無門関

無門関


習庵序

道は無門と説けば、尽大地の人得入せん。道は有門と説けば、阿師の分無けん。第一強ひて幾箇の注脚を添ふは、大いに笠上に笠を頂くに似たり。硬く習翁が賛揚せんことを要す。又是れ乾竹に汁を絞る。這些の哮本を著得す。習翁が一擲に一擲するを消ひず。一滴をして江湖に落さしむること莫れ。千里の烏騅も追ひ得ず。

道は無門、門がないと説けば猫も杓子の門に入る、だれあって仏は仏のはずが、気がつかねば使えない道理です、なお証せざるは顕れず、門というにはこれだけが門です。門有りと説けば阿師、師というには出家修行の事、他の追随を許さぬものあり、無門関を説きこれを修めて、あるいは千人のうちの一人も卒業できないんですか、無門というのにどうしても有門です、どこまで行ってもなにかしらあると思っている、身心なしを未だ夢にだも知らんです、即ち使いようがないんです、使いようにないのを使っている、使う手段です、手段都合ありゃ落第なんです、それを知らないからただもう騒がしいだけです、臨済宗だの曹洞宗だのいってかす、くずあくたの集積です、強いて幾箇の注脚という、ないものが云えば多少は取り得あり、有るものが云えば邪魔です、仏をよこしまにし、達磨さんに毒を盛る、ついではごんずい塊にかたまって端にも棒にもかからんです、自分で自分の首を絞めて、かくのごとくの宗門の衰退です、嘘と張ったりばかりの坊主渡世は、死出虫稼業の欲やかりいじましさのほかになんにも残らんです、これみな無門を有門とするが故による、人々厳に謹んで下さい。習翁とは習庵和仲という宋代の進士だそうです、破天荒といわれるほどの進士に及第して世間一級の人物でしょう、禅門を叩いてこの文章も並のものではないです。賛文を書けと云われて、乾竹から汁を絞るようなものだと云い、這些のこう本子供だましの本が出来上がったが、一擲捨てるなげうつんです、二回も捨てるんですかあほくさ、捨てる値打ちもないという、こんなものを江湖揚子江と洞庭湖江湖会と未だに法戦式のことを云うんですが、これは転じて世間ぜんたいですか、江湖にこれが一滴の序を落とさないでくれ、広まったら最後一走り千里を行く名馬うすいも追いつけぬというのです。なんだかもって回った序ですか、なんにもない人なんにもない日送り如何、どうですかちゃんと答えが出ますか、はい当たり前ってねアッハッハ。


表文

紹定二年正月初五日、恭しく天基の聖節に遇う。臣僧慧開、預め元年十二月初五日に於いて、仏祖の機縁四十八則を印行ねん提し、今上皇帝聖身弓の万歳万歳万万歳を祝延したてまつる。皇帝陛下、恭しく願はくは、聖明日月に斉しく、叡?乾坤に等しく、八方有道の君を歌い、四海無為の化を楽しまんことを。
慈懿皇后功徳報因祐慈禅寺前住持、伝法臣僧慧開、謹んで言す。

天基聖節は天子の誕生日、無門慧開は臨済宗月林師観の嗣。慈い皇后は理宗の母、母の追善供養のために建てた寺。紹定二年は1229年。叡簪乾坤ー日月のように智慧が明らかなこと。四十八則の有道のありようを歌い、世界ぜんたいが無為をもってすることを願う、無為の化を楽しむことこれ政治の根本です、理想社会これ。皇帝という今は二束三文ですか、アメリカの大統領選挙も中国共産党も勝れりとはさっぱり思えんです、いずれ物笑いにしかならんです、いえさものみなに目くじら立てるよりは、祈るにしくはなし、空騒ぎで一生を棒に振らんこってす、はい。


禅宗無門関の自序

仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麼生か透らん、豈に道うことを見ずや、門より入る者は是れ家珍にあらず、縁によって得る者は終始成壊すと。恁麼の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡を抉るに似たり。何ぞ況んや言句に滞って解会を覓むるをや。棒を棹って月を打ち、靴を隔てて痒を爬く、甚んの交渉か有らん。慧開、紹定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。衲子の請益に因んで、遂に古人の公案をもって門を敲く瓦子と作し、機に随って学者を引導す。竟爾として抄録するに、覚えず集を成す。初めより前後を以て叙列せず、共に四十八則と成る。通じて無門関と日う。若し是れ箇の漢ならば、危亡を顧みじ単刀直入せん。八臂の那だ、他を欄れども住まらず。従使い西天の四七、東土の二三も、只だ風を望んで命を乞うことを得るのみ。設し或いは躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似て、眼を貶得し来たらば、早く已に嗟過せん。
頌に日く、
大道無門、千差路有り。
此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。 

 仏語心を宗とすとは、馬祖同一の用いるところ、見たふう聞いたふうじゃない、自ずからということです、仏教といいお経という体制派じゃない、心なりという、仏心宗という、ただ我と我が身心です。
 仏道を習うというは自己を習うなりという、そんなこと当たり前だという、どうも就中そうは行かないようです、こうしてmixiやヤフーをやっても、法華経はありがたいから、お釈迦さまはなにがどうの、ひいきの引き倒しみたいな、仏教という噂に終始して、信ずるといっては不信、善人というほどに悪たれです。醜いです。わずかに100人中一、二がようやく門に入る、これ無門関です。
 無門とは門が無いんです、もとっから入りっぱなしです、心して狭き門より入れという、その心はと聞く、答えられない、故に無門。狭いから入ったら狭いきりです。
 自己を習うというは自己を忘れるなり。無門という無自覚の覚、一神教ヨーロッパ流では思いもよらんですか、思想共産主義哲学科学も、いいえ成れの果てというか同類です、もと入りっぱなしのこれ、記述する必要がないんです。もと手つかず、露堂々とこうあるっきりです、大自在底無上楽は、自分という架空の薄皮一枚剥がせばよい、すなわち忘れるんです、忘我。
 しばらく作麼生か通らんとはこれです、そもさんはスラングでどうだというほどの意。理屈わかったって、どうもならんです。自分という従前を捨てて本来です。問うになにほどか。
「門より入るものはこれ家珍にあらず、縁によって得るものは始終成壊す。」
 と、声聞縁覚というんでしょう、見たふう聞いたふう、確かめえないからがんじがらめ、自縄自縛の縄のはしっこを、すなわち自分だと思い込む。
 ほどけば仏、ほどき終わると初めて仏教です。我れと我が身心の辺に知ると、雲散霧消。元の木阿弥、以無所得故菩提薩た、縁によって得るものの始終成壊を知る、すなわち無常を知って仏門に入るとはこれです。
 得たもの当てにならず、どうですか得たものを当てにしての日んがな毎日なんでしょう、いつどうなるかわからんです。
 もとこの通りでいい、まさに他にあるはずはないんです、ではこの通りでいいといって、だれもさっぱりよくない、強いていいからといったって、歓喜もなく当然もなく、面白くもなんともないです。どういうことか。
 見る通り聞く通りのものを、呑却して下さい、宇宙丸ごとハウマッチ、ただで手に入れりゃいい、他なしなんです、これ満足不満足を通り越してしまうです、
 おらあがん、おれのものと良寛さんは、人のものだろうが書いた、まさにこれ実感。
 他の師家禅師らとわしの違うところは、見る通り聞く通りしかないということです、特別の本地風光だの、奇跡だのいうもではなく、風無きに浪を起こし、好肉上に抉ることをしないんです、もしくはまったく卒業しちゃって下さい。大悟十八ぺん、小悟その数を知らずなら、ついに忘れ去って下さい、でないと役に立たずです、室内を透過という、余計なことは要らないです。
 どうですかよくお考え下さい、何が必要なんですか。
 だからといって、見性の必要はない、知ればいいんだという、そんなことまったくないです、風に木の葉という、木の葉揺れずこっちがこう揺れる、揺れてみて初めてこれ、身心なければまさにこれ、身心あって言語したってもが、そりゃただの嘘。
 見性あろうが、たといこれを遠くに見て、棒をふるって月を打ち、隔靴掻痒することは、百害あって一利なし、多くの師家禅師らが曖昧模糊、月を打つさえできずにお茶を濁す、世にある提唱禄解説など、実に100%そんな類です、どうしようもないです。瀬戸内寂聴も文化勲章の世の中だで、仕方ないかって、劣悪な世の中、そりゃもうどん底のだれかれ困っています。
 そんなこっちゃ仏教が絶え果てます、いえ仏教だけは時代によらんです、まずもって真っ正面、真っ正直です。慧開、こやつは実にしっかりしてます、紹定元年一二二八年東嘉の龍翔寺に首座となり、衲子、大衆雲衲のために請益すという、大法を説くのに、古人の公案事跡を示して、門をたたく瓦子となす、すなわちかすっともかすらなくなれば卒業です、自分というものまったく失せる、なんの問題も起こらぬとは、魚変じて龍と化す、通身他が為にするんです。
 語に響きありとはこれです、仏を道いいながら我田引水、自分の為にしかできない、まずはこれをもって標準として下さい、論の正しさもですが、ちらとも残っていれば、そりゃ滞るんです、真っ正面に向かえば、是不是自ずからするんです。
 はい、ともに四十八則となる、名付けて無門関となすと。
 若しこれ箇の漢ならばと、依草付木の精霊という、インツーイッションだの個性だのいう、臍の緒くっつけたまんまというのかな、あるいは学者インキと紙の、あっはっは今はパソコンの虫ですか、比較と関係点と線の平面蛙です。そうじゃない一箇の大丈夫です。そうとなれば、たとい命失うとも、単刀直入に来い、八臂の那だとは、阿修羅王とて天地を支える三面八臂の大力鬼王ですとさ、たといそんなんが出てきても、なんのその。
 西天インドの四十七仏、仏仏に単伝して、お釈迦さま迦葉阿難尊者と続き、達磨さんから二十三代また道元禅師より今に至る滴滴相承です。これが他の思想宗教人間の多種と違って、まったく寸分の差異もないんです、星が頭へ入った等の中途半端じゃない、一滴余さず器から器になんていう、まだるっこしいこっちゃない、地球ぜんたい宇宙そっくり相続です、単純です。
 ですからこれ、仏祖がどうの、ありがたやじゃない、仏祖のほうが命乞いをするほどにというんです、さあやって下さい、このとおりはらばたさらけ出したぞ、若しあるいは躊躇せば、門前払いです。足の骨を折るぞ、窓越しに走馬を見る、一瞬すれば失う、どうもこうもならんてわけです。
 そりゃまあ当然、ものみなこのようにあるんですよ、あっはっは禅宗無門関という、はあてこれなんぞ。

大道に門無く、万別千差というそのものこれ、この関を透過して、乾坤に独歩せよと。

乾坤に独歩するこれを、さあどうか得て下さい、生まれ本来ですよ、空手還郷。



一、趙州狗子

趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性有りや。州云く、無。

無門云く、参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず心路絶せずんば、尽く是れ依草付木の精霊ならん。且く道え、如何が是れ祖師の関。只だ者の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり。遂に之を目けて禅宗無門関と日う。透得過する者は、但だ親しく趙州に見えるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛あい結んで同一眼に見、同一耳に聞く可し。豈に慶快ならざらんや。透関を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の豪竅をもって、通身に箇の疑団を起こして箇の無字に参ぜよ。昼夜提撕して、虚無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相い似て、吐けども又吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久々に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。幕然として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の太刀を奪い得て手に入るが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於て大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん。且らく作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ。若し間断せずんば、好はだ法燭の一点すれば便ち著くに似ん。

 すべからく祖師の関を透るべしというこれです、物作りには技術の洗練ですか、卒業太鼓判というのがある、そりゃ同じにしても、見ること不可能の自分です、まったく違う思いも及ばぬ卒業、仏教禅宗はかくあると幾ら知識あり、たとい習い覚えも二束三文です、祖師の関を透過するしかない、あとにも先にもこれっきりないです。
 依草付木の精霊というのは、世間一般みなこれです、生き方を習い宗教道徳という、芸術学問という、個性ともそりゃ技量の問題です。あるいは他に抜きん出たといい、どこかしら繋がってます、虎の威を借る狐ですか。これはそうではない、生まれついての本来です、一箇の人間が、いえ人間というさえ染汚するんです、一箇乾坤に独歩です。あっはっはもとまったく他にはないんです。
 無門関、無字を透るという、あくせく七転八倒の尽きるところです、どう工夫しようと役立たず、求めるに従い山河を隔つんです、まことにこれを知る、就中困難ですか。
 むかしから無字の公案という便法があった、心機丹田、臍下三寸にむの字を置いて見つめ見つめして行くという、あるいは隻手妙音という、片手妙音を発する、聞いて来いというが如き。
 さすがに無門他の手段は取らず。
 通身に箇の疑団を起こし、なぜにというんです、生老病死苦何ゆえに、何ゆえに我ある、我思う故に我れありという、そりゃ初めにわざありきの予定説です、なんたってもう一つも二つも何ゆえにと問う、通身何故にになってしまうと、やや取り柄ありと。
 虚無の会をなすことなかれ、熱鉄を呑み下して吐かずです、ついに純熟してまく然として打発する、自然成を待つ。無字をやって公案を幾つやってという、そうやってほんとうに得たものは希というか、ほとんどいないんです。なぜか、なにものかをなをざりにしている、人としての肝心要を。ちがいますかようく考えて下さい。
 仏教が必要なんですか、あなた自身が必要なんですか。若し仏教を求むればついに収拾不能です、自分を求めるに従い直きにまっただ中です。好し法燭の一点すればと、身心が応じてくれるんです、微妙幽霊便ち著くに似たりと。仏祖にもとらわれず、一切から、身心というこれからまったく離れて下さい、すると、是、あるいは是不是によらんのです。
 必ずこういうことがあります。
 唖子の夢を得るごとく、ものみな瞭然だのに、もとからこうある他ない、どっぷり漬けだのに、舌頭たたわわ。
 説教坊主学者のほうが達者、間違いばっかりの、あほくさ。
 瞭然なんです。だって自分が自分です、外れるわけには行かないんです。
 せいぜいが鳥のように鳴き、蛙のように跳んで下さい、返り見る二分裂をしないんでし、100%です、いえ200%、人間以外みーんなやっていますよ。云く、無。
 無心=心がない、来たる如し如来と云います。花も山河大地も如来。はい地球のお仲間入り。禅宗も仏教もないですよ。あっはっは宗教のらち外。

 頌

 狗子仏性、全提正令。
 わずかに有無に渉れば、喪身失命せん。

有耶無耶っていうでしょう、そいつをまったく離れる=ただです、ものみなただ。これが就中できない、喪身失命の皮一枚脱いで、大死一番です。


二、百丈野狐

百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も退く。忽ち一日退かず。師遂に問う、面前に立つ者は復た是れ何人ぞ。老人云く、諾、某甲は非人なり。過去迦葉仏の時に於てかつてこの山に住す。因みに学人問う、大修行底の人還って因果に落つるや。某甲対えて云く、因果に落ちず。五百生野狐身に堕す。今請う和尚、一転語を代って貴えに野狐を脱っせしめよと。遂に問う、大修行底の人、還って因果に落つるや。師云く、因果を昧まさず。老人言下に大悟。作礼して云く、某甲已に野狐身を脱して山後に往住す。敢えて和尚に告ぐ。乞うらくは亡僧の事例に依れ。師維那をして白槌して衆に告げしむ。食後に亡僧を送らんと。大衆言議すらく、一衆皆安し、ねはん堂に又人の病む無し。何が故ぞ是くの如くなると。食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下に至って、杖をもって一野狐を跳出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師晩に至って上堂、前の因縁を挙す。黄蘗便ち問う、古人あやまって一転語を祇対し、五百生野狐身に堕す。転々あやまらざれば合に箇の甚麼にか作るべき。師云く、近前来る、伊が与めに道わん。黄蘗遂に近前、師に一掌を与う。師手を拍って笑うって云く、将に謂えり、胡鬚赤と、更に赤鬚胡有り。

無門日く、不落因果、甚としてか野狐に堕す。不昧因果、甚としてか野狐を脱す。若し者裏に向かって一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生を勝ち得たることを知り得ん。

 百丈懐海(749~814)馬祖道一の嗣、黄蘗希運は南岳下、百丈の法を継ぐ。大修行底の人かえって因果に落つるや、因果に落ちずと答えて、五百生野狐身に堕す。これそこいらへんの大小禅師師家ども、まずもって顧みるべきです。大修行底とおのれ思うほどの人はみなこれ、つまりはなにか特別があると思っているんです、無字を透過した室内を終えた、だからおれはという、どっかに甘えがあるんです。悟り何段とかゆう、世渡りの術、転ばぬ先の杖ですか。そりゃ世間流みなこれです、しかし仏は違います。そんなもんあるわけがない。悟れば悟るほどにいよいよ素っ裸です、身を守る盾もなければ矛もないんです、はい盾矛ありゃ矛盾なんです、ただもう現実ずばっと来る、悲惨苦痛この上ないというまさにこれ、わずかに無心、心が無いんです、無いものは傷つかないことを知るだけなんです。
 これをいう、仏とは因果必然を知るだけ、大悟徹底とは、昨日の自分は今日の自分ではないってことです、日々好日というそんな絵に書いた餅はぶら下がっていない。赤貧洗うが如くに、ただもう取り付く島もないんです。
 大修行底の人という、はい赤ん坊です、無防備都市ですよ、なんの取り柄もないんです。それ故に因果を昧まさず、まさに因果そのものです。迷悟底の人、すなわちわれらぼんくらは毎日因果を晦ます、ないがしろにして生きています。ただもういい加減なんです野狐身のほうがまだ清潔です、人間のどうしようもなさ、そりゃもうだれもうんざりってのにさ。
 この則なにか持って回って冗長なとこあって、人気ないんですが、ゆるがせにできない一則です。
 はいあなたも野狐禅、赤鬚胡胡鬚赤わっはっはやられちまった、一掌もって、きれいさっぱりになって下さい、は-いぱーんとなんにもないんですよ。ゆえに無門関。

 頌に日く

不落と不昧と、両采一賽。
不昧と不落と、千 万 。

 采はさいころの目、賽はさいころを振る、あっはっはてやんでえと云ってるんです、どっちの目出ようがかすっともかすらない、そりゃそうです、木や草に雲や月不落不昧云ったって、なにがどうってことないです、あなたも月に雲にあるいは草木になって下さい、千しゃく万しゃく、別段文句もないんですが。
 これ参禅にいいんです、妄想あろうが是非善悪もたといすったもんだしようが、それそのまんまなんです、呑却というも遅いんです、他なしというも余るんです。はいどうぞ。
空白のところ=金と昔、半角でくっつけたら出ない、しゃく


