文芸について 2
縄文の火炎式土器
アルタミラ-ラスコ-洞窟画にはまるで水墨画や南画顔負けみたいの、写実抽象ピカソまがいのまで、それこそなんでもあるそうです、呪術師というか専門家がこれに当たり、練習もし学校まであった、一万年は続いたのか何千年か、そのあとのわたしら20世紀に至る絵画史と比べてなんら遜色はない、むしろそのダイナミズム、洗練さの上で向こうに軍配と、わたしは思ったりする。
なぜにそれが滅びたか、逞しくも優しい平和愛好人に変わって、喧嘩好き発明好き、休むまもない現代人がとって変わったなど、いや悪貨は良貨を駆逐する、まさに現代日本なぞいい例だという、アッハッハどっかのトピみたいだったり。でも物事というのは進化論じゃないです、絶対優位のアノマロカリスが滅んだのは、存分生きたからだ、もういいおしまいだといって去って行ったという見方はどうしてできないんだろうか。洞窟壁画人たちも、われわれから見たらまことに幸福な、ア-ケイックスマイルのアポルロ-ンの三倍も満ち足りた笑いして、青春を一生を何千年を過ごしたんではなかろうか、そりゃ例外はあるし、自然の厳しさ容易ならざる生活というものがある、でも彼らは後世の悲惨、無用の長物の宗教、無惨でバカらしい戦争などとは無縁に見える。
もうこれにて終わりという、気候の変化とかがそっと後押しする。
あるいは戦争好きがとって変わったかも知れない。
縄文土器をこさえた人は、縄をなって転がしてやると、いろんな模様が、それこそ好きなようにできあがるのを知った、でも好きなように自由にと、現代作家が考えるようには決してしなかった、直線一本に150年というような造り方をする。
一つ集団に一本線、分家したら二本という? いやただ直線=器だったのか、アッハッハわたしのような門外にはわからない。でもゆゆしい意味があった、個人の好き勝手、インツ-イッションだのの問題ではさらさらなかった。
その心意気を知ろうとして、はてなあと首を傾げる。
よしの葉っぱ一枚にも神がやどる、神という以前の健やかさ、たずさわるものみなが、自分たちと同等か、もしくはそれ以上のものという、縄文の華やかなりし時代はきっとそうであった、史家が名付けるだからどうだの、いくつ名称もまさに没交渉、
「土器はどうやって作る」と聞けば、
「土器ってなんだ。」
「あ、これか、こうやってさあ、こさえるんじゃなしに、ちゃ-んとあってさ、手がこう動いて、わたしらの前に現わしてくれる、そうしてさ、火がしばらくの時を与えてくれる、この世っておまえさんちがいうなら、この世にさ、わっはっは。」
いうといえばこんなふうにいうかも知らん。
でもそれが火炎式土器になる、信じられないことだ、今の造形だ美術だのいうなら、ことは簡単だ、でもれはこさえる個人すべてに違っていながら、様式美といいうるものだ。世界中にこんな事件はなかった。水の湧き出すシンボライズといい、無限の渦巻きという、ものが腐らないように、水というわけのわからんものに、神という永遠の命を与えたのか、わけのわからんものに、ちょっと目鼻を付して、目鼻の分が対話であり、そうして個人が生まれる-万葉につながる個人、といったらいいのか、火炎式土器の役目は終わる。
歴史の瞬間だ、こんな強烈超過激なことなかったんだけどな。
中米ニグロイド大首
BC一万年~五万年ほどなんだろうか、大森林にネグロイドの大首が坐っている、そうかと思うと力士像といわれる、筋肉隆々たる、頭長頭に工夫してる他は、後世の形式主義というか-シンボライズからまったく自由な風である。どうもよくわかってないらしい。でもあんまりわかる必要もないのかも知れぬ。この連中は大自然の中に、極めて生き生きと暮らしていた。狩猟の名人ジャガ-を神に奉っていたにしろ、その神さまより、どでっかい人頭を村の入り口にでんと据える。よくできの、恐れ入るってかいいようのない、すんばらしい面構え。
