文芸について 3
文芸復興
まず自分という架空を、うそっことを免れること、色即是空とは、色眼鏡を外して見る、空即是色とは、知らずのうちに囲いをしている自分という、それから一歩踏み出すんです、広大無辺です、まずこれを心行く味わうんです、もう死んでもいいっていう位、すると世界歴史人類宗教とか、ぜ-んぶひっくるめて、オレの方がいいやっていうんですよ、実はだれだって、オレのほう大事なのに、はっきりオレだっていえないでいる、文芸復興とはまさに、ほんのちょっとしたそれなんです。
心強い味方を待ってますよ。
以下は二三のノウハウです、たとえば絵を描く人には、線を引いてみたらどうですってね、写真や引っ掻き傷や定規の線ではなし、一本の線、昔の画工のやったやつですよ、写し絵ではないポテッチェリの線、アルタミラ洞窟壁画の線、できないんですよ、これが、なぜかなあってね。
それから、古池や蛙飛び込む水の音ってね、我国詩歌の伝統の池に、桃青芭蕉は十年二十年四苦八苦の末やっと飛び込むんです、俳句という、歌を正当とすれば、みにくい蛙ってね、でもって音が聞こえるんですよ。俳句歳時記ってあるでしょう、膨大な江戸時代~現代にいたるまでの五七五です、頁を繰って行くとふっとささやく声が聞こえるんです、
よく見れば薺花咲く垣根かな
決まって芭蕉なんです、たいてい他の一切が無音です、へんです、言葉の機能をはたしていないんです、差別用語でいえば、おっちでつんぼなんです。
どうしてかなっていうんです、続いて飛び込む蛙なし、五七五のその構造が違うんです、どうです、一つ作ってみませんか、声の聞こえる詩歌です、まっすぐです、わたしがあって、相手がある構造です。わたしを無にすると、できたりするんです。
文芸復興ってね、まず古典をおさらい=真似ることから始まるんです、できそうでなかなかできない。
古人の杉のさ庭ゆしくしくの雪霧らひつつ春は立ちこも
あけぼのの春は立つらく大面村田ごとの松を見らくしよしも (いちめんの雪なんですよ)
わたしは能無しで以上の歌を作るのに、十何年かかって、でもってはて文芸復興って粋がっているのは、自分だけだったりして、-
西欧の花
盲説法-わたしの四十年前のドストエ-フスキ-を施設します、もしお役に立ったらどうぞご利用下さい。
偶然受験戦争に勝ち抜いて、授業にも行かず、六人部屋の寮のベットで寝ていたら、先人の忘れていった本がある、岩波文庫の戦前版、上質紙のずっしりとした重み、なつかしい思いがして、手に取ったら、悪質のインキであっちこっち書き込み、地下室の手記とある、「なんだこりゃあ。」読んでみたら、思い切って変な小説だ、こんなもん俺にも書けらあとか、気がついたら、一八O度転換-今まで後ろめたい、他にひた隠しして来た、うさんくさい自分が前面に出る。(二二んが四と割り切れない)自分です。意味なんかどうでもよかった、その奇妙な-ラスコ-ルニックな口調です。
彼はだらしなく、けもののような目をもって歯止めが利かない、社会=人間のどんな嘘だって通用しない、必然的に疎外者、地下室の生活者、生活といえるものかどうか、なにものも成立たない、蹂躙されるその靴底を舐めるだけ。だれにそっくりか、モ-ツアルトにそっくりだとわたしは思った。人はみな美しい浄土に生まれる、to
the happy fewというそれ。
ドストエ-フスキ-はこれを人格化-社会小説に仕立て上げた、罪と罰に至るまでいったいどれほどの-めくるめくような思い。ラスコ-ルニコフは地下室に逼息して、ついに息付く空間がない、ビジュアルにはピカソの青の時代がいい、何をやっても力なく(愛といい平和といいto