三 倶詆竪指

倶詆和尚、凡そ詰問有れば、唯だ一指頭を挙す。後に童子有り。因みに外人問う、和尚何の法要をか説かん。童子も亦指頭を竪つ。詆聞いて、遂に刃を以てその指を断つ。童子負痛号哭して去る。詆復た之を召す。童子首を廻らす。詆却って指を竪起す。童子忽然として領悟す。詆将に順世せんとして、衆に謂って日く、我れ天竜一指頭の禅を得て、一生受用不尽と。言い終わって滅を示す。

無門日く、倶詆並びに童子の悟処、指頭上に在らず。若し者裏に向かって見得せば、天竜同じく倶詆並びに童子と、自己と一串に穿却せん。

 詆は言でなく月

 倶てい(南岳下天竜和尚の一指頭によって開悟し、その法を継ぐ。)ただ一指頭を立てる、指一本竪立して、他の説明能書きとかないんです。大力量だっていって、そんじゃそんなことはだれだってできる、一本指立てて、さあて相手は悟れるんですか、そりゃできる。倶てい未だしであろうとも、ぼんくら木石であろうともです。一目瞭然他なし。倶ていを証明する人幾人ぞ。童子和尚の真似をして、だれあって道を問い来ると、一本指立てた。倶てい遂にその指頭を切る、童子負痛号哭、泣き叫んで去る、それを呼び返して一指頭ですか、童子忽然領悟。
 ぶった切るほどのことせねば悟れんですか、いえ、大いにそういうことあります。張り子の虎みたいな仏法をする、いくらノウハウも理路整然も、まったく届かないんです、まずはそれを知る畢生の大事、なおさら省みることをしない、腕一本ぶった切って、負痛号哭初めて身心一如です。張り子の虎じゃないてめえのこったと知る。
 就中気がつかないんです、ただの困ったさんのくせに、おれは、だからとやる。いいですか、童子でも悟んです。三つ四つの子が大人顔負けに了然、すると禅門は届かぬなどいう、けっこうにっている女の子がいて、檀家の親父が怒り出した、そんな馬鹿なというんです。禅門というそんなものないです、深浅を云えば、ただ底無しなだけです。もとあるがようにある以外、なんら知ることができない、知っても役立たずを知らない。思想の究極です、智慧とはこれ、中途半端にはそりゃわからんです。
 中途半端ってことがわからない、わっはっは、もっと先があるっていうんです。
 童子法を問われて、一指頭を立てる、ないんです。通身ないんです、玉露宙に浮かぶ、大悟するんですよ。
 そういう人いました、足指を交通事故で失い、風呂へ入るのも遠慮がちであった、
「なんだ、足指のほうが先に大悟しちまったんか。」
 といったら、はあっと悟る、あっはっは一週間ばかり悟っていたですか、時期至らずってなにまたやりゃいいです。つまりどっかで悟りを遠く見ているんです、これがこのままを納得しない別っこと。悟りってものがあると。

頌に日く、

倶詆鈍置す老天竜、利刃単提して小童を勘す。
巨霊手を擡ぐるに多子無し、分破す華山の千万里。

 中国の神話にある巨霊神は、もと一つであった山を引き裂いて、華山と首陽山をこさえた。仏法多子なし、まさにかくの如くです、仏教という八万四千巻は、ただもうあとからついて来るんです。お釈迦さまに仏教なし、時にふれ折にふれがあるだけです。


四、胡子無鬚

或庵日く、西天の胡子甚んに因ってか鬚無き。

無門日く、参は須らく実参なるべし、悟は須らく実悟なるべし。者箇の胡子、直きに須らく親見一回して始めて得べし。親見と説くも、早く両箇と成る。

 或庵(臨済宗護国景元の嗣)云く、西天の胡子とは達磨さんです、達磨さんになんで鬚がないんだと聞く、胡えびすっていうんか外国人は鬚をたくわえていた、そりゃ達磨さんも達磨絵にある通りです、
「なんで鬚がない。」
 と云われたら、ひげのなくなるまで参じて下さい、こりゃ他に方法がないんです。理解して有耶無耶、あるとないが同じだからとか、ひげとはもと不要、仏法にひげつけたって云々なと、幾ら云ってみたって満腹にゃならんです。
 老師に参ずる始め、茶碗と急須をさして、
「どっちが大きい。」
 と聞かれ、急須の方が大きいに決まってるじゃないか、おかしなこと云うじっさだとか、
「どんな色ですか。」
 と、聞く、
「茶色だ。」
 なと、番たびやっていて、あるとき大小なく、色あいもない一瞬、ふわあとなんかけだるい感じがしたです。
 自分という皮袋の剥がれる感じですか。
 すっかり落ち切って見る、魚行いて魚の如し、水自ずから澄む、という、すなわち人のいう風景とは、妄想に拠って見る。
「濁りなき心の水に澄む月は波も砕けて光とぞなり。」
 大小また色合いをいう以前の真相です、空前絶後事という、父母未生前です、胡子鬚ありや、赤いひげ無きや、あるいはそいつがまるっきりわからんです。だからどうだって、下らぬこと云いあう前に見てごらんなさい、妄想生涯一変します、滞りなきものみなです。

頌に日く、

痴人面前、夢を説くべからず。
胡子無鬚、惺惺に惘を説く

 痴人とは情識の人です、虎の威を借る狐ですか、だからこうあるべきという、思い込みいいことしいの人です。醜いなんというみっともなさってね、でも世の中たいていがそうです。達磨さんに毒を盛る連中。ニラ-ラさんだのテルゼに法を説いても、こりゃどうにもならんでしょう。惺惺に惘を説く、ただもう眠ったくなるっきりですか。
 夢とは何か。



五、香巌上樹

香巌和尚云く、人の樹に上るが如し。口に樹枝を含み、手に枝を攀じず、脚は樹を踏まず。樹下に人有って西来の意を問はんに、対えずんば即ち他の所問に違く、若し対えなば喪身失命せん。正恁麼の時作麼生か対えん。

無門日く、縦い懸河の弁有るも惣に用不著。一大蔵教を説き得るも亦用不著。若し者裏に向かって対得著せば、従前の死路頭を活却し、従前の活路頭を死却せん。其れ或いは未だ然らざれば、直に当来を待って弥勒に問え。

 香巌智閑(百丈下い山霊祐の嗣)、高い木の上にのぼって、足をはなせ、手をはなせという、口にくわえてぶら下がっているところへ、人が通って祖師西来意を問う、達磨さんの伝えたもの仏教です、仏とは何かと問う。さあどうするかというんです。答えは一つ、口を開いて墜落して死ぬってのです。他にはないです。
高い木を仏教といい、道という、いかにもらしく行ない清まして、光明を放ち智恵を得、立派なことはこの上なし、人みな跪拝する、インドの聖者、まるでオペラ歌手みたいにいかにもらしい。たしかに木には拠らないという一項があるはず、菩提もと樹にあらず、よって手を離し足を外しする、だがどっかでしがみついているんです。
 ほんとうに放すことを知らない。それじゃしょうがない、これを有心という、クリシュナムルティだろうがラディニーシもみんな同じです。仏教のデカタンスともいうべき、格好だけはあって心なし。つまり心というものを見ている心がある=利己主義なんですよ、これが見えるか見えないか。
 仏かただの食わせ者かです。残念ながら百人に一人見えるか、自らに気がつくんです。
 仏は捨身施虎です、途中受用底です。お釈迦さまが前世において修行中に、飢えた虎が現れた。身をなげうって虎に与える、この因縁によって弥勒さんより何劫年先に、この世に現れたという。荒唐無稽な説話に見えて、これが仏教です、他にはないんです。
 自己を完成させる、立派な聖者になる、光明という、これ、
「なんという醜悪。」
 と知る本来心です。なりふりかまわず他がために、あの人は救う価値がある、だから身をなげうってじゃないです。虎というもっとも害敵ですか、そんなもんのために尊い命をという。まさにこれ。
 シルクロードを伝わって、繰り返し捨身施虎は(何種かの同様なたとえがあるそうです。)ついに日本の玉虫の龕の絵柄になったです。
 いいですか、自分という架空従前の自己は、死なんきゃどうもならん、
「答えろ。」
 叱咤されて口を開く、死のうとした時に既に死んでいます、なあになんとかなろう、命あってのと云ってたらなんにもならん。
 ましてや弁舌さわやかも一大蔵経もただの駄目。問答公案百出もってするなと、まったくこりゃ持ってのほか。
 従前の死路頭を活却し、従前の活路頭を死却すと、にもって思い当たって下さい、議論しひけらかす、見れば死人、脳味噌まっ平らです。おれはという思い込みを、おれはと云わぬさえ思い込みを、どかん墜落してめったらになりゃすべておれ。
 弥勒さんなんか待ったって来るわけない。
たった今、手つかずのおれ。

頌に日く、

香は真の杜撰、悪毒尽限無し。
衲僧の口を唖却して、通身に鬼眼を迸しらしむ。

 杜撰という正当でないもの、いいかげんを云う、禅門ではしばしば使われる、そりゃ常識通念では届かない、持ち上げといてさっと引く、転ばぬ先の杖を奪うことあって、はじめて独立独歩ですか、衲は衣のこと衲僧学人、雲水です、仏教という大樹をよじてと、四の五の云ってるやつの口を抑える。ばかもんといって張り倒せば、とやこうじゃない通身のこったとちったあ気がつくんです。


六、世尊拈花

世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時衆皆黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、吾に正法眼蔵、ねはん妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す。

無門日く、黄面の瞿曇傍若無人、良を圧して賤と為し、羊頭を懸げて狗肉を売る。将に謂えり多少の奇特と。只だ当時大衆都べて笑うが如きんば、正法眼蔵作麼生か伝えん。若し迦葉をして笑わざらしめば、正法眼蔵また作麼生か伝えん。若し正法眼蔵に伝授有りと道はば、黄面の老子閭閻をおうこす。若し伝授無しと道はば、甚麼としてか独り迦葉を許す。

 花をとってどうですかというんです。大衆みな黙然、道うことができない、右往左往騒然です。なんだろうあれは、いやこういうことだ、仏教とは云々、座禅は、だからゆえにというわけです。
「どうですか。」
 わずかに未解決、自分という決着が着いてない、すると花も未解決右往左往なんです。面白いでしょう、世の中世間も自然もただそういうことです。まったく我れという妄想そのまんまなんです。なにかなければ承知できない気がしている。
 悟りといい解脱といい大悟徹底という、悟り終わって悟りなしです。もと100%いや自他をいうなら200%ですか、ということはただ、まったく手つかずをもって、
「迦葉破顔微笑す。」
 です。
 一器の水が一滴余さず別の一器にという、まだるっこしい伝授じゃない、宇宙三界ぜんたいを、あるいは花を拈じて、
「はい。」
 と示し、
「なに余計なことを。」
 と云って、ふっと笑うんです。
 まことにこれ摩訶迦葉たった一人、吾に正法眼蔵ねはん妙心、実相無相微妙の法門乃至挙げて迦葉に付嘱すという、仏とはこれ、仏教これ。
 なんにもなけりゃ、なんにもないんだと、今の曹洞宗門はそんなことを云って、座禅かだったら座禅、法要は行事綿密威儀即仏法だからという、噴飯ものです。つまらん我田引水してついには面目丸潰れ、だれも宗門を仏とも宗教とも思わんです。
 御開山禅師の法灯が葬儀屋稼業、もはや人が寄らんです。
 迦葉尊者、多子塔前に於て世尊に相見えし時、衣髪自然に脱落して、とあります、信じ切ったんです、他なし、脇目も振らずです、二年間身を横たえることがなかった。大迦葉です、今に至るまで沙門大衆の首座です、常識ごとは論外、禅門発草旋風百万経巻のまたかつて及ばざる如くです。
 見れども見えず、着けどもつかず、ただこれ破衣を拝す。

頌に云く、

花を拈起し来たって、尾巴已に露わる。
迦葉破顔、人天おくなし。

黄面の瞿曇、ぐどんはゴータマですか、王舎城の壁が黄色であったからという。お城の壁をひっぺがして畢竟空に遊ぶ、尾巴始めっからしまいまでみーんなですよ。てへんに昔でおく、手をつける、人天どうにもならんのです、はいあなた自身人天おくなしを知って下さい。もとこうできあがっているんです、改めて指摘されたら、破顔一笑するよりない、あっはっはなにを今更ってね。


七、趙州洗鉢

趙州、因に僧問う、某甲作入叢林、乞う指示したまえ。州云く、喫粥し了るや未だしや。僧云く、喫粥し了れり。州云く、鉢うを洗い去れ。其の僧省有り。

無門云く、趙州口を開いて胆を見わし、心肝を露出す。者の僧事を聞いて真ならずんば、鐘を喚んで甕と作す。

 趙州真際大師は南泉の嗣、趙州の前に趙州なく趙州のあとに趙州なしと。六十歳再行脚。われより勝れる者は、たとい三歳の童子といえども、これに師事し、我れより劣れる者は、たとい百歳の老翁といえども、これに示さんという。いいですか、他の手続きはいらんのです、あい見ればすなわちこうです。自然に行なわれ尽くすよりないんです。趙州無字趙州喫茶去趙州東門西門南門北門趙州大道長安、間髪を入れずの急転直下です、まったく他なしにこうある、あっはっは云うだけまだるっこしいですか。
 それがし作入叢林、僧堂です、修行道場に入ったばかりです、指示お示し下さい。おかゆを食べおわったか、はい食べおわりました。では鉢、お椀でいいです、あと洗っておけというんです。
 この僧省あり、たいしたもんです、こないだも変なのいたが、たとい懇切説いても、自分の疑い迷妄のゆえに、見ようともせず、見えもせず、かえって師をそしるばかり。今の人基本的人権みたいのを、自分と勘違いしているんですか。すべてを平等だという、いじめと差別用語の自縄自縛。自分というワンパターンですか。
 坊主どもさえまったくそうです、喫茶去という、そりゃ当然のこった鉢を洗い去れ、日常茶飯となるわけです。無事禅というてめえの不始末、我欲のすったもんだを是とする、是としようが是ならざるを、塗ったくって糞まみれげろまみれ、わっはっは不潔なこったです。
 そんなのばっかり増えて、どん底の世の中。
 趙州洗鉢、切って落としたような、寒毛卓立、反省せざるを得んのです、反省という、かえりみるに我なし。おそらくは当時の叢林にも十人あるいは、百人に一人でしょう、拈花微笑のほどに、多くは右往左往です、だから、故にといって収拾がつかないんです、
 我に一物の仏法なしとは、200%現れるんです、内容如何というに、取りつく島もないんです。初心と同じか否か、これ打てば響くんです。従前の我とは関係ないんです。人々よろしくよく参じて下さい、昨日の自分は今日の自分ではないです、うたた悟ればうたた捨てよと。趙州六十歳再行脚。行脚とは何か。

頌に日く、
只分明に極まれる為に、翻って所得をして遅からしむ。
早く灯は是れ火なることを知らば、飯熟すること已に多時なりしならんに。

 分明に極まれりとは、たしかにお釈迦さまの云うとおり、達磨さんこれ趙州これ、つうかあ心行くですか、けれどもこれを顧みる故に、自分のもの、本来事にならない。
「あなたはだあれ。」
「知らない。」
 雪月花、達磨さんの不識に遅れる、月を仰いで忘我、良寛さんの無上楽に遠いんです。灯はこれ火なること、鉢うを洗い去れです、因果必然のみ行なわれて、以無所得故菩提さったです、飯熟多時なし、あしたに夕に坐っているってしかない、云うことなしのおのれ、あってもなくっても坐って下さい。はいどうぞ。


八、奚仲造車

月庵和尚、僧問う、奚仲車を造ること一百輻。両頭を拈却し、軸を去却して、甚麼辺の事をか明らむ。

無門日く、若し也た直下に明らめ得ば、眼流星に似、機掣電の如くならん。

 月庵善果(一0七九ー一一五二、五祖法演下)僧問う、奚仲という車を造る名人ですか、百台も車を造った、両輪を外し、軸を取り去って、さあどういうことになるかと聞くんです。
聞くからにはあるいはそうなって問い来たったんでしょう。
 月庵の答えがないんですが、ー
 奚仲を仮らずに、まずもって自分でやってごらんなさい。それ以外に意味ないです。坐るでしょう、自分失せて車です。まずもって自分という皮袋が消える、思い込みが失せる、そうねえ、額のあたり虚空に食われっちまいますか。すると吐く息吸う息が、車軸のように跡して心機丹田に収束する、アッハッハではそれを無くして下さい。
 答えは自ずからです、でもそれを見ている奚仲あっては不都合なんです。
 まあこんなこったですが、わしも今これを提唱てんでやってみたですがね、たいていつまらんです。
 いやそういうこといっちゃいけない、出たり入ったりして下さい、直きに忘れて得手勝手を免れて下さい。
 空じきるっていうことあって、一日が始まるんです。
 眼流星に似、機掣電の如しと、機という禅坊主はたらきごいってるようじゃ、糞詰まりですよ、目から鼻へ抜けるんじゃない、目鼻なし。一を聞いて十を知るんじゃない、もとぜんたい、間髪を入れずなんてまだるっこしいことない。

頌に日く、
機輪転ずるところ、達者も猶を迷う。
四維上下、南北東西。

 どうしても一百輻奚仲やっているんでしょう、こうあらねばならぬのしっぽを免れ得ない、飛躍が必要です、登竜門ですか、なにそうやっている自分を手放すんです。奚仲が不要なんです。
 たとい会に誇り悟に豊かにしてって、たいていけりはついているのに、まだやっていたりします、よろしくよく向上の事。
 ましてやまあ俗流有耶無耶、そりゃ云う甲斐もなき。なるたけ世の中濁さんように。



九、大通智勝

興陽の譲和尚、因に僧問う、大通智勝仏、十劫坐道場、仏法不現前、不得成仏道の時如何。譲日く、其の問い甚だ諦当なり。僧日く、既に是れ坐道場、甚麼としてか不得成仏道なる。譲日く、伊が不成仏なるが為なり。

