ドストエーフスキー今も
ドストエーフスキー今も
駒場寮のお粗末ベッドでふて寝していたら、何かある、先人の忘れていった地下生活者の手記、米川正雄訳。どっ汚い字でびっしり書き込みが入る、
「お前こそこうゆうやつだ、そっぽ向いて、何をいっても手前のことばかり。」
とやこう理屈を上げて二人分。読んでみた、なんというこんなものが小説か、だったらおれにだって書ける、など云う、半ばにうっちゃった。するとどうだ、今まで後ろめたい、ひた隠しにすることどもが、大威張りして面を向く。
それっきりどうもおかしくなった。
ドストエーフスキーについては、小林秀雄の評論がある、付け加えることは殆どない。地下生活者とは何か、今の世わからなくなった、忘れ去られたか、そうではない、全員が地下生活になって、破れほうけたのだ、だからドストエーフスキーを通って、元へ復する道がある。
真剣にそう思う人がいる。
心理学は二派に別れる、一はフロイドから始まる今様謳歌の心理学、そうしてもう一つはドストエーフスキーに拠るという。
ひけめばっかりのドストエーフスキー心理学、ないに越したことはない、わかりやすく云えば、地下生活者の手記=優しさだ。
優しさとは文明そのものだ、精神という、一神教の置き土産だ。
もはやナイーブな人間などはいない、極度に洗練されて崩壊する。
悪貨は良貨を駆逐する、駆逐されてなほおのれを主張する、存在価値を疑う他なく、どこにも身の置き処なく、しかも優しさ、愛するというには愛する以外なく。
これは何か、観念の産物だ。
ドストエーフスキーの大作家たる所以は、観念に衣を着せることに成功した点だ。地下生活者は罪と罰のラスコールニコフになって現れる、ともあれなにをやっても一人きりの卵の殻を破らねばならぬ。
まがいものの少年犯罪がひところ起こった、空気が欲しい、外へ出たい。まさかりを振り上げて金貸し婆を殺す、マリアという罪もない女を殺す、無意味に殺す。
自分は殺せない、不思議に死なない。
たとい大地に接吻したって土くれ一つつかない。判決が下ってシベリアへ行く。
レフ・ムイシュキンになって帰って来る、善と悪しかないとは善=悪の観念そのものだ、ムイシュキンの誓いはまったくゴッホに似る、てんかんの発作まで酷似している。
「自己を運びて万法を修証するを迷いとす。」
以外に手段を知らぬ。ふれあうだれかれを不幸にする、あるいは気違いにする、
「これを悪という。」
と、小林秀雄は云った。
観念の衣を来て何十何百という人物が登場する、あたかも西欧文明の断末魔、ゲーテのようなニコライ・スタブローギン、モーツアルトのような未成年の父、あるいは共産党の雛形あり、スビドリガイロフのような文明人のカリカチユアあり、すみからすみまで思想が、人間の面を付けて歩く。
救いようのない地獄に、ドミートリイを登場させシベリア送りにし、スメルジャーコフという諸悪の根源というより、エコーノミックアニマル日本みたいのーそうだこれも観念だ、の向こうにアリョーシャを登場させる。
長きに過ぎるこの小説は失敗する。
アリョーシャがついに形を取らなかった。
ただの阿呆だ。
そうしてロシアがどうなったか、いいや今の日本がどうなったか。アリョーシャはいない、ただの阿呆はいる。日本中どこ捜しても、生まれついての人なんぞいない、三つ四つのころにもう観念倒れ、六十七十の年寄りまで思い込み観念でよれよれになっている。
面白くもなんともない。
新興宗教が流行った、彼らは社会環境のどうしようもなさを理由にする、そんなものは宗教の樹立には無関係だ。ひとりよがりで狂っている、日本は仇を理由にする、北朝鮮のキムジョンイルだ。
なぜにそうなる、
観念倒れから逃れるためのアンチョコ。
ああこんなことをしていては駄目だ。
ただの人を取り戻す方法がある。
「万法すすみて自己を修証するは悟りなり。」
悟るとは元の木阿弥に立ち返ること、生まれて来る子はまっさらだ、観念倒れ、自縄自縛のがんじがらめの縄をほどく、ほどけば仏。
たった今もまっさらなまんまに気がつく方法。
時代環境によらぬ、たとい人類滅び去っても仏法はある。
わしはその証拠のはしっくれだ。
利用して欲しいと思っている、失敗作のアリョーシャではなく。
ドストエーフスキーの女性は美しい、かつて何度も読み返して、ずいぶん気に入っていた。
だが今のわしの弱点はドストエーフスキーに違いない、他に接するに彼が心理を見る、要らんこったと重々承知しながら。
すると相手の思惑通りやっていたり、地下生活者の手記!