蹴倒して、赤裸々に浮世を歩いて行って下さい、悲しく辛いことばっかりです、悲しい辛いがよろしくよく導いてくれます。良寛の無一物まさにこれ。
徒に他の珍宝を数へて、日夜精神を費やす、真を取れば真は却って妄、妄を了ずれば妄は即ち真たり。
だれがどう悟った、盤珪禅師はどうした云々、そりゃ枚挙にいとまがないです、だからどうのおれはなどやってるうちは坐禅にならないです、杜撰とはなにごと錯を以て錯に就く如何など、知ったかぶり知識して、てめえいったいなんになる、ただもう真正直に問う他になく、答えも問いも直に忘れるんです、もとっこ元の木阿弥、身に付くものなんかなんにもないです、徒に精神を費やし論文を書くんですか、一切捨てて下さい、捨てねば見えないです、妄想もと自分の独創なんかないです、真を求めず妄を除かず、了じおわって下さい。
真妄は両名の言のみ、取捨いずれに因って存せん、は(回のみぎなし)耐たり舷に刻する者、千古空しく紛紜。
真も妄も言い草だけのこと、取捨はあるいは時と所による、真妄に振り回されている人せっかく仏だ悟ったと云いながらそりゃなんにもならんです、結局は我欲と欲求不満の人。はたいたりは耐え難い意、気の毒で見ていられないっていうんです、舷に刻する、剣を舟に落として舷に刻みめを入れる、愚かしいおかしなことのたとえ、まあさてめえ坐っているのにだからどうだでかしたの刻印したって、そりゃどうもならんです、千古空しくあっちこっちです、わずらわしいだけ。
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白馬基を建てしより、
知らず幾箇の春、
仏法云に東に漸み、
金文刹塵に遍し。
経を講じ科を分つ、
代其の人無きにあらず、
吾が師之れ胡為(なんすれ)ぞ、
迢として真檀にい臻れる。
仏心印を提持して、
直下に人をして了ぜしむ、
盛んなる哉普通の歳、
是れ少々に通ずるに非ず。
白馬基を建てしより、知らず幾箇の春、仏法云に東に漸み、金文刹塵に遍し。
二僧仏像経巻を白馬に載せて洛陽に来たので白馬寺を建てる、後漢明帝永平十年。金文は経巻刹塵は国土。知らず幾箇の春、国中に広まったわけです。
経を講じ科を分つ、代其の人無きにあらず、吾が師之れ胡為(なんすれ)ぞ、迢として真檀に臻れる。
お経を講釈して言葉と意味あいの上のことは科を分つ、なんのかんのと人間というのはもっとも大好きな連中で、だが達磨さんが伝えなければ、どうしたってわからなかったです。未知のものを求める、必ず云々原因結果です、求めてやまぬという百年河清を待つっきりの。ちょう遠いありさま、真檀は中国。
仏心印を提持して、直下に人をして了ぜしむ、盛んなる哉普通の歳、是れ少々に通ずるに非ず。
達磨大姉梁の武帝にあいあうは普通年間、盛んなるかな追っ払われて毒殺されそくなって面壁九歳、直下に人を了ず、これ少々の道にあらず、大道無門、もとまっただなかを示す。他のこっちゃないんです。
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第一他に参ぜんことを要せば、
先ず須べからく其の致を約すべし、
致を約す之れを如何、
我が見彼れの旨に異なれば、
暫らく我が所見を棄てて、
偏へに彼れの旨に参ずべし、
既に彼れの旨に契了らば、
是に於ひて静に理会せよ。
何れか短何れか長、
誰か非誰か是なると、
短を去って長に就き、
非を去って是に従ひ。
転次是くの如く去らば、
進んで仏智に契ふべし。 第一他に参ぜんことを要せば、先ず須べからく其の致を約すべし、致を約す之れを如何、我が見彼れの旨に異なれば、
人に参ずることは、仲たがいしないまずもって一致を見るべし、でなきゃそるあどうしようもない、でも一致するということは、あんまり容易ではない、我が意見彼の趣旨に合わずと、
暫らく我が所見を棄てて、偏へに彼れの旨に参ずべし、既に彼れの旨に契了らば、是に於ひて静に理会せよ。
まずもって自分を捨てて彼に従う、彼れの趣旨に契い終わったら、そのときに静に思んみればよし、面倒くさいこったがしゃば世間まずはそういうこったですか、まるっきり相手を見なければ問題はないんです。花知らず蝶知らず、知らずして帝の則に契う、仏の交流はこれです。
何れか短何れか長、誰か非誰か是なると、短を去って長に就き、非を去って是に従ひ。転次是くの如く去らば、進んで仏智に契ふべし。
新婚夫婦にはなむけの言葉を老師は見を持つなかれと云った、見解の相違という時所位です、あるとき長あるとき短あるとき是あるとき非です、しかも個人の意見趣旨なぞありっこないんです、云ってみりゃ虎の威を仮る狐ですか、物差しのあてがいっこです。良寛の近所付き合い世の中すなわちかくの如し。自閉症につける薬ってあっはっは是是。