無門日く、只だ老胡の知を許して、老胡の会を許さず。凡夫若し知り得ば、即ち是れ聖人。聖人若し会せば、即ち是れ凡人。

 興日清譲和尚百丈会下六代、この則なかなかいいです、大通智勝仏というんでしょう、あるいは仏教辺、あるいは我というこのものこれの辺に七通発達です、知らないものがはい。たとい解脱人大悟徹底のだれ来たとて、一目瞭然の如くです。お釈迦さまより知るというほどの、大通智勝仏と別して云われる所以です。
 どうですか、まさにこういう人います、十劫坐道場です、坐の辺にしか大通智勝もないです。触れりゃ見える、どうあろうがほんの些細も免れえぬ、却って不可。それ故に仏法不現前です、不得成仏道です。
 僧因に如何と問うのに、
「その問い甚だ諦当なり。」
 と答えるには、参学の人多くこれ、思い当たる節があるんです。見ているものがいる、どこまで行っても標準、そいつを一枚も二枚もひっぺがそうが、端睨すべからざるとしゃばでは云うんですか、たいへんな品物です、なんともならんのです。
 それをまた知っている、故に如何と問う、
「なんとかしてくれ。」
 という。
「かれが不成仏なるが為なり。」
 はい、けりがついたですか。
 そうやっている自分だけがいる、坐り抜いてそういうことです。
 困る、要領を得ないという時、困る要領を得ないがある。どうです、けりつかんですか。あっはっは。
 老胡とは、お釈迦さまでも達磨さんでもいいです、仏の知を許して、会を許さずはこれ大切です。
 成仏を得ようとする、見性という驚天動地の姿、そりゃもう満足すべきすんばらしいものという、たしかに多々あります、でもそいつじゃないんです。
 不得成仏道と仏法不現前と、向こうに見るもの、なんにもないです。わかりますか。
 知るという、無自覚の覚というべき、もと法の中にどっぷり浸けです、だから、ゆえにとう不必要、成道以外に一物もない=成道もない。
 ただもう他愛なくぽっかりです。
 大死一番とはこれなんです、求道も大通智勝も死ぬんです、ものみな消えて取りつく島もなく。
 凡夫は、これでいいと云いながらいいを夢見る、一朝事あれば失墜。もしいいもわるいも他なしと知れば聖人です。聖人が光明これまさに仏の会をなせば、そりゃ凡夫もまあ鼻持ちならんです。

頌に日く 
了身何を以てか了心を休ず、心を了得すれば身愁えず。
若し身心倶に了了なれば、神仙何ぞ必ずしも更に候に封ぜん。

 心をして了じ終わる、もう終わったというときに、会を云うんでしょう、身としてどうだかくの如くという。違うんです、たとい大安心大道長安もないんです。ただ身愁えず、文句云わない、どうあるべき云わないんです。
 どうもたいていの人ここが不明です、どうしても悟っただの、室内終わっただの云う、そりゃ持ちものです。
 そうではないただなんです。取り付く島もないとはものみな。
 無心ものみな、神さまや仙人と同じふうなんですよ、これほんと、嘘云わないです。億光年先の星を手掴みします、空中浮揚なんてそりゃただの見た目。


十、清税孤貧

曹山和尚、因に僧問うて云く、清税孤貧、乞う和尚賑済したまえ。山云く、税闍梨。税応諾す。山云く、青原白家の酒、三盞喫し了って猶を道う、未だ唇を沾をさずと。

無門日く、清税の輸機、是れ何の心行ぞ。曹山の具眼、深く来機を弁ず。是くの如くなりと然雖ども且らく道え、那裏か是れ税闍梨の酒を喫する処。

 曹山本寂(八四0ー九0一洞山良价の嗣あいともにして曹洞宗の祖)、清税という阿闍梨、じゃりあじゃり正行或いは規範とある、僧の意、因に僧問うです、清税という名にふさわしいので残ったんでしょう。でもこれ輸機という、こっちはかくの如く、まあいいやさ、お前に任せよう、どうだやってみるかてなもんの、ただものじゃないです。孤貧というシャバ世界にはないんです、孤独で貧乏という、浮き世の話では、青テントか清貧に甘んじて行ない正しくという、どちらも他の理解のうちです。これまるっきり届かぬ、孤俊という、世の中に知己がない、理解者を求めないんです、独立独歩です。
 そんなんでよく生きてられるなって、三界ものみな仲間うちです、しかも得るものなんにもない、無所得の世界故に、
「清税孤貧、乞う和尚賑済したまえ。」
 ふるまってくれと云うのです。
 アッハッハもう少しすなおにやれんかって、ちらとも未だしなんですか。
 未だしを云えば、そりゃ未だし。
 曹山和尚ひっかからんです、おうよしよしと云う代わりに、清税と呼ぶ、はいと答え、
「へーえ答えられるほどのお金持ち。」
 とも云わず、
「青原白家の酒、六祖の嗣青原行思です、三盞喫しおわって、唇をうるおさずと、ど阿呆め、よく云うよ。」
 落着しますか。
 長なえにこの中に住すと、まったく他にはなかったです。
 首くくる縄もなし年の暮れ、年の暮れなを新年に赴く。

頌に日く
貧は笵丹に似、気は項羽の如し。
活計無しと雖も、敢えて与に富を闘わしむ。

 笵丹史雲は貞節先生と仇名されて清貧自若の人、項羽は英雄の代表ですか、活計なしといえども、敢えて富をたたかわしむ。こりゃまあかくの如しですか。富という蛇足、すなわち持ちものあれば、そいつあるだけ入って来ない、だれかれそうです、わしはかくかくしかじかといって、てめえを押しつけるだけ、邪師これ、貧とはこれ。心空ろならばものみな出入り自由、奪い去る、富とはこれ。


十一、州勘庵主

趙州、一庵主の処に到って問う、有りや有りや。主拳頭を竪起す。州云く、水浅くして是れ船を泊する処にあらず。便ち行く。又た一庵主の処に到って云く、有りや有りや。主も亦た拳頭を竪起す。州云く、能従能奪、能殺能活。便ち作礼す。

無門日く、一般に拳頭を竪起するに、甚麼としてか一箇を肯い、一箇を肯わざる。且く道え、ごう訛甚れの処にか在る。若し者裏に向かって一転語を下し得ば、便ち趙州の舌頭に骨無きを見て、扶起放倒、大自在なることを得ん。是の如くなりと雖も争奈んせん、趙州却って二庵主に勘破せらるることを。若し二庵主に優劣有りと道はば、未だ参学の眼を具せず。若し優劣無しと道うも、未だ参学の眼を具せず。

 趙州(第一則にあり)こりゃ太鼓判みたいな権威です、権威とは人の噂ですか、本人はただの人、無心です心がない、不識知らないんです。でもって役に立つんです。庵主別に尼さんてこっちゃない、庵を結んで住む、大修行底あり大ひまの開いた人ありです。有りやと問う。どうだというんですか、有りやと問う、無しやと問う、さあどうなんですか。
 こぶしを突き出す、どう問うったってちゃーんと答えになってるのが面白いです、庵主の是非善悪に関わらない、有りやと問うた方が、是と云をうと非と云をうと、却って転ずるんです。
 はたして、水浅くして停泊する処にあらずと云って行く、あるいは能従能奪殺活自在と云ってお拝する。
 これどうですか、一庵主未だしですか、一庵主大悟徹底ですか。
 月は大悟徹底ですか、未だしですか、木石は未だしですか大悟徹底ですか、はたして人はどうなんです。
 先師老師は、だれ何云ってきても是是、よしよしと云ったです、兄弟子が、
「そりゃ老師は是だよ、おまえさんは不是。」
 と云う、たしかにわしは不是、さっぱりよくなかったです。
 あるとき老師、わしに、
「どうです、このまんまでいいんでしょう。」と云う、
「はい。」
「でも何かちらとあると思っている。」
 うっふうちらと思ったんです。
 持ちものあれば停泊し難し、趙州一枚看板やってたんですか。殺活自在といって作礼する、余計なお世話ってね。どうもこの則偽物なんです、大趙州ともあろうものがってわっはっは、思っちまうです。いや則としちゃ役に立ちますか。

頌に日く、
眼は流星、機は掣電。
殺人刀、活人剣。

 無門和尚別して正直ですか、意欲湧かないんですよ、流星掣電、まあ一箇まったい人間ただの人、命そのものですか。本来おぎゃあと生まれてそやつを200%です。殺人刀活人剣ならざるはない、早く大悟徹底身心脱落の皮一枚ひっぺがして下さい。


十二、巌喚主人

瑞巌和尚、毎日自ら主人公と喚ぼ、復た自ら応諾す。乃ち云く、惺惺著。諾。他日異日、人の瞞を受くること莫れ。諾諾。

無門日く、瑞巌老子自ら買い自ら売って、許多の神頭鬼面を弄出す。何が故ぞ。慙。一箇の喚ぶ底、一箇の応ずる底、一箇の惺惺底、一箇の人の瞞を受けざる底、認著すれば依前として還って不是。若也他に倣わば、惣に是れ野狐の見解ならん。

 瑞巌師彦(青原行思の嗣)和尚、自らを主人公と呼び自ら応諾す、惺惺著はっきりしとれと云う、了々です一目瞭然でいろ、はい。他日異日人の瞞著を受けることなかれ、たぶらかされるな、はい。と毎日やってたです。これをどう思いますか、ただまっただ中なんですよ。そこらへんの道徳家宗教家共産主義の類とはまったく別です、こうあるべきだからどうのじゃないんです。ついには理想をじゃないんです。これごっちゃにしたら意味ないんです。無門云く、自ら買い自ら売って、そこばくの神頭鬼面を弄出する、大真面目のたわけ面とは違うんです、ここをはっきりさせて下さい。でないと認著乃至は野狐禅です。
 そうではないんですよ、日々新です、今日の我れはまったく昨日ではないんです。坐ってますか。坐らないでとやこう云う人、却って思考停止、生活を失う、死人に成り下がっているんです。ますますもって云うこと盛んにして、まるっきりなんにも云ってはいない、うるさったい退屈なだけです。人を賦活する、生かすことができない。
 主人公と呼びおうと答える、惺惺としとれ、おう、他に瞞著されるな、おうと。
「くわあ余計ごとしあがって。」
 なんだあおまえはって、うっふっふ毎日朝に晩に坐って、
「なんてわしはさっぱり悟っちゃいなかったぞ。」
 本日初めて惺惺って、アッハッハ明日も同じこと云ってるんですよ。

頌に日く、

学道の人真を識らざるは、只だ従前より識神を認るが為なり。
無量劫来生死の本、痴人喚んで本来人と作す。

 四面楚歌ですか、坊主もまったくことほど然様に、一般人みな識を認め、生死のあざなえる縄をもって本来人となす、自縄自縛の縄のはしを自分だと思い込む=従前の自分です、よってもって殺し文句の世界です、うっふっふ毒食えば皿までってんならもしや。


十三、徳山托鉢

徳山一日托鉢して堂に下る。雪峰に、者の老漢、鐘も未だ鳴らず鼓も未だ響かざるに、托鉢して甚れの処に向かって去ると、問われて、山便ち方丈に回る。峰、巌頭に挙以す。頭云く、大小の徳山、未だ末後の句を会せず。山聞いて、侍者をして巌頭を喚び来たらしめて、問うて日く、汝、老僧を肯わざるか。巌頭密にその意を啓す。山乃ち休し去る。明日陛座。果たして尋常と同じからず。巌頭僧堂前に至り、掌を拊して大笑して云く、且く喜び得たり、老漢末後の句を会せしことを、他後天下の人、伊を奈何ともせず。

無門日く、若し是れ末後の句あらば、巌頭徳山倶に未だ夢にも見ざる在り。点検し将ち来たれば、好はだ一棚の傀儡に似たり。

 徳山宣鑑(七八二ー八六五、青原下龍潭祟信の嗣)、巌頭雪峰はその弟子、徳山の棒臨済の喝という、実に端的であった。だがこれを見るになつかしい、子供のように他なしです。托鉢というのは、良寛さん托鉢ではなくって、鉢、応量器をかかげ持って食堂へ赴くんです。そこをとっつかまえて、大力量我れこそはの雪峰、鐘も鳴らん鼓も打たんのになにとぼけてとやるんです。鼓は作務太鼓や、茶鼓一通お茶のときなど、雲板を鳴らしたりしますか。徳山の棒もなんのその、徳山なんにもいわずに踝を返して方丈へ。
 どんなもんだいと雪峰、兄弟子の巌頭に挙す。巌頭は、こやつしっかりしているんですよ、傀儡回しなんかじゃまるっきりないです。伝光祿などに見る、舌を巻くばかりです。なんとかして雪峰を物にしたい。
「おれが。」
 を、脱すりゃいいんです。打てば響くとはただの反応系です、お祭り騒ぎの雪峰なかなかの大物です。洞山下に於て砂米一時に去る、乃至は我れ今初めて鰲山成道に至る、実に感動的と云おうか、後に大いに人数を打出するんです。
 巌頭が雪峰のためにあるかの如く。
 巌頭賊に首を切られて大喝して死ぬるとあります、なんたって黙っちゃいられん人ですか。
「大小の徳山未だ末後の句を会せず。」
 あいつたいしたもんだが、まだほんとうのことは知らないんだ。そうかってなもんです。
 果たして明日しん座尋常と同じからず、翻然悟ったかといって、空振りなもんだから傀儡回し。
 まあまたやりゃいいです。
 末後の一句ってなんですか、果たしてありや、あり。かくの如くならば、徳山巌頭倶に未だ夢にだも見ずの、末後の一句。
 見習い参禅が自ずからになる、自分を見習う愚を忘れ去る、さあこれたった一回です、安楽の法門、宝蔵自ずから開けて受用如意ならん、
「そうか。」
 という急転直下。死ねばいいと、どうもこれ、他を思いつかんのです。

頌に日く、
最初の句を識得すれば、便ち末後の句を会す。
末後と最初と、不是なり者の一句。

 初発心という、発心以前の一句これ末後の一句、わかりますか、たしかにこれ他なしなんです、でも参じ尽くしてのち、
「いったいなんのためにおれは、何をしていたんだ。」
 と、通身思うときに、その通身失せているんです、仏教と云いお釈迦さんの法という、そんなものなんにもないではないか、
「はてな。」
 というんです。
「なんにも得なかったのか。」
 という、はてなも得なかったのかも消え。
 徳山のように、一見馬鹿みたいに人の云いなりですか。


十四、南泉斬猫

南泉和尚、因みに東西の両堂猫児を争う、泉乃ち提起して云く、大衆道い得ば即ち救わん、道い得ずんば即ち斬却せんと。衆無対。泉対に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉州に挙似す。州乃ち履を脱いで頭上に按じて出ず。泉云く、子若し在らば即ち猫児を得ん。

無門日く、且らく道え、趙州が草鞋を頂く意作麼生。若し者裏に向かって一転語を下し得ば、便ち南泉の令、虚りに行ぜざりしことを見ん。其れ或いは未だ然らずんば険。

 南泉普願(七四八ー八三四馬道道一の嗣)東西という大衆、雲衲は東序西序に別れて、ことを行なう習わし、向こうとこっちでやっていたんでしょう。たまたま迷い込んだ猫を、仏性ありや、畜生ははたして是か、人間は不是かなど、あるいは猫と呼ばずになんという、猫が見えるか、見ている自分如何、有りや無しやとやっていて、収拾が着かない、騒々しいんです。そこへ南泉が現れ、猫をとっつかまえて、
「道え。」
 と云うんです。
「道い得ば即ち救わん。道い得ざれば即ち斬却せん。」
 斬っちまおうと迫る、衆無対。だれも云い得ないんです。
 なぜですか、けんけんがくがくやっていた連中が、なぜ云い得ないんですか。
 あなたはどうですか。
「猫に仏性ありや。」
 問うたとたんに、てめえの首ぶった斬られそうです。
 猫を斬るなど野卑だ、かわいそうだという、それ嘘ことですよ。救うという哀れは南泉ようも知る、にもかかわらずぶった斬るのは、あなたの妄想をです。
 真っ二つにされてわずかに清涼。
 晩に至って他出より帰る趙州に挙す。趙州和尚、南泉の弟子です、沓を脱いで頭の上にのっけて出て行く。
 若しおまえがいたら、あったら猫斬らずにすんだものをと師匠。
 どうですか、だからどうのわかったなど云うと、首ぶった斬られですよ。趙州の真似ではなく趙州を、あなたを行なって下さい。
 できますか、できなければそりゃなんにもならんです。
 できますか。

頌に日く、

趙州若し在らば、倒しまにこの令を行ぜん。
刀子を奪却して、南泉も命を乞わん。

 間髪を入れずだの、禅機横溢など遊びごとを云ってるんではないんです、弟子を船から追い落として、這い上がろうとするのを、突き放して、ついに弟子が悟ると、悟り終わったのへ伝授して、自らは水に入って溺れ死んだという実話。生死岸頭、日々これに参じて、我れとして返り見るもの無ければ、かつかつに可、でなきゃ沓頭の上にのっからないよ、うっふっふ。


十五、洞山三頓

雲門、因みに洞山の参ずる次いで、門問うて日く、近離甚れの処ぞ。山云く、査渡。門云く、夏甚れの処にか在る。山云く、湖南の報慈。門日く、幾時か彼を離る。山云く、八月二十五。門云く、汝に三頓の棒を許す。山明日に至って却って上堂問訊す。昨日和尚に三頓の棒を放すことを蒙る、知らず、過甚麼の処にか在る。門云く、飯袋子、江西湖南便ち恁麼にし去るか。山此に於て大悟す。

無門日く、雲門、当時便ち本分の草料を与えて、洞山をして別に生機の一路あって、家門をして寂寥を致さざらしむ。一夜是非海裏に在って著倒し、直に天明を待って再来するや、又た他の与に注破す。洞山直下に悟り去るも、未だ是れ性燥ならず。且らく諸人に問う、洞山三頓の棒、喫すべきか喫すべからざるか、若し喫すべしと道はば、草木叢林皆棒を喫すべし。若し喫っすべからずと道はば、雲門又おう語を成す。者裏に向かって明きらめ得ば、方に洞山の与に一口の気を出さん。