the happy few という)すべすべした卵の中、こいつをぶち破る、-デッサンだけのような、描きっぱなしの絵がある、生死を賭けた凶暴さ、殻を割ったって空気はない、手足だけでという、いわば裏返しの暮らし。そうしてとにかく絵をもって、ピカソは大成功する、基本わざは人間喜劇に違いない、筆の洗練と、一切を見据える正確無比な表現力。一切を見据える目と、なんの手段も持たないラスコ-ルニコフは、どうしたらいい。心の問題だけの-どうあっても解決せねばならぬ。それはラスコ-ルニコフの成人式だ。
個と全体の問題、西欧精神の最重要テ-マとして、オイディ-プス、アガメムノ-ン、オレステイアの三部作から、シエ-クスピアのハムレット、そうしてこのドストエ-フスキ-、心という契約上の問題といったらいいのか、東洋人には理解しがたい、「それは人間だ。」という怪物に仕立て上げた、スフィンクスの-謎を解いてはいけない、あるいは砂漠から生還した一神教、奇蹟を起こすという、人間らしいという、結局は作りものはこわれもの。
わたしは以上のことしかいえぬ、モ-ツアルトに神はないなら、その精神の一番の成功例。彼の成人式は不協和音とあだなのある、ハイドンセットのNo19、人とこの世の中に全幅の信頼を置く、恐ろしいほどの美しさ、美とは何か、個が全体に失われるありさま-。理想というより人間の本来は、古代オリンピックの優勝者、月桂冠を戴く若者の姿など。
わたしの成人式もNo19、気がつくと机も花も、ものみな砂になって崩壊する、三日三晩立ちつくして、どうやら発狂を免れた、この世は砂漠-なぜ。
ラスコ-ルニコフは金貸し婆さんを殺して、社会と繋がろうとする、お受験殺人のような、今様事件と無気味に類似する、いつか自分の出口がない、殺人だけが唯一突破口、殺人を犯したとたん、行処のないことに気がつく。マリヤを殺したことは、単にキリスト教のおつき合いに過ぎぬ、だがマリヤを起点にして、神を失った=自分のもって行処のない、さまざまの人間-妄想が面の皮かむっている、生きながら亡者の行列、ドストエフスキ-の面目躍如というわけだ、でもって問題は一つも解決しない、読者はな-るほどと納得する-嘘だ、彼はシベリヤへ行って帰って来るだけだ、もしや作者と同じように。
白痴のムイシュキンと名ばかり変えて帰って来る、そうしてあらゆるものをぶち壊す。善という、これほど悪はないといっているような、作りものの成れの果てだ、人間=心は意識の上のものではないと、自然が示す、意識の上とは全体のコンセンサス-みんなで渡れば恐くないだ。
ニコライ・スタブロ-ギンというやつがいた、ゲ-テにそっくりだ、ゼウスの目という、(仏心から見ると)どうも大騒ぎ、ヒットラ-と本質変わらない、意識上の個人=心は、ついに全体を支配する、個々別々で全体ということが分からない、一個自足するために、全体という架空テ-マがどうしても必要だ。
スタブロ-ギンをその恋人がなじる、そんなけちなあなたは要らないという、彼は必死になって、本来心ともいうべき、ヒットラ-を守ろうとする、だがそれを支えるのは、もはやがらくたばかり。
ユ-モアといいフモ-ルという、その真諦(ともいうべき)をヘルマン・ヘッセはついに守り切れなかった。
でもたしかにそれはあった、(その光弱い)西欧の野に咲く花とだれかいった。
未成年の父は、野に咲くその花の、最後の残照、愛という、西欧一神教の永遠のテ-マが、滑稽味を帯びてここに滅びる。女の美しさを、文芸作品では、シエ-クスピアに次いで、ドストエ-フスキ-だとわたしは思う、ほんとうに美しい。
スビドロガイロフという、現代人が登場する、理想とはなんだ、蜘蛛の巣が張った風呂桶という、彼と現代人の違いは、言葉を正確に使えた(物が見えた)ということ、今の人せっかくその風呂桶を、理想と思い込み。
