文芸について 1
アイスキュロス・オレステイア
ギリシャ悲劇アイスキュロスの三部作オイデイ-プス,アガメムノ-ン、オレステイア劇は一度読んでみるといいです。ギリシャ神話はどうもあんまり荒唐無稽のように見えて、実に人間性というものを、人間の観念生活ですか、如実にすることは現代心理学、哲学文学など足もとにも及ばない、なにしろぐさっと来ると根こそぎ持って行かれるんです。これ別にギリシャ人の独創じゃないといわれる、何千年にわたっての人類総決算、人間このとらわれの歴史、みたいとこあります。因みにギリシャ人どもはオリンポスの十二神を信じきっていたそうです。アイスキュロスはご存じトロイア戦争の横恋慕よこしま張本人。オイディ-プスはその祖先筋にあたり、スフィンクスの謎を解いて母子相姦という。オレステイアは戦争の間浮気していて、夫アガメムノ-ンを殺した母親クリュタイムネ-ストラ-を殺す、これがおまえの吸いついた乳房だといって示す母を刺し殺し、復讐の女神エリ-ニュ-スに追われる。醜悪のエリ-ニュ-スに食い殺されたら、なんにもないものになって荒野をさまよう他なく。都市神アテ-ナイによって裁判が開かれ、陪審員の評決は五分と五分であった、アテ-ナイの一票によってついに無罪となる。
仏教方面禅坊主には関係のないといえば、ほんとうにアンチ禅坊主-東洋そのものなんです、方面をいわぬのが仏教です、ことに今ヨ-ロッパ・アングロアメリカに直面し、日本人の心が根底からおかしくなっている、明治以来先人の苦労も水の泡です、瑣末事はいらんです、根本からってことかと思います。
ゼウス支配という、平たくいえば法と秩序のポリス社会です。そのまえはどうだったかというと巨人族の支配だった。でたらめもいいも悪いも野放図にってわけで、収拾がつかない。そういうゼウスも巨人クロノスの子です。父を殺し巨人族を平らげて、オリンポス政権の確立です、人間に火を与えたプロメ-トイスはひどい罰を受ける、彼は巨人族の生き残りです、法と秩序より哀れみのほうが優先しちゃうんです。それじゃ納りきらんとゼウスはいう。
オイディ-プスはその巨人族の血を引いていた。父親殺し母子相姦の予言に、生まれてまもなく荒野に捨てられる、あるいはくるぶしを針で刺して歩けなくする、オイディ-プスとはその意という。荒野で羊飼いに育てられて、結局は予言通りになる、父親である王を知らずに殺し、折しもポリス城壁にスフィンクスが出て謎をかけた。解けないとぱくっと食われてしまう。王妃はもしスフィンクスの謎を解いた者を王にすると宣言した。謎とは、
「朝四本足、
昼日本足、
夕三本足な-んだ。」
というんです、オイディ-プスは解いた。
「それは人間だ。」
スフィンクスは消え、彼は王となってその母親と結婚する。ことの真相がわかり、母妃は身を投げて死に、オイデ-プスは目を突き刺して荒野にさまよう。
謎の内容なんかいいんです、
「それは人間だ。」
という、解いてはならぬ答えなんです、親殺し母子相姦という、平らったくいえば秩序の破壊者、真実いえば心のよって立つところがいかれちまう。ここのところが東洋人にはわからない。「それは人間だ」ということによって成立している、西欧契約社会なんです、心のありようの根本がこれです。いわばほんとうはいわぬという、暗黙の倫理なんです。
でもオイディ-プスは次から次へとやって来る、そりゃどうしようもないです、人間いくら縛ったってどっか必ずプロメ-トイスなんです。「それは人間だ」の枠を超える、これを悲劇というんです。
リヤ王もハムレットもそりゃそういうこってす、ドストエ-フスキ-の罪と罰もそうです。ゲ-テもモ-ツアルトもよくよく知っている、モ-ツアルトをほんとうに好きになってごらんなさい、人畜無害じゃないです、とんでもない目に会います。
(スフィンクスの謎を解くオイディ-プス)
というのがちゃ-んとポケットに入ってるんです。
だからに日本人がモ-ツアルト演奏しても、ちっともよくない、さすがに小沢はこれを知ってモ-ツアルトをやらんです。
どういうことだろうか。
お釈迦さんは求道の旅にへんだん右肩して荒野というか、普くいたるところなんです。森の中に坐って、あるいは大河の辺に坐って、我と有情と悉皆成仏、大自然と一如なることをもって真相です。もとこれ以外にはありえぬことを自知するんです。他のものを仮らんのです、如来もとあるがまんまです、でなきゃわれらの存在の意味がない。