 雲門文偃(八六四ー九四九雪峰義存の嗣)洞山守初は雲門の嗣、曹洞宗の始祖洞山良价ではない。どこから来た、査渡から来ました。夏、げと読む、三旬安居を一夏という、どこで修行して来た、湖南の報慈寺です。ふーんいつそこを出た、八月二十五日です。汝に三頓の棒を許す、三十棒食らわせるー六十棒だというがさ、ぶっ食らわせたるかこのど阿呆って云うんです。
 どうですか、今の人どこかで経緯を知っていて、飯袋子の答えだ、くそぶくろめ、大法に付いて云うべきであるなと。師はそれを聞いている、どこから来た、恁麼に来た、江湖会という、首座法戦式とて格好ばかり、問答丸暗記の猿芝居が残っていますが、揚子江の西、洞庭湖の南、仏祖あり修行道場ありです。湖南の報慈、ここにあり別して他になし、いつ出たって、おまえ億劫なこと聞くなとか。そうやってあるいは所作をなして、こう云えばああ云うして、おのれ肝心要を置き去りにしてしまう。
 洞山麻三斤の洞山守初、三頓の棒を許すと云われて、是非海裏にあって著倒すと、一晩中施設するんです。
「なぜか。」
 雲門がでたらめいい加減のはずはない、では過ぎたるはおのれ、ー
 いいですか、答えなんかないんですよ。
 答えは身を以てする、身心以てする。
 大悟する外にないんです。
 しかも無門日く、未だ性燥の漢にあらず、どっかい腰掛けてないかというんです、この親切もっともです。
「飯袋子、江西湖南便ち恁麼にし去るか。」
 他のことはない、これっきりだといってぶち破る。
 はあっと気がつくんです、飯袋子を脱し去る。
 はい、故をもって始まるんです、一寸の光陰軽んずべからず。

頌に日く、

獅子児を救う迷子の決、前まんと擬して跳して早く翻身す。
端無く再び叙ぶ当頭著、前箭は猶を軽く、後箭は深し。

 いいですか、迷うには真っ暗闇の、取り付く島もなし、跳躍翻身して、取り付く島もなし=おのれ。
 でもってはあっと気がついて、大悟徹底とまたこれ当頭著、どんなもんだいかくの如くとやる、性燥ならず、こっちのほうがよっぽど荷厄介なんですよ、首くくる縄もなし年の暮れ。


十六、鐘声七條

雲門日く、世界恁麼に広闊たり。甚に因ってか鐘声裏に向かって七條を披る。

無門日く、大凡そ参禅学道、切に忌む、声に随い色を逐うことを。縦使い聞声悟道、見色明心なるも也た是れ尋常なり。殊に知らず、衲僧家、声に騎り色を蓋い、頭頭上に明きらかに、著著上に妙なることを。是くの如くなりと然雖も、且らく道え、声耳畔に来たるか、耳声辺に往くか。直饒い響と寂と双び忘ずるも、此に到って如何んが話会せん。若し耳を将って聴かば応に会し難かるべし。眼処に声を聞いて、方に始めて親し。

 雲門文偃前出雪峰の嗣、世界恁麼に広闊たり、すっからかんになっちゃって云うんです。死んだあとのあなたの世界ですか、眼処に声を聞き耳辺に物を見る、どうですか、身心ともになければまさにかくの如く、世界ぜんたいとただこうあるんです。
 それを未だ至らずして、迷悟中の人漆桶底にこれを見たって、はいどうもお説ごもっとも、そんじゃおれいいんだとぐらい、学者説法の岩波文庫みたいに、嘘八百です。なんにもなりゃせんです。
 これは大悟徹底の辺の指示鑑槌です、
「このとおりもとなんにもないんでしょう、だのになぜ鐘声を聞いて七條を着る。」
 七條はお袈裟です、聞鐘悟道、世の無常を知って仏門に入るというこれ。鐘声裏に悟るとは、古来多くの人が悟ったです。坐っていたら大梵鐘が鳴った、がたっとこう体が消えちまって、立とうとしたって立てねえ、無理矢理立って、石ころ踏んずけたみてえに独参行ったら、堂頭さんぶっ魂消て、大見性だ大見性だって。それもって雪溪さんとこ行ったら、
「あなたはそういうこと云ってるから駄目なんですよ。」
 だとさ、という兄弟子の語です。
 あるときこうあり、あるとき汝これ彼にあらずあり、ついには世界広闊です、
「でもって仏教なんか必要か。」
 必要です、水鉢に一針を投じて行く如く、これより始めて仏教です、これなくば一寸光陰も空しく、なんの取りえもなし。
 蛇足ですがね、わし出家前に目で聞き耳で見るほどでした、迷妄真っ黒けわっはっは。

頌に日く、

会せば即ち事同一家、会せざれば万別千差。会せざるも事同一家、会せば万別千差。

 あっはっはこりゃいいです、まさにその通りです、人々よく味わって下さい、脳味噌働かせたって、そりゃごっちゃごちゃ、はい見聞覚知。


十七、国師三喚

国師、三たび侍者を喚ぶ。侍者三たび応ず。国師日く、将に謂えり、吾れ汝に辜負すと。元来却って是れ、汝吾れに辜負す。

無門日く、国師三喚、舌頭地に堕つ。侍者三応、和光吐出す。国師年老い心孤にして、牛頭を按じて草を喫せしむ。侍者未だ肯えて承当せず。美食も飽人の食に中らず。且らく道へ、那裏か是れ他が辜負の処ぞ。国浄うして才子貴く、家富んで小児驕る。

 南陽の慧忠国師は六祖大鑑慧能の法を継ぐ。辜負とはせっかくの志を無にする、人の期待を裏切る。国師三たび呼んで、侍者三たび応ずる。不是ですか、まさに思えり、わしはおまえの期待を裏切った、もとはといえばこれ、おまえがわしの期待を裏切るゆえにと。
 毎朝お経を読んでいます、弟子どももせがれも不是、おつりが来る、ぴったり行かない、肩が凝るんです。馬鹿ったれ、もってまわるな、ただ読みゃいいんだ、鶯のように鳴け、蛙でもいい、なとやりゃ却ってらしくしようとする、和光同塵おもねる、合わせようとするんです。せっかく坐っていい気分を台無しです。
 こっちがちゃーんとしてりゃ、無心に読めば他なし、肩凝ることもなし、斟酌するなって、
「将に謂えり、吾れ汝に辜負すと。」
 でもな、早くなんとかせい、もたもたしてるな、
「元来却ってこれ、汝吾れに辜負す。」
 と。
 年老いて舌頭地に堕し、侍者はべる限りは和光吐出ですか、牛頭は地獄のお使い、もう棺桶間近かでもって、こん馬鹿たれとも云わずに、草を反芻ですか。あっはっは見てたようなこと云いやがる。侍にんべんを取り払って来るによし。慧忠国師の侍者という、美食飽人底ですか、せっかく三喚も喫する能わず。六祖の何を補う、目に一丁字もないどこの馬の骨が大人気、無情の説法だれ聞かず、一つ足取っ払ってやろうかたって、世間下世話。国浄くして才子は貴族になっちまうですか、家富んで小児驕る、そりゃそういうことあるんです、老師の会下だ、ここにしか大法はないんだといって、それっきりの人。

頌に日く、

鉄枷無孔、人の担わんことを要す。累い児孫に及んで等閑ならず。
門をささえ並びに戸を柱えんと欲得せば、更に須らく赤脚にして刀山に上るべし。

 裸足で針の山へ上って下さい、どこにも安住の地はないんです。老師も国師も無情の説法、曲げて他のために説く。鉄枷無孔とはまさに仏法これ、人の担わんことは世間下世話、わざわい児孫に及んで等閑ならず、なんたって他なしです。


十八、洞山三斤

洞山和尚、因みに僧問う、如何なるか是れ仏。山日く、麻三斤。

無門日く、洞山老人、些の蚌蛤の禅に参じて、わずかに両片を開いて肝腸を露出す。是くの如くなりと然雖も、且らく道え、甚れの処に向かってか洞山を見ん。

 洞山守初(九一0ー九九0雲門の嗣)如何なるかこれ仏と問われて、麻三斤と答える、肝腸を露出す、はらばた丸出しです。蚌も蛤もはまぐりです、蛤禅を習ったから、わずかに両片を開けば丸見えという、些細のことという、さあだれあって肝腸露出してごらんなさい。凡人には出来ないです。四の五の文句ばっかり云ってる人、だからおれはの理由付け、思想宗教辺の人、虎の威を仮る狐には到底無理です。
 この問題はこれです、かーつと一つ宇宙丸呑みです。肝胆相照らす如きのみのきんたまやってないんです、麻三斤前後裁断、まったく完結し終わる、さあできますか、あなたならなんと云います。
 たといなんと云おうが、百万尽くそうが、死んだ蛤じゃ、蓋閉ざしたまんま。
 まずもってそやつを反省して下さい、ことはそれからです。
 見性した、なんにもなくなったという、それを見ている自分がある、つまりは死んだ蛤です。
 麻三斤、
「ばかもん。」
 と一喝するが如き。

頌に日く、

突出す麻三斤、言親しくして意更に親し。
来たって是非を説く者は、便ち是れ是非の人。

 突出する太虚、痛棒すなわち身も蓋もない大事件。親しいとはまるっきり他なしなんです、馴れ合いの部皆無、これも凡人迷悟中の人にはわからんです。仏とはものみな、即ち取り付く島もなし、大戦中は一億総玉砕、今はみんな仲良く世界平和という、どっちも大間違いの程度同じです、日本人は笛の音一本、四重奏を知らないという、はいはいそういう皮面一枚剥がして、大自在ですよ、麻三斤。


十九、平常是道

南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。泉日く、平常心是れ道。州云く、還って趣向すべきや。泉日く、向かわんと擬すれば即ち乖く。州云く、擬せずんば争でか是れ道なることを知らん。泉日く、道は知にも属せず、不知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶を太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非すべけんっや。州言下に頓悟す。

無門日く、南泉、趙州に発問せられて、直に得たり、瓦解氷消、分疎不下なることを。趙州縦饒い悟り去るも、更に参ずること三十年して始めて得ん。

 南泉普願(七四八ー八三四馬祖道一の嗣)趙州はその弟子、さすが大趙州と云われた人も、始めはかくの如くあったです、十八歳には見性して、たしかに見ることは見たんですが、しばらく決着が着かなかった、見ている自分が邪魔をする、どうでも、
「如何なるかこれ道。」
 と、問わざるを得ないんです、
「平常心これ道。」
 一切合切このまんまでいいんだよ、と云われる。おまえさんがすっぽり入っている世界、ほうらこのとおりの他に何があるんだ、と示す。
 いいですか、平常心という別物があるんじゃないんです、一般の云う平常心はそれです、大間違いです、平常心を強いて中に閉じ込める、そうじゃない解き放すんです、たとい七転八倒してもできない、ただじゃあただになれない理屈、
「かえって趣向すべきや。」
 苦し紛れに問うんです、どうやったらなれる、仏の心を得る、平常心のためのノウハウを聞く、
「向かわんと擬すればかえって背く。」
 もとこの中にある、向かおうとすりゃ、向かおうとするがある、ノウハウを為せばノウハウだけ余計です、
「なんでそんなことをするんだ。」
 と云うんです。
「擬せずんば争か道なることを知らん。」
 どうしてもこれなんです。
 どこまで行ってもこれやってます。道が向こうにあるんです、道を知り道を行く、これを真なりという。もと道のまっただなか、どう足掻こうがどう擬せようが、外れることがない、道という、そんなものまったくないんです。
 とは自分という命を、生涯を捨てないと手に入らない。
 不思議なものです、坊主学者の類が横滑りして、ついには悟りなんてないという、それじゃ仏教もなく道もないんです。とっくに仏は失せています。
 そういうこっちゃまったくないんですよ。
「道は知にも属せず、不知にも属せず、知はこれ妄覚、不知はこれ無記。」
 わかりますかこれ、わかるまで記して下さい。知はこれ妄覚、知っているというみんな嘘です、醜悪です。達磨さんも咲いている花も知らないという、日月星晨、よってもって世界宇宙は成り立っているんです。見れども飽かぬという、不知はこれ無記。
 悟りとは何か、
「太虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非すべけんや。」
 自分というまったくないんです。ものみなかくの如くして、是非善悪知不知を超えてこうあるっきり。あるなしに拠らぬ親切、筆舌に尽くし難く太虚の洞然です、無情の説法、まずもって浮き世この世を去る、もはや帰らぬ実感ですか、帰って来て始めて実感ですか。彼岸に渡る、パーラミーターと心経にも明確に示されています。
 だのに諸々の仏教だのいう、まったくお笑いにもならんです。
 ただの妄想です。
 州言下に大悟す。うっふう更に参ずること三十年に始めて得べしという、まさにその通りです。ほんとうに落着して日々新です。
 故に六十年再行脚、われより劣る者は百歳の老翁と雖も云々です。よってもって、南泉趙州に問われて、瓦解氷消分疎不下です、わかりますかこれ、わっはっはまったくそういうことなんですよ。余は明白裏にあらず、無門もけっこういけず。

頌に日く、
春に百花あり秋に月有り、夏に涼風有り冬に月有り。若し閑事の心頭に掛くる無くんば、便ち是れ人間の好時節。

 はいまさにもってこのようになり終わって下さい、他に一切の目的はないんです、横滑りして平常心是道のお茶を濁すとは、まったく無関係です、うんちやげろと、清々取り付く島もなしとごっちゃにしないで下さい。


二十、大力量人

松源和尚云く、大力量の人甚に因ってか脚を擡げ起こさざる。又云く、口を開くこと舌頭上に在らざる。

無門日く、松源謂つべし、腸を傾け腹を倒すと。只だ是れ人の承当することを欠く。縦饒い直下に承当するも、正に好し無門が処に来たって痛棒を喫せんに。何が故ぞ。にい。真金を識らんと欲せば、火裏に看よ。

 松源祟岳(一一三二ー一二0二臨済宗楊岐派密庵咸傑の嗣)大力量の人という、おまえさんよと云うのでしょう、せっかくの大力量がなんで、足をもたげざる、のべっと寝転がってなんにもしないのか、思想妄念に終始して目が覚めない、起き上がって来ないのかと云う。
「はあ? 」
 てなもんの、何云われたかさっぱりわからない人、怒り出す人がいます、思いも付かないんですか、
「いいことはいい、だからいいことを。」
 という、ただもうそれっきり寝言です。
「なんで目覚まさない。」
 ぼかっとぶん殴ったら、警察沙汰ですか、寝ていたいやつはなんたって寝ていたい、
「口を開くこと舌頭上にあらず。」
 舌を使って云えというんです、わっはっは、おれはこれで幸せなんだ、人を幸せにできりゃもっと幸せとか云って、その実害甚だです、い汚くって臭くってもって、
「だからおまえはいったい何なんだ。」
 とか云って、やっぱり寝ているわけです。
 松源和尚大力量、腸を傾け腹を倒して、蛤禅の洞山麻三斤のほどに、はあてでもって承当する二、三ありやと。どうしたって老婆親切云いたくもなりますか。
 えい面倒だ、わしんとこへ連れて来い、痛棒ぶっ食らわせてやる、こらってわけです。真金を得んと欲っせば火中にせよ、わっはっはこりゃ、わしの提唱みたい頭撫ぜくってちゃな-んもならんですか。

頌に云く、

脚を擡げて踏翻す香水海、頭を低れて伏して視る四禅天。
一箇の渾身著くるに処無し、請う、一句を継げ。

 二次元人間から三次元いえ四次元ですか、ただの人間になって下さいというのです。香水海とは現実かくの如くに美しい、すばらしい世界なんです、夢にだも見ぬところ、須弥山を取り巻く七つの海ですとさ。三界のうち色界の四天を禅定によって見るという、坐って忘我のときなーんにもないです、真金金になるとき如何。


二十一、雲門尿獗

雲門、因みに僧問う、如何なるか是れ仏。門云く、乾尿獗。

無門日く、雲門謂つべし、家貧にして素食を弁じ難く、事忙しうして草書するに及ばずと。動もすれば便ち尿獗を将ち来たって、門をささえ戸を柱う。仏法の興衰見る可し。

 雲門文偃は雪峰義存の嗣、機峰並びなき説得の妙という、大趙州についで頻出する。如何なるか是れ仏と問われて、かんしけつ、けつは木へんです、と応ずる、糞掻き箆と云われて、糞をかきまわす箆、すなわち他人の言い分をもって、とやこうあげつらう、仏という聞いたふう見たふうをもってする、人のうんこですか、あっはっは消化すりゃ消えてなくなるんです。
 学者や坊主説法まさにこれ。未消化のまんまひり出した、いやさてめえのうんちですか。そいつをひっかきまわして仏はこうあるべきする、そりゃ醜悪悪臭ふんぷんです。それに気がつかない、大半の人その類ですか。
 かんしけつは、出かかって棒状のまんま乾いた糞という、こっちのほうが正しいという、仏と云い習わし、求め尽くして、いえ尽くさずのまんま固まってしまったんですか、
「かんしけつ。」
 と云われて、頭ぶん殴られるよりも、通身底なしに効いて、かんしけつを免れ得るか、学人まさに頓悟を欲しいんです。さあどうですか。省悟しないほどの人みなかんしけつ。
 雲門妙語して、人みなにかんしけつを用いて、かえって効果なく、貧乏底を突いて、ほんの塩握りも食わせられん、仏を説くに当たってお粗末、忙しすぎて草書、略字をもってするさえない、仏法の興衰見るべしと。
 そりゃもう雲門の大云うに及ばず、取り付く島もなしですか。かんしけつに参じて下さい、ついにこれを免れうる二、三十年。

頌に日く、

閃電光、撃石火。
眼をさっ得すれば、已に磋過す。

 悟る、知るということが実にこのスピードなんですよ、理解や物語やのかんしけつじゃない、
「そうか。」
 って、通身消え失せるんです、かすっともかすらない、応無所住而生其心これ。
 ひっかかりゃ元の木阿弥。


二十二、迦葉刹竿

迦葉、因みに阿難問うて云く、世尊金襴の袈裟を伝うるの外、箇の何物をか伝う。葉喚んで云く、阿難。難応諾す。葉云く。門前の刹竿を倒却著せよ。

無門日く、若し者裏に向かって一転語を下し得て親切ならば。便ち霊山の一会、厳然として未だ散ぜざることを見ん。其れ或いは未だ然らずんば、毘婆尸仏早くより心を留むるも、直に而今に至るまで妙を得ず。

