モーツアルト弦楽四重奏

モーツアルト弦楽四重奏

ハイドンセットはブタペストだっていう、聞き始めからそういうことで他のを受付けない、このごろ再び音楽が聞きたくなって、CDを取り寄せようとすると、おおかたは絶版になってもうない、ブタペスト弦楽四重奏団のこれがあった。奇跡のようにあった。ポンコツの車にプレイヤーを取り付けて、聞きながらドライブして歩く。
他になんとか聞けるのが二三あって、とっかえひっかえ聞く。フルトベングラー100円叩き売りというのがあって、ベートーベンのバイオリンコンチェルトがあった、絶品だ。聞いていると運転を過る、はてモーツアルトなら気絶しそうになってもOKだというのに。
わしは野蛮人で大学へ入るまで音楽のおの字も知らなかった、免疫がなかった、
モーツアルトを聞いたとたん、世界も人生もとつぜんモーツアルトになった。
一音すべてを抛つに足る、ピアノソナタを聞き、魔笛を聞き、k516をききk614を聞き、そこらあたりほっつき歩く。
人生破滅。
でもなんでもモーツアルトさへあればと思っていた。いざとなったら首くくって死にゃいい。だがどっかしっくり行かない。
ハイドンセットを聞いた。たちまち虜になった、口ずさみ聞かないたってどっかで鳴っている。神童モーツアルトが脱皮する、師匠のハイドンに捧げた、14番から不協和音と仇名のついた19番まで。
青春を心行くうそぶき歩いて帰りつくと、それが音楽になっている、美しいと云うさへ愚かな自己発見の14番。これが春なら五月の月夜を15番、きしっとまとまっている、何よりも好きだった、今も同じを知ってかえって訝しむ。
青春の遍歴というか、そりゃそれぞれにある、抱いた女のこと、思想理念の紆余曲折、屈託もあれば疑念もある、人みな自分の青春に鑑みればいい、今の人青春がない、人格上のゆゆしい欠損だ、亡国の兆候これに過ぐるはなし。
そうして19番最後の一曲がある。こんなに美しい曲はない、人類史上これに匹敵する作品は、十指に満たない、月桂冠を抱く古代オリンピアードの勝者の笑い。何が美しいといって、世の中に対する全幅の信頼である、一枚の葉が無数の葉に溶け込む、不協和音という、どうあったってこりゃ気絶するよりない、とてつもなさ。
わしはきっと何日も気死していた、ものみなぴったり行く。
「美の本体とはこれか。」
納得するのに、目の前に菊の花があった、中国の菊の精のように、人の姿になって会釈する。
しなびる、見るまに崩折れて砂粒になった。
ものみな崩壊する、
「うおう。」
絶叫して突っ立った。三日三晩突っ立ちつくす。ふいとまどろめば発狂、
「ぱっくり食ってやろうか。」
暗闇にスフィンクスが云う。そのスフィンクスと取り引きをした、双方痛み分けだった、わしは白髪と耳鳴りを、スフィンクスは手ぶらで去る。
ひどい面つきだった。人みな遠のいて、幽霊のように過ごす。
再び蘇る。
蝶の花園だった、中学のころ採り歩いた蝶の高原、どっと音を立てて蘇る、ふたたびモーツアルトが聞こえる。
いびつな成人式だった、わしは、
「モーツアルトで生きよう。」
とする、七転八倒する、たといクレエのような、汲み出すポンプであろうか、
純粋マシーンを作る。
首尾よう稼動する。
過負荷に耐え兼ねてマシーンは暴発。
原始崩壊したらしい、目も見えず音も聞こえず、ケロイドまみれになって転がる、激痛ばかりが、おのれありと主張する。
「なんにもないのに、なんで透明人間にならぬ。」
という、狂おしい思念。
たといモーツアルトは漆喰に産みつけられた、青いぶよぶよの虫の卵の羅列。
首をくくって死ぬ時が来た。
「だがまだ生きた覚えはない。」
急に思いついて出家した。
どうせ死ぬんならしばらく執行猶予というそれが、わしのようなあばずれが、前生因縁であったか、はた迷惑、みなひどい目に会うきりの、親兄弟友人らの故にであったか、ついに正師につく。
いきさつは省略しよう。
いつかモーツアルトが復興している、むかしのそっくりそのまんまの。
そうしてあながちモーツアルトにはよらぬ、雪の林が天空の星が、草も紅葉も鳥も雲も、たとい自然の風景がモーツアルトを遙に凌駕する。
これを人に伝えたい。
孤軍奮闘する。
わしがモーツアルトの経緯は、二三他に訴えたこともあったが、だれも耳を傾けてはくれなかった。
そりゃそうだ、年寄りの戯言。
でもハイドンセットが残っていたのは、だれか音楽家が、「聞けなくなったモーツアルト。」
について一言したからだ。
なにしろこっちはただの雲水だ。音痴というもひどい。
「わしの他にモーツアルトを聞ける者は今の世いないだろう。」
うっかり云って、おおかたの顰蹙を買ったが、ただ一人、「そうだ。」
と云った男がいた、どっぺり学生で二人親不孝この上なしの仲だった。
向こうは定年を迎える、坊主には定年がない。
k593は行き倒れのモーツアルト、k614は人は死んで音楽だけが蘇る。なんでこうなるのか、マニアリスムスではない、哀れというほどに美しい。CDはうすっぺらとか、再生装置に凝るという、なに音が聞こえりゃそれでいい。へたくそなモーツアルトは我慢ならぬ、手淫するような、どうしようもないのばっかり。小沢征爾はさすがだ、彼はモーツアルトを演らない。

2019年05月31日