ピカソ青の時代人間喜劇ゲルニカ

ピカソ青の時代人間喜劇ゲルニカ


熊谷守一がピカソの絵はまずいといった、たしかにそうだ、熊谷守一の天狗の落とし札という、あの絵に比べればアッハッハ、カスみたいだと云いたくなる、技術的にどうの、筆の洗練度の問題ではない、対象物への全幅の信頼、今様に云えばそう愛の問題だ。
熊谷守一が愛など聞けば、きっとキャンパスを破り捨てる、愛という狭義の妄想、思い込み風は彼にはない、むしろ愛を云い信頼をいう、そうした己をかなぐり捨て、かなぐり捨てていった所の、天狗の落とし札だ。
天狗とはつまり彼の額縁だ。
たった一枚のあげはちょうの絵に、人はそのまんま動けなくなる。感想はと聞かれて、涙を流すきりだったりする。
バッハの音楽が、感想はと云う前に涙を流すきりの。
同じか否か、同じと云えば同じ否と云えば否。
「信仰があり音楽があり、終生変わらぬ妻と家庭への愛情。」
と、毒舌をもって鳴る小林秀雄が、バッハの評に云った、他に云いようがない。熊谷守一に信仰があるか、信仰というより赤貧洗うが如し、
「首くくる縄もなし年の暮れ。」
飯田とう陰老師の云う、我が宗旨、信仰を持つほどおれは贅沢ではないと、良寛さんにも似てきっと云ったに違いない。彼の絵はそんなふうに語りかける。
ピカソはバッハよりモーツアルトに似ている。
to the happy fewと云う、数少ない幸福な人へ捧げもの、どういうことかというに、西方浄土の信仰のように、現実家のモーツアルトがついに神の前の選良を目の当たり信ずる。
それは人間であるという
「解いてはならぬ。」
スフィンクスの謎をそのまんま。
ピカソの青の時代、痩せて気弱な微笑を浮かべるアルルカンの、どこにも出口のない密室、命はおのれの分泌物で賄うといったふうの、取り付く島もない、青いその向こうには、もはや空気さへない。
おのれの分泌物であろうか、そういう思い込みの過去の遺産。
もはやないはずのトゥザハッピィフェウ=心そのもの。壁の向こうは砂漠の、
「それは人間だ。」
という、ヘラスの民、ついで一神教、キリスト教という歪められて伝わる、彼らが心の伝統だ。
云はばコンセンサスによって成り立つ以外にない、作り物は壊れ物だ、ピカソ出生前にすでに崩壊し去っている。絵によってしばらく繋ぎ止める。
ドストエーフスキーのラスコールニコフのように、
「ひとりよがり。」
から、追い出される他はない。
青い内壁の、卵の殻を破って外へ出る。
まさにそういう絵がある。
未完の、凶暴な線描のようなアルルカン。
ラスコールニコフは殺人事件を起こす、振り上げた斧以外になんにもない、実存主義という遊びごとではない、空気がない、一切合切造り出す以外にない、神の手によってではない、突っつきまわして、裏側から手探り以外にない。手足を鍛えのピカソの誕生。
神がない=どこまで行っても裏っかわ。
まるっきりなんにもない向こうに、忽然として絵が現れる。それが自分であり所有であり、ほんの一瞬を保障する。保障するかに見えて、嘘だお化だ、およそなんにもなりはしない。新古典主義もキューピズムも、強いて云えば、そう、酔いどれ舟のあっちへ寄りこっちへ寄り。死体ぷっかりぷっか。なぜか、たといアフリカの土着を東洋を真似たろうが、ピカソには変わらぬ標準がある。
おおむかしヘラスの民だ。
「ものはこうあらねばならぬ。」
割れ鍋にとじ蓋。
それをよく表わしているのが、デッサンの習作人間喜劇だ、むしろこれがピカソの代表作とも云える。
熊谷守一がつまらないという証左だ。
ピカソ天才の秘密という映画があった、学生のころ感激して見た、最近テレビで見てさっぱり面白くなかった、たしかに技術筆の洗練はある、心地よいすばらしいものだ、殺人的な凶暴性、スペインの闘牛というより向こうが見えない、向こう見ずだ、
もう一つは徘徊性だ、ぐるぐる回るっきりで、
「絵になった。」
と自他断定する以外に、結論がない。
行きつくところがないのだ。
ピカソ以後西欧には、殆ど絵画らしい絵画の生まれぬ所以である。
ゲルニカという戦争と平和祈願の大作がある。
歴史に残る二十世紀最大の傑作である。
その練習帳を見た。なんのことはない部屋に灯が点って、裸の女が仰のけに寝ている。
実にこれに終始して、結果戦争と平和の大作となった、お笑いだというより、どこたたいてみても社会性、平和祈願もくそもない、絵が描けて、描いた絵が売れて、画家の生活は女との密室しかない、青の時代の卵っちに、+絵が売れたとうお粗末。
だからといってピカソの絵に価値がないんじゃない、もしガラス館にピカソのカットグラスがあれば文句なしに飛びつく。NHKでどこかの女絵描きが子供を集めて、ピカソ張りの絵を描かせようとする、無邪気な童心と云いたいのだろう、馬鹿云っちゃいけない、子供がどう逆立ちしたって、そんなん問題にならない。洗練度百戦練磨、就中他の文芸評論家など足下にも及ばぬ批評眼だ、
泣く女という絵一つとっても、正確無比デフォルメがデフォルメを呼ぶなんてこと、爪から先もない、ピカソは真似したら駄目だ、そんなわやな品物じゃない。用無しの女は気が触れる、たといそういうこったな。


2019年05月31日