国定教科書さざえさん
国定教科書さざえさん
国定教科書が是か非かは知らない、ただつうかあというか同じ冗談が云え、同じ歌が歌えた。それがなくなってさざえさんが、国定教科書だった気がする。毎朝見て、こうこうだといっては、同じ笑い。
世の中たいして面白いこともなかった。でもたいてい大笑いしたさざえさん。
そりゃ長い間だから、さまざまあった。
「女のぬえ的ユーモア。」
をもって持ちこたえる。なつかしい。
さざえさんを継ぐものは、春木悦美のじゃりん子ちえちゃんだった。
あれは面白かった。だれかれ共通の話題にさへなりうる。でも四コマなら長生きできたって、印象が強すぎて、やっぱり続かなかった。
残念だ。
もうそういうことは起こらないのかも知れない。
どうしてかわからない。
坊主もまあいう無責任、
「みんな仲良く平和に。」
の化けの皮を剥がしたら、ひょっとしてって。
生き生きした国定教科書、そうじゃないマンガの話だった。
「世の中みーんなマンガになっちゃったから、もうマンガはおしまい。」
というのがもっともらしい説だ。
そう云えばだれかれマンガじみている、することなすこっとどっかピントが外れる、軸が違うというのかな、しかも食うためには必死で、いじめもし、揚げ足取りや、政治やボランティアや人助けや、お役人やと、要するにどこ変わっていないはずが、みんなマンガ。
どっか笑うよりなく、当人も苦笑するほかなく、苦笑しないなら、こりゃ大笑い。
致命的なものさへマンガ。百鬼夜行の化物じみていて、きーとかかーとか擦過音はスヌーピーの大人どもか、ムーミンの家庭のほうがまともで、ありうべくもないつげ義春の町のほうが、よっぽどなつかしい。
人は住処を追われて、そりゃマンガの世界になんかだれも住めない、タイガーウッズや一郎や、松井だのだれかれ、スポーツ選手にぶら下がる、真っ黒け鈴生りになってぶら下がる。
ふっと惨めな気分になる。
生きるってこんなことかというような。
SFの詩人レイ・ブラッドベリが、世の中立体テレビとコマーシャルソングきりになって、ちょっと別こと云おうもんなら、思想Gメンがやってきて、豚箱へ放り込む。どっかフランス映画にもそっくり同じのがあったが、そんな近未来物を書いている。
国家や戦争には抵抗しても、大衆には抵抗できない。
俗悪という言葉が死語になった、へたなことを云えば死刑だ。
向こうからエンサイクロペディアV2が来た、あれはダンテの神曲だとか、一人一人密かに諳んじて、人類の知慧を伝えて行くのだが、そんなものはコンピューターが受け持ち、専門家がいて、ー。
はてなと思う。
でもってやっぱりサッカーに大リーグにさ、まさにこれが国定教科書。
するともうわしらロートルにはついて行けない。
そうだ用なしはさっさと死ね。
仕方がない、そういうことにしよう。
おかしな雪が降って、こびりついて杉の梢が折れ、竹が全滅、やまざくらの巨木が無惨にむしり取られ。
かつてはもっと豪雪であったが、こんなことはなかった。
それでも自然だ。
だんだらの雲が真っ青な空に浮かぶ。
「寒のうちにしては、春めいて。」
といって見上げる。
林の枝にきらきらと水滴が着く。
雪の辺にくるくる落ち葉。
わしらには、残された時間と自然しかないのなら、心行く味わうがいい。
二、三話し相手があればそれでいい。
たといなくたって、なんとかなる。
自然を見るには、身心共に無しがいい。
自然と自分が一体化する、自分というもの失せてものみながある。
ではなんの文句もなし。
環境がどうあろうが、たいていどうってことはない。
草もありゃ木もある。
月は国定教科書。
たいていまあそんなけちなものではないな。
人類の知慧なんかいらん、死んで行くのにそんなものいらん。
アッハッハきれいさっぱりって、これもマンガかなあ。マンガじゃ
ない真剣だ。