四つの太陽=生け贄文明といったいどこでつながるのかって、昨日と今日つながらなくったって一向に差し支えない。
古来詩人哲人というものは、古代を理想社会に崇め奉る、人間むかしはよかったの右代表、でも中米には恐竜と相撲を取っているテラコッタまで出る、いずれどっか突拍子もないユ-モアがあって、わたしら現代人が住み着くには、なんてったって迫力筋力不足だ。
飲んで食って生きて歌って、多少の集会あり神あり、悲しいことは号泣、死ぬには叫び、次の瞬間大笑い、怒り山を抜きという、まさに筋肉のうなりが聞こえて来そうな。
家父長制度も村落国家も神さまもいけにえも未だまだっていう、いらんものはいらんていう、これを神代の時代と呼んだかも知れぬ。
これ理想社会なら後世はつけたし、たとい文化文明の発展も彼らが幸福には遠く及ばない、ないに越したことはない、汚れきっている-汚れるばかりと、地球になりかわっていいたくなる。
猿から人間になって一番困った問題は自由ということだった、けものにはない個人です、ひまといってもいい、道具を使うといってもいい、直立して広がった視野といってもいい、でも大ボス小ボスのお猿社会とは別種の何か、ふと気がつくと、毛繕いとかき-っと牙剥き出すとか、ハンコ捺す行動の他に、なにをしてもいい時間。
自分に任された時間-どうしたらいいかです。
そりゃいろんなことやったんだろうな、食う寝る取り合い喧嘩の他にです。でもそれうまくいったっていかなくたって、今度は次の困った問題です、群れとしてぴったり行ってたのが、どっかそぐわない、てんでんばらばらになる。
再度ふっと気がつくと、人間一人じゃなんにもできないってこってす。
へんな話だ、せっかく自由を獲得したのに、その自由がかえって縛る、不自由の元凶となる。
こりゃいったいどういうことだ。
この問題今に至るまでずうっと続いてます、たとえば厳密定型の芭蕉がいちばんの自由人であった、説明文学なんでもありありの現代人が不自由極りない、自分の意見さへ持てないとかです。
さあなんとかせにゃならんです。
ト-テミズムの工夫があります、われらはジャガ-の生まれ変わりだ、みんなでそう思ったとたん、一つにまとまるんです。われらが神ジャガ-にかけて、といって行ない言語する、自由というものを再認識する、あるいは享楽することはじめです。
でもこれ取れ立ての生首のようにぴくぴくしてるほどが花です。固定観念カリカチュア-化したらおしまい、滑稽で残酷なことです。あっはっは目下の永平寺修行なんてのも、何いったらいいって気になっちまう。これも古来繰り返しのワンパタ-ンです。
なにしろこっちが生きてりゃ神さまだって生きている、たいへんだ。
クロマニオン人は歴史上稀に見る、この問題の-優秀なる解決者だった。
自由であって一番先困るのは狩猟だったんでしょう、マンモスでも野牛でも一人じゃ狩れない、一糸乱れぬ集団行動です。言葉以前のものがどうしても必要だ、きっとアルタミラ-ラスコ-洞窟の祭りは、はじめは狩猟からだった。そうしてそれが、本来祭りとして脈脈生き続けたに違いない。
描かれた野牛の、水のように優美なダイナミズム、生死を境に対いあう強烈な臨場感、敵味方の垣根が失せて、いっさいの動きが停止したような、たとえ涙の一滴のような瞬間-全世界です。
そうです、忘我です、我のうして描くんです、トランス状態なぞ文明史家はいうけれど、そりゃ側っから見た言い種です、我をのうして-全体なんです。
彼らはこのメカニックだけで個人-全体-全宇宙の問題を解決したんです。解決すなわち実際です。けだし賢明でした。それを尾ひれをつけて殷の神さま-饕餮みたいになったら、こりゃもうどうしようもないです。
アステカ雨の神
美術史家ハ-バ-ト・リ-ドが世界最高峰の完璧作品として、ランパン氏蔵青年騎馬像-ギリシャ彫刻、他二三とともに挙げていた。どだいそんな用い方をするのがおかしいのだが、だってすばらしいもの-不朽の名作はいたるところに存在する、あるときこうありあるときこうある、かつてエスキモ-の彫刻作品のように、第二の自然として、おそらくは人為を越えて現前する。博物館に陳列すべきものではない。美術鑑賞というろくでもない趣味の為でなく、捧げるもの、祈るもの、本来あるがような存在主張といったらいいか-