 阿難尊者はお釈迦さんの従兄弟に当たる、アーナンダ慶喜と意訳する、容姿端麗で見るものみな歓喜すると、十大弟子のお一人であり、多聞第一と云われる。お釈迦さんが遷化せられて、第一回仏典結集に、阿難尊者は未証果の故に招かれなかった。すなわち羅漢果を証し、鍵穴から入ってこれに参ずる、生前のお釈迦さまと寸分違わずに説法したとあります。お経は阿難尊者により、知ることは知る、まさに第一人者であったのに、師兄迦葉尊者に就いて二十年、
「世尊は金襴のお袈裟を伝えた外に、箇の何物をか伝う。」
 伝法の印のお袈裟、おそらくそんなものは眼中になかったはずです、明星一見の事より伝わる大法、命がけで二、三十年した仏道です。
 身心脱落してものみな手に入る、七通発達の時節、われこそは仏法これです、脱し去り脱し来たって、
「はあて。」
 というのです、仏教という仏という、どこ見回したろうがそんなものはないが。
「あなん。」
 迦葉尊者が呼ぶ、
「はい。」
「門前の旗竿を倒して来い。」
 阿難大悟とあります、或いは三日耳を聾すとあります。ここに大法あり、説法者ありの印に、古来インドでは赤い旗を建てたとあります、論破されると旗を倒される。いっぺんに手に入るんです、大法とこうあってもうない、生まれたってば生まれたんですか、面白いたってアッハッハ面白くもなんともないんです。
 お釈迦さま三代の仏祖たる自覚です。
 無自覚の覚という、寸分の他また入る余地がないんです。
 かくして霊山一会今に厳然として存在するんです、びばしぶつ、過去七仏は、わしの、そうですよあなたの法を継ぐものです、そうしてそれをお釈迦さまに伝えるものです。

頌に日く、

問処は答処の親しきに如何、幾人か此に於て眼に筋を生ず。
兄呼べば弟応じて家醜を揚ぐ、陰陽に属せず別に是れ春。

 問処=答処これ仏法ですか、問答に於て幾人か目くじらですか、わっはっは無門ていうやつ、端睨すべからざるっていう、うは尻尾巻いて退散。
 お二人兄弟弟子ですか、醜さのないもの仏の法です、よくよく知って下さい、
「箇の何をか伝う。」
 と聞く、住するに従い見えない、見えるは脇見運転ですよ、他の諸宗まったくこうはいかんです、我田引水の分が失せる、陰陽だからこうだの、理由付けには拠らん春です。


二十三、不思善悪

六祖、因みに明上座趁うて大ゆ嶺に至る。祖明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に擲げて云く、此の衣は信を表す。力をもって争うべけんや、君が将ち去るに任す。明遂に之を挙ぐるに山の如くに動ぜず、蜘躊悚慄す。明日く、我れは来たって法を求む、衣の為にするに非ず、行者開示したまえ。祖云く、不思善不思悪正与麼の時、那箇か是れ明上座が本来の面目。明当下に大悟、遍体汗流る。泣涙作礼し、問うて日く、上来の蜜語蜜意の外、還って更に意志ありや。祖日く、我れいま汝が為に説くものは、すなわち蜜に非ず。汝若し自己の面目を返照せば、蜜は却って汝が辺に在らん。明云く、某甲黄梅に在って衆に随うと雖も、実に未だ自己の面目を省せず。今入処を指授することを蒙って、人の水を飲んで冷暖自知するが如し。いま行者は即ち某甲の師なり。祖云く、汝若し是くの如くならば、即ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自ら保護せよ。

無門日く、六祖謂つべし、是の事は急蒙より出て老婆親切なりと。譬えば新茘子の、殻を剥ぎ了り、核を去り了って汝が口裏に送在して、只だ汝が嚥一嚥せんことを要するが如し。

 六祖大鑑慧能(六三八ー七一三黄梅山大満弘忍の嗣、これより宗門は大いに興る、学者の、インドの伝統を否定し中国禅を確立云々はまるっきり見当違い、お釈迦さん達磨さんとなんら変わりはないです、でなきゃなんの意味もないです、ほんにま仏教学者てのはどうしようもない連中な。)母を養い薪を樵ってそれを売り歩いて生計を立てていた。たまたま金剛経を唱える人の、応無所住而生其心と云うを聞き、実にその通りに行なわれていることを知る、我れというまったくに失せてものみなです。釈尊明星一見の事、我と有情と同時成道です。実にまさにこうあったとて、これと示されるきっかけが欲しいんですか。由来他の仏を説き経を読みするのを、目に一丁字もない人が逐一明解にする。活仏だというので、世話する人がいて黄梅山五祖弘忍禅師の門を叩く。
 五祖引見して米つき行者にした。なにせ時の皇后の家庭教師であったという神秀上座など、種々あって、字も読めない樵夫おっさんじゃ、表に出すわけにも行かぬ事情があったんでしょう。行者あんじゃと読む、半人前の走り使いですか、お小僧さんです、米をつきおうむしょじゅうにいしょうごうしんを、本来のものにする、まったく他なしを知るんです。
 遂に五祖夜陰に紛れて接見し、米つき行者に伝法のお袈裟を手渡して、六祖を継ぐ件、密かに川を渡って逃れ出る。翌日五祖上堂せず、我が法川を過ぐと。すわこそと云ってみな後を追う。中にもと将軍であったという、明上座先回りして、大ゆ嶺という所に待ちかまえた。
 六祖石上にお袈裟を置いて、
「此の衣は信を表す、力をもって争うべけんや、君が持ち去るに任す。」
 という、まことにもってもっともな言い種です、他に云いようがありますか、六祖檀経でも心経講義でも、実にすなおにそのものずばりなんです。
 他まったくなしの真正面に、明上座も真正面に応ずるんです、持ち上げようとしたが、山の如くに動ぜず、
「お前に受ける資格があるか。」
 と覿面に問われて、
「はい。」
 と云い得るか、ちちゅうしょうりつす、いえだれあってこうです、でなきゃ人間お終い、虫けらにもなれんです。あっはっはそんなの今多いんですか、明云く、
「我れは来たって法を求む、衣の為にするにあらず、願わくは行者開示したまえ。」
 祖云く、
「不思善、不思悪、正与麼の時那こ是れ明上座が真面目。」
 明当下に大悟す。
 いいわるいではない、是非善悪に拠らぬ、本来本当のおまえさんはと聞く、さあ言下に大悟して下さい、急家より出て老婆親切、双方とも命がけの危急存亡ですか、でないと真面目にならんですか、そりゃそういうことあります。
 ですが当下に大悟することだけが、意味があります。他はただお茶を濁す、喫茶去と云われてはいと、唯々諾々です。寒毛卓立如何。遍体汗流れ、どうと汗流れて泣涙です、つっぱらかっていた心と体と、あるいはおぎゃあと生まれたまんまに戻るんです、涙しおうおうと泣いて、思わず作礼する。たいていの人、はいわしもそんなふうでした、坐中涙流れて止まず。
 未緒ちゃんていう女の子がいて、急に泣き出す、どうしたんだ、あたしみたいなどうしようもないのがと云って、絶句して泣く。そうかと思うと、どうしてみんな回りの人はあんなに切ないんだと泣く、人間の本来事まさに親し、見性とは何か、一箇になり終わる。その面の皮一枚剥ぐによし。
 問うて日く、
「上来の蜜語蜜意の外、かえって更に意旨ありや。」
 とにかく仏教という、秘伝一子相続のほどに思い込んでいたんでしょう。せっかくの説法も、不思善不思悪云々という蜜語になりかねない。祖云く、
「我れ今汝が為に説くものは、蜜語にあらずー振り返って、確かめてみるがよい、密というは汝が辺にこそあり。」
 もと一物もないことを、ここに始めて知るんです、
「坐って坐って坐り抜けば、見性すれば必ず。」
 という秘密、わかりますか、だれ云うたわけでもないのに、後生大事して動きが取れない。師家禅師などの言、奥歯に物の挟まったような、そうではない、
「人の水を飲んで冷暖自知するが如く。」
 という、自己の面目に立ち返る純朴。

頌に日く、
描けども成らず画けども就らず、賛するも及ばず、生受することを休めよ。
本来の面目蔵するに処没し、世界壊する時も渠は朽ちず。

 六祖とはまさにかくの如くです、箸にも棒にもかからない代表です、はいあなたもそうです、明上座に触れてすなわち真面目、般若の知慧だの中国禅の確立だのいう、たわごととは無縁です、でなきゃ爪から先の頼り甲斐もないです、よくよく見て取って下さい。


二十四、離却語言

風穴和尚、因に僧問う、語黙離微に渉る、如何んが不犯に通ず。穴云く、長えに憶う、江南三月の裏、鷓鴣啼く処百花香し。

無門日く、風穴、機掣電の如く、路を得て便ち行く。争奈んせん前人の舌頭を坐して不断なることを。若し者裏に向かって見得して親切ならば、自ら出身の路有らん。且く語言三昧を離却して一句を道い将ち来たれ。

 風穴延沼(八九六ー九七三臨済下四世南院慧ぎょうの嗣)入ろうとすれば離れ、出ようとすれば微そかという、本浄の心身これ、どういうことかというと、坐って確かめるがいいです。入頭の辺領に逍遙すという、行ったり来たり、ぴったり行かないのは、それを観察する自分があるからです。入るという離れるんです、出るという微妙を見る、たしかに忘我の辺領。就中別段のこと云わないんですよ、なすに任せるにしたがい、安楽の法門です。じきに長しなえに憶う、江南三月鷓鴣鳴くところ百花香です。本当に忘我ではなんにもないんですが、人間生き甲斐これ、命そのもの、うっふう涙の一滴ですか、どうか心行く味わって下さい。この一連杜甫の詩だそうです、もっとも風物本来だれの詩を借りようが無関係です、これ一般迷悟中の人には到底味わえぬ真面目。

頌に日く、

風骨の句を露さず、未だ語らざるに先ず分付す。
歩を進めて口喃喃、知りんぬ君が大いに措くことなきを。

 自分を取り扱わない季節、どうやらこれ坐って坐って坐り抜く他はないみないです、これのありようを知って、だからおれは悟ったんだ、だから0だと云っている分には、つなげる駒ですよ。いいから朝に晩にひまさえあれば坐って下さい。人間同じことにはじきに飽きます、むしろそれを利用するんです、飽きて卒業、自分を見なければ飽きものない理屈、アッハッハ自然に脱落、もとのありようこれ。


二十五、三座説法

仰山和尚、夢に弥勒の所に往いて、第三座に安ぜらるるを見る。一尊者有り、白槌して云く、今日第三座の説法に当たる。山乃ち起ちて白槌して云く、摩訶衍の法は、四句を離れ百非を絶す。諦聴、諦聴。

無門日く、且く道え、是れ説法するか、説法せざるか。口を開けば即ち失し、口を閉ずれば又喪す。開かず閉じざるも、十万八千。

 仰山慧寂(八0七ー八八三い山霊祐の嗣、ともにい仰宗の祖となる)摩訶衍の法、この法、大法ですか、四句とは、一・異・有・無の四句にそれぞれ四句を含んで十六句、過・現・未にわたって四十八句、さらに未起と已起に分けて九十六句、元の四句を加えて百。百非、あらゆる一切のとっかりひっかかりを離れる、解脱人のありようは、たしかにこれ自縄自縛を脱する、思想に拠らない自由人です。無思想に拠らず、一にも帰さず、異論も唱えずです。アッハッハ古代インドの論理学てのけっこう捌けているんですか。コンピューターのようでいて、尽くすには尽くしていないんです。尽くすこと即ち届かんです。故に白槌してまさに示し、諦聴諦聴と云うんです。
 それにひっかっかって無門日く、これ説法するか、説法せざるか、口を開けば乃至十万八千と。
 人みなに迷悟中をもって世間十万八千、そのまあ百乗もです。なあに重離六交偏正回互とせいぜいが六十四通り、一目瞭然ってこったですが、なにせどっちを向いても噛み合わない議論ばっかり。北朝鮮の意など分かり切っているのに、どうにもならん不始末です。
 こんな暮らしはしたくないんでしょう、だれあって弥勒菩薩の第三座となって、道えと云われれば、すっと立って白槌、槌をかちっと打って、何を他に云うことがある、見よと道いたいんでしょう。
 夢とはまさにこれ。
 まあさ、今の師家禅師ども、女を抱く夢ぐらいしか思いもよらぬ、弥勒も釈迦もない、ひとりよがりとゼニカネだけなんでしょう。末法とはこれ、アッハッハ連中の発明ですか。

頌に日く、

白日青天、夢中に夢を説く。
捏怪捏怪、一衆をおうこす。

 おうこは難しい字ですが、たぶらかすだます意ですか、デマゴーグやるなってね、でもまあすかっとした夢ちらとも見て下さい、お釈迦さん達磨さんのまん前で、白槌して云い出でて下さい、だからとか申し訳抜きですよ、うっふ首があったら確実にすっ飛びます、はい。


二十六、二僧巻簾

清涼大法眼、因に僧斎前に上参す。眼手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼日く、一得一失。

無門日く、且らく道え、是れ誰か得誰か失。若し者裏に向かって一隻眼を著け得ば、便ち清涼国師敗闕の処を知らん。かくの如くなりと雖ども、切に忌む得失裏に向かって商量することを。

 法眼文益(八八五ー九五七清涼文益とも大知蔵大導師ともいう、羅漢桂ちんの嗣、法眼宗の祖)斎は斎座といって昼飯前に上参です。師、簾を指さす、二僧同じく立ってすだれを巻く、そやつを一得一失と云った。アッハッハどうですか、海頭黒石頭白と云っただれだかさん思い出すんですか、黒白得失是か非か。
 清涼大法眼、法華経に通尭し法語偈頌等数万語に及びというまさに大宗乗です、何かある、いやさ禅問答かくあるべしと思うんでしょう、はい敗闕。お粗末ってなもんですか。かすっともかすらないのは、馬鹿かご立派か。
 簾を開けて外を見る、内外まったく失せる、だったら簾下ろしたまんまで結構、たとえばこれこんな公案ですか。自分と風景が同じになっている、如来これ、来たる如しと花のようにぽっかり咲くんですか、我れ世界平和の為にかくあるという、わっはっは唯一人ですか、
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
 という歌から、死んで死んで死にきって思いのままにあたりまで、そっくり差っ引く、すると、清涼大法眼のおうむ返しですか、いやはや。

頌に日く、

巻起すれば明明として大空に徹す、大空猶を未だ我が宗に合わず。
争でか似かん空より都べて放下して、綿密綿密、風を通さざらんには。

 空という絵に描いた餅、行事綿密という猿芝居、学者やお布施坊主の座右の銘ですか、ラジニーシなどインドの聖者の仏教という、らしいふうにしか用いえない、そりゃまた百害あって一利なし、一得一失習うによし、清涼の分ありや。


二十七、不是心仏

南泉和尚、因に僧問うて云く、還って人の与めに説かざる底の法有りや。泉云く。有り。僧云く、如何なるか是れ人の与めに説かざる底の法。泉云く、不是心、不是仏、不是物。

無門日く、南泉者の一問を被って、直に得たり家私をし尽し、郎当少なからざることを。

 南泉普願(馬祖道一の嗣)人のために説く、あるいはかつてだれも説かなかったという、これ二つ同じですよ。仏法人のために説く時如何、人のために説かざる時如何、わしは後者のほうが多いです、だれあって圧倒的に多かったりして。人のために説くは億劫、億劫ですが曲げて説く、あるいは知らぬまに説く。即心是仏、即心即仏、すなわち証拠して後先なく。たとい無一物中無尽蔵、花有り月有り楼台有りも、水を掬すれば月掌に在り、菊を拈ずれば香衣に満つも、入頭の周辺忘我は安く、表わそうとすればとにかく大変です。長い間唖子の夢を訴える、または隔靴掻痒ですか。
 不是心、不是仏、不是物とまさにこれ人のために説かざる底を説く、わかりますか、ものみなかくの如くあって、対話の中に仏と現じ法と現じ、無法と露われ、無仏と露われるんです。無情の説法我れ聞かず、聞けば汝らに説かずという。およそ意識あれば説法ですか、山水長口舌わが釈迦牟尼仏の声と姿と。不立文字直指人身見性成仏のこれ、根本から味わってみて下さい。
 因にこの僧何をどう問おうが、家私を尽くし郎当少なからず、お疲れさまなんです。ふだんは閉じている二枚貝半開きですか。そこへ行くと南泉和尚、開きっぱなしの肝胆です、相照らすなんて愚図しない。

頌に日く、

叮嚀は君徳を損す、無言真に功有り。
任従い滄海は変ずるとも、終に君が為に通ぜじ。

 わしのような説き方はまさに君徳を損すですか、説明されて納得して、だからどうの、おれは未だ至らず、でもってなど云い触らして、滄海変じて桑田となる、世の中どう移り変わったろうが、さっぱりですか、不是心不是物と、そのものをやって下さい。


二十八、久嚮龍潭

龍潭、因に徳山請益して夜に抵る。潭云く、夜深けぬ、子何ぞ下り去らざる。山遂に珍重して簾を掲げて出ず。外面の黒きを見て却回して云く、外面黒し。潭乃ち紙燭を点じて度与す。山接せんと擬す。潭便ち吹滅す。山此に於て忽然として省有り。便ち作礼す。潭云く、子箇の甚麼の道理をか見る。山云く、某甲今日より去って天下の老和尚の舌頭を疑わず。明日に至って、龍潭陛堂して云く、可中箇の漢有り、牙は剣樹の如く、口は血盆に似て、一棒に打てども頭を回らさざれば、他時異日、孤峰頂上に向かって君が道を立する在らん。山遂に疏抄を取って法堂の前に於て一炬火を提起して云く、諸の玄弁を窮むるも、一毫を太虚に致くが若く、世の枢機を尽すも、一滴を巨壑に投ずるに似たり。疏抄をもって便ち焼く。是に於て礼辞す。

無門日く、徳山未だ関を出でざる時、心憤憤口誹誹たり。得々として南方に来たって教外別伝の旨を滅却せんと要す。れい州の路上に到るに及んで婆子に問うて点心を買わんとす。婆云く、大徳の車子の内は是れ甚麼の文字ぞ。山云く、金剛経の疏抄。婆云く、只だ経中に道うが如きんば、過去心不可得、見在心不可得、未来心不可得と。大徳那箇の心をか点ぜんと要す。徳山者の一問を被むって、直に得たり口扁檐に似たることを。是の如くなりと雖然も、未だ肯て婆子の句下に向かって死却せず。遂に婆子に問う、近処に甚麼の宗師か有る。婆云く、五里の外に龍潭和尚有り。龍潭に到るに及んで敗闕を納れ尽す。謂つべし是れ前言後語に応ぜずと。龍潭大いに児を憐れんで醜きことを覚えざるに似たり。他の些子の火種有るを見て郎忙して悪水をもって驀頭に一澆に澆殺す。冷地に看来たらば、一場の好笑なり。


