黒沢明の映画

黒沢明の映画

出家しようとして、どうしたものか迷っていた、そうしたら黒沢明の映画「赤ひげ」が来た。四時間ものをぶっ続け二度見て八時間、外へ出たら真っ暗だった。
「ものみなある。」
と、そう思った。雪の田んぼ夏のいらか、雑巾掛けをする女、風鈴の音、そうさ音楽までが復活する。
「そうさ、生まれ来る子はまっさらだ。」
だったら出家しようと思った。
藁をもつかむ思いであった。
黒沢明は映画を代用品と知る、そんな監督は他にはない、きわめて健康だ。「すり」という映画を見たとき、
「なんという。」
絶句したのは、長大壮大に続いて息切れもしない、こいつはなんだ、万葉の歌のようだ、弦楽四重奏のない一本調子、まさにこいつは日本人だというわけだ。
命短しのあれもそうだ、こんなふうにデテイルがしっかりしながら、一分の隙もない。
いったいどういう男だという驚き。
ゴッホも白痴のムイシュキンも理解しない日本人代表。
文句なしに、「七人の侍」が代表作だ。
百年たったろうが古びはしない、映画をもてはやす昨今だが、かつての感動を再びというのは皆無だ、映画とはいはばそれしきのものだ。
代用品と知ってたといゴッホにもシェークスピアにも匹敵させる。
現実を見ることとヒューマンというその単純。
その主人公が「用心棒」ではアウトサイダーとして登場する、切れすぎて組織を食み出す、そうしてまだ存在価値があった。
「赤ひげ」で復活するか。主人公の失せる「影武者」泥棒として復活しようとする、強盗のような信長が強烈だ。どいつもこいつもみんな気違いの「どですかでん」彼のヒューマンが浮き上がる。
「乱」を見た。砂上楼閣の絢爛豪華。
世の中なしでも生きられる名声と云おうか。
「忘れものを届けに来ました。」
というような、その「夢」は、恥ずかしいような失敗作に終わる。
日本にはもうどこ捜しても、黒沢明の土壌はない。
まずはそういうことであった。
いい面の皮の出家であったか。
まったくそうかも知れない。
なにかしらこうやって、エッセイでも提唱や作品を書く、孤立無縁を思う、宗門の中にあって参禅するさへ爪弾きという、不思議な世界だ、だれあって、それはむかしから食わんが為の他は、二の次三の次。
でもだからこそ何ものか欲しい。
でなけりゃ生きている価値なんかない。
右往左往の夢の島。
みんな仲良く平和にという、わけのわからん、そりゃどっか北朝鮮と同じだ、本当の事を云えぬ、というより本当のことを思うさへできない。こんな情けない、哀れな話はない。
履き捨てパンツのごみあくた。
日本人は日本人だ、混血して別人種に生まれ変わるのもいい、いったん国が滅びる、とたんの苦しみがある、ユダヤ人のようにはだが、どうあったって生き残れないだろうが。
汚ギャルだのでかぱいだのいう、ますかき面の女ども、たとい北野武の映画もあんまり冴えない。
だがどっかに人のいい日本人が顔を出す。
なにしたってどうあったって、
「これっきゃない。」
と云う。
そうして日本の自然はまだ残っているのだ。
雪の田んぼも雪の林も、夏の風も時には風鈴も。
観光だの村起こしだの、食わんがため、みんなで右往左往を、いっとき忘れて見るにいい。
自分という世間噂をかなぐり捨てる。
失禁でない涙を流す。
そうさたった一声、
「おう。」
と云い得ること。
何かをなすんじゃない、何かをしようとする、まずもってその手をおく。
でないとまたかき汚すだけ。
魚行いて魚行けり水自ずから澄む。
そうです。
生まれ出る子は、常にまっさらなんです。

2019年05月31日