就中雨の神は、いけにえの心臓を受け取る器神と同じく、いわば一民族の総力、全世界の唯一関心事というがほどに、巨大なマッスと量感-重さ-といったらいいのか、そうして能うかぎり繊細であり、不思議であり、自然そのものであり、万人の全神経を意志を集中する。
見事に結実する、神が応ずるべく立ち上がる。
芸術とはいっそこれ以外にありえない、芸術家という神官が全世界を代表して、我が心臓をえぐり出して受け皿に乗せる。
ようやく神が応ずる、応じないかも知れない。
言葉という自体がその当落線上にしかない。
現在の芸術家と称するものがなにものも生まないのは、まさにこの根幹を失うからだ。あいまいな顔をして、げいじゅつか風をし、口を開けばぎょうぜつであり、その作品は目なし口なし、そっぽを向いたっきりの、脇見運転というより、作品のない空間のほうがよっぽどましだ。ポウル・クレエが好きだという人に、彼の作品に付す、
「天使よ、まだ女性的な。」
という語について聞いた。答えはなかった。
ラスコールニコフ論理 1
ドストエ-フスキ-の登場人物これ一神教、キリスト教のまさにまさに、神さまと差し違える強烈キモ-イ物語です。わたし福音書読まなかったけど、あれどっか教会行ってパンかじってワイン飲んで、ふう読んだっけか、道っぱたでクエ-カ-に取っ捕まって、木賃アパ-ト連れて行かれたっけか、じゃなくってドストエ-フスキ-うひぜ-んぶですぞ、七回読んだです。それから狂っちまってついこないだ精神病院-檻ん中から出て来たとこです。明日んなったら包丁持ってバスジャックってにはちいっとひねくれ、かあちゃんと回転鮨でも食い行こう。
その原点はギリシャ悲劇のオレステイアだと思ってます。これは構成もしっかりしていて、いえアイスキロスです、亀が落っこちて来て死んじまったっていう、オイディ-プス、アガメムノ-ン、オレステイアの三部作です。マンガ読むより面白いからお薦めって思うんだけどな。
オイディ-プスは「父を殺しその母を犯す」という予言を受けて山に捨てられる。羊飼いに育てられ、そうしてついには予言通りに運ぶ。父王とは知らずに戦ってこれを殺す。スフィンクスが現れて謎をかけた。解けなかったらぺろうり食っちまう。王后が「謎を解いたらわたしと王冠を授けよう。」という、オイディ-プスが謎を解く。
「朝四本、昼二本、夕三本な-んだ。」
「そいつは人間だ。」
というんです。オイディ-プスは母と結婚し王位を継ぐ。疫病が蔓延しもとを糾すと、親殺し近親相姦というそれ、オイディ-プスは目をくり抜き、母后は身を投げて死ぬ。
どうですこれ、聞いたふうな話って、そりゃ知らないってほうキモイんだけど、日本人てキマイラもざいくで、あ-そ-か知識でみんなすませっちまう。
「そいつは人間だ。」
という謎を解いたら不可ってこと知らない。
オイディ-プスという、くるぶしに針を突き刺して、歩けないという名、これたしかそうだと思ったけど、謎を解く人は、そういう食み出し者。
ギリシャ悲劇は巨人族からゼウス体制へという、この三部作はその食み出し一家を扱う。
ゼウス神制ってのポリス体制といっていい。
城壁があるんです。その外っかわは砂漠、内っかわが人間-市民の住むところです。そこでは真理より契約が優先される、真実はこうだが、
「人として内っかわに暮らすには」
というんです。
人の子伝説のこれが始まりです。
なにもギリシャ世界の発明じゃない、メソポタミアのものでも古代エジプトのものでもないけど、壁の外は砂漠っていうの、これ恐ろしいこってす。
陪審員制度です、真相究明じゃない。
その神の命ずるところ、律法の示すところによっての合議制です。もしそこへ、つまり城壁の外っかわにスフィンクスが出て、