スメルジャ-シチャヤという猛烈思想-思想が皮を被るとはドストエ-フスキ-の人間、いや現代人はその末裔の支離滅裂とか-に対比してアリョ-シャ単純思想、明るい未来に向けてのメッセ-ジは、完全に失敗する、なぜか、理由は単純だ、意識の上の改革はありえないということ、よりよい別思想などいうものはない、実に彼の嫌った共産主義思想が答えを出す。
作り物はこわれ物。
哀しいかなドストエ-フスキ-は知っていた、アリョ-シャはそこらに転がってる今様人間にしかなれない、長すぎるこの小説はシベリヤ行きのワンパタ-ンに終わる。
そうではない、意識思想によらぬと知る、心という露の玉-たといなにあっても傷つくものではない、スメルジャ-シチャヤを親に持ってアリョ-シャという天性はいらない、だれでも接しえて妙ということがある、古来まったく変わらぬ方法、たとい人類が滅び去っても健在です、これ坊主のお奨め商品。
手で引く線
小林秀雄が裸の大将山下清の絵を見て、清君には倫理観が欠けている、カメラ眼のように空ろに見る-芸術とはいえぬ、というようなことをいった。もう四十年も前のことだ。小林秀雄がなくなったら、文芸評論も批評の目もこの世から消えちまったから、何年前もくそもない。批評の目が消えた、なんでもありありの、よくいえば長島世代のみんな仲良くにこにこ、でもって卑怯未練凶悪少年犯罪など、人の心に歯止めが利かないというより、心そのものが蕩けほうける、どうもこうもないってこった。
清君に倫理観が欠けていたかどうか、たしかにピカソやゴッホやシャガ-ルや、小林秀雄の命がけで対決した連中は、絵描きという以前に人生いかに生くべきか、というより自分そのものの存在を賭けた壮絶な戦い、連中の絵の魅力はそれだ、ゴッホ百億円それを真似た幸福な日本画伯一千万円というのは、そりゃ当然てことある。でも清君の絵に魅力はないか、美しいとはいえぬか。あるいはこれは小林秀雄が、わたしらに突きつけた命題だった。
十九歳少年のリンチ殺人を今テレビでやっている。見ても聞いてもいられんような。おまけに警察はそっぽ向きっぱなし、一般もさっさと忘れてとか。
倫理観とは何か、人の痛みを我が痛みとする、それが欠如したらどうなる、赤軍派のように内ゲバやるっきりない。
空気のように必要不可欠のもの、人間という存在そのもの、個と全体をつなぐ掛け橋、そうさ、それが失せりゃ内ゲバ暴力、めったら傷つけて何物かを得ようという。
ナチスだって倫理観だ、原爆投下も右に同じ。
リンチ殺人もスト-カ-も金巻き上げるのも倫理観か。
少年法で保護されて親の砂糖浸けみたい衣かぶって、やりたい放題、あんなもなぶっ殺すよりない、倫理観といえば、そいつの欠如だ、欠陥車廃棄処分以外なく。
いやそういうのもいるが、自分を何者かにという欲求を-けんけんがくがくに、裸の大将の絵を差し出す。
空ろなその目を向けてどうだと聞く。答えが出るか。
答えが出ない、自分の身は自分で守るっきゃないぜといい聞かせて、それでおしまい。
個と全体をつなぐ、雨後の筍のような新興宗教-間違ったものはしょうがない、弊害ばっかりの世の中。
柳生武芸帳の五味康介は、マンガの清水昆と、小林秀雄の口に上った最後の作家だが、音楽好きでいろんな逸話があったが、魔笛はカラヤンが抜群にいいといった。あのころベ-ムやトスカニ-ニや錚々たる連中が魔笛の指揮をとった。たいてい道徳的倫理的な解釈を下す、その分面白くない、カラヤンの半分は聞けるなんてもんじゃなかったが、エ-リッヒ・クンツのパパゲ-ノや三人女の合唱やらさながら天国にいるようだった、その台本の荒唐無稽なんぞどうでもいい、飲めや歌えやでいい、大空の雲のように有頂天、草木鳥獣のように自由自在、なんしろこいつはお祭りだってやつ。
永遠のお祭りやってたら干上がる。干上がる心配のないのはモ-ツアルトだけ。