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過去はすでに過ぎ去り、
未来はなを未だ来たらず、
現在また住せず、
展転相ひ依る無し。
許多の閑名字、
竟日強ひて自ら為す、
旧時の見を存する勿れ、
新条の知を逐ふ勿れ。
懇懇偏に参窮し、
之に参し復之を窮め、
窮め窮めて無窮に到り、
始めて知る従前の非なりしことを。 過去はすでに過ぎ去り、未来はなを未だ来たらず、現在また住せず、展転相ひ依る無し。
過去心不可得、むかしこうだったからという、こうだったという不可、だからという糠に釘です、三心不可得は仏教の専売特許ですか、それほど他宗あるいは思想哲学世の常識は間違ってます、大河ドラマ一億白痴化現象ですか、歴史というだれも知らんのです、強いて云えばホーマーとか平家物語の嘘八百が真実ですか、歴史学者ほど文章のなっちゃないのいないってわっはっは、無責任云ったら権威さまから叱声を食う、大学文科っての税金無駄使いってだけがさ。展転あひよるなし、すなわちこれ人間です、心身かくの如し。
許多の閑名字、竟日強ひて自ら為す、旧時の見を存する勿れ、新条の知を逐ふ勿れ。
マスコミのこと云ってるんですか、つまりはその他大勢一般大衆です、許多の閑名字とは、人の思うこと話すことみなこれなんです、あることないこと閑名字です、終日強いてこれをなす、雲を見る月を仰ぐ筆舌に尽くし難いことこれ生活です、徒に名付けて点と線の無内容どうにもこうにも。
懇懇偏に参窮し、之に参し復之を窮め、窮め窮めて無窮に到り、始めて知る従前の非なりしことを。
常識の夢を破ることは並大抵じゃないんです、痴人に夢を説くなかれと、学校の先生に仏を説くことはそりゃもう容易なこっちゃないです、窮め尽くしてついに得ずということ、ようやく餓鬼から脱して人間です、人間のたがを外すと仏です。
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四月朱明の節、
飄々として衲衣を著る、
水に臨んで楊柳暗く、
岸を隔てて桃李飛ぶ。
行く行く野草を摘み、
徐徐に柴扉を叩く、
胡蝶南園に舞ひ、
奈花東籬を遶る。
意閑にして白日永し、
地僻にして趣き自ずから奇なり、
我が性逸興多し、
句を拾ふて自ら詩を成す。 四月朱明の節、飄々として衲衣を著る、水に臨んで楊柳暗く、岸を隔てて桃李飛ぶ。
朱明とは夏のこと、柳に楊とやなぎとポプラみたいのかな中国には多種あるらしいけど、とにかく漢詩だからあちゃらかもの、暗いというのは茂みなすことか、明るいって云いたいところだが、桃もすももももものうちってのh早口言葉だが、すももはこのあたりほとんど見かけぬ、中国では桜より李の花、どっちかというと春の風情ですか。ひょうひょうとして墨染めおんぼろ衣を着て~
行く行く野草を摘み、徐徐に柴扉を叩く、胡蝶南園に舞ひ、奈花東籬を遶る。
草摘みですか、わしらががきのころは春になると親子して出かけたな、のびろなずなたんぽぽにらせりとときとか。おもむろに柴の扉を叩く、知り合いを尋ねたんですか、ちょうが飛んで菜の花が咲いて。
意閑にして白日永し、地僻にして趣き自ずから奇なり、我が性逸興多し、句を拾ふて自ら詩を成す。
ぼっかり閑で日が長い、ど田舎だもんでなにをどうしなならんていうこともない、どだい変わり者だからまっぱじめから出外れ、仕方ない詩でもひねくるしかないかとさ、はーい。
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流年暫らくも止まらず、
人生は長くも寄するが若し、
昨は紅顔の子たり、
今は変じて魑魅となる。
一朝病床に纏はれば、
親族漸やく捨て離る、
乖張応に日有るべく、
嘍囉施すに地無し。
前路尚ほ未だ覚らず、
後事誰をして委ねん。 流年暫らくも止まらず、人生は長くも寄するが若し、昨は紅顔の子たり、今は変じて魑魅となる。
年は流れて一瞬もとどまらず、人生という流れの中に長らく寄りつく岸のようにも見える、だが昨日は紅顔の美少年、今日は化け物に変じてってわけです。いやはやまったく。
一朝病床に纏はれば、親族漸やく捨て離る、乖張応に日有るべく、嘍囉施すに地無し。
いったん病気にとりつかれると、親族ようやく疎し、まあさたいてい見放すんです、乖張弓が反対に反り返る、思うことなすことあっちこっちですか、ろうら多言わずらわしきこと、ぶつくさ文句百万だらです、あっはっは今も昔もまったく同じこったですか。