ですが出家してポリスの城壁を出るとどうなりますか、ギリシャ起源じゃないのは、城壁の向こうははてしのない砂漠です。砂漠に坐ったってひっからびて死ぬばかり。砂漠というのは信じられぬほどに美しいそうです。古来修行者は砂漠に出てぎりぎりのところを生き延びて帰って来る。そうです帰ってこなきゃ死んじまう。
信じられぬ美しさ、奇跡神のみいつという、自分を明け渡すことは根本的にできない、明け渡したらとたんにミイラ、我とは別に見るものです。
そうなんです、そういうものをお土産に持ち帰って一神教です、でも以前はもっとおおらかだった。ゼウス社会です。
「あっちがわは生きられない、こっちがわの人間だけ」人間社会-壁-自然
の構図ができて、自然は制服して行くもの、人間はポリス世界の民主主義です、神々の示す人間という観念思想です、華やかなオリンピックの勝者、そうして作りものは絶え間もなしに移り変わる、進歩発展といって落ち着くところを知らんのです。
裁判とは陪審員制度なんです、ほんとうじゃない、それは人間だの多数決。
それは人間だという、その人間をほんとうに救いうる手段を欠く。
一神教も「それは人間だ」というのですよ。
日本が陪審員制度を導入するという、笑っちまうけど、ゼニもうけ弁護士や、マスコミ一辺倒になった裁判官みてると、笑ってばっかりいられない。
東洋にも法と秩序ポリス社会ってのそりゃある、でも法律ってそれ心じゃないです。アルファベットは螺旋一つ日本語は二重螺旋、そんな俗っぽい語で一応けりにするか。
雪舟 -雪舟展の因みに-
雪舟等楊1420備中赤浜に生まれ、10代宝福寺の小僧に上がる、京都五山第二位相国寺に禅僧となり絵の修行をする。30代京都を離れ山口の大名大内氏の庇護を受ける、拙宗と名告る。40代より雪舟。遣明使に随行して中国に渡る。天童山より「四明天童第一座」の称号を受ける。50代より活躍し1506年80余歳没。
雪舟は身心ともに無しの現風景をまさにそのまんまに描く、どうぞ逐一に見て下さい。
1慧可断臂図=奇岩怪石という雪舟には特に曲がりくねって現実には到底ありえないような岩や樹木が描かれている、だがこれ雪舟の個性とか強烈とかを遙に越えている、今この面壁九年の洞窟も、たとい強烈とんでもないふうの造形も、まるっきりなんにもない、無というんでしょう、空というそれっきりになってしまう。
よく見て下さい、奥行きがあるようでない、まったいらのよううで底なしどん底です。
そりゃ遠近法などいう一神教の計算ずくじゃないです、遠近法という観察=疑いじゃないんです。
そのものそっくりです。
身心ともにない風景。
どうですか、達磨さんをよく見て下さい、取り付く島もないんでしょう、このとおり現実感生生しいばかりの達磨さん、とくにその顔と来たらそこらのおっさんと間違えるくらいです、しかも空です、このような目このような顔して座ってごらんなさい、すると自分という存在の失せるのを知る、消えてなくなっているんです。外から見るとは絵描きの仕事、見事に空じきるんです。座って知る感覚は呼吸とともに兀地にさえらるという、衣と体の触れあいのようなものなんです、あるっちゃあるそれが筆太の輪郭線です、で、自分というものそれっきりです。内と外から描くってもと内外なし。真髄じゃない皮袋っていうがごとくです。そうしてオーラのようにそのまわり墨のぼかし、うまく座ったやつを相見すると、どうっと吹き寄せる風があったりする、画面緊張の付録ですか、この絵と来たらたといお釈迦さんも道元禅師も手が付けられんです。
後学諸参の人よく見て下さい、これが仏教という仏という心の姿です。
思い込みの入る余地がまったくないんです、他の同類作品は情実です、こうあるべきとか理想とかです。
これは現実です。慧可大師血のにじむ腕をさしだし痛みを超えて問いかけるんです。これに対しただもう取り付く島もない空があります。これが本来です。
伝説なんぞない。
卑近をいえば大死一番慧可大師、大活現成達磨大師もって仏教辺終わるんです。