干上がりながら二十歳のわたしは五味康介のとんでも助平小説読んで、カラヤン魔笛説のさすがはと感心した。二十年後魔笛が聞きたくなって、なんとかショップ行ってカラヤンはと聞いたら、あるという、へ-え大昔音楽あるのかって、そいつ聞いたら似ても似つかぬ、カラヤン再度の魔笛という、
「なにこれ、みんな生き埋めになって腐って蛆虫。」
いいや、公害金っけていうのか、もうお呼びじゃない。そか、初演のカラヤン人類断末魔の音楽っていうやつ。
死ぬ一瞬前の突沸。
どうしてそうなるかって、はっきりいってわからない。
ジュリエッタ・シュミオナ-トの声を聞けば昔は人のありとぞ思ほゆ
NHKでむかし音楽やっていた、J・シュミオナ-トのケルビ-ノあのはすっぱなやつが、時を超えてわたしを押し包む。
あったかい血の通う人間、いやそういう空間。
なんといったらいい、1970年代以降、歌手というより歌うマシ-ンになって正確で美しいといって、板っぺらのようになんというかあの世行き。
小林秀雄もその評論にある近代絵画も断末魔の一瞬。
行きばっかりの帰りなし袋小路。
絵といえばタレントのものした絵。
フィレンツェの手料理となん君もしやポテッツェルリの春の如くに
ふたたび蘇るにはまっ先に倫理観。
(西欧人は罪の意識、日本人なら恥を知る)そういったってお題目にしかならないか。個と全体の掛け橋、人の痛み、地球の痛みを我が痛みと知るこれ第一歩、そんなの麻痺しちまうってね、麻痺しない方法ならわたしが示すことができます。いつでもたった今生まれたように、アフロ-ジテの処女の泉よりたしかって、わっはっはそういうやつ。これ如来というんです、如来来たる如し、
観音さまともいいます、地球宇宙のはてに一音、なむかんぜおんぼさつってね。
もっとも西欧デカタンスは日本には関係がない。
リズムの言葉ってかアルファベットじゃない、漢詩が時代に左右されないように、日本の詩歌もどうあろうがその本来性を所有するんです。
自分の感情発意の赴くところじゃなく、詩歌言葉の与えるところへという、一八O度の方向転換が必要です。
そこからしか始まらない。
絵画なら一本の線を引けるかということです。
器械ではなく人間の手でです。
あっはっは、コンピュウタ-時代に逆行、だってもさ人間の楽しみって強烈一つっこと。
ゴッホ自画像
耳を切ったあとの自画像。耳を切った、さぞや痛かったろうがと思うと、痛いのは自画像を描いている今だ、巨大な拳で殴られ、ひしゃげたようなその顔に痛みが見える。
見たくない絵だった、ましてや部屋に飾っておくなどもっての他。
見たくないったって、向こうが見つめるのだ、こ-っと青い、光の目ん玉になってらんらんと見つめる、こっちは金縛りになって動けない、汗をだらだらつっ立ちつくす。
そうしてつまらないことをぼやく、なんでこんなに荒っぽい線なんだ、へたくそな絵描きだ、絵描きの安穏落ちついた生活っての知らないからだ、そりゃへたくそで一枚も売れないからだ、弟の生活まで台なしにしおって、気違いめえが、そうだ気違いだ、発狂して気がついたら喉を腫らして寝ている、耳切ったんだって覚えていない-
ぼやいていないとこっちが発狂。
ゴッホは巧みに絵を描いた、つい最近発見されたデッサンなぞ、他の優秀な画学生と比べてぜんぜん引けを取らない、だのに-
日本の絵にいかれちまったからか、そりゃ一神教ヨ-ロッパ人には、広重は描けない、北斎だっててんで無理だ、せいぜいがア-ルヌ-ボ-のへんな花の絵の花瓶ぐらい。自然と人間のあいだにアイとかヘイワとかカミサマとかないと、ぶるぶるふるえちゃって早漏しちまう-しちまうと思い込んでいるから。
ゴッホが日本振りして失うものはあっても得るものなかった。
しかしうすうすなにかしらあったのか、答えは発狂?
