ゴッホ見据える目
ゴッホ見据える目
学生のころゴッホ展が来て、見に行った。原画を見るのは初めてだった、何かがおかしい、聞いていた知っていたゴッホなんてない、見据える目がある、こっちが見ているんではない、向こうが見据える。
不動金縛りにあって、汗だくで突っ立つ。
いったいどんな絵があったか。
何十年ぶりで、ゴッホの画集を見る、平和で優しく、一枚も売れなかったにしては、はつらつとして歓喜に満ちて描く。
見据える目はない、あれは原画だけのものだ。
すると洗練されて、殆ど貴族的とも云いうるほど、
「凶暴なゴッボ。」
メデューサの首のように、あいつに関われば石化する、(でもあいつは限りなく正しかった。)
というような、かつての思い入れが薄らぐ。
「浄極まり光通達し、寂照にして虚空を含む、却来して世間を観ずれば、猶ほ夢中の事の如し。」
これは商売道具の、年回回向だ、なぜかこれを思い起こす。
浄極まり光通達しとありながら、発狂せずにはおかぬ。
ゴッホの魅力はさておく、こんな絵は歴史上二度とはなかろう。
だがこういう語がある、
「自己を運びて万法を修証するを迷とす。
万法すすみて自己を修証するは悟なり。」正法眼蔵現成公案。
ゴッホの狙ったことは、自己を運んで万法を修証することだった。
たとい日本の絵の正確を知ろうが、それ以外を知らなかった。
宣教師になって果たさず、再三恋愛に失敗し、粗暴というよりは、どうでもそのものと一体化する、非常な欲求、これはまさに宗教家のものだ。
その文章の精緻、わしなんぞ不細工には、テオへの手紙の、あんなに達者なら、絵なんぞ描かなくてもいいと思う。
左臂を切って差し出すゴッホ、これに応える達磨大師がいなかったという、悲劇とはまさにこれだ。
いいことしいの最後の審判、キリスト教は邪教だ。
たいして出来がよくない、古代の宗教に比べたってさまにもならぬ。
空を知らぬ色の道だ。
ゴッホはアルルの風景に開花する、ゴーギャンを殺そうとして、自分の耳を切るころには、その絵は完成の域に達する。
同時に発狂する。
色彩という黒いくまどりのない絵のせいか、さっぱり売れなかったからか、溢れるような幸福を、たれ一人答えず、あるいは生得そういうたちであったか、だが何物かの手が頭蓋に触れる、ただの真空の内爆発か。
「その向こうはだめ。」
という、敷居を一歩踏み出す。
発狂したらそういう回路に廻る。
まじめに平和に長閑かに優しい、
「普通の人のように描く。」
その絵が次には発狂して、わけがわからなくなる。
オーベールの野のように、むかしの風景画の気宇壮大、静物画のように空間を切り取るのか、あるいは遙な無限遠を見る、どこまで行っても、
「色。」
必ず意図がある、神を信じようという、信じるという絵を描くよりない、では自分が神か、そんなことはない、見据える目になって、何を願おうという、空間は奥行きを失う、でたらめ寸前になって、また蘇る。
マインカンプフだ。
ついにその闘争の止む日はなく、死に至る。
烏の群れ飛ぶ向こうに、それはなにかしら救いのきっかけ。
時に外人の参禅者がやって来る、語学が駄目だからってこともあるが、
どうにもこうにも度し難い。
禅らしいものを持ち、仏を持ち、崇め奉り、かたくなに信じて譲らぬ。
「わっはっはゴッホだ。」
きょとんとしてこちらを見る。
お釈迦さんはインドユーロピアン語族だという、だったら里帰りのはずが、どうしてこう入って行かないのだろう、言葉さへわかればとは思うが、フランス辺り大流行りの禅が、いったい何をやっているんだろうと思う。
未だに本来のものが、向こうへ渡ったという話を聞かない。
「世界中が幸せにならなければ、一箇の幸福はありえない。」
たといゴッホの絵はこういう意図を持つ。
孤軍奮闘する、七転八倒だ。
「一箇灯明をもって世界中を照らす。」
逆方向だ、孤絶たった一人も、別にどうってことはない。