2天の橋立て図=(一カ所にとどまって描いたのではなく、名所での写生を頭の中で合成したらしい、実際にこのような風景を見ようとすれば、1000m近い上空から眺めるしかない。)という、そりゃそのとおりなんですが、身心ともにない風景まさにこのように見える、ちらっとも破家散宅してごらんなさい、清々ともなんともふわあっと広がるふうに、ものみなこうあるんです、そりゃ画家として天橋立は名所旧跡ことにも神社仏閣の聖地として、全体を網羅するんですが、心の風景一切に全体を網羅するんです。いっぺんにうなずけるからおもしろい。山も谷も個々別々というんですか、ほらこっちがわに仏足石があって、その上に如来が立つ、雪舟が絵筆をとる、虚空がです、そうですあなたです。こうやって風景おらあがんです。
3山水長巻他=人間は行くんじゃなくって帰って来るんですか、そうして山水長巻がはじまる、完成した技法を捨てる、身に付いてしかも囚われない、自由になるんです、するとほんとうにただの現実です、いいですかこのように見えこのようにあるっきりです、奇岩怪石も車軸松もうろこのような木の葉っぱも、なにどうってこたないです、これねえ空に対するに空にぼやけじゃなんにもならないってことですよ、ものみなアンチテーゼとして絵筆に乗ったぐらいに考えりゃいいです、それにしても80余歳没年までかくのごとくとは恐れ入る、なあなあとか情実の入る余地のない、自己を顧みるなし行け行けばっかり、絵描きの道具立て自家薬籠中のものが、てんでんに取り付く島もないんだから、こりゃなんともいってみようがないです。けだし正解です、雪舟に比べればレンブラントもセザンヌも形無しです。
ただこうあるっきり、この絵に他の意味はないんです、如来来たる如しというがほどに。
蛇足にいえばいわゆる雪舟節というのは、個々別々廓然無聖としてこうある、心のすがた一切に全体でしょう、それを横につなげようってときに必然に起こるんです、他の画伯の絵の構図おもんばかりを拒絶するんです。
管々しいほどに木や草や鳥や花を重ね会わせるように見えるそれも、まきだっぽうどうならべたら景色になるといわんかな、平面にものみなを写すのに憂き身をやつす絵描き風情じゃ届かんです。
それにしても群を抜いた技法です、涙ネズミの伝説もうなずけるわけです。
肖像画を見ると優しいんです、そうかあってね、末世のわしも安堵するってとこですか。
あっちこっち解説と思ったんですが面倒になってやめた、16日はどうぞよろしく、雨になるとかいってます。
日本語
山本健吉の芭蕉という本が出て、くりかえしくりかえし読みました。すると日本語の伝統というのが、実にたいへんな代物で、もうとにかく俳句を作ろうと思って四苦八苦したですが、どうにもこうにもならなかった。
一つには言葉そのものの問題なんです。花といえば、花にまつわる感情というんですか、自然の感情、生活体験と、10~20ほどの古歌をもってこれを代表するなにがしかなんです。もっとも花の場合は、さくらさくらの歌だって十分なとこあります。虫といえばこう、草といえばかくかく、雪月花みな一定のものがあって、西欧文学的思想一神教的伝統とは一線を画するというより、個人の自由な感情からすべてを網羅して、雪月花なんです。他にないんです。これ川端康成がノ-ベル受賞講演に引き合いに出した、
-春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける-
という道元禅師の御歌、日本人の心という一端です。他の一端は道元禅師そのものだったです。
つまり日本の言葉を用いようとしたら、どうでもこれを覚えねばならんです、記憶と分析じゃだめなんです、生活感情と必然的に起こる批評眼です。
-憂き我を淋しがらせよ閑古鳥-
たとい芭蕉の句ですが、憂さとはどういうことか、浮き世憂き世という、人間一生の、南閻浮台といわれるこの世の無惨さ辛さ、救いようのなさの実感です。それ故に仏を求め極楽浄土を願う一連です。芭蕉はというと禅風なんです。まずこうあって、次に憂さというと、肉欲色欲我妄によって起こる鬱陶しさ、心の重さといったらいいんですか、若者の今昔変わらぬ憂さといってもいい。憂さ-鬱陶しい自分を淋しがらせてくれというんです。迷っている自我に埋没するふう、オナニ-でもやりそうなってとこあります。淋しいとはこれを去るんです。浮き世のしがらみから自由になる、淋しいといって、しなくれるんじゃない、より力強くがっしりと、これを閑寂の閑といったんです。道元禅師を代表とする日本の心といってもいい、ここにおいて人がつながる、暗黙の-自明の理のコンセンサスがあったんです。閑古鳥とは鳴き声から来ています、かっこうのことです。時鳥系の鳥に、古来日本人は数種類の感情を代表させて来ました。これはその一つの使い方です。