いいや不可能事ということ。
当然だ、神さまを捨てることなんぞ思いも及ばぬ、根っからの牧師さま。
ゴッホは人を救おうと思って絵を描いた。
近代絵画の巨匠どもは、いったいなんのかんのいったって、絵というキャンバスの中に逃げ込んで、ほんとうのただの人ではなく、デカタンスをいいながらまさにデカタンスの十字架を背負ったとはいい難く。
ゴッホ一人馬鹿正直、ゴッホ一人絵描きであってしかも一流の文章家であった、自分というものをまるっきり隠すことなく、ごまかすことを知らぬ、偽りを知らぬ、これはたいへんあことだ、一時いっしょに暮らしたゴ-ギャンの舌足らずと好対照。
ゴ-ギャンの実存は絵によって支えられる。
ゴッホの実存なんてない、人はパンのみに生くるにあらずという一項があるっきり、古典的人間といえば彼ほどまっ丁人はない、世のため人のためのほか一個の存在理由はない、個とぜんたいのかけはし、人間に課せられた永遠の命題、原始人だ乱暴なやつだ、これをそっくり絵にぶち込んだ。
そんなことができるかって、黒という陰影というだれしも当然の権利を-あいまい住居ってやつだ、そいつを放棄する、あるのは行為という善意という色の階調と光、たといアルルの光さんらんだって一人っきり楽しむという、そんな空間は彼にはない、あまりに明るすぎる、光が強烈。
そうさ、ピラミッドを作るんだ、愛と平和のピラミッド、たとい昨日買った安物娼婦だって、どんな不幸な人間だってここに救われる、すべてを許す、優しさ=人間さ、そうさ神さまはそっぽなんか向いてないんだ、そっぽなんか-
神さまはなぜか知らないが、そっぽ向きっきり、ゴッホのピラミッドはサハラ砂漠のまっただ中。
水がない。
水をしぼり出すのさ、その絵筆に。
そりゃそうさ人間水の申し子、水という宇宙起原のまったくの不可知論、そうさだからこそ無限にあるんだ、わしのタッチを見ろ、実に合理的だろ、永遠に水を搾り出す装置さ。
実はそいつが原子力で作動してたって気がついた時は、暴発-原子崩壊。
色彩が砂粒の分子になって、そいつがぶっこわれて原子粒になって-そりゃ発狂するしかないさ、人間がいったいどこに住めるというんだ。
病者の光学のニイチェも発狂したって、そりゃそうだ病者の光学の故にな-今じゃだ-れもそのメカニックがわからない。
骨折れ損のくたびれもうけってやつな。
ニイチェは最大の常識家であった、たといそういう称号を贈ろう。
常識家の最大日本人は、小林秀雄であった、豪胆最後のさむらいのこの男をぶちのめしたのはゴッホであった。もし心の問題なら、有心の問題なら、そりゃゴッホにかなうやつはいない。
どうしようもないのだ、脱帽かそっぽ向くか。
そっぽ向けないやつが、何人かいたのだ。
ゴッホがその心にそっぽ向けなかったように。
そうさ、ここにも歴史が一つ。
信長がどうでナポレオンなんてどっか異星の歴史、そうさそんなもんな-んの関係もないよ、歴史家なんていうの人間の屑さ、もっとも歴史を知らんでもってのうのう。歴史の一頁、ゴッホの耳を切った自画像。
ゴッホを救いうる方法があるか、
「ある。」
これがわたしの出した答えだった。
ピカソ
ピカソのゲルニカはあれ下書きが画集になって出ていて、それ見たことがあります。すると日本画伯のような下書きじゃない、だんだん集積してついに完成じゃない、ただもうどんどん描き変えるんです、一枚めも二枚めも乃至は完成間近の絵もまるっきり違う、各独立しているような感じを受ける。それでいて同じ人間のやってることだから、首尾一貫してるといえばいえるんです。でもなにかしら奇妙なことがある。ピカソ天才の秘密という映画があって、どんどん描くはしから撮影して行く、さすがはピカソと思ったんですが、中に20時間もぶっとうしに描き直すのがある、これ最初のより最後のほうがいいとは決して云えないんです。どうかというと、決着しない落着しない、なんとか答えの出るまで-じゃ答えってなんだ、ピカソの古典性か、人間喜劇の集大成のどっかパズルの一環か、いやパズルから一歩食み出すべく、付け加える一頁-じゃ結局他の画伯と同じじゃないか、いや違う、わたしは自問自答したです。これはどっかおかしいのだ。