 龍潭祟信は青原下天皇道悟の嗣、徳山宣鑑はその弟子、一場のお笑いのこれはまさにそのとおりで、物語よく味わうにいいです。徳山和尚就中金剛経に通じ、南方頓悟の禅、神秀上座の北方暫の旧来に対してこう呼んだんです、ひねりつぶしてくれようとやって来た。
 暫という、今も同じことやってます。八正道だの十牛の図だの、らしい風に学んで、今に見ていろおれだってみないなことやっている。とにかく勉強して座禅してというんでしょう。他の些子の火種有る間はどうもこうもならんです、ひっぺがしてもなんとしてもしがみつく。悪水をもって驀頭に澆殺する手段、まずは団子売りの婆さんです。おまえさんのもってなさる物は何じゃの大徳。金剛経の疏抄じゃ。そのお経の中に過去心不得、現在心不可得、未来心不可得とある、おまえさまどんな心をもって団子を食らう。徳山ぐっとつまった、口への字。こりゃあ婆の発明にあらず思う。どこかに坊さまいなさるかと聞いて、龍潭和尚を訪ねる。
 持ってるもの総ざらいして龍潭にぶっつけるんでしょう、久嚮龍潭です、夜も更けて、もう引き上げたらどうじゃと龍潭。いやいたく失礼しました、それではと簾を上げると、外は真っ暗だ。なんにも見えんが、ではといって提灯を取って火を点じて差し出す、徳山手を延べるところへ、吹き消した。
 自分失せて真っ暗だけになる、失せている自分という観察がないんです、ぜんたいそのものです。
 龍潭の請益、言い種を忘れ去って、まさにそのものになるんです。作礼する。
「箇の甚麼の道理をか見る。」
 何がわかったんだと問う、こうこうしかじかじゃ百歩遅いんです。
「はい、今日よりは八方に向かい去って、和尚の舌頭を疑うことなし。」
 と云う。
 山内の寮に泊まったんでしょう、明日龍潭上堂示して日く、
「牙は剣樹の如く、口血盆に似たり、一棒に打てども頭を廻らさず。他日孤峰頂上に向かって道を立っするあらん。」
 と。牙剣樹はお経文句の比じゃないんです、口血盆という、まさにそんなふうに見えます、わしがすんでに見性という独参に、発心寺桂巌雪水老師、ライオンのようにかくの如くに見え、
「はは-ん、じゃわしもそんな姿しているんか。」
 と思うとだに、元の木阿弥。うっふ一棒に打たれたらさあてどうした。
 徳山金剛経を焼く。
「諸の玄弁を窮めるとも、一毫を太虚に。」
 という、これ真実を見るものの、ぞっと知る、
「世の枢機をつくすとも、一滴を巨壑に。」
 という、これを知らねば、そりゃこの世に生きた思いもないんです。

頌に日く、

名を聞かんよりは面を見んに如かじ、面を見んよりは名を聞かんに如かじ。
鼻孔を救い得たりと雖も、争奈んせん眼晴れを豁却せんことを。

 はいぜんたいを救って下さい、脳味噌睾丸の先っちょばかり、なんまんだぶアーメン有り難がってたら、そりゃ地球を滅ぼす、百害あって一益なし。


二十九、非風非幡

六祖、因みに風刹幡をあぐ。二僧有り対論す。一は云く、幡動く。一は云く、風動く。往復して曾て未だ理に契はず。祖云く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くのみ。二僧悚然たり。

無門日く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず。甚れの処にか祖師を見ん。若し者裏に向かって見得して親切ならば、方に二僧、鉄を買って金を得るを知る。祖師忍俊不禁にして、一場の漏逗なり。

 六祖禅師はしばらく猟師の仲間になるなどして野にあった。あるときなにがしという寺に二僧あい争う、風動くか幡動くか、往復して未だ理に契わずと、これを見てついに忍俊不禁です、漏逗大法を表わすんです。これより世に出て大いに隆盛を見る。どうですかこれ、風動くか幡動くか、そんなこって争う人今の世にはいない、科学を知らない頃のこったと、違うんですよ、二僧の智慧が現代人よりよっぽどましな証拠には、六祖の断を聞いて悚然たり、寒毛卓立するんです。
 後住持がこれを聞いて、ただものにあらずと六祖を招く、六祖これがありようを説く。身心脱落、身も心もないんでしょう、すると風も動かず幡も動かず、こっちがこう揺れ動くんです。やってごらんなさい、二僧悚然たりがわかります。風動かず幡動かず、汝が心動くなりと、心と体と同じです、でもそれを見ているものあれば、しばらく遅いんです。故に是れ心の動くにあらず。単純なこってす、確かめる以外に道はないんです、仏も仏祖師も不要になりますか。

頌に日く、

風幡心動、一状に領過す。
只だ口を開くことを知って、話堕を覚えず。

 一状は令状一通でもって同罪ということ、まあそういう前に二僧のように論じてごらんなさい、罪にもならぬことから始めますか。人間とはどういうことか、思想哲学あるいは宗教のまったく届かぬ、不染汚の処に在る、端的にこれを見ることが問題です、見たとして仏教とは何、生涯というあなたは何。お答え下さい。


三十、即心即仏

馬祖、因みに大梅問う、如何なるか是れ仏。祖云く、即心是仏。

無門日く、若し能く直下に領略し得去らば、仏衣を著け、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ずる、即ち是れ仏なり。是くの如くなりと雖も、大梅多少の人を引いて、あやまって定盤星を認めしむ。争でか知らん箇の仏の字を説けば、三日口を漱ぐことを。若し是れ箇の漢ならば、即心即仏と説くを見て、耳を掩うて便ち走らん。

 馬祖道一(七0九ー七八八、六祖下三世の法孫、南嶽懐譲の嗣)大梅法常はその弟子、即心即仏、非心非仏、因みに僧問う、和尚なんとしてか即心即仏と説く。祖日く、小児の啼くを止めんが為なり。啼き止みし時如何。非心非仏。止啼銭という、がきに飴をくれるんですか。即心即仏、仏を拝し仏教を云う人のかつても今も思いも及ばぬことです。即心即仏という師家禅師ですら、そっぽを向きっぱなし、必ず何か別にあると思っている。納り切らんのです。求めるに従い遠くて遠いんですか。迷って山河の箇を隔つと、なぜです、即心即仏に背くがゆえに。身も蓋もないですか、そうですまったく身も蓋もないんです。泣く子が黙れば非心非仏、もとまっ平らのなーんも波風立たないんです。
 大梅にだれか、このごろは即心即仏じゃない、非心非仏と云うんだと云った、大梅他は知らずわしは即心即仏だと、伝え聞いて馬祖、大梅熟したりと云う、熟すとは何か、ついに忘れ去るになんで即心即仏。
 どうか確かめて下さい、馬鹿の一つ覚えの大梅は真、他まったく云うことないです。

頌に云く、

青天白日、切に忌む尋覓することを。
更に如何と問えば、贓を抱いて屈と叫ぶ。

 定盤星ははかりの棹の起点にある星、無駄目、仏という時にすでに無駄目。まずもってこれに気がつくことです。尋覓するもの如何。贓は盗品です、盗んだ財をもって屈と叫ぶ、わっはっは、やってないですか、即心即仏と持ち上げ、身心脱落と急転直下、くそ面白くもねえやなんとかしてくれ。


三十一、趙州勘婆

趙州、因みに僧婆子に問う、台山の路甚れの処に向かってか去る。婆云く、驀直去。僧わずかに行くこと三五歩。婆云く、好箇の師僧、又た恁麼にし去る。後に僧有って州に挙似す。州云く、我が去って汝が与めに這の婆子を勘過するを待て。明日便ち去って亦た是の如くに問う。婆も亦た是の如くに答う。州帰って衆に謂って日く、台山の婆子、我れ汝が与めに勘破し了れり。

無門日く、婆子只だ坐ながらに帷幄に籌ることを解して、要且つ賊に著くことを知らず。趙州老人は、善く営を偸み塞を劫かすの機を用ゆるも、又た且つ大人の相無し。点検し将ち来たれば、二り倶に過有り。且らく道え、那裏か是れ趙州、婆子を勘破する処。

 台山とは五台山のこと、清涼山ともいいここに文殊菩薩が説法するという信仰があった、今また別の信仰で賑わっているらしく、没交渉のこってすか。婆さんに台山の道を聞くと、驀直去、まっすぐ行きなされと云う。坐禅のノウハウを聞く、驀直去、仏を求めるにはただもうまっしぐらと、まっすぐ真正面と。はいと云って歩き出すと、ええ坊さまじゃああの通りに行くと。こりゃぎょっとするんです。婆さんに仏道修行という、噂話しかなかったらあっはっは、却って真っ二つですか。それとも大修行底の婆ですか。
 はたして趙州のこのこ出かけて行った。五台山の道を問う、まっすぐ行きなされ、三五歩行くと、ええ坊さまじゃあまっすぐ行くってね。趙州舌を抜かれて帰って来て、なんにも云えず、我汝が為に勘破し終われりと。
 どうですか、婆さんでなくって石ころの方がよかったですか。
 帷幄に籌るとは、天子の帷つまり参謀本部ですか、智慧です。賊とは相手の心になって働く、なんとかするは、自ずからってしかない。好箇の師僧恁麼にし去る、けっこういけてるんですがね、うっふっふ。営とはむかし大本営などと使った、こりゃ塞外の敵方のこったですか、いながらにして活殺自在を、また手足もって為す、身を運んだ趙州です。それにしても大人気ないっていう。
 汝が為に勘破し了れりと云って、一箇半分ちっとはましになったんですかね。目くそ鼻くそにならんきゃよし、大趙州。

頌に日く、

問既に一般ならば、答も亦た相い似たり。
飯裏に砂有り、泥中に刺有り。

 一塵わずかに起こって大地まったく納まるという、納まり返ってのち如何、打てば響くと、たしかに、一般人必ずこの則のようには行かんです、今の世妄想煩瑣、能書きばっかり多いんですが、かつての大人武士でも、あるいはこうは行かない、まずはそこを見て下さい。


三十二、外道聞仏

世尊、因みに外道問う、有言を問わず、無言を問わず、世尊拠座す。外道賛嘆して云く、世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて、我れをして得入せしめたまう。乃ち礼を具して去る。阿難尋ねて仏に問う、外道は何の所証有ってか賛嘆し去る。世尊云く、世の良馬の鞭影を見て行くが如しと。

無門日く、阿難は乃ち弟子、宛かも外道の見解に如かず。且らく道え、外道と仏弟子と相い去ること多少ぞ。

 世尊は、如来応供正遍智妙行足善逝世間解無上士調御丈夫天人使仏世尊の十号の一。外道は、六師外道、九十五種の外道などいう、仏教以外の宗教とその信者。今は古代インドよりも外道多種ですか、仏教と名告るまあろくでもないのが新旧併せて、わっはっは箸にも棒にもかからんですか。宗門もまったく外道と化す、情けないこったです。この外道こりゃたいしたもんです。有言を問わず無言を問わず、これ決着がつく処だったんでしょう、たしかにかくあるべきと知って、証拠する人がいない。まさに世尊良久す、見るものを見たんです、鳥でも花でもよかろうが、人間の如来が見たいんです、見たら既に我れも如来。世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて、我れをして得入せしむ、礼拝して去るんです。阿難仏弟子にして、蛇足せにゃならん、たといまあそういうこったです。本来人になるまでは、外道も内弟子も同じ迷雲ですか、わずかに正念修行の道が開けているか否か、キリスト教や他の一神教はついに無明の闇です、大慈大悲と取りすがるべき袂がないんです。われらが幸を思うべきです、ゆめ外れることなく。

頌に云く、

剣刃上に行き、氷稜上に走る。
階梯に渉らず、懸崖に手を撒す。

 取り付く島もなしがあなたです、杖も要らぬ吊革もいらぬ、手段を仮らぬ、これ大丈夫。外道実にこれを知る、希なことです、宗教といい思想という、他地球破滅の階梯を免れる、もと平らかに見る目、はーい阿難もだれあってこれこっきり。


三十三、非心非仏

馬祖、因みに僧問う、如何なるか是れ仏。祖日く、非心非仏。

無門日く、若し者裏に向かって見得せば、参学の事畢んぬ。

 馬祖道一は南嶽懐譲の嗣、前に出て来たのは如何なるか是れ仏、是心是仏です。仏教というものが経典や伽藍や仏像やという、他所に見るもの、信仰の対象、あるいは苦しい時の神頼み風から、そうではない是心是仏、あなたのこれ身心そのものだよと示す。元へ立ち返ったただけのこれが三百年来、あるいはたった今も不明です。禅門だけでも元の木阿弥かと思うと、まったくあっち向きこっち向きです。どうしてもなにかしら得たい、転ばぬ先の杖が欲しいんです。
 他にひけらかす座禅何段、室内終わったとか悟りとかです。
 是心是仏改めてまさにこれ。
花は花月はむかしの月ながら見るもののものになりにけるかな
 ただもうこの我れと我が身心です、おのれが満足せねば、他何云おうとて二束三文です。
 仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。
 他になんにもいらんです、あるいは仏祖の言も経典も邪魔になれこそ、なんの足しにもならんです。正師は奪うとはこれです。
 邪師は付け足す、是心是仏ではない、ついに得るに従い、無一物中無尽蔵、花あり月あり楼台ありは、自分というひとかけらもないからに、ものみな現ずるんです。これを非心非仏です。
 坐が教え示す、他にはまったくないんです。自分という形骸、自縄自縛の抱え込み思い込みを離れるんです、ついにまったく離れるんです、生まれてこのかた初めて自分になったという、こんな贅沢が許されるか、これじゃまったく傍若無人じゃないか、神様なんてけちなもんじゃない、という時に自分がまったく失せきっています、非心非仏これ。
 仏教ってどこにそんなものがあるんだ、なぜだという、これ正解仏教の真っ只中。
 他なしなんです。

頌に日く、

路に剣客に逢はば須らく呈すべし、詩人に偶はずんば献ずること莫れ。
人に逢うては且らく三分を説け、未だ全く一片を施すべからず。

 この二連二つとも古句を引用しているんですが、分かり易いから別に来歴など要らんです、剣客には剣詩人には詩、でないととんちんかんというよりせっかくの持ち前を損なうんです。是心是仏と説いて、後に非心非仏と用いよというんですか、たしかに非心非仏じゃあ、まっぱじめっからどうもならんですか、あっはっは。


三十四、智不是道

南泉云く、心は是れ仏にあらず、智は是れ道にあらず。

無門日く、南泉謂つべし、老いて羞を識らずと。わずかに臭口を開けば、家醜外に揚がる。是くの如くなりと雖も、恩を知る者は少なし。

 南泉普願は馬祖道一の嗣、時に僧有り問う、古えより祖師、江西大師に至るまで皆云く、即心即仏、平常心是道と、今和尚は心は是れ仏ならず、智は是れ道ならずと云う、学人悉く疑惑を生ず。請う和尚慈悲もて指示せよ。南泉日く、若し心を認めて決定すれば是れ仏ならず。若し智を認めて決定すれば是れ道ならずと。
 心の無いのを無心と云います、なぜ無いかというと、心は一つです、一つが一つを顧みることの不可能、心を見ることができない、つまり無いんです。それをあるように思い込む、心を見る、なんとしようという、是非善悪です、これを有心といいます。学人悉く疑惑を生ずという、アッハッハではそれ嘘です、どうですかそんな処に仏はないんです。
 人間の悩みごと一切これです、無いものを有ると思い込む、心を認めて決定という、はしからに崩壊です。野狐禅というきちがいの道ですか。心という自分を運んで万法を証する、絶えずおれはいいんだ、悟ったんだだからと、入れ智恵してないと納まらない。あるいは故に頭いっぱいで、無心であるべき心が、満員に塞がって受付けない。鼻持ちならぬてめえ演説ばかり。
 宗教家道徳家というのこれです、思想家も同じですか、テレビに出たりそこらじゅういっぱい。弊害思い知るべきです。従前の心という周辺に知識智恵です。これ自縄自縛の縄、触れるものみな解き放つ仏の反対。智恵認識という殺人兵器ですか、他を支配する喜びですか、おれはいいんだという、どうにもこりゃ困ったさんです。
 老いて恥知らず、南泉わずかに臭口を開いて、
「ちがうんだよ、こうなんだよ。」
 という、ほんにこれがありようを説くには、家醜を揚ぐ。わかりますかこれ、花に施設させて、月に長口舌、ぐわーみっともない、咲いてりゃいい、照らしてりゃ恩の字なんです。
 わかりますかこれ、説かない人こそ真、はいそういう世の中来りゃいいですね。

頌に日く、
天晴れ日頭出でて、雨下って地上湿う。
情を尽して都べて説き了る、只だ恐る信の及ばざることを。

 そりゃどう説いたってどもならんですか、有心から無心へという試金石、クリアーするのは百人中一人か、痴人に夢を説く、毒を盛られるよりは面壁九年の達磨さんも阿呆で、とうとう臭口を開いてアッハッハ、でもってついの今まで踏んだり蹴ったりですか。


三十五、倩女離魂

五祖、僧に問うて云く、倩女離魂、那箇か是れ真底。

無門日く、若し者裏に向かって真底を悟り得ば、便ち知らん殻を出て殻に入ること、旅舎に宿するが如くなることを。其れ或いは未だ然らずんば、切に乱走すること莫れ。驀然として地水火風一散せば、湯に落つる蟒蟹の七手八脚んるが如くならん。那時言うこと莫れ、道わずと。

 五祖法演(臨済宗楊岐派白雲守端の嗣)、倩女離魂というのは、なにがしの娘倩女が、肉体と魂が分離して、というより二つになって、うっふ肉体がなけりゃ魂ですか、一人は甥の王宙と結婚し、一人は病の床に伏す、二身再び合体してという、陳玄祐の離魂記による。
 坐ってみるしかないんです、自分という身心が失せる、無眼耳鼻舌身意です、はるかになーんにもなくなって、倩女離魂那箇かこれ真底という感じです。不思議に幽霊ですか、空中浮遊だの、居ながらにして彼女に会うだの、対岸火事を消せだの、超能力者の云うが如くの実感です。でもそりゃそれっこっきり、物理学の法則を食み出るこたないです、まあなにしろ倩女に参ずるもよし、自分という思い込みの形骸、殻をぶち破って自在、元の木阿弥に返って下さい。元の木阿弥とは虚空です、細には無間に入り大には方所を絶す、これ生まれ本来のありよう。自縄自縛の思い込みがあるっきり。
 切に乱走することなかれ、本来を知ればいいんです、これをもって特異能力とかいう、卑しい我欲に走って、オウムだの新興宗教なんかしないんですよ。まあ旧教も目糞鼻糞だけど。我欲をぶち破る、大満足は地水火風一散するんです。蟹を茹でると七足八足するんでしょう、面白いんですよ、こっちの意志とは無関係に手足の動く感じです、だからどうなんだなと云わずに、やってみたらいいんです、地球だの流転三界だの、とやこうまったく解き放された観があります。