-うきわれをさびしがらせよかんこどり-
圧倒的な力強さは、そのリズム感、また言葉のめいっぱいの幅にあります。そうして芭蕉が脇見運転ではない、まっしんに坐っている、人生=世間=流転三界そのものという真情にあります。
たった575が詩として世界に冠たる所以です。
でもね、その発声するところ、訴えるところのものは、モ-ツアルトもシェ-クスピアも、いいやねこしゃくしだれであったって、洋の東西を問わず同じなんです。スタイルの違い、そのまあよって来るところの多少の別はあっても、かっこうはかっこうと鳴き、卯の花は卯の花とて咲き誇るんです。
でもこれの共通語を理解しないと、歌一首作れないってことがあって、芭蕉でさえこれを用いるようになるまで十何年もかかっています。
いいわるいをいったって、これどうしようもないんですよ。
じゃそんなもの捨てちゃえといって、明治以来自然描写といってやって来て、結果現在の閉塞社会です、伝統とはそういうものなんです、崩れたら一民族滅ぶんです、だめになったら新しいものを生み出す以外にない、あるいは旧に復帰するか、これ大変な作業なんです。
言葉とは基本技です、使えるか使えないかとは、なにをいっても自分こっきりになるか、外へ出るかの問題があります。でたらめな言葉がでたらめなり生きている、美辞麗句が死体だったり、四苦八苦するさまがたとえようなく美しかったり、平穏無事が悪意そのものだったり、たといなにいっても一目瞭然てことあって、知らぬは我が身ばかりなりってね、思い切って何か一つってことからだと思います。
黒沢明は映画人の中でたった一人映画を代用品だと知っていた人だとわたしは思います。映画の本来性というものが、ついに未発見に終わるといったらまた、おおかたの顰蹙を買うんですが、映画より絵のほうがよく、それより実際のほうがよくと、平たくいえばそんなことですか。
黒沢明の作品を辿ると、彼自身=彼の世間の変遷というものがよく見えて面白いです。どですかでん以来、世の中心理学の対象物、つまりはどっち向いても気違いばっかり。
気違いにならん、ほんらいただの人間になっておくれ、目下それだけだって大事業ですよ。
万葉
-はねかずら今する妹がうら若み笑みみ怒りみつけし紐解く-
-はねかずら今する妹がうら若みいざいざ川の音の清やけさ-
二十歳のころ覚えてうら若みだけ欠如していた、うら若みがそぐわない-忘れ-と思ったのは、はねかずらの意味を取り違えていたから、みどりの黒髪のつまり髪型かと思っていた。そうではなく、はねかずら=花かずら、花を紐に通してかんざしにする、だからはねかずら今じゃなくって、花かずら今する妹がうら若みとかかって来る。でも二十歳もののおったつ時分は、はねかずらピ-ンと来るってとこあったわけ。
この歌万葉のア-ルヌ-ボ-な、つまりちっと三文安、まあ面白いから、いざいざ川の音の清やけさと二連して愛されたってとこあった。
ア-ルヌ-ボ-の陶磁器なんぞ日本では二束三文だった、ゲテものの域を出ぬとされ、今時流行ることなけりゃそれっきりの、明治の陶芸家でア-ルヌ-ボ-取り入れて、気品といい様式といい最高級の品作ったのいたな。それでもア-ルヌ-ボ-の分だけ届かぬって気がする。
失敗した様式美とでもいやいいのか。色の分余計っていやいいのか-ひとりよがりな。
-敷妙の袖返し君玉垂れの落ち野過ぎ行くまたも会はめやも-
ご存知人麻呂のえ-と万葉の巻一だっけ、ちゃ-んといきさつ出てるよ、そ-ゆ-の何遍読んでも覚えぬからかってに興味あったら見ておくれ。
