雪舟デズニーランド

雪舟デズニーランド

雪舟展を見に行った、INで呼びかけて、
「身心ともに失せて見る風景これ。」
といって、十数人で押しかけた、行列が並ぶ、どうしてこんなに人間が押し寄せるのか、まっぱじめに慧可断臂の大作がある、臂を切って面壁九年の達磨さんに差し出す。これをかつて見た時は、なんていう絵だと思った、「いいとこがないじゃないか。」
南画の風情もなく、絵描きのノウハウのようなものさへない、これはいったいなんだという。
取り付く島もない、まさにこれ雪舟。
中国へ渡って、
「四明天童第一座。」
の印下を貰う、外交辞令だという、まったくそんなことはないのだ、たとい外交辞令だろうが、授けるものこれ受けるものこれ、もと一目瞭然事。
「身心ともに失せて見る風景。」
悟り終わるんです、妄想の人のたいていまったく与り知らぬものです。
自分というものがなくなってものみながあるんです。
雪舟作と云われる、どの絵でもいい見てごらんささい、日本画はもと遠近法によらぬとしたって、これは遠近奥行きもみな一つ鏡です、そうねえこれ説明し難いとこあります、悟り終わってものみな伸び上がるような、清濁の彼岸て、もと彼岸なんです。
とやこうじゃない、たとい天橋立図のように、まさにこのように見えるんです、山水長巻のデテイルのように、言語を絶する塩梅です。
かつてこの風景を描いたものはいない、絶学無為の閑道人、たとい釈尊のように一所不定住です。
横山大観の絵と比べてみればいい、大観は天衣無縫、即天去私ですか、たしかにすぐれてこれを写す、でも観念のものなんです。限界がある。
雪舟はそうではない、のっと入る虚空そのものです。
光前絶後の事玉露宙に浮く。
情実の入る余地はまったくないんです、絵描きの安泰など微塵もない、たとい中国風だろうと、南画の風情などとは無縁の品物です。
雪舟の絵は、伝雪舟といい、弟子の描くもの、模写するもの、けっこうな数に登り、向こうの寺院には、たいてい彼の絵があるという。
どういうことかというと、
「悟り終わった風景これ。」
ということが定着していたんです。雪舟仏向上事一瞬も留まっていないです、でも帝の法を超えず、決して食み出さないんです。
雪舟には弟子の何十人いたか、ついに雪舟を超えなかったというのは、
個性とかなんとかいう曖昧現代人の言い種です。
「仏の風景これ。」
に、弟子もまた模写する人も徹底していたんです。また見る人一般も徹底していたです、伝雪舟という、技術的に過不足ないのさへ、どこかにちらっとなにかある、一枚鏡、宝鏡三味ではない、あるいはふっと濁る。必ずそこを見て選ぶんです。    
ずっと江戸時代から、明治の初め頃までこうであった、最近になって失われ。
なんとかいう画伯が、富岡ホワイトですか、けっこういい絵書くんですけど、雪舟の空観を手に入れる為に、ヘリコプターに乗って雪山を廻るとか、メイキャップして白布を被って達磨の真似する人とか、呆れてものもいえない。白布の中にうじ虫がいる、雪舟の達磨は姿あってもなんにもないんです。
雪舟展を見て、もうくったくたになって、でもって明日はデズニーランドへ行こうという、なにわしが云い出した。若い子がいたし、冥土の土産にさあとか、
「雪舟を取り巻く有象無象とデズニーランド、どっちがどうって。」
良寛研究家の良寛殺し、そりゃデズニーランドの方に軍配が上がった、肉のひだまでふりとやらせのなんまんだぶつ、アメリカという巨大空洞化現象を、まあ必死になってサービスこれ努める。
それが日本人になると恥ずかしいというか、ただもう切ない。
雪舟という空洞化現象の、はたして世界に通用するかなど、てっきり詳しくあげつらって、自分の是非が空洞化。それじゃどうもならん。
デズニーランドの印象、ウッフやらせのねえちゃん必死にサービス、客も相応やってたら、外人小学生の女の子の一隊が、植え込みの葉っぱをむしる、
「こらあ止めとけ。」
金切り声上げた。

2019年05月31日