「そいつは人間だ。」
といったらどうします。
「いいからほっといてくれ。」
というしかない。たまたまほっとけぬやつがいる、謎を解いたらめっちゃくちゃ、死ぬより悪いという-親殺し近親相姦。
市民社会はこうあるべき、人倫の道です、必要不可欠です-契約ですか、これを破ったものに救いはない、目をくり貫いたら生き残れるか、否砂漠へ捨てるよりない。
「砂漠へ捨てられて、生き抜いて帰って来られるか。」キリスト時代のこれが予言者の修行であった。まったくに不毛の砂漠の想像を絶した美しさ、人間という美しいもの、オリンピア-ドの月桂冠を戴いた若者の、ヒュ-マニズム、ポリスのイデアそれだけでは、どうしたって収まりがつかないんです。
自然と一体化したい、なぜって人間も自然の一環です。
たとい神が作ったとて、神が作ったという人間の手に触れる不可、神というときすでに一体化なし、そりゃ当たり前、砂漠ではなかったら、大森林であったら、神と呼び人間と呼ぶ、もとこうあるものをもういっぺんなぞることを止めれば、もと一体化。
砂漠では不可能事、奇跡を見幻想を見るんです。
それを抱えてというより、おぞけをふるって人間、市民社会という仲間うちに戻るんです、ついには律法であり、愛です、なれあいではないという苦心惨憺です、人間よりも人間らしくっていうんです。
奇跡不要の筈なのに、なぜ。
奇跡とは何、擬似一体化。
大統一理論を狙う科学と同じに、自然を記述支配しようとする。科学も進化論も一神教の申し子。そうですよ、結果は不毛の砂漠を見るよりないんです。
「そいつは人間だ。」
一神教がどうやってスフィンクスをなだめたか、絶えざる征服と異端審問。
城壁を広げるよりなかった=追い立てられるしかなかった。安住の地がないんです。これオウムと同じ、別ものポアするしか道はない。なぜって独り善がりだからです。事の真相にそっぽを向きっぱなし。
オレステ-スは父王アガメムノ-ンを殺した姦通母クリュタイムネ-ストラ-を殺す、これがおまえを育てた乳房だといって示す、その胸を刺し貫いた、そうしてポリス社会を追われる、復讐の女神おぞましいエリ-ニュ-スに追われ。
とっつかまったら、空ろになってあてもなく。これ実に2000年の時をへてラスコ-ルニコフ。
そうです、その発生と崩壊と同一人物。
ラスコールニコフ論理 2
オレステ-スはアテネ市の評決に、主神アテ-ナイの一票によって、有罪無罪同数になった。無罪放免。
人は生きているかぎり、こういうことか、自分流といっている、いいかげん現代人には無縁のことか、陪審員という市民権の問題か、アテ-ナイの気まま勝手に委ねるギリシャ人の知恵か、ともあれこれは法律、権利義務の問題を超えて、実にポリス市民=人の子人間としての、心そのものの問題であった、不可となればおぞましいエリ-ニュ-スに食い殺されて、もぬけのから。
ラスコ-ルニコフは有罪になって、シベリア送りになる、優秀な探偵という読者サ-ビス、そうではない、陪審員のだれ一人信用できぬ、評決なんかどっちだっていい、気の狂う母親をそのまんま、大地に接吻する犯罪人、彼はなんの罪を犯したか、無垢のマリアを殺したからか、その償いという、なにそんなことはない、彼には最後っまで彼の理由しかない。
ロシアの大地だと、そうさしまいその幻想にすがりつく、そうしてシベリアから帰って来た、レフ・ムイシュキンとして、そうして破滅。
信ずべき市民もなく、おのれを委ねるべきアテ-ナイもなく。
なぜだ。
「神は死んだ。」
陳腐になったその言葉をそっくり。
マリアが手を会わせの神さまが-ない、じゃ、責任の取りようも、喜怒哀楽も卒業論文も、いや一句半句なし、わあとわめくこともできない、地下室のラスコ-ルニコフのこれが真相であった、孤独とはどういうことか、神あっての孤独、両親の帰りを待つ子どもの孤独、心というなにごとかコンセンサスがあって、始めて孤独という空間、でなかったら張り裂けてしまう、物理的にインプル-ジョン、もしくは発狂するよりない、あいまいキマイラの日本人には不可解といって、無気味に符号する未成年の突発事件がある。