これは公式行事なんだ。宮廷歌人は葬式とかもがりの歌多いよ。貴人が死んだ、そのかあちゃんに成り代わって、たまおくりの歌。しきたえ、やがて12ひとえにもなるその着物、袖にかかる。袖返し君とは抱き合ったってこと、夫背の君。玉垂れとは玉を抜いて紐を通した首飾り。背の君のプレゼントか、そ-じゃなくって呪いの意味あってなくなった人にかけられているのか。玉=たましい、その糸が切れて落ちる、しきたえから落ち野へつなぐ、落ち野は地名、すでにやまとを過ぎてもはや帰ってこない。人間の国と魂の国のさかい、垣根の柿の木が植わってたんだってさ、その柿の木の下の人麻呂は、
-笹の葉はみやまもさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば-
というように、この世とあの世の中継地点。
さや、さやぐ-あやしい響きがあって、さやとさやいで生き霊を引っこ抜いて持って行ってしまう、必死になってそれをつなぎ止める、エジプト人の砂漠の護符のように、女のかあちゃんのあれが強力を持って、現実に引き戻す。
-玉衣のさひさひ鎮み家の妹に物云はず来にて思ひかてつも-
でがけにかあちゃんに声もかけず来て、今の人だって同じ感情を持つ-人麻呂歌集。
ど-ですか、単語の羅列、つなぎとめる糊もむろん単語自身も、おそらく1万年~1千年かけて、スタイルという、様式美という共有財産として、完成し花開く。
詩歌とはこうしたものだった。
とにかく-その美しさを寸分も味わって下さい。
なぜにア-ルヌ-ボ-を日本人が歯牙にもかけぬ-肌触りとしてさえ受け付けなかったか。
そうです、そいつをもういっぺん、気持ちだけでも復活と思うのは、ピピちゃん現象の現在、まさに必要事。自我の延長だけじゃな-んもならんことを知る、自然が美しいたって詩歌にならんことを知る、これ人間さまのいろはのいってね。
ど-じゃい、そっぽ向いたかって-一言多いんだよなアッハッハ。
よ-し多いついでに、kwanさん以外だ-れもそっぽ向くわしのケッ作。
これわしが万葉についての論文なんだけどな-ものを論ずるってのはそっくり真似るしかないよ、そ-してたっ た今の役に立つか-そりゃわからん。
-三界の花のあしたをいやひこのおのれ神さひ雨もよひする-
本歌は、
-いやひこのおのれ神さひ白雲の棚引く日すら小雨そほ降る-
を用いた花の写生の歌です、三界といってはじめて圧倒的なその花に花。
-四方より花吹き入れて信濃河寄せあふ波の行方知らずも-
寄せあうなみの-は常套句です、大河津分水は耐用年数が過ぎて今改修工事をしている、大竹貫一が私費をなげうって築いた放水路、両岸にいったい何千本になるか桜が植わっている。
-いにしへは飯を盛るとふ朴柏おほにし咲けば人恋しかも-
むかしぶりを一人っきりでやっていて、せっかく花開いた、こうして人にも見せばやって意あり、山門修行の意ありです。
-笹川の流れに浮かぶほんだはらかよりかくより年はふりにき-
西行
実際に西行に出会ってごらん、つれづれ草にあるように、なまじっかの人間はぶんなぐられる。わたしの云うにはたとい道元禅師もどうかという、一休も西行にはかなわんと云ったほどに。
その歌の壮大は後の世の人及ぶべくもなく、実朝芭蕉に至ってわずかに匹敵するんです。
心なき身にも哀れは知られけれ鴫立つ沢の秋の夕暮れ
風景がどうしようもなくその目を押さえるという、絵描きについてはそのようなことがある。これを表現せずにはいられぬ。楽しいとかそんなもんじゃない、恐ろしいことだ。芸術も詩歌もない今様人間には無関係かも知らん。売らんかな銭になりゃいい。ところがかつては真人間がいたんだ。
風が吹きゃうそぶき歩かずにはいられん人、どうしようもないのさ、自然というまったく自分という、不可分のこいつがどうにも収まり切らん。わかっちゃいる、わかっちゃいるけど妻子仕事ほったらかし、うそぶき歩く他ない。
あたかもそりゃ歌という言語を仮りて、自然がうそぶく、声を発するに似る。
たとい西行なんていい面の皮だ。
どうしようもないその我を西行は許さない、仏の道からも世間道徳からも不是、じゃどうすりゃいい、そうさ感動も哀れも不可だ、てめえ非道の者ものを感ずる能わず、心なき身とはこれがこと。
しかもどうふんじばったって、石っころになれったって、悲しい哀れの風景一木一草のまっただなか。
その葛藤の中のこれ。
西行に比べりゃ今様俳句だのなんだの、およそ言葉にもなんにもなってない、ただのかす、ごみっさら。