頌に日く、

雲月是れ同じ、溪山各々異なる。
万福万福、是れ一か是れ二か。

 はいこれ茹で蟹の七手八脚する様子です、無限の自由ですか、絶対の自在ですか、能書き垂れていたって、始まらない、自分でやって見て下さい。毎日こんなふうでまったく困らないんですよ。生きている、いえさ死んでいるのも、なんというすばらしさ、済々筆舌に尽し難いんです。


三十六、路逢達道

五祖日く、路に達道の人に逢はば、語黙を将って対せざれ。且らく道え、甚麼を将ってか対せん。

無門日く、若し者裏に向かって対得して親切ならば、妨げず慶快なることを。其れ或いは未だ然らずんば、也た須らく一切処に眼を著くべし。

 五祖法演禅師、香巌智閑の譚道頌に、的的として兼帯無く独り運ぶに何ぞ依頼せん。路に達道に逢はば、語黙を将って対すること莫れ。とあるを引く。的的として兼帯なくという、まずもってこれができないんです。自分を何物かに見做して、だからおれは、ゆえにとやる、立場を云い、虎の威を借る狐です。乃至上を見れば切りもなし、下を見れば切りもなしまあこの辺でという、花一輪そんなことやってないです。雲はぽっかり浮かんで行くだけ。なぜに人間はそんな禍の元をと、はいまずもって大反省して下さい。独り運ぶになんぞ依頼せん、ものみなのありようこれ、赤ん坊は他との比較がない、比較の必要を知らんのです、だったらもういっぺんそこへ帰ったらいいです。比較もないがしろもいじめも損得もただ通過して行くだけです。大安心大満足ですか、金持ちは喧嘩しないんじゃなく、ないものはとやこうしない。はてこんな者同士が道で出会ったらどうします、挨拶なしで行き違うなど、そんなもったいない。つうかああって、必ずないやつが勝つ、ちらともありゃ負けです。我れより劣る者は百歳の老翁と雖ども指示し、勝れる者は三歳の児童と雖ども教えを乞うと、いえまさにまったく他にはないんです。たとい教えを乞おうが、指示しようが因果無人、真底こうあるっきりなんです。手を取り合って行くとは万物宇宙、馴れ合いじゃないんです。

頌に日く、

路に達道の人に逢はば、語黙を将って対せざれ。
欄腮劈面に拳す、直下に会せば便ち会せよ。

 欄腮劈面とは、顎を掴んで真っ向から殴りかかる、劈面は悲しみのあまり刀で顔を切り裂く、ないもの同士の対決っていうんですか、まさにかくの如くと覚えて下さい。だれかれ相対したって、風はかくの如く、真相まさに隙間なくです、会するより先にわっはっはあ真っ二つ、とやこういうのは閑人ばかり、月も花雲も待ってはくれんです。


三十七、庭前柏樹

趙州、因みに僧問う、如何なるか是れ祖師西来意。州云く、庭前の柏樹子。

無門日く、若し趙州の答処に向かって見得して親切ならば、前に釈尊無く後えに弥勒無し。

 禅問答の代表みたいに言い習わして、実は知れる者皆無ですか、趙州因みに僧問う、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。僧云く、和尚境を将って人に示す莫れ。州云く、我れ境を将って人に示さず。僧云く、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。境をもって示すとはおおかたの人、芸術だの宗教だのいって、その趣味を押しつけるんです、柏という日本のものと違って常緑の松に似た木です。祖師西来は達磨さん、仏教伝来の意です、仏です。意味というのは取捨選択です、歴史や事件です、これはまったくそうではないんです、ここが学者だのいい加減にはわからない。宗門問答に、如何なるか是れ祖師西来意とやる、目の辺り、卓子だの花皿などやっている。そりゃそういうものと定型化する、禅門宝鑑などあって、複雑多義な法要や問答等、物まねの手引きです。つまり坊主は嘘です。
 若し趙州の答処に向かって見得当んらば、前に釈尊なく後に弥勒なし。まさにこれを得る、他になんもないです。
「庭前の柏樹子。」
 と、柏樹子になり終わって下さい、お拝して坐具を見る、坐具というまったく無形容のもの、すなわちこれっこっきり、自分という顧みないんです、親切これ。釈尊なく弥勒なしを知って下さい。何をとやこう云ったって始まらんです、ただこれ。
 取り付く島もないから、取り付く島もないを差っ引くと、けっこういい塩梅ですか、あっはっは。

頌に日く、

言事を展ぶること無く、語機に投ぜず。
言を承くるものは喪い、句に滞るものは迷う。
 只管打坐まるっきりただです、さあやってごらん手付かずと云われて、二、三十年言を展べ機に投ず、失い迷いの七転八倒、ようやく少しは無心に行く、ちらとも見れば驚天動地、そうかもののありようこれと知って、いよいよ参じて、そりゃ弥勒さんも果つるまで。


三十八、牛過窓櫺

五祖日く、譬えば水怙牛の窓櫺を過ぐるが如き、頭角四蹄都げて過ぎ了るに、甚麼に因ってか尾巴過ぐることを得ざる。

無門日く、若し者裏に向かって転倒して、一隻眼を著け得、一転語を下し得ば、以って上四恩に報じ、下三有を資くべし。其れ或いは未だ然らずんば、更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。

 水怙牛、こは牛へんです、水牛ですか、インドでは象であったと、これ坐ってみないとなんのことやらわからんですよ、学者ちんぷんかんぷんの所以。坐っていると、身心無しと云うんでしょう、たしかに頭も角も四つの足も消えて、虚空と同じになる、ところが尻尾だけ残る、窓櫺窓格子ですか、すなわち虚空もあるんです、そうやって眺めている自分があるのです。こやつが吹っ切れんきゃ必ず反乱を起こす、人みな四苦八苦する処です。
 見性したという、たいして手間ひまかからんです。尻尾の残ったまんまやった、おれは見たという、これ本当にやって、どうだという、世間あるんですな、いわゆる鑑覚の病という、再度とりつかれと二通あるんですが、どっちもまたやらんけりゃならん、五年十年かかったりします。
 牛過窓櫺です、日夜に参じて、尻尾を切るとは本当に生きるんです。解き放たれるんです、なんのこたない自然に成る、赤ん坊の自在底です。これを得る、なんにも増しての喜び、他もう要らんです。でもその間すべてを捨てる、人のまあ百生も卒業しちゃんです。
 わっはっは他の一神教などちゃんちゃら可笑しくって、故に四恩、一に父母の愛二に衆生の恩、三に国王の恩、四に三宝の恩という、すべて報じ、三有、欲界色界無色界ですってさ、すべてを資けです。ふっと笑うと百花開く、如来と赤ん坊の特権です、世界平和とはこれ。

頌に日く、

過ぎ去れば坑慙に堕ち、回り来れば却って壊らる。
者些の尾巴子、直に是れ甚だ奇怪なり。

 過ぎ去ったとやるんでしょう、穴に落っこっちゃう、そうじゃないもとないものをあるとしている、でもってだからと回らすと、もとっから破れる。なんとしたって者些の尾巴子、気にかかるんです、いじればいじるほどに、始末に追えない、そうやっている自分の問題ですよ。楽しくやって下さい、無我夢中坐が救ってくれます手放し。


三十九、雲門話堕

雲門、因に僧問う、光明寂照遍河砂。一句未だ絶せざるに、門遽かに日く、豈に是れ張拙秀才の語にあらずや。僧云く、是。門云く、話堕せり。後来、死心拈じて云く、且らく道え、那裏か是れ者の僧が話堕の処。

無門日く、若し者裏に向かって雲門の用処孤危、者の僧甚んに因ってか話堕すと見得せば、人天の与めに師となるに堪えん。若也未だ明きらめずんば、自救不了。

 雲門文偃、雪峰義存の嗣雲門宗の祖、徳山のもとに如何なるか是れ仏と問うて、再度追い出され、三たびして門扉に足を折って大悟すという。機峰第一と云われ、趙州に並び頻出する。機峰という、そんなもの問題にならんですが、雲門かく見性してより、なんで内あり外ありするという、本来ほんとうにぶち抜くまで就中苦労したことは、趙州また洞山大師と同じです。まっ平らになって始めてこの言ありです。
 科挙の試験に通って秀才という、官人さんです、張拙秀才はまた石頭下三世石霜慶諸に就いて開悟し、呈した長頌の冒頭に、光明寂照遍河砂の一句がある。
 云い出でたとたんに、話堕じゃと云ってそれっきり、それが面白いもんだから死心、黄龍死心(一0四三ー一一一四晦堂祖心の嗣)がしばらく道え、この僧のどこがいったい話堕、かんしけつですか、出かかった糞が固まっちまってつんです。話に堕す、色っけですよ、人におもねるは、気に入ったからというも百年遅いんです。まあさ自分になってない、光明寂照遍河砂、ぐわぶん殴ってやる、口が裂けてもの勢いあって、雲門の二の句を引き出す。わっはっは雲門から二の句が引き出せたら、無門も形無しってとこですか。
 よくまあヤフー掲示板でも話堕の人九割方、切っても切られたことを知らない。参ずる以前ですが、この僧に至っては、なにしろ坐るのでしょう、そうしてもってちらとも見る、あるいは風景あって、秀才の頌に見処、師の雲門に挙す。だったらもう一つ親切に答えたらどんなもんだという、話堕です。糞掻き箆め。親切この上なし、なんという醜さ、痛烈に示すんです。はいこの間のことちらとも知って、本来ほんとうを求めて下さい。

頌に日く、

急流に釣りを垂る、餌を貪る者は著く。
口縫わずかに開けば、性命喪却せん。

 心の動きは一瞬なんです、神経シナップスの速さをゼロとして人間成り立っているんです、悟るも悟らぬも電光石火、わかりますか雲門も趙州も間髪を入れず、それ以外に説得の法がないんです、腹減ってるやつはがぶりとやる、減ってないやつは問題外。


四十、糴倒浄瓶

い山和尚、始め百丈の会中に在って典座に充たる。百丈将に大いの主人を選ばんとす。乃ち請じて首座と同じく衆に対して下語せしめ、出格の者往くべしと。百丈遂に浄瓶を拈じ、地上に置いて問いを設けて云く、喚んで浄瓶と作すことを得ず、汝喚んで甚麼とか作さん。首座乃ち云く、喚んで木とつと作すべからず。百丈却って山に問う。山乃ち浄瓶を糴倒して去る。百丈笑って云く、第一座山子に輸却せらると。因って之れに命じて開山と為す。

無門日く、い山一期の勇、争奈んせん百丈の圏櫃を躍り出でざることを。点検して将ち来たれば、重きに頼りして軽きに頼りせず。何が故ぞ。にい。盤頭を脱して鉄枷を担起す。

 い山のいはさんずいに為、い山霊祐(七七一ー八五三、百丈懐海の嗣)大い山は譚州長沙府寧郷県にありとさ、山中に同慶寺寧印寺あり大坊本山ということ。そこのこれは開山を選ぶに当たって、首座つまり雲衲の筆頭第一座です、典座は会計食事を預かる大役です、およびみなまた呼んで、浄瓶という、インドから直伝ですか、わしらには伝わってないのはさすが水の国日本です、手を洗い口を注ぐための浄水を容れる器です、必携のものだった、百丈これをとって前に置き、
「浄瓶と云わず何と云う。」
 と云った、首座が出て、
「木っぱと云うわけには行かんが。」
 と云った。木とつ、とつは木へんに突、木杭木の切れ端。
「い山はどうだ。」
 と百丈、い山というのはい山の主になってよりの名、まあそう呼んでおきゃいいわけで、山、浄瓶を蹴倒して去る、
「わっはっは、第一座、あいつにしてやられたな。」
 と百丈。
 すなわち山に命じて開山となすと。
 どうですか、とやこう云わんです、あなたならどうしますか。開山を蹴って知らん顔ですか。物まねはだめですよ、瓶と云わずになんと云う、禅問答のお定まりみたいなこれ、答えがあっちゃ試験の答案です、話堕に落ちる以前。首座は少なくとも自分の問題にする、重きに便りしては山子の糴倒ですか、軽きに便りとは、そりゃ名付けて使っているものを、何を今更ってなもんです。なぜいけないんだ、にい、暫耳と作る、喝などと同じに使うんです、盤頭はちまきというより、孫悟空の鉢巻、鉄枷は大い山ですか。
 圏櫃はわな、百丈の檻にいて日夜研鑽も卒業式。なにさ百丈のもとにらしく振る舞ってりゃいいものを、とかく人間はそうは行かない、てめえに鉄枷はめて世の中へ。そりゃ勇気あるわなアッハッハ。

頌に日く、

笊籬並びに木杓をよう下して、当陽の一突周遮を絶す。
百丈の重関も欄ぎり住めず、脚尖糴出して仏麻の如し。

 よう下ようは風に易、放り出す、笊籬これざるのこったかざるみたいな垣根かな、木杓はしゃもじだとさ、そういうの放り出して、当陽南面ですか、真正面因みにお寺は南向き、周遮まわりくどいとやこうです、突破して下さい、これ坐禅の要訣です、いつまでたっても牛過窓櫺やってないんです。脚尖爪先で躍り上がる、仏はこうあるべき、身心脱落のありようはなどなんの役にも立たない、たとい百丈の重関もわずかにてめえの皮っつらです。


四十一、達磨安心

達磨面壁す、二祖雪に立つ。臂を断って云く、弟子は心未だ安からず。乞う師安心せしめお。磨云く、心を将ち来たれ。汝が為に安んぜん。祖云く、心を覓むるに了いに不可得なり。磨云く、汝が為に安心し竟んぬ。

無門日く、缺歯の老胡、十万里の海を航して特特として来る。謂つべし是れ風無きに浪を起こすと。末後に一箇の門人を接得して、又却って六根不具。いい。謝三郎四字を知らず。

 心未だ安からず、どうか安心させてくれという、では心を持って来い、おまえの為に安心させてやろう。心を求めるについに不可得。我れ汝を救い得たり。まさにこれ公式です。たったこれだけでいいです。無心とは心の無いこと。心はたった一つです、たった一つはたった一つを見ることができない、単純な理屈です。にもかかわらず、おれは妄想だ、取り越し苦労だ、あるいは悪だの善だのいう、崇高だの、こうあるべきの、心をしっかり持てという。騒がしいだけです。
 見えないはずの心を見る、これを有心という、では納まりっこないんです、収拾が着かない。諸悪の原因これ、地球を滅ぼすもの有心です。
 如何なるか祖師西来の意。これ無心、庭前の柏樹子は、省みるに我れなし、省みる我なし、ことを伝えて、すでにまったく了るんです。
 世間のいう無心とはそういう有心です、実に臂を断じて差し出す、一心まっしぐらもってようやくに得るんです。
 ふりして、喫茶去などいってお茶を濁すこっちゃないです。
 今の坊主学者一般達磨さんに毒を盛る連中、なにを云ったろうが、云い草にして終始我田引水は、ないはずの心をよこしまにして、くされ睾丸握りしめ、まあさ自淫行為これ。
 缺歯の達磨、しばしば毒を盛られて歯が抜け落ちたという、断臂の二祖大師、これを継ぐに当たって他なしは、今もまったく同じです。事情はよくも悪くもなっていない。却って六根不具、茹で蟹の七足八手するをもって辛うじて免れ、玄沙師備大師の旧姓は謝という、謝三郎文字を知らず、銭に記す四文字も読めなかった。達磨の不識、六祖の応無所住而生其心、人間などいうはるかに脱して、ものみなの自由自在です、それあるが故に滅びず、まったくに今に至る。

頌に日く、

西来の直指、事は嘱するに因って起こる。
叢林を橈聒するは、元来是れ汝。

 にょうはてへん、橈聒騒がせる意、直指単伝の法はまったく他にはないんです、迦葉拈花微笑、世尊我に正法眼蔵ねはん妙心の要術あり、迦葉に付嘱すと、阿難倒折刹竿著以来我れに至る八十六世、寸分違わずに滴相承の事。叢林は祖僧堂祇園精舎です、この世は叢林、まさに良寛さん一生不離叢林です、お騒がせ人間はあなたです、はやく知って本来に返って下さい、達磨さんに法じゃない、まったくに別事なし、これ。


四十二、女子出定

世尊、昔因みに文殊、諸仏の集まる処に至って、諸仏各々本処に還るに値う。ただ一人の女人有って彼の仏座い近づいて三昧に入る。文殊乃ち仏に白さく、云何ぞ女人は仏座に近づくことを得て我は得ざる。仏文殊に告ぐ、汝但だ此の女を覚まして、三昧より起たしめて、汝自ら之れを問え。文殊女人を遶ること三匝、指を鳴らすこと一下して、乃ち托して梵天に至って其の神力を尽くすも出すこと能わず。世尊云く、仮使い百千の文殊も亦た此の女人を定より出すことを得ず。下方十二億河沙の国土を過ぎて罔明菩薩有り、能く此の女人を定より出さん。須臾に罔明大士地より湧出して世尊を礼拝す。世尊罔明に勅す。却って女人の前に至って指をん鳴らすこと一下す。女人是に於て定より出ず。

無門日く、釈迦老師、者の一場の雑劇を做す。少々を通ぜず。且らく道え、文殊は是れ七仏の師、甚んに因ってか女人を定より出だすことを得ざる。罔明は初地の菩薩、甚んとして却って出だし得る。若し者裏に向かって見得して親切あらば、業識忙忙として那伽大定んらん。

 文殊は七仏の師という、七仏はびばし仏しき仏と唱えるお釈迦さま以前の仏、これたとい八十六世の仏も次は過去七仏に継ぐんです。罔明、罔は無きこと無明の菩薩という、最下位の仏ですか。どうです一応の道を得て、妄想業識忙忙、うっふ前生の業によって輪廻転生の心意識に苦しむこととあります、妄想三昧にありながら、傷つかぬ無心、無けりゃ傷つかぬ道理です、すなわち定に入ることができますか。八九成という自覚、あるいはこれ、君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずと、証道歌にある通りの本来人ですか。女の人でこっちなんにも説かずのうちに、三昧というより、まさにそのものに成り切っている人います。不思議に生え抜き、でもって罔明菩薩ですか、たしかに古参がよったくって何しても叶わない、まったく面白いんです。で本人何を知っているかといって、別段のことはなく、決して誤らない。他の方向を指しても、見向きもしない。
 男ではこうはいかない、文殊では歯が立たないっての実感します。でもまあこの則みたいに、持って回ったこと云わずもがなって思います。そりゃそういうことあって、未緒ちゃん師家になるか、だったら適当な三百代言脇に置いてさ、うっふ云いたいこと云ってりゃ様になるよって。人を定から出すなんて、だれ何しようが同じです、頭ぶん殴るまでもない、でも本来ほんとうを如何せんです。未緒ちゃん追っかけの人来たよ、わーったらあの子飛んで行く。
 那伽とは龍のこと、那伽大定魚変じて龍となるには、少々を通ぜずは、世の中どう足掻いたって何一つ欠くことはできないんです、白雲去来すれども泰山動ぜずなんて踏ん反り返ることいらない、ただもうっ真っ只中です、ぬうっと丸出し、絶対過またず。