100年前のラスコ-ルニコフと同じ、真空の地下室を脱するために、自分というものを、自分という市民権を、「金貸しばばあを殺す。」
何事か引き起こす以外になく、その道行きの理論金縛り状態をドストエ-フスキ-は克明に描き出す。
犯罪とは何か、欲望のかけらもなくってそんなものが成立するか。
自分の存律を賭けるという思い込み。はたしてそうか。「外へ出なければならぬ。」
卵の殻を割って外へ、ピカソの青の時代がヴィジュアルに示す。やせて優しいアルルカンがいったい何を見、何を演じようとも、愛も喜怒哀楽もおのれ発したものはなんにも帰って来ない、青いつるっとした壁があるっきり、ついにはおのれそのものが失せる。
青い壁、卵の殻を割る、死に物狂いのそいつ、外へ出たら空気がない、一瞬も生きていけない、どうすりゃいいって、手足もって描く以外になく、人は実存主義なぞ無責任な名を付けようが、生涯ほっと息づくひまがあったかという。
ばばあをばっさりやって、ついでに善良のマリアを殺害。生きる行為が世間いうところの世の中と信仰を抹殺する。そりゃはじめっからわかっていた。世間へ出る=死ぬしかない。これは仏説ではない、比喩でもない、
「だれでもいい殺したかった。」
というガキンチョの心理学以外の理由だ。もっともまあ二番煎じ三番煎じは心理学の対象にしかならぬ。
信仰とはどういうことか、マリアが手を合わせる、信じている、いつの時代にもあった、理屈抜きの見てござるの神さま仏さま、善男善女という、今そういう一般人というのが存在するか。
存在しないとはいわぬ。
カルトや新興宗教がある。
マスコミの神さま、ふれあいの神さま、戦争は悪いの神さま、なんの神さま、信仰より始末に悪い雑念。
「庶民には神さまが必要だ。」
ということがわかったと、今更ながらのようにゲ-テがいった。じゃゲ-テには神さま不要だったかというと、ゲ-テスアオゲンというゼウスの目、もっと光をという、あの目を維持するには、相応のぜにかねも必要だったし、操欝病じみた大騒ぎも必要だった。
良寛とゲ-テが似ているという、たしかに古典性という、自然詩人という、似ていることも似ている、だが良寛は無一文のなりふりかまわず、ゲ-テはそうは行かない、一定の条件が整わないと、嶺々に憩いありというわけには行かない、なぜか行かない。
無心と有心の違い。
無心とは赤ん坊の目だ、目のない人自分のない人の目だ、ただだ、すべてがすべてとしてうつる。
有心は大人の支配者の目だ、ことだまという自然さえ思い通りにしようという、聞き手が欲しいうるさい、どうしてもただにはならない。すべてはわがもの。
「大衆にはノウかイエスだ、その中間はありえぬ。」
といったヒットラ-とオウムの違いはというと、ノウハウあるいはト-ンの違いの他なく、ゲ-テとヒットラ-の違いも本質的に同じという他なく。
ラスコ-ルニコフの欲しいものはなんだった、ヒットラ-になりたいかゲ-テになりたいか、違うただの人になりたい、人の子になりたかった。
有心の子。
ただじゃなかった。有料だった、地下室の一人っきりじゃどうにもならない。
だんだん面倒臭くなっちゃった、そうだった、一神教のワンタッチ体験、さらっとやろうと思ったのに、どうもいかんなあ、でもこれ実に深刻だったんだ、だ-れにもいえぬトラウマ、洋の東西を結ぶ蝶番ってやつでさ、青春は美はし、どえれえまあ七転八倒であってさ、差し違え人生ってのかな、は-て結局な-んもならなかった、禅宗無門関と来たら、そんなものにゃな-んも関係なく、バカかってぐらい、まそれじゃなくっちゃしょうがないけどさ。
もし一神教ヨ-ロッパで悩んでる人あったら、悪態なんかついてないで真っ正直聞いておくれ、悪いようにはしないよ、答え出すだけの苦労はしたつもりだってね。