これを知るもの一人半分出て欲しい。
世の中万ずの荒廃これに帰す。
ここもまた我住み憂くてお去りなば小松は一人にならんとすらむ
どうしても一所不定住、住めば住み汚す、たといどこをうそぶき歩こうとも、まるっきりまっぱだかの西行法師が、赤ん坊のように泣き笑いする、どうにもならない、世のつながりとは、二三すれば自ら追い出され。
たいてい人みなこうであったって、西行みたい一生やってるやつはいない。
とてつもない巨人だ。
二十歳のころ西行と云ったら、額に汗して働かないで、うそぶき歩く国賊だ、人間のくずだとだれか云った。良寛についても同じ返事だった。
共産主義という、常に答えのあるあんちょこ思想、思想となどほとんど云えぬ、今にその末裔わんさかで、歌はいいからいいんだ、音楽だコンサ-トなどやっている。なぜ歌がいいんだという、至極当然の考えに至らぬ。
思考ストップというより、ただの石っころだ。
てめえ石っころと決めつける西行、石っころにもなれず。
常に答えなし、わからない、答え=自分であったという答えをさへ出さない。
これどういうことかわかりますか。
もしわかったら、たいていまあてめえ目下の生活の無意味に、首括って憤死ってとこ。
日本伝統詩歌がなぜに旅にあるのか、
「まさに答えのないこの答え」
にあります。
現代俳句と芭蕉を比べると、一目瞭然はここにある、膨大な俳句歳時記の中にふっとささやき声が聞こえる、
よく見れば薺花咲く垣根かな
芭蕉は垣根の内に住んで江戸のヒエラルヒ-やってないんです、無一物のふりしてうそぶき歩いて、ふっとなずなです。
これを西行の風と云う、ふんわたしが名付けたんだ。
風が吹かない詩歌なんてアホくさ。
ただのがらくた、夢の島の悪臭公害。
でもさ、もし万が一にもこれに気がつく人がいて、西行の風を身につけようとする、とんでもない苦労の末になげうつ。
「こりゃどうにもだめだ。」
という、自分は虫けら、西行のわらじの紐にもとっつけぬ。
さらに心の幼びて魂切れらるる恋もするかも
よく耳を澄ませて聞くんです、あなたの手にあるのはビニ-ルのなまくら刀、西行の手にあるは精妙吸毛剣。
誤った宗教ほど恐ろしいものはないんです、人間独特の凶悪犯罪、たとい魔女裁判もやられたほうはたまったもんじゃない、たわごと云ってるんじゃないです。
目利き
いや音楽好きなんだけど、世の中CDになってから、BSとかテレビで見るっきりになっちゃった。するとせっかく音楽もむさい髭面とか腰ひん曲がったのとか-失礼、明月や座に美しき顔もなし
というのが、一芸に秀でた人間の世界な。いやもうベ-ト-ベンに淫した女ソロとか、せっかくバッハ睨めすえるよ-な女男とか、うわ-止めてくれ言い出す。音楽なんだから風景いらんつったって、たしかにあれ生演奏ってまるっきり違うとこある。お仕着せ拍手とか、もう体力の限界これ以上一音もダメってとこでアンコ-ルとかさ、不都合のことあるけど。わしら土田舎最前列座って目三角にしたら、なんか申し訳ないってチェロ弾きそっぽ向いたりとか。ライブそりゃぜ-んぜん違うわな。
純粋な音楽ってのはLP華やかなりしころの幻想って、芋ねえ-ちゃんみたいのバイオリン弾いていた。えって云ってみる、音楽という何かを掘り起こす-即物ってからしいとこないその顔つきに魅せられた。客が来てテレビ消してそれっきり、現代音楽であったがねえちゃんの名もわからず仕舞い。
純粋音楽人間にとっちゃ、作曲家第一で演奏家どこがいったい芸術家だとか、奇跡のような名演奏って、生涯に三つほどしか聞けんとか、その他だれがど-だの、音楽になってないだの、勝手放題のへ理屈並べる。
でもわたしは音楽のおの字も知らない。歌えば音痴だし、音楽の目利きも批評もない。あるのはよかった、半分はいい、聞かないほうよかったとかそれっきり。でも一音鳴ると涙あふれとか、もうどうしようもなく-三つのがきになってわあきゃあっていうやつ。
音楽なければ雪降ったり花咲くとか、毎日の景色でやっている。
日本最大の目利きは本阿弥光悦だという、二十歳のころ俵屋宗達の絵を、風神雷神他ブリジストン美術館であったか本もの見て、
「こいつが日本最大の絵描き」
と決め込んで、なんだこの光悦というのは、つまらん字書いて宗達の回りうろちょろと思っていた、てめえは何様のつもりなんだって。