頌に日く、

出得するも不出得なるも、渠と儂と自由を得たり。
神頭並びに鬼面、敗闕当に風流。

 うんまあさそうしゃちほこばらなくたって、わずかに自分失せれば大自在、仏とは何かという、仏というたがを外れて、ほんとうに仏であるか、世尊まったく過またずか、はいみなさんたしかに証明して下さい、でなかったら道は絶えます。


四十三、首山竹箆

首山和尚、竹箆を拈じて衆に示して云く、汝等諸人、若し喚んで竹箆と作さば即ち触る。喚んで竹箆と作さざれば即ち背く。汝諸人且く道え、喚んで甚麼とか作さん。

無門日く、喚んで竹箆と作さば即ち触る。喚んで竹箆と作さざれば即ち背く。有語なることを得ず、無語なることを得ず。速やかに道え、速やかに道え。

 首山省念(九二六ー九九三臨済下風穴延沼の嗣)法華経に通じ念法華と云われる、通ずるという別段何を通ずるわけでもなく、法華経を云い、南無妙法蓮華経と云い、何か特別を思い、他を排斥しもの狂いする連中とは、あっはっはわけが違うです。法華経を卒業する、なんにも残らないをもってわずかに可。竹箆は弓のような、法戦式に使う道具ですか、さあ道えと云うんです。使い得るか、有語なることを得ず、無語なることを得ず、すみやかに道え。ようやくここに人間本来真面目です、さあ道って下さい、へたすりゃ首が吹っ飛ぶ。

頌に日く、

竹箆を拈起して、殺活の令を行ず。
背触交馳、仏祖も命を乞う。

まったくさ、何云っていいのかからない、命乞いです、命助かったってなんにもならない、さあどうする、糞もすりゃ屁もこく、真面目とはなにか、答えりゃ自ずからに命。


四十四、芭蕉柱杖

芭蕉和尚、衆に示して云く、汝に柱杖子有らば、我汝に柱杖子を与えん。汝に柱杖子無くんば、我汝が柱杖子を奪わん。

無門日く、扶けては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る。若し喚んで柱杖と作さば、地獄に入ること箭の如くならん。

 芭蕉慧清、新羅の人、い仰宗第三世南塔光湧の嗣。柱杖子は杖、柱はてへんです、しゅじょうと読み、行脚托鉢に使うんです。杖があったら杖をやろう、なかったら杖を奪おうというのです。世間と反対ですか、金持ちに施して貧乏人からふんだくる、これ禅家常套手段と云わずに、まさにこれ、奪われる方、押しつけられた方になってごらんなさい。どうする、世間体振り回して拒絶しますか。奪う方与える方になってごらんなさい、世間のいったいどこに生きてますか。ないという担いで帰れと云われる、あるという、なんてえ貧乏人だと罵られる。なぜですか。
 五体健全杖など不要、だのにいったい転ばぬ先の杖。却ってこれ不自由を生ず。杖などいらんといって、一歩も歩けないやつ、あっ世の中変わったのばかり。
 扶けては断橋の水、よりすがって来るやつを突き放す、うわっと橋のない水を歩く、これ親切。伴なっては無月の村、光明も指針もないまっくらがりですか、いっしょにやろうたってなんでもありのなんにもなしです、はいこれ友情これ信です。だってさ、地球上の人間以外みなこれですよ。
 廓禅無聖、個々別々、知らんわいの不識。
若し呼んで柱杖となさば、地獄に落ちること箭の如し。まあさせっかく0だってのにと云って、舌引っこ抜かれ。

頌に日く、

諸方の深と浅と、都べて掌握の中に在り。
天をささえ並びに地をささえて、随所に宗風を振るう。

 般若波羅蜜多を深く行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、度一切苦厄、パーラミーター彼岸に渡るに深浅があるかという、そりゃあるんです、忘我とその周辺とですか。でも深浅とはそれっきりです。ものみなの中にこうあるだけです、世間諸方の深浅など問題にならんです。はい心経のまっぱじめです、随所に主となって下さい。


四十五、他是阿誰

東山演師祖日く、釈迦弥勒は猶を是れ他の奴。且らく道え、他は是れ阿誰ぞ。

無門日く、若し他を見得して分暁ならば、譬えば十字街頭に親爺に撞見するが如くに相い似て、更に別人に問うて是と不是と道うことを須いず。

 東山演、五祖法演のこと(三十五則など)釈迦弥勒は他の奴、思うだに見習うだにろくでもないというんです。邪魔にこそなれいいことなんにもない、これ禅門いろはのいというより、仏教入門というより、人間他なしなんです。お手本や見本こさえて二人三脚やってたら、ぶっ転ぶだけです。ただそれだけのこと。草木鳥獣まったくこれです、人間だけが虎の威を仮る狐ですか、ふーんいぶっせえな話。
 でもって他の奴いらんちゃ、他ってこれ誰なんだってわけです。アッハッハ笑っちまうです。
 毎日やってますよ、誰に会うたって同じです、多少億劫ですか、ちゃーんとしゃば生きの常識ぐらい弁えてます、でもさ頭通さないで反応ってのかな、ちんぷんかんぷんだとて、相手失せりゃもう忘れています。
 でもそれ十字街頭にのべたんは、商売坊主やマスコミ連中とは関係ないです。吸毛剣です、触れりゃ真っ二つの自覚症状なし。百花開くの好々爺ですか。空手の羽賀がとつぜんすざって、うっふばけもんか気違いって面したな、あいつさすがに武道家。もっとも何思ったかなどこっちの知らんこと。
 自然という他という、天地同根の元の木阿弥ですか、死んだら仏。まずはまあよくもわるくもなくです、つまらんとも云わずに、はーいじきおさらば。

頌に日く、

他の弓挽くこと莫れ、他の馬騎ること莫れ。他の非弁ずること莫れ、他の事知ること莫れ。

 ふーん無門も一応はやっとるわさ、まずもってこれ自然に成ってりゃ頂上ですか、他云うことないんです。でもってなんで生きてるかって、問いたきゃ毎日でも問うてみりゃいい、答えはとたんに忘れてます。


四十六、竿頭進歩

石霜和尚云く、百尺竿頭如何が歩を進めん。また古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭、須らく歩を進めて、十方世界に全身を現ずべし。

無門日く、歩を進め得、身を翻し得ば、更に何れの処を嫌ってか尊と称せざる。是くの如くなりと雖も、且らく道え、百尺竿頭如何が歩を進めん、嗄。

 石霜楚円(九七七ー一0四0臨済下七世)、古徳は長沙景岑ということ、古徳とそりゃだれそれってこと不要です。仏祖師方を敬愛して名を覚えるんですが、別にだれじゃなくっちゃならんてことないです。これが他の諸宗また伎芸哲学等と違う処です。百尺竿頭は、たといお釈迦さま捨身施虎のむかしから、言い習わして、すなわち定番ですか。はい公案という定番ならざるはなし、みなこれを透過せなけりゃ、すなわち仏とは云われぬ。
 たしかに仏教として、道として学んで、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなりと知って、忘我の辺の百尺竿頭ですか。実際の思想、ものみなのありようまさにこれを於て無く、究極の信念とて、わっはっは百尺竿頭ですか。
 するとただおのれのことを示す、直指人身見性成仏、知るに従いすべてが消えて元の木阿弥です。
 しがみつくものがない、百尺の竿ふっ消える。
 一歩を進めるとはこれ。聖人だの云ってるひまがないんです、取捨選択によらない、十字街頭ならざるはなし。どうしようもなくこうあるっきり。
 嗄はにいとかとつとか、一言でなんにもないただのおのれを表わす、すなわち声だけあって世界全体です。やってごらんなさい。人を救うとはまったく他にないんです。
 蛇足です、なんにもないただのおのれがあるとは、そりゃうじ虫です。雪舟の慧可断臂図をそっくりなんとかいうのが格好つける、反吐の出るやつ、今様人というたって、そんな真似しちゃいかんです。

頌に日く、

頂門の眼を豁却して、あやまって定盤星を認む。
身を捨て能く命を捨て、一盲衆盲を引く。

 一盲群盲を引くという、そっくり反対に使うから面白い、他の諸宗主義主張は無明のものです。たといキリスト教のような大いに流行った宗教でも、一盲群盲です。どこへ行くかわからない、独善ついに地球を滅ぼすんです。共産主義というカリカチチュアに見る、まあ成れの果てですか。一方にこの連中みな光明を求めるんです、理想とかすばらしい、唯一の神という、つまり見えている、盲じゃない。はっは、ではわしらが宗教はなんにも見えない、個々別々のただ、うふうどこへ行くあてもないんです。
 だからといって頂門むだ目盛りやっちゃ、そりゃ他の諸宗と同じです、信者と聖人というぶっきらぼうになっちまう、百人禅門いりゃたいてい百人こんなんです、厳に謹んで下さい。
 百尺竿頭如何が歩を進めん。


四十七、兜率三関

兜率悦和尚、三関を設けて学者に問う、撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性、甚れの処にか在る。自性を識得すれば方に生死を脱す。眼光落つる時作麼生。生死を脱得すれば便ち去処を知る。四大分離して甚れの処に向かってか去る。

無門日く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以て随所に主と作り、縁に偶うては即ち宗なるべし。其れ或いは未だ然らずんば、麁餐は飽き易く、細嚼は飢え難し。

 兜率従悦(一0四四ー一0九一臨済下二世宝峰克文の嗣、撥草参玄、撥草膽風という、草の根を分けても正師を探してこの事を極める、すなわち仏教として他になく、うわさでお茶を濁す、ろくでもないらしいことに現つを抜かしたって、百害あって一利なしです。瀬戸内晴美が文化勲章の世の中だ、仏教地に落ちてあっちこっちとんでもないことになっている、モラルの低下などいうんじゃすまされないこと。だがこれをなんとかしようには、一箇半箇まさに撥草参玄以外にはないんです、こうすべきだの、批判してみたって騒がしいだけ。
 一はただ見性をはかる、まさにそれ以外に入門はない、学者という卑しい根性を去って、ただもう驀直去です。これなくんば平和はない、真はないと知って、得られずんば死のうという。でなきゃ求められないし、そう思い立つときすでに何ほどか得ているんです。
 二は見性すりゃ生死を脱す、身心脱落です、自分という自縄自縛を免れる。はじめて本来の姿。眼光落つるという、理想だの目的が消える、だってさ理想目的に叶ったらもうない、目が失せるんです。そういうものを見ている自分が失せる。
 三、即ち去処を知るという、さあどうしたらいいんです、四大分離してもはや自分という来し方行く末ないんですよ、如来来たる如し、花のようにぽっかり咲いて、はて何を。
 さあさ、よろしくよく参じて下さい。
 自分で自分の辺に答えを出すよりないんです、公案などいくら解いてみたって二束三文、はい仏となる、二束三文の値すらないんです。

頌に日く、

一念普ねく観ず無量劫、無量劫の事即ち如今。
如今箇の一念を覩破すれば、如今覩る底の人を覩破す。

 はいこのように参じて下さい、うっふわしもさ云うこといつだって同じ、進歩ないなってはーいまったく進歩なし、麁さん粗食いですか、飽きやすく、細嚼ようく噛んで反芻すりゃ飢え難しです、一生死ぬまでって、なあにさ無量劫です。


四十八、乾峰一路

乾峰和尚因みに僧問う、十方薄伽梵一路ねはん門。未審し路頭甚麼の処にか在る。峰柱杖を拈起し、画一画して云く、者裏に在り。後に僧雲門に請益す。門扇子を拈起して云く、扇子勃跳して三十三天に上って、帝釈の鼻孔を築著す。東海の鯉魚、打つこと一棒すれば雨盆を傾くに似たり。

無門日く、一人は深々たる海底に向かって行いて、簸土揚塵し、一人は高高たる山頂に立って、白浪滔天す。把定放行、各一隻手を出して宗乗を扶竪す。大いに両箇の駄子、相い撞著するに似たり。世上応に直底の人無るべし。正眼に観来れば二大老、総に未だ路頭を識らざるなり。

 越州乾峰は洞山良价の嗣、十方薄伽梵、ばぎゃぼんは世尊、これは十方仏ということ、十方の仏は一路ねはんに入る。ニールバーナはものみな本来の姿です、妄想百般とらわれのあっちへ向かい、こっちへ向かいするのが納まったんです、しばらくかかりますか、坐ってはだれしも行き着くんです。生まれ本来、あるいは生まれる以前ですか、まずもってこれを得る、無上正等菩提これ仏。でなきゃ他はただの言い種です、騒々しく必ず間違うんです。いかにもそれらしい三百代言は、一路ではなく、迷って山河の箇を隔つんです。この関、なにしろこれを心して下さい。
 一路ねはん門、まさにこれっきゃない、ではどうしたらいいかと、どこにノウハウがあるかと聞く。面白いんです、百人が百人同様の質問です。水の中にあって渇を求める譬え、もとどっぷり漬けをどうしたらと聞く。
 画一画してこれと示す。
 雲門に至っては、扇子を投げて、三十三天、天のいちばんてっぺん帝釈天の鼻の孔にぴったあ(天の中央に帝釈がいて、四方に各八人の天人がいて三十三天ですとさ)、東海の鯉魚のけつひっぱたくと盆をくつがえしたような雨が降るというのです。ねはん寂定といって、世の人想定するのは死んだふりです。たいてい坐禅だの見性だのいうのも、その類ですか、雲門の目くそ半かけぐらいのことは見て取って下さい。想像と実際はまったく別です。想像を絶した自在底です。
 指一本で天地を動かすという、深海の底に砂塵を巻き起こし、ヒマラヤのてっぺんに白浪滔天ですか、まあちったあ眼晴ありってとこ。うっふこりゃなにどう云ったって、まずいってなふうの、どうもまっぱじめから、総に未だ路頭を知らざるって、はっはあ思っちまうですか。いや失礼。

頌に日く、

未だ歩を挙せざる時先ず已に到る。未だ舌を動かさざる時先ず説き了る。
直饒い著著機先に在るも、更に須らく向上の竅有ることを知るべし。

 竅は穴、碁の要訣、大いに両箇の駄子あい撞着するに似たり、もっとスマートにやったらというんで、この頌があるわけです。機峰著著ピッタリですか、ないからあるものを一目瞭然です、禅の働きだのおまえよりおれがとか云ってるやつは、そりゃ問題外、ただの有心です、なにさしょーがないのはほっとけ仏、歩くさきにすでに至り、舌を動かす先に、説得し終わる、これ万物の常套手段。


後序


従上の仏祖垂示の機縁、款に拠って案を結し、初めより剰語無し、脳蓋を掲翻し眼晴を露出す。肯て諸人の直下に承当して、侘に従ってもとめざらんことを要す。若し是れ通方の上士ならば、わずかに挙著するを聞ひて、便ち落処を知らん。了に門戸の入る可き無く、亦階級の升る可き無し。膂を掉って関を度って関吏を問はじ。あに見ずや玄沙の道ふことを、無門は解脱の門、無意は道人の意と。また白雲道はく、明明として知道に、只だ是れ者箇、なんとしてか透不過なると。恁麼の説話、また是れ赤土もて牛??る。若し無門関を透過せば、早く是れ無門を鈍置す。若し無門関を透り得ずんば、また乃ち自己に辜負す。所謂涅槃心は暁め易く、差別智は明きらめ難し。差別智を明きらめ得ば、家風自ずから安寧ならん。
時に紹定改元、解制の前五日、楊岐八世の孫、無門比丘慧開、謹んで識す。


款によって案を結しは、款は法律の条文案は判決文、微塵もゆるがせにできない、近似値なんてものないんです、仏祖に南北の別なし、はじめからしまいまで剰語、よけいこと無駄ことなし。脳蓋をひっくりかえして目ん玉を引っこ抜く底のこと、かれこれ能書き仏教云々の取り付く島もないんです、人そのものと同じです、他人に追随することがない、虎の威を仮る狐の弁じゃない、使徒行伝感激だ右へならえってことこれっぱかしもないんです。ちらともこれを知り道にいそしむ者ならば、機縁に触れて落処を知るんです、迷妄の皮を幾枚剥いでもまだ残る如き、ついには門に入るなく出ずるなくただもうまったくにこれ、これとさし示すなくに坐すんです、坐禅何段だの階級査定だのろくでもないものはいらんのです、大手をふるって関を通って、関所の番人などには目もくれず、あっはっは世の中大形に出来ていますか、自分という関所の番人はさーてどうなりましたか、なにまだいるんだってそうつはまあお気の毒に、飴でもくれてやりましか、いえ花粉症ですはーっくしょい。玄沙師備また白雲についてはよーもわからんとさ、無門は解脱の門、自分という架空のものにどのくらい苦しめられていたか、地獄餓鬼畜生六道輪廻のたらいまわしからにようやく解脱して仏です、無意の人です、地球ものみなのお仲間入りです、明明として知るにただこれ者箇、なんとしてか透不過なると、もとまったくにこの中にあるんです、道を求めること水の中にあって渇を求める如く、赤土持て牛ねいをぬる、赤土に牛乳を塗るようなわけのわからん無駄っことです、早くこれ無門を鈍置す、かすっともかすらないんですよ、若し透り得ずんば自分という形骸です、もとないものに振り回されているんです。涅槃心は明らめやすく、涅槃というらしいものを得るのはたやすい、そうじゃない個々別々です、差別智という元の木阿弥に住むのは難しいという、国家安泰はいこれ。


禅箴


規に循ひ矩を守るは無縄無縛、縦横無碍なるは外道魔軍、存心澄寂は黙照の禅。恣意忘縁は深坑に堕落す。惺惺不昧は帯鎖担枷。思善思悪は地獄天堂。仏見法見は二鉄囲山。念起即覚は精魂を弄するの漢。兀然習定は鬼家の活計。進むときは則ち理に迷ひ、退くときは則ち宗に乖く。進まず退かざるは、有機の死人。且らく道へ、如何が履践せん。努力して今生に須らく了却すべし。永劫に余殃を受けしむること莫れ。
はいこのとうりですよ、ひっかかり屈託あるは面白うもなし。さよなら