イメ-ジが先にあるんじゃない、絵筆が描いているうちにイメ-ジがそこにあった、じゃ筆を置こうというんです。
後にみなこの手法を真似て、しばらく絵描きの常識となったんですが、ピカソがこうしなんです、それまでどんな絵描きもしなかったです、とんでもない手法なんです。「すべてはすでに用意されている。」ピカソはいうんです、「手足だ、手足を鍛えろ。」と。でもここには一定の危惧がある、一定の危惧なんてものじゃない、そらおそろしい何か。
青の時代なんです、すべすべした青の壁面、卵の殻の内側です、青年ピカソとその愛人がかつかつ暮らせる空間です、よ-ろっぱルネッサンスの成れの果てといったらいいか、モ-ツアルトの成れの果てといったらいいか、真善美愛と平和です、でもせっかくto
the happy fewのfewなる相手もいない、未来も次の世もないんです、なんの手も絆もなく、痩せ細って優美な微笑みをたたえて二人よりそうんです。
それは罪と罰のラスコ-ルニコフに似ている、西欧のかつての青年の心情を-存在そのをといいたいほどの、雄弁に物語る。
だがどうしたってそこから出なけりゃならん、空気がなくなる、卵の殻を割るんです、勇気がいる、蛮勇をふるって殻を破る、破ってみたらそこにも空気がない、現代砂漠のまっただ中といったらいいか、生きて行くものは絵筆だけというには、どうにもこうにみひっからびている、実存主義です、いやサンボリズムとかカフカとかいろんな工夫があったです。ピカソはピカソの実存だった。すざまじい絵が残ってます、半分余白を残したアルルカン、筆舌の及ぶところじゃないです、歴史ってこういうものいうんだとしかいいようがない。
でもって、ゲルニカに戻ると、あの人はじめ部屋ん中の横たわった裸の女描いてたんです。なぜってピカソには戦争も平和もありゃしない。せっかく死に物狂いの成人式やったっていうのに、絵筆をとることと男女の愛欲の他なんにも残らなかったといっていい。それからすべてをふえんするんです、芸術家としてはそれでいいっちゃいいんですが。ピカソのいろんな絵がある、デフォルメしたのやアフリカの手法やら、そりゃ知識観念好きにゃさまざまあるんだけど、ただ見りゃいいです、標準としてはデッサン集「人間喜劇」がいい、結局ギリシャ以来のヨ-ロッパ古典なんです。アフリカなんかどうでもいい、共産主義くそくらえです。デフォルメした女の顔は古典の鏡を通すとこうなるっていうんです、それが実に達者なものだ。
どっかテレビで子どもの作品とピカソと比べていたけど、噴飯ものです、子どもらしいとこなんかな-んもないです、一個の洗練そのものです。
だがあれが絵といえるか、いえる、だがわたしは熊谷守一のほうが好きだ、俵屋宗達のほうが何千倍もいい-実際はそんなことないったって、そう思う何故か。
ほんとうの独創があったのか、すでにすべてが用意されているという、ではそこに押し込めになったっきり、進歩発展がない、もしやそうではないのか。
掘り起こすその手法は、たいていの人なら発狂を免れないであろう。
それにしてもです。下書きから下書きへ、断崖絶壁のようなギャップです、では画面の線と空間も、色と表情もそりゃ世間風景じゃない、いわば青の卵から出てまた入っちまった頭蓋の中、ピカソ空間じゃないのか。
すんでにわたしはそう思ったです。
でも美しい、美しいものは自閉症じゃない、自己満足じゃないです。
彼の唯一開かれているもの、男と女の世界、それを絵筆に用いること、そうです、ゲルニカは別れて気違い病院に入った妻への、マインカンプフ、どうもそうであるらしい、それがあるとき戦争と平和というイ-ジとしてそこにあったんです。もとから準備されていたといっちゃあ、強烈戦争場面描いて、
「ゲルニカ」
といって展示した。ことの真相はこうだと思います。
わたしがピカソと決別するきっかけになった絵です。