本阿弥家は代々刀剣の鑑定をして、明治に至るまで唯一-つまり折り紙付ってのが本阿弥家の鑑定書であったわけだ。
刀を鑑定する、そりゃさまざまノウハウ作法あったろうが、そうさなあ云って見れば、
「涙の雫のように刀を見る」
ということ、乱暴な云い方すりゃ刀って鉄器文明の=人間の心そのもの。
本阿弥家の中にあって、おそらく光悦だけがこれが出来た、だからあらゆる方面において目利きだった、でなきゃ刀剣だけの鑑定家。作法にのっとってこれが粟田口だから粟田口ってやつ。そうではない、どんな刀をぬうっと差し出されても、いいわるいっていう-こりゃ素人の目だ。宗達を育て歌を描き、さまざま意匠を凝らす、大ど素人の目。こんなやつはどこにもいない。
一休さんな、徒然草の作家、次には芭蕉かな。あれはど素人の俳句って云ったらまた怒られるけどさ、ど素人いいわるいの感性しかない。手だれになりゃなるほどに、ど素人な、西行しかり、どうあっても慣れつかぬ自分。近年では小林秀雄が目利きだった。どうしようもなく技術を洗練させるんだけど、一休さんも人ひっかけるには他の追随を許さなかった、でも本来まるっ裸。
涙の雫のような一個人。
涙の雫っていうと、我田引水わたしの見た涙の雫は、そりゃもう日々是好日だけど、エジプトのレリ-フとか縄文の女のデフォルメとかかつてエスキモ-の木彫とか、芸術だのな-んも云わん職人とも云わん人らの作物な、ほろっと涙の、作物もこっちもなんです。
古代のものはたいていそんなふう、ア-ケイックスマイルとニ-ルバ-ナと、そうさなあ人間はもうそれで止めときゃよかった、な-んちゃってさ。
アルタミラ洞窟壁画の野牛の絵はありゃど迫力。
禅僧がOを描く、今様禅僧もよく描く、どいつも物まね豚っての一目瞭然、ところが盤桂禅師のOは、ぐるっと筆回すの面倒って左右から引いて、そいつが涙の雫。
盤桂さんは、人に悟を問われて、なんていう無惨なことを云う、一木一草どこに悟る悟らんてことがあるんですと云った。
わたしはこういう人がなつかしいんです。
必然的に目利きなんです-たいへんなことじゃなくって、赤ん坊のようにたいへんですか、人のいじきたなさ無惨やるせなさ丸見えで、しかもまるっきりたった一人生きて行かにゃならん、だってもただの人元っここうあるだけなのに。
もうずっと前になるけど、ブラジルのど田舎取材やってて、歌手になりたいっていう少女のへたっくそな歌聞いた、とつぜん涙が溢れてこっ恥ずかしいトイレに立った。今様音楽家音楽マシ-ンてとこある、どだいモ-ツアルトもワ-グナ-もいっしょに弾くってのが、未だによくわからない。ジュリエッタ・シュミオナ-トのケルビ-ノうわっ人間の声ってな。ジョン・サザ-ランドの埴生の宿ラストロ-ズオブサマ-絶品な。パパゲ-ノはエ-リッヒ・クンツ。ブタペストのハイドンセットや大昔ウイ-ンコンツェルトハウスの20~23はどこ行っちまったのかな、二度と聞けない。わたしの大事の刀は錆ついて地下にありって、そりゃ人間とその作物だけさ。いくら公害たって自然はいっぱい。ダムぶっこわして川蘇らせよう、ライトアップなんて無様のこと-あれが美しいなんて信じられんだぜえ-せんたっていい。ど田舎の夜真っ暗けがいいようって、ナイタ-施設蛾がかわいそうだようって、おっとそ-ゆ-こと云うと死刑んなるぞ。
モ-ツアルトk465
弦楽四重奏曲ハイドンに捧げるとなっているので、ハイドンセットと呼ばれるうちの最終曲、不協和音とあだなが付いている。恐怖の不協和音、あまりに優しく美しい、人を破壊するほどの豊穣!極めて完成度が高く、ハイドンセットの他の曲が、今はそう満足の行く演奏は聞かれぬのに、k465とk614弦楽五重奏曲だけは、たといだれが-どこが演奏してもそうは違わぬ。人類の所有する最高峰の芸術作品のまた筆頭に挙げられる。
わたしには痛烈な思い入れがある。
ハイドンセットはモ-ツアルトの天才少年から一個の大人に生まれ変わる、産みの苦しみそのものというには、のびやかに一回的に見える。だが生涯を通じてのびやかに-まったく他の作家の追随を許さぬ、たとい人間という野のけもののように一回的といえる。
