俳句と歌手前味噌の定型

俳句と歌手前味噌の定型

俳句歳時記を読んでいると、仰山な数ある中に、ふっと囁く声が聞こえる、見れば決まって芭蕉だ、
よく見れば薺花咲く垣根かな
ではあとのものは何か、格好はありながら言葉の用をなさぬ。
歌は訴えるという、俳句は行きて帰る心の味なりという、訴えるよりおれを見てくれという、あっちこっち行くは行ったろうが帰って来ない、
水仙の風水仙に移り行く
仕出かしたろうが、だからどうなんだと云いたい。
どこか根本が違うのだ。
良寛の酔ひの中なる蛍かな
秀逸であろうけれども、袋小路。
どこが違うという。細みという、思いつきやひとりよがりではない、黄金の延べ板という、叙情は浮き世ぜんたいにかかる、詩人の命そのものだ。
年をへてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
たとい一所不定住が詩人の命か、いやそうではない、自分は別に生活を確保して、歌を読み俳句をという、それを詩人とは云わない。
帚木に影といふものありにけり
ランボウの無鉄砲さへ知らずに、権威を持つ、こんなのはただの害悪以外にない。
定型というそのいい加減、山寺へ行くと、
静かさや岩にしみいる蝉の声
という芭蕉の句碑の回りに、何百という手前味噌が建つ、どれも芭蕉とは無縁だ、似ているのは五七五というだけ、続いて飛び込む蛙なしという、日本人というのは、なんていういい加減、どうしようもなさだと思うよりなく。
格好さへあれば、あとは野となれ山となれ。
今の世どうしようもなさの、まさに根本原因かも知れない。
学生のころ山本健吉の芭蕉という本が出た、繰り返し読んで、日本の文学がどのようなものであるか概要知った。花はさくら鳥はほととぎすという、これが網羅する生活感情を我がものにするのは、非常に大変だ、ついに崩壊して、正岡子規の写生句になった、正岡子規だけは成功する、だがどうしたって古典には及ばない。ないしは現状の袋小路、だれがなにを云ったろうが可という、それじゃなんにもならない。
「ようしじゃ俳句を作ってやろう。」
とて、二三年七転八倒する、なんにもできなかった。
ついに諦めてこんなものを作った。
  ままくれ
とんとむかしがあったとさ。
むかし、下田村に、雪がしんしんふりつもると、どこからか、
「ままくれ、ままくれ。」
といって、やって来た。
戸を開けると、白いものがふうわり入る、中の明かりにあたってふっ消えた。
すると、子どもがひきつけ起こしたり、かかや姉が大熱出して、寝込んだりする。
寝たきりのじいさま、ころっと死ぬ。
入れてはいけなかった。ままくれは、水子のたましい、闇から闇へ
の、あの世へも行かれず、ふらつき歩く。
しんしん雪がふると、軒の明かりが恋しゅうて、とっつく。
雪の辺に、もみんからなと、まいておく。
ままくれは、それ拾って食って、泣きながら、うつって行ったと。

万年学生がついになんにもならずは、就職仕立ての風景である。しかもこんなふうなものをさへ七転八倒。
出家して一応の悟を得て、寺をもって歌を作り出した。俳句はだめだが歌ならという、東京がだめなら大阪があるさ、
「歌というのは人間の姿して立って歩いて。」
ということだった。どうにもこうにもこいつがうまく行かなかった、どだい文才なし、
梓弓春あけぼのの天空をなんにたとへん雪の軒にして
こんなのが初物だったか、
三界の花のあしたをいやひこのおのれ神さひ雨もよひする
戊申の役に破れて河合継之介が山越えに会津へ行く途中に死ぬ、そこを八十里越えという、
いにしへも月に逐はれて卯の花の茂み会津へ八十里越え
推敲を重ねては何百も作ったが、だれも歌とは認めてくれぬ、
「おまえさいい言葉いうけど、これ歌ってんではねえようだし。」
など云う。二三どっかへ出したが選外にもならぬ。
俳句作りに正当俳句はこう、そりゃ構造的に違うといって笑われるきり。
でもって水と油みたい、馴れつかぬ坊主組合に住んで年寄る、最近
こんなのを作った。
  流人花
とんとむかしがあったとさ。
むかし、伊予の沖の島に、げんのうという流人があった。本名はようもわからない。
鉄の足かせひきずって歩き回り、砂金を取る。
それを持って行って、どうにか飯にありつけた。
時にはいくらかになった。
島の犬に吠えたてられ、かみつかれして、げんのうはもう、長いことそうやっていた。
百合の花が咲く、御赦免花といった。
三つ四つ花をつけて、時には百も付けることがあった。船が来て一人二人、また何十人となく、許されて帰って行く。
げんのうの番はついに来なかった。
しまい一人きりになった。
百合の花がたった一つ咲いた。
げんのうの番であったか、でも一つきりの花を、手折ったら死ぬと
云われた。
げんのうは花を手折った。
「そうか、死ねば許される。」
弟を殺し、母を殺した。
獄門を免れてここへ来た。
「なんで母を殺し、弟を殺した。」
思い起こしてもわからなかった。花を手折ったときに、それがわかった。
げんのうはにっと笑った。
弟と母親が迎えに来ていた。
三日ほどして、死んでいるげんのうを、島の者が見つけた。
それは百八つも花をつけた、百合の下であった。
流人を手厚く葬るのが、島人の習わしであった。
げんのう塚という、石かけがあった。
げんのうは船頭であった、嵐に船が沈むとき、人みなを助けて、たまたま乗り合わせた母親と、見習いの弟を見殺しにした。泳ぎの達者なげんのうが助かった。
おれが殺したと云い張って、流罪になったという。
だれかがこさえた話であったかも知れぬ。

2019年05月31日