前路尚ほ未だ覚らず、後事誰をして委ねん。
まるっきり悟りが悪い、やがて死ぬ景色も見えず蝉の声ならまだしも、ぼろくずにしがみついて臭い穢い、でもっておれの後をどうしたらいいかと要らん心配ですか、うっふ百人が百人。あるいは悟ったといっちゃ物真似のこりゃ死んでも死にきれんですか。
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盤陀たる石上に坐し、
支頤雲煙を眺む、
雲煙千万重なり、
宝塔日に映じて懸かる。
下に龍王の泉あり、
以て心顔を洗ふべし、
上に千年の松有り、
清風竟日伝ふ。
誰か能く世累を超えて、
茲に来たって盤桓を共にせん。
盤陀たる石上に坐し、支頤雲煙を眺む、雲煙千万重なり、宝塔日に映じて懸かる。
盤陀石のわだかまりて平らかならざるさまって、平らじゃないと坐れんな、支い顎に手をやって雲煙を眺める、雲煙千万かさなるっていうんだからものすごいんかな、ちっと白髪三千丈、詩の面白さ一人悦に入ってるところがいいかあっはっはモーツアルトな、宝塔とは五重塔のような、雲の中から日に照らされてにょっきり。
下に龍王の泉あり、以て心顔を洗ふべし、上に千年の松有り、清風竟日伝ふ。
国上山は持統天皇の代に建てられた県内三番目かの古いお寺、どだい箱庭みたい風景をかくの如く、外人どもと30年前に尋ねたら、泉の傍らの木に連中よじのぼって、これと住持のに怒られて、それから酒天童子の絵巻物を見せてもらった、酒天童子は付近の岩穴に棲んでいたという伝説。
誰か能く世累を超えて、茲に来たって盤桓を共にせん。
盤桓すすみがたし行きつ戻りつする、自然と一体化することきわめて難、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき、ひとり良寛のほかに寡聞にしてわしは知らず。
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独り高堂の上に坐して、
鬱陶として心康き無し、
馬を馳せて遠く行き過ぎ、
高きに上って遐荒を望む。
回飆地を動かして起こり、
白日忽ちに西に傾く、
長江白波を涌かせ、
曠野渺として彊りなし。
玄猿儔侶に嘯き、
哀鴻南に向って翔ける、
百憂眉端に攢まり、
万感中腸に結ぼる。
帰らんと欲して故路を失す、
歳暮何の成す所ぞ。 独り高堂の上に坐して、鬱陶として心康き無し、馬を馳せて遠く行き過ぎ、高きに上ってか遐荒を望む。
独り高堂に坐してどうにもこうにもというお粗末、ないものが見りゃ一目瞭然、だれかそんな偉僧を見たんでしょう、鬱陶しい心のうちです、心は一つきりだのに、心が心を取り扱う不可能事です、そりゃどうもこうもならんです、いわく馬を馳せて遠くに行き、木に登ってあっちこっちをのぞむ、まさに人々そういうこったです、ただいたずらに精神を費やす。
回飆地を動かして起こり、白日忽ちに西に傾く、長江白波を涌かせ、曠野渺として彊りなし。
回ひょう竜巻が地を動かして起こり、お日さまは急に西に傾く、長江白波を絶て荒野がぎりなし、妄想あっはっはまったくかくの如し、まあさ。
玄猿儔侶に嘯き、哀鴻南に向って翔ける、百憂眉端に飆まり、万感中腸に結ぼる。
真っ黒い猿が仲間を呼んでうそぶき、わめき叫んで雁が南に飛ぶ、百憂い眉にあつまり、万感断腸の思い、どうですか坐ってそんなことありますか、多々あるという人これを救って下さい、すなわち全世界を救うんです、自分を押さえ込んで禅はこうあらねばならぬというふうに坐れば、かえってまったくの自救不了。
帰らんと欲して故路を失す、歳暮何の成す所ぞ。
坐ってもなんにもならないです、かっこうつける坐禅、人に見せる坐禅しかない坊主ども、沢木興道禅これです、はーい一目瞭然いえさまったく苦るしかろうがさ。
提唱…提唱録、お経について説き、坐禅の方法を示し、また覚者=ただの人、羅漢さんの周辺を記述します。
法話…川上雪担老師が過去に掲示板等に投稿したもの。(主に平成15年9月くらいまでの投稿)
歌…歌は、人の姿をしています、一個の人間を失うまいとする努力です。万葉の、ゆるくって巨大幅の衣、っていうのは、せせこましい現代生活にはなかなかってことあります。でも人の感動は変わらない、いろんな複雑怪奇ないいわるい感情も、春は花夏時鳥といって、どか-んとばかり生き甲斐、アッハッハどうもそんなふうなこと発見したってことですか。
とんとむかし…とんとむかしは、目で聞き、あるいは耳で読むようにできています。ノイロ-ゼや心身症の治癒に役立てばということです。