SQ14~19の一連、始めて自分の足で大地を踏み締める喜びに似て、音楽という=人生という大森林、その優しい原野を心行く歩んで行って止む、行ったら必ず帰って来る、
「そうさこれが僕だ」
という、たった今発見する、そうして後をすべて、歩いて行ったところに我あり、とはまたなんという幸せ、なんという不幸、人間から余計な皮っつらすべて取り去って、肉は悲しという、喜怒哀楽思想困惑という、分厚く奥深いその肉そのもの、まさにその標準がk456であった。
どういうことかというに、古代ギリシャ(オリンピック優勝の)月桂冠をかぶる青年のように、全幅の信頼をその所属する世の中に置く。
すなわちモ-ツアルトのこれは成人式であった。
その正反対というべきものが、現代日本の学級破壊的成人式に違いない、貧相身勝手不形容しがたい支離滅裂、およそなんにも生み出さぬ。
自然のにおいがない、ではすでにして幸不幸のハンチュウになく。
no19に至る、モ-ツアルトは実に入念に(我について、人生社会また異性について神について-)という必至の命題をくりかえしはしない、まさに直面する、面と向き合えばそれは答えであった。
ハイドンセットを聞いてみるといいです、こんな特殊な音楽はないです。
こんな魅力的なものもないです。
日本人は四季の風景と置き換えりゃいいです、青春が満面に蘇る、とつぜん一木一草が意味を持つんです、そうして自分という存在がある、これは現代人にとって、とてつもない体験になる、かつては自分という存在、他には考えられなかったはずなのに、我思う故に我ありのダンデイズムより先にです、そりゃ当然のこと。
倫理とは何かと問う人がいます、道徳とは何かという、禅門の答えは=心です。他にないんです。どういうことかというと、心に二心あり、従前の心と本来心と、といいます。今答える心は本来心のほうです。
本来心とは我のうして手に入るものです、忘我といういったん失せきって、我と環境の同一化-我と有情と成仏です。
つまり心=木の葉でも大空でも手に持った茶碗でもです、というと知らぬ人は殺伐の思いをする、そうではないんです、たといモ-ツアルトがどんなに精妙を尽くしても及ばぬ如来の風景-もとあるがまんまです。
今これを思いついでモ-ツアルトの成人式です、我と我が身をどうすべきか、これの答えが成人式です。
倫理的にいえばどうなるか、道徳を完全に守ることが最良か、いいや道徳なんて杓子定規はいやだ、それよりもっと直かにということがある、神を信じ神を信ずる人を信じ、真善美をもって通身あげて帰属社会に奉仕すること。今の人こんなこというとせせら笑うしかない、けれどもせせら笑いも結局出自はここだ。
全幅の信を置きたい-どうしてもそれができない。
ただこのシ-ソ-ゲ-ムがあるきりです。だって人間は人の間なんです。100%人間でありたい-でもそうは行かない、のシ-ソ-ゲ-ムです。
人間また宇宙そのものという悟のないかぎり。
モ-ツアルトは倫理も道徳も神でさえ透過した。音楽がその習熟がそうさせた。
個人と全体の同一、いきなりここへ持って行ってk456。
真善美という、西欧精神の理想をたるものを、鉄砲でぶち抜くように実体化する、どうしようもこうしようもない、
(美というものの正体)
k465を聞いた人が手にするものこれ。
(それは人間だ)
なほかつスフィンクスの答え。
わたしの成人式はモ-ツアルトのハイドンセットをたどる、k465を聞いてちょうど目の前にあった菊の花が、一人の人間になって-限りなく美しい、立ち現れた、ふっと微笑んでとつぜんあたりがかすむ、かすみではなく、部屋も机も壁も-砂になって崩れ去る、絶叫してつったちつくす、三日三晩一睡もしなかった、ちらとも微睡めばフィンクスにぱくっとやられる、恐ろしいそやつと取り引きした、なにをどう取り引きしたのか覚えていない、かろうじて生き残った、白髪と耳鳴り。
モ-ツアルトにはたとい信を置くべき社会と、就中習熟した音楽があった。わたしにはなかった、ただそれだけのことだ。でも一生を棒に振った。
これを修復するのは容易ではなかった。
「朝四本昼二本夕三本な-んだ、それは人間だというのです。」
師に挙すと、
「それはなんの謎も解いたことにもならない。」
まだ残っているといった、
「そうか。」
とわたしは思った。